『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第九講 概念論 四 理念


一、理念の構成と展開

 概念論の「理念」に入ります。
 概念論は、主観的概念、客観的概念そして理念という三つに分かれています。主観的概念と客観的概念を統一したものが理念となります。理念には、特別に「理念の序説」があり、その序説をうけて、生命、認識の理念、絶対的理念の三つに展開していきます。
 まず「理念の序説」では、理念とは何かを問題にしています。「真にあるべき姿」は、まず主観的に頭の中に描かれる「主観的概念」として存在するに至ります。それが客観となってあらわれたものが理念です。真にあるべき姿が客観化した理念を、ヘーゲルは真理と呼んでいます。しかし唯物論の見地からすると、真理は「認識」の問題にとどめるべきものであって、客観的現実と一致する認識を意味しています。ただ、客観に一致する認識という場合も、これまでにも話してきましたように、客観的世界をそのまま正しく反映する認識と、客観世界をとびこえて「真にあるべき姿」を認識するものとに分けることができるわけです。
 真理が認識の問題であるならば、ヘーゲルのいう理念をどう理解するのかといえば、それは認識としての「真にあるべき姿」(真理)が客観となってあらわれたもの、ととらえればいいと思います。
 次に、「生命」とは何かということになるわけですが、論理学のなかに「生命」というカテゴリーがあることを奇異に感じられるかもしれません。しかし、ヘーゲルが「生命」というカテゴリーで表そうとしているのは、主観的概念と客観との統一であり、いいかえれば概念を内的目的として持つような客観のことなのです。ですから、いわゆる動物や植物などの生命体だけを意味しているのではなく、社会や国家や民族など、人間社会における有機体、組織も含まれている。「含まれている」というより、人間社会における社会的存在を生命体ととらえ、それがいかにあり、いかにあるべきかを認識していくことが「生命」の主要な課題であろうと思われます。
 ですから、ここで、概念を内的目的としてもつ国家とは何か、いいかえれば国家の「真にあるべき姿」は何なのかということが探究されます。やがてこの試みは、ヘーゲルの主著の一つ『法の哲学』に結実することになります。
 次の「認識の理念」では、人間という主体を中心にすえ、「真にあるべき姿」を主観的概念として認識し、かつそれを実践によって客観化するという過程をとらえています。認識と実践を媒介とした主観的概念と客観的概念の同一を定立することによって真理を実現する主体的な活動を述べているのです。ですから、ここでは、概念の認識、概念に基づく実践ということが当然重要な課題になってくるわけです。また、その概念を認識する方法として分析と総合についてもふれています。
 最後の「絶対的理念」は、絶対的真理といってもいいものです。つまり絶対的真理認識の「方法」としての弁証法が語られています。
 「理念」の構成の概略は以上ですが、「認識の理念」と「絶対理念」はレーニンのノートの中心部分をなしています。レーニンがヘーゲルからもっとも深く学び、弁証法的唯物論の完成を目指した個所だといっていいでしょう。

 

二、理念の序説

理念は、概念と実践の統一

 それではテキストに入りましょう。
 まず「理念の序説」です。
 理念は「客観的な真なるもの あるいは真なるものそのもの」が、ヘーゲルから引用され、そのあとにレーニンは「一般に論理学の第二部(〝主観的論理学〟)の第三篇(〝理念〟)の序説、……およびこれに対応する《エンチクロペディー》の諸節(二一三節―二一五節)は弁証法のおそらく最良の叙述である。ちょうどここで、言わば論理学と認識論との一致がすばらしく天才的に示されている」(一六二ページ)と書いています。
 理念というのは、客観的に真なるものです。理念は、ドイツ語でIdeeであり、プラトンのイデアに由来する言葉です。「〝理念〟という表現は単なる表象の意味にももちいられている」。例えば、「この建物には何の理念もない」といういい方をする場合です。しかし、ヘーゲルは理念をイデアとして理解すべきだと考え、「カントは理念という表現をふたたび理性的概念(Vernunftbegriff)の意味にもちいることを要求した」(一六二ページ)といいます。
 しかしヘーゲルの「理念」は、カントのこの見地を引き継ぎつつも、次の意味で決定的に違っています。カントは、理念すなわち理性的概念は、「現象に関しては超越的」(一六二ページ)であり、非現実的なものだというのに対し、ヘーゲルは理念をイデアが現実化したものと考えており、現実とのかかわりのなかにこそ理念の意義をみいだしています。すなわち、「もし逆に、理念は現象にかんしては超越的であるから、また理念にはそれと一致する対象が感性界には与えられないから、理念は真理の価値をもたないとされるならば、それは妙な誤解である」(一六三ページ)と批判しています。
 カント批判からヘーゲル自身の「理念」についての積極的見解が展開されます。
 まず、「理念は概念と客観性との統一であり、真なるものである」(同)ことが明確にされます。真にあるべき姿が、客観性をもつに至ったものが理念であり、それは真なるものである、というのです。理念を「一種の彼岸としてとどまっているというような目標にすぎないものと見るべきではなく、むしろ、すべての現実的なものは、それが理念を自己のうちに含み理念を表現するかぎりにおいてのみ存在するものと見られなければならない」(同)。
 理念というのは確かにイデアとして客観世界を超えるものですが、客観世界の向こう側に客観世界と切り離されて存在するものではなくて、それは、現実の中にあらわれ出てきて、現実の存在根拠となるものなのだというのです。レーニンはこの部分に「ヘーゲル対カントの〝彼岸〟」と書いてますが、これが、ヘーゲルの哲学の核心部分なのです。それを『法の哲学』の序文では「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」 といったわけです。必然的な現実は、その中に理念(理性)を含んでいるのであり、また逆に理念というのは現実になる必然性をもっているのだというのです。
 続いて読んでみますと「対象すなわち客観的および主観的世界は、一般に、理念とたんに一致しなければならないばかりでなく、むしろそれ自身概念と実在性との一致である、概念に照応しないような実在性は単なる現象であり、真理でないところの主観的なもの、偶然的なもの、恣意的なものである」(一六三ページ)とあります。真なるものというのは、概念と客観性とが一致したものであって、「真にあるべき姿」である概念と一致しないような客観は偶然で恣意的な存在にすぎない、というのです。
 つまり、この客観世界に存在するものののなかに「真にあるべき姿」の萌芽が多様な形で隠されているのです。そして「真にあるべき姿」は、現実のなかから必然的な法則的発展として姿をあらわしてくるのであり、それを真理だととらえるのです。ですからレーニンは「概念と事物との一致は主観的ではない」(一六三ページ)と書き込んだのです。

理念の諸規定と区分

 一六四ページからは、理念全体(生命、認識の理念、絶対的理念)のまとめともいえるところです。レーニンは左側にヘーゲルからの引用をし、右側に自己の見解を対置しています。
 まず、ヘーゲルの立場から見てみると「理念は第一には単純な真理であり、概念と普遍的なものとしての客観性との同一性である」とあります。これは「生命」のことです。「第二にそれは単純な概念の対自有的な主観性と、それとは区別された概念の客観性との関係である」。これが「認識の理念」です。「前者は本質的にこの分離をなくそうとする衝動である」とありますが、実践というのは、主観的な真なるものを客観にしようとして主観と客観の統一をはかる「衝動」だというのです。
 そして、第三は「絶対的理念」について、「真理を、死んだ静止として、無気力な、衝動と運動とを欠く単なる映像として……考えてはならない」(一六四ページ)と述べています。ヘーゲルは真理の認識を相対的真理から絶対的真理に向かって運動しつづけていく過程ととらえているわけです。主観と客観の対立と統一(認識と実践)を繰り返しながら、相対的真理から絶対的真理へ前進していく過程が絶対的真理であり、この真理認識の方法が弁証法なのです。
 「理念の静止は、理念がたえず対立を生みだし、またたえずそれを克服し、そして対立のうちで自己自身と合致する、その堅固さと確実さにあるのである」(一六四ページ)。たえず主観と客観との間に対立を生み出し、それを実践を媒介に克服して統一を実現し、そして統一のなかからさらにあらたな対立を生み出すという過程を通じて、理念は実現されていくのです。客観的事物のなかから「真にあるべき姿」を認識し、それを実践し客観化していく。しかし、それで終わるのではなく、その客観からまた「真にあるべき姿」という主観が導き出され、さらにまたそれが実践されて客観が変化していくという無限の過程を経るのです。そういう客観から主観へ、主観から客観へという、不断の対立と統一を繰り返しながら前進していく過程、それが理念なのです。

レーニンの理解

 レーニンはこのヘーゲルの「理念の序説」をどのように理解したのか。ここのところはレーニンの理解がやや不十分な箇所です。理念を単に人間の認識と理解して、人間の認識は客観を反映して、それを抽象的な普遍である理念としてとらえるものだと理解しております。
 だから人間の認識は、主観と客観の分離をなくそうとする衝動を持ち、「理念は自己の内にもっとも強烈な矛盾をさえもっており、(人間の思惟にとっての)静止は、人間がたえず矛盾(思想と客観とのこの矛盾)を生み出し、またたえずそれを克服する、その堅固さと確実さにあるのである」(一六四ページ)とまとめています。
 ヘーゲルが理念において「世界はどうあるべきか」という真理の認識と実践を問題にしているのに対して、レーニンは「世界はどうあるか」という真理の認識にとどまっているのです。ですから、レーニンは、人間の認識がどう前進するのかを一般的に議論するにとどまり、「真にあるべき姿」がいかに実現されるかという観点はここにはみられません。「認識とは、思惟が客観に不断に、無限に接近していくことである。人間の思想における自然の反映は、〝死んだ〟〝抽象的な〟運動を欠いた、矛盾のないものとして理解してはならず、運動の不断の過程、矛盾の発生と矛盾の解決との不断の過程の内にあるものとして理解しなければならない」(一六五ページ)と言うにとどまっています。

弁証法の最良の叙述

 いわゆる『小論理学』(エンチクロペディーの第一部)において、『大論理学』の「理念の序説」に対応するのは、二一三節から二一五節です。この部分をレーニンは「弁証法のおそらく最良の叙述」と言いました。
 まず二一三節。この節の補遺を先に紹介しておいた方がわかりやすいでしょう。
 「真理と言えば、人はまず第一に、或るものがどういう風にあるかを知ることだと思っている。しかしこれは単に意識との関係における真理にすぎず、言いかえれば、形式的な真理、単なる正しさにすぎない」
 つまり、「あるものがどういうふうにあるかを知る」というのは、客観的実在をそのまま反映する認識のことをいってるのですが、それは単なる正しさの問題だといってるわけです。それは「形式的な真理」であり、浅い認識にすぎない。これに対し、「より深い意味における真理は、しかし客観が概念と同一であること」です。「より深い真理」というのは、客観が「真にあるべき姿」(概念)と一致することに他なりません。
 「例えば真の国家、真の芸術作品といわれる場合、そこで問題になっているのは、こうしたより深い意味の真理である。それらは、それらがあるべきものである場合、すなわち、それらの実在がそれらの概念に一致している場合、真である」
 真の国家というのは、国家の真にあるべき姿にその国家(客観)が一致していることをいうのです。ですから、「真の社会主義国家」という場合、社会主義の真にあるべき姿にその国家が一致していることを意味することになります。
 ヘーゲルが「あるものがどうあるか」を知ることと、「あるものがどうあるべきか」を知ることとは区別すべきものであり、後者こそ最高の認識だととらえている点が非常に重要です。客観的に存在する個々の事物のなかに、否定的なものも含め、理念へと進む萌芽があり、そのなかに「真にあるべき姿」をみいだすのです。ここに未来社会を見つめるヘーゲルの変革の立場が明確に示されています。
 しかし、レーニンは概念を「世界がどうあるべきか」ではなく、「どうあるか」ということについての真理として理解したうえで、「現象、現実性のすべての側面の総和とそれらの(相互)諸関係── これからこそ真理は構成される。もろもろの概念の諸関係(=諸移行=諸矛盾)=論理学の主要な内容、しかもこれらの概念(およびそれらの関係、移行、矛盾)は、客観的世界の反映としてしめされている。事物の弁証法が理念の弁証法を創造するのであり、その逆ではない」(一六六ページ)とのべています。
 真理は客観世界におけるすべての側面の総和と相互諸関係からなっており、それを人間の意識に反映して概念としてとらえたものが概念の弁証法だという唯物論的反映論の見地から概念を論じております。その左側に「ヘーゲルは事物(現象、世界、自然)の弁証法を、概念の弁証法の中で天才的に推知した」と書き込み、ヘーゲルが理念の中で、概念の弁証法を述べているのは、客観的世界の弁証法を反映したものとしてとらえているわけであります。
 レーニンはさらにこの点を展開して、「この警句はもっと平易に、弁証法という語を使わないで言いあらわされるべきであったかもしれない」として、次のように述べています。
 「ヘーゲルは、すべての概念の変換、相互依存性のうちに、それらの対立の同一性のうちに、或る概念の他の概念への移行のうちに、諸概念の不断の変換、不断の運動のうちに、事物、自然のまさにそのような関係を天才的に推知した」(一六六ページ)。
 概念の論理学は、客観世界における事物の連関と移行と関係が人間の主観に反映したものとして理解をしているのです。
 ここから、いよいよレーニンは概念の弁証法はどうあるのかという弁証法の一般的考察に入っていきます。事物の弁証法ではなく「概念の弁証法」の考察であり、「弁証法はどういう点にあるか?」の見出しで、次のように述べています。
 「諸概念の相互依存性
  すべての概念の、例外なしの、相互依存性
  諸概念の一から他への移行
  すべての概念の、例外なしの、一から他への移行
  概念と概念との対立の相対性……
  概念と概念との対立の同一性」(一六六ページ)
 レーニンがここで何をいいたかったのかは、必ずしも明確ではありません。しかし、これまでくり返し、事物の弁証法を反映したものが概念の弁証法だとしていることから考えると、客観世界の事物が普遍的連関のなかにあって不断に運動、変化、発展しているのに対し、事物を連関から切りはなし固定的にとらえる概念は、対立物の相互依存、相互移行、対立物の同一として運用しないと客観的事物の真理を認識できないと考えたものでしょう。レーニンが以上の点をメモした右側に、「NB おのおのの概念は他のすべての概念と一定の関係、一定の連関のうちにある」と書いていることからも、運動する事物をとらえるうえでの概念の弁証法的運用を念頭においたコメントとみることができます。
 次に、『小論理学』の二一四節に入ります。
 ヘーゲルは、「理念は理性として(これが理性にとっての本来の哲学的意義であるが)、さらに主観ー客観として、観念的なものと実在的なものとの、有限的なものと無限的なもの、心と肉体との統一」(一六七~八ページ)として理解しうると述べています。理念(理性)というのは真理であり、真理というのは対立物の統一としてのみ存在するというのです。主観と客観の統一、有限と無限との統一、心と肉体との統一、そのように対立してるものを統一においてとらえるところに真理があり、対立物の一方をとらえるだけではだめだということがいいたいわけです。
 物事を全面的にみる見方は、対立する両契機の一方のみをみるのではなく、両契機をともにみてその統一のなかに真理を見出すのであり、それがつまり対立物の統一ということです。レーニンは、この箇所について、「(理念)真理は全面的である」という、すぐれたコメントを付しています。

理念についての二重の誤解

 続いて、対立物の統一を真理とする弁証法(理念)について「悟性が理念を取り扱うときそれは「二重の誤解」をする」(一六八ページ)、とヘーゲルはいいます。
 第一の誤解は、「理念の二つの端項を――…それらの具体的な統一のうちにではなくて、この統一の外にある抽象物であるという意味及び規定において、理解する」(一六九ページ)こと。例として、「個別的なものは同様にまた個別的なものではなくて普遍的なものであると陳述するところの判断における繋語の本性をさえ見おとす」ことをあげています。判断というのは、個別と普遍をイコール(等号)で結ぶことです。「この犬は動物である」という場合、この犬というのは個別であり、動物というのは普遍です。両者が「は」で結ばれていますが、「は」はイコールを意味しています。個別と普遍とは異なる概念ですから、本来イコールで結ばれるというのはおかしいはずなのに異なるものを同一だとすることによって、初めて判断としての意味をもつのです。判断そのものが、「対立物の統一」をとらえる弁証法なのです。しかし、第一の誤解は、対立物を同一とするのは、事物の本性にもとづくものではなく、人間が外から押しつけた関係と考えるのです。
 レーニンは、この判断の弁証法の例が気に入ったようで、「すばらしい例」とメモしただけでなく、「弁証法の問題について」でも弁証法一般の叙述は、「もっとも単純なもの、もっとも普遍的なもの、もっとも大量的なも
の、等々からはじめること」と言って、「木の葉は緑である、イワンは人間である」という任意の命題からはじめるべきであり、「既にここには(ヘーゲルが天才的に認めたように)個別的なものは普遍的なものであるという弁証法がある」(三二八ページ)といっています。
 第二の誤解は「自己同一的な理念がそれ自身の否定的なもの、矛盾を含んでいるという自分の反省を、理念自身には関係のない或る外的な反省と考えている」(一六九ページ)ところにあります。矛盾を、客観的事物の中に存在しているものではなくて、人間の頭の中に存在するだけだととらえる誤解です。これに対し、ヘーゲルは「理念はそれ自身弁証法である」として「この弁証法は、自己同一的なものを差別的なものから、主観的なものを客観的なものから、有限的なものを無限的なものから、心を肉体から、永遠に分離し区別し、そしてこのかぎりにおいてのみ永遠の創造であり、永遠の生動であり、永遠の精神である」(同)ととらえています。すべての事物は対立物の統一として存在し、対立、矛盾をうちに含んでいます。対立、矛盾を含んでいるからこそ、「永遠の創造、永遠の生動」が生ずるのです。レーニンは「弁証法は人間の悟性のうちにではなく、理念すなわち客観的現実のうちにある」と理解し、「"永遠の生命"=弁証法」とコメントしています。客観世界でも主観世界でも、運動、変化、発展する内的要因は対立と矛盾であり、矛盾を「外的反省」としたのでは、事物の自己運動の要因をとらえることはできません。

理念は過程である

 続いて二一五節です。ここでは「理念はその本質上過程である」という問題をとりあげています。理念は主観と客観の統一として、それ自身発展するものであり、その発展的段階に応じて、①生命、②認識の理念、③絶対的理念とすすんでいく過程なのです。
 「〔ヘーゲルによれば〕思惟と有、有限的なものと無限的なもの、等々の〝統一〟という表現は誤り、というのは、それは静止したままでいる同一性を表現するからである。有限的なものが無限的なものを、また逆に〔無限的なものが有限的なものを〕ただ単に中和するというのはまちがっている。現実にわれわれの持っているのは過程である」(一六九~七〇ページ)とレーニンはメモ書きし「これにNB」と三本線を引いています。
 対立するものを止揚して新しい統一がうまれ、その中にまた新しい対立がうまれる、さらにそれを止揚してまた新しい統一がうまれる、という過程を不断にくり返すことを通じて、理念は発展していくのです。つまり、このような対立物の統一と矛盾により生命も進化し、認識と実践も前進し、相対的真理から絶対的真理へと接近していくのです。
 レーニンは、これをふまえて「真理は過程である。人間は主観的理念から〝実践〟(と技術)を経て客観的真理へ進んでゆく」(一七〇ページ)とまとめています。ここで「客観的真理」という言葉が初めて出てきます。レーニンはここでは、これまでと違って「客観的真理」という概念を、認識(主観)としての真理が客観となってあらわれるという意味で使っています。一般的には、真理は客観を正しく反映するものとして理解されていますが、レーニンがこのあたり以降、いわばヘーゲル的な意味合いで「客観的真理」を使いだしているところに注目して下さい。
 それで、レーニンが理念の三段階をどうみているかの問題ですが、レーニンは認識論的に理解しようとしています。「生命は脳髄を生む、人間の脳髄のうちに自然が反映される。人間は、これらの反映の正しさを自己の実践および技術のうちで検証し、適用しながら、客観的真理に到達する」(同)。認識は生命体にはじまり、生命から出発して生命としての人間の認識、実践を経て、客観的真理に至るととらえているのです。だからレーニンの理解は、「生命」を人間のことだけにせばめてしまっている。しかし先ほども述べたように、ヘーゲルは「生命」概念をもっと広義にとらえているのです。 

 

三、生命、認識の理念

生命とはなにか

 第一章「生命」に入ります。
 論理学で生命を議論する意義についてレーニンは、「論理学の対象が真理であり、そして真理そのものが本質的に認識のうちにあるとすれば、認識について論じなければならない。── この認識との連関からしてすでに生命について語らなければならない」(一七一ページ)といっています。つまり、なぜ理念において生命を議論するのかというと、真理を問題にする論理学は、真理を認識すべき主体をとらえる必要がある。それが人間であり生命である。だから生命から出発しなくてはならないというのがレーニンの理解です。しかし、ヘーゲルは、概念(真にあるべき姿)を内的目的としてもつ客観(つまり主観的概念と客観との統一)が生命である、ということがいいたかったわけで、生命としての人間の脳髄を議論して次の認識へ移行するために生命を扱ったわけではないと思われます。
 ヘーゲルがいう生命というのは一般的な有機体、生命体だけではなくて、あらゆる社会的有機体をとらえているわけです。だから広島県労働者学習協議会というのも、りっぱな生命なんです。科学的社会主義の基礎理論を普及するという、高邁なる内的目的を持って運動する生命体としてあるわけです。生命体というカテゴリーは、人間が社会を認識するうえで必要なものなのです。
 
認識の理念=客観的真理の実現

 次に、第二章「認識の理念」に入ります。
 認識の理念は、まず、一般的説明があり、A節「真の理念」で認識の問題と分析と総合の問題を扱い、B節「善の理念」で実践の問題が扱われています。
 まず、「認識の理念」とは何かといえば、概念を目的として掲げ、主客の同一を定立する認識と実践を意味しています。客観をそのまま主観へ反映するという方向に向かう主客の同一の定立が「認識」です。これに対し、主観から客観へ向かう主客の同一の定立、つまり主観の客体化が「実践」です。いずれも概念を掲げながら主客の同一を定立する活動なのですが、方向の違う主客同一の定立であり、この両者の統一により「認識の理念」(客観的真理)が実現されるというのです。
 ヘーゲルは、「対立したものが概念のうちで絶対的に統一されているということが、精神の本質を構成している」(一七三ページ)といっていますが、「対立したもの」というのは主観と客観の対立であり、「概念のうちに絶対的に統一される」というのは、概念(真にあるべき姿)を媒介として主観と客観の統一としての客観的真理が実現されるということです。いいかえれば、まず客観のなかから「真にあるべき姿」が認識される、そのことによって主観と客観の同一性が定立される。次に認識としての概念が実践をつうじて主観が客体化されることによって、主観と客観の統一としての客観的真理が実現される。どちらの方向からしても、主客の同一性の定立は概念を媒介としているのです。そのことを「対立したものが概念のうちで絶対的に統一されている」ということが、「精神の本質を構成している」、つまり人間の活動の本質を構成しているといっています。
 次に、「カントに反対するヘーゲル」というレーニンの見出しがありまして、客観的真理にかんするヘーゲルのカント批判が紹介されています。ヘーゲルの「客観的真理」に相当するものは、カントでは「自我」(Ich)です。ヘーゲルはカントが自我をもち出したのはよいとしても、その自我のとらえ方がおかしいと批判します。レーニンは「すなわちカントにあっては〝自我〟は認識過程の具体的な分析を欠いた空虚な形式である」(一七四ページ)とヘーゲルの批判を要約しています。
 「〔彼によると〕自我の本質――物自体が認識されるべきであるから、この自我からはすべての経験的なものを取りのぞかねばならない。そして残るものはただ、すべての表象に伴っている我思うという現象だけとなり、── この我思うについて我々はほんの少しの概念さえも持っていないというのである」(同)。
 本来客観的真理は、真理を探究する認識と実践の相互作用をつうじて実現されるものです。しかしカントの「自我」(概念)は自己のうちに沈潜する単なる主観的なものにとどまり、客観世界との関わりを持たない「空虚な形式」にとどまっているのです(第六講参照)。これに対しへーゲルは、概念はじっとしているものではなく、それを媒介にして主客の同一化が定立されるという、主体としてとらえています。つまり、ヘーゲルは「客観的真理」を人間という主体が、概念を媒介にしながら主客の統一(同一)を実現していく過程としてとらえているのです。人間は認識と実践をくり返しながら、だんだん客観世界を真にあるべき姿にむかってつくり変えて、自然や社会の合法則的発展を実現していく、そういう主体なのです。これに対しカントのいう自我というのは先験的な主観にすぎず、真理を我思うというにとどまっている。ヘーゲルは「我思う」という現象にとどまるならば、「概念と哲学とを断念することを意味する」(一七五ページ)と批判しています。単なる主観にとどまっていたのでは、客観的世界をそのまま追認することになり、哲学する意味がないのです。やはり、人間は自然や社会を変革する主体にならなければならない、主体としての概念をとらえなければならないということを、ヘーゲルはいいたいわけです。
 レーニンは、どの点にヘーゲルがヒュームとカントの懐疑論を見ているのかという点に関し、「おそらくヘーゲルは懐疑論をここではつぎの点にみている。すなわちヒュームとカントが〝現象〟のうちに現象する物自体を見ず、現象を客観的真理から切りはなし、認識の客観性を疑い、すべての経験的なものを、物自体から切りはなし、取りのぞいているその点に」(同)と、コメントしています。「我思う」と思ってるだけでは客観的真理に接近することはできないのであり、実践して主体的に活動しなかったら真理に接近することはできず、不可知論におちいってしまうのです。

概念的把握

 それで、次を読んでみますと、「たしかに承認されねばならないことは、われわれが概念的に把握しないで、ただ単純で固定的な表象と名まえとにとどまっているかぎり、われわれは自我についても、なにものについても、さらに概念そのものについてさえも、少しの概念をも持たないということである」(一七四~五ページ)という箇所に注目して、「概念的に把握するためには、この概念的把握を、研究を、経験的にはじめ、経験から普遍的なものへとのぼっていかなければならない」(一七五ページ)とコメントしています。ヘーゲルは「概念」を「真にあるべき姿」としてとらえ、自己の哲学体系の中枢に位置づけました。そして、概念(Begriff)に即して対象をとらえることを、概念的把握(Begreifen)と呼びましたが、マルクスもヘーゲルの用語法を継承し、一般的な意味の把握(Auffassen)と区別して、特別な意味をもたせました。
 例えば、『経済学・哲学草稿』で「国民経済学は私有財産という事実から出発する。だが国民経済学はわれわれに、この事実を解明してくれない。国民経済学は、私有財産が現実のなかでたどっていく物質的過程を、一般的で抽象的な諸公式でとらえる。その場合これらの公式は、国民経済学にとって法則として通用するのである。国民経済学は、これらの法則を概念的に把握しない」 と述べています。
 つまり、これまでの経済学は、なぜ資本主義が搾取を生み出すのか、資本主義の本来あるべき姿(概念)から解明されていないと批判をしているのです。マルクスは、貨幣が国内流通部門から外へ出て、世界貨幣となるとき、「貴金属の元来の地金形態に逆もどりする」と述べたうえで、「貨幣の定在様式はその概念に適合したものになる」 として「概念」を「真にあるべき姿」と正確にとらえています。

 『ヘーゲル論理学入門』にも「概念的把握」がとりあげられ、「概念の段階での認識、すなわち、概念的把握はものごとを最も深く認識すること、ものごとを根底から掴むことです」 とありますが、では、ものごとを最も深く認識する、もっとも根底からつかむとはいったい何なのかということが問われなければならないのですが、その点については触れられていません。私は、概念的把握とは真にあるべき姿、本来あるべき姿の把握だと思います。
 レーニンが、「概念的把握」に注目していることがノートから分かるのですが、その理解するところは必ずしも明確ではありません。

 

⑴ ヘーゲル全集⑨a、一七~一八ページ。
  /世界の名著『ヘーゲル』(中央公論社)、一六九ページ。
⑵『小論理学』㊦二一〇ページ。
⑶  同。
⑷『経済学・哲学草稿』岩波文庫、八四~五ページ。
  /マルクス・エンゲルス全集㊵四三〇ページ。訳文は岩波文庫による。
  全集版はBegreifenが単に「把握」としか訳されていない。岩波文庫の
  訳注参照(二五八ページ)。
⑸ マルクス・エンゲルス全集㉓a、一八六ページ。
  /『資本論』新日本新書版①二四二ページ。
⑹『ヘーゲル論理学入門』有斐閣新書、一九五ページ。

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