『人間解放の哲学』より

 

 

第二講 自由とは何か

一、真理はわれらを自由にする

自由とは他のものの制約がないことか?

 第一講で、人類が人類として誕生してくるなかで身につけてきた類本質として、「自由な意識活動」と共同社会性とがあることをお話ししました。「自由な意識活動」が、「自由」という概念を、共同社会性が「民主主義」という概念をそれぞれ生み出し、自由と民主主義は人間の類本質となったのです。今回は、この点をもう少し詳しく検討してみることにしましょう。
 まず「自由な意識活動」という場合の、「自由」とは何を意味しているのでしょうか。最初に思い浮かぶのは、他のものの制約をいっさい受けることなく自分自身で考え、行動するということでしょう。
 しかし、他のもの(他人、社会、自然)の制約一干渉をいっさい受けないで、生きていくことができるかといえば、それはできそうにもありません。「天上であれ、自然の中であれ。精神の中であれ、或いは他の如何なる所であれ、この直接性とともに媒介を含まないようなものは何一つとして存在しない」(『大論理学』岩波書店ヘーゲル全集、上巻の一、五八ページ)とヘーゲルがいうとおりです。
 全てのものは、直接性と媒介性の統一にあるというわけです。一見すると自立していて、自分だけで直接的に存在するようにみえても、実は他のものに制約され、干渉を受け、媒介されて存在しているのだ、というのです。
 となると、自由も他のものとの媒介のなかでしか考えられないことになりますが、媒介、制約のなかでの自由とは、どんな状態を意味するのでしょうか。他のものとの媒介に目をそむけ、自分の内に閉じこもってしまうのも自由の一つのあり方でしょう。また他のものを無視して、強引に自分をつらぬきとおすのも、その一つのあり方でしょうし、逆に他のものの制約に抵抗するのも、その一つのあり方でしょう。
 しかし、こういうあり方で本当に自由な意識といえるのか、といえば疑問が残るといわざるをえません。他のものとの媒介、制約をいくら否定しようとしても、それを完全に否定することはできないからです。たとえていえば、孫悟空と釈迦の関係です。孫悟空は、ひと飛び十万八千里の劬斗雲にのって、釈迦の手のひらから飛び出そうとしました。地の果てまで飛んでいき、そこにあった五本の柱の一本に「ここまで来たぞ」と書きしるして、帰ってきたところ、それは釈迦の中指だったというのです。自分でいくら自由だと思っても、他の人たち(社会)との関係のなかでしか人間は生きられない。社会という釈迦の手のひらの中なのです。

自由は必然を前提とする

 他のものに媒介されつつ、自由であるためには、「媒介を揚棄(ようき)されたものとして自己のうちに含む」ことが必要なのです。この点を明らかにしたのは、ヘーゲルの大きな功績です。
 へーゲルは、「自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(『小論理学』岩波文庫㊦一一六ページ)といっています。媒介する他のものの必然性(法則性)を認識し、あらかじめ意識した目的の対象として他のものを自由自在に操作することによって、「媒介を揚棄して自己のうちに含む」ことができるのです。
 エンゲルスは、『反デューリング論』のなかで、この点をとらえて、次のようにいっています。
 「自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによつて、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある」(全集⑳巻一一ハページ/『反デューリング論』古典選書版一六三ページ)。
 他のものの媒介、制約、支配から逃れて自由になろうとして、それに目をふさいで内にとじこもったり、逃げだしたり、抵抗したりすれば、それは形式的に自分の自由な意思で行動していますから、一定の自由であるということはできます。しかしより大きな目でみると、こうした自由は、結局は他のものに支配された不自由さのなかにとらわれていますから、真の自由ということはできないのです。
 「無知にもとづく不確実さは、異なった、相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、みずからの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象にみずから支配されていることを、証明するのである」(同)。
 ですから、人間が真に自由になるためには、形式的な意志決定の自由、選択の自由にとどまっていてはだめなのです。自然や社会、国家など、人間をとりまく他のものの一切が、どのように人間の意志を制約、干渉、支配しているのか、その必然性(法則性)を認識し、自然や社会、国家を目的意識的につくりかえ、人間が自然や社会、国家そして人間自身の主人公となって、これらのものを支配することが求められているのです。
 「だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である」(同)。
 人間は、自然や社会の必然性に盲目的に支配される不自由な状態から、類としての認識の発展のなかで、自然や社会の必然性を次第に広く、深く認識するようになり、必然性の支配から抜け出し、逆に必然性を支配するようになる。その度合に応じて自由になっていったのです。
 自然や社会の必然性を認識するとはどういうことでしょうか。すべての事物は、表面的な姿(現象)の奥に、隠された真実としての本質をもっています。現象は、移り変わりますが、本質は不変なものです。この不変な一つの本質と他の本質との一定の関係は、不変なもの同士の関係として、安定した必然的な関係を形成します。この必然的連関をとらえたものが法則です。法則のよく知られたものとして、因果法則、発展法則があります
 ですから人類の認識が、現象から本質へ、本質から法則へと進むことは、より深く真理を認識していく過程なのです。しかし人類の認識は、法則の認識にとどまるものではありません。なぜなら法則を認識するにとどまることは、人間が自然や社会という他のものによって、「どのように支配されているか」を知るにとどまることになるからです。
 第一講でみてきたように、「人間は自分がおこす変化によって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配する」 (全集⑳巻四九一ページ/『自然の弁証法〈抄』』古典選書版六三ページ)存在であり、自然や社会を目的意識的に変革し、支配する自由な意識活動の主体という類本質をもっているのです。
 人間は、自然や社会を目的意識的に変革し、支配するために、「どのようにあるか」を知ることをつうじて、「どのようにあるべきか」についての必然性をも認識するに至るのです。それは言いかえれば、「どのように支配すべきか」の認識といってもいいでしょう。
 このような、自然や社会のあるべき姿の真理、「真にあるべき姿」を、ヘーゲルは「概念」とよんでいます。人間の認識は、現象から本質、法則へ、そして法則から「概念」にまで到達することによって、はじめて最高の真理に到達するのです(拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』参照)。
 人間は、「概念」という真理を認識する度合に応じて、「われわれ自身ならびに外的自然を支配」し、自由になってきたといってもいいでしょう。
 国立国会図書館法前文には、「真理がわれらを自由にする」という文があります。新約聖書(ヨハネ福音書第八章三二節)に由来する言葉ですが、「概念」という真理を認識することがわれらを自由にするという意味であり、自由と真理の関係をみごとにとらえたものとなっています。また、この句は広島県労働者学習協議会のスローガンとして採用され、「一粒の麦叢書」刊行の精神でもあることを、一言ここで付言しておきたいと思います。

 

二、自由の歴史性

類本質として、歴史的発展として

 さて、ここで、「人間の類本質としての自由」という見地と、エンゲルスのいう「自由は、必然的に歴史的発展の産物である」ということとのかかわりを検討してみましょう。
 人間は、原始共産制の社会において、低い生産力のもとでみんなが力を合わせ、いわばタンゴ状になって共同して生産し、生産物を共有して、やっと生きながらえることができました。個々の人間は、まだ社会共同体のなかに埋没していて、個性は未分化なままです。個々人は共同体に埋没しつつも、みんなが助けあって生きており、各人の自由も無自覚、未分化のままのものとして存在していました。原始共産制という社会は、自由と共同が未分化のまま一つになっていた社会といえるでしょう。
 人間の「自由な意識活動」は、目的意識的な生産労働という、自然の変革に立ち向かうなかで発揮され、発展していきます。マルクスは、「自由な意識的な活動は人間の類性格である」と述べたうえで、人間と動物の生産の違いをあげ、動物は、「一面的に生産をするのにたいして、人間は普遍的に生産をする」、「動物はただそれ自身のみを生産するのにたいして、人間は全自然を再生産する」(「経済学・哲学手稿」全集㊵四三七ページ/『経済学・哲学草稿』岩波文庫九六ページ)ことをあげています。人間が、自然の法則性を認識することをつうじて、自由に「全自然を再生産する」という点では、原始共産制の人間は、きわめて限られた自由しかもっていなかったということになります。
 人間は類本質として自由な存在であることに間違いありませんが、人類として誕生して間のない時代の自由は、自然を支配するという意味では、ほとんど不自由といっていい状態でした。社会的な意味でも人間が意識的に社会の主人公となるのではなく、社会の必然性に盲目的に支配されている状況の下での限られた自由の享受でしかありません。
 人類は、類本質としては自由な存在でありながら、自然的にも社会的にも、その必然性に盲目的に支配され、極めて制限された自由(不自由)から出発しながら、その自由を自然的にも社会的にも歴史的に発展させ、次第に自然や社会そして人間自身の主人公に成長、発展していくことになるのです。

エンゲルスの自由論とマルクスの自由論

 ここで一言のべておきたいのは、エンゲルスが「われわれ自身ならびに外的な自然を支配」するといっていることの意味あいです。この場合の「外的な自然」が、自然と社会を意味することはいうまでもありません。問題は「われわれ自身を支配する」とは何を意味するかにあります。人間も一個の自然的存在として、人間として生きるうえでの必然的な法則をもっています。何よりも生きるために、衣、食、住が充足されねばなりませんし、その動物的基礎のうえに、自由な意識と共同社会性という人間の類本質が実現されねばなりません。こうした人間の必然性をも自分自身のものとし、人間が人間らしく生きるということが「われわれ自身」を支配し、人間が人間自身の主人公になるということなのです。
 この点を指摘したのがマルクスの自由論です。
 物質的生産の「領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝……を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、……この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国がI-といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるがI-始まる。労働日の短縮が根本条件である」(『資本論』⑬一四三五ページ/〔Ⅲ〕八ニ八ページ)。
 不破哲三氏は、「ここでマルクスが『自由』といい『必然性』という意味はエンゲルスの場合とは違っていることに注意する必要」がある(『エンゲルスと資本論』㊤新日本出版社三〇二ページ)としたうえで、次のように指摘しています。
 「人間が自然と社会を支配するという意味でのエンゲルスの説く『自由』」は、「物質的生産の領域での『自由』に通じるとらえ方」であるのに対し、マルクスによれば、それは「『必然性の王国』の枠内での『自由』にすぎないわけで、マルクスは、あくまで人間が自分自身の精神的・肉体的な発達を『人間生活の目的』とするところに、真の自由を見た」として、マルクスの自由論は、「『反デューリング論』でエンゲルスが展開した自由論と次元の違うもの」(『エンゲルスと資本論』㊦二四九ページ)だとしています。
 たしかに、マルクスとエンゲルスとでは、自由と必然の意味に若干の違いがあることは、不破氏の指摘されたとおりだと思います。しかし両者の自由論に「次元の違い」があるのかといえば、そうではないだろうと思います。
 生産手段を社会化して搾取をなくし、生産の無政府状態に代わって、計画的、意識的な生産をするようになれば、人間は社会という「外的自然」の主人公となることができます。しかし、もし誕生した社会主義社会の生産力が低くて、一日にI〇時間も匸一時間も働かないと社会全体の「生存の自由」を確保できないとしたら、いくら労働自体が強制のない、自由な意識の表現の場であるとしても、その労働が苦痛にかわることは、人間の必然性です。人間は、自由な労働に生きる喜びを感じますが、過度の労働は、その喜びを苦しみに転化してしまいます。マルクスは、『剰余価値学説史』のなかで、労働時間と自由の問題を次のように論じています。「自明のことであるが、労働時間そのものは、それが正常な限度に制限されることによって、さらにそれがもはや他人のためのものではなく自分自身のためのものとなり、同時に雇い主対雇い人などの社会的な諸対立が廃止されることによって、現実に社会的な労働として、最後に自由に利用できる時間の基礎として、まったく別な、より自由な性格をもつようになる」(全集㉖Ⅲ三三七ぺージ/国民文庫⑧四三ページ)。労働時間を短縮して、十分な睡眠と自分自身の精神的、肉体的発達の時間が保障されることによって、人間性を全面的に発達させることができます。それらの条件のもとで、はじめて「われわれ人間自身の自然的必然性の認識にもとづいてわれわれ自身」を支配することが可能になり、私たちは、人間としての自由を享受し開花させることができるのです。エンゲルスの自由論が、「外的自然」とあわせて、「われわれ自身」を支配することを含めているのには、このような意味があるものと思われます。したがってエンゲルスの自由論を「物質的生産の領域での自由」に限定して考えるべき理由は存在しないといっていいでしょう。
 またマルクスが、計画的、意識的な物質的生産を「まだ依然として必然性の王国」だといったのも、これだけではまだ人間としての自由が実現されておらず「外的自然自体を支配する」にとどまると考えたからだと思われます。
 その意味では、マルクスもエンゲルスも、「外的自然の支配」と「人間自身の支配」とがあいまって、真の自由が実現されると考えたものであり、マルクスとエンゲルスの自由論の間に本質的相違はない、といつてよいでしょう。

媒介性を否定する自由

 先にお話ししたように、すべてのものは直接性と媒介性の統一であり、媒介性を揚棄して自己のうちに含むところに自由があります。
 しかしそれでは、他者に媒介され、他者の制約一干渉・支配を受けているもとでは、媒介性を揚棄しないかぎり一切の自由が否定されるのかといえば、そうではありません。その他者の制約一干渉・支配の枠内でも、その媒介性を「自由な意識」によって否定し、意志決定の自由という一定の自由を実現することができます。
 個々の人間は、一個の人格として、「自由な意識」にもとづき、一定の世界観をもちます。この世界観によって、他者の媒介性を意識の面で否定し、自由になろうとするのです。とりわけ問題となるのは、国家や社会の干渉・支配を否定する自由です。この自由は、国家、社会とのたたかいなくして実現することはできません。
 人間の社会は、世界的に見て、おおまかには原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会と四つの発展段階を経過してきました。そして二一世紀は、資本主義から社会主義への移行を展望する世紀になろうとしています。奴隷制社会から資本主義社会までは、搾取する階級と搾取される階級という、二つの階級の対立する階級社会となっています。それはいずれも階級対立が社会の必然性(法則性)となっている社会です。したがって、階級社会における自由は、階級間の対立という必然性に支配されているもとでの自由ということになります。

自由の衝突としての階級闘争

 必然性の支配下における自由は、法則にもとづいて、他のものを自在に支配しようとする自由と、その支配から逃れて、自分自身を保ちつづけようとする自由、この二つの自由が複雑にからみあいながら衝突することになります。いわば支配する側の自由と支配から逃れる側の自由の衝突です。
 奴隷制社会においては、一方で奴隷所有者は、奴隷を所有することをつうじて、奴隷の生産物を丸ごと搾取する自由を有し、奴隷は、奴隷から解放されて自由人となる自由を求めます。封建制社会においては、封建領主は、生産手段としての土地を独占して、農奴の生産物を搾取する自由を有し、農奴は、封建的身分制度の桎梏から解放されて、自由人となることを求めます。資本主義社会においては、資本家は、生産手段たる工場、機械を独占して、生産物を独り占めにする「搾取の自由」を有し、労働者は、人格的には自由であるものの、賃金奴隷から解放される自由を求めることになります。
 支配する側も、支配される側も、自らの主張する自由を求めて対立し、それが、階級間のたたかい、階級闘争となってあらわれてくることになります。
 ここで主として問題になるのは、支配される側の自由です。社会的必然性の支配から逃れて、自分自身であり続けようとする意志決定の自由にも、様々な形態があります。
 一つは、社会そのものから逃げだし、自分自身のなかに閉じこもることによって、内心においてのみ自分自身であり続けようとする内心の自由です。確かにこれも自由の一形態でしょうが、それだけに個人の枠をこえることのない極めて限定された「逃避の自由」にすぎません。
 二つには、社会の必然性の支配を肯定し、その枠組みの外においてのみ自分自身であり続けようとする現状肯定的な自由です。職場での不自由を余暇の自由で補おうとするのがその一例です。これも自由の一形態ではありますが、社会の必然性に従属した自由ですから、その枠外での自由が保障されるだけという極めて限定的な「諦めの自由」だといわなければなりません。
 三つには、社会の必然性の支配に抵抗することによって、その支配を打ち破り、自分自身であり続けようとする自由です。この自由が、階級闘争の原動力となり、必然性の盲目的支配から解放され、「必然の国から自由の国への飛躍」を生みだす積極的役割を果たすことになります。
 人間の自由は、この「抵抗の自由」をつうじて歴史的発展をとげてきたのです。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言に代表される近代民主主義の諸原則(自由、平等、友愛など)も、こうした「抵抗の自由」の所産として誕生したものです。
 「権利宣言は、何より歴史的所産であり、その内容も、したがって、歴史的にのみ理解されなくてはならない。…それらは、一般に知られるように、何よりもまず従来行われてきた制限の否定である。従来検閲が存したから、出版に自由が宣言されたのであり、良心強制が支配していたから、信仰の自由が宣言されたのである」(宮沢俊義他編 『人権宣言集』岩波文庫二八ページ)。
 支配される側の自由には、このように大きく三つの形態がありますが、「抵抗の自由」の立場にたってこそ、人間は、人間の類本質を取り戻し、本来の人間らしい人間として生きていくことができるのです。
 しかし、抵抗する自由は、積極的役割をもつものであるとはいえ、必然性に支配された自由という制約をまぬがれることはできません。また、だからこそ真の自由に向かって前進する必然性をもっているのです。

 

三、「自由 Ⅰ 」と「自由 Ⅱ 」

秋間実氏の提起と「自由と民主主義の宣言」

 科学的社会主義の自由論は、これまでのべてきたエンゲルスの自由論、つまり自由とは、人間が自然や社会そして人間自身の主人公になることであるとする自由論を中心に展開されてきました。しかし、それが反面では、社会主義をめざした国々において、市民的・政治的自由の軽視につなかったのではないかとの批判を生みだしています。
 秋間実氏は、エンゲルスのいう自由を「自由Ⅰ」とよび、これに対し「政治的権力との対抗関係のなかで基本的人権として立ちあらわれる市民的諸権利の内容をなす諸自由」(生命・財産・思想・信仰・言論・出版・結社の自由など)を「自由Ⅱ」と名づけ、科学的社会主義の見地から自由を論じるとすれば、「自由Ⅰと自由Ⅱとを統一的に──あるいは、すくなくとも連関させて──つかむことを可能にする哲学的自由論を打ちたてることが課題になっている」ことを指摘しました(「マルクス主義哲学的自由論の課題」『科学と思想』一九七五年一月号)。
 日本共産党第二二回臨時党大会で「自由と民主主義の宣言」の提案をした榊利夫氏は、この秋間氏の提案に始まる論議をふまえつつ、「日本のマルクス主義哲学者のあいだでも、自由の理論の新しい発展の局面を迎えているといえます。日本共産党の「自由と民主主義の宣言」は、そういう点では、学問的な意味でも大きな新しい刺激になっていくと思います」と述べています(榊利夫他『自由の理論と科学的社会主義』徳間書店四〇ぺージ)。
 まず明確にしておかなければならないのは、自由Ⅰと自由且の守備範囲の違いです。自由Ⅰは、自然、社会、人間自身、つまり世界全体を視野に入れた自由論ですが、自由Ⅱは、社会との関係における自由論に限定されています。しかも社会的自由のなかでも「市民的・政治的自由」にかぎられており、それは「宣言」の「三つの自由」の他の二つ(生存の自由、民族の自由)については射程に入っていません。
 そこで、市民的・政治的自由という限定された範囲において、自由Ⅰと自由Ⅱの関係が問題とされざるをえなくなってくるのです。「宣言」を手がかりにしながら、この問題を考えてみることにしましよう。
 「宣言」は、科学的社会主義の学説と運動が、「民主主義と自由の問題でも、近代民主主義のもっとも発展的な継承者、国民の主権と自由の全面的で徹底した擁護者として、歴史に登場した」(『宣言』一九ページ)ことを明らかにしています。
 マルクスは、近代民主主義の諸原則を世界で最初に宣言したアメリカの独立宣言を高く評価し、「まだ一世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言が発せられ、一八世紀のヨーロッパの諸革命に最初の衝撃があたえられたほかならぬその土地」とするメッセージを、リンカーン大統領あてに送っています。またマルクス、エンゲルスは、普通選挙権獲得の先頭に立つとともに、人民主権の民主共和制のためにたたかい、「出版・結社・集会の自由のための闘争を、労働運動の中心的な政治課題として、一貫して重視」 (同二〇ページ)しました。
 科学的社会主義の学説と事業は、このように近代民主主義の継承者として登場しましたが、そこにとどまってはいませんでした。
 「この学説と事業の人類史的な意義は、それが、近代民主主義による国民の政治的解放とその徹底を重視しながらも、それだけに満足せず、搾取制度の廃止による国民の経済的、社会的解放にまで前進することによって、真の人間解放に到達する道を、あきらかにしたところ」(同ニーページ)にあります。
 『宣言』は、以上のようにのべて、科学的社会主義の学説と事業の創始者であるマルクス、エンゲルスが、当初から自由と民主主義の擁護者として立ちあらわれるとともに、自由と民主主義を一層発展させた人間解放の社会として、社会主義、共産主義の社会を展望したことを明らかにしています。いわば、自由の問題を科学的社会主義の学説と事業における不可欠のものとしてとらえたうえで、「自由Ⅱ」のより発展した形態として、「自由Ⅰ」をとらえている、と理解することができると思います。「自由Ⅱ」も先にのべた「抵抗の自由」をつうじて実現されたものですが、まだ資本主義的生産様式のもつ必然性のもとでの自由にすぎないところから、その必然性を揚棄して内に含む「自由Ⅰ」に発展する展望を示したものといえるでしょう。

「自由 Ⅱ 」は「自由 I 」に止揚される
 
 この見地は非常に重要です。というのも、『宣言』では、自由を「必然的に歴史的発展の産物」ととらえ、近代民主主義が生み出した「自由Ⅱ」にも歴史的限界があることを示して、これを絶対化せず、「自由Ⅱ」は、「自由Ⅰ」に止揚されるととらえているからです。「自由Ⅱ」は、社会の必然性に盲目的に支配されている状況のもとでの自由にすぎません。そこでは、社会の必然性に従属して自分自身をつらぬこうとする側の自由と、必然性の支配に抗して、自分自身をつらぬこうとする側の自由が対立し、この二つの自由がたたかいあうことになるのです。
 台頭する資本主義の政治的要求は、「搾取の自由」の実現に根ざすものでした。こうした自由の実現のために、ブルジョアジーは「自由Ⅱ」を求めて、封建的な身分制度に抵抗したのです。
 ですから、封建制社会の必然性とたたかい、抵抗したなかで獲得された「自由Ⅱ」は、同時に資本主義社会のもつ経済的必然性である「搾取の自由」によって、労働者、勤労市民の「生存の自由」を抑圧するものとならざるをえなかったのです。その意味では、「自由Ⅱ」も、必然性の支配、従属下にある、相対立する二つの自由のうちの一つにすぎません。
 これに対し、「自由Ⅰ」は自然や社会の必然性を認識し、その必然性にそって自然を利用し、あるいは社会を変革して、人間が自然や社会、人間自身を自在に支配し、自然や社会、人間自身の主人公となる自由です。したがって、「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」とは、レベルの違う自由だといわねばなりません。「自由Ⅰ」も「自由Ⅱ」も、歴史的に発展していくものです。生産力の発展に照応する人間社会の発展も、自然必然性の支配拡大の歴史として、大きく「自由Ⅰ」の拡大の歴史ととらえることができますが、「自由Ⅰ」が本来の意味で全面的に開花するのは、社会主義、共産主義の社会においてということになります。
 エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、資本主義から社会主義への移行を「必然の国から自由の国への人類の飛躍」とよびました。その意味からすると、「自由Ⅱ」は、「必然の国」における必然の支配下の自由であり、「自由Ⅰ」は、「自由の国」における必然を支配する自由です。したがって、ここでは、搾取と抑圧による階級支配に人間が苦しむことはなく、「搾取の自由」も存在しないのです。もちろん「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」とをまったく別個のものとして切り離すことはできません。しかし、また単純に「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」とは連続しているとみることもできません。「自由Ⅰ」は、「自由Ⅱ」のもつ矛盾を止揚した発展形態です。矛盾の止揚によるすべての発展は、「否定されつつ保存されて高まる」という弁証法的否定であり、その意味で、連続性と非連続性の統一としてあります。
 「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」も連続性と非連続性の統一として理解すべきではないかと思います。
 これまで秋間氏の問題提起にこたえて、「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」の関係について、様々な議論がなされ、そのなかには、エンゲルスの自由論では、「自由Ⅱ」をとらえきれないのではないかとする議論もありました。
 しかし、マルクスやエンゲルスが、「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」とを、全く別個のものとして切り離してとらえていたと考えることはできません。たとえば、『空想から科学へ』の冒頭には、科学的社会主義の理論が、「一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(全集⑲一八六ページ/古典選書版二三ページ)とあります。この「諸原則」に、「自由Ⅱ」が含まれることはいうまでもありません。マルクス、エンゲルスは、「自由Ⅱ」を受けつぎながら、発展させ、首尾一貫した自由として、「自由Ⅰ」をとらえたのではないでしょうか。つまり、「自由Ⅱ」の積極的意義を評価しながらも、そこには歴史的な限界があることを示すとともに、真の自由は、必然の支配下におかれた「自由Ⅱ」の枠組みを大きくこえる、必然性を支配する「自由Ⅰ」にあることを示すことにあったと考えられます。
 『自由と民主主義の宣言』は「国民の主権、国の主人公として国民が広く政治に参加する自由、思想・良心の自由、言論・出版・集会・結社・表現の自由、信教の自由、勤労者が団結し団体行動をする自由は、日本の社会発展のすべての段階をつうじて全面的に擁護されなければならない」(『宣言』三六ページ)としたうえで、思想の自由、表現の自由に関する「自由Ⅱ」の発展形態を次のようにのべています。
  「言論、出版その他表現の自由を、用紙や印刷手段の自由な利用の保障などをふくめ、擁護する。検閲を排除し、情報公開を確立する。新聞、テレビ、ラジオなどの報道機関にも、政府批判をふくむ報道の自由が保障される。表現手段などにめぐまれない人びとにたいしても、自己の思想や主張などを発表しうるように物質的な保障を確立する。この物質的保障は、あくまで表現の自由の不可侵を前提としたものであり、それを検閲や統制の手段とすることは許されない。
 集会、示威行進の自由、結社の自由、勤労者の団結権、ストライキ、団体交渉その他の団体行動権を全面的に擁護する。これらの権利の行使に必要な集会場その他の施設を充実する。
 思想・信条の自由、個人の良心の自由を完全に保障する。国民の精神生活への公権力の介入を排除し、思想・信条の違いによる差別を一掃する。いかなる世界観をも『国定の哲学』とせず、さまざまな思想、哲学の自由を保障する』(『宣言』三八ページ)。
 マルクスは、「ユダヤ人問題によせて」のなかで、フランス人権宣言のもつ限界性を指摘しています。諸々の人権も、結局は、財産権、所有権の自由に集約されるものであり、「私的所有の人権は、任意に、他人にかまわずに、社会から独立に、その資力を収益したり処分したりする権利、つまり利己の権利である」(全集①四〇二ページ/『ユダヤ人問題によせてヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫四四ページ)と、資本主義的人権の本質をえぐりだしています。資本主義的な「搾取の自由」を保障する財産権の自由は、共同社会性を類本質とする人間を、利己的な、バラバラの人間に解体するものであって、こんな必然性支配下の自由に満足してはならないといっているのです。
 結局、マルクス、エンゲルスの自由論も、「自由Ⅰ」こそ真の自由であって、「自由Ⅱ」は、「自由Ⅰ」に継承、発展させられるべきものであり、「自由Ⅰ」と「自由Ⅱ」とを、連続性と非連続性の統一としてとらえていたものといってよいでしょう。