『人間解放の哲学』より

 

 

第七講 資本主義の枠内での民主主義革命

一、国家独占資本主義下の自由・民主主義

現代民主主義の歴史的制約

 近代民主主義は成長期の資本主義の政治的要求として生まれ、普遍的な自由と民主主義を宣言しました。そのことを通じて、資本主義のもとでの自由と民主主義を発展させる階級闘争を前進させ、現代民主主義を生み出してきたのです。
 この現代民主主義は、人間解放に向かって自由と民主主義の全面開花を求める運動の今日的到達点であり、大きな意義があります。同時に、その自由と民主主義は、「資本主義国家の枠内」という制約を持たざるをえません。
 資本主義国家では、ブルジョアジー(資本家階級)が、階級として国家権力を掌握し、みずからの階級的利益を擁護・発展させるために、国家権力を積極的に利用しています。階級闘争の前進によって、ブルジョアジーの階級的利益が根本的に侵害されようとする場合には、ブルジョアジーは国家権力を使って、容赦なく弾圧し、抑圧を加えます。
 成長期の資本主義にとって、ブルジョアジーが国家に要求したことは、封建制の身分的、ギルド的制約を打ち破り、「自由にやらせろ」(レッセーフェール)ということでした。国家は、ブルジョアジーの自由な経済活動と自由競争を保障し、それを見守っていさえすればよかったのです。いわゆる古典的な自由主義であり、資本主義は、自由と民主主義の「擁護者」として登場したのです。
 しかし、資本主義が発展し、自由競争の時代から独占資本と帝国主義の時代に入ってきますと、資本主義のもつ矛盾も深まり、独占資本は、第一次大戦をつうじて国家と結びつく国家独占資本主義となって、自由と民主主義の抑圧者に転化してしまいます。
 「世界資本主義は、二十世紀のはじめには独占資本主義すなわち帝国主義に成長転化したが、戦争の期間にもいちじるしく前進して、金融資本をいっそう大きく集積したばかりでなく、国家資本主義への転化をももたらした」 (「世界政治の転換」レーニン全集㉓二九六ページ)。
 国家独占資本主義とは、「資本主義の巨大な力と国家の巨大な力とを単一の機構に……結合」(「戦争と革命」同㉔四二九ページ)したものです。
 一九二九年、アメリカに始まった世界恐慌を契機にして、ルーズベルト大統領は、ニューディール政策を実施。TVA計画といって、テネシー河に国家の公共事業として巨大なダムを建設し、それにより雇用を創出し、失業救済策としました。
 ほぼ同時期に、「ケインズ理論」が登場します。自由放任のもとでは失業問題を解決できず、国家の介入によって有効需要を創出すべきという考えです。独占資本は、このケインズの考え方を理論的武器としつつ、国家権力と国家財政を利用して軍備増強、大型公共事業を実施させ、巨大な利益をむさぼり続けるようになります。独占資本は国家に依存する軍需産業によって軍隊と結びつき、産軍複合体制を生みだします。独占資本の金づるとして、軍需産業と軍隊が増強され、自由・民主主義の抑圧、軍国主義の復活と政治反動を強めているのです。また大型開発中心の公共事業によって国家財政を喰いつぶします。その結果、国家予算のなかから、福祉、医療、教育などの予算を切りすてる一方、消費税など大衆課税を増大させ、「生存の自由」をおびやかすのです。一九八〇年代には、「ケインズ理論」の破綻が明白になり、いまや「新自由主義」の亡霊がさまよっています。失業と恐慌(不況)に対して、資本主義はもはや打つ手なしの状況です。
 それだけに、国家独占資本主義は、現代民主主義にたいしてだけでなく、近代民主主義にまでも、なりふりかまわぬ攻撃をかけてきています。現代民主主義を代表する日本国憲法と現代日本の現状を中心にこの問題を検討してみましよう。

国民主権原理がゆがめられる

 まず、国民主権の問題です。憲法上、国民主権の原理は明記され、しかも二〇歳以上の男女の普通選挙権は保障されていますが、普通選挙によっても独占資本の支配を継続して確保できるような、さまざまな巧妙なしくみがはりめぐらされています。
 一つには、新聞やテレビなどブルジョアマスコミによって、選挙の争点と政治革新の展望があいまいにされ、「誰がやっても同じ」「どうせ政治は変わらない」というあきらめ(ニヒリズム)の世論が形成されています。これにより膨大な選挙棄権者が生みだされることになります。
 二つには、偽りの選択肢で国民の目をごまかすことです。アメリカなどは、同じ独占資本の利益を代表する二大保守政党の政権タライ回しで、国民の政治的不満のほこ先をそらす。日本などは、独占資本につながる与党とこれとなれあう野党(かつては社会党、いまは民主党)が表面的には対立しているようにみせながら、裏で取引し、買収し、ヒモをつける「なれあい政治」です。
 三つには、選挙制度そのものの問題です。一方では、独占資本の利益になる買収選挙は野放しにしながら、他方では独占資本の支配を批判するビラ活動、街頭宣伝、戸別訪問などの「表現の自由」を厳しく禁止します。また選挙区も、もっとも民意が反映しにくく、しかも、政権タライ回しのための二大保守政党づくりを促す小選挙区制への指向を強めていきます。
 四つには、警察権力を使って、国民の選挙運動を弾圧しながら、国家独占資本主義はその経済的支配力を使って、末端の下請け企業にまで公共事業の受注をにおわせながらの企業ぐるみ選挙を押しつけています。いわゆるムネオ型政治です。
 こうして、ルソーにいわせると、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」 (『社会契約論』岩波文庫一三三ページ)ということになるのです。もちろん、「イギリス人民」だけでなく「日本人民」もです。

脅かされる「生存の自由」

 現代民主主義のもう一つの特徴ともいうべき、「生存の自由」についてはどうでしよう。
 この十年間、日本の経済力は低下したとはいえ、今なお世界有数のものであり、国民全体の「生存の自由」を保障しうるだけの経済力は現実に存在しています。
 それにもかかわらず、今日ほど国民各層が将来の生活に不安を感じ、「生存の自由」に危機感を感じているときはないかも知れません。リストラ、賃下げ、長時間過密労働、失業、倒産、借金苦、自殺など、二一世紀初頭の日本には閉塞感がただよい、「大企業栄えて、民亡(ほろ)ぶ」の状況を生みだしています。「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(日本国憲法第二五条)との規定はまったくないがしろにされています。

職場に憲法なし、制限される表現の自由

 近代民主主義の原則としての、自由と平等についても例外ではありません。
 「とくに重視しなければならないのは、多くの職場、なかでも民間大企業で、『職場には憲法なし』として労働者の自由にたいする憲法違反の抑圧が日常化し、ひろがっていることである。日本共産党員や労働組合活動家にたいする会社の尾行、監視や『職場八分』、変節の強要、昇格、昇給、賃金、資格の差別といった『会社監獄』といわれる事態がいたるところでっくり出されている」(『宣言』八ページ)。
 いちばん大事な、主権の行使としての選挙運動においても、先ほど述べたように戸別訪問、ビラまき、街頭宣伝などの「表現の自由」は、大幅な制限を受けています。
 憲法一四条は、すべて国民は法の下に平等であって、たんに政治的にのみならず、経済関係においても差別されないと規定していますが、「搾取の自由」のもとで年々所得格差が拡大し、経済的不平等がこれほど顕著になっても、むしろそれが当然のことのようにみなされているのです。経済的格差を縮小する累進課税は、その累進性が緩和され、金持ちの税負担は軽くなる一方、課税最低限の引き上げや控除の廃止、縮小によって庶民には増税が押しつけられています。そのうえ低所得者ほど実質的な負担が重い消費税は、税制にしめる比重を高め、さらなる大幅税率アップがねらわれています。

民族の自由奪われて

 現代民主主義の一つである「民族の自由」は、とりわけ、日本では重要な意味あいをもっています。
 「日本民族にとって重大な問題は、サンフランシスコ条約と日米安保条約にもとづく日米軍事同盟のもとで、国家主権が侵害され、アメリカ帝国主義が、日本の軍事と外交に、ひきつづき重要な支配力をおよぼしていることである」(『宣言』一〇ページ)。
 ソ連崩壊後、唯一の超大国となったアメリカは、「世界の憲兵」として、最強の軍事力を背景に世界中を意のままに動かそうとしています。日本はイエスマンとして、その副官の役割をになわされ、危険な軍事優先の道を歩みつつあります。
 これは、戦争か平和かという、国家と国民の命運にかかわる問題について、日本の主権がアメリカの手に握られ、日本は「民族の自由」を奪われた事実上の従属国となっていることを示すものです。

 

二、国家独占資本主義下の民主主義革命

民主主義革命の課題

 こうして、ブルジョアジーも、国家独占資本主義の段階に入ると、成長期に担っていた自由と民主主義の擁護者から、自由と民主主義の抑圧者に転化してしまいます(もっとも、国家独占資本主義は、生産の社会化を急速におし進め、国家が経済に介入することによって社会主義経済体制へと移行する条件を準備するという側面も持っています。しかしこの点は本書のテーマには直接関係しないので、これ以上はふれないことにします)。
 ですから、その国の歴史的条件によっては、国民の自由と民主主義の擁護・発展をめざす階級闘争は、一定の発展段階において、独占資本と一体化した国家独占資本主義に、敵対せざるをえなくなってくる状況が生まれてきます。独占資本の掌握する国家権力を、国民の側にとり戻さないかぎり、自由と民主主義を前進させえないことが全ての国民の前に当面の政治課題として明確になってくると、そこに民主主義革命の課題が浮かび上かってくるのです。
 もちろん、国家独占資本主義の国において、いつでも民主主義革命が日程にのぼってくるということではありません。いきなりの社会主義革命という可能性もあるでしょう。しかし、国家独占資本主義のもとでは、独占資本は政治的反動と抑圧をその政治的特性としていますから、民主主義革命の一般的可能性と条件があるのです。
 レーニンは、「革命の一根本問題」という短い論文のなかで、「あらゆる革命のもっとも主要な問題は、疑いもなく、国家権力の問題である。権力がどの階級の手にあるかということ、このことが万事を決定する」(レーニン全集酋三九四ぺ1ジ)とのべています。
 いわば一つの階級から他の階級(または諸階級)に国家権力が移行することが、革命の根本問題となり、どの階級が国家権力を握るかによって革命の性格が規定されることになります。
 後に詳しくお話ししますが、マルクス、エングルスも「搾取の自由」を廃止するには、労働者階級が、自分たちの手に政治権力を掌握しなければならないことを一貫して強調し、それをプロレタリアートの執権と呼びました。
 「僕について言えば、近代社会における諸階級の存在を発見したのも、諸階級相互間の闘争を発見したのも、別に僕の功績ではない。ブルジョア歴史家たちが僕よりずっと前に、この階級闘争の歴史的発展を叙述したし、ブルジョア経済学者たちは諸階級の経済的解剖学を叙述していた。僕が新たにおこなったことは、①諸階級の存在は生産の特定の歴史的発展諸段階とのみ結び付いているということ、②階級闘争は必然的にプロレタリアート執権に導くということ、③この執権そのものは、一切の階級の廃絶への、階級のない社会への過渡期をなすにすぎない、ということを証明したことだ」(「マルクスからヴァイデマイアーヘ 一八五二年三月五日」全集㉘四〇七ページ)。
 「生産の一定の歴史的発展段階」において、人類は階級社会に突入し、人間の類本質は、搾取による疎外と国家権力による疎外という二重の疎外を被(こうむ)ることになります。その疎外からの回復を求めて、自由と民主主義のための階級闘争が展開されることは、これまでにお話ししてきました。
 自由と民主主義の回復を求める階級闘争は、一定の歴史的条件のもとでは、「国家権力による疎外」と立ち向かい、ブルジョアジーの手から、労働者階級をはじめとする被抑圧人民の手に国家権力の移行を求める革命に、必然的に発展せざるをえないのです。
 近代民主主義の諸原則を生みだした革命は、一般に「ブルジョア民主主義革命」とよばれています。ブルジョアジーを先頭にする階級闘争の発展が必然的にもたらした革命だったからです。これに対し、国家独占資本主義のもとでの自由と民主主義を求める階級闘争は、労働者をはじめとする人民の手に委(ゆだ)ねられていますから、その必然的発展としての革命は、「人民民主主義革命」と呼ばれることになります。自由と民主主義への欲求は、人間の類本質に根ざしたものであるがゆえに、その抑圧者としての独占資本以外のすべての人民にとっての普遍的な要求となり、すべての人民が、階級闘争と革命の担い手として歴史の舞台に登場することになるのです。

人民民主主義革命と社会主義革命の関連と区別

 国家独占資本主義の国における人民民主主義革命と社会主義革命とは、関連はしているものの、区別しなければなりません。人民民主主義革命は、階級や搾取の廃止を実現しようとするものではありません。独占資本の手から人民の手に権力を移行させることにより、自由と民主主義にたいする独占資本の抑圧機構をとり除こうとするもので、この段階ではまだ生産手段の社会化は、革命の課題ではありません。
 しかし、人民民主主義革命は、自由と民主主義をそのブルジョア的制約から解放しようとするものですから、この革命によって実現される「生存の自由」は、当面は空洞化している社会権の充実として実現されるとしても、真に 「生存の自由」を実現しようと思えば、「搾取の自由」そのものの廃止に向かって階級闘争と革命を発展させざるをえない必然性をもっています。その意味から、国家独占資本主義の支配に反対する人民民主主義革命は、社会主義革命に発展する必然性をもっているのです。
 レーニンは、一時期、民主主義革命と社会主義革命とを明確に区別し、二つの革命の権力が、それぞれ「プロレタリアートと農民の民主主義的執権」と「プロレタリアートの執権」という性格の異なるものであるとする理論的解明をおこなっていました(「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的執権」レーニン全集⑧二九一ページ~)。
 しかし、その後プロレタリアートの執権、すなわちソビエトであると単純化され、民主主義革命の問題は後景にしりぞいてしまいました。そしてソ連共産党は、発達した資本主義における革命は社会主義革命以外にはない、という硬直した理論を採用するようになっていったのです。この点も項をあらためて詳述します。
  一九六〇年に、世界の八一力国の共産党・労働者党の国際会議が開かれ、発達した資本主義国における革命の方針が論議になりました。そのとき、「民主主義革命が問題になりうる」と主張したのは、日本共産党だけであり、ヨーロッパの共産党は、「社会主義革命以外はありえない」という立場でした。結局、「ヨーロッパ以外の」という限定をつけて、「民主主義革命もありうる」という表現に落ちついたのですが、ヨーロッパの共産党が民主主義的変革の道のもつ可能性をもっと探求していたならば、今日とはまた違った政治状況を生みだしていたことでしょう。
 人類史をふり返ってみると、搾取が階級を生みだし、階級対立が国家を誕生させました。その意味では、搾取と国家とは密接なつながりをもっています。しかし人間の類本質の疎外を考える場合、「搾取による疎外」と「国家権力による疎外」とは、関連しつつもそれぞれ独自の問題なのです。疎外からの回復を求める階級闘争が、この二つの疎外から同時に解放を求める場合は、いきなりの社会主義革命となるでしようし、さしあたって「国家権力による疎外」からの回復を求める場合には、当面する課題は民主主義革命となってくるのです。そのいずれの道を通るかは、その国の自由と民主主義のおかれた歴史的、社会的状況と人民の階級闘争の形態という歴史的条件によって規定されます。ですから、発達した資本主義諸国における社会変革が社会主義革命しかありえない、とすることの誤りは明白だと思います。

 

三、日本における民主主義革命

アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配に反対

 第三講で、当面する日本革命はアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命であり。この反帝反独占の民主主義革命をつうじて社会主義革命に発展するという展望をお話ししました。
 これは、当面の革命が、人民民主主義革命であることを明らかにしたものです。
 アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配に反対し、これを打破することは民主主義的な課題だということは第三講でも触れましたが、もう少し詳しくみてみましよう。
 まずアメリカ帝国主義の支配を打ち破る課題は、日本が日米安保条約、日米軍事同盟を軸とした軍事、外交、政治、経済における対米従属の関係を解消し、日本の国家主権を回復し、真の独立を回復するという内容をもつものです。
 日本は、第二次大戦後、アメリカに占領され、一九五一年にサンフランシスコ平和条約がむすばれ、同時に日米安保条約が締結されました。これらの条約によって、形式的には日本は独立したものの、占領状態が事実上そのまま継続し、真の独立を実現しえなかったのです。その後の安保改定やガイドラインを経て、日本は、アメリカのアジア・太平洋地域における覇権主義的体制の拠点になろうとしています。日本の人民は被爆国の国民として、反核・平和を心から願い、憲法の平和原則を誇りとしているにもかかわらず、国家としての日本は、第二次大戦への反省もないまま、再び自衛隊を世界中に派遣し、アジアと世界の平和への脅威になろうとしています。
 外交面でも、アメリカのいいなりになっているため、世界有数の経済大国でありながら国際社会において全く影の薄い存在となっています。
 政治・経済面でも、アメリカが、IT革命といえば日本でもIT革命、アメリカが、新自由主義といえば、「はい、そのとおり」、アメリカが、「金利をアメリカより低くして日本の資金をアメリカに流せ」といえば、その通りにする。国民の声に背を向けながら、アメリカのご機嫌とりに終始しています。
 このように、アメリカと日本の国家間の関係は、支配・従属という反民主主義的な関係となっているのです。この支配・従属の関係から抜け出すには、日米安保条約をはじめ、国家の主権をそこなう条約、協定を廃棄し、日本にある全ての米軍基地をなくして、アメリカ軍の撤退を実現しなければなりません。
 国家間における支配・従属の関係を打ち破り、対等・平等な国家関係をつくりあげることは、いわば、「民族の民主主義」を実現する民主主義的な課題です。対等・平等な国家関係のもとで、はじめてアメリカと日本の真の友好関係が実現されることになります。
 また「独占資本の支配に反対する」というのも、日本経済から独占資本そのものをなくそうということではありません。それは、独占資本の「横暴な支配」をやめさせることであり、それもまた民主主義的な課題です。
 日本の独占資本は、国家と一体となった国家独占資本主義として、「日本株式会社」といわれるような独特の構造をつくりあげてきました。独占資本は、政治献金をつうじて自民党などの政党を育成し、「鉄の三角関係」とよばれる政・財・官の癒着の構造をつくりあげ、日本の政治・経済を支配してきました。その結果、日本は世界有数の経済大国でありながら、国民の生活は豊かさ、人間らしい生活から縁遠いものとなっています。独占資本の「横暴な支配」のもとに、労働条件は悪化し、農村は疲弊し、中小零細企業は押しつぶされるという、労働者と国民のくらし全体がおびやかされているのです。
 いわば、日本は、国家独占資本主義の体制のもとで、政治、経済、社会の全体にわたって、独占資本の横暴な支配がゆきわたり・、労働者、国民はそれへ従属させられるという、反民主主義的状況が生まれています。独占資本の支配を打ち破ることは、独占資本と労働者、国民との間の対等・平等の関係を確立するという民主主義の課題なのです。また、このような政治、経済、社会の民主主義を実現することによって、はじめて国民の「生存の自由」も、有名無実のものから脱却することになります。ここにも自由と民主主義の密接不可分な関係が示されています。
 こうして、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の支配に反対する革命は、人民民主主義革命として位置づけられ、「真の独立と政治、経済、社会の民主主義」(「綱領」)を実現することになるのです。

 

四、人民の民主主義権力

人民民主主義革命と統」戦線

 先に革命の根本問題は、国家権力の問題であり、どの階級がその手に国家権力を握るかによって、革命の性格が規定されることをお話ししました。ですから、人民民主主義革命という場合、どの階級がその手に国家権力を握るのかを考えてみなければなりません。
 人民民主主義革命はアメリカ帝国主義と日本独占資本に支配されている階級、つまり「人民」によっておしすすめられ、実現することになります。日米支配層による政治、経済、社会における支配は、労働者階級はもちろん、勤労市民(自営業者)、農・漁民、中小零細企業などすべての国民におよんでいますから、すべての被支配階級、つまり人民が民主主義革命の担い手となるのです。
 この革命をなしとげるためには、思想信条の違いをのりこえ、神を信ずるものも信じないものも、日米支配層による反民族的・反人民的な支配に反対する、という一点で結集する統一戦線を結成しなければなりません。人民の各階層、各階級は、大衆組織を結成して、多種多様な階級闘争をたたかっています。しかし、諸階層、諸階級の自然発生的な要求は、要求としても部分的であり、また要求の向けられるほこ先も、ただちに日本独占資本やアメリカ帝国主義に向けられるものではありません。しかし、階級闘争が次第に発展し、成熟してくるなかで、部分的な当面の要求を真に実現しようと思えば、より根本的な要求に結びつけ、また根本的な要求のほこ先となる日米支配層に向かって、たたかいは前進せざるをえないのです。
 こうして、人民民主主義革命の課題が階級闘争のなかで鮮明になってくれば、それだけたたかいの輪は広がり、かつ持続的なものとなり、諸階層、諸階級の枠をのりこえて、すべての人民が手をつなぐ、統一戦線へと発展していくことになるのです。
 「当面する党の中心任務は、アメリカ帝国主義と日本独占資本を中心とする反動勢力の戦争政策、民族的抑圧、軍国主義と帝国主義の復活、政治的反動、搾取と収奪に反対し、独立、民主主義、平和、中立、生活向上のためのすべての人民の要求と闘争を発展させることである。そしてそのたたかいのなかで、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する強力で広大な人民の統一戦線、すなわち民族民主統一戦線をつくり、その基礎のうえに、独立・民主・平和・非同盟中立・生活向上の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力を確立することである」(「綱領」)。
 この統一戦線が、「民族民主統一戦線」とよばれるのは、この統一戦線が民族の独立と民主主義的諸課題の実現をめざす統一戦線だからです。統一戦線がさらに発展して、反民族的・反人民的な支配勢力の支配をうち倒し、統一戦線が国家権力をその手に握ることができるならば、それは人民の民主主義権力となり、人民民主主義革命の実現となります。

普通選挙に基づく民主共和制の道

 かつて東欧諸国が、「人民民主主義国家」と称したとき、それは、ソ連のような職場、兵舎を単位とするソビエトを基礎にした国家ではなく、民族民主統一戦線を基礎にして、普通選挙にもとづく民主共和制の国家形態をもつ、人民の民主主義権力の国家を意味していました。
 日本の人民民主主義革命も、ソビエト型ではなく、普通選挙にもとづく民主共和制の道をたどることが予定されています。つまり、民族民主統一戦線に国民の多数を結集し、普通選挙によって、国会の多数派を形成して民主共和制の形態をもつ「人民の政府」をつくろうというのです。いいかえれば、統一戦線と民主的国会と政府の力により、人民の民主主義権力を実現するということです。
 では、人民の民主主義国家体制とは、いかなるものでしょうか。
 「この権力は、労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合の性格をもち、世界の平和と進歩の勢力と連帯して、独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的・経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して民主共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する」(「綱領」)。
 この人民民主主義革命は、客観的に、それ自体が社会主義的変革への移行の基礎をきりひらくものとなり、国民の多数の支持のもとに社会主義的変革に向かって発展していくことになります。
 革命は国家権力の問題ですから、民主主義革命から社会主義革命への二段階の革命全体をつうじて、「執権」との関連が問題となります。プロレタリアートの執権の解釈が、ソ連の官僚主義・専制主義の遠因となっていただけに、
 「執権」と民主主義の関係は、もっと突っ込んで考えてみる必要があります。この問題は次講で検討することにしましょう。