『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第四講 本質論 一


一、本質論の課題と構成

認識の深化としての本質論

 本質論に入ります。
 まず、本質論の課題と構成を最初に述べておきます。有論、本質論、概念論というのは、認識の深まりゆく過程に従って論理を展開しています。ですから、本質論というのは有論よりも一歩深いものの見方であり、事物を二重にとらえます。有論では、その事物の表面的な姿を外側から丸ごとひとつのものとしてとらえるだけなのですが、本質論になってくると事物の内側に分け入って、内と外から二重にとらえるのです。
 この本質論は、本質、現象、現実性という三つに分かれます。最初の本質と二つ目の現象とが統一されたものが、三つ目の現実性となる。まず、本質とは何か。「この有の奥に、なお有そのものとは別な或る他のものがあり、この奥にあるものこそ有の真理である」(九九ページ)とあります。表面に現れている姿の奥に隠されている本当の姿、これが本質です。そのものの本当の姿という意味で「有の真理」という言葉を使っているわけです。
 第三講、有論のなかで、「或るもの」を定有というカテゴリーでつかまえるという話をしたと思いますが、定有というのは不断に移り変わる、有限性と可変性をもっています。そういう移りゆくものにあって変わらない真理が本質なのです。
 では、この本質は、客観的事物のなかに存在するのか、それとも人間の意識のなかだけにある主観的なものなのでしょうか。この点についてヘーゲルは、本質は客観的事物そのもののなかにあるものだとして、次のようにいっています。
 「知識のこの運動、道程は、《有にたいして外的な》〝認識活動〟であるように見える。 〝しかし、この歩みは有そのものの運動である〟」(一〇〇ページ)。
 「この歩み」というのは有から本質にいたる歩みという意味ですが、レーニンは「この歩みは有そのものの運動である」という部分に二重線を引き「客観的意義」と書き込んでいます。有から本質にいたる認識の前進は、唯物論的反映論として読むことができる。本質の認識は単に主観的な作用ではなくて、客観的に存在する本質を人間の意識に反映したものなのです。
 「本質は、概念(=絶対的なもの)への移行として、有と概念とのまん中にある」(同)とレーニンは述べていますが、論理学を認識論、認識の深まる過程としてとらえてこそ、本質論の位置づけも明確になります。有論は事物の表面的な認識、本質論はそこから一歩深まった事物の真の姿の認識、そして概念論というのは客観的事物を乗り越えた真のあるべき姿の認識ととらえることができます。

事物を二重にみる「反省」

 先ほど「本質論は事物を二重に見る」といいましたが、事物の内部に分け入って二重にみる見方をヘーゲルは「反省」(Reflexion)と呼んでおり、テキストでは「反照」と訳されています。反省というのは、鏡の反射をイメージしてもらえばいいと思います。お互いに鏡のように反射し合うような関係、相互に影響し合い、移行し合う関係を反省という言葉であらわしているのです。
 より正確にいえば、「反省」とは事物の内部における対立する二つのものの間の弁証法的な関係です。現象と本質、内容と形式、原因と結果など、対立する二つのものの間の相互作用、相互浸透、相互移行を論じるカテゴリーとして反省という言葉が使われているのです。
 ヘーゲルは「以上に考察された反照[反省]規定のこのような本性、すなわち、それら両規定の真理はたんに両者の相互関係のうちにのみあり、したがっておのおのが自分の概念そのもののうちに他の規定を含んでいるという点にのみにある」ことを見抜くことは「最も重要な認識の一つ」(一〇七ページ)だと書いています。つまり反省関係にある対立する二つのものは、お互いに切り離しがたく相互に結びついていて、この二つのものの関係において意味をもっています。二つのものが相互に前提をなす関係にあって、二つのものの間の関係そのものが意義をもつものが、反省関係です。

 

二、本質と仮象、現象

 まず最初の反省として問題になるのが、本質と仮象というカテゴリーです。
 仮象とはいったい何なのか。仮象とは、真の姿とは異なる見かけの姿のことです。
 たとえば、天と地の関係です。みた目には天が動いている(天動説)。だけれども、本当は天が動いてるわけではなくて、地球が動いている(地動説)。天が動いているようにみえるというのが仮象なのです。賃金が労働の価格だというのも仮象です。賃金は労働の対価であるかのようにみえるのですが、しかし実際には賃金は労働力の価格です。
 仮象は、本当の姿ではないということですが、では、本質と関係がないのかといえばそうではありません。おおいに関係があるのです。レーニンは「仮象は(一)存在している無であり、空無性であり、(二)契機としての有である」(一〇三ページ)と書いています。「存在している無」というのは、みせかけの姿だから空無な存在だということです。「契機としての有」というのは、本質という契機に媒介された有だという意味です。だから本質にもかかわりがあるのです。
 この二つの契機を統一すると、「仮象は本質に媒介されていると同時に媒介されていない」ということになります。仮象は本質に媒介されているけれども、本質のままの姿では現れないという意味では媒介されていないのです。本質が歪められ、転倒された姿として現れてくるのです。しかし、仮象は本質に媒介されている限り、そのなかに本質は何らかの痕跡をとどめています。
 先ほどの賃金を例にとると、資本の側は、能力給、成績主義賃金をさかんに主張し、賃金を引き下げようとしています。これは賃金は労働の対価という考え(仮象)に基づいています。しかし、今の物価水準で、一方的な査定をされたとしても、一カ月まるまる働いて月給三万円などということはありません。
 なぜかといえば、賃金は労働力の対価であり、労働力とは人間そのものの働きですから、賃金は労働力を再生産できるもの(すなわち、日々暮らしていけるもの)でなければならないからです。それを極端に上回ることも下回ることもない。ここに賃金の本質が現れているのです。
 だから、「仮象は本質そのもの」であると同時に、「一つの規定性のうちにある本質、しかも本質の契機にすぎないところの規定性のうちにある本質である」(一〇三ページ)。つまり仮象は本質の現れだけれども、本質の一契機に過ぎない。本質そのものではなく、本質の一つの側面が歪んだ形で現れているものに過ぎない、ということなのです。
 レーニンはそういうところをとらえて、仮象は、「本質の諸規定の一つ、その諸側面の一つ、その諸契機の一つのうちにある本質である」(同)と述べています。
 仮象と現象とは、区別されなければなりません。
 ヘーゲルは「本質は現象する」といっていますが、現象というのは、本質がそのままの姿で現れたものです。日常的に使っている言葉でいえば、現象は本質的現象であり、仮象は本質的でない現象ということになるでしょう。
 森首相が「日本は神の国だ」といって国際的に批判されました。この問題について森首相が陳謝したこともひとつの現象ですが、これは非本質的現象、すなわち仮象です。だから「陳謝はすれども撤回せず」ということになります。神の国発言そのものは、本音が出たということであり、こちらは本質的な現象といえるでしょう。私たちが事物をみる場合に、現象か仮象か、本質的現象なのか非本質的現象なのかというカテゴリーで事物をみることが重要なのです。

懐疑論またはカント主義

 「仮象と懐疑論またはカント主義」という項目がありますが、ここでは、仮象や現象と本質とを切り離す見方を批判しています。懐疑論というのは、人間の認識は主観的なもので、客観的な真理などないとする立場です。「すべての事物のある姿は現象にすぎない」といって、現象の背後にある本質まで否定する。この見地は反科学に容易に結びつきます。科学は事物の本質や法則を探究し、真理、真実への到達をめざすのですが、本質そのものを否定することは、科学の営みそのものが無意味だということになります。ですから、懐疑論は、世界を科学の対象にすることも、ひいては変革の対象にすることも拒否するのです。
 カント主義は、事物に本質があることは否定しません。その本質をカントは物自体(Ding an sich)と呼んでいます。カントは仮象、現象は認識できるが、本質は認識できないという不可知論の立場に立っています。懐疑論は本質そのものを否定するのに対し、カント主義は本質の認識可能性を否定します。存在は認めるけれども、それを認識することはできないという不可知論なのです。仮象・現象と本質が結びついていることを否定している点で両者は共通しています。
 ヘーゲルは仮象・現象を本質から切り離す考え方を退け、批判しており、ヘーゲルの認識論は科学的な認識論の立場にたっているといってもいいと思います。

 

三、同一と区別の統一

 次に、本質と仮象の関係は同一と区別の統一だという展開をし、区別のなかにおける差異、対立、矛盾というカテゴリーが展開されます。 仮象は本質の現れですから、ある意味では本質と同一なのです。しかし、本質が屈折し転倒しているという点からみると、本質から区別されます。ですから、仮象は「本質と同一であると同時に区別される」ということなのです。
 第三講の冒頭で「媒介性と同様直接性を含んでいないものは何一つ存在しない」というところをとりあげて、世界における最も普遍的な弁証法は直接性と媒介性の統一であるとお話ししたのですが、この「直接性と媒介性の統一」が、本質論では「同一と区別の統一」というカテゴリーに展開されるのです。この「同一と区別の統一」というカテゴリーを議論するなかで、矛盾という重要なカテゴリーがでてきます。

同一と区別を切り離す形式論理学

 この同一と区別の統一を議論するにあたって、ヘーゲルは、まず形式論理学の批判的検討を試みます。なぜなら、形式論理学は、同一と区別をまったく切り離し、媒介のない対立においてとらえる考えだからです。形式論理学の大原則となるのは同一律、矛盾律、排中律の三つです。
 この三つは、ある意味では同じような意味であり、同一律が展開して、矛盾律や排中律になるわけです。同一律というのはA=Aであるという命題です。当たり前のように思えますが、実は、ものごとを議論するうえで非常に大事なのです。最初に議論の出発点でAとして論じたものは議論が終わるまでAとしての意味、内容を変えないで使うという論理の形式です。これを貫かないと、何を話していたのか途中で全然分からなくなります。
 矛盾律というのは、「同時にAが非Aであることはできない」(A非A)という命題であり、矛盾を否定する考えです。私たちが議論するときでも、「あなたが言ってることは矛盾しているではないか」と批判することがありますが、それが形式論理学の矛盾律なのです。
 それから排中律ですが、排中とは、中間を排するという意味です。あるものはAであるか非Aであるかのいずれかであって、その中間の第三者は存在しないというものです。賄賂はもらったかもらわなかったかのいずれかであって、その中間はありえない。「どちらかはっきりしろ」ということになります。

ヘーゲルの形式論理学批判

 形式論理学の同一律、矛盾律、排中律というのは、結局のところ同一のものは同一、区別されたもの(異なるもの)は区別されたものということであり、同一と区別とを全く切り離してしまう。この形式論理学は、常識的な見方であり、必要な考え方なのですが、ヘーゲルはこれを一面的であると批判します。
ヘーゲルは形式論理学を自己の論理学の中に取り込むと同時に、それを乗り越えようとするわけで、その一番の産物は、矛盾というものを積極的なものとして肯定したところにあるわけです。
 「彼らは、差異性をその対立物としているところのこの不動の同一性を固執しながら、そうすることによって自分らがこの同一性を一面的な規定にしていることに気がつかないが、この一面的規定性はこのままではなんらの真理をも持たないのである」(一〇五ページ)。
 つまり、同一は同一、区別(差異)は区別(差異)という一面的な規定に真理はないというのです。レーニンはここにNBと書き、三本の太線を引いています。
 ではなぜ、一面的で正しくないというのでしょうか。二つの点からそれはいえるのではないかと思います。一つは、すべての事物は相対的固定性をもつとともに運動・変化・発展するから、いつまでも同一ではありえないのです。もう一つは、すべてのものが同一性(直接性)を貫きつつ同時に他のものに媒介されて存在しているからです。媒介されているということは他のものに影響され、変化を生じている。そこに区別がもたらされるわけです。他のものと全く切り離されて、そのものだけで存在しているのであれば同一性を保ちうるのですが、すべてのものは他のものに媒介されていますから、媒介されるものとの間の相互移行とか相互浸透などが生じてくるのです。「同一と区別の統一」というのはそういう意味です。
 全ての事物は同一であると同時に区別されており、「同一と区別の統一」としてとらえなければ正しく事物をとらえることはできないのです。

 

四、差異から対立、そして矛盾へ

 今度は、区別にはどんな区別があるのかという区別の諸形態を、その同一との関係においてみていくことになります。
 「この否定(無)はさらに自己を規定して差異となり、対立となり、いまやこの対立は定立された矛盾なのである」(一〇九ページ)。
差異と同一の統一
 ヘーゲルは区別を差異・対立・矛盾という三つの段階でとらえています。
 差異というのは、異なっているということです。これまで議論してきたカテゴリーでいうと、或るものに対する他のもの一般が差異なのであり、Aに対する非Aを意味します。非AというのはBでもCでもA以外のものなら何でもかまわない。しかし、AとB、Cとの差異を比較することは、そこに何らかの共通性をみているからでもあります。
 「比較というものは、相等性および不等性にたいして同じ基体の異なった側面および見地でなければならない」
 全く異なる(差異)二つの商品を交換しうるのは、そこに価値(抽象的人間労働)という共通のもの(同一性)があるからです。同一性があるから差異を論じる意義があることを、同一と差異の統一といいます。ヘーゲルはまた、差異という区別は、区別のなかにあっても「鈍い区別」にすぎないと言っています。
 区別の認識がさらに深まると、今度は対立という関係において区別することになります。対立というのは、先に述べた「反省」の関係です。つまり、相互前提関係というか、お互いに切り離すことのできない肯定と否定、裏と表の関係をいいます。上と下、左と右、親と子、教師と生徒、といった関係をヘーゲルは「対立」というカテゴリーでとらえています。
 たとえば、教師と生徒の関係は、どちらかだけでは成り立たない。生徒がいてこそ、教師は教師たりえるわけです。親子関係も同じです。親も子どもがいてこそ親なのです。

対立と同一の統一

 対立するものの同一はどのようにして実現するのかというと、互いに影響しあい、移行し合うことによって同一となる。対立物の統一とか対立物の相互浸透とかいわれるものです。電気を例にとれば、マイナスからプラスに電子が移動し、プラスからマイナスに電流が流れるわけです。親と子も相互に影響しあって、同一の家庭がつくられる。
 このように、区別されたものを対立物として認識することは、鋭い区別、本質的な区別としての認識になっていきます。
 社会をとらえるときでも、階級間の対立としてとらえることが大切です。資本主義社会の基本的階級対立が、資本家階級と労働者階級の対立にあるととらえ、どの政党がそれぞれの階級を代表しているのかを理解するならば、さまざまな問題の原因がみえ、同時に解決する方向もみえてきます。そのものの根本的な対立関係がどこにあるのかをとらえ、或るものを反省関係においてとらえることによって、事物をよりくっきりした姿で浮かび上がらせることができるのです。

矛盾と同一の統一

 次に、矛盾と同一の統一の問題です。対立から矛盾に移行し、矛盾がその絶頂にまで押しやられるのです。
 ヘーゲルは「差異的なものの言わば鈍い区別、表象の単なる多様性を、本質的な区別、対立にまで鋭くする。多様なものは、矛盾の絶頂まで押しやられてはじめて相互に対して活気があり生きいきしたものになり、この矛盾のうちで、自己運動と生動性との内在的脈動である否定性を得るのである」(一一三ページ)と述べています。
 つまり、対立から矛盾へ移行し、さらに矛盾が絶頂にまで押しやられ、矛盾が止揚され克服されるというとらえ方をしています。これは大事なところです。対立は対立、矛盾は矛盾ではないのであって、対立と矛盾もまた同一と区別の統一としてとらえているのです。
 では、対立物の統一(同一)はどうやって実現するのかというと、対立物の闘争を通じて対立を止揚して、矛盾におけるこれまでの自己を否定し、新しい対立物の統一として実現されます。
 レーニンは、ここに注目し、「普通の表象作用は、差異と矛盾とを把握するが、差異から矛盾への移行は把握しない、しかしこれはもっとも重要なことである」(同)と指摘しています。つまり、差異から対立を見い出し、対立は矛盾に移行し、矛盾がその絶頂にまで高まったときにはじめて新たな発展が生まれてくるのです。
 レーニンが注目したのは、鈍い区別から鋭い区別への移行なのです。差異から対立へ、対立から矛盾へ、さらに矛盾からその絶頂へ、そして矛盾の止揚ヘという区別のなかにおける対立物の移行をとらえることが重要だと考えたのです。いわば差異、対立、矛盾というものを全体として、運動する過程としてとらえているのです。

対立と矛盾の関係への補足

 対立と矛盾の関係について、少し補足しておきたいと思います。
 対立物の統一という場合、調和的な統一を意味することがあります。ヘーゲルが対立という場合は、そういう調和的な対立を意味していることが多いと思います。それに対して矛盾は、より対立が深まり自覚された段階であり「対立物の闘争」へいたった状態をいうのです。
 自民党政治と国民の暮らしの問題についていうと、自民党政治は一貫して大企業優遇の経済政策をとっていて、国民の暮らしと対立をしてきました。対立はしていても、戦後、得票率を減らしながらも第一党の地位を守り、自民党政治が続いてきたのは、いわば対立物の統一という一定の枠の中にあったということでしょう。しかし、それが今では矛盾の激化の段階まで達しています。そのことが、自民党政治のゆきづまりとか、限界、あるいは矛盾の激化という言葉で表現されているわけです。
 ですから、対立から矛盾に移行するというとらえ方、そして矛盾が激化し、止揚されるというとらえ方が大切で、一見平穏にみえる状態(対立の段階)に、すでに矛盾やその止揚の萌芽があるのです。

 

五、矛盾

矛盾は生動性の根

 さて、矛盾律の批判と矛盾の問題をもう少し学習しておきましょう。
 「しかし、矛盾が同一性ほど本質的で内在的な規定ではないかのように考えられることは、従来の論理学および普通の表象の根本的な偏見の一つである」(一〇九ページ)。
 つまり、同一性というのは本質的な規定だけれども、矛盾というのは本質的な規定ではない、というのは偏見だといっているのです。「従来の論理学」とは形式論理学のことですが、形式論理学では、「矛盾は一つの偶然であり、いわば一種の異常および一時的な病的発作である」(一一〇ページ)ととらえていました。矛盾というのは本質的にあってはならないものであり、あったとしてもそれは一時的な、偶然の、病的な発作に過ぎないというのです。だから、いずれそういうものは解消していくだけの問題であって、それはなんら世界をみるうえで重きをなすものではないというとらえ方だったのです。
 ヘーゲルはこれに対して、矛盾こそが世界のあり方だと主張します。「矛盾はより深くより本質的なものとされねばならないであろう。なぜなら、矛盾とは反対に、同一性はたんに直接的なもの、死んだ有という規定にすぎないからである;しかし矛盾はすべての運動と生動性との根である;或るものは自分自身のうちに矛盾を持っているかぎりにおいてのみ、運動し、衝動と活動性とを持っている」(一〇九ページ)。
 レーニンはここに太線を引いて強調しています。矛盾をもたないととらえる見方は「死んだ有」であり、運動をとらえることはできません。さらにいえば、対立や矛盾をふくまないものは存在しないのです。
 「『すべてのものは対立している』と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な『あれか、これか』は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである」
  世界をあるがままにとらえようとすれば、矛盾というカテゴリーが不可欠なのです。『小論理学』では、「一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである」 と書かれています。
 テキストに戻りましょう。
 「矛盾はたんにここかしこに現れるといった一つの異常と見るべきものではなくて、それは、その本質的規定のうちにある否定的なもの、すべての自己運動の原理であり、この自己運動は矛盾の示現のうちに成立するものにほかならない。」(一一〇ページ)とあります。
 矛盾がどのように生まれてくるのかというと、そのもの自身のなかにおける否定的なものとして生まれてくるのだということをいっているわけです。そのもの自身のうちにおける否定的なものが、次第にそのもの自身と闘争し、激化するようになってくる。そのもの自身が内部の矛盾によって他のものに発展してゆくのです。
 先ほどの例でいうと、日本の社会という、そのものの中における、自民党政治と国民の暮らしという対立物があり、次第にその対立が矛盾に、そして矛盾が矛盾の頂点にまで激化し、止揚され、新しい社会に発展していくのです。
 「抽象的な自己同一性はまだなんら生動性ではない、むしろ肯定的なものがそれ自身否定性であること、この
ことによって肯定的なものは自己の外に出て、自己を変化のうちにひき入れるのである」(一一一ページ)というところにもレーニンは線を引いてますが、或るものは自己同一性にとどまっていても、そのなかに自己を否定するものが生まれてくることによって、運動、変化するにいたるのです。

弁証法的否定は、対立と矛盾の定立

 第二講で、弁証法的な否定というものが大事だといいました。弁証法的な否定にとって大切なのは、「或るもの」のうちにおける或るもの自身を否定する要素を発見することです。弁証法的な否定は、いいかえれば対立と矛盾の定立なのです。或るもの自身とそれを否定するものとの対立をみいだし、それが矛盾に転化することをみいだしてゆく。
 否定の否定というのは、その矛盾の止揚なのです。事物は否定を重ねることによって発展していくのですが、最初の否定は、矛盾の定立であり、否定の否定は矛盾の止揚となります。
 レーニンは以上をふまえて「運動と〝自己運動〟(これにNB!自生的な(自立的な)、自発的な、内的-必然的な運動)、〝変化〟、〝運動と生動性〟、〝すべての自己運動の原理〟、〝運動〟ヘの〝衝動〟および〝活動性〟への〝衝動〟」(一一一ページ)として矛盾をとらえることが「ヘーゲル主義の核心」(一一二ページ)であるといっています。矛盾というものを、自己運動の原理だととらえた所に「ヘーゲル主義の核心」があると理解したのです。
 そして、「この核心を発見し、理解し、救い出し、殻を取りのけ、清めることが必要であった、そしてこのことをまさにマルクスとエンゲルスとが成しとげたのである」と続けています。
 マルクスは『資本論』第二版の後書きの中で、「弁証法というのは現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定、その必然的没落の理解を含む」「したがって弁証法は本質的に革命的である」と述べていますが、おそらくこの文章がレーニンの念頭にあったのでしょう。さらにレーニンは弁証法における矛盾ないし自己運動の原理が、歴史的にどのように解明されてきたのかをふりかえり、「普遍的な運動および変化という思想」は一八一三年のヘーゲルの『論理学』によって生まれ、それを、「人間に適用されて証明された」のが一八五九年のダーウィンの『種の起源』であり、社会に適用したのが一八四七年の『共産党宣言』だと指摘しています。
 ここで、レーニンが、ヘーゲル弁証法の核心は、矛盾を自己運動の原理としてとらえた点にあるとつかんだのは、すばらしい読解力だと思います。

 

六、根拠

根拠・充足理由律

 以上で、「同一と区別の統一」のうちの区別としての差異、対立、矛盾を終わりまして、次に「同一と区別の統一」のうちの根拠というカテゴリーにいきましょう。
 本質と仮象・現象のカテゴリーを通じて同一と区別の統一を議論してきたのですが、事物を二重にみる場合、つまり直接性と媒介性の統一としてみる場合、「根拠と根拠づけられたもの」という関係としてとらえることもできるわけで、そこから根拠というカテゴリーを議論をしています。
 根拠と根拠づけられたものとは、同一であると同時に区別されています。本質と現象の例でいうと、本質が根拠になり、現象が根拠づけられたものになります。現象というのは本質の現れですから、本質と同一なのですが、本質よりも豊かなものとして本質から区別されたものとしてあるわけです。
 根拠というのは、ドイツ語で DerGrund といいますが、この Grund は理由とも訳すことができます。根拠と理由はドイツ語では同じです。
 テキストに、「すべてのものはその十分な根拠(充足理由)をもっている」(一一四ページ)とあり、これがライプニッツのいう「充足理由律」であり、形式論理学の命題になっています。根拠とは何かというと、理由になるものなら何でもいいのであって、絶対的に規定された内容をもたないのです。だからどんなものにでも根拠はくっつけることができる。「理屈とは何にでもくっつく」というわけです。いわゆる「屁理屈」というやつです。
 「十分な根拠」といっても、もともと絶対的な根拠はないのです。ですから「一方においてあらゆる理由が十分であるとともに、他方においては、いかなる理由も十分でない」(一一七ページ)とヘーゲルはいいます。ギリシャ哲学のソフィストは詭弁哲学と訳されています。ソフィストは、何にでも「賛成の論拠および反対の論拠」を示すことができるとしたからです。
 しかしヘーゲルは、全てのものに異なる根拠をみつけだすことができるから事物を一面的にみてはいけないとソフィストはいいたかったのだと、ソフィストを弁護しています。
 ヘーゲルは、ライプニッツのいう「十分な根拠」とはこのような何にでもくっつく概念(理由)ではなく、「絶対的に規定された内容」をもつものであり、それは「自ら活動し産出するもの」、すなわち「概念」だといいます。
 概念というのは真にあるべき姿です。真にあるべき姿は現実となって現れてくる力をのち、「自ら活動し産出するもの」なのです。つまり、現実性の絶対的根拠になっているものが、真にあるべき姿としての概念なのです。この点をとらえて、ヘーゲルは『法の哲学』の序文で「理性的なものは現実的である」という有名な言葉を述べたのです。理性的なものとは概念のことです。

 

七、レーニンの中間的総括

 さて、本質論のなかの本質を終えた段階で、レーニンは弁証法の中間的な総括をします。
 「つぎの根本思想は天才的である:あらゆるもののあらゆるものとの普遍的な、全面的な、生きいきとした連関および人間の諸概念におけるこの連関の反映」(一一七ページ)。
 本質論において、ヘーゲルは反省(反照)というカテゴリーを使って、対立物の相互移行、相互浸透、対立物の同一などの議論を展開してきました。同時に、差異、対立、矛盾という区別のあり方も議論してきたわけです。これらの論議を通じて、ヘーゲルはあらゆるものの普遍的な、全面的な、生きいきとした連関をとらえているとレーニンは実感したのでしょう。
 「生きいきとした連関」という点では、矛盾というカテゴリーによって運動をとらえていることも当然含まれています。とりわけ大事なことは、その次です。「唯物論的にひっくりかえされたヘーゲル」とあります。つまり、世界にある様々なものは普遍的な連関のなかにあり、その連関の中でこそはじめて運動がとらえられると考え、それを人間は論理学のカテゴリー(諸概念)という形で反映しているとヘーゲルは述べ、これは唯物論的な認識論ではないか、ということをレーニンは指摘しているのです。
 レーニンはヘーゲル哲学が、「多くの神秘主義とペダンティズム(衒学的――何かにつけて学識をひけらかすこと 引用者)」とがあるにもかかわらず、ここに天才的な根本思想をみてとったのです。
 そして、その次です。「これらの概念も、世界を把握するためには、同じように琢磨され、切磋され、柔軟性があり、可動的で、相対的で、相互に連関し、対立のうちで統一されていなければならない」(同)と述べています。
 つまり、同一と区別を切り離してとらえるような形式論理学は正しくないのであって、対立物の統一あるいは対立物の闘争、そういうカテゴリーでとらえることによってはじめて普遍的連関のなかで運動する事物の真理を
認識することができるというわけです。そう述べた後で、「ヘーゲルとマルクスとの事業を継承することは、人間思想の歴史、科学および技術の歴史を弁証法的に仕上げることであらねばならない」(同)とレーニンはいっています。
 弁証法は、真理認識のための法則なのですが、それをつかみ出すためには、人間思想の歴史、科学および技術の歴史を総合的に学び、研究して、そのなかから対立物の統一としての法則的なものをつかまなければならないというわけです。弁証法は、人類の知識の総和として生まれるということでしょう。そういう意味でレーニンは、ヘーゲル弁証法が人類の知識の総和から生まれ唯物論的な認識論に容易に転化する内容を含んでいると考え、きわめて高く評価しているのです。

弁証法の仕上げ

 ここで、さらに興味深いのは、レーニンが弁証法の「仕上げ」を問題にしていることです。弁証法の「仕上げ」を、レーニン自身の課題と考えたのでしょう。
 レーニンは「ところで〝純粋に論理的な〟仕上げは?それは合致する。それは〝資本論〟における帰納と演繹とのように合致しなければならない」と述べています。
 帰納とは、個々の特殊な事柄から一般的原理、法則を推理することであり、演繹とは、一般的命題から個々の事実を推論することです。
 マルクスは、資本主義社会における細胞としての商品を見いだし、商品の価値と使用価値という対立物の統一の歴史的かつ論理的な発展、展開として『資本論』を叙述しています。論理学における弁証法の叙述も、この客観世界におけるもっとも単純な、根本的な、細胞に相当する対立物の統一の法則から出発して、それから順次、複雑な論理へ展開する必要がある、ということです。
 ヘーゲル論理学は、「有」というもっとも単純なカテゴリーから出発し、それが本質論、ついで概念論という高次な認識へ移行しています。この論理の展開を総体としては正しいと、レーニンはとらえたのではないでしょうか。そのうえで、ヘーゲルの観念論的な弁証法を唯物論的な弁証法につくりかえ「仕上げ」ていくことを、レーニンは考えていたのだと思います。

 

⑴『小論理学』㊦二四ページ。
⑵『小論理学』㊦三三ページ。
⑶ 同。

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