『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第一一講 概念論 六 絶対的理念


一、絶対的理念

絶対的理念の二つの意味

 「絶対的理念」に入ります。
 「絶対的理念」は、主観的理念が実践を通じて客観になったものであり、いいかえれば主観と客観を統一した理念です。この「絶対的理念」をどういう意味に解するべきか。
 大きく二つの意味でとらえればいいでしょう。
 一つは絶対的真理という意味です。これまで、人間の認識が無知から知へ、知から真理へと進む過程を論じてきたのですが、その最後の到達点が絶対的理念なのです。単なる主観的なもの、単なる客観的なものというのはいずれも一面的であって、真理とはいえない。両者を統一したところに絶対的真理はあるという位置づけになっています。
 レーニンは「理論的理念(認識)と実践との統一 ── この点を注意せよ── そしてこの統一はまさに認識論におけるそれである、というのは、その総和としてえられるのは〝絶対的理念〟(ところで理念=客観的な真なるもの)だからである」(一八八ページ)と書いています。レーニンが絶対的理念を「客観的な真なるもの」ととらえていることに注目したいと思います。
 絶対的理念のもう一つの意味は、絶対的真理に人間の認識が前進する思考方法、つまり真理を認識する方法論であり、それが弁証法なのです。ですから、この「絶対的理念」のところで弁証法についてのまとめをしているのです。レーニンもここで弁証法の総括を試み、弁証法の一六の要素を展開することになります。『哲学ノート』のハイライト部分といえるでしょう。
 弁証法は、連関、連鎖と運動、変化、発展する主観と客観を、その真理において認識する方法であり、論理学全体の総括として生まれるものです。これまで、有論、本質論、概念論においてあれこれの弁証法を述べてきたのですが、絶対的理念としての弁証法というのは、それらの総括として生まれた真理認識の方法なのです。
 
弁証法の一定の要素

 ヘーゲルは、運動、連関の真理をとらえる弁証法を「絶対的方法」と呼んでいます。絶対的方法は出発点となる或るもの自身のなかに「進行と発展との始元」を求めるのですが、それは或るもの自身のなかに区別(差異)をみいだすことに始まります。
 レーニンは、絶対的方法は「客観的真理を認識する方法」(一八九ページ)であると注釈を加え、この絶対的方法は「事物を即自かつ対自的に考察すること」(一八九ページ)に始まり、「最初の普遍的なものは自分自身のうちから自分を自分の他のものとして規定する」。そして、ここに「弁証法的契機」があるととらえています。「事物を即自かつ対自的に考察すること」というのは、事物を客観的に、かつ奥深く考察して、或るものの内に他のものをみいだすことです。つまり、或るもののなかに或るものを否定する他のものをみいだすところに運動の契機があるのです。
 そして、レーニンは弁証法の諸要素を展開しています。この部分は、レーニンも推敲を重ねたものと見受けられ、ノートへの書き込みも非常に複雑になっています。テキストでは、レーニンのふった番号によって順序が「整理」されてしまっているのですが、不破哲三著『レーニンと資本論3』二九七ページに、ノートに忠実な形の訳が載っています。レーニンが弁証法を総論的に定式化するために、いかに努力し、思考を積み重ねていったかがよくわかります。
 不破さんは、最初の三つの要素から、どのようにして一六の要素が展開されるに至ったのか、レーニンの思考の過程を細かく分析しています 。それを私なりに、次の表のようにまとめてみました。

   (表〜略)

 レーニンはこうした弁証法の一六の要素を分析したうえで、弁証法の全体像を次のように述べています。
 「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」(一九一ページ)。
 「説明と展開とを要する」というところに注目したいと思います。
 不破さんは、以上の分析に続いて、レーニン「カール・マルクス」の弁証法の若干の特徴を取りあげて、『哲学ノート』のそれとの比較検討をしています。「カール・マルクス」の弁証法は、次のようなものです。
 ①否定の否定、らせん型の発展
 ②飛躍、漸次性の中断、量の質への転化。矛盾による発展への内的衝動
 ③すべての側面の相互依存性と緊密な連関。単一の合法則的な世界的運動過程をなしている連関
 不破さんは、両者を比較検討したうえで、『哲学ノート』の一六の要素には、事物そのものの弁証法と思考の弁証法との区分が未整理であり、『哲学ノート』の諸要素から「認識過程の固有の問題を省き、事物の弁証法にかかわる項目をまとめて取りだした」のが「カール・マルクス」の弁証法であり、その意味で「『カール・マルクス』での弁証法の特徴づけを、「ヘーゲル『論理学』研究の成果をふまえての一つの到達点と見る」 べきではないか、と書いておられます。

弁証法の中間総括

 『哲学ノート』の弁証法の一六の要素と「カール・マルクス」の弁証法との関係をどう考えるべきか。私は『哲学ノート』の一六の諸要素も「カール・マルクス」の弁証法のいずれも、レーニンの中間総括であったろうと思います。レーニンは、この論理学全体を通じて、主観的弁証法と客観的弁証法を区別したうえで、その両者の関係を議論すべきであると考えていました。例えば、「論理学は、……世界とその認識とのあらゆる具体的内容の発展の諸法則にかんする学問である」(六六ページ)とあります。つまりこれは、事物の弁証法と認識の弁証法の両者が論理学では論じられなければならない、ということを述べたものです。さらに、これから後にでてくるのですが、「哲学史」のレーニンのメモ(二一九~二二〇ページ)をみると、「弁証法の二つの規定」として、「概念における思惟の純粋な運動」と「対象の本質(そのもの)のうちに、それ(その本質)がそれ自身のうちに持っている矛盾(を明らかにすること)(あばきだすこと)(本来の意味における弁証法)」とを区別しています。
 とりわけレーニンは、事物の弁証法と認識の弁証法とを結ぶ結節点として、実践というカテゴリーを非常に重要だと考えています。この事物の弁証法と認識の弁証法の両者を問題にしないと、主観と客観の一致を問題とする実践を、論理学上の一つのカテゴリーとしてとらえることができなくなってくるわけです。ところが「カール・マルクス」の弁証法のなかでは、認識の問題は全く取りあげておらず、したがって実践の問題も全く述べられていません。また一六の要素は、事物の弁証法と認識の弁証法の両方を取りあげてはいるものの、整理されたものとはなっていないうえ、そのなかには実践が取りあげられていないし、実践を通じての主観と客観の統一の実現という問題も全く論じられていません。
 執筆時期という点からみると、『カール・マルクス』は一九一四年一一月のはじめに原稿を完成しており、一六の要素の方は『論理学』を読み終えたのが「一九一四年一二月一七日」と二〇三ページに記されておりますから、一六の要素の方が時期的には後だろうと思われます。また、『哲学史講義』なども学びながら、これを補足していったと思われます。『哲学史講義』のノートに、「人間の思惟は不断に現象から本質へ、言わば第一次の本質から第二次の本質へと、その他等等と、限りなく深まっていく」(二二〇ページ)という叙述がありますが、ここから、「事物、現象、過程、等々にかんする人間の認識を、現象から本質へ、それほど深くない本質からいっそう深い本質へと深くしていく無限の過程」という一一番目の要素を追加したものと思われます。
 このように一六の要素も、その後のさらなる学習を通じて思いつくままに補足されていったのであり、それはまだ未整理にとどまっています。レーニンはここに満足せず、『弁証法の問題について』という論文にも挑戦しています。これは一九一五年に執筆されたことが明らかになっておりますが、これも残念ながら未完に終わっています。

 

二、誤解された弁証法

 さて、テキストにもどりまして「弁証法の歴史と通説」(一九一ページ)に入ります。ここでは、弁証法への誤解と本来の弁証法とは何なのかということが述べられています。
 弁証法はどのような誤解をまねくのか。「人々はしばしば、あたかも弁証法が主観的な才能にもとづくもので、概念の客観性には属さないかのように、弁証法を一つの技術とみなした」(一九二ページ)とあります。討論において相手をいいまかすテクニックとしてみなされたということでしょう。弁証法というのは、もともと「対話術」というギリシャ語に由来し、相手の話していることを否定し、それを積み重ねながら、認識がだんだん前進していくことを語源としています。そこから、弁論術というテクニックだと誤解されるところがあるというのです。
 「弁証法は、……なんらかの対象、たとえば世界、運動、点、等々について、それぞれに或る一つの規定、たとえば、いま挙げた対象の順に言えば、空間あるいは時間における有限性とか、この場所にあるとか、空間の絶対的否定とか、という規定があることがしめされる;しかしそれと同じくさらに、その反対の規定、たとえば、空間および時間における無限性とか、この場所にあらぬとか、空間にたいして関係があるから、したがって空間性とかいう規定も必然的にしめされる。」(一九二ページ)。
 弁証法というのは、ある一つの規定とそれに反対の規定とをいずれも認めるところに、その特徴があります。例えば、最も簡単な運動である位置の移動を考えてみると、「ここにあると同時にここにない」ということができます。「ここにある」という規定と「ここにない」という規定の二つをくっつけることによって、運動というものを示そうというわけです。
 ですから、それをレーニンは「対立物の統一」という言葉で呼んだわけです。

運動の真理性の否定(事物の空無性)

 「ところでこのような弁証法から引き出される結果は、一般に、立てられた〔二つの〕主張の矛盾性と空無性とである」(一九三ページ)とありますが、「ここにあると同時にここにない」などと規定する弁証法は、所詮、空無なことにすぎないのであり、そこには、真理はないという誤解が生まれるのです。
 「これはたとえばエレア学派の人々の結果であって、それによると、たとえば世界、運動、点の真理性は否認された」(一九三ページ)とあります。エレア学派というのは、有のみがあって無はないということをいった学派です。エレア学派として有名なゼノンは、運動をとらえようとしたら、それは「ここにあって、ここにない」という矛盾したものとしてしかとらえられないから、「運動などは存在しない」としたのです。
 ゼノンの逆説は、このように運動の真理性を否定するわけですが、これに対してディオゲネスという人は歩いてみせて、「ちゃんと運動はあるではないか」と反論したというのです。「たとえば犬儒のディオゲネスが歩いてみせて運動を証明しているのを、卑俗な反駁だ、とヘーゲルは言っている」(一九三ページ)。つまり論理に対しては論理でもって反駁しなければいけないというのです。ゼノンも運動があることを否定しているわけではないのです。ただ「そこには真理がない」ということがいいたかったわけです。

懐疑論と不可知論(認識の空無性)

 また、矛盾した二つの主張を同時に展開するのは「認識には欠陥がある」(一九三ページ)として、弁証法から認識の限界性をひきだすような誤解もあります。
 ヘーゲルは懐疑論とカントの不可知論をあげています。懐疑論というのは、矛盾する二つのものを同時に認識しうるということは、どちらも真理ではなく真理は存在しないという立場です。これに対しカントは、そもそも認識しえないものを認識しようとするから矛盾におちいるのであって、世界の本質たる「物自体」は認識しえないとして不可知論の立場にたつわけです。
 結局、弁証法に対する誤解、弁証法についての「根本的な偏見は、弁証法は否定的な結果しかもたないとする点にある」(一九三ページ)のです。
 またヘーゲルは、弁証法の創始者としての「プラトンの功績」(一九二ページ)も取りあげています。これは弁証法を真理の認識の方法だととらえたこと、とりわけ客観的事物の真理を認識するだけではなくて、イデアという真理認識の方法である点にプラトンの功績があるというのでしょう。というのも「対象がその真に有るところのもので有るのは、思惟諸規定および概念諸規定のうちにおいてである」(一九四ページ)と述べているからです。客観的事物を真にあるべき姿において有るというのは、弁証法を通じて概念のうちにとらえたときに、はじめてそうした真理に到達することができるというのです。
 続いて「だから、それら〔思惟諸規定〕がその性状および或る外的規定を通じて自己を弁証法的なものとして示すのを、或る対象あるいは認識の罪と考えてはならない」(一九四ページ)。ヘーゲルは、対象と認識の両方、客観と主観の両方を問題にしており、つまり弁証法的な運動を通じて、客観的な事物はその本来のあるべき姿に向かって前進していくし、人間の認識も「真にあるべき姿」を認識していくようになる、というその両面をとらえています。
 「このように、たとえば有限的なものと無限的なもの、個別的なものと普遍的なものというような、固定的なものと考えられているすべての対立は、いわば或る外的結合によって矛盾しているのではなく、それらの本性を考察したさいに示されたように、むしろ即自かつ対自的に、それ自身、移行なのである」(一九四ページ)。
 有限的なものと無限的なもの、個別的なものと普遍的なものというような対立したものは、人間が外からむりやりくっつけるものではなくて、客観的なものそれ自体のなかに、あるいは認識それ自体のなかにそういう対立するものが統一した形で存在しているのです。

 

三、ヘーゲルの弁証法のまとめ

或るものと他のものの統一

 テキスト一九四ページ以降で、弁証法がどのように規定されるべきか、これまでさまざまに論じてきたことのまとめをしています。
 ここの部分はほとんど『大論理学』の全文をノートにとっております。弁証法の本来の意義は、積極的なものを生みだすことにあり、連関・連鎖・運動・変化・発展するものをその真理において認識することにあるのです。では、真理を認識するために、連関・連鎖・運動・変化・発展するものをどのようにとらえればよいのか、ということが問題になってくるわけです。
 「或る普遍的な最初のものは、即自かつ対自的に考察されると、自分を、自分自身の他のものとして示すものである」(一九四ページ)。自分自身のなかに他のものをみいだすことによって連関と運動をとらえることができるのです。
 有論においては、「或るもの」のなかに向他有という「他のもの」をみいだしたわけです。本質論になってくると、「或るもの」のなかに或るものと同一ではあるけれども或るものではない不変的な、恒常的な他のものをみいだすわけで、それが本質です。それから概念論においては、客観世界のなかに客観世界が生み出すものではあるけども客観世界を否定する他のものが生まれてくる、それが概念ということになります。だからいずれの場合も、その最初の普遍的なもの、最初の直接的なもののなかに他のものをみいだすというところから弁証法というのは出発するんだ、ということをいっているわけです。

積極的な否定

 「他のもの」とは、どういうものなのか。
 「しかしこの他のものは、その本質上、空虚な否定的なものではなく、弁証法の普通の結果と考えられるところの無ではなくて、それは最初のものの他のもの、直接的なものの否定的なものである。だからそれは媒介されたものとして規定されており、── 一般に最初のものの規定を自己のうちに含んでいる」(一九四ページ)。
 「弁証法の普通の結果」というのは、先ほど出てきた「弁証法は否定的結果しかもたない」という考え方を指しています。弁証法における否定的なものは、発展の契機としての「限定的な否定」であって、空無な否定ではありません。概念の例でいうと、概念は客観世界の否定ではあっても、空虚な否定ではないわけで、客観世界という直接的なものの否定であり、客観世界に媒介された他のものとしての「真にあるべき姿」という積極的なものなのです。
 「したがって最初のものは、本質的に、また、他のもののうちに保存され、保持されている」(一九四ページ)ことになります。客観世界における本質とか法則とかいう真なるものは、概念という真にあるべき姿の中に保存されているのです。概念という客観世界の「他のもの」は、客観世界から生まれ、客観世界に媒介されているから客観世界のもつ本質や法則を「保有」しているのです。だから概念と客観世界との関係は直接性と媒介性の統一としてあるということになるわけです。
 「肯定的なものをその否定的なもののうちで、前提の内容を結果のうちで確保すること、これが理性的認識においてもっとも重要なことである」(一九四ページ)。
 有と本質との関係も同様です。或るもの、つまり現象を否定するものとして本質をとらえることになります。本質というのは現象を否定するものだけれども、現象に媒介され、しかも現象を内に含んでいるのです。本質は現象の否定、「弁証法的否定」なのです。弁証法的否定は、最初の或るものから出発しそれに媒介された否定であり、或るものを保存、保持しつつ否定することになります。このように弁証法的な、或るもののなかに他のものをみいだすという関係がまず述べられていて、「そしてそれを証明する実例はどうかとならば、この論理学全体がそれである」(一九五ページ)としています。
 レーニンは、ここで弁証法的否定についてまとめています。
 「弁証法は疑いもなく否定の要素を、しかもそのもっとも重要な要素として含んでいる、――この弁証法で特徴的であり本質的であるのは、単なる否定でもなければ、いたずらなる否定でもなく、懐疑的な否定、動揺、疑惑でもない、そうではなくて、肯定的なものを保持した、すなわち、どんな動揺もなく、どんな折衷主義もない、連関の契機としての、発展の契機としての否定なのである」(一九五ページ)。
 ここまできて、レーニンは弁証法的否定の重要性に思いいたり、先ほどの一六の要素のメモに戻って、一三番目、一四番目などの否定の否定を後から書き加えていったのではないかと思われます。
 さて、こうした展開を通じていよいよ弁証法の一般的な形式を論じることになるわけですが、ヘーゲルは「一般に弁証法は、第一の定立の否定、第一の定立の第二の定立による交代(第一のものの第二のものへの移行、第一のものと第二のものとの連関の指摘、等々)のうちにある」(一九五ページ)としています。

対立と矛盾

 或るもののなかに、それを否定する他のものをみいだすのですが、その或るものと他のものとの関係は、相互に連関、移行するものであり、対立、矛盾するものという関係です。最初は対立するというところから始まるのですが、その対立が次第により強い対立になってくると、それは矛盾に移行し、矛盾の激化により、矛盾は止揚されるということになってくるわけです。
 対立と矛盾という点について、ヘーゲルはそれらをごちゃまぜにしているとして、これははっきり区別しなければいけないという批判があります が、私は違うと思います。
 対立の一つの形態として矛盾があり、つまり対立から矛盾への移行になってくるんだろうと思われます。対立は対立、矛盾は矛盾というようなバラバラな関係ではなく、対立と矛盾は対立物の統一(相互移行)としてあるのだと思います。対立というのは、二つのものが調和のとれた相互前提関係になっているわけです。それがだんだん調和がとれなくなってきて、対立する一方が他方を排斥する段階にまでいたって矛盾となるのです。よく矛盾の例として、階級闘争が出されるわけですが、階級闘争というものも、対立にとどまっているような階級闘争の段階から、それが矛盾にまで至り、さらに矛盾が激化して止揚されるような無数の段階があるわけで、そういう意味でも対立と矛盾というものを、弁証法的にとらえる必要があるのではないかと、考えております。
 「弁証法的な契機はそれにおいては、この最初のものが即自的に含んでいる区別がそのうちに定立されることにある」(一九五ページ)とあります。或るもののなかに或るものを否定する他のものが生まれてくる、これを区別といっているわけです。つづいて「これに反して第二のものは、それ自身規定されたもの、区別あるいは関係である」(同)。その区別されたものは、他のものとして或るものと一定の関係が生じる。それで、「したがってこの第二のものにあっては、弁証法的な契機は、そのうちに含まれている統一を定立することにある」(同)。
 整理してみると第一段階は、直接的なものとして、普遍的な或るものが存在する。第二段階は、或るもののなかに或るものと他のものが区別される。第三段階は、或るもののなかにおける或るものと他のものとの関係が、対立から矛盾にまで発展し、その矛盾が止揚されて新たな統一が定立される。そういう三段階の契機によって物事は連関し、運動していくのだというのです。
 このヘーゲル弁証法に対するレーニンのコメントは「単純な、そして最初の、〝第一の〟肯定的な主張、定立、等々にたいして、〝弁証法的な契機〟、すなわち科学的考察は、区別、連関、移行を指摘することを要求する。これなしでは、単純な肯定的な主張は不完全で、生命がなく、死んでいる」(一九六ページ)。
 或るもののなかにそれを否定するものを見いださなかったら、連関も運動も生じないのです。或るもののなかにおいて他のものを見いだすことによってはじめて、或るものは他のものと連関し、他のものに向かって運動しはじめるということになります。
 「〝第二の〟否定的な定立に対しては、〝弁証法的な契機〟は、〝統一〟、すなわち、否定的なものと肯定的なものとの連関、否定的なものにおけるこのような肯定的なものの発見を指摘することを要求する。主張〔肯定〕から否定へ―否定から主張されるものとの〝統一〟へ、これなしでは弁証法はからっぽな否定、遊戯あるいは懐疑となる」(一九六ページ)。
 「肯定」から「否定」へ、「否定」から「否定の否定としての統一」へと、運動は前進していくのです。
 ヘーゲルに戻りますと「したがって、否定的なもの、規定されたもの、関係、判断〔根源分裂〕その他およそこの第二の契機に属するすべての規定が、それ自身すでに矛盾とし、弁証法的なものとして現れないとすれば、それは自己の諸思想を総合しない思惟の欠陥にすぎない。なぜなら、材料は、すなわち一つの関係のうちにあるあい対立した規定は、すでに定立されていて、思惟のまえに現存しているからである」(一九六ページ)。
 対立しているものが矛盾にまで発展するところをみないのは、思惟の欠陥にすぎないと断じています。
 「しかし形式的な思惟は同一性を自己の法則とし、それが自己のまえに持っている矛盾する内容を表象の領域に、時間と空間とにひきおとしてしまう。そこでは、矛盾するものは並存および継起のうちに別々におかれ、こうして相互の接触なしに意識の前に現れる」(一九六ページ)。
 形式的思惟つまり、形式論理学は弁証法を否定するわけですから、対立、矛盾するものを別々の時間、別々の空間にあるものだととらえ、同じレベルでとらえないことによって矛盾を避けようとするのです。

真理の認識と真なるものの実現

 こういう弁証法のもつ否定性を通じてしか真理を認識することはできませんし、真なるものも実現されません。
 「ところで以上に考察された否定性は概念の運動における転換点をなすものである。それは自己への否定的な関係の単純な点であり、すべての活動、生命的および精神的な自己運動のもっとも内的な源泉であり、弁証法的な魂であり、この魂がすべての真なるものを真なるものそれ自身においてもち、この魂によってのみすべての真なるものが真なるものであるのである ; なぜなら、概念と実在性との対立の楊棄、およびこれらの真理であるところの統一は、ただこの主観性にのみもとづいているのだからである」(一九七ページ)。
 つまり、弁証法は、概念をつかまえ、概念と客観世界との対立物の統一を通じて、真なるものを実現するところまで至らなければならないのであり、また、そこにこそ弁証法の意義があるというのです。人間という主体の認識と実践を通じて真理はとらえられるのであり、弁証法はその真理を認識する方法なのです。ここの「主観性」は「主体性」と訳されるべきものでしょう。
 こうした認識と実践は一回かぎりの問題ではありません。
 「〝第三のもの〟への、総合体への、このような弁証法的転化の結果は、新たに、さらに進んだ分析の源泉になるところの、新しい前提、主張、等々である」(一九九ページ)とありますが、概念と実在性との統一として実現された客観的なものは、新たな出発点となるわけであって、さらにそこから新たな概念が生まれ、また概念が客観世界に実現されるということを無限にくり返すことによって、人間の認識は客観的真理に向かって前進するのです。
 概念と実在との間の矛盾の定立と揚棄という運動の反復は、「真理の基準(概念と実在性との統一)」(一九七ページ)だと、レーニンは書いています。いうなれば、客観的な実在から出発し、その否定としての主観的概念が定立され、主観的概念と実在との対立、矛盾が生じ、実践によるその止揚によって主観的概念と実在とが統一されます。それと同時に実践により従来の主観的概念の真理の相対性(相対的誤謬性)が明らかにされ、再び実在の否定としての主観的概念が定立されていく。その反復を通じて自然や社会は合法則的に発展し、客観的真理が実現されていくことになるわけです。矛盾を定立し、それを止揚し、さらに新たな矛盾を定立し止揚することを無限に繰りかえすという、概念と実在との間の対立物の統一という弁証法こそが、論理学において学ぶべきもっとも重要なことなのです。
 以上のまとめとして「われわれが到達した第二の否定的なもの、否定的なものの否定的なものは、いま述べた矛盾の揚棄であるが、しかしこの揚棄も矛盾と同じく、或る外的な反省の行為ではなく、むしろ生命と精神とのもっとも内的な、もっとも客観的な契機であって、これによって主観、人格、自由なるものが有るのである」(一九七ページ)とあります。
 人間の主体的な役割はここにあるとヘーゲルはいっているのです。ヘーゲルの主体的な変革の立場、主体的な真理実現の立場が、ここに一番はっきり出ているわけですが、レーニンはそこをやはりしっかり押さえて、次のようにコメントしているのです。
 「ここで重要なことは、〝一、弁証法の性格づけ:自己運動、活動の源泉、生命と精神との運動〟主体(人間)の概念と実在性との一致 〝二、もっとも高い段階における客観主義(〝もっとも客観的な契機〟)〟(一九八ページ)。
 人間は主体的に客観世界のなかから概念をひきだし、概念にもとづいて客観世界をつくり変え、それによって客観世界を合法則的に真なる姿である客観世界の最も高い段階にまで発展させていく、とレーニンは理解したのです。「もっとも高い段階における客観主義」は、ヘーゲルの言葉でいえば、理念、あるいは絶対的理念ということになるのでしょう。
 ですから、こういうような発展形態をとる弁証法というのは、豊かなものをすべて引きつぐ発展を生み出すのです。
 「普遍的なものは、さらに規定されていく各段階へ、それに先だつ内容の全量を高め、そしてその弁証法的な進行によってなにものも失わず、なにものをも背後にのこさないのみでなく、かえってその獲得したすべてのものを携えてゆき、そして自己を自己のうちで豊富にし稠密にする」(二〇〇ページ)。
 あるべき社会主義というものも、資本主義の積極的な成果を全部引き継いだものとして誕生すべきものなのです。

レーニンの「自己批判」

 以上により、レーニンは「絶対的理念」の最後のまとめをするわけで、「注目すべきは、〝絶対的理念〟にかんする章全体が神についてほとんど一語も述べていないということである」(二〇三ページ)と述べており、これはレーニンの一種の「自己批判」です。
 というのも、レーニンは『唯物論と経験批判論』のなかでは、「絶対的理念とは観念論者ヘーゲルの神学的な作りものである」 としています。
 絶対的理念をヘーゲル観念論の最たるものと理解しているわけです。それはマルクスやエンゲルスが『フォイエルバッハ論』や『ドイツ・イデオロギー』のなかで述べている言葉の引き写しなのです。マルクスやエンゲルスは、ヘーゲルの全哲学の構成自体の観念論的な性格を批判しているのですが、このときレーニンはそれですべてを裁断してしまったのです。
 「彼(=ヘーゲル)にあっても、心理的経験が(絶対的理念の名称のもとに)はじめにあり、そのあとに『いっそう上の』物理的世界、すなわち自然がつづき、そして最後に、自然をとおして絶対的理念を認識するところの人間の認識がつづいているからである」
 ヘーゲル哲学はまず「論理学」から出発して、その最後は絶対的理念で終わります。次に絶対的理念が外に現れたものとして「自然哲学」を論じるわけです。そして、もとの自分の本来の姿に絶対的理念が立ち戻ったものとして「精神哲学」を議論しています。そういうヘーゲルの哲学の体系そのものの観念性を議論するにあたって、マルクス、エンゲルスは絶対的理念が舞台まわしの役割をしているという批判をしているわけです。確かにこの点は正しいと思います。しかしヘーゲル哲学の体系上、なにもそんなものを舞台まわしに使う必要はないわけです。
 しかし、その辺はヘーゲルの勇み足ともいうべきものであって、ヘーゲルが本当にいいたかったのは、絶対的理念というのは、絶対的真理であり、絶対的真理の認識の方法としての弁証法だ、ということです。レーニンは、この論理学全体を読んでその点に気がついたんだと思うのです。
 「この章全体とくに観念論を含んでいるということはほとんどなく、弁証法的方法をその主要な対象としている」(二〇三ページ)。
 絶対的理念の章は、弁証法そのものを論じているし、これは観念論的なとらえ方ではないとしています。さらに「ヘーゲルの論理学の総括と摘要、その最後の言葉と核心が弁証法的方法であるということ――これはきわめて注目すべきことである」(同)と指摘し、すべてのものを連関、連鎖と運動、変化、発展するものとしてとらえるヘーゲル弁証法は、真理認識の方法あるいは客観的事物の発展の方法として正しいのではないかと、レーニンは総括しているわけです。
 「そしてもう一つ」とおまけをつけ、レーニンは「ヘーゲルのこのもっとも観念論的な著作のうちには、観念論がもっともすくなく、唯物論がもっとも多い。〝矛盾している〟、しかし事実だ!」と、論理学全体をまとめているのです。レーニンは、ヘーゲルを観念論者として一蹴するのではなく、論理学を認識論として読むとき、全体としてみて唯物論的なものだという評価をしている。ここが重要なポイントだと思います。
 以上で「論理学」のノート部分は終わりです。次回からは「哲学史」のノート部分に入ります。

 

⑴ ほぼ同様の分析が、許萬元氏によりなされている。
  『弁証法の理論』㊦一九八八年、創風社、一三〇~一四三ページ。
  もとの青木書店版は一九七八年刊。
⑵ 不破哲三『レーニンと資本論』③三〇六~七ページ。
⑶ たとえば、見田石介「対立と矛盾」(『見田石介著作集』第一巻)。
⑷ レーニン全集⑭、二七二ページ。
  /『唯物論と経験批判論』下、新日本文庫、六二ページ。
⑸ 同、二七一~二七二ページ。/同、㊦六一ページ。

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