『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第一〇講 概念論 五 変革の立場


一、真の理念(認識)

 「認識の理念」では認識と実践が扱われており、ヘーゲルの変革の立場が端的に示されています。それだけにレーニンのノートも詳細をきわめ、ほとんどヘーゲルの記述をそのまま書き写したうえで、自分の考えを対置しています。
 「A節 真の理念」(一七五ページ)で認識の問題を、「B節 善の理念」(一八一ページ)で実践を取り扱っています。「主観的理念は、まず最初には、衝動である」(一七五ページ)とあるように、主観的理念は真理を求める認識の衝動なのです。認識というのは、浅い認識から深い認識に、無知から知に、そして知から真理に向かって前進していく。人間の認識は、真理へ向かって止むことなく前進していく衝動を本質的にもっているのです。
 「だから衝動は、その固有の主観性を揚棄し、まだ抽象的である自己の実在性を具体的な実在性となし、そしてこの抽象的な実在性を、衝動の主観性によって前提されている世界の内容をもって満たすという規定性(任務)をもっている」(一七五ページ)。
 真理を認識しようとすれば、まず客観世界のもっている内容を主観のなかに反映するところから始まるわけです。そして、認識はある段階から実践の目的、認識に基づいて何かをしようという目的になってくる。認識は目的に転化したときに、質的な飛躍をとげ、「前提されている世界を否定することがその最初の否定(仕事)である」(同)。
 つまり、認識は一定の段階に達すると、世界(外界)へ働きかけようとする目的となって表われてくるわけで、そうなると、客観世界を否定する認識に到達するのです。

タブラ・ラサ

 客観世界の反映としての認識と、客観世界を変革する目的としての認識の両方を私たちは問題にする必要がある。『小論理学』二二六節補遺では、認識は客観世界を反映するタブラ・ラサ(tabula rasa―白紙)ではないと述べています。人間の認識というのは、白紙に絵が描かれるような受動的なものではありません。それにとどまらず、能動的な働きもするところに人間の認識の特徴があるのです。能動的な働きとして認識が登場するとき、それは実践するうえでの目的となり、その目的の真理というのが、いわゆる概念論の「概念」ということになります。真にあるべき姿としての「概念」を目的としてとらえるとき、認識は最高の段階に到達するのです。そこに至るまでの段階の認識は全て有限なものであるけれども、「概念」を目的として認識するときに無限な認識に到達する、といっています。
 概念を目的として定立しながら実践し、実践を通じて目的が真理であるか否かを検証しつつ、実践から生まれた新しい客観のなかから、またより前進した真理としての新しい概念を目的として定立する。これを繰り返すことによって、相対的真理から絶対的真理に向かって人間の認識は前進していくのです。この過程をヘーゲルは無限な認識と理解しているのです。
 このように、真理を求める認識は、当面有限な認識でありながら、実践を媒介としつつ概念に導かれ、概念に向かって進んでいく。それが人間の認識の前進していく過程だとヘーゲルはみているわけです。『小論理学』二二六節に、「認識が到達する真理も、やはり有限な真理に過ぎず、概念の無限の真理はそれにとってはあくまで潜在的にのみ存在する目標、彼岸にすぎない」 とあります。
 だから、当面有限な認識では、まだ概念も有限な概念なのです。「しかしそれはその外面的な活動のうちで概念に導かれているのであって、概念の諸規定がその進展の内的な導きの糸をなしているのである」(同節)。つまり、絶対的真理が内的な導きの糸になって有限な概念を認識することができるのです。
 日本共産党がなぜ、現状についての的確な批判と日本を改革する方針を打ちだすことができるのかというと、現状分析に裏づけられた日本の「真にあるべき姿」としての社会主義、共産主義の日本を客観的真理として展望しているからです。それを無限の概念とし、それに導かれて、有限な概念としての日本改革の提案が生まれてきている。この点をきちんとつかんでおく必要があるだろうと思います。ヘーゲルがいっている「概念が人間の認識の進展の内的な導きの糸をなしている」というのは、なかなか的確な表現だと思います。

カントの不可知論批判

 ここでカントの不可知論とその批判が出てきます。レーニンは「カントにおいては物自体は絶対の〝彼岸〟である」(一七六ページ)と書いています。つまり、人間の認識がどんどん前進していっても、カントにおいては物自体―客観世界をその根本において認識するところまでには到達しえないとする態度をとったわけで、それがいわゆるカントの不可知論といわれているものです。現象的なものは認識できるが、物自体というものは認識しえないとして、現象と本質を切り離し、そこに一線を引いてしまったわけです。レーニンは「カントは人間の認識の有限的な、暫時的な、相対的な、条件的な性格を主観主義だと考え、理念の弁証法だとは考えなかった。そして認識を客観から切りはなした」(同)と批判しています。人間の認識はどんな場合でも有限です。歴史的にもまた個人的にも制約されているわけです。制約はされているけれども、人間は認識と実践をくり返すなかで、無限に客観的真理に接近することができるのです。しかし、カントはその有限と無限の弁証法をみようとせず、認識を客観から切り離し、有限なものに押しとどめていると批判しているわけです。
 続いて「しかし認識はそれ自身の歩みによってその有限性を、したがってまたその矛盾を、解決しなければならない」というヘーゲルの文章をとらえ、レーニンは「しかし認識の行程が認識を客観的真理へ導く」(同)とノートしています。認識の弁証法的発展、有限性と無限性の統一によって、認識は客観的真理へ導かれるのです。ここは、相対的真理と絶対的真理の関係を認識の面から論じたものと理解してよいと思います。

 

二、分析と総合

哲学的方法としての分析と総合

 この真理を認識するという問題を論ずるなかで、ヘーゲルは分析的認識と総合的認識、分析と総合のカテゴリーを議論をいたします。
 ここで、分析と総合のカテゴリーをどうみるか、ということについて少しお話ししておきたいと思います。一般的にいうならば、分析というのは、具体的な事実(個)から出発して「抽象的な普遍性の形態をあたえる」 認識の方法、つまり個別から普遍へと前進する認識方法です。
 客観世界における存在はすべて個別的な存在であり、個別を抽象することによって本質、法則、類、概念などを認識することが分析なのです。総合は、分析とは逆の道をたどり、普遍から個別へと進みます。総合は普遍を展開して特殊から個別に至る認識方法です。

ヘーゲルは分析と総合を否定したか

 ヘーゲルは、分析的な方法と総合的な方法とを否定したという見解がありますが、果たしてそうでしょうか。
 『小論理学』二三一節で、ヘーゲルは分析と総合について、まず次のように述べています。
 「これら二つの方法は、それらが本来用いられるべき領域では、本質的な意義をもち、また輝かしい成果を収めているが、しかしそれらが哲学的認識に使用できないことは自ら明白である。というのは、これらの方法は前提をもっており、ここで認識がとる態度は、悟性の態度、形式的同一性にそうて進む態度だからである」 とあります。
 ここの記述だけを読むと、ヘーゲルは分析と総合を否定しているかのようにみうけられます。しかし、別の個所ではそれと全く異なることをいっています。
 二三八節補遺をみて下さい。「哲学的方法は、分析的であればまた総合的でもある。しかしそれは、有限な認識のこの二つの方法を単に並置するとか、交互に用いるとかいうような意味でそうなのではなく、両者を揚棄されたものとしてその内に含むのであり、したがって哲学的方法は、その運動のあらゆる点において、分析的であると同時に総合的である」 とあります。
 ヘーゲルは、ここでは分析と総合は哲学的方法であるといっています。分析と総合を、一方では哲学的方法として使用しえないといいながら、他方においては哲学的方法は分析的でもあり総合的でもある、といったのはなぜか。
 一般に認識作用としての分析は、客観的に存在するものをそのまま肯定し、それを前提としていますし、総合もまた独断的普遍を前提としています。ですから、いずれも必然性の証明されていない「外的に前提されたものから出発する」という点において、「哲学的認識に使用できないことは自ら明白」ということになる。分析・総合の方法それ自体が問題なのではなく、概念と切りはなして分析・総合が問題とされるところに問題があるのです。
 概念を問題にしないような分析・総合に哲学的な意義はない。個別から出発して普遍にいたり、最後は概念にまで到達するような分析、そしてまた概念から出発してそれを具体化した法則、さらにそれを具体化した個別にまでいたるような総合こそが必要なのです。二三八節補遺に、「両者を揚棄されたものとしてその内に含む」とありますが、ここが大事なのです。分析と総合の両者が概念と結びつくことによって、従来からの分析や総合は揚棄されるのです。
 すなわち、分析は具体的事実(前提)から出発して、抽象的普遍を経て、具体的普遍としての概念を把握するところまで進まねばならないし、総合は概念から出発して分析の道を逆にたどり、最初の前提事実を概念の規定態としてとらえることによって、その必然性を明らかにすることが重要なのです。前提となっている具体的事実から出発して、まず概念をとらえ、ついで概念から説き起こし、具体的事例を概念の規定態として示すことによって、具体的事実のもつ必然性を明かにするということになるわけです。

マルクスの経済学の方法

 それはマルクスがその「『経済学批判』序説」のなかで述べた「経済学の方法」に基本的に一致するものだろうと思います。
 「だから、もし私が人口から始めるとすれば、それは、全体についての一つの混沌とした表象であろう。そして、もっと詳しく規定することによって、私は分析的にだんだんもっと簡単な概念に考えついてゆくであろう。表象された具体的なものからだんだん稀薄になる抽象的なものに進んでいって、ついには最も簡単な諸規定に到達するであろう。そこでこんどはそこからふたたびあともどりの旅を始めて、最後にはふたたび人口に到達するであろう。といっても、こんどは、一つの全体についての混沌とした表象としての人口にではなくて、多くの規定と関係とをふくむ一つの豊かな総体としての人口に到達するであろう」
 分析は、「混沌とした表象」から出発し、それがだんだん抽象化されていって、最後に「最も簡単な諸規定」に到達する。そしてその「最も簡単な諸規定」から、今度は逆の道をたどって「人口」にたどり着くと、最初の「表象」は、もはや単なる「混沌とした表象」ではなくて、「多くの規定と関係とをふくむ一つの豊かな総体」としてとらえることができるのです。
 最初の「混沌とした表象」とは、前提たる個別的事実です。「最も簡単な諸規定」とは、ヘーゲルのいう概念であり、「多くの規定と関係とをふくむ一つの豊かな総体」とは、概念によって規定されたものとして個別的な事実をとらえるということなのです。マルクスの経済学の方法は、ヘーゲルの分析と総合に学んだものだと思います。
 分析で個別から概念に到達し、総合も概念から始まって個別に戻ってくる。これをくり返すことによって、前提事実は概念の規定態としてとらえられ、「それ以外にはありえない」という必然性が明らかになると同時に、事物の有限性(概念との対比における)が示されることになるわけです。普通の分析や総合は、必然性の証明されていない前提をもっているけれども、ヘーゲルのいう概念に到達し、概念から個別に具体化される総合と分析は、外的な前提を認めない。前提自体を概念の規定態としてとらえ、概念の必然的な現われとしてとらえるという意味で、前提をもたない分析と総合ということになります。「両者を揚棄されたものとしてその内にふくむ」とは、そういう意味だと思います。

分析的認識

 さて、テキストの分析的認識に入ります。
 「分析を考えるさい、対象のうちには、そのなかに〔主観の側から〕投入されないものはなに一つも存在しないかのように考えることは、〔分析して〕えられる諸規定がただ対象のみから取りだされると思うのが一面的であるのと同じように、一面的である」(一七六ページ)とあります。
 「〔主観の側から〕投入されないものはなにひとつも存在しない」というのは、すべて主観の働きであるという立場です。概念を単に主観の産物と考えるのが主観的観念論であり、単に客観の反映だとするのは、実在論(唯物論)だと、ヘーゲルは批判しているわけです。
 分析というのは、人間の主観の作用によって客観のなかから普遍的な概念を取りだすことです。その普遍的な概念は、客観的なものに媒介されていると同時に主観独自の作用、主観による創造的な作用なのです。その意味で概念というのは、直接性と媒介性の統一なのです。
 レーニンは、そこをとらえて「人間の概念は、その抽象性、隔離性の点では主観的であるが、全体としては、過程から見れば、総計においては、傾向から見れば、源泉の点では、客観的である」(一七七ページ)と書いています。

総合的認識

 次に、総合的認識のところに入ります。
 「総合的認識のねらうところは、有るところのものの概念的把握、言いかえれば、多用な諸規定をその統一において把握するにある」(一七八~九ページ)。
 ここでは、総合的認識を概念的把握だととらえているところが重要です。
 「総合的認識の目標は一般に必然性である」(一七九ページ)とあるように、具体的事実がいかなる概念の規定態であるかを明らかにすることによって、その具体的事実の必然性を明らかにすることができるのです。ですから、総合的方法においては、定義(普遍)から分類(特殊)を通じて定理(個)へ進んでいくわけですが、正しく分類しようと思えば、やはり概念にもとづく定義から出発しなければならない。例えば、哺乳類を分類しようと思えば、哺乳類とは母乳で育つ動物という定義にもとづいて、卵生か胎生かの分類をすべきであって、歯や爪を分類根拠にすべきではないのです。「経験を一面的に採用」してえられた定義、つまり、概念にもとづかない定義は、「認識の錯覚をかくす」(同)にすぎないとしているヘーゲルを、レーニンは、「きわめて正しく深い(ブルジョアジーの経済学を参照せよ)」、仮説や理論の「主観主義と一面性とに反対」していると評価しています。
 しかし、総合的認識も単なる「認識」にとどまるかぎり、「まだ完全ではない」(一八〇ページ)のです。「なぜなら、概念はその対象あるいはその実在性のうちで自己の自己自身との統一になっていないからである」(同)。つまり、「認識」という主観は、まだ一面的な、不完全なものであり「実践」によって客観と統一され、はじめて真理に到達することができるからです。
 レーニンは、「実践および認識の客観性を論じるヘーゲル」という見出しで、「概念が実践という意味において、〝対自有〟になるときにはじめて、認識のこの客観的真理を〝最後的に〟把握し、捕捉し、それを自分のものとするのである。すなわち、人間および人類の実践は認識の客観性の検証であり、その基準である。」(同)としています。
 続いてレーニンは、「くわしく言うと、疑いもなく、ヘーゲルでは実践が、一つの環として、しかも客観的(ヘーゲルによると、〝絶対的〟)真理への移行として、認識過程の分析のうちにその位置を占めている。したがってマルクスは、直接にヘーゲルに結びついて、実践という基準を認識論に導入しているのである:フォイエルバッハにかんするテーゼを参照せよ」(一八一ページ)と述べており、実践を通じてはじめて真理を実現することができる、という見地をヘーゲルから学びとっています。

真理の持つ力

 マルクスの「フォイエルバッハにかんする第二テーゼ」は、「人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題は、なんら観想の問題などではなくて、一つの実践的な問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない」 というものです。
 実践をつうじて認識が真理であるか否かが検証されると同時に、認識が真理であれば、実践を通じてその認識は現実のものに転化する力をもっているのです。真理がもっている自らを現実にしていく力、すなわち「理性的なものは現実的なものである」というヘーゲルの根本思想が、マルクスに受けつがれているのです。レーニンは明らかに、この「第二テーゼ」を念頭に置きつつ、真理を単なる認識にとどめることなく、実践によって真理を実現していく過程をヘーゲルから学んでいるのです。

 

三、善の理念(実践)

真理を実現しようとする衝動

 次に、「善の理念」(実践)に入りますが、ノートの左側にへーゲルの言葉、右側にレーニンの言葉が対比して書かれております。一字一句ゆるがせにできない重要な箇所だと、レーニンは理解したのです。まず、ヘーゲルが全体としてどういうことをいっているかをお話ししたうえで、レーニンがそれをどうとらえたかを説明します。
 まずヘーゲルです。「概念は、主観的なものとして、さらに或る即自的に有る他有を前提としている:概念は自己を実在化しようとする衝動であり、自己自身を通じて客観的世界のうちで自己に客観性を与え、自己を達成しょうとする目的である」(一八一ページ)。
 善の理念、つまり実践しようとする人間の意志、これは真理を実現しようとする衝動だというのです。認識は真理を知ろうとする衝動であるのに対し、実践は真理を実現しようとする衝動です。
 だから、認識と実践とが結びつくことによって、真理は実現されていくのです。「概念は自己を実在化しようとする衝動」とは、真にあるべき姿(概念)は外にあらわれ出て客観的事実になろうという衝動をもっていることを意味しています。『小論理学』二三四節補遺に、「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」という有名な文章がでてきます。
 ここにヘーゲルの変革の立場が、はっきり現れています。単なる認識にとどめるのではなくて、その認識を目的に転化し、しかもその目的を客観世界の真にあるべき姿として設定することによって、客観世界を真にあるべき姿に変革してゆく、それが善、実践の理念だということになるわけであります。
 「主観的概念は……自己は現実的であり世界は非現実的であるという確信である」(一八二ページ)とあります。真にあるべき姿を認識することは、世界は変えなくてはならないという確信、意思となるのです。
 「この理念はまえに考察した認識の理念よりも高い、なぜなら、それはたんに普遍的なものという品位をもつだけでなく、現実的なものそのものという品位をももっているからである」(一八二~三)。善の理念は世界を現実に変えようという意志であり、認識の理念より高いという、実践の優位性を主張しているのです。

真理を掲げたたたかいに無駄はない

 ヘーゲルは、実践を有限性と無限性の統一ととらえています。実践をしようという意志には、有限なものから無限のものまでの様々な諸段階があり、有限な善から無限の善への前進をヘーゲルは主張しているのです。
 まず第一段階として現実追随の無目的の実践があります。第二段階として内容が真理でない目的を求める実践があります。そして第三段階として概念を目的とする実践があるわけです。これは有限の善から無限の善へと前進していく過程です。そして、概念をかかげた実践(無限の善)もそれが実現すると、その新しい現実のなかからまた新しい概念が生まれ、新たな実践へと向かいます。善は無限の進行をしていくのです。
 ですから「善は一つの当為」(一八四ページ)だと述べています。実践しようとする意志は、「世の中はこうあるべきだ」という意志ですから、当為なのです。「客観的世界を善が前提することに善の主観性と有限性とがあり」(一八三ページ)とありますが、実践しようとする意志は、客観世界に媒介されているために客観世界の有限性に制約を受けて、有限なものにとどまるのです。
 「完全な善の理念は、……解決されない矛盾の完全な形成」(一八四ページ)におかれることになります。無限の真理を実現しようという意志をもちつつも、それが実現されない矛盾をもっているのです。『小理論学』二三四節に「善の目的は、実現されると同時に実現されないという矛盾」だとあります。
 では、善の目的は実現されると同時に実現されないのなら、実践するだけ無駄なのかといえば、「それは違う」とヘーゲルはいうわけです。『小論理学』二三四節補遺には「世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう」とあります。真理に向かって実践をしていこうという態度をとり続けるかぎり、世界の究極目的へ向かって限りなく接近していくのであって、真理実現の過程として大いに満足すべきものなのです。真理を掲げてのたたかいに無駄はありません。

概念と実践の統一

 次に「《ところでそれ》(活動)《によってもなお善の目的が達成されていないとすれば、それは、概念がその活動以前にもっている立場へ、――空無なものと規定せられながら、なお実在的なものとして前提せられているあの現実性の立場へ、概念があともどりすることである」(一八六ページ)とあります。
 先ほど善の理念の三つの段階について話しましたが、その二番目の段階を論じているのです。どういう場合に実践の目的に到達しえないのかというと、その目的が空無な現実性の立場にあともどりするような場合、すなわち目的が正しく設定されていないため、客観世界の現実によって抵抗される場合です。いわば、実践によって目的が真理をとらえているか否かが試されるのです。この意味で実践は真理の基準といわれています。こうして認識と実践を反復するなかで、その空無な現実性を揚棄するものとして、概念が生みだされ、その概念を目的とする実践によって、はじめて外的現実性の空無性はとりさられることになるわけです。
 つまり、「客観的概念の活動によって外的現実性は変化させられ、これとともに外的現実性の規定は揚棄されるから、まさにこのことによって外的現実性から、たんに現象的な実在性、外的な被規定性および空無性が取りさられ、これとともにこの外的現実性は即自かつ対自的に有るものとして定立される」(一八七ページ)ことになります。概念を実践の目的としてかかげることによって、現実のもつ空無性が取りさられるんだということがここに指摘されています。
 したがって、実践の「目的」は、「たんに主観的で内容上制限されている或る目的としての善」ではなくて、「即自かつ対自的に規定された概念」にまで実践をつうじて高められなければならないのです。目的はだんだん高い目的としての概念に向かって発展させていかなければならないのであって、概念を目的としてかかげることによって、世界を合法則的に変革することができるということです。ヘーゲルは、世界の合法則的な変革という言葉を使ってはいませんが、ヘーゲルのいいたいことはそういうことだろうと思います。こういう絶対的に規定された目的が実践によって客観化されたものが、つぎの「絶対的理念」ということになるわけです。

レーニンはどう読んだか

 さて、ではレーニンは以上の部分をどう読みとったでしょうか。レーニンは、この部分をヘーゲル哲学の核心だと理解し、全文を筆記し、コメントしています。
 まずレーニンは、第一にカテゴリーとしての実践とヘーゲルの変革の立場を高く評価しています。「人間の意識は客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」(一八一ページ)。意識というのは世界を創造する、世界を変革する、すなわち、「世界は人間を満足させず、そして人間は自己の行為によって世界を変えようと決心する」(一八二ページ)という点をまず強調しています。
 また、「実践は……論理学の一つの格である」(一八五ページ)として、実践を論理学のなかにおける重要なカテゴリーだととらえています。このようにレーニンは、ヘーゲルの善の理念における実践と変革の立場を高く評価しているのです。
 第二に、レーニンは実践における主・客の矛盾を正しく評価しています。「人間の実践は、この客観世界に面しているから、目的の〝実現にさいして障害〟に出くわし、〝不可能〟にさえ突きあたる」(一八三ページ)。客観世界の法則をふまえない目的は客観世界の抵抗にあって実現できません。主観的願望は力をもたないのです。
 「諸目的(人間の活動の)が達成されないのは、実在性が存在しないもの(空無)と見られ、その(実在性の)客観的現実性が承認されていないことに、その原因(根拠)をもっている」(一八七ページ)。目的が達成されないのは、目的のたて方に原因があることを明らかにしています。
 第三にレーニンは、真理をかかげた実践による世界の合法則的変革を正しく評価しております。「認識は……自分のまえに、主観的な意見とは独立に現存する現実性としての真に有るものを見いだす(これは純粋の唯物論だ!)」(一八五ページ)。
 「真に有るもの」とあるのは、「真にあるべき姿」といった方がいいところですが、認識は単なる主観的意見にとどまっていたのではだめで、実践の反復により「真にあるべき姿」をみいだすところまで前進しなければならないのです。このヘーゲルのとらえ方は、唯物論的な認識論だとレーニンはいっているのです。
 その次が重要です。「人間の実践は、それが自分を認識から切りはなし、外的現実性を真に有るもの(客観的な真理)とみとめない…」(同)。実践は、現にある客観世界を否定し、「真にあるべき姿」に変えようとするところに意義があるのです。真理を目的として掲げ、世界を合法則的に変革するところに、人間の存在意義がある。この点をはっきり述べたのが「人間の活動は、外的現実性を変化し、……この現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取りさり、この現実性を即自かつ対自的に有るもの(=客観的に真なるもの)にする」(一八七ページ)というところです。人間は実践を通じて客観世界を変革し、真理を実現していくのです。

まとめ

 以上、認識と実践にかんするレーニンのコメントをまとめてみると次のように結論づけることができます。
 レーニンは、ここまでくるとヘーゲルのいう「概念」の意義を大体において正確に理解し、反復する実践をつうじて獲得される真にあるべき姿を目的にかかげた実践により、客観世界を真にあるべき姿に変革することをもって、客観的真理の実現であると解しています。また、実践を論理学上の重要なカテゴリーととらえ、世界をどう変えるべきかを問題にしているのです。
 実践による真理の実現という変革の立場をヘーゲルから学ぼうとする姿勢を『哲学ノート』から読みとることができます。こうしたレーニンの理解は、拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』の「概念論」の理解するところと大筋において一致しています。

 

⑴『小論理学』㊦二二五ページ。
⑵ 同、㊦二二六ページ。
⑶ 同、㊦二三一ページ。
⑷ 同、㊦二四二ページ。
⑸ マルクス・エンゲルス全集⑬六二七ページ。
⑹ マルクス・エンゲルス全集③三ページ。
  /『フォイエルバッハ論』古典選書一〇五ページ。

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