『変革の哲学・弁証法─レーニン「哲学ノート」に学ぶ』より

 

 

第一五講 変革の哲学・弁証法試案


 弁証法についてのまとまった、一般的叙述をするという課題は、マルクス、エンゲルス、そしてレーニンもその意図をもちながらも時間的余裕がなかったため、二一世紀を生きるわれわれの前に引き続き提起されています。そこで、エンゲルスの弁証法、レーニンの弁証法をまとめたうえで、弁証法の一般的叙述の試案を提起してみたいと思います。

 

一、エンゲルスの弁証法

客観的弁証法と主観的弁証法

 まず、弁証法についてある程度まとまった叙述をしているエンゲルスの弁証法をみてみましょう。マルクスも「資本論の論理学」を残していますが、そこから弁証法を導き出すのは大仕事であり、それを検証する余裕はないので、やむなく割愛させてもらいます。
 弁証法とは何かという問題からみてみましょう。弁証法には大きく客観的弁証法と主観的弁証法があります。
 エンゲルスは弁証法とは、「外部の世界および人間の思考の運動の一般的諸法則に関する科学」 として、外部の世界の運動法則と人間の思考の運動法則とを区別しています。それからさらに「いわゆる客観的弁証法は、自然全体を支配するものであり、またいわゆる主観的弁証法、弁証法的な思考は、自然のいたるところでその真価を現しているところの、もろもろの対立における運動の反映」 としています。
 では、運動の一般的な諸法則とは何でしょうか。エンゲルスは「弁証法というものは、事物とその概念上の模写とを、本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるもの」 といっています。エンゲルスは、運動をとらえるカギとして、とりわけ全体的連関を重視していました。『自然の弁証法』では、「全体的連関の科学としての弁証法。主要法則は以下のとおり。量と質との転化。── 両極的対立物の相互浸透と、極端にまでおしすすめられたときのそれら対立物の相互の転化。── 矛盾による発展または否定の否定。── 発展の螺旋的形式』」 として、弁証法を「全体的連関の科学」ととらえ、その主要法則を述べています。後にこれを展開して「連関の科学の弁証法」の三つの法則として「量から質への転化、またその逆の転化の法則、対立物の相互浸透の法則、否定の否定の法則」 にまとめられ、これが教科書的にいわれている「弁証法の三つの基本法則」とされるものです。
 ここでは、レーニンが「弁証法の核心」(一九一ページ)だとした「対立物の統一」という表現は直接的には使われていません。しかし、『自然の弁証法』の別の箇所において、連関としての対立物の統一の問題を述べています。すなわち「両極的対立はすべて、一般に対立する二極相互の交代的変化によって条件づけられていること、これら二極が分離し対立するということは両者が対をなし統一されているということにのみなりたつことであって、また逆に両者が統一されていることは両者が分かれていることにのみなりたち、両者が対をなしていることは両者が対立していることにのみなりたつのだということ」 として、対立と統一の弁証法的関係を明らかにしています。
 対立する二極も、普遍的連関、連鎖のなかで相互に移行しますから、「動かすことのできない固定した境界線」は存在しないし、「いっさいの区別されたものが中間段階において合流し、いっさいの対立物が中間項をつうじて相互に移行しあう」 ことになります。
 以上が、主観的弁証法と客観的弁証法の全体に共通する運動の一般的諸法則です。

客観的弁証法

 次に、客観的世界の運動の諸法則をみてみましょう。エンゲルスは「運動そのものが一つの矛盾」であり、「矛盾をたえず定立しながら同時に解決していくことが、すなわち運動なのである」 とか、全自然は「総体的連関をかたちづくっており」、その中における「諸物体相互のこのような作用こそがまさに運動」 なのだと言っています。つまり、矛盾と、連関の中における相互作用が運動を生み出す、というとらえ方をしています。
 運動の具体的形態としての対立物の統一のあり方として、位置の運動というのは、「一つの物体が同一の瞬間に一つの場所にありながら同時に別の場所にある」 ということであり、電磁気的な運動というのはプラスとマイナス、力学的、化学的運動というのは牽引と反発、有機的な運動は遺伝と適応などと、対立物の統一を運動の具体的形態としてとらえています。またヘーゲル論理学のなかからエンゲルスは、量と質、部分と全体、単一的と複合的(ヘーゲルのいう一と多)、同一と区別、偶然と必然、原因と結果、有限と無限などのカテゴリーについて論じています。

主観的弁証法

 次に、主観的弁証法としては、自然と精神の統一(主観と客観の統一) 悟性と理性 、抽象と具体、帰納と演繹、分析と総合などをとりあげています。また主観的弁証法にかんし、ヘーゲルは思考の形式としての概念、判断、推理をとりあげていますが、エンゲルスは、とりわけ、その判断論に注目しています。ヘーゲルの判断論を、個別の判断、特殊の判断、普遍の判断というように判断が前進していくと理解して、その「普遍性の判断」によって「その法則は最終の表現に到達」 するといっています。
 それから帰納と演繹というのは、「総合と分析と同じくらい必然的に一つの対」をなし、「たがいに補足しあっている」 と述べています。また認識論にかんして、法則の問題にふれ、ポスト・ホック(それの後に)とプロプテル・ホック(それの故に)を区別しているのは重要です。
 また、エンゲルスは、実践の意義を明確にしています。「人間の活動が因果性の試金石」であるとして、「人間の思考の最も本質的で最も直接的な基礎をなす」ものは「人間による自然の変化」であり、「人間が自然を変化させることを習得してきたその度合いにおうじて、人間の知能はこれに比例して成長してきた」 と述べています。
 それから、交互作用と因果関係(同)について、因果関係というのは、交互作用の一つの側面にすぎないというヘーゲルの見解のうえにたって、物質は全体として「相互に移行しあい、相互に制約しあって、ここでは原因、かしこでは結果」となり、しかも運動の総和はいつも同一にたもたれており、われわれが物質の「交互作用」としての運動の総和を認識するとき、われわれはカントのいう「物自体」を認識したのであり、個々の現象を「普遍的連関からきりはなし、孤立させて考察する」とき、はじめて「交替変化する諸運動は一つが原因、他が結果として現われることになる」 と述べています。
 また「認識の有限性と無限性」 をとりあげ、「真のあますところのない認識」とはすべて、われわれが「個別性から特殊性に、特殊性から普遍性へと高めることにあり、われわれが有限なもののうちに無限なものを…確定することのみにある」としています。さらに「認識しうる素材の無限性がじつはもろもろの有限性だけでできているように、絶対的に認識しつつある思考の無限性もまたじつは無限個の有限な人間の頭脳から構成される」として、人間の認識は有限であると同時に無限であるという「有限と無限の統一」という弁証法を述べています。

 

二、レーニンの弁証法

弁証法を仕上げる作業は未完のまま

 次に、レーニンが弁証法をどのように「仕上げ」ようとしていたのかを検討することにしましょう。
 「カール・マルクス」を執筆するために弁証法を研究し直すことが「哲学ノート」を作成した直接のきっかけであったことは、すでにお話ししたとおりです。そしてレーニンは、「カール・マルクス」の中の「弁証法」の項目で、弁証法についての概括をしていますが、この原稿を出版社に送ったのが一九一四年一一月のはじめです。しかし、その後も『哲学ノート』を作成し続け、一九一五年には「弁証法の問題について」という弁証法のまとめを試みています。
 レーニンは、ヘーゲルの『論理学』や『哲学史』を学び、あらためて、弁証法を仕上げることの大変さを自覚したのではないでしょうか。というのも、哲学の学習を深めるなかで、「哲学の歴史」は「認識一般の歴史」「知識の全領域」にまたがるものであり、具体的には、「個々の科学の歴史」「児童の精神発達の歴史」「動物の精神発達の歴史」「言語の歴史」などに関係し、「これが、そこから認識論と弁証法がつくらるべき知識の領域」(三二二ページ)と考えたからです。
 ですから、レーニンは、「ヘーゲルとマルクスの事業を継承することは、人間思想の歴史、科学および技術の歴史を弁証法的に仕上げることであらねばならない」としたうえで、「純粋に理論的な仕上げ」は、「〝資本論〟における帰納と演繹とのように合致しなければならない」(一一七ページ)としています。
 レーニンが「仕上げ」ようとしていた「弁証法一般の叙述」も、『資本論』における商品のように、「最も単純なもの、最も普遍的なもの、最も大量的なもの」から始まり、「この最も単純な現象のうちに(ブルジョワ社会のこの〝細胞〟のうちに)現代社会のすべての矛盾(あるいは総ての矛盾の萌芽)をあばきだ」し、それから先の叙述は「これらの矛盾とこの社会との発展を(成長をも、運動をも)、その発展の個々の部分の総和において、その発展の始めから終わりまで」展開するという構想だったようです。
 この構想はもちろんヘーゲル『論理学』を念頭においたものです。レーニンが「マルクスは〝論理学〟を残さなかったとはいえ、〝資本論〟の論理学をのこした」といっているのも、こうした構成の類似性に着目したものでしょう。
 しかし重要なことは、以上の点を論じた「弁証法の問題について」という小論文それ自体が、レーニンが弁証法の「仕上げ」を成し遂げたいという意図を示すと同時に、それをなし得ないで、全体の構想を大まかに示すにとどまっていることです。
 したがって、『哲学ノート』の一六の要素や『カール・マルクス』の「弁証法」は、レーニンにとって、ある意味で弁証法に関する中間総括であり、これをもってレーニンの弁証法の完成体とみなすことはレーニン自身も納得しないのではないでしょうか。

「一六の要素」と『カール・マルクス』の弁証法の限界

 こうしたことを前提としながら、レーニンの弁証法をみていきたいと思います。
 まずレーニンは、弁証法を認識論、つまり「認識の発生と発展、無知識から認識への移り行きを研究し、総括」 するものととらえています。そこから、「論理学、弁証法および認識論」は「同一のものである」(二八八ページ)との見解も示されることになるのです。
 人間の認識が、無知から知に、ついで知から真理に、浅い真理からより深い真理に前進していくためには、事物を弁証法的にとらえることが必要なのです。客観的事物の真理を認識するための弁証法が客観的弁証法であり、思考の方法、形式における真理認識の弁証法が主観的弁証法となります。
 レーニンは、ヘーゲルが『論理学』の最後「絶対的理念」において、弁証法を「絶対的方法」として論じているところをとりあげ、客観的弁証法として(一)「概念をそれ自身から規定すること、事物そのものがその諸関係とその発展とにおいて考察されねばならない」、(二)「事物そのもののうちにある矛盾性、あらゆる現象のうちにある矛盾した諸力と諸傾向」をあげ、次いで、主観的弁証法として(三)「分析と総合との結合」をあげ、以上の三つを「もっとくわしくは次のように示すことが出来よう」として、一六の要素を展開しています。
 この「一六の要素」のうち、客観的弁証法として取り上げられているのは、「事物の普遍的、全面的連関と相互依存」、「事物の内にある矛盾した諸傾向の闘争と展開による発展」、「否定の否定」などであり、『カール・マルクス』でもほぼ同様の内容となっています。
 ここで気がつくことは、マルクスやエンゲルスとレーニンとの違いです。マルクスとエンゲルスは、弁証法の諸法則について「ヘーゲルがはじめて包括的な仕方で、とはいえ神秘化された形態で、展開したものであって、それをこの神秘的な形態の殻からとりだし、まったく単純で普遍妥当的なものとしてはっきり意識させることが、われわれの追求した目標の一つであった」 として、ヘーゲルが『論理学』でとりあげた弁証法の諸カテゴリーを「包括的」に論じようとしたのに対し、レーニンの「一六の要素」では客観的弁証法の問題としてカテゴリーを正面から論じていないのです。「一六の要素」の中には、量と質、内容と形式、現象と本質などの幾つかのカテゴリーがとりあげられてはいますが、全面的に、正面から、取り上げられてはいません。レーニンは、客観的弁証法のいわば総論にあたる部分のみを「一六の要素」でとりあげ、各論に相当するカテゴリー論は、全面的に展開していないのです。
 レーニンが『哲学ノート』のなかで、「カテゴリーは、この特出の、すなわち世界認識の小段階であり、この網の認識と把握とをたすける、網の結節点である」(六七ページ)として、その意義を明確にしていることを考えると、カテゴリー論を展開しなかったのは、時間的余裕がなかったとみるべきものでしょう。
 また主観的弁証法については、「カール・マルクス」では全くふれられず、「一六の要素」でも、「分析と総合」、「現象から本質、そしていっそう深い本質への無限の過程」、「並存から因果性、そしていっそう深い普遍的連関への認識の過程」などがとりあげられているにすぎません。しかし、別の箇所では、「思惟は、具体的なものから抽象的なものへ上昇しながら── もしその思惟が正しいものであれば(NB)(そしてカントは、すべての哲学者と同じように、正しい思惟のことを語っている)── 真理から遠ざかるのではなく、真理へ近づくのである」(一四一ページ)と述べて、真理を認識するうえでの抽象のもつ意義を明らかにしていますので、主観的弁証法では、当然これらの意義についても触れるべきだと思われます。
 とりわけ、思惟において抽象はさけられないものであります。正しい抽象は真理に接近するが、間違った抽象は観念論につながるとした指摘は、「哲学的観念論は、認識の特徴、側面、限界の一つを、物質、自然から切りはなされた、神化された絶対者へと一面的に、誇大に、過度に発達させ、(膨張させ、ふくらませ)たものである」(三三〇ページ)との指摘とも結びつき、観念論の認識論的根拠を示したものとして重要な意義をもつものです。
 またレーニンは別の箇所では、具体的なもの(個別)から抽象的なものへ上昇しながら真理に接近することの意義を、次のように明らかにしています。
 「認識は人間による自然の反映である。しかしそれは単純な、直接的な、全一的な反映ではなくて、一連の抽象の過程であり、諸概念、諸法則などの定式化、形成の過程であり、そしてこれらの概念、法則など(思惟、科学=〝論理的理念〟)こそは、永久に運動し発展している自然の普遍的な合法則性を条件的、近似的に把握するものである」(一五二ページ)。
 したがって、「一連の抽象の過程」から生まれる概念、概念と概念を総合した判断、判断と判断を総合した推理、そして判断、推理から生まれる諸法則なども、主観的弁証法で論じられてしかるべきものです。レーニンが『哲学ノート』で指摘する「分析と総合」は、「推理の一形態」にすぎません。
 さらに、レーニンは別の箇所では、法則とは何かについて、次のように立ち入った説明をしています。「法則の概念とは、世界過程の統一と連関、相互依存性と総体性との人間による認識の諸段階の一つ」(一二一ページ)であり、「現象の静止的な反映」である。「だからこそ法則は、あらゆる法則は、狭くて、不完全で、近似的である」(一二二ページ)。したがって、「法則は、本質的な現象」であり、「法則と本質とは、現象、世界等々の人間による認識の深化を表現するところの、同一種類…の概念である」(同)。

概念論の真髄をとらえた

 とりわけ重要なのは、レーニンが実践のもつ意義を明確にし、実践を通じて客観的真理が実現されるという、ヘーゲル『論理学』の「概念論」の真髄をとらえていることです。
 「人間の意識は客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」(一八一ページ)という文章は大変有名で、よく引用されるところです。この指摘は「世界は人間を満足させず、そして人間は自己の行為によって世界を変えようと決心する」(一八二ページ)という、変革の理論と結びついて理解される必要がある。
 では、どのようにすれば世界を変革することができるのか。変革の目的は、「世界より以外のところから取ってこられたものであり、世界から独立したもの(〝自由〟)であるように見える」が、そうではなく「客観的な世界によって生み出されたもの」(一五九ページ)であり、その世界によって規定されている。
 このような客観的世界によって規定され、客観的世界によって生み出された真にあるべき姿、つまり合法則的な目的をかかげた実践によって、「概念と客観との合致としての〝理念〟へ、真理としての理念へ」(一六一ページ)到達することができるのです。
 ですから、レーニンの主観的弁証法は、次のように結論づけられています。
 「疑いもなく、ヘーゲルでは実践が、一つの環として、しかも客観的(へーゲルによると〝絶対的〟)真理への移行として、認識過程の分析のうちにその位置を占めている。したがってマルクスは、直接にヘーゲルに結びついて、実践という基準を認識論に導入しているのである:フォイエルバッハにかんするテーゼを参照せよ」(一八一ページ)。
 ここにいう「フォイエルバッハにかんするテーゼ」とは、 「人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はなんら観想の問題などではなくて、一つの実践的な問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない」 という第二テーゼを指しています。
 変革の目的にかかげられる思惟は、実践を通じて真理に高められ、その目的が真理であれば、実践を通じて現実に転化する力をもつのです。社会変革をめざすものにとって、現実性に転化する必然性と力をもつ真理、つまり真にあるべき姿をかかげることが重要なのであり、こうしてこそ社会を合法則的に変革することができるのです。もちろん、自然変革をめざす生産労働においても同様のことがいえます。
 「人間の活動は、外的現実性を変化し、その規定性を無くし(=そのあれこれの側面、質を変え)、このようにしてこの現実性から仮象、外面性および空無性という特質を取りさり、この現実性を即自かつ対自的に有るもの(=客観的に真なるもの)にする」(一八七ページ)。
 ここは、まさにレーニンの主観的弁証法にかんする結論的部分といってよいでしょう。ですからこの部分に、三本の傍線を引き「NB」と注意を促しているのです。
 こうしてみてくると、しばしばレーニンの弁証法の総まとめとして取り上げられる「一六の要素」や『カール・マルクス』の「弁証法」は、レーニンが『哲学ノート』でとりあげた弁証法の諸要素を、全面的に総括したものといえないことは明らかです。とりわけレーニンが『哲学ノート』の中で高く評価したヘーゲルの変革の立場と実践による客観的真理の実現という、主観的弁証法の中核部分が完全に欠落しているのです。
 われわれが、唯物弁証法の一般的叙述を試みるのであれば、マルクス・エンゲルスの包括的叙述の試みとカテゴリー論の展開に学ぶと同時に、レーニンの弁証法についても、「一六の要素」や『カール・マルクス』の弁証法だけを取り出すのではなく、『哲学ノート』全体から積極的なものを学び取る姿勢が重要であると思われます。

 

三、唯物弁証法の一般的叙述(試案)

 以上を前提にして、エンゲルス、レーニンの弁証法を整理し、試案を提起してみたいと思います。
 本来この仕事は、集団的論議の中で進められるべき事業といっていいでしょう。しかしそういう集団的論議の場が現実のものとして設定されていない以上、個別に様々な仕上げの試みがなされ、ちょうど哲学の歴史全体を通じて認識論が発展していったのと同様に、このような試みを積み重ね、歴史の審判をつうじて練り上げていく他はないだろうと思われます。 そうした見地から、問題提起の意味で唯物弁証法のアウトラインを以下にまとめたいと思います。

一般的叙述は体系づくりではない

 まず明確にしておかなければならないのは、弁証法の一般的叙述は、弁証法の体系づくりではないということです。完成された体系をつくることは、矛盾をすべて克服して絶対的真理に到達し、もはや認識論に関し何もすることがないことを意味するからです。その意味で、「ヘーゲルとともに哲学一般は終わる」 のです。
 「ヘーゲル以後は、体系づくりは不可能になった。世界が統一的な一体系、すなわち相連関した全体をあらわしていることは明らかであるが、この体系を認識するためには、自然と歴史の全体の認識が前提されるのであって、そういうことは、人間にはけっして達成できないことである。だから、体系をつくる者は、無限の隙間を自分のつくりごとで埋めなければならなくなる」
 その意味では、弁証法の一般的叙述は、弁証法の基本構造のみを明らかにした開かれた叙述となるべきものであり、人類の歴史の進展のなかで認識が発展していく過程をつうじてより豊かにされることになるでしょう。その土台となるのはヘーゲル『論理学』です。弁証法を包括的に論じた『論理学』を土台としつつ、その「神秘的な形態の殻」から弁証法の諸法則を取り出す作業が基礎となり、それに、マルクス、エンゲルスやレーニンとそれ以降の研究成果をつけ加えていくという作業になるでしょう。
 この点で、寺沢恒信氏の『弁証法的論理学試論』(大月書店)はもっと研究されてしかるべきだと思います。寺沢氏は、科学的社会主義の立場から、ヘーゲル『論理学』を土台として、唯物弁証法の一般的叙述を試みておられます。
 それによると、①総論としての対立物の統一、②各論としての客体の論理学と主体の論理学という構成になっています。レーニンも「弁証法は簡単に対立物の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるであろうが、しかしこれは説明と展開を要する」(一九一ページ)としていますので、まず総論としての「対立物の統一の法則」の意義と内容を明らかにしたうえで、各論として客観的弁証法と主観的弁証法を論じるやり方は妥当だと思われます。ヘーゲルが『大論理学』の「絶対理念」において、これまでの有論、本質論、概念論でとりあげてきたさまざまな「対立物の統一」の総まとめとして、弁証法一般の総論的記述をおこなっているのも参考にしうるところです。
 エンゲルスのいわゆる三法則のうち、「対立物の相互浸透の法則」「否定の否定の法則」は、総論としての「対立物の統一の法則」に含まれるものと思いますが「量から質への転化、またこの逆の転化の法則」は、むしろ各論としての「客体の論理学」におけるカテゴリーの一つになるのではないかと思われます。エンゲルス自身、「弁証法のハンドブックを編もうとしているのではな」いので「これらの法則の相互間の内的連関にまで立ちいるわけにはゆかない」 としているところも、参考になるところです。
 寺沢氏は、「客体の論理学」を、①変化の論理、── 或る定有から他の定有への変化、②発現の論理── 本質、必然性、法則とその発現、③発展の論理、の三つに区分し、ついで、「主体の論理学」を①概念、②判断、③推理の三つに区分しています。しかし、この点については異論もあるところでしょう。主体の論理学の主要テーマは、本来いかなる思考方法と思考形式によって認識が真理に到達しうるかという点にあり、概念、判断、推理だけでよいのかどうかも問題です。とくに、実践のカテゴリーが欠落していることは指摘されねばなりませんし、ヘーゲルのいう「概念」(真にあるべき姿)を論じていないのも、変革の立場からすると問題があるといわなければなりません。

1、総論としての対立物の統一(広義)

①弁証法は、真理認識の方法
 まず弁証法とは、連関、連鎖、運動する客観的世界及びその反映としての意識にかんする真理認識の方法です。
 弁証法に対立するのは、形式論理学です。客観世界および意識は、すべて、相対的固定性、恒常性をもつと同時に運動変化します。また相対的自立性、直接性をもつのと同時に、相互依存性、媒介性をもっています。ところが形式論理学は、相対的固定性、自立性を一面的に強調する論理学、認識論ですから、一種の独断論であり、真理をとらえることができません。これに対して弁証法は、すべての物事を、相対的固定性と変化の統一(同一と区別の統一)、直接性と媒介性の統一という「対立物の統一」ととらえることによって、真理を認識しうるのです。
 いうなれば、形式論理学は、ものごとを一面的にしかみないものの見方であるのに対し、弁証法は、全面的なものの見方であり、ものごとを全面的にみるためにとくに重要なのが、ものごとの主要な一面をそれに対立する他の側面とあわせてみること、つまり「対立物の統一」なのです。
 弁証法は、形式論理学を頭から否定するものではありません。形式論理学をも内に取り込んで、単にその一面性を指摘するにすぎません。

②対立物の統一(広義)
 すべての事物を、連関と運動においてとらえるには、固定、静止、自立しているようにみえる事物のなかに、肯定の要素と否定の要素とをみいだし、肯定と否定の統一、あるいは有と無の統一という対立物の統一においてとらえなければなりません。
 これを一般的な形でいいますと、或るもの(肯定)は、他のもの(或るものでないもの、否定)から区別される限りにおいて存在しますから、自立している或るものは、他のものとの連関、連鎖の中に置かれ、すべての事物は、或るものと他のものとの統一(肯定と否定の統一)として存在します。
 また或るものが、運動、変化、発展するのは、或るものの内部に、或るものであることを否定する他のものが存在しているためです。ヘーゲルのいう、定有における向他有です。或るものは、或るものの内に他のものを含んでいるから、他のものに移行(変化)することになるのです。この意味でも或るものは、或るものと他のものとの統一(肯定と否定の統一、即自有と向他有の統一)ということになります。

③対立物の統一(広義)の展開
 しかし、この広い意味での対立物の統一にも様々な形態があることをみておかなければなりません。まずすべての事物が肯定と否定の統一としてありながらも相対的に静止、固定しているのは、肯定と否定とが調和を保っているからです。こういう状態を「狭義の対立物の統一」あるいは「対立物の調和的統一」といってもよいでしょう。
 では、事物が運動するとき、この対立物はどうなるのでしょうか。
 例えば、事物の生成、消滅を考えてみると、生成とは、無から有への移行であり、消滅とは、有から無への移行なのです。このような運動は、「対立物の相互移行(相互浸透)」または、「対立物の同一」としてとらえられることができます。電気におけるプラスとマイナス、作用と反作用などがこの例にあたります。
 さらに発展といわれる運動には、事物の内部に肯定と否定の調和的統一を保ち発展する萌芽からの発展と、事物の内部にある、対立が激化して肯定と否定とが相互に排斥しあうに至り(=矛盾)、ついには矛盾の激化により、肯定と否定の対立を止揚した新しい質をもった事物が誕生するに至るという発展があります。レーニンは、「思惟する理性(知性)は、差異的なものの鈍い区別、表象の単なる多様性を、本質的な区別、対立にまで鋭くする。多様性は、矛盾の絶頂にまで高められてはじめて、相互にたいして活気があり、生きいきとしたものになり、── 自己運動と生動性との内在的脈動である否定性をえるのである」(一一三~四ページ)と述べて、鈍い区別から、対立、矛盾へと自己運動することを明らかにしています。
 調和から対立へ、対立から矛盾へ、矛盾から矛盾の止揚へという運動の過程は「対立物の闘争」とよぶことができます。矛盾の止揚による新しい質の誕生は、或るもののうちに或るものを否定する要素が生まれてその結果或るものが一度否定され、ついで、或るものがその内部の肯定と否定という対立物の闘争をつうじてもう一度否定されるところから、「否定の否定」とよばれています。
 矛盾の定立と止揚を通じて、すべての事物は真理に向かって自己運動をしてゆくのです。
 「〝すべての自己運動の原理〟、〝運動〟への〝衝動〟および〝活動性〟への〝衝動〟、――〝死んだ有〟の対立物」、これが「ヘーゲル主義の核心」だとレーニンはいっています(一一一~二ページ)。

2、客観的弁証法

①すべての事物は、固定性(自己同一性)を保ちつつ、変化(区別)している
 客観世界におけるもっとも普遍的でかつ、単純な事実は、すべての事物は、相対的に固定した姿をもちつつ、しかも変化しているという事実です。いいかえれば、すべての事物は、同一性を保ちつつ、同一ではなくなっている(区別されている)という意味で、同一と区別の統一という対立物の統一であるということができます。またそれは、同一で「ある」と同時に同一で「ない」という意味で、有と無の統一ということもできます。

②すべての事物は普遍的連関、連鎖のなかにある
 すべての事物が何故変化するのかといえば、自立していると同時に他のものによって媒介されているからです(「直接性と媒介性の統一」)。或るものは、「他のものではないもの」ですから、他のものの否定として存在していますが、或るものと他のものとは、限界において接すると同時に区別されているのです(「限界における同一と区別の統一」)。したがってあるものは、その限界を超えると或るものとしての同一性を失い他のものに移行します。
 また客観世界における事物は、全て個別として存在していますが、同時に普遍でもあります。例えば「この犬」は、個別であると同時に「犬」という普遍でもあります。したがって、すべての事物は「個と普遍の統一」として、普遍的連関のなかにおかれていることになり、「この犬」も「あの犬」も同じ犬だという連関の中におかれることになります。

③すべての事物は自己のうちに、肯定と否定の対立する要素をもっており、この対立物の統一としてあることによって運動する
 生成、発展、消滅という運動一般は「有と無の統一」としてとらえることができます。反発と牽引、酸化と還元、同化と異化、遺伝と進化などを、その例としてあげることができます。
 カテゴリーの問題としては、「量と質」「本質・法則と現象」「内容と形式」「内的なものと外的なもの」、「可能性と現実性」「偶然性と必然性」「原因と結果」「因果関係と相互作用」「目的と手段」「目的論と機械論」「自由と必然」などをあげることができるでしょう。
 各カテゴリーの詳細については、拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』を参照してください。

④すべての事物の内部における肯定と否定の二つの要素は、一定の条件のもとで対立物の相互移行(対立物の同一)をもたらし、また対立から矛盾へと移行し、矛盾は止揚して飛躍(漸次性の中断)をもたらす
 前にもふれましたが、「量から質への転化、またその逆の法則」といわれるものは、対立物の相互移行の一事例ということができます。
 矛盾の止揚(否定の否定としての再肯定)は、断絶的発展ではなく、古い肯定の要素を引き継ぐ継承的発展ですから、「古いものへの外見上の復帰」をもたらす、らせん型の発展となります。

3、主観的弁証法

①主観は客観を反映し、無知から知に、知から真理に至る無限の人類史的過程
 唯物論的反映論は、実践を媒介とすることにより、長い人類史的過程を通じて究極的に「主観と客観の同一」、「思考と存在の同一」が実現されるという、客観的真理を肯定する立場に立ち、不可知論、客観的真理否定論と対決しています。
 しかし、客観的、絶対的真理は、人類史的過程を通じて、究極的に実現されるものですから、現実の人類の認識は、「相対的真理と相対的誤謬の統一」としてしか存在しえません。しかし、認識と実践の反復作業により相対的真理の粒を大きくし、相対的誤謬の粒を小さくすることを通じて、客観的真理に向かって無限に前進して行くのです。また人類の無限の認識は、有限な個人の認識としてしか存在しえませんから、認識は「有限性と無限性の統一」であり、「個(人)の認識と普遍(人類)の認識の統一」となります。論理の発展は、人類の歴史の歩みに照応しているという意味では「論理的なものと歴史的なものの統一」ということもできるでしょう。
 認識の正しさは、実践を通じて検証されますから「理論(認識)と実践の統一」が真理認識のために必要であり、実践から切り離された理論は、真理に到達することができません。

②実践による主観と客観の統一
 マックス・ウェーバーは、科学の没価値性を主張しました。科学によって、自然や社会がどうあるのかを認識することはできるが、どうあるべきかを論じることはできないとして「存在と当為」「事実と価値」の分離を主張しました。この考えに立てば、世界が「どうあるか」を論じる「存在」については科学の対象として真理を問題とすることはできるけれども、世界が「どうあるべきか」の問題は、「当為」として価値判断の対象になるにすぎないから、価値観の相違によって、多様な結論が導き出されるのであって、真理は問題にならないとします。
 これに対して、唯物弁証法は「存在と当為の統一」「事実と価値の統一」を主張します。つまり、自然や社会が「どうあるか」を知ることは、「どうあるべきか」を知ることであり、科学の任務は「どうあるべきか」という「当為」を提起し、それを変革の目的として実践し、自然や社会をあるべき姿に発展させること=合法則的に発展させることにあると考えるのです。いわば、真理は「存在」についてのみ認められるのではなくて、「当為」についても認められるとする立場に立っています。「当為の真理」とは「真にあるべき姿」(=ヘーゲルのいう「概念」)を意味しています。実践を反復することによって当為の真理となり、「当為の真理」(主観的真理)は変革の目的となって実践されることにより客体化され、主観と客観の統一が実現されます。
 科学的社会主義を理論的基礎とする日本共産党は、社会の「真にあるべき姿」を国民の前に提起し、多様な価値観の存在するもとにあって「当為の真理」のもつ力によって国民の大多数を統一戦線に結集し、この多数の力によって社会を変革しようと考えているのです「当為」や「価値」に真理が存在しないことになれば、何故国民の大多数を一つの価値観のもとに結集しうるのか、理論的に説明し得ないことになるでしょう。
 「理論と実践の統一」も、その理論が「当為の真理」の場合にのみ、はじめてこの理論にもとづく実践も社会の合法則的発展に結びつくことができるのです。実践もあらゆる方向の実践が考えられます。社会進歩に結びつく実践もあれば、反動的な逆流としての実践もあります。目的を掲げた実践もあれば、目的があいまいな実践もあります。数ある実践のなかで「当為の真理」を目的とする実践こそが合法則的実践として最も価値ある実践なのです。

③解釈の立場と変革の立場
 マルクスは、「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」(フォイエルバッハにかんするテーゼ)といっています。
 解釈の立場とは、存在のみを問題とし、当為を問題としない立場です。当為を問題としないところから、とうぜん、実践も問題になりません。しかし、実践は、真理の基準となるものですから、実践を度外視した解釈の立場は、存在の問題についても、真理を認識することができません。結局は、客観的実在の認識についても、すべてを見解の相違として片づけてしまう相対主義ないし、不可知論に陥ってしまいます。
 これに対して変革の立場は、当為を問題とし、当為を実践すべき課題、目的として掲げます。実践を問題とするところから、実践によって現実化する力をもつ当為、つまり当為の真理を探究することになり、当為の真理を認識するためにも、存在の真理の認識を迫られることになります。「真にどうあるか」を知ることが、「真にどうあるべきか」を知ることになるからです。
 ですから、変革の立場に立つことによって、当為の真理のみならず、存在の真理も認識しうることになるのです。まず、変革の立場にたって、ある当為を掲げ、実践を通じて、この当為を真理としての当為に高め、さらにこの真理としての当為を実践することにより、はじめて客観世界を真のあるべき姿に変革することができるのです。

④認識を発展させる論理形式
 人間は言語を使って思考しますが、言語は具体的な事物を抽象化してとらえますから、言語は「具体と抽象の統一」です。
 思考によって、ものごとを抽象化すればするほど具体的事物から遠ざかります。正しい方向への抽象は真理に接近しますが、間違った方向への抽象は、観念論の温床となります。観念論がなかなかなくならないのは、人間の抽象化という認識能力にその根拠をもっているからです。
 言語のもつ抽象作用により、認識は、概念、判断、推理という思考形式をへて真理に接近することになります。概念は、事物の本質的特徴を反映する思考形式であり、人間の思考活動の基本的単位となるものです。しかし、概念は、連関する運動する事物を切断し、運動する事物を固定してとらえますので、形而上学的認識を生みだす根拠にもなるのです。そこで「概念を運用する技術」(エンゲルス)としての弁証法的思考が必要となります。
 法則とは、二つの本質相互間の安定した恒常的な関係を意味しています。連関と運動をとらえる一般的法則が、「対立物の統一の法則」といわれるものです。そのなかに、その展開としてのさまざまな法則があります。(第五講参照)。とくに重要なものとして、原因と結果という対立物の統一としての因果法則があります。因果法則には、現象の法則(ポスト・ホック)と必然の法則(プロプテル・ホック)とがあります。また、対立物の闘争としての発展法則も重要な法則です。因果法則は、自然現象にみられるように反復してあらわれる現象にみられる法則であるのに対し、とくに概念の発展法則は、社会現象のように一回だけの現象にもみられる法則であると同時に、実践に媒介された法則として存在と当為の統一です。存在の真理を通じて、当為の真理が認識され、それが実践されて新しい存在を生みだし、自然や社会の発展をもたらします。
 つぎに判断は、二つの概念の結合から生まれる、真または偽の主張です。「個は普遍である」という判断に示されるように、判断は、個と普遍という異なる概念を同一であるとすることにより、はじめて意味あるものとなると同時に、その判断は常に正しいのか、正しくないのかが問われることになります。
 判断には定有の判断、本質(反省)の判断、必然性の判断、概念の判断の四種類がありますが、後者になるほどより高い真理の判断となります。真理は「思考と存在の同一性」つまり、客観的事実と一致する認識を意味しますが、「存在」(客観的事実)にもいろんなレベルがあり、それに対応して真理にもいろんなレベルがあるのです。定有の判断は、事物の表面的真理をとらえる判断であるのに対し、本質の判断、必然性の判断は、より深層の真理をとらえる判断です。これに対し、概念の判断は、事物をこえた「当為」の真理をとらえる判断です。「当為」は、客観的実在に媒介されているという意味において、客観的事物の反映の一形態ですが、同時に意識の創造性の産物でもあり、この点からすれば、客観に媒介されない直接性ということができます。その意味で「当為」は、「直接性と媒介性の統一」です。概念の判断こそ最高の判断であり、最も価値ある判断です。また概念の判断は、人間に特有の判断であり、これによって人間は動物一般から区別されるのです。
 判断と判断の結合によって推理が生まれます。推理によって一つの仮説が生まれ、これにより真理に接近することができます。
 推理には、「分析と総合」「帰納と演繹」「類推」があります。
 分析とは全体から部分への移行であり、総合とは部分から全体への移行です。「分析と総合の統一」によって、一つの仮説が推理されます。帰納とは個から普遍への移行であり、演繹とは普遍から個への移行であり、「帰納と演繹の統一」によって一つの仮説が推理されることになります。類推とは、一定の類に属する物事が一定の性質をもつことから、同じ類に属する他の物事も同じ性質をもつとする推理です。類的同一性から性質の同一性を推理する、「類と性質の統一」の推理です。

⑤自由と必然の統一
 人類は、実践を媒介としつつ、自然や社会の本質、法則という必然性の真理を認識する度合いを深めることを通じて、当為の真理を認識し、それによって自然や社会を支配し、合法則的に変革、発展させてきました。いわば、必然性の真理を認識し、支配する度合いを深めることを通じて、より自由となってきました。
 その意味で人類の歴史は、自由拡大の歴史であるといってもよいでしょう。

 マルクス、エンゲルス、そしてレーニンがとりあげた弁証法には、まだまだ未発掘なもの、これまであまり光のあてられなかったものが多数あるように思われます。これらを発掘する作業と現代という時代の生みだす弁証法を結合しながら弁証法を仕上げ、科学的社会主義の理論をより豊かにしていく課題に引き続き積極的に取り組む必要があるように思われます。今回の講義がその一助にでもなれば、なおさらのこと幸いです。
 長期間の聴講に感謝致します。

 

⑴ マルクス・エンゲルス全集㉑二九八ページ。
  /『フォイエルバッハ論』古典選書、七一ページ。
⑵ 同、⑳五一九ページ。
  /『自然の弁証法』②、国民文庫、二八六ページ。
⑶ 同、⑳二二ページ。
  /『反デューリング論』①、国民文庫、二九~三〇ページ。
⑷ 同、⑳三三九ページ。
  /『自然の弁証法』①、国民文庫、三ページ。
⑸ 同、⑳三七九ページ/同、六五ページ。
⑹ 同、⑳三八八ページ。/同、七九ページ。
⑺ 同、⑳五二一ページ。/同、②二八八ページ。
⑻ 同、⑳一二五ページ。/『反デューリング論』①、国民文庫、一八六ページ。
⑼ 同、⑳三八六ページ。/『自然の弁証法』①、国民文庫七六ページ。
⑽ 同、⑳一二五ページ。/『反デューリング論』①、国民文庫、一八六ページ。
⑾ 同、⑳五三〇ページ。/同、②三〇三ページ。
⑿ 同、⑳五三一ページ。/同、②三〇四ページ。
⒀ 同、⑳五三三ページ。/同、②三〇八ページ。
⒁ 同、⑳五三六ページ。/同、②三一二ページ。
⒂ 同、⑳五三八~九ページ。/同、②三一六~七ページ。
⒃ 同、⑳五四〇ページ。同、②三一九ページ。。
⒄ 同、⑳五四〇ページ。同。
⒅ レーニン全集㉑四二ページ。
  /『カール・マルクス』新日本文庫、二二ページ。
⒆ マルクス・エンゲルス全集⑳一一ページ。
  /『反デューリング論』①、国民文庫一三ページ。
⒇ マルクス・エンゲルス全集③三ページ。
  /『フォイエルバッハ論』古典選書一〇五ページ~一〇六ページ。
  /『フォイエルバッハ論』新日本文庫、九二ページ。
㉑ 同、㉑二七四ページ。/『フォイエルバッハ論』古典選書二二ページ。
㉒ 同、⑳六一八ページ。/『反デューリング論』①、国民文庫二五〇ページ。
㉓ 同、⑳三八〇ページ。/『自然の弁証法』①、国民文庫六六ページ。

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