『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第六講 概念論 一 概念


一、概念論の構成と展開

ヘーゲル弁証法の真髄

 概念論に入ります。
 われわれはヘーゲルを変革の立場から学んでいるわけですが、概念論では、人間の意識、認識と実践を扱っています。ヘーゲル弁証法の真髄が変革の立場にあるとするならば、概念論こそヘーゲル哲学の中の最も重要な部分であり、中心的な部分なのです。レーニンもこの概念論について、もっとも強い関心をよせノートの半分を概念論にかんするもので占めています。概念論の構成をみてみると、まず「概念一般について」という序論があり、続いて第一篇が「主観性」(あるいは主観的概念)、第二篇が「客観性」(あるいは客観的概念)、第三篇が「理念」となっています。レーニンの概念論のノートは、序論と第三篇「理念」が大部分を占めています。ヘーゲルは、「理念」のところで人間の認識と実践、いわば自然や社会の合法則的な変革、合法則的な発展を扱っています。だから、レーニンはここを重視したのです。

概念論の構成

 概念論の構成をもう少しくわしく述べます。「主観性」は「真にあるべき姿」としての概念を、主観的に頭の中でとらえることを問題としています。また概念というものを普遍、特殊、個別の統一としてとらえ、その統一と区別を議論しています。また、その統一と区別の問題に関連して、形式論理学でいう概念、判断、推理を議論し、それを批判して乗り越えようとしています。
 次の「客観性」は、主観的概念が外に現れたものが客観(客観的概念)だととらえ、客観的事物のもつ三つの関係、機械的関係、化学的関係、目的的関係を議論します。これらは、客観的事物にかかわる問題ですから、有論、本質論で議論してもいいはずのものなのですが、眼目は、目的的関係にあるのです。目的的関係を議論することを通じて、客観の中における概念を議論する関係上、その前提として機械的関係や化学的関係を議論したのだろうと思われます。
 そして三つ目は、この主観と客観の統一としての「理念」であり、ここでヘーゲルの真理観を展開しています。このヘーゲルの真理観は、科学的社会主義の真理観と基本的には一致するものです。「真にあるべき姿」とその実現、つまり自然や社会の合法則的な変革による真理の実現という見地が展開されています。真理としての「真にあるべき姿」の問題は、科学的社会主義の真理観において、今まであまり積極的に取りあげられることがありませんでした。私はここにも科学的社会主義の理論がヘーゲルから引き継ぐべき財産があると考えています。
 ヘーゲルは、自然や社会の合法則的な発展をもたらすものとして、人間の意識の創造性を取りあげ、認識と実践による自然や社会の合法則的発展を議論します。ヘーゲルは、自分の哲学を「絶対的観念論」の哲学だといっています。その絶対的観念論というのは、ヘーゲル自身の用法では、理想と現実の統一を実践する哲学という意味です。彼がいう観念性とか観念論は、いわば理想を追求する理論という意味でつかっているのです。その意味から「絶対的観念論」を自称するヘーゲルは、理想と現実の統一の問題をはじめて本格的に議論した哲学者だといってもいいでしょう。プラトンも、理想を考えた人です。しかし、プラトンの理想はあくまで理想にとどまっていて、現実に転化する契機をとらえることができませんでした。
「あるべき姿」を思い描く
 人間が他の動物と区別されるのは、自然、客観的な世界を受け入れるだけでなく、変革する力をもっているところにあります。自然や社会を変革するためには、頭の中に、まずあるべき姿を描いていなくてはなりません。それをヘーゲルは「概念」とよんでいるのです。マルクスは『資本論』で、次のようにいいます。
 「蜘蛛は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているというのは、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭の中で築いているからである」
 人間の意識の能動性、創造性は、客観世界が「どのようにあるか」を認識することを通じて、客観世界が「どのようにあるべきか」を認識するところにあります。そして、その一番基本的な活動が生産労働なのです。
 マルクスは続けて、次のように述べています。
 「労働過程の終わりには、そのはじめにすでに労働者の心像の中には存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである」(同)。
 牧畜、農耕に始まって、土器や青銅器、鉄器などを製造し、その後、生産力を発展させて、今日の時代にいたっているわけですが、それは自然や社会を変革する意識の創造性を高めた結果なのです。その意識の創造性の面を哲学の上に正しく位置づけ、「真にあるべき姿」を概念としてとらえたのです。ヘーゲルは、フランス革命の影響を受け、世界を変革する立場から、その哲学を構成し、その中心部分が「概念論」であり、さらに概念論の中心部分が「理念」です。

 

二、概念とはなにか

一般的な概念の定義としての抽象的普遍

 さて、序論の「概念一般について」に入ります。概念とは何かという問題を考えていきたいと思います。
 一般的な意味で、形式論理学などで使われている「概念」というのは、個々の物事に共通する本質的特徴をとらえて抽象化した思考形式です。例えば、人間とか、犬とか、本とかいうのも、すべて概念です。客観世界に存在するのは、個々の人間、犬、本なのですが、その中に共通する本質的要素、例えば「直立二足歩行し、労働する哺乳類」を「人間」という概念でとらえるのです。言語は「概念」の組み合わせであり、人間の認識は、概念の組み合わせを通じてなされています。
 しかし、ヘーゲルは「概念」に、もう一つの独自の意味を与えています。それは「本来のあるべき姿」とか、「真にあるべき姿」という意味であり、人間がその意識においてとらえたそのものの理想の姿を、概念としてとらえたのです。二つの意味は矛盾するように思われるかもしれません。この疑問に対して、ヘーゲル自身が次のように答えています。
 「形式的論理学でいう概念と思弁的論理学で言う概念との距離がどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そうみえるほど、一般の用語に縁のないものではないのである。われわれは或る内容を概念から導き出すと言う。例えば、財産に関する諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元するという。これは概念が本来無内容な形式にすぎないものではないことを認めているのである」
 共通性を抽象した普遍としての概念と「真にあるべき姿」としての概念は深いところでつながっているというのです。「財産に関する諸法律を財産の概念から導き出す」といういい方を一般的にすることがあります。それは、財産とは本来何か、財産の「真にあるべき姿」は何かという意味での財産の概念から導き出すものであり、「思弁的論理学」すなわちヘーゲル流の「概念」の使い方を一般的にもしているわけです。形式論理学の概念は、共通する「本質的特徴」を取り出しているのですから、「本来のあるべき姿」「真にあるべき姿」というヘーゲルのいう「概念」の意味とそれほど離れてはいないのも当然ということが出来ます。
 ヘーゲルは、第一の意味の概念を抽象的普遍とよび、第二の意味の概念を具体的普遍と呼んでいます。具体的普遍とは、普遍性、特殊性、個別性をそれ自身の内にもつ統一体です。「真にあるべき姿」は、普遍であると同時に、自らを特殊化して、現実の姿(個別)になるという意味で、具体的普遍なのです。

具体的普遍としての概念

 さて、以上を前提として、テキストに戻りますと「有と本質とは、このかぎりにおいて概念の生成の契機である」「したがって有と本質とを考察する客観的論理学は、本来、概念の発生的叙述をなすものである」(一三七ページ)とあります。概念論における概念というのも、客観世界との関係における直接性と媒介性の統一なのです。
 ヘーゲルのいう概念は、確かに客観世界から生まれ媒介されたものではあっても、客観性を乗りこえた意識の直接の産物として直接性でもあるのです。真にあるべき姿としての概念は、有と本質という客観世界から生まれた、客観世界の真理であり、ヘーゲルは「概念が、有および本質の真理である」 と述べています。
 有論、本質論のカテゴリーも客観世界の真理をとらえたものです。しかし、概念は、もっと高い真理、客観世界を乗りこえる真理なのです。より高いレベルの真理というのは、変革の立場に立った真理だとヘーゲルはとらえ、それをヘーゲルは具体的普遍といっています。
 ルソーの『社会契約論』における普遍的意志(la volonté générale)と全体意志(la volonté de tous)の問題を例にして説明します 。ジャン・ジャック・ルソーは、フランス革命を思想的に準備した人で、人民主権論を唱えた人です。人民一人ひとりが主権の主体であり、この主権は人が生まれながらにもち、他に譲り渡すことの出来ない権利なんだということを『社会契約論』のなかでいっています。
 そこで人民主権の政治とは何かが問題になってくるわけですが、そのなかでこの普遍的意志と全体意志という言葉が出てきます。普遍的意志というのは「真にあるべき姿」をとらえた意志(具体的普遍としての意志)を意味し、全体意志というのは、国民の多数の意志(抽象的普遍としての意志)のことです。国民の多数の意志と、普遍的な意志は区別しなければならないとルソーはいうわけです。人民主権とか、国民主権というのは、国民の意志に基づいた政治を実現するということです。では、国民の意志とは何かというと、それは普遍的意志であって、全体意志ではないというのです。

社会の段階的発展と「概念」

 日本の政治の普遍的意志、つまり真にあるべき政治と、現在の国民の多数の意志との間に不一致が存在しているところに、社会の段階的発展という問題が出てくるのです。社会の発展というのは、一歩ずつ国民の多数の意志に基づいて前進していくのですが、問題は国民多数がどこに向って前進するべきかということです。
 それは真にあるべき政治、普遍的意志にむかって前進していくわけです。真にあるべき政治という普遍的意志(具体的普遍=概念)と、国民の多数の意志とが現段階では一致していないから、そのギャップを国民が階段を一歩ずつのぼることによって埋めていくことになるわけです。
 ではどうして、「普遍的意志」に向かって国民の多数は、一歩ずつ階段を上っていくのでしょうか。それは、具体的普遍(概念)が真理だからです。はじめは少数の認識にすぎなかった「真にあるべき姿」が、真理のもつ力によって次第に多数者の認識に転化していくのです。そういう意味で、ヘーゲルが概念論の中で独自の用語として用いている概念、つまり、「真にあるべき姿」というのは、自然や社会の合法則的な発展を考える上で非常に重要なカテゴリーなのです。「真にあるべき姿」としての概念は、いいかえれば現実になる力をもった理想ということです。
 『小論理学』の二三四節補遺に「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」 とあります。
 有論、本質論のカテゴリーは、世界をあるがままに受け取ろうとするカテゴリーなのです。しかし、大事なことは、世界をそのあるべき姿に変えようとする意志であり、そういう変革の立場に立った真理が概念なのです。

理想と空想の違い

 ヘーゲルのいう概念は、個別や特殊という客観世界から生まれた普遍ですから、普遍でありながら特殊や個別を内に含んでいます。また「真にあるべき姿」は、普遍ではありながらも自らを特殊化して、現実となる力、自らを特殊化して個別となる力をもっている。この両面から概念は、個別、特殊、普遍の一体化した具体的普遍となるのです。
 空想と理想とはしばしば混同されていますが、両者は区別されなければなりません。空想というのは、現実とは無関係に頭の中だけで生み出された観念の所産です。これに対して理想というのは、現実にしっかり立脚しながら現実のなかから生まれた人間の意識の創造的な産物であり、しかもそれは、変革の立場からの真理をとらえたものとして、現実を変革する力をもっています。だから具体的普遍という場合、それは普遍ではあっても自らを特殊化し、個別になる力をもっているのです。 
 第五講でのべたようにヘーゲルは『小論理学』の第六節で、次のように述べています。
 「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」 。理想とは、現実にならないほど無力なものではない、というのです。

 

三、スピノザ批判

 哲学上の数々のカテゴリーは、何もないところから突然生まれてくるわけではありません。それに先行する先人の哲学があり、その批判のうえに、新しい哲学は生まれてくるのです。ヘーゲルの「概念」も、直接的にはスピノザの哲学や、カントの哲学の批判のうえに生まれたものです。
 ヘーゲルの彼らに対する批判は、世界の根本はどのようなものであり、概念をどうとらえるかに関してです。ヘーゲルは、世界の根本を絶対理念(概念の最も発展した形態)としてとらえ、絶対理念の外化したものが客観的世界だととらえました。これは当然、観念論的な世界観として批判されるべきものです。しかし、その制約はもちつつも、われわれとしては、主観から客観への移行は人間の変革の意識が客観世界を合法則的につくりかえる過程である、と読みかえればいいのです。

スピノザの実体論

 スピノザは、世界の根本を実体ととらえました。デカルトは、神、精神(思惟)、物体(延長)の三者をそれぞれ実体と考えましたが、スピノザは神のみが唯一の「実体」であり、精神と物体を「実体」の「属性」とみなし、この「属性」が変様して、個々の精神や物体という「様態」になると考えました。
 つまり、実体が根本にあり、そこから実体の属性としての精神と物体が現れ、さらに個別としての様態が生まれてくると考えているわけですが、いうなれば、実体というのが普遍であり、属性が特殊であり、様態が個別であるということになります。
 思惟と延長という用語は、その後、「思惟」は「主観」に、「延長」は「客観」という概念に発展していきます。神が根本的に存在し、その神の属性として主観と客観が存在する。さらに個々の物が存在し、これが様態だといっているわけです。では実体からどうやって属性が生まれてくるのかといえば、実体が規定(否定)されることによって属性とか様態が生まれる、とスピノザはいっています。スピノザにとって「規定は否定」なのです。神が自らを否定することによって、客観世界が生まれ、精神も生まれてくると考えたのです。これが、スピノザの実体論といわれるものです。ヘーゲルは、スピノザの実体論が具体的普遍をとらえたものとして高く評価しつつも、その批判を展開しています。
 「実体の哲学としてのスピノザの重要な意義(この見地は非常に高い、しかし完全ではなく、最高ではない。一般に、ある哲学体系を反駁することは、それを投げすてることではなくて、それをいっそう発展させることであり、或る他のもの、一面的なもの、対立するものによって取り代えることではなくて、それを或るより高いもののうちに含めることである)」(一三七~八ページ)。

実体から主体へ

 ヘーゲルは「スピノザの体系には、自由な、自主的な、意識的な主体がない」(一三八ページ)といって、実体が主体として自らを展開していないと批判をしています。スピノザによると客観的な世界というのは、実体の否定にしかすぎないわけですから、積極的なものは何もないということになってしまいます。スピノザの実体論は、結局、世界にあるのは神のみで、この客観世界は無に等しいことになるという批判を、ヘーゲルはしています。これに対し、ヘーゲルの「概念」は、自ら展開して客観を生み出し、かつ主観と客観の交互作用を生み出す主体だというのです。このようにヘーゲルの概念論は、スピノザの実体論の止揚から生まれたところから、ヘーゲルは「一切を左右する要点は真なるものをただ単に実体として把握し且つ表現するだけではなく、まったく同様に主体としても把握し表現する」(ヘーゲル全集④「精神の現象学」㊤一六ページ)。

 

四、カント批判

カントの概念は、単なる主観的なもの

 次に、カントの批判に入ります。
 まず「ヘーゲルは、"統覚の先験的統一"(そのうちで概念がつくられるところの意識の統一)という観念を提出していることを――カント主義の大きな功績である」としています。カントが、意識の創造性を認め、真理としての概念を取りあげたことを、ヘーゲルは高く評価したのです。しかし他方で、概念は主観にとどまり、客観化する力をもたないと考えています。
 「カントは概念の客観性(概念の対象は真理)をみとめてはいるが、それでもやはり、概念を主観的なものにとどめている」(一三八ページ)。
 これに対し、ヘーゲルは「概念は、自己意識的な悟性の活動、主観的な悟性と見らるべきではなくて、むしろ自然の段階でもあり精神の段階でもある同じ一つの段階をなすところの、即自かつ対自的な概念と見らるべきである」(一三九ページ)と批判しているのです。つまり、「真にあるべき姿」としての概念は、自然(客観世界)の認識の一歩一歩深まりゆく過程を通じて、客観世界から導き出されるものであって、決して単なる主観の産物、空想の産物ではないからというのです。レーニンは「客観的観念論の唯物論への転化の〝前夜〟」(一三九ページ)とコメントしています。

カントは認識能力に限界を設ける

 またカントは、人間の意識のもつ抽象能力が真理に接近することは認めながらも、真理である物自体は、理性によっても認識しえないという、いわゆる不可知論の立場に立っています。  
 「事物をそれが即自かつ対自的にあるがままに認識することはできないし、真理は認識する理性にとって到達できないものである」(一四三ページ)というわけです。これに対してヘーゲルは、真理の認識は可能だという理性を信頼する立場に立ちます。
 ヘーゲルのカント批判に対する、レーニンのコメントをみてみましょう。
 「そこでヘーゲルはカントをまさに認識論的に反駁している。(エンゲルスが、《フォイエルバッハ論》のなかで、カントにたいする反駁の主要点は、それが観念論的見地から可能なかぎりでは、すでにヘーゲルによって語られていると書いたとき、おそらくまさにこの箇所を念頭においていたのであろう)」(一三九~四〇ページ)。
 エンゲルスはカントやヒュームの不可知論の反論をしているのですが、その中で、不可知論に対するもっとも痛烈な反駁は、実験と実践だといっています
 カントの物自体は、いつまでも人間の認識の彼方にあるのではなくて、認識から実践へ、実践から再び認識へをくり返すなかで、やがてはその物自体を認識することができるというのです。カントは、人間の認識能力に限界をつくってしまうのに対し、エンゲルスは、実践を通じて認識の限界は不断に克服され、真理へ無限に接近しうるとして、カントの不可知論を批判したのです。

抽象する思惟は概念にまで到達する意識の創造性

 ここでカントの批判に関連して、抽象する思惟の役割を整理しておきたいと思います。
 まず、抽象による意識の創造性の問題です。ヘーゲルは、「哲学は、出来事の物語りであってはならず、出来事のうちで真なるものの認識でなければならない」(一四二ページ)といっています。「出来事の物語り」というのは、世界をあるがままに認識することを意味しています。世界がどうあるかの真理を知るだけではなくて、世界がどうあるべきかの真理を知ることが哲学の役割なのです。人間の意識は客観的事物の抽象を通じて、新たなものを創造する、あるべき姿を創造するのです。
 「抽象する思惟は、単なる現象としての感性的素材を本質的なものに揚棄し還元するものであり、本質的なものは概念のうちでのみ自己を顕現するのである」(一四一ページ)。
 つまり、抽象する思惟、人間の抽象能力によって、現象のなかに本質や法則を認識するのですが、これはまだ、世界がどうあるかを認識したにすぎません。問題は、本質や法則の認識からさらに進んで、概念の認識にまで前進しなければならない。それによって、抽象能力は最高度に達するといっています。抽象は、事物のなかの真理、抽象的普遍を認識すると同時に、事物を越えた真理、具体的普遍をも認識する。だから概念というものを認識するところに、抽象する思惟の果たすべき役割があるというのです。
 これに対してカントは、客観的事物を抽象することによって認識が前進することを認めながら、一方でそこに限界を設け、「物自体」まで認識することはできないとしました。また他方で、概念をたんなる主観的なものととらえ、客観的事物の抽象をつうじて客観から導き出されるものであることを否定したのです。

レーニンのコメント

 この点についてレーニンが、ヘーゲルをどう理解しているかをみてみましょう。
 「ヘーゲルのカント反駁は本質的にはまったく正しい。思惟は、具体的なものから抽象的なものへ上昇しながら、── もしその思惟が正しいものであれば(NB)(そしてカントは、すべての哲学者と同じように、正しい思惟のことを語っている)── 真理から遠ざかるのでなく、真理へ近づくのである」(一四一ページ)。
 まず第一に、正しい抽象により、真理から遠ざかるのではなく、真理に近づくといっています。「生き生きとした直観から、抽象的思惟へ、そしてこれから実践へ── これが真理の認識の、客観的実在の認識の弁証法的な道程」(同)なのです。いきいきとした直観、つまり、具体的なものから抽象的な思惟へ上昇し、実践を通じて真理への道が開ける。認識と実践の弁証法的な交互作用を通じて真理に到達するのです。
 第二に、正しい抽象の例として、レーニンは、物質、自然法則、価値という三つの例をあげています。価値の展開について「価値は感性の素材を欠いたカテゴリーであるが、需要供給の法則よりもいっそう真理である」(一四三ページ)と述べています。
 需要供給の法則というのは、需要が供給を上回った時は商品の価格が上がり、逆になった時は価格が下がるということです。これに対してマルクスは、価格の本質として価値をみいだしました。価値というのは、感性の素材を欠いたカテゴリーであり、抽象的なものです。しかし、需要供給の法則よりも深いところで価格の本質をとらえたのです。

レーニンのコメントの検討

 こういうレーニンのコメントを検討してみたいと思います。
 第一に、レーニンが抽象のもつ意味に関して正しい抽象とそうでない抽象を区別したことは、レーニンの大きな功績だと思います。人間が思惟することは、事物を抽象化し具体的な事物から離れていくことですが、どの方向にむかって離れるのかが問題なのです。正しい抽象というのは、具体的な事物の真の姿をさぐる唯物論的な認識としての抽象です。ところが、具体的な事物に則さないで、具体的事物からだんだん遠ざかるような抽象もある。その間違った抽象が、いわば観念論の認識論的な根拠になっているわけです。
 唯物論について、「物質が根源であり、意識はその反映である」と説明すると、「そんなのは当たり前のことであり、意識が根源だという観念論を支持する人がいるのか」という疑問に出くわすことがあります。しかし、観念論は意外と身近かであり、だれでも観念論におちいる危険性をもっているから、なかなか消滅しないのです。なぜならば観念論の認識論的な根拠は、人間の抽象能力そのものにあるからです。人間の意識は言語を媒介に形成され、言語は抽象的に事物をとらえます。その抽象が事物からはなれた抽象になると、観念論におちこんでいく。人間の認識にとって抽象は不可避的なものであり、その抽象が唯物論的な抽象か、観念論的な抽象か、二つの道に分かれるわけです。このことを指摘した点は、レーニンの非常に鋭いところです。
 しかし、第二にレーニンが例示している物質、法則、価値(抽象的人間労働)というのは、いずれもヘーゲルのいう抽象的な普遍にすぎません。しかし、ヘーゲルは思惟による抽象をつうじて、抽象的普遍は真の普遍ではなく、具体的普遍にまで到達しうるところに抽象の意義を見出したのです。
 客観的事物を思惟により抽象することによって、真にあるべき姿としての概念(具体的普遍)にまで到達するととらえないと、ヘーゲルのカント批判の意味も明確にならないでしょう。

 

五、論理学は内容と形式の統一

内容と形式

 論理学とは一般的には、形式論理学と考えられています。形式論理学というのは、概念、判断、推理などの思考の形式を議論します。判断というのは、概念と概念の組み合わせです。例えば人間(特殊)という概念と動物(普遍)という概念を組み合わせて「人間は動物である」という判断が生まれます。つまり、判断というのは、二つの概念を結合することによって、真理を認識しようとする思考形式です。
 それから、推理というのは、三つの判断を総合することによって、真理に接近する方法です。例えば、「すべての人間は死ぬ。カイウスは人間である。よってカイウスは死ぬ」という三段論法が、その典型となります。形式論理学は、このように個別概念、特殊概念、普遍概念の結合、組み合わせによって、判断とか推理とかを議論するわけです。形式論理学は、人間が物事を考える枠組みの問題であって中身には関係ない、と考えられています。 概念とか判断とか推理の枠組みそのものは、たんなる思考の形式にすぎないのであって、その枠組みは内容と無関係だと考えられてきました。形式論理学というのは、まさに内容を伴わない形式だけを論ずる論理学とされてきたのです。これに対して、ヘーゲルは内容と形式というのは不可分の関係にあると考えています。例えば、立派な芸術作品というのは、内容と形式が全き統一をなしているのであり、内容と形式が一致しないものは、立派な芸術作品ではないと、いっています。
 形式は立派だけれども、内容がない作品はいくらでもありますし、逆に内容は立派だけど表現形式が未熟だということもあります。すぐれた作品は両者が統一されている。このように内容と形式を切り離すのは誤っており、両者は統一してとらえなければならないと、ヘーゲルは考えるわけです。論理学も思考の形式だけでなく、内容を盛り込まなければ、真理をとらえることにならない。ヘーゲルは「この形式的なものは、それが普通に考えられるよりも、ずっと豊富な規定と内容とを自己のうちに含」(一四五ページ)んでいると述べています。
 アリストテレスが、判断、推理のあらゆる形式を論じたのは、「論理的諸形式がどれだけ真理に適合しているかを研究」したものであって、「この点にアリストテレスの不滅の功績がある」としながらも、「しかし、(そこにとどまっていてはならず、)さらに前進しなければならない」(同)というのです。
 ここでレーニンは、『小論理学』の一六〇節補遺を引用しています。
 「悟性的論理学においては、概念は思惟のたんなる形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである」
 概念というものは、たんなる思惟の形式ではなく、生きた精神をあらわしているというのです。「実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである」(同)。
 レーニンは、次のようにコメントしています。
 「だから、単に思惟の諸形式の記述だけでなく、またたんに思惟の諸現象の博物学的な記述(これは思惟の諸形式の記述とどこがちがうのか)だけでなく、さらにまた真理との一致も」(一四五ページ)。
 博物学的な記述というのは、あらゆる普遍、特殊、個別の組み合わせを判断、推理の形式として、全部網羅するというアリストテレスの作業を意味しています。しかし論理学では、思考の諸形式を論じるだけではなくて、内容としての真理を問題にしなければならないのです。レーニンは「心理学でなく、精神現象学でなく、むしろ論理学=真理の問題」とまとめています。レーニンも論理学を真理認識の学問ととらえているのです。レーニンは「このように理解する時、論理学は認識論と一致する。これは一般に非常に重要な問題だ」(同)と記しています。認識論とはいかに真理を認識し、接近するかを問題にします。論理学は、無知から知、知から真理にいたる認識の前進過程をとらえたものです。

世界と思惟との運動の一般的諸法則

 続いて、レーニンは「世界と思惟との運動の一般的諸法則」(一四五ページ)をまとめていますが、論理学における有論、本質論、概念論の全部のカテゴリーは、全体として、客観的世界と主観的世界の真理としての運動の一般的諸法則を認識し、実践するという過程を述べており、レーニンはそれをつかもうとしているのです。
 「概念は"十全概念"〔実在に完全に照応する概念〕に発展して理念となる。《それの客観性のうちにある概念は、即自かつ対自有的な事がらそのものである》」(一四六ページ)。
 概念(真にあるべき姿)は、人間の意識の創造性によって生まれた主観的なものです。しかしヘーゲルは、たんなる主観的なものは真理だとは考えていません。主観的なものがやがて外にあらわれでて客観的なものと統一するところに真理があり、それを「理念」と呼んでいます。だからヘーゲルにとって理念こそが本当の意味の真理なのです。「客観性のうちにある概念は、即自かつ対自有的な事柄そのものである」とありますが、「即自かつ対自有的な事がらそのもの」とは、絶対的に正しい事柄、絶対的な真理と同じような意味に使っています。概念といえば「真にあるべき姿」であることを、もう一度、ここで振り返っているわけであります。

 

⑴ マルクス・エンゲルス全集㉓a二三四ページ。
  /『資本論』新日本新書版②三〇二ページ。
⑵『小論理学』㊦一二三ページ。
⑶ 同、一一七ページ。
⑷ 「ルソーは、国家の法律は普遍的意志(volonté générale)から生じなけ
  ればならないが、といって決して万人の意志(volonté de tous)である
  必要はない、と言っている」『小論理学』㊦一二九ページ。ちなみに、岩
  波文庫(桑原武夫・前川貞治郎訳)や中公文庫(井上幸治訳)などの邦訳
  はvolonté généraleに「一般意志」という訳語をあてている。
⑸『小論理学』㊦二三六ページ。
⑹ 同、㊤七一ページ。
⑺ マルクス・エンゲルス全集㉑二八一ページ
  /『フォイエルバッハ論』古典選書、三五ページ。
⑻ 同、㊦一二一ページ。

→ 続きを読む