『人間解放の哲学』より

 

 

第六講 階級闘争による自由と民主主義の発展

一、階級闘争は歴史発展の原動力

歴史の発展をつくりだすもの

  「人類の社会発展の歴史は、搾取と抑圧にたいする、さまざまな民衆のたたかいにいろどられている。そのなかで、自由と権利のためのたたかいは、つねに重要な位置をしめてきた」(『宣言』四ページ)。
 人間は、階級分裂の社会となって以来、疎外された類本質の回復を求めて、自由と民主主義のためにたたかってきました。階級社会における、搾取による疎外、国家権力による疎外という二つの疎外からの回復を求めて、被支配階級、被搾取階級は、この疎外をもたらした支配階級、搾取階級にたいし、階級としてのたたかいを撓み続けてきたのです。
 エングルスは、『反デューリング論』のなかで、「これまでのすべての歴史は階級闘争の歴史であった」としていたものを、『空想から科学へ』(一八八三年)では、「これまでのすべての歴史は、原始状態を別とすれば、階級闘争の歴史であった」とあらためました(全集⑳六五六~七ページ/『空想から科学へ』古典選書版五九ページ)。
 これは、階級のない原始共同体ではともかくとして、階級社会における社会発展の原動力が階級闘争にあることを定式化したものです。エングルスは、続けて「これらのあいたたかう社会階級は、いつでも、その時代の生産および交易の関係、匸冐でいえば経済関係の産物である」と述べています。搾取による疎外、国家権力による疎外のいずれも、「経済関係の産物」として生じているのであり、この疎外による「搾取と抑圧」からの人間性回復を求める自由と民主主義をめざすたたかいが、階級対階級の闘争、つまり階級闘争として展開されることになるのです。
 これまでにもお話ししてきましたように、自由も民主主義も多義的内容を持つ外延の広い概念です。搾取による疎外、国家権力による疎外もそれぞれの階級社会、階級国家において、それぞれの歴史的条件に規定された独特の様相をもっています。そこから、階級闘争の課題となる自由、民主主義も歴史的な刻印をもつにいたります。
 また階級闘争が、歴史発展の原動力であるということは、自由と民主主義も、歴史的に規定された階級闘争の課題として掲げられることによって、たたかいとともに歴史的に発展しつづけ、二つの疎外から完全に解放された、搾取と抑圧のない社会にいたるまで前進し続けることを意味しています。

スパルタクスの乱

 最初の階級社会としての奴隷制社会では、奴隷は、牛や馬と同じように奴隷所有者の所有物にすぎず、人間の類本質は、丸ごと疎外されていました。自由と民主主義は、奴隷所有者の独占物とされたのです。そこで奴隷は、奴隷制の支配と抑圧に反抗し、階級闘争に立ち上がりました。古代ローマの「スパルタクスの乱」が有名で、カーターダグラス主演の映画にもなりました。マルクスは、「スパルタクスは、全古代史が誇るべき最もすばらしい男として現われている。偉大な将軍(けっしてガリバルディではない)で、高貴な性格で、古代プロレタリアートの真の代表者」(「マルクスからエングルスへ 一八六一年二月二七日」全集㉚一二九ページ)であると呼び、階級闘争の開拓者として称賛しています。ドイツ共産党が、その前身時代、「スパルタクス団」と称していたのもそのあらわれです。

封建制にたいするブルジョアジーの三大決戦

 封建制社会の末期になりますと、封建領主にたいする搾取と抑圧にたいする階級闘争は、これまでの階級闘争の主役だった農民から、台頭してきたブルジョアジーの手に委(ゆだ)ねられることになります。エングルスは、「封建制にたいするブルジョアジーの長い闘争は、三つの大決戦で頂点に達した」として、ドイツ農民闘争、イギリス革命、フランス革命の三つをあげています(『空想から科学へ』全集⑲五五三ページ/古典選書版一一八ページ)。
 イギリス革命は、クロムウェルの率いるピューリタン革命で絶対王制を倒し、一六八八年の名誉革命で立憲君主制を確立します。これによりイギリスのブルジョアジーは権力を手にし、世界にさきがけて資本主義を発展させる条件をつくりだしました。
 十八世紀後半から始まったイギリスの産業革命は、ブルジョアジーの封建地主、土地貴族にたいする完全な経済的優位をもたらし、一八三〇年の選挙法改正、ついで穀物法の廃止によってその優越的地位を確立します。しかし、それは、同時に労働者階級の台頭と労働者階級の政党の誕生、そして新たな階級闘争の発生をも意味したのです。
 「この階級は、産業革命が工業の諸部門へつぎつぎに波及してゆくのにつれてその人数を増し、また人数が増すのにつれてその力も増した。この階級は、はやくも一八二四年には、いやがる議会に強要して労働者の団結を禁止する諸法律を廃止させることで、その力を実証した。選挙法改正運動では、労働者は改正を主張する党派の急進的な一翼をなしていた。一八三二年の法律が彼らを選挙権から締めだしたとき、彼らはその要求を定式化して人民憲章(Peopie's Charter)をつくり、大ブルジョアの反穀物法党に対抗して、独立の党、チャーティストを組織した。これはわれわれの時代の最初の労働者党であった」(同五五九ページ/同一三〇ページ)。
 フランス革命について、エングルスは、「一方の交戦者だった貴族が滅ぼされて他方の交戦者だったブルジョアジーが完全に勝利するまで、ほんとうにたたかいぬかれたという点でも、最初のものであった」と述べています(同五五七ページ/同一二六ページ)。
 フランス革命は、ルソーをはじめとするフランスの偉大な啓蒙思想家の諸原則を実現する「理性の国」の樹立を目的としたものでしたが、しかし実際にできあがったのは、ブルジョアジーの支配する国家でしかなかったのです。
 「いまではわれわれは知っている。この理性の国とはブルジョアジーの国の理想化にほかならなかったのだということを。永遠の正義はブルジョア的司法として実現されたということを。平等はけっきょく法のもとでのブルジョア的平等になってしまったということを。最も本質的な人権のひとつと宣言されたものI-それはブルジョア的所有権であったということを。そして理性国家、ルソーの社会契約は、ブルジョア的民主共和国としてこの世に生まれでたし、またそのようなものとして生まれでるよりほかはなかったということを」(同一八七ページ。/同二五ページ)。
 ブルジョアジーが、封建制権力にたいする階級闘争に勝利して、自由と民主主義を大きく前進させながらも、資本主義国家が、依然として階級国家としての制約をもっており、その自由と民主主義には、ブルジョア的な制約を伴っていることを指摘し、引き続く階級闘争によってさらに発展させられねばならないことを、マルクス、エングルスは強調したのです。

 

二、近代民主主義の意義と限界

近代民主主義の普遍的意義とブルジョア的制約

 『宣言』では、アメリカの独立宣言やフランス人権宣言をつうじて打ちたてられた近代民主主義の諸原則が、「国民の主権と自由の宣言を核心的な内容とする」ものであることを明らかにしています。「近代民主主義」という場合、独立宣言や人権宣言の諸原則を総称しているものですから、そこには民主主義の問題だけでなく、自由の問題も含まれているのです。続いて『宣言』は、この近代民主主義が「最初から多くのブルジョア的制約と限界をもっていた」として、次のように述べています。
 「アメリカの『独立宣言』(一七七六年)やフランスの『人権宣言』(一七八九年)で、国民主権が宣言されたが、選挙権ひとつとっても、女性もふくめてすべての国民に参政権を保障する普通選挙権が、主要な資本主義国に確立するまでには、それ以後、百数十年にわたる各国人民の努力が必要だった。国民の自由と人権の問題でも、フランス革命当時は、労働者の団結やストライキは、革命政府自体によって、『自由と人権宣言』をおかす犯罪として禁圧された。労働者の団結権やストライキ権が、近代国家における当然の民主的権利として一般的に確認されるまでには、政府とブルジョアジーの暴圧に抗しての、労働者階級の長期にわたる不屈の闘争が必要だったし、この闘争は、今日の日本においても、なお継続されている」(『宣言』二二ページ)。
 近代民主主義の諸原則を採択したブルジョア国家においても、搾取による疎外と国家権力による疎外という、二つの疎外から抜け出すことはできなかったのです。
 封建制社会のなかから小生産者として台頭してきたブルジョアジーは、封建制のもとでの身分的制約から抜け出しもっと自由な搾取を求めて、封建制権力を打ちたおし、ブルジョア的な人権宣言を打ちたてました。したがってこうした人権宣言の本質が、搾取の自由を保障する私的所有の自由にあったことは否定できません。
 マルクスは、人権宣言における自由の本質は、「私的所有という人権」にあり、平等と安全も、私的所有の平等、私的所有の安全に他ならないとして、「ブルジョア〔市民社会の一員〕としての人間が本来的な真の人間だと考えられた」と喝破しています(全集①四〇二〜三ページ/『ユダヤ人問題によせてヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫四四~六ページ)。
 しかし、人権宣言の本質が、搾取の自由のための私的所有権にあったとしても、形式的にはこれらの人権宣言が、すべての階級、すべての人民に普遍的に適用される自由と民主主義を掲げたことには、きわめて大きな意義があったといわねばなりません。つまり、本質的には支配階級であるブルジョアジーの自由と民主主義を保障するものでありながら、現象的には、あらゆる階級、すべての人民の自由と民主主義を保護するものとして宣言されました。ですから、労働者階級は、この人権宣言を有力な武器として、ブルジョアジーに階級闘争を挑むことが可能となったのです。
 それは単に理論的に可能となったというだけではなく、歴史的にもそういう過程をたどりました。アメリカの独立宣言やフランスの人権宣言にかかげられた自由と民主主義を一つのよりどころとしてたたかわれた階級闘争によって、後にのべるように近代民主主義は、現代民主主義へと発展していくことになったのです。
 このように、近代民主主義の諸原則には、積極的側面とそのブルジョア的制約という側面があり、そこからその評価についても、それぞれを一面的に強調した左右の偏向があることを指摘しておかなければなりません。

近代民主主義の絶対化

 右の偏向は、近代民主主義の積極的側面だけをみて、その諸原則を絶対化するものです。この考えによると、自由と民主主義は、近代民主主義によってはじめて確立されたものであるとしてとらえると同時に、それがブルジョア的限界をもっていることに目をふさぎ、それを至高のもの、「永遠の正義」として賛美するのです。
 しかし、自由と民主主義は、人間の類本質に由来するものであって、原始共同体においてすでにその存在が認められるものであることは、これまでにも明らかにしてきたとおりです。したがって、自由と民主主義を論じるにあたって、その出発点をイギリス革命における「権利章典」やアメリカの独立宣言、フランス人権宣言などに求めて、そこから議論を展開することは正しくないと思います。
 これらのブルジョア民主主義革命によって、自由と民主主義は、人類普遍の「人権」として定式化されるにいたったものの、それは法規範としての自由と民主主義の成立を意味するだけであって、社会的規範としての自由と民主主義の成立を意味するものではありません。近代民主主義の諸原則としての自由と民主主義は、人間の類本質から生じる社会規範としての自由と民主主義を、法と権利の形に定式化したものにすぎないのです。モーガンが、原始共同体の社会について「自由、平等、友愛は、定式化されたことは一度もなかったが、氏族の根本原理であった」(『国家の起源』全集㉑九二ページ/古典選書版一二〇ページ)と述べたところをかみしめてみる必要があると思います。
 また近代民主主義の諸原則を絶対化することは、何よりも、それが搾取による疎外、国家権力による疎外という、二重の制約をもつものであることに目をふさぐものであり、このような二重の疎外から解放された、真の自由と民主主義への歴史的発展を否定する結果になってしまうのです。

近代民主主義の全面否定

 これにたいして左からの偏向は、近代民主主義の諸原則のもつ積極的意義を否定し、これをブルジョア民主主義として一蹴する考えであり、残念ながらこの左の偏向は、科学的社会主義の陣営のなかから登場してきました。後に詳しくお話ししますが、科学的社会主義の理論は、近代民主主義の諸原則を引きつぎ、発展させたものとして誕生しました。それは何よりも、人間の類本質を疎外する搾取と抑圧を克服し、二重の疎外からの解放による自由と民主主義の全面開花の社会をめざす理論と運動です。しかし、この科学的社会主義の自由と民主主義論は、スターリンの手によって根本から歪曲されることになります。
 「最初に社会主義をめざす道にふみだしたソ連では、レーニンの死後、スターリンを中心とした指導部が、科学的社会主義の原則を投げすてて、対外的には覇権主義、国内的には官僚主義・専制主義の誤った道をすすみ、その誤りはその後の歴代指導部にもひきつがれ、ときにはいっそう重大化した」(「綱領」)。
 ソ連や東欧で、普通選挙が実施されず、一党支配のもとで、思想、言論、表現の自由が大きな制約を受けていたことは、否定しがたい事実です。この点が、歴史的にみても主としてスターリンの責任であることは明らかです。それではレーニンにまったく責任がないのかといえば、それもまた問題です。
 レーニンが指導にあたった時期のソ連は、民族自決、平和、男女同権、八時間労働制や有給休暇制、社会保障制度などによって、科学的社会主義の真価を示し、世界の資本主義国を驚嘆させるとともに、全世界の労働者階級に、社会主義の制度的優位を確信させるにいたりました。
 しかし、レーニンも、こと自由と民主主義の問題に関しては、科学的社会主義の理論からの重大な逸脱をもたらしました。レーニンの後継者を自称し、レーニンを絶対化することによって自己を権威づけようとしたスターリンのもとで、この逸脱は固定化され、理論的実践的誤りとして定着してしまうことになるのです。この点は第八講、第九講で詳しくお話しします。

 

三、近代民主主義から現代民主主義へ

近代民主主義の止揚

 マルクス、エングルスが創始者となった科学的社会主義の理論は、人類史上はじめて、社会にも発展法則があることを明らかにしました。社会は、その内部に対立・矛盾する要素をもち、その対立物の闘争によって、矛盾が止揚され、社会は発展すると考えたのです。社会を発展させる土台となるのは、経済的諸関係であり、そのなかにおける生産力と生産関係の対立・矛盾、その反映としての階級間の対立・矛盾です。そこから「階級闘争は、歴史発展の原動力である」という命題も生まれてきたのです。
 さて、近代民主主義に限定した場合、その対立・矛盾は、本質としての「搾取の自由」と、現象としての普遍的な自由、民主主義となってあらわれます。その矛盾の止揚は、「搾取の自由」を否定し、普遍的な自由、民主主義を保存しつつより高い段階に発展させることになります。近代民主主義の評価に関する左の偏向は、階級闘争による矛盾の止揚という、史的唯物論の根本にかかわる命題を近代民主主義に正しく適用することを誤り、近代民主主義を弁証法的に否定するのではなくて、清算主義的に全面否定してしまったのです。
 現実の歴史において、近代民主主義は、その後の階級闘争をつうじて弁証法的な発展をとげ、労働者の団結権、団体交渉権、争議権などにみられるように現代社会における現代民主主義として成長するにいたっています。そして、この階級闘争の先頭にたったのは、人間解放をめざす科学的社会主義の理論と運動だったのです。
 「今日、近代社会でそれぞれの形態と内容で実現されている市民的政治的自由や政治的民主主義の諸制度は、過去のブルジョア革命の所産に単純に還元できるものではない。それは……長期にわたる人民の闘争の成果として今日的な展開をかちとったものである。そしてこの面でも、国民主権と自由の旗を一貫してかかげてきた科学的社会主義の事業は、最も重要な先進的貢献をおこなってきたのである」(『宣言』二三ページ)。
 とりわけ、わが国においては西ヨーロッパ諸国とちがい、支配的ブルジョアジーは、絶対主義的天皇制のもとで、自由と民主主義の抑圧者として歴史の舞台に登場しました。そのため、自由と民主主義を実現するたたかいが、日本では最初から「人民の進歩と革命の陣営、とくに労働者階級とその党の肩にになわれるにいたった」(同一四ページ)ことを、『宣言』は明らかにしています。一九二二年に結成された日本共産党は、生まれたときから絶対主義的天皇制の支配に反対して、国民主権の立場から君主制の廃止をかかげ、はじめて男女平等、一八才以上の男女の普通選挙権を要求し、労働者の団結、出版、集会、ストライキの自由、八時間労働、小作人への土地の引きわたしなどをかかげたのです。
 以下、階級闘争による近代民主主義から現代民主主義への発展をいくつかの側面からみてみましよう。

国民主権の発展

 フランス革命の直接の産物である一七八九年の人権宣言は、「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」、「法は、総意の表明である。全ての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その作成に協力することができる」と規定していましたから、すべての市民が主権者として選挙権を与えられるはずのものでした。
 しかし実際には、労働者階級の政治参加を排除する目的で、租税や社会的身分による制限選挙が導入されました。それを正当化する理論が、「国民(ナシオン)主権論」でした。
 すなわち、主権をもつ「国民(ナシオン)」とは、国民の総体である抽象的な集合体を意味するものであって、国民一人ひとりを意味するものではない、とする議論です。この集合体は、抽象的な存在であって、みずから主権を行使する意志能力に欠けていますから、「国民代表」にその行使を委ねざるをえません。したがって、選挙は、主権の行使者を選出する「職務(公務)」にすぎないものであって、主権の行使そのものではないから、制限選挙も、主権の侵害に当たらない、というごまかしの理屈をたてたのです。
 しかし、パリの民衆は、このごまかしを見抜き、一七九二年に蜂起して国王を退位させ、民主共和制を実現します。新たに制定された共和国憲法(一七九三年)は、ルソーの人民主権論を受けつぎ「主権は人民に属する」、「主権者人民は、フランス市民の総体である」として、フランス市民の一人ひとりを主権者とする「人民(ゲーブル)主権」を明確にして、男子の普通・平等選挙を保障したのです。
 このとき以来、厳密な意味では、「国民主権」と「人民主権」とは区別されるようになりました。
 結局、九三年憲法は、「テルミドールの反動」によって実現されないままに終りますが、制限選挙に反対し、普通選挙権を求める運動は、人民主権論と結合してイギリスのチャーチスト運動、日本の普選運動などに引きつがれていくことになるのです。
 チャーチストの先進部分は、普通選挙、人民主権とともに、国家権力を労働者階級の手に移すことを要求しました。エングルスは、チャーチストの掲げる「民主主義、それは今日では共産主義である」と述べています(全集②六三九ページ)。これを私なりに言いかえれば、「民主主義の真のあるべき姿が共産主義である」となります。
 実際にチャーチストの先進部分は、科学的社会主義の運動に合流し、マルクス、エングルスは、人民主権の国家の実現とすべての国民への普通選挙権を主張し続けたのです。
 二〇世紀初頭には、普通選挙にもとづく民主共和制の国は、アメリカ、フランス、スイスの三ヶ国しかありませんでしたが、今日では逆に君主制(日本も含まれています)の残っている国は二九ヶ国にすぎません。このような普通選挙と民主共和制の広がりに、科学的社会主義の理論と運動が積極的に貢献したことはいうまでもありません。こうした普通選挙権の世界的規模の広がりのなかで、「国民主権」も制限選挙を正当化する機能を失い、「人民主権」とほぼ同義に使われることも多くなっています。
 そこに、現代民主主義としての国民主権の発展した姿をみることができるのです。

 

四、科学的社会主義の事業と現代民主主義

経済的、社会的解放へ

 科学的社会主義の理論は、人間の解放をめざしています。その意味するところは、搾取と国家権力とによって二重の疎外を受けている人間が、自由と民主主義という類本質を取りもどすことです。したがって、近代民主主義を絶対化して、そこにとどまるものではありません。
 科学的社会主義の「学説と事業の人類史的な意義は、それが、近代民主主義による国民の政治的解放とその徹底を重視しながらも、それだけに満足せず、搾取制度の廃止による国民の経済的、社会的解放にまで前進することによって、真の人間解放に到達する道を、あきらかにしたところにあった」(『宣言』二ーページ)。
 それは近代民主主義のブルジョア的制約をうち破り、単なる現象としての自由・民主主義を、本質としての自由・民主主義に発展させるものということができます。
 マルクス、エングルスは、こうした立場から、「搾取の自由」の制限と廃止を求めると同時に、資本主義のもとでもすべての人民の「生存の自由」を実現するための階級闘争をよびかけ、みずからもその組織化の先頭に立ったのです。
 マルクスが中心になって、一八六四年ロンドンで創立された、国際労働者協会(第一インターナショナル)は、労働者階級の最初の国際的な大衆的革命組織です。第一インターは、労働者階級がみずからを経済的に解放するには政治権力を獲得しなければならないことを明らかにすると同時に、労働者の勝利の保障は団結にあるとして、「万国のプロレタリア団結せよ」のスローガンを採択しました。この文章は、マルクスを象徴する言葉としてロンドンにあるマルクスの墓石に刻みつけられています。
 第一インターは、七一年のパリーコミューンのたたかいを支援し、マルクスの執筆した『フランスにおける内乱』は、第一インター総評議会の呼びかけとして起案されたものです。第一インターは、各国に科学的社会主義の事業と学説を広げ、社会主義のための国際的闘争の土台をすえる歴史的使命を終えて、一八七六年に解散します。
 一八八九年、エングルスの指導のもとに、フランス革命一〇〇周年を記念して、パリで、第ニインターナショナルが設立されました。そこでは、八時間労働日の法律による制定の要求がかかげられ、毎年五月一日を労働者階級の国際的祝日(メーデー)とする要求がかかげられました。

ロシア革命と現代民主主義

 マルクス、エングルスの理論を徹底的に研究し、ロシアの具体的な情勢に適用しようとしたのがレーニンでした。レーニンの指導によって、一九一七年ロシア革命は成功し、革命政府は「平和についての布告」、「ロシア諸民族の権利の宣言」、「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」などを次々と採択します。人類史上はじめて、「人間による人間のあらゆる搾取の廃止」が宣言されました。
 また、「ロシア諸民族の平等と主権、民族自決権」も世界的な原則として宣言され、旧ロシア帝国内にあった諸民族の自決を実際に実現したことは、世界の被抑圧民族全体を励ますものとなりました。さらに全交戦国とその国民に無併合、無賠償の講和をよびかけた「平和についての布告」は、これまでの戦争についての考え方を一変させるものでした。というのも、それまでは、戦争をすることは国家の権利であり、戦勝国が敗戦国の領土を併合し、賠償金をとることは戦勝国の当然の権利とされていたからです。戦争違法化原則のさきがけともいえるものです。
 こうしてロシア革命は、世界史に新しい時代を画し、現代民主主義の諸原則を確立する契機となったのです。その人類史的な意義は、スターリン以降の歴代指導者の誤りの累積や、その結果によるソ連の崩壊によっても失われるものではありません。
 ロシア革命が、現代民主主義に与えた影響は、大きくいって次の三点にまとめることができます。

社会権の保障

 第一は、「生存の自由」としての社会権の保障です。ソ連憲法は、これまでの人権宣言とちかって、労働の権利と休息の権利の保障(八時間労働日の制定、年次有給休暇の設定等)、国の負担による社会保障制度の確立、勤労者にたいする医療の無料提供、教育を受ける権利の保障(あらゆる教育の無料制)、男女平等、母子の保護などの、いわゆる社会権を規定していました。
 ソ連の人権宣言は、全世界の資本主義国に激震を与えました。ソ連憲法の翌年にドイツで制定されたワイマール憲法は、ソ連憲法に対抗するものとして誕生したものですが、ソ連憲法の水準に近づこうとして、労働の権利、生存権などの社会権をもちこみ、その後の資本主義国の憲法のモデルとなったのです。
 日本国憲法の生存権(二五条)、教育を受ける権利(二六条)、勤労の権利(二七条)、勤労者の団結権(二八条)などもワイマール憲法の社会権を継承するものです。

民族自決権の承認

 第二は、「民族の自由」としての、民族自決権の承認です。
 レーニンが打ち立てた、民族自決権の承認は、すべての民族が独立の国家をつくることを含め、自己の社会体制や政治制度などを外部からの制約を受けずに自主的に決定する権利を意味していました。ですから、この民族自決権の承認は、植民地・従属国を励まし、国際的な民族解放運動の高揚をもたらす契機となったのです。
 「二〇世紀の初めには、実質的な独立国は地球上に二〇力国ほどしか存在せず、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの圧倒的多数の諸民族は、植民地・半植民地・従属国として、民族的な抑圧に苦しめられていた。それらの諸民族のほとんどが、今日までに独立をかちとった。一九六〇年代には、国連総会決議などで、植民地領有そのものが国際法違反の不法行為として批判されるようになった」(『宣言』二七ページ)。
 現在国連に加盟している世界一九一力国のかなりの部分が、かつての旧植民地・従属諸国であり、このうち一一六力国が非同盟諸国会議に結集して、世界平和と民族自決権、公正な世界秩序の確立をめざして積極的役割を果しています。

紛争の平和的解決の原則

 第三は、紛争の平和的解決の原則の確立です。
 人間、民族、国家相互の関係が、対等・平等である場合に、それぞれの間で紛争が生じた場合、話し合いによる平和的な解決の道が開かれます。民主主義的な関係は、紛争を民主主義的に解決することに通じるのです。
 国内においては、各国とも裁判所による紛争の法的解決という、平和的解決の道が早くから開けていました。しかし、国際関係においては、二〇世紀になるまで、最終的には、戦争という力による紛争の解決の道しか存在しなかったのです。これは近代民主主義の限界を示す重要なポイントといわねばなりません。
 レーニンが、無併合、無賠償の即時講和を提唱したことは、領土を併合し、賠償をとる以外の国際紛争解決に道を開き、違法な戦争という概念を国際法上もたらすうえで積極的な役割を果たしました。
 近代になると、戦争はますます大規模になり残虐な兵器の開発によって、軍隊に属する戦闘員のみならず、一般市民まで戦争にまきこまれ、おびただしい犠牲者を生みだしました。第一次世界大戦の犠牲者は九〇〇万人、第二次世界大戦の死者は六〇〇〇万人以上といわれています。
 こうした状況のなかで、第一次大戦をめぐって、反戦平和の運動がもりあがり、レーニンの「平和についての布告」もあって、一九二八年、当時の独立国家のほとんど全部が参加して、不戦条約が締結されるにいたったのです。紛争解決のために戦争に訴えることを国際法上はじめて違法とみなし、紛争の平和的解決が打ち出されました。
 しかし、不戦条約には、違反した場合の制裁がなく、またアメリカが自衛のための戦争はこれに含まれないと主張したため、日本が「自衛のため」と称して中国東北部へ侵略(いわゆる「満州事変」)したところから、不戦条約は死文化し、第二次世界大戦に突入してしまいました。
 二〇世紀に二つの大きな世界大戦がたたかわれたことの反省のうえに、第二次世界大戦後、国際連合(国連)が結成されました。国連憲章の前文は、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い」、「国際の平和及び安全を維持するため」に、国連を設立したことを明記しています。
 ですから、国連の第一の目的は、国際の平和及び安全を維持することにおかれ、そのために、国際紛争の平和的手段による解決の原則が定められたのです。紛争解決はあくまで非軍事措置によることが求められており、国連憲章は、紛争解決手段としての武力の行使を原則的に禁止しています。
 しかし、加盟国に対して武力攻撃が発生した場合に、個別的又は集団的自衛権の行使としてならば許されるという例外規定が設けられています。この規定はたびたび乱用され、二〇〇一年九月の同時多発テロにさいしても、それがアルカイダという集団による国際的な犯罪行為であって、アフガニスタンという国家による武力攻撃ではないにもかかわらず、アメリカは自衛権の行使としてアフガンへの武力攻撃をおこないました。とくに集団的自衛権というあいまいな概念は、本来正当防衛として許される自衛権の概念を不当に拡大する危険性をもっています。
 違法な武力攻撃をする国にたいする制裁としては、国連が国連軍を編成してこれに立ち向かうという集団安全保障の措置が予定されています。しかし、今日まで、アメリカやソ連を中心とする多国籍軍の出動はあっても、国連憲章の趣旨に則った国連軍が組織された例は一度もありません。
 そういう紛争の平和的解決への例外を認めるという弱点をもってはいますが、国連を中心とする紛争の平和的解決の原則は、世界のどの国々も正面からは無視しえない国際法規の大原則として承認されてきているのです。だからこそ、二〇〇三年、アメリカがイラクを攻撃したのに対し、ヨーロッパ諸国やアラブ諸国も含め、国際的な反対運動が広かったのです。

 

五、日本国憲法は、現代民主主義を代表する人権宣言

日本国憲法の平和原則

 この国連憲章の平和原則を一層徹底させ、発展させたものが、日本国憲法の平和原則です。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(前文)。「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、人間の類本質に根ざした相互尊重と友愛の民主主義的人間関係であり、それが恒久平和を生みだすととらえていることは注目されるべきです。平和とは、たんに戦争のない状態という消極的なものではなく、積極的に敵意をもたない、友愛に満ちた人間関係、国家関係における民主主義を意味するものです。カントは、平和とは、「あらゆる敵意の終末」を意味するとしました。仮想敵国をもち、戦争を準備している国家は、戦争状態に突入していないとしても、平和な国家とはいえません。それは、単に平和の「仮象」をもつ国家にすぎないのです。そうした民主的な人間関係、国家関係は、支配・従属の関係を否定し、相互の対等・平等の関係からしか生まれることができません。このような、敵意のない、友愛に満ちた対等・平等な人間関係、国家関係が存在してこそ、相互の間に紛争が生じた場合にも、話し合いによる解決という共通の土俵を求めることができるのです。
 こうした民主的国家関係を人類の理想として追求する決意の表明として、九条は、国際紛争を平和的に解決する原則に例外を認めないことを明らかにし、そのためには一切の軍事力をもたないという、非軍事平和の立場を全世界に訴えたのです。
 実際には、日米安保条約という軍事同盟のもとで、日本は世界有数の軍隊をもつにいたり、湾岸戦争、同時多発テ囗を契機として、アメリカへの忠誠心の表明のため、自衛隊の海外派兵までおこない、有事立法(戦争対処法)に執念をもやしています。しかし、前文や九条にみられる憲法の平和原則は、平和をめぐる人類史的到達点を示すものとして、いまもなおその輝きを失つていないのです。

平和的生存権

 さらに、日本国憲法の平和原則は、もう一つ、忘れてはならない権利を宣言しています。それが「平和的生存権」です。
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(日本国憲法前文)。
 ここでは、まず、日本が、全世界の平和を維持する活動の先頭にたつことによって、平和の守り手としての名誉ある地位を国際社会において占めたい、という決意が意気高く表明されています。
 それは、日本が、第二次大戦において、一九四五年五月ナチスードイツが崩壊してから約三ヶ月にわたり、最後のファシズム国家として、当時の独立国のほとんどすべてである、五〇数力国の反ファッショ連合国を相手に戦い続けたことへの、痛烈な反省の意がこめられているのです。そして、そこにいう平和とは、「専制と隷従、圧迫と偏狭」をとりのぞい。た、積極的な平和状態です(「恐怖」のもとでの平和、「欠乏」のもとでの平和は、真の平和ではありません。核保有大国がとっている核抑止論とは、「恐怖」のもとでの仮象の「平和」であり、軍事優先、くらし犠牲の軍事大国の唱える平和は、「欠乏」のもとでの仮象の「平和」にすぎないのです)。
 こうした平和への決意のもとに、「平和のうちに生存する」ことが国民の権利であることが表明されています。
 これまで、戦争か平和かの問題は、国家の専権であり、国民が左右しうる問題ではないと考えられていました。しかし、憲法は平和の問題を、国家の手から、国民の手に引き戻して、戦争か平和かの問題を、国民の手に委(ゆだ)ねたのです。それは同時に、国民の責任の大きさを示すものであり、主権者たる国民は、平和の問題に無関心であってはならないことをも意味しています。

私権と公権の統一

 九〇年に湾岸戦争が勃発し、戦後はじめて広島県の呉市から、海上自衛隊の掃海艇が、武装した軍隊として海外派兵されました。私たちは、世界最初の被爆地「ヒロシマ」から平和の声を、と、日本で最初に自衛隊海外派兵の違憲性を問う訴訟を提起しました。
 そのなかで平和的生存権についての理論的研究も深め、平和的生存権には、公民権(公権)と私権の二つの側面があるという結論に達しました。
 マルクスは、「ユダヤ人問題によせて」のなかで、公民権と私権について次のように述べています。
 「現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、……類的存在となったときはじめて、つまり人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである」(全集①四〇七ページ/『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫五三ページ)。
 つまり、人間は、一個の私人として自由と民主主義を享受すると同時に、社会を真にあるべき姿に発展させるために公民として貢献することによって、はじめて、人間らしい人間となり、人間として解放される、というのです。
 もちろん平和的生存権が、ただちに人間解放を意味するわけではありません。しかし、平和的生存権には私人の権利、公民の権利が統一されており、人間解放に向かう権利のひとつだということができるでしょう。
 平和的生存権は、私権としては、「平和のうちに生存する自由」として、自由権の一つに位置づけられます。現代の戦争は、生命、財産、自由、民主主義の一切を奪いつくし、あらゆる基本的人権を空洞化してしまいますから、平和的生存権はすべての基本的人権を現実化する前提となる「権利保障的自由権」ということができます。
 これに対し、公権としての平和的生存権は、主権者たる国民の主権の行使としての抵抗権としての性格を持っています。もともと国民主権原理と抵抗権とは切りはなすことができないものです。アメリカの独立宣言でも、フランス人権宣言でも、圧制への抵抗を権利として明記しています。
 国家が、国民の意に反して、戦争を準備し、あるいは戦争を開始するときは、国民は主権者として抵抗権たる平和的生存権をつかって、こうした行為を阻止することができなければなりません。抵抗権を伴わない国民主権は、有名無実といってもいいでしょう。
 主権者たる国民は、私人と公民の統一として存在することによって、はじめて社会的存在としての本来の人間に回復することができるのです。
 こうした平和的な生存権を憲法上規定しているのは、世界中で日本国憲法しかありません。

 以上まとめると、日本国憲法は、第一に平和を積極的概念としてとらえていること、第二に、軍事によらない平和という真の平和を定めていること、第三に、私権と公権の統一としての平和的生存権を規定していること、の三点において、前例をみない先駆的なものであり、現代民主主義を代表するものといっていいでしょう。
 アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言が近代民主主義を代表するとしたら、日本国憲法は、その平和原則によって現代民主主義を代表する憲法といえるのではないかと思います。