『人間解放の哲学』より

 

 

第五講 人間の類本質の疎外(2)

一、国家の起源

起源から国家を考える

 第四講で、国家の本質は、搾取階級が被搾取階級を支配し、抑圧する階級支配の機関にあることをみてきました。
 今回は、このことをふまえつつ、国家というものをもう少し深く考えてみたいと思います。
 物事の本質を知るには、その物事の最初の姿にまでさかのぼって考察してみることが重要ですから、もう一度国家の起源について考えてみることにしましょう。第四講で、国家の起源は階級対立にあることをみてきました。しかし、国家が成立する要因は階級対立だけにあるのでしょうか。
 ヘーゲルは、『法の哲学』において、国家は、個人(家族)の個別的利益と市民社会の特殊的利益とを統一した普遍的利益の実現態だと考えました。マルクスは、まだヘーゲルの影響が色濃く残る『ドイツ・イデオロギー』で、国家の成立をこの見地からとらえようとしています。
 「労働の分割と同時に、個々の人間または個々の家族の利益と、交通しあうすべての個人の共同の利益との矛盾が存在することになる。……あたかも特殊な利益と共同の利益とのこの矛盾から共同の利益は国家として──現実的な個別的および総体的利益から切り離されていると同時に幻想的な共同性として独立した──形態をとるようになる」(全集③二八~九ページ/古典選書版四三ページ)。
 これは、国家を、個人の利益をこえる共同の普遍的利益の実現を目的として成立したととらえるものです。
 エングルスは、『反デューリング論』においても、この見地をさらに発展させています。
 「社会は、特権的な階級と不遇な階級、搾取する階級と搾取される階級、支配する階級と支配される階級に分かれる。そして、国家というものは、同一部族に属するもろもろの共同体の自然性的な諸群が、はじめはただその共同の利益(たとえば東洋における灌漑)をはかり、外敵を防御することだけを目的としてつくりあげたものなのだが、このとき以後、国家は、それらの目的とならんで、支配する階級の生活および支配の諸条件を、支配される階級に対抗して強力によって維持することをも、同様に目的とするようになる」(全集⑳一五三ページ/古典選書版㊤二〇九〜二一〇ページ)。
  「それらの目的とならんで」という箇所に注目して下さい。氏族共同体の社会では、国家は共同の利益を実現するためにのみつくられるのですが、階級対立以降、共同の利益の実現と並んで、力による階級支配を国家の目的とするようになった、というのです。
 同じ著作の別の箇所では、「共同の利益」を実現する職務は世襲化により固定化され、それが支配階級を生みだすと同時に「国家権力の端緒」をなすものになったと述べています。
 すなわち、自然生的共同体のそれぞれには、争訟の裁決、個々人の越権行為の抑制、水利の監視、宗教的機能など、「最初からある種の共同の利益が存在しており、それの保護は、たとえ全体の監督のもとでにせよ、個々人に委託されなければならない」のであり、「それらの職務はある種の全権を付与されており、国家権力の端緒である」(同一八五ページ/古典選書版㊤二五一ページ)。
 さらに、生産力の発展により、共同体がより大きくなると、「またもや一つの新しい分業が生まれ、共同の利益を保護し、相反する利益を撃退するための機関」がつくられ、「群れ全体の共同の利益の代表者」となり、それが世襲化により、経済的に支配する階級になった、というのです。
 人間が、社会共同体をつくり、社会共同体が人間をつくってきたという関係からしますと、人類が、人類として歴史上登場してきた当初の氏族社会から、社会共同体が取扱わねばならない共同の事務を処理すべき独自の組織を必要としたことは否定できません。エングルスは、『国家の起源』のなかでも、ネイティブーアメリカンの氏族社会においていくつかの氏族のあつまりとしての「部族」では、「共同事務を処理するための部族評議会」が存在し、それは各氏族の代表であるサケマ(酋長)と軍事指揮者全員によって構成され、共同事務の処理を決定していたことを指摘しています(「国家の起源」全集㉑九五ページ/古典選書版一二四~五ページ)。
 イロクォイ族では、さらにいくつかの「部族」が集まって、「同盟」を形づくっていました。これは民族形成への第一歩を踏み出すものでした。
 同盟の機関は、「すべて地位と権威を等しくする五〇人のサケマからなる同盟評議会」であり、これらの同盟サケマは、各自の部族のサケマでもありました。「この評議会が同盟のすべての問題を最終的に決定した」のです(同九七ページ/古典選書版一二七ページ)。
 しかしエングルスは、この氏族社会では、「共同の事務は今日よりずっと多い」けれども、「現代の広範複雑な行政機関の一片さえも必要でない」(同九九ページ/古典選書版同二〇ページ)として、こうした部族評議会、同盟評議会は、共同の事務を処理する行政機関にとどまり、「これが、まだ国家というものを知らない一つの社会の組織」(同九八ページ/古典選書版一二八ページ)だとのべています。

『国家の起源』と『反デューリング論』の違い

 『国家の起源』におけるエングルスは、原始共同体においても共同の事務を処理する行政機構は存在していたものの、それはまだ「国家」という名に値しない社会組織だといっています。そうすると、共同利益の処理機構をもって 「国家権力の端緒」だとした『反デューリング論』の記述との間には矛盾があるようにみえます。
 この点を指摘したのが、不破哲三氏の『講座「家族、私有財産および国家の起源」入門』(一九八三年、新日本出版社)です。不破氏は『反デューリング論』におけるエングルスの国家成立論は「国家は、階級の発生以前に、原始共産主義社会の内部に、最初は階級支配とは無関係に成立した」というものでしたが、その後モーガンの『古代社会』の研究によって、それまでの国家成立論の訂正をせまられ、『国家の起源』で事実上の訂正をした、ととらえています。
 不破氏は、エングルスが『反デューリング論』で国家の成立の問題を執筆したのは、一八七七年であり、その後にマルクス、エングルスは、モーガンの『古代社会』を研究して、一八八四年に『国家の起源』を出版したことをまず指摘しています。そして翌一八八五年『反デューリング論』の新版を出したとき、「書きかえたかった」部分の第一として、エングルスが次のように「人類の原始史」をあげていることに注目します(不破前掲書二〇二ページ)。
  「その第一は、人類の原始史についてであって、これを理解する鍵は、一八七七年にはじめてモーガンがあたえてくれたのである。しかし、私は、その後、自著『家族、私有財産および国家の起原』・チューリヒ、一八八四年、のなかで、それまでに私か入手できた材料をまとめあげる機会があったので、このあとから出た著作を参照していただければ、それでよい」(全集⑳一〇ページ/古典選書版㊤二〇ページ)。
 不破氏は、エングルスが「書きかえたかった」「人類の原始史」のなかに、「国家成立をめぐる問題がふくまれていることは、推測できることです」として、エングルスは、『反デューーリング論』の国家成立に関する前記記述を『国家の起源』の見地に立って書きあらためることによって、この矛盾を解決しようとしたものと推測しています。
 しかし、この点については、やや疑問があります。というのもエングルスは、一八八四年にマルクスの遺稿「『古代社会』の摘要」を発見して以降、『反デューリング論』について不破氏が指摘した一八八五年の新版のみならず、そのあとの一八九四年にも第三版の新版を出しているのです。ところが、エングルスは、一八九四年の第三版では、「二。三のごく些細な文体上の訂正を別とすれば、前版の重刷」であり、「ただ一つの章、すなわち第二篇第一〇章『批判的歴史から』においてだけ私は重要な追補をあえてした」(同一五ページ/古典選書版㊤二六ページ)というにとどめています。
 エングルスが、国家の成立を、共同の利益の実現にあるとしたのは、『反デューリング論』、第二篇経済学第一章 「対象と方法」においてであり、共同の利益を取り扱う機能の独自化か国家権力の端緒だとしたのは、同じく第二篇第四章「強力論(むすび)」においてですから、第三版の重要な追補に国家の起源に関する箇所は含まれていないことになります。
 もし、エングルスが、第二版への序文で指摘した、第一に書きかえたかったのが「人類の原始史」のなかの国家の起源に該当する箇所だったとしたら、これらの部分を書きかえるのにそれほどの時間を要するとも思えない(わずか二箇所を書きかえるだけでいい)のに、なぜ第三版の書きかえの際に、これらの箇所をそのままに放置したのかを理解することはできません。
 また書きかえたかった箇所が、国家の起源に関する箇所であったのであれば、わざわざ「人類の原始史」という遠回しの表現ではなくて、ずばり「国家の起源」と書けばよさそうなものだと思われます。
 思うにエングルスが書きかえたかった内容は、「人類の原始史」が、自由と民主主義が素朴な形で実在する社会であり、「自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった」という箇所にかか
わる部分であったと私は考えます。モーガンが、次に来たるべき社会を次の言葉で結び、エングルスもそれをわざわざ『国家の起源』の末尾の結論部分にそのまま引用していることからもそのことはうかがえます。
 「行政における民主主義、社会における友愛、同権、普通教育は、経験と理性と科学がつねにめざしている、次のより高い社会段階をひらくであろう。それは、古代の氏族の自由、平等、友愛の復活──ただし、より高い形態における復活となるであろう」(全集㉑一七七ページ/古典選書版二三九ページ)。
 エングルスが書きかえたかった点は、『反デューリング論』のあちこちに散見される「人類の原始史」を、「自由、平等、友愛」が根本原理である社会として叙述することにあったのではないか。しかし、そうするには、かなりあちこちに手を加えなければならないために、「あとから出た著作(『国家の起源』のこと──引用者)を参照していただければ、それでよい」ということにした。これが私の推測です。
 となるとまた別の問題が生じてきます。国家の起源について、『反デューリング論』と『国家の起源』との間には、一見すると決して小さいとはいえない理論的な違いがあり、エングルスにはそれを訂正する機会が与えられていたのに、なぜ訂正しなかったのか、という問題です。
 エングルスは、社会の共同の利益を処理する独自の組織が国家権力の「端緒」に転化するには、階級の分化を前提とし、支配しかつ搾取する階級が、この共同利益実現の組織を「独占する」ことが必要であると考えたのではないでしょうか。このように考えると、『反デューリング論』と『国家の起源』との間に、国家成立論に関して根本的な差はないことになります。だからこそ、エングルスは『反デューリング論』の国家成立論の訂正をしなかったのだということになってきます。
 この点について、節をあらためて、さらに検討することにしましょう。

 

二、国家の本質

共同の利益処理組織と国家権力の端緒

 人間は類本質として共同社会性をもっていますから、人間と社会とを切りはなすことはできません。社会には社会共同体として存続するために必要な共同の利益があります。エングルスがあげた稲作のための灌漑用水を確保するための施設や紛争の解決などもその一例です。共同の利益を処理するためには、独自の組織が必要になってきます。
 共同の利益処理機構それ自体は、人類の発生とともに誕生し、人類社会において、未来永劫に存在し続けることになるでしょう。原始共産制社会にも、奴隷制、封建制、資本主義という階級社会においても、さらには、社会主義や共産主義の社会においても、こうした独自の組織なくして、人間社会は存続しえないのです。
 しかし、こうした独自の組織が、特定の個人や特定の階級と結びつかなければならない必然性は存在しません。
 モーガンが『古代社会』でとりあげたネイティブアメリカンも、部族評議会や同盟評議会という共同の利益を処理する独自の組織をもっていました。しかし、この評議会のメンバーはいつでも人民の手によって解任されるというものであって、特定の個人と結びつくものではありません。共同の事務が、文字どうり人民の共同によって処理されるかぎり、共同の事務処理組織は独自の組織ではあっても、全構成員から分離した組織ではないのです。共同事務処理の組織が社会の全構成員から分離・独立し、構成員に対立する存在にならないかぎり、それはまだ「国家権力の端緒」とよぶことはできません。ですからエングルスは『国家の起源』において、この部族評議会や同盟評議会を「まだ国家というものを知らない一つの社会の組織」(全集㉑九八ページ/古典選書版一二八ページ)と呼んだのです。
 やがて社会のなかの支配=隷属関係が、「二とおりの道すじ」で発生することになることを、エングルスは『反デューリング論』で指摘しています(全集⑳一八五ページ以下/古典選書版㊤二五一ページ)。
 一つは共同事務処理組織に携わる「職務の世襲化」が自然発生的に起きることです。世襲化により固定化されるようになると、この職務に従事する者は、社会共同体における支配階級としての地位を確保し、社会の構成員をその隷属下に置くことになります。
  「ここで肝心なことは、どこでも政治的支配の基礎には社会的な職務活動かあったということ、また政治的支配は、それが自己のこういう社会的な職務活動を果した場合にだけ長くつづいたということを、確認することだけである」 (同一八六ページ/古典選書版㊤三五一ページ)。
 もう一つは、生産力の発展による階級の分化です。社会は、搾取する階級と搾取される階級に分化し、搾取階級は、「実際の労働から解放」されて、「社会の共同事務-労働の指揮、国務、法律事務、芸術、科学など」に従う「特別の一階級」となるのです(同一八八ページ)。
 こうして、共同の利益を処理する独自の組織が、社会の支配階級でありかつ搾取階級である「特別の一階級」により独占され、固定化されるに至ると、社会の全構成員から疎外されかつ社会に対立する組織となり、国家権力の端緒となるのです。

国家の起源と国家の本質の区別

 国家の起源の問題と国家の本質の問題は、関連はしつつも、区別すべき問題だと思います。
 エングルスがこの両者の区別を必ずしも明確にしなかったところに、『反デューリング論』と『国家の起源』の叙述の差異が生じているのではないでしょうか。
 国家というものが、共同の利益を目的としてつくられながら、階級分化以降、階級支配をも目的とするにいたったという『反デューリング論』の記述は、主として国家の起源に力点をおいたものといってよいでしょう。これにたいして国家を「階級対立の非和解性の産物」とする『国家の起源』の記述は、主として国家の本質を述べたものということができると思います。
 このように理解する理由は大きく二つあります。
 一つは、『国家の起源』のなかで、エングルスは、国家の成立を階級対立だけで説明するのではなく、共同の利益の実現を目的とする氏族制度の諸機関が、国家機関に転化することにもその根拠を求めています。
 「世襲制は、はじめは大目にみられ、次には要求され、最後には簒奪される。世襲王制と世襲貴族との基礎がここにきずかれたのである。こうして、氏族制度の諸機関は、大民のなかの、氏族、胞族、部族のなかのその根をしだいに断ち切られ、全氏族制度はその反対物に逆転する。それは、諸部族が自分自身の事務を自由に処理するための組織から、隣人を略奪し圧迫するための組織に変わり、またこれにおうじてその諸機関も、民意の道具から自己の人民を支配し圧迫する自立的な機関に変わる」(全集㉑一六四ページ/古典選書版二二一ページ)。
 同様の叙述は、ドイツ人の国家形成に関してもみられます。「ここでは氏族制度は……いつとはなしに地縁的制度へと移行し、それによって国家に適合する能力を獲得した」、「こうして、氏族制度の諸機関は国家機関に転化しなければならなかった」(同一五二、一五三ページ/古典選書版二〇五、二〇六ぺージ)。
 こうした叙述からするとエングルスは、『国家の起源』の段階においても、国家の起源を、氏族社会における共同の利益を処理する独自の組織が国家機関に転化したととらえていたものということができます。
二つには、『フォイエルバッハ論』における国家論との関係です。
 『フォイエルバッハ論』は『国家の起源』より一年半あまり後の一八八六年初めに執筆されました。ですから、『国家の起源』の成果をふまえて書かれています。その『フォイエルバッハ論』で展開される「国家の起源」についての説明は、共同の利益処理機関の見地に立っているのです。
 「国家という形で、人間を支配する最初のイデオロギー的な力がわれわれにたいして現われる。社会は、内外からの攻撃にたいしてその共同の利益を守るために、自分のために一つの機関をつくりだす。この機関が国家権力である。この機関は、発生するやいなや、社会にたいして自立するようになる。しかも、一定の階級の機関となり、この階級の支配権を直接に行使するようになればなるほど、いよいよそうなる」(同三〇七ページ/『フォイエルバッハ論』古典選書版九一ページ)。
 結局、国家の起源の問題と国家の本質とを区別しつつ、その関連を論じるとしたら、次のようになるのではないでしょうか。
 国家の起源は、支配し搾取する階級が、共同の利益処理機構を「独占する」ことに求めることができます。支配階級は共同の利益処理を掲げつつも、次第にこの独自の組織を国家機関に転化させ、国家として完成させていくことになります。階級的利害の対立が誰の目にも明らかになってくると、共同の利益処理は次第に名目だけのものとなり、それにかわって支配・搾取階級の利益を守り、被抑圧階級を抑圧し搾取するために、「外見上社会のうえに立って、この衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力が必要」(『国家の起源』全集㉑一六九ページ/古典選書版二二九ページ)になり、公的権力をもつ国家という独自の組織をつくりあげることになります。
 ですから、「社会から生まれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてみずからをますます疎外していくこの権力が国家である」(同)ということになります。
 国家は、共同の利益を実現するという組織をつうじて「社会のなかから生まれ」てくるにもかかわらず、階級支配の機関として「社会のうえに立」つ存在に転化してしまうのです。

 

三、国家の本質と現象

本質と現象の同一と区別

 そこで、次に国家の本質についてもう少し考えてみることにしましよう。
 すべての事物は、本質と現象の統一として存在しています。本質だけのものも存在しませんし、またその逆に現象だけのものも存在しません。現象は現実に存在するものの表面的な姿であるのに対し、本質は現象の背後に隠されたものとして存在しています。しかし、本質は、いつまでも現実の背後に隠されたままにとどまるのではなく、現象のなかにあらわれでます。ですから、「本質は現象しなければならない」といわれています。
 本質と現象とは、同一と区別の統一の関係にあります。本質は、現実に存在するものとなってあらわれることにより現象となりますから、その限りでは、本質は現象と同一ということになります。しかし、現実に存在するものは、全て偶然性と必然性の統一としてあります。したがって、現実に存在するものとしての現象のなかには、本質のあらわれとしての必然性と、本質と無関係な偶然性とが混在しているのであって、その限りでは本質に比べて、現象の方がより豊かな存在となっているのです。この点に注目すると、本質と現象とは区別されたものとしてとらえなければなりません。
 この両面をみるとき、本質と現象とは、同一と区別の統一という関係にあるということになります。
 また、本質に媒介された現象のなかにも二種類があります。一つは、本質がそのままの姿であらわれる現象であり、もう一つは、本質が歪んだ形、転倒した形であらわれる現象です。後者の方を「現象」から区別して「仮象」とよぶこともあります。仮象の例としては天動説をあげることができます。天動説も、地球の自転という本質に媒介された現象ですが、本質がそのままの姿としてではなく、転倒した形で示されているのです。
 以上、本質と現象にかかわるいくつかのことをお話ししましたが、国家を議論する場合も、本質のみを論じるのではなく、本質と現象の統一した国家の全体像を議論しなければ議論が一面的になってしまいます。弁証法とは、事物を全体的、発展的にみることによって真理に接近する認識方法です。事物を全体的にとらえるには、事物を対立物の統一としてとらえることが必要です。対立する一方のみをとりあげるのは、一面的なものの見方であり、常に事物をその対立する両面において全面的にとらえないと、真理に接近することはできません。
 国家も階級支配の機関という本質だけでなく、多様な現象・仮象をもっており、そうした国家の全体像をつかむことが、「国家とはなにか」の問いに答えることになるのです。

矛盾する二つの機能

 先に、国家は共同の利益を実現する独自の組織に端を発しながら、この組織が、支配、搾取階級によって独占され、固定されることにより、階級支配の機関に転化したものだというお話をしてきました。
 ここには、一つの矛盾が存在しています。すなわち、国家は、一方では何よりも支配階級が、「被抑圧階級を抑圧し搾取するための新しい手段」であり、支配階級の利益を守る機関、つまり階級支配の機関でなければなりません。しかし他方では、「外見上社会のうえに立って」、搾取階級と被搾取階級の「衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力」、つまり、社会の全構成員の共同の利益を等しく代表する第三者機関の役割も担わなければなりません。
 いうならば、国家は、生まれながらに支配階級の利益を代表しつつ、全構成員の共同の利益をも代表するという矛盾をかかえているのです。
 ここから、国家は、本質的に二つの機能をもたねばならないことになります。一つは支配階級の支配を維持強化するための機能であり、この機能の一つが国家における公的権力となってあらわれます。もう一つは、全構成員の利益を代表する機能であり、これは、国家による共同の利益の実現となってあらわれます。
 この二つの機能は、階級社会を反映した本質と現象(仮象)の関係にあります。いうまでもなく、階級社会にあっては公的権力が本質であり、共同の利益実現は、仮象にすぎません。国家は、共同の利益実現という仮象をもつことによって、はじめて少数の搾取する階級が多数の搾取される階級を支配することができるのです。支配階級のむき出しの公的権力による強力的支配では、決して長期にかつ安定的に多数の被搾取階級を支配し続けることはできません。近代民主主義のもとで、普通選挙により統治機構が選出される場合を考えれば、支配階級も共同の利益実現を、国家の主目的に掲げざるをえないことは明らかです。ただし、あくまでも、「外見上」のものとしてですが。
 共同の利益の実現は、原始共同体の社会の機能から、そのまま階級国家の機能として引きつがれるものですが、その内容には、天と地の開きがあります。原始共同体における共同の利益の実現は、名実ともに、構成員全員に共通する利益の実現を意味していましたが、階級国家における共同の利益の実現は、国家が支配階級の利益を守る階級支配の機関であるという本質をおし隠す、いちぢくの葉でしかないのです。ですから、共同の利益の実現は、いわば、しばしば、お題目またはリップサービス(口先だけ)にとどまり、支配階級の利益実現のために常に切りすてられる運命にあります。
 現代日本の国家は、独占資本の支配する国家です。ですから、国家予算も、大企業の利益のための公共事業優先に編成され、「共同の利益」である福祉、医療、年金、教育などの予算が次々と切りすてられていることは、皆さんご存知のとおりです。
 以上から、「国家とは、その全構成員の共同利益を実現する仮象をもちつつ、一方で支配階級の利益を擁護するとともに、他方で被支配階級を抑圧するという本質をもつ、搾取する階級の階級支配の機関である」と定義したいと思います。先に、事物の全体像を正しく認識するには、本質と現象の統一としてとらえる必要があることを指摘しました。国家は、階級支配の機関という本質をもっているが故に、共同の利益の実現という仮象を不可欠の要素としてもたざるをえないのであり、多かれ少なかれこの仮象をもたない国家は存在しないのです。

国家の死滅

 エングルスは、明確には、この仮象について語っていませんが、『反デューリング論』における国家の成立に関わる叙述を第三版でも改めなかったのは、共同の利益の実現が原始共同体から階級国家にそのまま引きつがれ、階級国家の不可欠の要素となっているという思いがあったからではないでしょうか。このことは、エングルスの「国家の死滅論」をみるとき、その観を深くします。
 マルクス、エングルスは、生産手段が社会化され、搾取する階級と搾取される階級とへの区別が解消されたとき、階級支配としての国家は、その役割を失って「死滅する」という「国家の死滅論」を展開しました。
  「国家がついにほんとうに全社会の代表者となるとき、それは自分自身をよけいなものにしてしまう。……国家が真に全社会の代表者として現われる最初の行為──社会の名において生産手段を掌握することIIは、同時に、国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会関係への国家権力の干渉は、一分野から一分野へとつぎつぎによけいなものとなり、やがてひとりでに眠りこんでしまう。人にたいする統治に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現われる。国家は『廃止される』のではない。それは死滅するのである」(『反デューリング論』全集⑳二八九ページ/古典選書版㊦一五六ページ)。
 社会主義国家は、その権力を使って、「社会の名において生産手段を掌握」します。それによって、資本主義的搾取の基盤は失われ、搾取する階級と搾取される階級への階級分裂は、存在の基盤を失って消滅します。階級分裂がなくなれば、階級支配のための公的権力は不要となってきます。階級支配の機関は、「ひとりでに眠りこんでしま」い、国家は、階級支配の機関としての本質を失って「死滅」します。しかし、それは、国家が階級支配、抑圧の本質を失うことを意味しても、共同の利益を実現するという機能まで不要とするわけではありません。
 社会主義国家における共同の利益の実現として、もっとも重要なのは、生産及び分配という経済の管理です。社会主義国家は、生産手段を社会化することによって、「社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織」(同⑳二九二ページ/古典選書版㊦一六〇ページ)となります。いわゆる社会主義的計画経済の問題です。これにより、人間は、経済法則にそいつつ経済を自在に支配するようになり、社会の主人公となることができるようになります。
 したがって、国家は、「死滅」後においても、経済管理という共同の利益実現のための組織としては存在し続けるのです。それは、これまでの階級支配の機関としての国家ではありませんが、国家の形式をそのまま引きついだ、「国家であって国家ではない」組織といっていいでしょう。
 エングルスは、そのことをもって「人にたいする統治に代わって、物の管理と生産過程の指揮とがあらわれる」といっているのです。

社会主義国家における質的転換

 階級社会の国家が、共同の利益を実現するという仮象をもつ階級支配の機関だったのに対し、社会主義国家においては、共同の利益実現を本質とする国家に発展、転化するのです。外形的には、資本主義国家から社会主義国家への移行にともない、国家のもつ共同の利益実現を目的とする機能と組織は、そのまま社会主義国家に引きつがれ、その組織部分が量的に拡大されるのみのようにみえますが、内容的には、共同の利益の実現は、仮象から本質へと、質的な転換をとげることになるのです。こうして、社会主義国家では、経済全体を国家が管理することにより、豊かな生産力を、「すべての国民が健康で文化的な、人間らしい生活をいとなめる条件を確保すること、すなわち国民の 『生存の自由』を現実に保障すること」(『宣言』三二ページ)に生かすことができるようになるのです。
 結論的にいうならば、共同の利益実現の組織が特定の階級と結びつくとき、その組織は国家権力の端緒となるものであり、階級国家において共同の利益実現は、階級支配の機関の本質を隠蔽するための仮象として、国家の不可欠的な構成部分となるものです。そして、社会主義国家において、国家は、本質的に「死滅」するものの、逆に共同利益の実現、とりわけ生産と分配の管理は人民の手に委ねられ、社会主義国家の本質的機能として、国家の不可欠的な構成部分となる、ということができるのではないでしょうか。

 

四、人間の類本質の二つの疎外

搾取による疎外

 人間は、人類としての系統発生をつうじて、自由な意識と共同社会性を類本質としてもつに至りました。この二つの類本質から、自由と民主主義への欲求が生じてくることになります。人類は、生まれながらにして自由と民主主義を、その類本質にもとづく内的欲求として求め続けてきたのです。
 しかし、それが搾取と階級対立の社会に突入し、階級支配の機関としての国家が誕生すると、人類は、二重の意味で自由と民主主義を奪われ、人間を疎外されることになります。
 一つには、搾取による疎外です。本来人間は、自由な意識の持ち主であり、生産者はその自由な意識が対象化された労働生産物を取得する権利主体として、人格を認められ、かつ自由な存在でありえたのです。原始共同体においては、社会の基礎単位をなす氏族として共同して生産し、共同して生産物を取得するという形態がとられていました。個人の人格は、氏族という共同体に埋没してはいますが、氏族という生産者が、氏族として労働生産物を取得するかぎりにおいて、生産者たる氏族構成員は自由でありえたのです。
 しかし、搾取が始まると、生産者は、生産者でありながら、労働生産物を取得することができなくなり、労働生産物から疎外されていきます。労働と所有とは分離してしまうのです。それだけではなくて、生産者は搾取者から、自己の自由な意志に反する労働を強制されることにより、その自由を奪われてしまいます。
 他方、搾取する側も、生産者ではないにもかかわらず生産物を取得することにより、労働をつうじて自由な意志を外在化するという自由を奪われてしまうことになります。また搾取すること自体が自己目的となり、労働生産物にその人格を支配され、その自由な意志を奪われてしまうことになるのです。
 こうして、搾取は、自由という人間の類本質を疎外してしまいます。また搾取は、搾取する階級と搾取される階級とへの、社会の分裂を生み出します。階級分裂の社会になると、搾取階級はその社会における支配階級となり、被搾取階級は被支配階級となって、その利害は対立することになります。
 階級社会としての資本主義は、「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積」を生み出すのです(『資本論』④一一〇八ページ/(〔Ⅰ〕六七五ページ)。
 社会は、その内部に階級対立をはらむことになり、対等、平等、友愛に満ちた民主主義的な人間関係は疎外され、支配と従属の人間関係を生みだすことになります。この搾取にもとづく支配、従属の関係が世界的規模に拡大すると、宗主国と植民地、隷属国という民族、国家間の反民主主義的関係を生みだすことになります。
 こうして、階級対立の社会では、共同社会性という人間の類本質は根本から損なわれ、民主主義の面からも疎外が生じてくるのです。

国家権力による疎外

 二つには、国家権力による疎外です。
 国家は、階級支配の機関として、その公的権力を使って、一方で支配階級の搾取の自由を擁護するとともに、他方で被支配階級の反抗を抑圧し、搾取を押しつけることになります。被支配階級は、国家権力の強制力によって、
その自由や民主主義を制限され、人間の類本質は疎外されてしまうのです。
 こうして、階級国家では、二つの側面から人間の類本質が損なわれ、人間疎外が生ずることになります。
 その人間疎外は、被搾取階級、被支配階級において集中的に表れることはいうまでもありません。そこから、被支配階級は、疎外された人間性の回復を求めて、階級闘争に立ちあがることになります。これまでの歴史のなかで階級闘争の課題に、自由と民主主義が掲げられ続けたのも、それが人間の類本質にかかわる課題であるからに他なりません。自由と民主主義を求める人類のたたかいは、人間の類本質に根ざしたものであり、だからこそ自由と民主主義は時代をこえ人類にとって普遍的価値を持ちつづけてきたのです。
 この点については、次講でもう少し詳しくお話しすることにいたしましょう。