『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第七講 概念論 二 主観性


一 、主観性

主観性の構成と展開

 第三巻「主観的論理学、あるいは概念論」のなかの「第一篇、主観性」に入ります。
 この第一篇、主観性は三つに分かれておりまして、第一が概念、第二が判断、第三が推理となっています。いわゆる、形式論理学で問題になっている概念、判断、推理などを取り扱いながら、そのなかにヘーゲル独自の見解を盛り込んでいます。ヘーゲルの見解の独自性というのが概念そのもののとらえ方にあるということは、前講でお話ししました。
 人間が言語を使って「ものを考える」ということは、この客観世界に存在する個々の事物を抽象化することによって、真理を認識しようとすることであり、この抽象化する過程で概念が生まれてきます。概念も抽象化の程度によって個別、特殊、普遍に分かれます。ヘーゲルの場合、個別を抽象化して得られた普遍を単なる抽象的普遍だと理解し、さらに、もうひとつ上の段階の抽象として具体的普遍というカテゴリーを使うということを前回お話ししたと思います。そして、抽象的普遍と具体的普遍に共通する用語として、概念という言葉を用いているところに、ヘーゲルの独自性があるわけです。そのことが概念、判断、推理を論ずるにあたっても、色濃く出てきます。一般的にいうと概念、判断、推理というのはいずれも思考の形式であり、こういう形式を使って人間は真理を認識していくことになるわけです。そういう意味で形式論理学では概念、判断、推理などを論ずるところから、ヘーゲルも、思考の形式を論ずる主観性において、その区分にしたがって三つに分けています。

主観から客観へ

 こういう過程を経たうえで、「主観性」を終わって第二篇の「客観性」に移行します。主観性から客観性に移行するということは、考え方によっては大変に観念的な考えということになってくるでしょう。つまり、主観の方が先にあって客観は後から生まれてくる、いわば精神が根本で物質は二次的なものだということになってくるわけですから、その意味では観念論的な考え方といってもいいと思います。ヘーゲルの哲学全体もそういう構成になっています。
 エンチクロペティーの構成でいいますと、いま、私たちがやっている論理学が第一部としてありまして、第二部が自然哲学、それから第三部が精神哲学という構成になっています。そこでも論理学の理念が外に現れたものが自然哲学だというのですから、同様に主観が客観に移行するという考え方が表れています。
 このことを押さえたうえで、主観から客観への移行ということにはやはり、一定合理的な意味があることをみておかなくてはなりません。それは何かというと、人間の意識の能動的な作用をみているのです。人間の意識というのは主観そのものです。しかし、主観としての人間の意識は、客観を変革する力をもっています。自然や社会をつくり変える力をもっているわけです。自然や社会を人間の意識にしたがってつくり変えるということは、いいかえれば、主観が客観に移行することなのです。
 とりわけ、そういう社会の変革において重要なのが、理想の実現という問題です。科学的社会主義の政党というのは、未来社会の理想を掲げて、それを現実化しようという運動を展開するわけですから、その意味で、主観から客観への移行を最も重要視しているといえるでしょう。
 ヘーゲルは単なる主観的なものも、単なる客観的なものも、いずれも一面的なものであって真理ではない、真理というものは、主観と客観の同一性が定立されることにあると考えているわけで、これも、また後ほど詳しくお話ししますけれども、変革の立場に立って考えたときに大きな意味のある言葉だろうと思います。

 

二、概念

 以上のような構成でヘーゲルは主観性をとらえているわけですが、まず最初の「概念そのもの」あるいは「主観的概念」に入っていきます。

普遍・特殊・個別

 概念には、先ほどお話ししましたように抽象的普遍(共通する普遍)と具体的普遍があり、具体的普遍とは普遍、特殊、個別が不可分一体の関係にあるものと考えております。ヘーゲルがよく例に出すものに、キリスト教における父と子と聖霊の三位一体論というのがあります。だいたいこれを念頭においてヘーゲルは具体的普遍というものを考えだしたのではないかと思われます。
 父というのは天にいる普遍としての神であり、天にいる神が地上に降りてきて人間となったのが子であるキリストなのです。普遍としての父なる神が、個別としてのキリストに具現化していくのです。キリストははりつけになって死に、死後、復活して聖霊になります。いうなれば、父が普遍であり、キリストが個別であり、聖霊が特殊であると考えればいいのだと思います。いずれにしても、全部、具体的普遍としての神なのです。神が形態を変えているにすぎないのだということを念頭において、概念は普遍、特殊、個別の不可分一体としての具体的普遍であるといっております。
 『小論理学』の一六三節の補遺一の中で、「概念の普遍は自ら特殊化するものであり、他者の内にありながらも曇りない姿で自分自身のもとにとどまっている」 といっています。父と子と聖霊、どんな形態をとっても神なのです。それと同じように、具体的普遍というのは、それが普遍の形をとろうが、特殊という形をとろうが、個別の形をとろうが、全部普遍なんだ、それが概念なんだとヘーゲルは論じているわけであります。
 ヘーゲルがこの論議を通じていいたいことは、大きく二つあるだろうと思います。一つは、真にあるべき姿としての概念が、現実となる必然性をもっているということをいいたいのです。概念が「真にあるべき姿」だということはこれまでに何回もお話ししましたが、真にあるべき姿とは、ここでいう「普遍」なのです。
 真にあるべき姿としての普遍は、普遍のままにとどまっているのではなくて、現実となる力をもっています。現実化とはその普遍が特殊化して個別となるということです。この客観世界にあるものはすべて個別として存在しているわけですから、その普遍が現実化して、真にあるべき姿が現実化するという過程を、具体的普遍が普遍の姿から自らを特殊化して個別になるととらえているのです。
 もう一つは、この普遍、特殊、個別を概念と結びつけることによって、判断と推理というものをへーゲルなりに整理しようとしたわけです。形式論理学の概念というものは、個別から抽象化された特殊であったり、普遍であったりするわけです。けれども、その二つの概念が結合することによって判断というものが生まれる。だから普遍、特殊、個別などが二つずつ結びつくことによって判断が生まれるとみているわけです。また、三つの判断が結合すると推理となる。
 この概念、判断、推理のなかで、普遍、特殊、個別の分離と結合の関係をみるという意味でも、具体的普遍としての概念が普遍、特殊、個別の統一だという議論をする必要があったのではないかと思われるわけです。

 

三、判断

判断は二つの概念の結合

 次に判断に入ります。
 概念の諸モメントである普遍、特殊、個別を区別しながら関係させて、真理を認識しようとする思考形式が判断です。たとえば、人間は哺乳類である、という判断を考えてみましょう。「人間」は特殊で「哺乳類」は普遍です。ですから「人間は哺乳類である」という判断は、「特殊は普遍である」ということになります。
 このように、特殊と普遍という異なる概念をイコールで結びつけることによって、判断というものが生まれてきます。個は個である、普遍は普遍である、特殊は特殊であるなどといったのでは、判断として意味をもたない。本来、同一でない特殊と普遍を同一で結ぶという、こういう矛盾をおかすことによってこそ、判断としての意味をもつのです。
 つまり、判断というのは、異なる概念を同一であると規定する、そういう対立物の統一なのです。最も簡単な命題の中に、既に矛盾が含まれているという、矛盾の普遍性を判断においても示しているわけであります。
 判断は、二つの概念を結合することによって、真理を認識しようとする思考形式ですが、判断の諸種類は、真理認識への諸段階を成しているととらえるところに、ヘーゲルの独自性があります。

真理の諸レベル

 一般的に、弁証法的唯物論の認識論において、真理とは「客観的事実と認識との一致」であるといわれています。この客観的事実と認識とが一致するというのは、いろんなレベルにおいて考えることができるわけで、そこにヘーゲルは着目したのです。真理にはいろんなレベルがあるということを、例をあげて説明してみましょう。
 まず、「定有の判断」として、「今の政権は自公保政権である」という判断をあげてみます。これはこれで間違っていないわけですから、これも真理の一種です。いうなれば、感覚的な認識によって得られる表面的な真理といってもいいでしょう。次のより深い判断は反省の判断です。「反省の判断」というのは、要するに本質の判断といってもいいものです。一歩、深く分け入って、表面的認識から本質の認識にまで立ち入った判断が、反省の判断ということです。先ほどの例を進めれば、「自公保によって担われている自民党政治は財界・大企業優先、アメリカいいなりの政治である」という判断になります。本質にまで踏み込むことによって、より深い真理に到達しています。
 さらに「必然性の判断」というのは、ある事物がもっている類的特徴をとらえた必然的な現象を認識した判断といってもいいでしょう。例えば、「汚職は自民党政治の必然的産物である」という判断は、それに当たると思います。つまり、自民党政治は財界、大企業からの献金で動かされているという類的特徴を認識することによって、自民党政治にとって、汚職というのは必然的だという判断が生じます。こういう判断が必然性の判断というものです。
 ここまでは、ある意味で、客観的な事物のなかにおける真理の認識を示した判断ということになってくるわけですが、ヘーゲルのすごいところは、真理をそこにとどめないで、より深い真理は「概念の判断」であるとしたところにあります。概念の判断というのは、真にあるべき姿を念頭に置きつつ、それと客観的実在とが一致するか否かの判断をするのです。たとえば、「自民党政治は、国民こそ主人公という見地にてらし、真にあるべき政治ではない」という判断です。これは否定的な概念の判断の例となります。
 こういう判断こそが、最も高い真理の判断だということで、判断はここまでこなくては駄目なんだということです。これが、いわゆる価値判断ということです。自民党政治というのはなぜ駄目なのかといったら、国民こそ主人公という真にあるべき政治と一致していないからだということになるわけです。
 良いか、悪いか、だめなのか、だめでないのか、そういう価値判断をしないような判断というのは、判断として本当の値打ちはないのだということを、ヘーゲルはいっているわけです。ここに「価値観の多様性」に安住してしまい、真理の探究を怠る怠惰な考え方を厳しく批判するヘーゲルの態度が表れているのだろうと思います。

 

四、推理

推理は三つの判断の結合

 次に推理の問題に入ります。判断が真理認識の思考方法であると同様に、推理も真理に接近する方法のひとつです。推理というのは、三つの判断の結合による真理認識の方法です。「すべての人間は死ぬものである、カイウスは人間である、だから、カイウスは死ぬものである」(一四八ページ)という三段論法がその典型的な例です。
 大前提の「すべての人間は死ぬものである」というのは普遍を扱っているわけです。個別を全部集めたものが普遍ですから、すべての人間というのは普遍なのです。「カイウスは人間である」というのは、カイウスは人間の一種だというわけですから、これは特殊になるわけです。結論の「カイウスは死ぬ」というのは、個別となります。だから、大前提、小前提、結論というのは、大きくいえば、普遍、特殊、個別を述べたものであり、推理というのは、この三つを結合することによって、真理を認識するのだといっているのです。
 テキストは、「すべての事物は推理であり、特殊性によって個別性と結びつけられているところの、普遍的なものである」(同)とあり、レーニンは「すべての事物は推理である」ことに注意と書いています。要するに推理というのは普遍、特殊、個別を様々な形態で結びつけることによって真理を認識しようとするのです。

帰納推理

 それでは推理の種類と限界をみてみましょう。推理には大きく三種類があります。一つは推理です。帰納推理というのは、例えば、「AもBもCも死んだから、私も死ぬ」という、個別から普遍を推理する方法です。だからAの死、Bの死、Cの死という三つの個別から、人間の死というのは普遍的なものだと推理し、私も死ぬという結論になるわけです。
 こういう帰納推理というのは、個別の積み重ねが推理の前提となっています。しかし、AもBもCも死ぬからといって、そのことだけで「人間がみんな死ぬ」ということは証明できません。いくつかの個別の積み重ねは、決して普遍ではなく、個別の全体のみが普遍なのです。したがって、いくら個別を積み重ねても限界があり、普遍との間には距離があります。だから個別から普遍を推理するこの帰納推理には論理の飛躍があるわけであって、これを一般に「帰納推理の飛躍」といっています。ヘーゲルが帰納推理は本質的に的推理であると述べたことを、エンゲルスが『自然の弁証法』のなかで紹介しています 。蓋然的推理というのは、「まあたぶんそうだろう」という程度の推理だということです。
 実は、いま私が担当している事件で、この帰納推理が問題となっている事件があります。広島で「大手町事件」とよばれている事件なのですが、その犯人とされている人には、直接証拠がなく、状況証拠だけなのです。直接証拠というのは、目撃証人がいるとか、殺した凶器にその人の指紋が残っているというような場合です。これは、直接、犯人と犯罪事実とを結びつけるわけで、そこには推理の働く余地はありません。だからそこには間違いようのない判断が可能となり、ある意味では必然性の判断となります。しかし、状況証拠というのは、犯人と事件とを直接結びつける証拠ではなく、間接的に結びつける証拠にすぎません。いま話した例でいうと、その犯人とされている人が、被害者の物を持っていたとか、その人の服に被害者の血液ではないかと思われるものが付いていたとか、要するに、「疑わしい」というだけの証拠です。
 刑事裁判の大原則は「疑わしきは罰せず」ということです。そういういくつかの間接証拠のみで、どうやって被告人を有罪と認定するのかというと、裁判所は間接証拠を総合的に判断すれば、十分有罪であることを認めることができるといっています。しかし、これは論理の誤りです。というのも、これは帰納推理だからです。被告人に不利益な間接証拠を集めることによって、被告人が有罪だということを帰納的に推理しているわけです。しかしエンゲルスのいうように帰納推理は本質的に蓋然的推理ですから、間接証拠をいくら積み重ね「総合」してみても、「多分そうだろう」ということにとどまり、「疑わしさ」以上のものは生まれてきません。だから、「疑わしきは罰せず」の原則からして、ほんらい無罪の判断を示さなければならないのです。
 帰納推理の蓋然性は、このあと述べる演繹推理で補ってのみ克服できるのです。つまり帰納推理から生まれた普遍、この場合は事件の全体像となりますが、この普遍をおさえ、こんどは逆にこの普遍から演繹して、個々の間接証拠のもつ意味をすべて明らかにし、生命力を与ええた場合にのみ、「疑わしさ」を越えることができるのだと思います。

演繹推理、推理

 そこで、もうひとつの推理方法としての、演繹推理が必要になってくるのです。演繹的推理というのは普遍から個別を推理するということです。「すべての人は死ぬ」という普遍から、「だから私も死ぬ」という個別を推理するのです。すべての人の中には私も含まれているわけですから、すべての人が死ねば私も死ぬのは当たり前なのです。だけど問題なのは、すべての人が本当に死ぬのか、ということになります。この演繹推理の場合には、前提となる普遍そのものが証明されていないという限界をもっています。ですから、帰納推理も演繹推理も真理を認識するうえで限界を持っており、したがって、帰納と演繹の統一が必要となるのです。
 類推というのは、一定の類に属するものが、一定の性質を持つことから、同じ類に属する他のものも同じ性質を持つことを推理するものです。例えば、生物はすべて死ぬから生物の一種である人間もすべて死ぬという推理です。これら三つの推理を使いながら、真理に接近していくことになります。

 

五、レーニンの「主観性」の理解

概念の運動は客観世界の反映

 以上のように概念、判断、推理の三つが「主観性」の内容になっているわけですが、ではレーニンが主観性をどのように理解したのかを、テキストに沿ってみていきたいと思います。レーニンは「このうえもなく抽象的で難解」と悲鳴をあげていますが、それでもレーニンは理解したところを次のようにまとめています。
 「(抽象的な)諸概念を形成し、それらを運用することは、すでにその内に世界の客観的連関の表象、確信、意識を含んでいる」、「概念の客観性、個別的なものおよび特殊的なものにおける普遍的なものの客観性を否定することは不可能である」とし、「したがってヘーゲルは概念の運動における客観的世界の運動の反映を研究するとき、カントその他よりもずっと深いのである」(一四九ページ)と述べています。
 ヘーゲルは客観的世界の連関、運動を諸概念の運動あるいは移行としてとらえている、とレーニンは理解しました。概念、判断、推理は客観的世界における普遍的なものをとらえ、そういうカテゴリーの相互の関連や移行をとらえることによって、真理を認識しようとしたと理解したのだと思います。
 レーニンは、資本論の叙述を念頭におきながら「主観性」を学んでいます。大変有名な文章として、「ヘーゲルの《論理学》全体をよく研究せず理解しないではマルクスの《資本論》、とくにその第一章を完全に理解することはできない。したがって、マルクス主義者のうちだれひとり、半世紀もたつのにマルクスを理解しなかった」(一五〇ページ)というのがあります。
 なぜ、『資本論』第一章を理解するために「ヘーゲルの《論理学》全体をよく研究」することが必要だとレーニンは書いたのでしょうか。
 「単純な価値形態、一つの特定の商品と他の商品との交換という個別的な行為がすでにそのうちに、未発達の形で、資本主義のすべての矛盾を含んでいるように、もっとも単純な概括、(普遍化)、諸概念、(判断、推理等々)の最初でもっとも単純な形成がすでに、世界のますます深い客観的連関を人間が認識していくことを意味する。ここにヘーゲルの《論理学》の真の意味、意義および役割をもとめなければならない。このことに注意」(一四九ページ)と述べています。
 ヘーゲル論理学は、もっとも単純な「有」から出発し、有と無の統一として「成」を論じ、次第に認識の深化に照応する複雑なカテゴリーを議論し、最後は、絶対的真理としての絶対的理念に到達します。同様に『資本論』第一章第三節の「価値形態または交換価値」では、対立物の統一とか、個別、特殊、普遍の移行の問題がとりあげられています。まず商品そのものがとりあげられ、全ての商品は抽象的人間の労働のあらわれとしての価値と、具体的人間労働による使用価値という対立物の統一から成っていることが明らかにされます。そして、商品に内在する価値は、商品交換の過程のなかで、二つの価値形態として表面化し、相対的価値形態と等価形態という対立物の統一が議論されます。
 さらにそのなかの等価形態の問題も、個別的な等価形態から一般的等価形態(これは特殊的な等価形態といってもいいと思いますが)、さらに普遍的な等価形態としての貨幣形態に発展するということをみているわけで、それがまさに個別から特殊、特殊から普遍への移行を示しているのです。こうして、相対的価値形態と等価形態の対立は、商品一般と貨幣の対立となってくるのです。さらに絶対的剰余価値の生産は、労働力という特殊な商品の売買によって生まれてくるわけですが、それは流通から発生しないと同時に流通から発生するという矛盾のあらわれであり、この剰余価値の生産に資本主義的搾取の根源があるのです。
 こういう点から、レーニンは単純な商品の分析のうちに、未発達な形で資本主義の全ての矛盾を含んでいると述べたのでしょう。
 「もっとも単純な概括、諸概念の最初でもっとも単純な形成がすでに、世界のますます深い客観的連関を人間が認識していくことを意味する。ここにヘーゲルの《論理学》の真の意味、意義および役割」(一四九ページ)があるというのは、資本主義社会における最も単純な概念としての商品の分析を通じて、剰余価値の生産と搾取という資本主義のもっとも深い矛盾の根源を明らかにしたやり方を、ヘーゲルやマルクスから学ばなければならないのだ、ということをいっているのです。
 またレーニンは、ここでヘーゲルの「唯物論的な」認識論をとらえています。
 「ヘーゲルは実際に、論理学上の諸形式および諸法則が空虚な外殻ではなくて客観的世界の反映であることを証明した。いっそう正確に言えば、証明したのではなくて、天才的に推測したのである」(一五一ページ)といっていて、ヘーゲルが概念とか法則とかいっているのは、客観的世界の反映であり、しかも客観的世界の真理をそういう抽象化された普遍としてとらえているのだと認識しているわけです。
 次がこれまでのまとめです。
 「論理学は認識についての学説である。認識論である。認識は人間による自然の反映である。しかしそれは単純な、直接的な、全一的な反映ではなくて、一連の抽象の過程であり、諸概念、諸法則などの定式化、形成の過程であり、そしてこれらの概念、法則など(思惟、科学=論理的理念)こそは、永久に運動し発展している自然の普遍的な合法則性を条件的、近似的に把握するものである」(一五二ページ)。
 つまり、いかにして真理を認識するのかという、真理認識の過程を述べたものが論理学なのだということをおさえたうえで「認識とは何なのか」を問題にします。それは自然の反映であり、どのように反映するのかというと、それは抽象化することによって反映する、その抽象化してえられたものが概念とか、法則というものであり、この概念や法則によって自然を条件的、近似的に反映するのだというのです。
 現実のもつ豊かさをある意味では切り捨てる意味でも、運動する現実を静止してとらえる意味でも、物事を抽象化し、かつ固定してとえらえる法則というものは、狭くて不完全で、近似的である、ということになります。
 さらに、「人間の認識における自然の反映の形式である、この形式がもろもろの概念、法則、カテゴリーなどである。人間は、自然を全体として完全に……反映する=模写するすることはできない。人間は抽象、概念、法則、科学的な世界像、等々をつくりながら、永久にそれに接近していくことができるだけである」(一五二~三ページ)と、まとめています。
 つまり、認識は自然の反映であり、一連の抽象の過程を経てえられた諸法則を通じて認識するのだけれども、完全には認識しつくすことはできず、そういう法則を使って、自然に永久にかつ無限に接近していくことができるだけなのだというのです。

レーニンの「主観性」の理解

 このようにレーニンは、主観性について、わからない、難しいといいながらも、唯物論的反映論を読みとったり、ヘーゲル論理学と資本論の叙述に弁証法的類似性を読みとるなど、鋭い読みとりをしています。しかしそれとともに限界もあることを指摘しないわけにはいきません。それは、「概念」を単に抽象的普遍ととらえて、具体的な普遍としてはとらえていない点です。
 ヘーゲルは人間の意識の働きとして、個別から出発しながら、それを特殊に、さらに抽象的普遍に上昇するだけではなくて、そこから具体的な普遍にまで上昇していったわけですけれども、レーニンは、このあたりまではまだ正確にはつかんでいません。それは、認識論における変革の立場という点でも弱点になっています。つまり、ヘーゲル論理学の概念論の諸法則を、「人間の主観的意識における客観的なものの反映」にとどめ、「概念」が「真にあるべき姿」という変革の立場における真理、とまではとらえきっていないのです。いわば認識論が客観的事実にかかわる真理の認識に限定されているので、変革の立場や意識の創造性の問題を真理の問題と結びつけて論ずるということになっていないのです。しかし、レーニンは、これ以降の部分の学習で、次第にこの限界を克服していくことになります。
 さて、そういうことを述べたうえで、この主観性のなかでレーニンがとりあげているいくつかの重要な点について補足しておきたいと思います。
 一つは『エンチクロペティー』のなかで述べている、悟性概念と理性概念の区別の問題です。ヘーゲルは、悟性が、概念を一面的な規定性においてとらえるのに対し、理性は、概念のなかにおける対立物の統一をとらえるとして、自由と必然の問題を論じています。
 「たんに概念の否定的で抽象的な形式のもとに立ちどまるか、それとも概念を、その真の本性にしたがって、同時に肯定的で具体的なものとして把握するかは、われわれの行為によるのである」(一五一ページ)。
 例えば、自由は自由、必然は必然というふうにとらえるのが悟性概念であるのに対して、理性概念では必然性を認識し支配するところに自由があるというとらえ方なのです。つまり、自由と必然性という対立物を、その統一においてとらえ、自由というのは必然性を「われわれの行為によって」止揚したところにあるととらえるのです。概念のなかにも悟性概念と理性概念があるのだけれども、対立物をバラバラにとらえる悟性概念ではなく、対立物をその統一としてとらえる理性概念こそ、より深い認識だという箇所に注目し、レーニンは抜き書きしています。
 またヘーゲルの二元論批判も取りあげています。「普通の論理学では思惟が形式主義的に客観性から切り離されている」(一五三ページ)。普通の論理学では、主観は主観、客観は客観というふうに切り離されていますが、ヘーゲルはそれが気にいらない。主客の相互作用を通じてのみ、真理は実現されると考えているわけです。理想が理想として、人間の頭の中だけにとどまっているのも本物ではなく、また、客観は客観にとどまるかぎり本当の姿ではないから、変革の対象になるのだと考えているわけです。ですから、「思惟はここでは単に、主観的で形式的な活動と考えられ、そして思惟に対立する客観的なものは、或る固定したもの、独立に存在するものと考えられている。しかしこのような二元論は真なるものではない」(同)となります。
 レーニンは「主観性と客観性とを固定的で抽象的な対立と見るのは誤っている。両者はまったく弁証法的である」(一五四ページ)という箇所に二本線を引き、NBと書いています。主観と客観とは区別されながら同一を定立していく運動であり、それを媒介するのが実践なのです。主観性と客観性とを、固定的で抽象的な対立とみるのは誤っており、弁証法的に主客一元となるのです。この主客一元を実現する実践の問題に注意を払ったところにヘーゲル哲学の独自性があり、レーニンもこの点に重大な関心を寄せているのです。

 

⑴『小論理学』㊦一二八ページ。
⑵ マルクス・エンゲルス全集⑳五三五ページ。
  /『自然の弁証法』②、国民文庫、三一一ページ。

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