『人間解放の哲学』より

 

 

第四講 人間の類本質の疎外(1)

一、階級社会と疎外

ルソーから史的唯物論ヘ

 ルソーの『社会契約論』は、次の言葉から始まっています。
 「人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上に奴隷なのだ」(『社会契約論』岩波文庫一五ページ)。
 これまで、人間の類本質が自由と民主主義にあることをみてきました。しかし私たちの現状をふりかえってみるとき、人間がこのような類本質からかけ離れた状況にあることを否定する大はいないでしょう。では、人間はいつからどうして鎖につながれ、生まれながらの自由と民主主義について、さまざまの制限、制約を受けることになったのでしょうか。
 『人間不平等起原論』(一七五五年)のなかでルソーは、自由で平等な独立人の世界として、「自然状態」を構想し、その自然状態が完全に、また永久的に否定された状態として「社会状態」をえがいています。ルソーは、この自然状態から社会状態への移行をもたらしたのが、私有財産であり、財産の「不平等」であると結論するのです。
 「一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消えうせ、私有が導入され、……やがてそこには収穫とともに奴隷制と貧困とが芽ばえ、生長するのが見られるようになった。
 冶金(やきん)と農業とは、その発明によってこの大きな革命を生みだした二つの技術であった。人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀とてあるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである」(『人間不平等起原論』岩波文庫九六ページ)。
 このルソーの天才的な直観を科学にまで高めたのが、マルクス、エンゲルスが創始者となった史的唯物論なのです。
 史的唯物論は、まず社会全体を一つの構造をもつものととらえます。そして社会の土台になるのは経済であり、その土台のうえに、土台に規定された法律や政治、イデオロギーなどの上部構造が存在することを明らかにしました。これによって社会全体の動きを統一体としてとらえることができるようになりました。
 経済の中心となるのは、物質の生産です。人間が自然の法則性を認識し、自然の支配から自由になる度合いに応じて、生産力は発展していきます。
 原始共産制の社会では、みんなが協力して生産し、やっと生きていくだけのものしか生産できませんでしたが、人類が農耕と牧畜という社会的分業の段階に入って生産力が高まると、一人あたりの労働から生み出される生産物の量が一人の生命を維持する量よりも多くなります。それが剰余生産物であり、ここから「私的所有」が生まれてくるのです。たとえば一人で二人分の生産物をつくりだすことができるようになれば、二人のうちの一人は働かなくてもすみます。剰余生産物を増やすために新しい労働力が求められ、いままで殺していた捕虜を奴隷として働かすようになったのです。「最初の大きな社会的分業から、二つの階級への最初の大分裂が生じた。すなわち、主人と奴隷、搾取者と披搾取者への分裂が」(『国家の起源』全集㉑一六一ページ/古典選書版ニー七ページ)。
 こうして、生産力が一定の段階に達すると、人間社会は私的所有を媒介に、搾取者と披搾取者という、二つの階級に分裂する階級社会に突入していくことになります。ここから、自由と民主主義の原理をもつ人間の類本質も大きく転倒、歪曲されることになってきます。マルクスは、それを「疎外」または「自己疎外」とよんでいます。

疎外とは

 「疎外」(Entfremdung)というのは、ヘーゲルがはじめて使用した概念ですが、あまり日常的に使われる用語ではありませんから、説明が必要となります。
 第二講で、すべてのものは、直接性と媒介性の統一として存在しているとお話ししました。個々の人間も、一個の自立した人間として直接的に存在していると同時に、他者(他人、社会、自然)に媒介されて存在しています。人間が、「自由な意識」をもつ自由な存在であるということは、他者に媒介されつつ、媒介を揚棄して自己のうちに含んでいるところにあります。「自由な意識」は、それを生みだす肉体と一体となって、一個の人格として存在するにいたります。このような人格が、いわゆる「自分自身」であり、人間としての権利(人権)の主体となるものです。
 これに対して、疎外とは、他者に媒介されることによって、自己自身を喪失し、自己自身でなくなること、自己を否定されることを意味します。疎外は、自分自身を喪うところから、「自己疎外」ともいわれます。
 労働生産物を搾取されることは疎外の典型です。階級社会においては、搾取者(支配者)と被搾取者(被支配者)という、利害の相対立する二つの階級が存在します。奴隷制社会においては、奴隷所有者と奴隷、封建制社会においては、封建領主と農奴、資本主義社会においては、資本家と労働者、という二つの階級です。
 二つの階級のうち、被搾取(被支配)階級の疎外は、誰の目にも明らかです。
 奴隷は、牛や馬と同様に奴隷所有者の所有物とみなされて、奴隷の人格は丸ごと否定されています。奴隷は、権利の客体にはなっても、権利の主体にはなりえないのです。農奴には、一定の人格は認められますが、生涯土地に縛りつけられて自由に移動することもできませんし、封建領主のための労働を強制されることになります。
 資本主義社会のもとでの労働者は、形式上は自由な人格として、資本家と対等な労働契約を結んで労働力を売り、賃金を取得するようにみえますが、実際には、労働力以外に売るものがないのですから、生涯賃金奴隷として、個々の資本家にではなく、資本家階級全体のための労働を強制されることになるのです。

労働のもつ意味

 ここで、労働のもつ意味を根本的に考えてみることにしましよう。そのことによって、労働生産物を搾取されることが、なぜ「自己疎外」になるのかも、あらためて明確になってくるからです。
 マルクスが、「自由な意識的な活動は、人間の類性格である」というとき、人間が動物と違って、「普遍的に生産をする」、「全自然を再生産する」ことを念頭においていました。人間は、生産において、自己の「自由な意志」を労働対象に置きいれることによって、自分自身を労働生産物として外在化するのです。いわば、労働生産物は、生産者にとって生産者の自由な意志の表現形態以外の何物でもありません。
 したがって、生産者は、自己表現である労働を自己自身の生きる喜びとして実感すると同時に、労働生産物を自分のものとして所有する権利をもつのです。自分が自分の自由な意志で作ったものだから、自分のものだというわけです。
 しかし、同時に労働生産物は、生産者にとって、自己を外在化し、自己の人格(自分自身)とは区別された存在となるわけですから、他者に取得され、生産者に敵対する存在となる可能性を生みだします。
 [労働者は彼の産物の中で自己を外在化するが、このことの意義はただたんに彼の労働が一つの対象、一つの外的な存在になるところにあるだけでなく、彼の労働が彼の外に、彼とは独立に、余所(よそ)ものとして存在し、そして彼に対峙する一つの自立的な力となり、彼が対象に貸与した命が彼に余所ものとなって敵対してくるところにある」(『経済学・哲学手稿』全集㊵四三二ページ/『経済学・哲学草稿』岩波文庫八八ページ)。
 階級社会においては、生産者の労働生産物が支配階級によって搾取され、生産者が生産すればするほど支配階級の力を強め、生産物が生産者に敵対してくることになるのです。
 では、なぜ支配階級は、生産者から搾取することができるのでしょうか。
 そもそも階級とは、土地や家畜、道具、機械、工場などの生産手段を、「持つもの」と「持たざるもの」によって区分されるのであり、生産手段を所有する階級は、その生産手段を所有することによって、生産者の労働生産物を搾取する階級となることができるのです。
 奴隷制社会では、奴隷所有者は、生産手段である奴隷を所有することによって、その労働生産物を丸ごと搾取します。封建制社会では、封建領主は、生産手段である土地を所有することによって、農奴のつくりだす労働生産物を搾取します。資本主義社会では、資本家は、生産手段である工場や機械を所有することによって、労働者の労働生産物を搾取するのです。
 被搾取階級は、もはや「自由な意識」にもとづいて、自由に生産するのではなく、搾取のなかで、自己の意に反した強制労働を押しつけられることになります。それは自己表現する喜びとしての労働を、苦役に変えるものにほかなりません。
 本来ならば「自由な意識」のあらわれであり、生命の輝きともいうべき労働が階級社会においては苦役となり、生産者が取得すべき労働生産物が支配階級に搾取されてしまいます。人格的自由が奪われ、生産すればするほど搾取者の支配下にますます深く落ちて労働苦がつのっていくのです。このことをマルクスは、「疎外」「自己疎外」と呼んだのです。
 これまで、被搾取階級の側から人間性の疎外をみてきました。しかし、疎外されるのは搾取される側だけではありません。搾取する側、すなわち搾取階級もまた疎外されるのです。
 一見すると、搾取階級は、被搾取階級を自由に支配し、労働から解放されて生産物を手にすることにより、搾取の自由を享楽しているかにみえます。確かにそうした面があることは否定できませんし、搾取される側とは比較にならない大きな自由を手にしています。しかし搾取階級も、私的所有と搾取強化の必然性に盲目的に支配され、人間の皮をかぶった「搾取する道具」になりはて、その人間性を喪失し、私的所有の奴隷となってしまうのです。俗な言葉でいえば、「金の亡者」になってしまうということです。ルソーが、「自分が他人の主人と思っているようなものも、実はその人々以上に奴隷」だといっているゆえんです。
 こうして、生産力の発展が一定の段階に達すると、私的所有が生まれ、持つものと持たないもの、搾取するものとされるものという二つの階級の対立する階級社会が登場し、搾取されるものはもとより、搾取するものも、人間の類本質を疎外され、自由を奪われることになるのです。

 

二、国家の哲学

階級社会と自由・民主主義

 階級分裂と階級社会が、人間の類本質である自由に大きな制約を加えるということは、自由と相互前提関係にある民主主義にも重大な制約を与えないではおきません。
 もともと人間の類本質である民主主義は、共同社会性に由来するものでした。民主主義は、社会共同体を維持・発展させるために必要なルールまたは規範として生まれたのです。
 しかし、階級社会においては、社会が大きく二つの階級に分裂することによって、共同体の規範としての民主主義は崩壊してしまうのです。
 まず統治原理としての民主主義は、治者と被治者の同一性というものでしたが、階級社会においては、搾取者が同時に支配者に、被搾取者が同時に被支配者になり、その階級的地位は固定され、区別されたままとなります。被搾取者は、搾取者による統治の対象とされるにとどまり、統治の主体となることは決してないのです。
 少数の搾取階級が、多数の被搾取階級を支配することにより、階級社会における社会共同体は、つねに内部に階級間の対立・矛盾をかかえるようになります。こうして階級社会では、社会を共同体として円滑に維持・発展させることができなくなります。
 また階級社会では、民主主義のあらわれとしての全体意思決定方法についても、被支配階級は、みずからの意志を全体意思決定に生かすことはできません。もっぱら支配階級の意志が、社会全体の意志として貫かれることになります。
 平等原則についても同様です。支配階級と被支配階級との間に政治的平等は存在しませんし、ましてや経済的平等も存在しません。また、支配階級と被支配階級との間に友愛の人間関係も存在しません。二つの階級間には、「搾取するもの」と「されるもの」という利害の対立が存在しますから、敵意と憎悪が生まれこそすれ、友愛に満ちた人間関係の形成を期待することができないのは、当然のことといわなければなりません。
 階級間の紛争解決も、基本的には話し合いによってではなく、力によって解決されることになります。これが階級闘争とよばれるものです。エンゲルスは、「これまでのすべての歴史は、原始状態を別にすれば、階級闘争の歴史であった」とのべて、階級闘争が歴史発展の原動力であると語っています。階級間の対立は、最終的には力によって解決されざるをえないのであって、決して和解することはできないのです。
 こうして、民主主義を否定する階級社会は、必然的に、国家という階級支配の機関を生みだしていくことになるのです。

フィクションとしての社会契約説

 国家が、人類の歴史上、どの段階で、なぜ発生したのかは、長い間の謎とされていました。そこから、現にある国家の本当の姿も、「真にあるべき姿」の国家も、科学的にとらえることはできなかったのです。この「国家」という謎に満ちた存在は、古今東西の哲学者にとって、最高の哲学の対象となるものでした。
  「人類の歴史上最大の哲学書を一冊だけあげるとしたら何をあげるか」という質問に対して、第一位となったのがプラトンの主著『国家』であったという新聞記事を以前読んだことがあります。プラトンは紀元前四二七年から三四七年に存在した古代ギリシアの哲学者であり、「イデア論」の創設者として有名です。プラトンは、『国家』のなかで、イデア論にもとづいて、「真にあるべき国家」の探求をしており、そこには私有財産制への批判など、今日においてもなお学ぶべき多くのものが含まれています。
 はじめて国家の起源を解明しようとしたのは、ホッブズ、ジョン・ロック、ルソーなど自然法思想の持ち主たちでした。いずれも社会や国家は「社会契約」という「契約」によって誕生したものだから、その契約の趣旨にしたがって人間が生まれながらにもっている自然権(自由と民主主義)が保障されねばならないという、「社会契約説」によって国家、社会を説明しようとしたのです。
 ルソーは、『社会契約論』のなかで、次のようにいっています。
 「『各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること。』これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える」(前掲二九ぺージ)。
 社会契約説は、当時の王権神授説にみられるような絶対君主制を支える理論に反対し、ブルジョア民主主義革命を思想的に準備する進歩的役割を果しました。
 しかし、このような社会契約は実際には存在せず、単なるフィクション(作り話)にすぎません。ルソーの社会契約説の問題の一つは、自然状態における人間が一人ひとりパラパラな原子的存在であった、とする点にあります。パラパラな個人が、社会契約を結ぶことによって結合し、社会(国家)を創ったとするのです。しかしこれまでにみてきたように、人間は、社会とともに人間として発展してきたのであって、社会共同体から切りはなされた原子的な人間がまず最初に存在し、パラパラな人間が契約によって国家や社会をつくったというのは、まったくの虚構にすぎないのです。
 科学的社会主義の理論に対して、あえて目をふさごうとするブルジョア学者は、いまだに国家の起源を社会契約説にもとめています。というよりも、科学的社会主義の理論に対抗しうる国家の起源に関する学説は、フィクションであることが明確であっても社会契約説以外には存在しないということだと思います。

ヘーゲル『法の哲学』

 プラトンの『国家』や社会契約論の批判のうえに、「真にあるべき国家と社会」を探求したのが、ヘーゲルの『法の哲学』(正式な名称は『権利の哲学の基本線、すなわち自然権と国家学の要綱』)です。題名は、『法の哲学』ですが、この場合の「法」(ドイツ語のレヒト)とは、法律、権利、正しさ(真実)という意味をあわせもち、その全体をひっくるめて、法(レヒト)とは何か、社会、国家のなかでそれはどのように保障されるべきなのかという、社会、国家の「真にあるべき姿」を探究したのです。
 ヘーゲルは、パラパラな個人が契約により国家や社会をつくったとする社会契約説を批判して、国家と社会と個人の三者間には、相互媒介の有機的関係があることを正しく評価し、強調しています。とくに、社会契約説ではあいまいだった国家と市民社会とを厳しく区別し、市民社会を「欲望の体系」とよんで搾取を伴う経済社会を批判していることの功績は大きいものがあります。というのも、マルクスは、この区別を前提として、市民社会(経済社会)こそ社会の構造を規定する土台となるものだと考えたからです。
 エンゲルスは、略伝「カール・マルクス」のなかで、「ヘーゲルの法哲学を手掛りとして、マルクスは、ヘーゲルが 『構築物の絶頂』と述べた国家ではなくて、むしろ彼が継母ふうに扱った『市民社会』こそが、人類の史的発展過程の理解のための鍵を求むべき領域であるという認識に達した」(全集⑯三五六ページ)とのべ、マルクスが経済学の研究につき進んでいったきっかけの一つが、ヘーゲルの『法の哲学』にあったことを語っています。
 また、ヘーゲルは、プラトンの『国家』を意識しつつ、それを止揚するものとして『法の哲学』を著したのではないかと思われます。というのも、ヘーゲルこそ、プラトンの「イデア論」を継承発展させ、「真にあるべき姿」を「概念」としてとらえた人物であり、『法の哲学』において、この「概念論」の展開として国家・社会をとらえ、「真にあるべき国家と社会」を論じているからです。
 『法の哲学』をつらぬく一本の太い線は、自由論です。人間の本質を自由な精神をもつ自由な主体ととらえ、真の自由は、連帯のなかにあり、国家こそ自由の現実態だととらえています。とくに、労働を自由な意識の外在化ととらえ、したがって生産者が労働生産物を取得することが、自由の根本なのです。「私有財産制を全て否定するプラトンは、自由な意識を否定するものだ」というヘーゲルの考えは、マルクスに大きな影響を与え、マルクスの疎外論や社会主義論において継承発展させられているものと思われます。この点もまたもう一度立ち戻って論じたいと思います。
 マルクスは、「ヘーゲル国法論の批判」や「ヘーゲル法哲学批判序説」(いずれも全集①所収)において、『法の哲学』の批判を展開しています。『法の哲学』は、三六〇節までありますが、マルクスの「国法論の批判」の残されている部分が、そのうちの「第三章国家」の一部(第二六一節-第三一三節)にとどまっているのは、残念なところです。
 マルクスは、何よりも『法の哲学』では、「理念は主体化され、そして家族と市民社会との国家にたいする現実的な関係は理念の内的な、想像上のはたらきと解される」として、その「論理的汎神論的神秘主義」を批判しています(全集①二三六ページ/『ヘーゲル法哲学批判序論他』国民文庫八~九ページ)。理念と現実とが逆立ちし、結果的に、当時のドイツの立憲君主制を美化することになっていることを批判しているのです。
 この批判はもちろん正当なものですが、ヘーゲルが『法の哲学』でもっとも主張したかったのは、その序文に示される「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という点にあったものと思われます。ヘーゲル哲学は、立憲君主制を美化したところから、プロイセンの国定哲学にまでのぼりつめることになります。しかし、ヘーゲルを単純にプロイセン国家の御用哲学者とみることのできないことは、最近の研究からも明らかになっています(たとえば、加藤尚武編『ヘーゲルを学ぶ人のために』二二二ページ、世界思想社)。
 ヘーゲルの力点は、立憲君主制という「現実的なもの」が「理性的なもの」であるということよりも、「理性的なもの」としての国家、社会が、「現実的なもの」となることを強調することによって、国家、社会の「真にあるべき姿」を人間の自由を基調として展開することにあったのだと思います。
 ヘーゲルは、「真にあるべき国家、社会」を、自由な意識の現実態としてとらえます。そして、自由な意識は、労働を基調とする市民社会において確立されるとして、労働から生まれる個人の権利(所有権を中心とする)と無限の人格性から個人の尊厳を組立てようとしている点には、学ぶべき多くのものがあると思います。

エンゲルス『家族・私有財産および国家の起源』

 いずれにしても、ヘーゲル『法の哲学』は、国家の「概念」ないし理念は問題にしえても、国家の起源そのものは問題にしていません。国家の起源の解明は、資本主義という「現実的なもの」から出発しながら、社会主義という「理性的なもの」を探求する、科学的社会主義の「国家論」の登場を待つしかなかったのです。
 国家は、社会共同体が、搾取する者と搾取されるものという階級に分裂し、搾取する階級が被搾取階級を支配する必要性に迫られるなかで、階級支配の機関として誕生しました。エンゲルスは、『家族・私有財産および国家の起源』のなかで、次のように国家の起源をのべています(全集㉑一六九ページ~/古典選書版二二八ページ~)。
 「国家はけっしてそとから社会に押しつけられた権力」ではなく、「一定の発展段階における社会の産物」なのです。社会共同体が一定の発展段階に達し、「和解できない対立物に分裂」したときに、「外見上相争う諸階級のうえに立って、彼らの公然たる衝突を抑圧」し、「緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力が必要」となってきます。
 このような「社会から生まれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてみずからをますます疎外していく」権力として、「国家」がつくりだされました。
 したがって、「それは、通例、最も勢力のある経済的に支配する階級の国家」であり、「この階級は、国家を用具として政治的にも支配する階級となり、こうして、被抑圧階級を抑圧し搾取するための新しい手段を手にいれる」のです。
 このように、国家の起源が、階級対立の非和解性にあることを示し、国家の本質が階級支配の機関にあることを明らかにしています。奴隷制国家は、「奴隷所有者の国家」であり、封建制国家は、「農奴的農民と隷農を抑圧するための貴族の機関」であり、「近代の代議制国家は、資本が賃労働を搾取するための道具」であるとエンゲルスは喝破しています。
 こうした本質をもつ国家は、どのような特徴をもっているのでしょうか。エンゲルスは次のようにのべています。
 第一に、これまでの古い社会共同体は、氏族という「血縁の紐帯」によって区分されていたのに対し、国家では、国民は地域によって区分されます。
 第二に、階級支配のために、武装組織(軍隊)、監獄その他の強制施設など、住民の武装組織とは「もはや直接には一致しない、一つの公的強力」をうちたてることです。
 この公権力は、力による階級支配のための、国家の本質的要素といってよいでしょう。
 そして、この公権力を維持するために、国民は租税という費用負担を求められ、またこの公的権力と徴税権を握って、社会の機関でありながら、社会のうえにたっている官吏、官僚という国家機関も誕生することになるのです。
 このように階級社会において生産者は、労働生産物から疎外されるだけではなく、階級支配の機関としての国家によっても疎外され、自由と民主主義という人間の類本質を奪われていくことになるのです。
 科学的社会主義の[国家論]については、まだまだ語るべき多くのものがありますし、最終的には、社会主義、共産主義社会における自由と民主主義まで論じることがこの講座の目的となります。
 次講でもう少し「国家論」を深めてみることにしましょう。