『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第五講 本質論 二


一、現象

直接性と媒介性の統一

 第二篇の「現象」に入ります。冒頭に「本質は現象せねばならない」(一一九ページ)とあります。これはたいへんに有名な文章です。本質というのは、物事の表面的な姿の裏に隠されている真の姿です。しかし本質は裏に隠れたままでなく、必ず現象の中にその姿が現れてくるわけで、現象を通じて本質をつかむことができます。いいかえれば、本質と現象とを切り離して考えることはできないということです。
 この本質と現象(仮象)との関係は、「本質における直接性と媒介性の統一」としてとらえることができます。第三講で、「世界のすべての事物は、直接性と媒介性の統一である」というお話をしました。このことをヘーゲルは本質論でもう一度振り返って「異なる種類の有は、それぞれに特有な種類の媒介を要求するか、あるいは含んでいる」(同)といっています。「異なる有の種類」とは有論、本質論、概念論のことを指しており、有論も、本質論も、概念論もそれぞれに特有な直接性と媒介性の統一をもっているのだと述べているわけです。
 まず有論では、「或るもの」と「他のもの」との直接性と媒介性の統一を述べており、本質論においては、「本質」と「現象(仮象)」との直接性と媒介性の統一を中心に議論を展開いたします。概念論となると、「主観」と「客観」との直接性と媒介性の統一を議論することになります。

 

二、現象の法則

法則とは何か

 さて、『哲学ノート』に入る前に、この本質論のなかで一番の押さえどころである「法則」について説明しましょう。
 現象(仮象)のなかに本質としての「法則」をみいだすことになるのですが、ヘーゲルはそれを「現象の法則」と呼んでいます。現象の法則とは、客観世界(現象世界)における法則を意味します。科学的社会主義というのは、社会の発展法則に基づいて社会に働きかけ、社会を合法則的に発展させるという理論と運動です。ですから、「法則とは何か」ということは非常に大きな意味をもっています。ヘーゲルは現象に関連して法則の問題をいろいろ議論していますが、整理してお話ししましょう。
 まず「法則とは何か」という問題ですが、ヘーゲルは「現象のうちにある統一」(一二一ページ)だといいます。レーニンはここに「法則の概念とは、世界過程の統一と連関、相互依存性と総体性との人間による認識の諸段階の一つである」というコメントをつけています。もし、世界にあるものが相互に関連がなくバラバラなものであったら、その中に法則は存在しません。
 しかし、世界は統一性をもっています。その統一性は物質に由来するものです。例えば宇宙の発生は一つの高密度の物質がビッグバンとよばれる爆発を起こし、それが分化して素粒子、原子、分子、物体、天体へと次第に複雑なものになり、現在のような宇宙が発生してきたといわれています。もともとは一つの物質から始まって現在の宇宙が存在する以上、全体として統一性を保ち、相互に関連しあっているのは当たり前なのです。
 つまり、そういう全体的連関のなかにある客観世界の諸現象を統一的にとらえるのが法則なのです。
 ヘーゲルが、「現象が法則のうちに持っているこのような恒常的な存続性」(一二二ページ)といっていることに注目して、レーニンは「法則は現象における永続的なもの(恒常的なもの)」(同)であるとまずとらえています。では、「現象における永続的なもの」とは何かといえば、それは本質なのです。現象は、移り変わっていくものですが、そのなかにあって、変わらないものが本質です。ですから、法則は本質に関連したものなのです。
 続いてヘーゲルは「法則の国は、現存在する世界あるいは現象する世界の静止的な映像である」(同)と述べており、レーニンは「法則=現象の静止的な反映」とコメントしています。
 現象する世界は、不断に移り変わっています。その中において静止しているもの、移り変わらないもの、それがつまり本質です。だから法則は、移り変わる諸現象の中にあって移り変わらない、恒常的、永続的な本質に係わる問題なのです。

本質と法則の関係

 では、本質と法則とはどのような関係にあるのでしょうか。ヘーゲルが「かくて法則は本質的な関係である」と述べ、レーニンは、「法則は関係である。…このことを注意せよ。諸本質の関係あるいは諸本質間の関係」(一二四ページ)だとしています。
 つまり、法則というのは、一つの本質と他の本質との間の「一定の関係」をとらえたものであり、だから、法則は恒常的であり、不変なのです。
 では、相異なるいくつかの本質の間でどういう関係を法則としてみいだすかといいますと、それは、異なる本質間の同一の関係なのです。このようにみてくると、ヘーゲルが本質論のなかで、同一と区別の統一ということを議論してきたことは、法則をとらえるうえで有効なカテゴリーだということが分かってくると思います。同一と区別の統一を議論するとき、区別には三つの形態があるということで、差異、対立、矛盾という区別の形態を議論してきました。
 ですから、「静止法則を諸本質間の関係」としてとらえるということは、異なる本質の間の「差異、対立、矛盾の同一という関係」として、法則をとらえることができるのではないのかと思うのです。

法則と現象の関係

 次に法則と現象とはどのような関係にあるのでしょうか。「法則は静止的なものをとらえる── だからこそ法則は、あらゆる法則は、狭くて、不完全で、近似的である」(一二二ページ)といっています。現象というものは多様性と豊かさをもっています。しかし、法則は、諸現象の中から二つの本質を抜き出して、その二つの本質の同一性を議論するわけですから、現象のもつ豊かさをその法則のなかに取り入れることができないのです。その意味で、あらゆる法則は、現象に比べれば「狭くて、不完全で、近似的である」ということにならざるをえない。「例外のない法則はない」という言葉がありますが、どんな法則でも例外をもたざるをえないというのは、そういう法則のもつ狭さの一般的な表現だろうと思います。そこで、法則と現象との関係は、「現象は、法則にくらべると総体性である。なぜなら、現象は法則を含んでいるが、またさらにより多くのものを、すなわち自己を動かす契機をも含んでいるからである」(一二三ページ)ということになります。

客観世界の法則の種類

 では、現象の法則、いいかえれば、客観世界の法則にはどんな種類があるのかというと、差異するものの間の同一の法則、対立するものの間の同一の法則、矛盾するものの間の同一の法則、の三つに区別することができます。もっともヘーゲルは「差異するものの同一の法則」としか述べていませんので、このような分類は私の独自の見解として理解してください。

①差異するものの間の同一の法則
 まず差異するものの間の同一の法則というのは、外的に二つの本質が結合する法則です。一見つながりのない、差異する二つの本質が同一の関係に置かれる法則です。
 因果法則は、差異するものの間の同一の法則にあたります。原因と結果という二つの本質が同一の関係におかれるのです。この因果法則には、必然性の解明されない因果法則と解明された因果法則の二種類があります。
 必然性の解明されない因果法則とは、例えば、効果はあるのですが、なぜ効くのかが解明されていない漢方薬とか、民間療法をあげることができます。
 エンゲルスは、ポスト・ホック(post hoc)とプロプテル・ホック(propter hoc)とよんで、この二つの因果法則を区別しています
 ポスト・ホックとは何かというと、「それのあとに」ということです。つまり、必然性が証明されていないけども、「そのあとに」続いて起きてくるというのがポスト・ホックです。いうなれば、いまだ解明されていない因果法則ということになります。これに対してプロプテル・ホックは「それゆえに」こうなるという必然性の解明された因果法則です。
 だいたい真理を認識する過程は、まずポスト・ホックから始まるのです。たとえば、コッホが赤痢菌を発見した経過をみても、あそこの井戸水を飲んだら赤痢になる、というのが分かる。あそこの井戸水が赤痢の原因というポスト・ホックの法則がまず解明されたのです。続いてなぜあそこの井戸水が悪いのか、水の成分を調べ、そこから赤痢菌が発見されるということになってくるわけです。こうして赤痢菌こそ赤痢の原因だというプロプテル・ホックにたどりつくのです。

②対立するものの間の同一の法則
 続いて、「対立するものの間の同一の法則」です。一般的には「対立物の統一の法則」といわれています。この法則は大きく二つに分けられ、一つは「対立物の調和的統一」であり、もう一つは「対立物の相互移行、相互浸透の法則」となります。
 「対立物の調和的統一」とは、上と下とか、左と右とかのような関係にあるもので、例えば、一冊の本をとっても、本には上と下があります。一人の人間をとっても人間には左と右があります。このようにすべてのものは、そのうちに対立するものをかかえた調和的な統一として存在するのです。ヘーゲルは「固有の他者」と呼んでいます。上に対して下が「固有の他者」、左に対して右が「固有の他者」となります。こういう対立物の調和的統一を別の言葉で、相互前提関係ということもあります。
 それから、萌芽からの発展、有機体の発展も、「対立物の調和的統一の一形態」です。内部に対立をかかえながら統一体を保ちつつ発展していく。卵からおたまじゃくしを経てカエルになるのだけれども、カエルとしての同一性はずっと保っているのです。有機体は、同化と異化、遺伝と変異など内部にいろんな対立をかかえながら、統一体として発展するわけです。
 もう一つの「対立するものの間の同一の法則」は、「対立物の相互移行、相互浸透の法則」とよばれています。有論でとりあげた「量から質への転化」、「質から量への転化」の相互転化を例としてあげることができます。「本質と現象」も、現象から本質を認識し、本質は現象に移行するという相互移行があるわけです。原因と結果も、原因が結果になり、結果が原因になるという相互移行が生じます。ヒートアイランド化して暑いからエアコンを使う、エアコンを使うからもっとヒートアイランド化するといった具合に、相互に原因になり結果になっているわけです。
 それから、「偶然と必然」の相互移行の問題も重要です。偶然から必然に移行する例として、突然変異が遺伝の要素に移行することをあげることができます。種の進化は、まず偶然の要素により突然変異が生じるわけです。種は、偶然に生じた突然変異のなかから種の保存に適したものを自分の中に取り入れることによって進化の要因にする。進化の要因になるということは、必然ということです。だから、偶然の突然変異は進化の要因になることによって、必然に転化するのです。それから、必然が偶然になる例としては、退化器官があげられます。盲腸や、犬歯、尾骨などをあげることができるでしょう。進化の過程のどこかで、必要でなくなっていったものです。

③矛盾するものの間の同一の法則
 「矛盾するものの間の同一の法則」は、一般に「対立物の統一と闘争」といわれるものですが、「対立物の闘争と発展の法則」といってもいいと思います。
 ここでは、矛盾する二つ本質の間でどういう形で同一が保たれるのかが問題となります。矛盾は、対立する二つの本質が闘争し、相手を排斥しようとするものですが、このたたかいを通じて矛盾するものは止揚され同一性が生まれるのです。矛盾の止揚による同一というのは、対立する片一方を切り捨てて生まれるわけではなくて、対立する古いものを否定しながら、かつ、保存するわけです。ドイツ語の止揚(Aufheben アウフヘーベン)は、保存する意味と否定する意味の両方をもっているのです。
 階級闘争を例にしましょう。
 かつて、イギリスなどでは団結権など認められず、労働者が三人集まって相談していたら処罰されました。ましてやストライキをするとすぐに刑事処罰を受け、損害賠償の請求まで受ける。それでも労働者階級は繰り返しストライキをやり、労働組合を結成していく。資本の側も譲歩せざるをえなくなり、労働組合を認め、労働者保護法を制定していくことになったのです。その意味で労働法の制定は階級闘争の結果、労使双方の対立を止揚し、統一したものとして制定されるのです。
 自然の発展も同様です。物質の発展は引力と斥力の矛盾から生じます。素粒子の段階から天体の段階に至るまでの物質の諸階層は、引力と斥力の矛盾を通じて発展してきているということができると思います。生物は、遺伝と変異の統一です。一方では親の因子を子に伝えようという遺伝の因子が働くと同時に、その中で変異が生じる。遺伝と変異は矛盾するものなのですが、そのかっとうのなかで種の進化が起きるのです。

 

三、概念の発展法則

「即かつ向自的世界」=イデアの世界

 以上が、ヘーゲルのいう現象の世界の法則といっていいでしょう。では法則というのはそれに尽きるのかといえば、そうではありません。概念の発展法則をヘーゲルは考えています。
 ヘーゲルは、「第二章現象」において、「A現象の法則」と「B現象的世界と即自有的世界」とを区別しています。「現象の法則」が客観世界の法則を問題としているのに対し、「即自有的世界」では、イデア界の発展法則を問題としているのです。
 「自体的な世界は現象の世界と同一である。しかし同時にまたこれと対立している。前者において肯定的なものは後者では否定的である。現象の世界において悪であるものは、自体的な世界では善である」(一二三ページ)というところがあります。
 「自体的な」の原文は an und für sich で、ヘーゲル全集では「世界」と訳されており、分かりやすいかどうかは別として、こちらの方が原文に忠実な訳です。では「即且向自的世界」とはいったい何を意味するのでしょうか。「即且向自」をヘーゲルは「絶対的」という意味で使っています。では、絶対的世界とは何か。それは、絶対的真理の世界であり、ヘーゲルが「現象する世界の上に位するところの一世界」といっていることからしても、プラトンのいう「イデア界」であると私は理解しています。絶対的真理の世界は、現象の世界(客観世界)を反映した世界ですが、現にある世界を否定し、真にあるべき世界を打ちたてているという意味で、客観世界と対立しているのです。
 ヘーゲル全集の『大論理学』を訳された武市健人氏は、「即且向自的世界」が、イデア界を意味しているとはお考えにならなかったようです。見田石介氏の『ヘーゲル大論理学研究』を読んでみても、この箇所について何も論評しておられません。おそらく重要視されていなかったのでしょう。
 ただ寺沢恒信氏だけが、イデア界との関係を論じています。
 寺沢訳の『ヘーゲル大論理学』では、即且向自的世界は、「それ自体で自立的に存在する世界」 と訳され、訳者注で「それ自体で自立的に存在する世界はまたは『超感性的世界』ともよばれる、といっている。この表現でまず思い浮かぶのはプラトンの『イデア界』であろう。ではヘーゲルはここで『イデア界』を念頭においているのであろうか」と問題提起し、「何らかの程度においてプラトンのイデア論をおいていたであろうことは、疑いない」 と自らの見解を述べられています。しかし、「ヘーゲルの『それ自体で自立的に存在する世界』がプラトンの『イデア界』と根本的にことなるのは、前者が『絶対的否定態』であるという点にある」 として、イデア論の継承発展の側面よりも、違いを強調されています。しかし私自身は、先ほど述べたように、即且向自的世界(それ自体で自立的に存在する世界)は現にある世界の「絶対的否定態」であるところにこそイデア論をまっすぐに継承発展したと考えるべき根拠があると思うのです。

真にあるべき姿としてのイデア

 では、プラトンのいうイデア界とは何かといえば、それは「真にあるべき世界」です。「真にあるべき世界」と「現にある世界」とは同一であると同時に対立しています。どういう意味で同一かというと、「イデア界」は現実の世界から生まれるものとして現実の世界と同一だといえるのです。では、全く同一なのかというとそうではないのであって、現実の姿の裏返しとなっているのです。真にあるべき世界=イデア界は、現実の世界を「否定して」描いているわけですから、現実社会を裏返した形としてある。ということは、イデア界は現実の世界と対立していることになります。
 また、真にあるべき世界はいつまでも自己にとどまっているわけではなく、現にある世界に転化し、それが現実となって現れてくる。現実となって現れてくるときは、イデア界と現実の世界とが同一となる。このような意味でも、同一と区別の統一の関係にあるといえます。
 ですから、「前者において肯定的なものは、後者では否定的である」というところが大事なのです。イデアは、現実世界を否定して生まれてくるのであり、また現実世界を否定するものとしてあります。
 日本共産党の「日本改革」の提案 (公共事業費五十兆円、社会保障二十兆円の逆立ち財政をただす、などの資本主義の枠内での民主的改革)も、日本の現実を「否定する」ものとして誕生した、日本のイデアだということができます。このイデアたる改革の提案に基づいて現実を変革しようとするわけですから、その意味でも現実を「否定しよう」とするわけです。このように、イデアと現実世界とは二重の意味で否定関係にあります。つまり、現実世界を否定するものとしてイデア界が生まれ、そのイデア界は現実世界を否定することによって現実となるということです。そういう意味で、イデア界は「絶対的否定態」なのです。
 実は、イデア界と現実世界の相互否定の関係が、「概念論」全体の主要なテーマになっているのです。ですから、ここは概念論を先取りした形でイデア界を議論しており、ヘーゲルが「この問題はさらに詳しく概念論で展開する」と書いておいてくれれば、真意がつかみやすかったと思うのです。ヘーゲルの説明が足らなかったことによって正しく理解されてこなかった、といえるでしょう。
 では、イデア界、ヘーゲルの言葉では「概念」ですが、イデアないし「概念」と現実世界との関係がなぜ発展法則なのでしょうか。第一に概念それ自体が、現実世界の否定的発展として現実世界のなかから必然的に生まれてくるものです。第二に概念というのは、真理なるがゆえに現実となる必然性をもつ、とヘーゲルは考えました。私たちがよく使う言葉でいえば「真理は必ず勝利する」ということです。真理は、必然的に勝利し、現実化する発展の法則となります。この両面の必然性をとらえて「概念の発展法則」と呼ぶことができるのです。ですから、「即かつ向自的世界」の部分は、本質論から概念論への橋渡しになっていると同時に、次の「現実性」の橋渡しにもなっているのです。

 

四、現実性

 「第3編 現実性」に入ります。
 この現実性というカテゴリーは、ヘーゲル哲学の中でも特別に重要な意味をもつカテゴリーであって、エンゲルスも『フォイエルバッハ論』でこの問題を取り上げてかなり詳しく解説をしております。ヘーゲルの言う「現実性」というのは本質と現象の統一を意味しており、内にある本質が必然的に外にあらわれるもの、という意味をもっています。
 「内にあるものが必然的に外にあらわれるもの」が現実性だということであれば、本質だけではなくて、内にあるイデア(概念)が外に必然的にあらわれたものも、現実性だということです。つまり、真にあるべき姿が必然的に現実世界にあらわれてくることをも現実性のカテゴリーでとらえるわけで、そういう独特の用語として「現実性」が使われているわけです。

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である

 ヘーゲルの『法の哲学』の序文に「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というたいへん有名な文があります。ここだけを読むと、現実と理性(理想と同義)を混同していて、現実にあるものは全て理性的(理想的)だということになって、現実肯定の考えではないかと早合点する向きもありますが、「そうではない」ことを『フォイエルバッハ論』は説明しています。
「『現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である』というヘーゲルの有名な命題ほど、頭のわるい諸政府の感謝と、同じように頭のわるい自由主義者たちの怒りとをまねいたものはなかった。これこそ明らかに、すべての現存するものは神聖だとする宣言である」と現状肯定に解した人達がいたのです。
 「しかしヘーゲルでは、現存するものすべてそのまま現実的であるというのではけっしてない。現実性という属性は、彼においては、ただ同時に必然的であるものにだけそなわっているのである」
「このようにして、ヘーゲルの命題は、ヘーゲルの弁証法のおかげでその反対物に転化する。すなわち、人類の歴史の領域で現実的であるものは、すべて時とともに不合理になるのであり、つまり、すでにその本来のさだめからいって不合理であり、最初から不合理性を負わされているのである。そして人間の頭脳の中で合理的であるものは、どんなに現存する見かけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである。現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲルの思考方法のあらゆる規則にしたがって解体し、現存するものはすべて滅亡にあたいする、という他の命題になる」(同)
 少し引用が長くなりましたが、ヘーゲルのいう「理性的なものは現実的である」という部分をエンゲルスは「人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存するみかけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである」と読み取っているのです。
 そしてエンゲルスは「ヘーゲル哲学の真の意義とその革命的性格とは、…まさにこの点にある」と締めくくっています。
 以上のことは、まさにイデアと現実との関係を論じているのです。
 イデアという「真にあるべき姿」は、さしあたり、人間の頭の中の世界です。この現実の世界の中にはそのままの形では存在しません。いわば現実の世界を理論的に「否定する」ことによって、人間の頭の中に描き出された像です。
 現実の中からその否定として「真にあるべき姿」をとらえるならば、その未来像は現実に必然的に転化する力をもつというのが、「理性的なものは現実的である」の真の意味です。ですから、理性(理想)と現実とを切り離すのは間違いなのです。「それは理想にすぎない」といって理想と現実を切り離す論議があるけれども、現実になりえないような理想など、議論しても不毛、無価値というべきであり、現実になる必然性をもった理想こそ探求しなければならない、とヘーゲルは言っているわけです。その探究すべき理想こそが「概念」だとヘーゲルはいうわけです。
 『小論理学』の第六節に、「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は単にゾレンにとどまって現実的でないほど無力のものではない」 とあります。ゾレン(Sollen)とは一般に「当為」と訳されており、あるべきことという意味です。真の理想とは、こうあるべきだというにとどまって現実にならないような無力のものではなく、必然的に現実に転化する力をもったものなのだ、といっているのです。ですから、ヘーゲルにいわせれば、偶然の所産としての現実など論外であり、理念の必然的にあらわれたものこそが、「現実性」の名に値するものなのだということになります。

 

五、可能性、偶然性、必然性

 さて、次に「可能性、偶然性、必然性」に入ります。
 実は現実性の中でヘーゲルが最も論じたがっているのは必然性の問題なのです。内にあるものが必然的に外にあらわれてくるものが現実性であると言いましたが、現実性と結びついた必然性を議論する上で、可能性、偶然性をもあわせて議論しています。

可能性

 まず可能性ですが、ヘーゲルは『小論理学』で、「可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない」 と述べています。つまり可能性というのは、内に矛盾さえ含んでいなければ何でもいいのです。ボールを空に投げたら地球に落ちてくる、月はボールのようなものである、だから月も地球に落ちてくる可能性がある、ということもできるのです。ボールも月も空にあり、そういっても矛盾しないから月が落ちてくる可能性があるということもできるわけです。可能性というのはその程度のものなのです。矛盾しなければ何でもいいわけであって、こんなものを議論しても何の意味もありません。レーニンも「『可能性』の問題については、ヘーゲルは、このカテゴリーの空虚なことを指摘」(一二八ページ)したとしています。
 私たちも、日常生活においてはよく可能性ということを議論します。「そういう可能性もあるのではないか」とか、「可能性が大きい」あるいは「小さい」とかよく使うと思います。しかし厳密には、可能性として論じている内容の大半は、必然性があるかどうかということなのです。ヘーゲルも必然性こそを論議すべきだといってます。
 ここで「可能性と現実性」にも触れておきましょう。『小論理学』の「或る事柄が可能であるか、不可能であるかは、その内容、すなわち、現実の諸モメントの総体による。そして現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(一二八ページ)が、テキストに引用されています。
 一つの可能性がたまたま現実になったとき、これは偶然性にすぎません。可能性をもつモメントのひとつは偶然性に過ぎないのですが、可能性を構成するモメントのすべてのものが一緒になったとき、それは必然性となり現実性を生み出すのです。
 レーニンはこれをうけて、弁証法的認識の問題として現実性の諸契機の総体をとらえることが重要である、といっています。真理を認識するためには一面的認識ではなくて、全面的な認識が必要となるのであって、それによって必然性としての現実が何なのかが明らかになるという意味で使っているのでしょう。

偶然性と必然性

 次に、偶然性と必然性の問題に入ります。
 偶然性とは、内にある可能性がたまたま外にあらわれただけのものです。必然性とは、内にあるものが自己産出により外にあらわれたものであり、法則性といいかえても大きな違いはありません。すべてのものを、偶然性と必然性の統一として理解することが大切です。すべてのものが必然性だけから生まれたということになると、いわゆる「決定論」に陥ってしまいます。すべてのものが必然的な関係でがんじがらめということはありません。必然性という法則の支配する客観世界にも、偶然性があるからこそ、人間の主体的実践の果たすべき役割があるのです。
 反対に、すべてが偶然だというのも間違いです。すべてが偶然であれば、法則は存在しえないわけで、したがって人間の働きかけ、実践も成りたちようがありません。たとえ働きかけても、何が生まれてくるか分からないということになる。すべてのものは偶然性と必然性の統一としてとらえねばなりません。すべてのものが偶然性と必然性の統一としてあるからこそ、社会変革は実に複雑な過程をたどりつつ、そのなかから必然的なものを見いだしながら社会を発展させていく作業(実践)が必要になるのです。
 ここで「意志における偶然と必然」の問題について一言述べておきます。
 エンゲルスは、『反デューリング論』においてヘーゲルは「自由と必然性の関係をはじめて正しくのべた人である」 といっています。また、ヘーゲルのいうように、意志の真の自由は、必然性の洞察のうえにある、(自由と必然の統一)ともいっております。それまでは、自由というのは必然を否定することであり、必然は自由を否定することであるとして、両者を媒介のない対立においてとらえる議論が展開されていました。ヘーゲルは自由と必然という対立物を統一してとらえたのです。「自由とは必然性の洞察である」というのは、人間の意志がどういう場合に真に自由になれるのかを問題にしているのです。ヘーゲルは「形式的意志の自由は、恣意の偶然性をのがれられない」と述べています。
 たとえば、ガラスの中にダイヤモンドが混ざっているとしましょう。ガラスは光り輝いていて一見するとダイヤモンドと区別がつきません。この中から自由にダイヤモンドを選びなさいといわれても、「形式的意志の自由」によれば、区別すべき「必然性」を知りませんから、適当に選ぶことしかできません。ダイヤモンドとガラスの硬度の違いをよく知ったうえで(必然性を洞察したうえで)、ダイヤモンドを選び取ってこそ本当の「自由」なのです。必然性が理解されない形式的自由は盲目であり、ダイヤモンドを選ぶかガラスを選ぶかは全く偶然に委ねられているのです。
 だから、人間は法則(必然性)を認識することによって、はじめてその法則をコントロールする、支配することができるのであり、そこに真の意味の自由があるのです。このような意味で、自由と必然の統一をヘーゲルは唱えたわけです。
 ここで本質論は終わって、一番最後に、レーニンは「『論理学』の第二巻の終わり、〝概念〟にうつるところで、つぎのような規定があたえられている:概念、《主観性の、あるいは自由の国》」とノートしています。概念というのは主観性の問題であり自由の国だとヘーゲルはとらえている、というのです。
 『小論理学』では、一五八節に「必然性の真理は自由であり、実体の真理は概念」 という言葉が出てきますし、一五九説には「必然から自由への、あるいは現実から概念への移りゆき」 という言葉も出てきます。実はこの二つの文のなかに概念論を理解するカギが含まれています。
 有論、本質論というのは客観世界の法則を論じ、そこはいわば「必然性の世界」なのですが、概念論に移行することによって、客観世界の制約をのりこえて「真にあるべき姿」、イデアの世界、概念の世界、いわば必然性を支配する自由の世界に入っていくことを予告しているのです。

 

⑴ マルクス・エンゲルス全集⑳五三七ページ。
  /『自然の弁証法』②、国民文庫、三一四ページ。
⑵ 寺沢恒信『ヘーゲル大論理学』②(以文社、一九八三年)
⑶ 同、三六八ページ。
⑷ 同、三七〇ページ。
⑸ 不破哲三『私たちの日本改革論』(一九九九年、新日本出版社)、
  志位和夫『民主日本への提案』(二〇〇〇年、新日本出版社)などを参照。
⑹ マルクス・エンゲルス全集㉑二六九ページ。
  /『フォイエルバッハ論』古典選書、一二ページ。
⑺『小論理学』㊤七一ページ。
⑻ 同、㊦八五ページ。
⑼ 同、㊦八八ページ。
⑽ マルクス・エンゲルス全集⑳一一八ページ。
  /『反デューリング論』①、国民文庫、一七五ページ。
⑾『小論理学』㊦一一五ページ
⑿ 同、一一八ページ。

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