『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第一三講 哲学史 二 イデア論の発生と展開

 

 今日は「哲学史」の二回目で、ソフィストからアリストテレスまでです。
 今日の講義は、ギリシア哲学のハイライトにあたるところであると同時に、ヘーゲルがギリシャ哲学者たちからもっとも根本的な思想を学んだ哲学の歴史です。前回、ヘーゲルの「哲学史」の特徴として、哲学の歴史を真理探究の弁証法的発展過程としてとらえたとお話ししました。ソフィストからアリストテレスまでは、主観と客観、普遍と個別の弁証法を探求した歴史なのですが、そのなかにヘーゲルはイデア論の発生、展開、完成の過程を見出し、それを「概念論」にとりこんでいるのです。

 

一、ソフィスト

個別と普遍

 まずソフィストです。ソフィストとは、一般にをした人たちと理解されていますが、ソフィストはもともとは賢明な学者を意味しています。いわゆる弁論術を教えてアテネの民主政治を支える役割を果しました。ヘーゲルはソフィストたちを弁証法の土台をつくったという面から高く評価しているわけです。
 ソフィストたちは全面的なものの見方をするために「論拠と反対論拠とを同時に持ち出すこと」、「なにごとにつけてもあい異なる観点を見つけだすこと」(二三九ページ)を主張しました。そのこと自体は一面的なものの見方を批判する弁証法的な見方として正しいのですが、ソフィストの場合、結局そのことを通じてすべてを相対主義におとしこんでしまったことが問題なのです。彼らは物事はどのようにでも議論できるとして、真理を否定したのです。ソフィストの一人プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」といった人です。「人間は、したがって、主観一般である;したがって有るものはそれだけで有るのではなくて、私の知に対して有るのである」(二三九ページ)として、あらゆる客観は、主観とのかかわりにおいて存在するという考えに立っています。その主張は主観的観念論としての批判をまぬがれませんが、当時としては主観と客観の対立を意識したという積極的な役割をもっているわけです。
 しかし、こういう主観的観念論は、結局、相対主義におちいらざるをえません。主観がどう認識するかによって客観的事物がどうあるかということが決まってくるわけですから、人によって認識する事物が変わってくることになります。
 これをさらに深めて主観と客観の関係を論じたのが、ゴルギアスで、客観的事物は「あるとしても、認識されえない」とか、「認識されるとしても、認識されたものを伝達することはできない」(二四一ページ)といいました。主観は客観をそのままに認識できないのではないかといっているのです。言語を通じて認識するということは、その言語によって存在するものが変形されている、と考えるわけです。存在するものは個別のものとして存在するけれども、言語はすべて抽象化し、普遍化しますので、だから言語を通じて客観を認識するということは、個と普遍の矛盾が生じるというのです。真理の認識、つまり主観と客観の同一性について問題提起しているわけです。
 このようにプロタゴラスもゴルギアスも主観と客観、個別と普遍の関係をどうみればいいのか、という問題提起をしたという点で評価されるべきでしょう。

 

二、ソクラテス

正義とはなにか

 次にソクラテスです。ソクラテスの弟子がプラトンであり、プラトンの弟子がアリストテレスです。この三人に共通しているのは、イデア論です。
 イデア論もソフィストと同様に主観と客観、あるいは個と普遍の関係を論じています。ソフィストたちが主観と客観を論議したのを引き継いで、「客観の真にあるべき姿は何なのか」を議論したのが、イデア論だといえます。イデアという普遍を論じると同時にイデアという主観の産物と客観との関係を議論しているのです。
 ソクラテスが問題にしたのは、正義とは何か、善とは何か、美とは何かなどのテーマであり、これを議論の対象にして相手と討論するわけです。相手が次々出してくる正義とはこんなものだという根拠を次々否定する討論を通じて、ソクラテスは正義とか善とか美とかの「真にあるべき姿」を明らかにしようとしたのです。ただソクラテスは真にあるべき姿を問題にしながらも、それをイデアと呼んだわけではありません。たとえば、「正義とは何か」という問題提起をしたにとどまります。しかし正義とは何かという問いは、いいかえれば、正義のイデアとは何か、つまり、正義の本来のあるべき姿は何か、ということが問われているわけです。

真の思惟は主観と客観の統一

 イデアは、主観と客観の一致として生まれてきます。
 「私にとって真理とし、正義としての価値をもつべきものは、私の精神から生まれた精神である」(二四四ページ)。
 ソクラテスは、正義とは何かという問いに答えを出すのは精神の働きによるものだ、つまりイデアというのは主観の働きによってはじめてとらえることができる、ということをまず述べています。では、主観によるものであればどんな主観でもイデアになるのかというと、そうではないわけで、「それの情熱、興味、好み、気まぐれ、目的、傾向、その他から生まれたものであってはならない」(二四四ページ)のです。イデアは主観の産物ではあっても気まぐれなものであってはならないのであって、それはある意味では客観に規定されているのです。客観に規定されながらも、主観の産物として存在するのが、イデアなのだといっているわけです。
 プロタゴラスが「人間は万物の尺度である」といったのに対して、ソクラテスは「思惟するものとしての人間は万物の尺度である」とったわけですが、レーニンはこの、「色合い!」(二四五ページ)の違いに注目せよとコメントしております。どういう色合いの違いがあるかというと、プロタゴラスの命題では人間あっての客観というだけのことですが、ソクラテスの命題ではそうではありません。ソクラテスは客観を思惟することを通じてイデアをとらえることができるから、人間は万物の真にあるべき姿の尺度である、と説いたわけです。人間はイデアをとらえることによって客観世界を動かしていく、合法則的に発展させていくことにより、万物の尺度になるんだということを、意味しているのではないでしょうか。こうしたソクラテス論を通じて、レーニンは「愚鈍な唯物論よりも賢明な観念論の方が賢明な唯物論に近い」(二四五ページ)と書いています。「愚鈍な唯物論」とは、「あたかもロウが形をとるように受身に受け取る」ような機械的反映論の立場に立つ唯物論のことです。
 「賢明な観念論」とは、ソクラテスのことをいっているのだと思います。ソクラテスは「思惟するものとしての人間が万物の尺度」だと説いて、人間の思惟を何よりも高い地位においたという意味でなるほど観念論の立場といってよいかもしれない。しかし人間の意識の創造性に目を向けたという意味で「賢明」だとレーニンは言っているのでしょう。
 ですから、「愚鈍」というのは人間の意識を機械的に客観を反映するだけのものとみることを意味し、「賢明」というのは人間の意識の創造性に着目したという意味なのでしょう。いうまでもなく、レーニンにとっては「賢明な唯物論」こそ重要なのであり、「論理学」を学んできたレーニンにとって、意識の創造性をうちだすことのできるような弁証法的唯物論のことを念頭においているのです。

 

三、ソクラテス学徒

言語の二つの側面

 つぎにソクラテス学徒です。
個と普遍の問題で、先ほどゴルギアスの議論を紹介しましたが、それと同じようなことが出ております。
 レーニンは、まず「なぜ個別的なものは名づけることができないのか」を問題とします。例えば、机という普通名詞は、机一般の「普遍」をさすものであり、個別のようであって個別ではないのです。個別の机を指そうと思ったら、「この」机といわなければ個別にならないわけです。言語というものはすべて普遍なのであって、個別的なものは名づけることができないのです。
 したがって「言語は本質上ただ普遍的なものだけを一般に表現する;しかし人が私念するものは特殊的なもの、個別的なものである。したがって人は、人が私念するものを言語のうちで言いあらわすことはできない」(二四五ページ)ということになります。レーニンはNBとして「言語のうちにはただ普遍的なものがある」とコメントしております。
 人間は言語を使って思考します。言語を使うこと自体が個別を普遍化させることによって客観的事実を変形させているわけです。しかし同時に、言語は客観を抽象化し、個別を普遍化することを通じて真理をとらえることができるのです。
 レーニンは、この部分について「これによってヘーゲルは、弁証法的唯物論以外のあらゆる唯物論に打撃を与えている」(二四六ページ)とコメントしています。その他のあらゆる唯物論の一つが、機械的唯物論です。もう一つは経験的唯物論で、経験の世界に基づく感覚の世界の認識にとどまり、抽象的理論、普遍の真理性を認めようとしない唯物論です。経験しうるものは認めるが、それを超えるものはいっさい認めないわけです。

 

四、プラトン

ソクラテスの原理をつかんだプラトン

 ヘーゲルは、ソクラテスのイデア論の萌芽的な形態を高く評価し、次のプラトンにいたってイデア論は、基本的に仕上げられ、さらにアリストテレスで完成された形態をとることになったと評価しています。
 『哲学史』に「プラトンは本質は意識のうちにあるというソクラテスの原理をその本当の意味においてつかんだ」 とあります。「本質は意識のうちにある」とは、事物の本当の姿は意識のうちにあるという意味で、イデア論のことです。プラトンは、イデア論の萌芽をうちだしたソクラテスの原理を本当の意味でつかんだと評価しているわけです。
 ソクラテスが真、善、美などの個別のイデアを論じたのに対し、プラトンは、あらゆるものにイデアが存在すると唱え、イデア論を個別的なものから普遍的なものに高めたのです。
 「イデアというのはわれわれには普遍的なものという名称のもとに一層よく知られているもののことにほかならず、しかも事物の一属性であるにすぎない形式的普遍としてではなくて、絶対的客観的に存在するものとして、本質として、唯一の真実在として理解されるような普遍のことである」
 イデアとは、真にあるべき姿、本来あるべき姿です。プラトンは、真にあるべき姿は純粋な思惟の働きによってつかまれる客観から独立した普遍だと理解しております。ヘーゲルはこれと違って、確かにイデアは思惟の働きによってつかまれるものではあるが、それは客観との直接性と媒介性の統一であり、客観に媒介されつつ思惟の働きによってとらえるものであるとします。

イデア論をレーニンはどうつかんだか

 残念ながらレーニンは、プラトンに触れながらもプラトン哲学の中心をなすイデア論を正面から論じておりません。一般に、プラトンが観念論者だといわれる理由がこのイデア論にあると考えられていたので、唯物論者レーニンは食わず嫌いで敬遠したのかもしれません。「プラトンのイデア論について」という見出しのもとに、レーニンがノートしているのは「認識の弁証法」(二四八ページ)に関するものだけです。そこをみてみると「普遍的なものの意義は矛盾にみちている。普遍的なものは生気がない、それは純粋でなく、完全でなく、等々、等々である。しかし、それはまた具体的なものの認識へのただの一段階である。なぜなら、われわれはけっして具体的なものを完全には認識しないからである。普遍的諸概念、諸法則、等々の無限の総和が、具体的なものを完全な形で与える」(二四八ページ)とあります。
 個別として存在するものを、普遍として認識することは、具体的なもののもつ豊かさのいくつかを失わせることになります。具体的個別はいろんな諸性質、諸傾向、諸側面をもっていますが、それを普遍化するということは、その中から一定のものを抽出するわけで、その抽出されただけそこには生気がなくなり、個別のもつ豊かさが失われる側面をもっているわけです。したがって、いろいろ抽出されるものを総合することによって再び具体的なもののもつ豊かさが回復されるという意味で、「普遍的諸概念、諸法則、等々の無限の総和が、具体的なものを完全な形で与える」という、個と普遍の関係を議論するにとどまっています。

主観的弁証法

 続いて主観的、ソフィスト的な弁証法についてのべています。これは前にも学習したところですが、主観的、ソフィスト的弁証法というのは「一方と他方とのあいだを行ったり来たりする」のみで「対立物を結合せず、統一には到達しない」(二四九ページ)弁証法であり、これに対し真の弁証法は、対立するものを別々にとらえるのではなく、統一においてとらえます。その例として、「異なるものが同じものであり、そして同じものが異なるものであるということ、しかもそれは同一の関係においてそうであること、を示すことである」(二五〇ページ)をあげています。
 これは同一と区別の統一を論じているわけです。差異を論じるときには同一を問題にし、同一を論じるときには差異を問題にしているのです。例えば、ボールペンと万年筆とはどう違うのかという場合、どちらも筆記用具としての同一性をもっているから差異を論じる必要があるのです。逆に人間と牛とは哺乳類として同一であるという場合、人間と牛とは異なっているから同一性を議論しうるのです。
 だから差異を論じるときには、同一が根底にあるから差異が問題になり、同一を論じるときには、差異が根底にあるから同一が問題になるわけです。同一と区別の統一という弁証法の問題なのです。これは弁証法のたいへん大事なカテゴリーだと思います。というのは、すべてのものは相対的同一性(固定性)を保ちつつ運動、変化、発展し、区別されているからです。

哲人政治の実現── 国家のイデア

 次にプラトンの言葉の中で大事なところを、二つほど補足します。一つは「哲学者が国家を統治すべきである」(二四八ページ)とするものであり、これはプラトンの哲人政治といわれています。国家を統治する者は、真理を認識するものでなければならない、それはつまり哲学者だというもので、プラトンの主著『国家論』で述べられている有名な命題です。
 われわれもこの命題を引き継ぐべきではないかと思います。真理探究の科学的社会主義の哲学をもっている者こそ国家を統治すべき役割を担うべきものであり、それによってこそ「真にあるべき国家」になりうるということではないでしょうか。
 ヘーゲルは、国家のイデア(真にあるべき国家)を、単なる空想でなく、現実となるべき理想と理解していました。重要なところですから『哲学史』の原文を紹介しておきます。
 「プラトンの理想はこの意味において解されるべきでないことは明らかである。或る理想がとにかくそれ自身のうちに概念を通じて真理性をもつとき、それは本当のものであるからこそ、空想なのではない。けだし真理はいかなる空想でもないからである。したがってまたそのような理想は無益で無力なものではなく、むしろ現実的なものである。……真の理想は現実的であるべきなのではなくて、現実的なのであり、そしてそれのみが現実的なものである。一つの理念が現実であるにはあまりにもよすぎるというなら、それはむしろ理想そのものの一つの欠陥というべきであって、現実の方がそれにくらべてよすぎるのである。プラトンの国家が一つの空想だとするなら、それはそのような立派さが人類に欠けているからではなくて、それほど立派な理想国でも人類にとって悪すぎるからに違いない。けだし現実的なものは理性的だからである」
 これは国家の理想(イデア)を論じたものであり、さらには、その理想と現実の統一を述べたものです。真の理想は空想ではなく、現実から生まれるものです。だから真の理想は無力なものではなくて現実となる力をもっているのです。ヘーゲルは、この見地を自己の哲学の中心的命題にすえ、『法の哲学』序文において、「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である」と定式化したのです。エンゲルスはこの定式化された命題を非常に高く評価し、『フォイエルバッハ論』の中で紹介し、ここにヘーゲル哲学の革命的な真髄があると述べています。

 

五、アリストテレス

イデア論の完成者

 いよいよアリストテレスの哲学です。ここもテキストに入る前に、少しコメントしておきます。 『哲学史』に、「哲学を学問として仕上げる仕事、さらにくわしくはソクラテス的立場を学問性へ仕上げる仕事は、プラトンをもって始まり、アリストテレスによって全うされる」 とあります。 ソクラテスに始まりプラトンで仕上げられ、アリストテレスによって完成されたものが、イデア論であり、ヘーゲルはそれを引きついでいる。だからギリシア哲学も、アリストテレスまでを学んでおけばヘーゲル哲学の大きな流れはつかむことができるのだろうと思います。ただイデア論がソクラテスからプラトンを経てアリストテレスによって全うされるというのは、けっして哲学史の通説ではありません。通説に反対してこういう議論をヘーゲルは展開しているわけで、そこがなかなか面白いところです。
 テキストをみると、「アリストテレスの哲学が、プラトンの観念論と違って、〝実在論〟〝経験論〟であるとする一般におこなわれている意見は、まちがっている〔とヘーゲルは言う〕」(二五一ページ)とレーニンはノートしています。アリストテレスは唯物論、プラトンは観念論の創始者であると、一般には理解されています。バチカン宮殿の中にラファエロの「アテネの学園」という有名な壁画があります。古今東西の哲学者数十人を描いた壁画の真ん中にプラトンとアリストテレスが描かれています。プラトンは観念論者として天を指さし、アリストテレスは唯物論者として地を指さしています。ラファエロはルネッサンス期(一六世紀の初め)に活躍した人ですから、それがその頃におけるプラトン、アリストテレスの哲学の一般的な理解の仕方だろうと思います。
 しかし、ヘーゲルはその理解は違うのではないかと批判し、アリストテレスをプラトンのイデア論(ヘーゲルの言葉でいうと概念論)の完成者ととらえたのです。マルクスも詳しく理由は説明しておりませんが、ギリシア哲学の中で一番自分が好きなのはアリストテレスだといっております。
 ヘーゲルは『エンチクロペティ―』の一番最後にアリストテレスの『形而上学』一二巻七章を引用しています。アリストテレスの結論は、「思惟の思惟」だとされています。岩波版「ヘーゲル全集」で、「思惟の思惟」と訳されているのですが、この「思惟」というのはアナクサゴラスがいった「ヌース(nous)」なのです 。そのことを今回、私は初めて知ったのですが、訳者である樫山欽四郎さんが『エンチクロペティ―』につけた注に「原文で nous《理性》となっているのは、『思想』『思惟』『思惟する理性』などと訳されている」 とあります。「思惟の思惟」とは、ヌース中のヌース、ですから、ヘーゲルのいう絶対的理念、主観と客観の統一としての絶対的真理ということになるわけです。これを「思惟の思惟」と訳したのでは、何のことか分かりません。アリストテレスの「ヌースのヌース」で『エンチクロペティ―』の最後をまとめているのも、ヘーゲルがソクラテスからプラトンを経てアリストテレスにおいてこの絶対的理念に到達した、と理解したからなのでしょう。

プラトン的イデアとアリストテレス的イデア

 それでは、プラトン的イデアとアリストテレス的イデアとがどのように関連しているのでしょうか。『哲学史』の中からの引用ですが、ヘーゲルは、プラトンのイデアには「現実性の契機としての生きた主体性の原理が欠けている」と批判しています 。プラトンのイデアは、現実世界から切りはなされた天上世界に存在していて、そこから現実となって生まれてこない、主体的働きのないイデアにすぎない、と批判しています。プラトンは『国家』においては、イデアの現実化を唱えたものと理解したものの、イデア論一般においては、「それの現実化の必然性と現実化そのものを示す哲学的構成は彼には全然みられない」 と解されたため、その点がヘーゲルによって批判されているのです。
 これに対して、アリストテレスのイデアには、「この法則的な働きこそがはっきりエネルゲイアとして規定されている」(同)というのです。「エネルゲイア」とは、アリストテレスの独特な用語であり、「現実態」と訳されているのですが、いわば「働き」です。イデアはじっとしているのではなくて一定の働きをもっている。現実になる働きだというのです。アリストテレスは、天上の世界にとどまるのではなくて、地上の世界に現実に現れ出るようなイデアを問題としなければならないのであって、それがエネルゲイアとしてのイデアだ、と理解したのです。アリストテレスのイデアの「働き」は、ヘラクレイトスがいうところの「生成」(単なる変化)と違って、「自己自身を規定する働きとしての規定作用であり、したがってまた自己を表現する普遍的目的としての規定作用である」としています。ヘーゲルは、真にあるべき姿が実践の目的として掲げられ、その目的を実現する働きとしてそれが現実化されるのだと、アリストテレスのイデアをとらえているわけです。
 『小論理学』一四二節補遺にプラトンとアリストテレスの関係がまとめて述べられています。
 「プラトンの哲学とアリストテレスの哲学との関係について広く行われている偏見の根拠があるのである。この偏見によれば、プラトンとアリストテレスとの相違は、前者がイデアを、しかもただイデアをのみ真実なものと考えるに反して、アリストテレスはイデアを排して現実的なものを固守し、したがって経験論の創始者および旗頭と考えられなければならないところにあるとされている。ところが、現実がアリストテレスの哲学の原理をなしているにはちがいないが、しかしそれは直接的に現存しているものというような卑俗な現実ではなく、現実性としてのイデアなのである。プラトンにたいするアリストテレスの反駁の趣旨はこうである。すなわち、アリストテレスはプラトンのイデアを単なるデュナミスと呼び、これにたいしてイデアが―これが唯一の真実なものであることは二人とも同じく認めているのである―本質的にエネルゲイアであること、言いかえれば、端的に外にあらわれている内的なものであること、したがって内的なものと外的なものとの統一、あるいは本節で私が強調したような意味での現実性であることを主張するのである」。
 プラトンもアリストテレスも「イデアが唯一の真実なものであること」は認めているが、プラトンのイデアが単なるデュナミス(可能態)として主観のうちに、あるいはどこか天上の世界にとどまっているのに対して、アリストテレスのイデアは本質的にエネルゲイア(現実態)、つまりヘーゲルのいう「現実性」として、現実となる力をもっているというのです。ですからヘーゲルは、アリストテレスがエネルゲイアとしてのイデアにより主観と客観の統一、真理を実現する立場に立っていると考えているのです。
 「思惟(ヌースのこと── 引用者)においてだけ、客観的なものと主観的なものとの真の一致が現存している。……だからアリストテレスは最高の立場に立っている;人々はそれ以上深いものはなにも認識しようとのぞむことができない」(二五四ページ)。
 つまりアリストテレスは、客観的実在の中から主観的なものとしての概念を引きだし、その主観的概念はその働きによって客観と同一化するという意味で、主観と客観の統一の中に真理があるというイデア論を説いているのです。

イデア論の継承発展

 以上のようにヘーゲルがアリストテレスを理解したということを前提にして、こんどはテキストにそってレーニンの理解をみていきたいと思います。
 「へーゲルは、アリストテレスに見られるプラトンの〝イデア〟の批判をまったくもみくちゃにしてしまった」(二五二ページ)。ようするにアリストテレスがプラトンのイデアを継承発展させたとするヘーゲルの見方は、アリストテレスの評価としてはまちがっている、とレーニンは批判しています。アリストテレスは、プラトンのイデアを観念論だと批判したのに、ヘーゲルはそれをゆがめている、というのです。
 これまで長い間プラトンとアリストテレスの哲学は、一方は観念論、他方は唯物論だと理解されてきたことからすると、レーニンの批判がまちがっているとは思いません。
 ではヘーゲルが述べたようなソクラテス、プラトン、アリストテレスに至るイデア論の継承発展という考え方に意味がないのかというと、それはまた別の問題なのです。ヘーゲルが人間の主体性を論ずる見地、つまり人間の実践による自然や社会の合法則的な発展、そしてそれをもたらすうえでのイデア論の意義を積極的に主張した点は、大いに評価すべきものだと私は思います。
 自然や社会における発展の法則の認識の上に立って、その真にあるべき姿を探求することなくして、自然や社会の合法則的な発展はありえないのです。ですから、イデア論は今日においても重要な意義をもっていると思われます。そこに光をあてたヘーゲルの功績は、もっと評価されてしかるべきものです。
もっともレーニンもイデア論について一定の評価をしているわけです。アリストテレスは、「諸対象が思惟されたもの(思想)として存在するときには、それらはその真理性において存在している;これがそれらのウーシア(概念── 引用者)である」(二五三ページ)と真にあるべき姿をとらえています。これに対してレーニンは、「〝自然においては〟概念は〝このような自由のうちには〟(人間の思想と空想との自由のうちには!)存在しない。〝自然においては〟それら、概念は〝血と肉〟とをもっている。── これはすばらしい! しかしこれはやはり唯物論である。人間の諸概念は自然の魂である―これは、人間の諸概念のうちに自然が独自の仕方で(独自の仕方でそして弁証法的にという点に注意)反映されるということの神秘主義的な言い換えにすぎない」(二五四ページ)と述べています。「人間の諸概念」は、自然が独自の仕方で反映」したものという場合の「諸概念」は真にあるべき姿といってもよいでしょう。真にあるべき姿は、客観との関係における直接性と媒介性の統一という「独自の仕方でそして弁証法的」な反映として生まれるのです。「自然の魂」とあるのは、真にあるべき姿だという意味でしょうからレーニンの理解もアリストテレスのイデア論そのものということになります。

アリストテレスの目的論

 最後に、「アリストテレスの目的論について」もみておきましょう。
 「自然はそれ自身のうちにその手段をもっている、そしてこの手段はまた目的でもある。自然のうちにあるこの目的が自然のロゴスであり、真に理性的なものである」(二五五ページ)とあります。アリストテレスは自然のもつ内的目的性を述べており、機械論的自然観を批判しているのです。動物にしても植物にしても環境に適応する独自の変化、発展をとげているわけで、その環境に適応する動物や植物の独自の進化は偶然に起きるものではないのです。それはやはり環境に適応しようというところからくる、その種のもつ内的目的性のあらわれなのです。そういうものをアリストテレスは、自然は内的目的をもつ、この内的目的は自然のロゴス(法則)だといっているわけです。
 ダーウィンの進化論のもととなるような理論がここには含まれていると思います。その自然のもつ内的目的性というのは、実はアリストテレス的なイデアなのです。真にあるべき姿というものを自己のうちにもっていて、その真にあるべき姿が肉体の変化となって環境に適応した形となって現れてくる、というのです。

 

⑴ ヘーゲル全集⑫『哲学史』㊥の一、一八一ページ。
  /長谷川訳『哲学史講義』㊥一〇ページ。
⑵ 同、二一四ページ。/長谷川訳、三一ページ。
⑶ ヘーゲル全集⑫『哲学史』㊥の一、二九六ページ。
  /長谷川訳『哲学史講義』㊥九〇ページ。
⑷ ヘーゲル全集⑫『哲学史』㊥の一、一八一ページ。
  /長谷川訳『哲学史講義』㊥一〇ページ。
⑸ ヘーゲル全集⑫『哲学史』㊥の二、四六ページ。
⑹ 樫山欽四郎訳『エンチュクロペデイー』河出書房新社、四六〇ページ。
⑺ ヘーゲル全集⑬『哲学史』㊥の二、三〇ページ。
⑻ ヘーゲル全集⑫『哲学史』㊥の一、二九四ページ。
  /長谷川訳『哲学史講義』㊥八八ページ。

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