『人間解放の哲学』より

 

 

第一講 人間とは何か

はじめに

 十三講にわたって、科学的社会主義の立場から、自由と民主主義の問題をみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
 二〇世紀は、自由と民主主義が諸国民のたたかいによって大きく前進し、人類にとって普遍的価値をもつことが承認された世紀でした。自由と民主主義をめぐるたたかいは二〇世紀の最大の課題の一つだったと思います。今日もひきつづき、自由で民主的な世の中をつくることは世界の多くの人々の願いとなっています。
 一九七六年に日本共産党が発表した『自由と民主主義の宣言』(一九八九年補正、一九九六年一部改改定。以下『宣言』という)は、自由と民主主義について考えるとてもよい素材です。『宣言』の理論的成果に学びつつ、私自身の自由・民主主義論を述べてみたいと思います。
 科学的社会主義の学説と運動は「民主主義と自由の問題でも、近代民主主義のもっとも発展的な継承者、国民の主権と自由の全面的で徹底した擁護者として、歴史に登場」し、「あらゆる搾取から解放された、真に平等で自由な人間関係の社会──共産主義社会の建設を、根本目標」(『宣言』一九ページ)としています。そのうえで日本共産党は、現在から将来の社会主義日本にいたるまで、自由と民主主義の全面的な擁護・発展を展望し、この壮大な事業が実現にむかって前進することを宣言しているのです。
 ソ連や東欧は、国内での官僚主義・命令主義的政治・経済体制にたいする批判が高まり、民主化を求める運動のなかで崩壊しました。中国でも、民主化を求める運動が起きましたが、武力によって弾圧され(天安門事件)、それへの反省は今のところ表明されていません。
 こうした、社会主義を看板にした政権での一連のできごとは、科学的社会主義の理論と自由・民主主義との関係についてさまざまな疑問や誤解を生みだしています。その代表的なものは「科学的社会主義はほんとうに自由と民主主義の全面的な開花をめざしているのだろうか、自由と民主主義の抑圧者なのではないか」でしょう。
 他方、アメリカは「自由の国」を自称し、日本も、自民党(自由民主党)という政党が政権につき「自由主義陣営の一員」だなどとうそぶいています。これもその実態からして、そのまま鵜呑みにするわけにはいきません。
 こうしたことから、本来、自由と民主主義とは何か、科学的社会主義の理論とどう関わっているのかを、じっくり考えてみたいと思うのです。
 二一世紀は、二〇世紀以上に「自由と民主主義」が問われる世紀になるでしょうし、この点から科学的社会主義の真価も問われることになるでしょう。本書は、科学的社会主義の立場にたった自由・民主主義論のいっそうの発展につながることを願って生まれたものです。

 

一、人間の類本質

社会契約説と人間の自然状態

 「自由と民主主義」という大きなテーマの入口をどこに求めるかは、それ自体大きな問題です。
 自由と民主主義を、定式化してはじめて人類の前に提起したのは、イギリス名誉革命(一六八八年)、アメリカの独立宣言(一七七六年)、フランス人権宣言(一七八九年)などのブルジョア民主主義革命でした。とりわけイギリスの名誉革命の理論的根拠を提供したジョン・ロック(一六三二~一七〇四)と、フランス革命を思想的に準備したジャン・ジャック・ルソー(一七一二~七八)の二人は、近代民主主義を代表する人物といってよいでしょう。
 トマス・ホッブズ(一五八八~一六七九)を原点とする「社会契約説」は、社会や国家の起源を、個々人の自発的意志に基づく「契約」にもとめ、これによって自由と民主主義の理論的根拠を示そうとしました。まず自由や民主主義の問題を考えるにあたって、社会や国家の成立以前の自然状態における人間はどんな状況にあったのかという 「人間論」から出発しています。それは彼らが自由や民主主義を、人間が生まれながらにしてもつ自然権として主張しようとする、自然法思想から出発しているからにほかなりません。
 ホッブズは、人間の自然状態は「万人の万人に対する闘争」にあると考え、ここから脱するために社会契約を結び、社会・国家によって自由や平等という個人の自然権を保護してもらうことにした、といっています。
 これに対してルソーは、人間の自然状態は、戦争も競争もない自由・平等の状態だと考えました。それが私有財産制によって財産の不平等、強者と弱者の対立が生まれ、自然状態から戦争状態への転化をもたらしたというのです。ルソーは、この戦争状態を解決するものとして社会契約が結ばれ、これによって各構成員の真の自由と民主主義が実現されることになる、と説明しています。
 国家が制定する法(実定法)より以前に、宇宙・自然や人間を支配する普遍的な法が存在するという自然法思想は、封建制社会の実定法を否定するために持ち出された思想として、進歩的な役割を果たしたことは否定できません。しかし、もとより、現実に自然法なるものが存在するわけではありませんから、しょせん観念論的な思想にほかなりません。
 しかし、それにもかかわらず、人間の自然状態から出発しようという態度は、人間の本質を探究するうえで重要な視点を提供しています。すべての事物は、そのものが生まれたばかりの姿においては、本質そのものを顕わに示していますが、その後発展・変化するなかで様々の現象をつけ加えていくため、次第にその本質が見えにくくなっていきます。ですから、事物の本質を知るためにはそのものが発生したときの姿を見ればよいのです。このことをヘーゲルは、「本質とは過ぎ去った有である」といっています。
 では、なぜ人間の本質を考えてみる必要があるのでしょうか。『宣言』では、社会主義、共産主義の社会は、自由と民主主義の全面的に開花した「人間解放」の社会だといっています。人間解放は社会主義、共産主義の最大の理念といってもよいでしょう・マルクスは人間解放について「人間を人間の最高存在であると言明するようなごうした理論の立場にたってする解放」(『ヘーゲル法哲学批判序説』全集①四ニ八ページ/『ユダヤ人問題によせてヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫九六ページ)であるとしています。
 ギリシヤのデルフォイの神殿には、「汝自身を知れ」との銘が刻んでありました。「人間解放とは何か」を考えるためには、まず「人間とは何か」を知らなければなりません。そこで、人間の自然状態における本来の姿はどのようなものなのか、人間解放という場合、何からどのように解放されるのか、また解放された人間とはどのような姿なのか、という「人間論」が論じられなければならないことになるのです。そのうえで、人間の本質と自由、民主主義がどのように関連するのかを検討することにします。

人間とは何か

 さて、「人間とは何か」を考えるとき、類(人類)としての人間と、個(個人)としての人間とを区別しつつ、その関連を考える必要があります。
 アメーバから人類にまで歴史的に成長・発展する過程は系統発生とよばれ、一個の受精卵が人間として生成する過程が個体発生とよばれています。「個体発生は系統発生をくり返す」といいますが、地球上の生命が海中に誕生し、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類そして人類の誕生という三〇数億年におよぶ人類の系統発生を、人間の胎児は受精後わずか四〇日間の個体発生のなかで繰り返すのです。受精後三〇日で胎児には魚類の特徴としてのエラが浮かびあがり、三四日目に両生類のおもかげとして鼻と囗がつなかって現れ、三六日目に真横を向いていた目が正面を向きはじめて爬虫類の様相を呈し、三八日目で原始哺乳類のおもかげが現れ、四〇日目でヒトの顔立ちになります。
 したがって人間とは何かを考える場合、まず系統発生における人間、ついで個体発生における人間が検討されなければならないことになります。
 最近の研究によると、人間とチンパンジーのDNAの差は〇・六パーセントにすぎないことが明らかになりました。これほどわずかの違いなのに、どうして人間とチンパンジーとの間には、大脳の大きさにおいても生活様式においても大きな差が生じているのはなぜでしょうか。
 エンゲルスの有名な「猿が人間化するにあたっての労働の役割」は、労働そのものが人間をつくったことを明らかにしました。労働が言語と道具を生みだし、大脳を発達させ、文明の急速な進展をもたらしたとして、次のように述べています。
 「要するに、動物は外部の自然を利用するだけであって、たんに彼がそこにいあわせることで自然のなかに変化を生じさせているだけなのである。人間は自分がおこす変化によって自然を自分の目的に奉仕させ自然を支配する。そしてこれが人間を人間以外の動物から分かつ最後の本質的な区別であって、この区別を生みだすものはまたもや労働なのである」(全集⑩四九一ページ/『自然の弁証法〈抄)』古典選書版六二〜三ページ)。
 労働をつうじて生まれた、自然や社会を目的意識的に変革する自由な意識活動こそが人間と動物とを分かつ本質的な区別だというのです。ですから、人間とは何かとの問いに対しては、まず人間とは自由な意識活動をなしうる存在だと答えることができるでしょう。
 マルクスが若い頃に書いた『経済学・哲学手稿』に「生活活動の仕方のうちに一つの種の全性格、それの類性格があるのであって、そして自由な意識的な活動は人間の類性格である」という箇所があります(全集⑩四三六ページ)。
 「人間の類性格」というのは人類の本質的性格、人類として本来あるべき性格と理解したらよいでしょう。人間にとって内心の意志は、身体を使った対外的活動(実践)となってあらわれ、自然や社会を変革する力となります。したがって人間の「自由な意識的活動」という部分は、人間の自由な意志および活動と読みとればよいでしょう。
 このように、労働が人間の意識を発達させたことにまちがいはありません。しかし、最近の研究では、サルでも原始的な言語や道具を使って食物を採取する(労働する)ことが観察されているところから、人間とサルとの決定的な違いを社会化に求める見解もでてきています。
 人間は「自然を社会化」することによって人間化したというのです。この場合の「社会」とは、たんなる人間の集団(動物の群)ではなく、「人間が周囲の自然に働きかけてつくりだしたみずからの存在する場──それには道具、家、家畜、作物、集落、道等々がふくまれようIIをふくめ、家族関係と生産関係にもとづく人間関係とで構成されるもの」を意味します(小原秀雄『人〔ヒト]一に成る』大月書店一三ページ)。つまり人間が人間になるために必要な共同体が、社会というわけです。
 小原氏は、歴史的に人間になるということは、二つの過程、すなわち、サルから人間への人類の歴史的変化の過程と、自然の社会化、つまり、具体的に人間の生存する場(社会)を形成する過程との統一であり、この二つの過程の統一を媒介するものが労働と道具であるととらえています(同一四ページ)。
 動物は群をなすことはあっても社会をつくりません。しかし、人間は労働を媒介にして自らの存在する場である社会をつくり、社会という共同体の一員として生活するなかで、人間としての「自由な意識的活動」を発展させてきたのです。このように、人間と社会とを相互媒介的な人類の成長・発展の契機とみることは、人類とチンパンジーの間におけるDNAの違い以上の大きな違いを生じた原因を、合理的に説明するものとなっています。
 また、マルクスも別の箇所では「人間の本質は、人間が真に共同的な本質であることにある」(「ミル評注」全集⑩三六九ページ)と述べたうえで、人間の共同的本質とは「自己を確証しつつある人間本質、類的生活、真に人間的な生活のために人間が営む相互的な補完行為」(同)にある、としています。
 人間は、個々の存在において、有限な存在です。有限な存在であることを相互に承認しあい、人間は個々の有限性を相互に補完しあうことによって、個々の人間のもつ有限性をのりこえる社会共同体を生みだしていったのです。また人間は共同体の一員として生活することによって類本質としての「自由な意識」をもつ存在となり、自己を確立することができるのです。

 

二、自由な意識と共同社会性

類本質としての自由な意識活動

 人類の類本質としての「自由な意識的活動」と共同社会性との関係に注目した人として、鈴木茂氏がいます。鈴木氏は「マルクスにおける人間と歴史」(鈴木茂論文集―『理性と人間』文理閣)において「『自由な意識的活動』とそれに照応した共同的社会性とは、個々人をこえて種としての人間が身につけた生得的な本性である」(『理性と人間』六五ページ)とする「系統発生的な人間史観」を展開しています。そのなかで、人間の共同的本質と人間の「自由な意識的活動」とはひとつのものであり、「そういう人間的共同体のなかでだけ、いずれの人間の自由な生命の発現も他の人間の自由な生命の発現になり、いずれの人間の自由な生命の享受も他の人間の自由な生命の享受になるからである。こういう共同的な補完関係のないところには、『自由な意識的活動』もありえないだろう」(同五ハページ)と述べています。
 こうした系統発生的人間史観を、マルクスは「初期の諸文献から『資本論』にいたるまで」(同六五ページ)変わりなくもち続けたとしたうえで、鈴木氏は「フォイエルバッハに関するテーゼ」の検討に入ります。問題とされる第六テーゼは「人間性は一個の個人に内在する抽象物ではおよそない。その現実性においてはそれは社会的諸関係の総体(アンサンブル)である」(全集③四ページ/『フォイエルバッハ論』古典選書版一〇七ページ)というものです。
 この第六テーゼは、人間の本質は不変なものではなくて、特定の社会的形態のもとでの特定の社会的諸関係だけに源泉をもっているという意味だと一般的には解されています。しかし鈴木氏は「人間の種の全性格をしめすものになった類本質、人間の『自由な意識的活動』や共同的社会性は、巨視的にみれば、マルクスにとっても不変なものに違いない。社会的諸関係の総体が、そのときときの歴史の発展諸段階のなかで、どのような形態をとろうとも、人間の類本質はかわらない。かわるのは、それが転倒されたり歪曲されたり、歴史の諸段階におうじてうけとる変形された形態だけである」(鈴木前掲書七〇ページ)と述べています。
 マルクスも『資本論』のなかで、ベンサムの功利主義を批判して、人間の本質と現象の関係を次のように述べています。
 「たとえば、犬にとってなにが有用であるか?を知りたければ、犬の本性を極めなければならない。この本性そのものは『功利主義』からは構成されはしない。人間にあてはめれば、人間のあらゆる行為、運動、諸関係などを功利主義に従って評価しようとすれば、問題になるのはまず、人間性一般であり、次にはそれぞれの時代に歴史的に変化させられた人間性である」(『資本論』④一〇四九ページ/〔Ⅰ〕六三八ページ)。
 そもそも本質とは「不変なもの」を意味しています。その事物にあって、時代を経ても変わらないものが本質とよばれるのです。ですから、人間が社会的諸関係のもとで、いかようにも変化するということになれば、人間には本質が存在しないことになってしまいます。しかし、人間が人類という固有の種であるかぎり、人類という種としての本質をもち、その本質はいかなる時代にあっても存在し続ける「不変なもの」でなければなりません。
 人間の類本質は、人類の誕生・発展の数百万年におよぶ歴史をつうじて形成されてきたものです。人類史の大半を占める原始共同体社会において、その本来の姿を素朴な形であらわしていました。それが、階級社会に突入していくなかで歪曲され転倒された形態をうけとることになります。しかし、長い人類史の過程からみればほんの一断片にすぎない階級社会をのりこえるなかで、人間の類本質、つまり「自由な意識的活動」と共同社会的性格は、いっそう成熟したその本来の姿をとりもどすことになる。この鈴木氏の人間の類本質にかかわる考察は、人類の原始状態に即して考えてみると、その意義がひときわ鮮明になります。

古代社会における人間

 モーガンの『古代社会』(岩波文庫など)は、階級や国家の成立以前の原始共同体における社会制度の根本的特徴を明らかにした著作です(エンゲルスはこの著作に関するマルクスの摘要をもとに『家族、私有財産および国家の起源』を著わしました)。
 研究の対象となったのはネイティブ・アメリカン(いわゆるインディアン)でしたが、彼らの社会の基礎をなす単位は、血縁関係で結ばれた氏族です。氏族には、青年の男女氏族員の全員からなり、みなが平等の投票権をもつ民主的な会議があります。この会議は、氏族のサケマ(平時の首長)と首領(軍事指揮者)とを選挙によって選び、また任意に解任するなど、氏族の至上権力としてすべてを解決していました。また氏族員はたがいに援助し、保護しあう義務を負っていました。
 エンゲルスは、この原始共同体について驚嘆の声をあげつつ、次のように述べています。「いかにも子どもらしく単純であるにもかかわらず、この氏族制度は、なんと驚くべき制度であろう!兵士も憲兵も警察官もなく、貴族も国王も総督も知事も裁判官もなく、監獄もなく、訴訟もなく、それでいて万事がきちんとはこぶ。喧嘩や争いはすべて関係者の全体、すなわち氏族または部族によって解決されるか、あるいは個々の氏族と氏族のあいだで解決される。……共同の事務は今日よりずっと多いけれども……(略)……現代の広範複雑な行政機構の一片さえも必要でない。……共産主義的世帯と氏族は、老人や病人や戦争不具者にたいする自分たちの義務をわきまえている。万人が平等で、自由であり、──女もまたそうである」(全集⑨九九ページ/古典選書版一三〇ページ)。
 このエンゲルスの指摘は、次の点て重要な意義をもつものです。
 第一には、原始共同体、つまり原始共産制の社会においては、人間はその類本質をあらわし、「自由な意識」と共同社会性を実現していたこと。
 第二には、原始共同体においては、「自由な意識」と共同社会性のあらわれとして、素朴で原始的な形態ではあるとしても、自由と民主主義の社会であったこと。
 第三には、自由と民主主義とは、無関係のものではなく、相互に関連し影響しあう、対立物の相互浸透の関係にあること。モーガンは「自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった」 (『古代社会』岩波文庫、㊤一二三ページ)ことを強調し、エンゲルスも『国家の起源』でここを含む部分を引用しています(全集㉑九二ページ/古典選書版一二〇ページ)。この点は、これから自由と民主主義の関係を論じるうえで、重要なヒントを与えてくれるものです。
 第四に、エンゲルスはこのような自由と民主主義の社会が、どんな個体としての人間を生みだすかを、熱をこめて語っています。
  「こういう社会がどんな男女を生みだすかは、まだ堕落していないインディアンに接触したすべての白人が、この未開人の人格的威厳、率直さ、性格の強さ、勇気に驚嘆していることが、これを証明している」(同九九ページ)。これこそ本来の人間の姿といってよいでしょう。そして、この本来の人間と対比されるのが、階級社会の産物としての、歪められ転倒した人間群像です。
  「新しい文明社会、階級社会をひらくものは、低劣きわまる利害──いやしい所有欲、獣的な享楽欲、きたならしい貪欲、共有財産の利己的な略奪──である。古い無階級の氏族社会を堀りくずし、引き倒すものは、破廉恥きわまる手段──窃盗、暴行、奸計、裏切りである。そしてこの新しい社会そのものは、それがつづいてきた二五〇〇年の全期間をつうじて、搾取され抑圧される大多数者を犠牲としてのわずかな少数者の発展以外のものであったことはかつてなく、そして、これが今日ほどはなはだしかったときはなかった」(同一〇一ページ/古典選書版一三二ページ)。

 

三、個の発展

種(しゅ)と個の関係

 以上、人間の類本質が「自由な意識」と共同社会性にあり、そこから自由と民主主義が人間の本質的要求となってあらわれるという、人類の系統発生をみてきました。そこで今度は、個体発生の問題を考えてみることにしましょう。
 先に紹介した小原氏の著作(『人[ヒト]に成る』)には、種と個体の関係について興味ある記述がみられます。
すべての生物は、特定の種としての形質を備えたものとして存在しています。種としてのあり方が個々の個体に反映されて、種個体が存在し、個体は生命を維持し生活を営む単位となり、個体が維持されることをつうじて種が維持されることになります。
 生物は全て種と個体から成っていますが、下等な生物ほど個体は種に埋没して、個体性は明確になりません。自生の植物では、その個体性がはっきりしない種が多いのです。動物でもサンゴやホヤなどの原始的動物では個体性は不明確で、どれもみな同じように見えます。「動物の進化は個体と個体性を生みだし、個性を発達」させてきたのです(『人[ヒト]に成る』一五六ページ)。
 人間の個体は、社会との関わりのなかで、その労働と学習をつうじて、個性を発達させていきます。その社会において、個性豊かな個人の存在することは、人類の進化の度合いを示すものとして、積極的に評価されるべきものなのです。
 生まれたばかりの子どもは、社会の一員として成長するなかで個性を発展させ、基本的に「自由な自己意識」と共同社会性を身につけた人間としての類本質をもちつつ、個性をもつ一個の人格として存在するに至ります。
 マルクスは個の発展の問題でも、なかなか含蓄に富む見解を示しています。
 「人格的依存関係(最初はまったく自然生的)は最初の社会形態であり、そこでは人間の生産性はごく小範囲でまた孤立した地点でだけ発展する、物的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は、第二の大きな形態であり、そこで一般的な社会的物質代謝、普遍的な対外諸関係、全面的な欲望、そして普遍的な力能といった体制がはじめて形成される。諸個人の普遍的な発展のうえに、また諸個人の社会的力能としての彼らの共同体的・社会的な生産性を従属させることのうえにきずかれた自由な個性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす」(『経済学批判要綱』Ⅰ 大月書店七九ページ/『マルクス資本論草稿集』①大月書店一三八ページ)。
 人間社会の進歩・発展に応じて、個性も発展してきた、とまず大きくとらえたうえで、個の発展を三つの段階で論じています。

個の発展と個人の尊厳

 第一段階は、生産力が低く、人類も局地的にしか存在しない原始共産制社会の個人です。ここではまだ個体は、自立した人格として形成されず、種としての人類のなかに埋没したままの「人格的依存関係」のなかにおかれています。
 第二段階は、生産力が次第に発展し、持つものと持たざるものとの対立が明らかになってきた階級社会をとらえたものです。ここでは社会の発展に応じて、人格的独立性がより広く、大きく承認されることになりますが、常に階級的支配・従属の刻印をまとっているために「物的依存性のうえにきずかれた人格的独立性」が認められるにとどまります。この段階に入ると人類も地球全体に広がり、全地球的規模で農耕、牧畜が行なわれるようになり。
 「一般的な社会的物質代謝」の体制が形成されることになります。奴隷制社会には、奴隷所有者の人格は存在しても、奴隷は牛や馬のような家畜と同じ扱いであって、その人格は認められません。封建制社会になると、農奴には一応の人格は認められますが、封建的な身分制度に縛りつけられていて、制限された人格が存在するのみです。資本主義社会になると「身分から契約へ」といわれるように、労働者も形式的には資本家と自由、対等な人格として、労働契約の当事者になりますが、実質的には賃金奴隷の地位に生涯縛りつけられています。しかし、形式的にしろ自由な人格をもつ労働者階級は、階級としての団結を強め、資本主義的搾取の廃止を求めてたたかいに立ち上がります。「第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす」のです。
 第三段階は、社会主義・共産主義の社会です。ここでは、人間は社会の主人公として「共同体的・社会的な生産性」を、人間の支配のもとにおき、人間に「従属」させることになります。こうして人間が社会の主人公になったとき、種としての人間も全面的に開花すると同時に、個体における個性も全面的に開花し、「自由な個性」が生まれてくるのです。マルクスは共産主義社会を「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」(『資本論』④一〇一六ベージ/〔Ⅰ〕六一八ページ)と位置づけています。
 日本共産党「第一五回大会決定」はこの点に注目し、マルクスは、発達した資本主義が社会主義にひきつぐべき歴史的遺産として、高度の物質的生産力とあわせて「社会主義、共産主義の社会の構成員となる、人格的に自立し、豊かな個性と能力をもった自由な人間自体」が準備されることを強調した、といっています(『前衛』臨時増刊四五〇号一〇六ページ)。
 個々の人間は、「自由な意識」をもつ主体です。そして、個の発展のなかで、個々の人間が自己を無限に真理にむかって発展する「自由な意識」の主体であることを卦覚し、そのことをつうじて、個々の人間の相互間に「自由な意識」の主体であることを毫譛しあう険階におで到金串をむ、個々の人間は、たんなる主体からひとつの人格に転化します。一人ひとりの人間は、「自由な意識」という人間の類本質を有する独立した自由な人格として尊重されるようになってきます。これが「個人の尊厳」といわれるものなのです。
 個人の尊厳とは、何よりも人間が権利の主体として認められることを意味し、その生命の尊重、人格的自由、人間らしく生きる権利などが含まれます。
 このような、個の発展のなかで生まれた個人の尊厳が、近代民主主義のもとで、基本的人権という形で定着することになります。日本国憲法匸二条に「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定されているのは、その趣旨を明らかにしたものといえるでしょう。
 近代民主主義と個人の尊厳については、講をあらためて詳しく述べたいと思います。