『人間解放の哲学』より

 

 

第九講 レーニンと民主主義(2)

一、レーニンは、パリーコミユーンから何を学んだか

真の民主主義的権力

  『国家と革命』のなかで、民主主義に関してレーニンが論じたもう一つの重要な問題は、パリーコミューンから何を学ぶのか、という問題でした。
 パリーコミューンは、一八七一年パリに樹立された歴史上最初の労働者階級の権力です。売国的なフランス共和国政府が、プロイセンにパリを売り渡そうとしたとき、パリの労働者は武装蜂起し、常備軍を廃止してコミューン(市自治委員会)が権力を握りました。コミューンの議員は、普通選挙によって選出され、市民に責任を負い、市民はいつでも解任することができました。警察や行政府もいつでも選任、解任されるコミューンの道具となり、公務員の賃金は労働者並みでした。また、コミューンは、議会ふうの機関ではなく、立法権と同時に執行権も握っていました。
 ですから、コミューンは、普通選挙権にもとづく民主共和制の国家であり、治者と被治者の同一性が実現された真の民主主義国家でした。
 エングルスは、コミューンが、軍隊、警察、官僚という古い抑圧機構をすべてとりのぞくにとどまらず、次の二つの手段によって、国家を社会の主人から従僕に転化させることができたとしています。
 一つには、「行政、司法、教育上のいっさいの地位に、関係者の普通選挙によって人員を配置し、しかもその関係者がこれをいつでも解任できることにした」こと。
 二つには、公務員の「あらゆる職務にたいしてほかの労働者並みの賃金しか支払」わず、「地位争いや出世主義をしめだすかんぬきがしっかりとかけられた」こと。
 エングルスは、「こうして従来の国家権力を打ち砕き、それを新しい、真に民主主義的な国家権力とおきかえた」 (『フランスにおける内乱』序文」全集⑰五九五ページ)と結論づけています。エングルスは、資本主義のもとでの民主共和制を、真に民主主義的な国家とは考えませんでした。それは、資本主義のもとでの民主共和制は、依然としてブルジョアジーの階級支配の機関としての本質をもっているからです。
 「世襲君主制にたいする信仰を捨てて、民主的共和制を信奉するようになると、もうそれだけでまったくたいした大胆な一歩をすすめたように思いこむ。しかし、実際には、国家は、一階級が他の一階級を抑圧するための機構にほかならないのであって、しかもこの点では、民主的共和制も、君主制となんら選ぶところがないのである」(同ページ)。
 コミューンは、資本主義下の民主共和制と形態は類似しても、内容は、それをはるかに越えた質的に異なる存在でした。なぜなら、コミューンは古い抑圧機構をとりのぞき、民主共和制のもとでは存在しえない二つの手段によって、治者と被治者の同一性を実現していたからです。
 エングルスが、コミューンを、資本主義下の民主共和制から区別して、「真に民主主義的な国家権力」だとよんだ理由もここにあったのです。そして、この「真に民主主義的な国家権力」をもつコミューンについて、エングルスは、「パリーコミューンをみたまえ。あれがプロレタリアートの執権だったのだ」と総括しています(同五九六ページ)。
 こうしてみてくると、「プロレタリアート執権」が、抑圧と被抑圧の関係がない、治者と被治者の同一性を実現した真に民主主義的な権力であることは明らかだと思います。
 プロレタリアート執権は、民主主義を否定するものどころか、「真の民主主義」を実現する権力といわねばなりません。

レーニンは何を学んだのか

 さて、それでは、先に「執権」を「どんな法律によっても、絶対にどんな規則によっても束縛されない、直接強力に依拠する権力」と解したレーニンが、このパリーコミューンから、いったい何を学びとったかをみてみましよう。
 まず、レーニンは、マルクスの「コミューンの最初の政令は、常備軍を廃止し、それを武装した人民とおきかえることであった」(『フランスにおける内乱』全集⑰三一五ページ)という箇所に注目します。そして「コミューンは、議会ふうの機関ではなくて、同時に執行し立法する行動的機関でなければならなかった」(同ページ)という箇所を、「議会制度の廃棄」(『国家と革命』レーニン全集㉕四五五ページ)としてとらえます。
 両者をあわせると、コミューンの権力は、「議会制人民代表機関に代えるに(議会ふうの機関ではなく)、(コミューン式の)人民代表機関(コミューン制度)」(『国家論ノート』五四ページ)、しかも武装した人民代表機関ということになります。
 レーニンは、続けてこういっています。
 「プロレタリア的指導、組織され集中されたプロレタリアがこれらの大衆を指導しなければならない」、「ロシア革命もこれと同じ方式にとりくんだ。一方ではパリーコミューンよりも弱腰に(より小心に)とりくみ、他方ではより広範な規模で〈労働者代表ソヴェト〉、〈鉄道従業員代表ソヴェト〉、〈兵士・水兵代表ソヴェト〉、〈農民代表ソヴェト〉を示した。このことに注意」(同ページ)。
 そこで、パリ・コミューンの経験は、次のように総括されることになります。
 「革命家は、これを、この〈官僚的・軍事的国家機構〉を〈打ち砕か〉なければならない。それを打ち砕いて、〈コミューン〉、新しい〈半国家〉とおきかえなければならない。
 おそらく、この全問題を簡潔に、鋭く、次のように言いあらわしてもよいであろう。古いくできあいの》国家機構および議会を、労働者代表ソヴェトおよびその受任者たちとおきかえること、と。この点に核心がある卩‥」(同五五ページ)。
 古い国家および「議会」とあることに注目して下さい。「議会」をソビエトにおきかえることになれば、ソビエトは、職場や兵営単位の代表者ですから、普通選挙権も、それにもとづく民主共和制も必要とされないことになってしまうからです。
 マルクスが、パリーコミューンにおける普通選挙権を、「支配階級のどの成員が議会で人民のにせ代表となるべきかを、三年ないし六年に一度決めるのではなくて、どの雇い主でも自分の事業のために労働者や支配人をさがすさいには個人的選択権を役だてるのと同様に、コミューンに組織された人民に役だたなければならなかった」(全集⑥三一七ページ)と高く評価しているのを、レーニンは何と理解したのでしょうか。
 結局、レーニンの理解する「執権」とは、「プロレタリアートが、政権をたたかいとったのち、旧国家機構を完全に破壊し、コミューンの型にならって、これを武装した労働者の組織からなる新しい国家機構に代えること」(レーニン全集㉓五二四ページ)、「革命はプロレタリアートが『行政機関』と全国家機関とを破壊して、それを武装した労働者からなる新しい機関」、つまり「全一の権力をもつ全能の労働者・兵士代表ソヴェト」に代えること(同五二六ページ)となってしまうのです。
 こうして「執権」とは、武装したソビエトであるというのが、レーニンの「執権」論の結論となります。普通選挙権も、民主共和制も、治者と被治者の同一性も、真の民主主義的な権力も影をひそめ、「執権」にはただソヴェトという「組織され集中されたプロレタリアートがこれらの大衆を支配する」という構図のみが残されることになり、ここにソビエトの支配と一般大衆の従属という構造が合理化されることになります。
 ソビエトのなかで共産党が支配的な勢力となれば、一党支配の構造が、普通選挙による国民の審判を受けることなく、長期に固定されることになるのです。

 

二、レーニンとコミンテルン

民主主義に背を向けるレーニン

 第一次世界大戦がはじまるなかで、帝国主義戦争に協力した第ニインターナショナルは崩壊し、一九一九年三月、レーニンの指導のもとに、第三インターナショナル(コミンテルン)が結成されます。当時のヨーロッパの政治情勢は、「プロレタリアートの執権か、ブルジョア民主主義か」というコミンテルンの呼びかけに、現実味を強くあたえ、西ヨーロッパの社会主義運動のなかで、レーニンとコミンテルンへの支持と共感が大きく広かっていた時期でした。
 こうした状況のもとで、一九二〇年七月、四一力国から二〇〇人をこえる代議員の出席で、第二回コミンテルン大会が開催されました。もちろん主役をつとめるのは、レーニンです。レーニンは、コミンテルンの「基本的任務についてのテーゼ」で、これまでの民主主義に対する左の偏向を、さらに押しすすめることになります。
 不破氏のまとめるところを聞いてみましよう。
 まずこれまでの「国家機構粉砕論」は、「文字どおりブルジョア国家機構の『全体』に広げ、議会だけでなく、裁判所から地方自治体までのすべてを『破壊する』」ところまでいってしまいます(『レーニンと資本論』第六巻四二五ページ)。
 また、少数者革命論も、コミンテルンの基本方針として定式化されます。「資本主義的奴隷制の条件」のもとで、勤労被搾取者の大多数を結集できるとする考えは、「資本主義とブルジョア民主主義の美化」としてきっぱり否定され、勤労被搾取大衆の多数者を結集する仕事は、「搾取者を打倒」し、「被搾取者をその奴隷状態から解放」した 「あとではじめて……実現可能となる」とされたのです(同四二六ページ)。
 この箇所には、少数者革命論にとどまらない重要な問題点が含まれています。近代民主主義が切り開いた、国民主権あるいは人民主権という見地は欠落し、無知蒙昧な大衆という愚民思想すら、そこにうかがうことができるからです。「人間が主人公」、「国民こそ主人公」という自由・民主主義は、人間解放をめざす社会主義にとって、もっとも重要な理念の一つです。少数者の指導的地位の絶対化と、大衆のそれへの従属という構造は、このもっとも重要な理念に背をむけるものといわざるをえません。
 かつて、レーニンは、パリーコミユーンの「執権」を論じたときに、「プロレタリア的指導、組織され集中されたプロレタリアがこれらの大衆を指導しなければならない」(『国家論ノート』五四ページ)と論じたことがありました。プロレタリア的指導とこれに指導される無知蒙昧な大衆という、指導、被指導の関係は、プロレタリアートが国家権力を掌握した「執権」のもとでは、容易に、支配・従属の関係に転化される危険性がある。後に、人民主権論で詳しくお話ししますが、人民主権の真髄は、治者と被治者の同一性の実現にあり、いいかえれば、治者・被治者間の支配・従属関係の否定にあります。ソ連や東欧が、社会主義とは無縁の一党支配の「人民抑圧国家」に転化した遠因が、すでにここにみられるように思えてなりません。
 さらに、コミンテルンは、「プロレタリアートの『執権』=ソビエト」と定式化し、議会主義を、ひいては、ルソーのいう「人民の総意」(一般意志)という、人民主権におけるもっとも重要な概念まで否定してしまいました。
 「議会主義は、ブルジョアジーの執権からプロレタリアートの執権への過渡期におけるプロレタリア的国家統治の形態でもありえない。内乱へと移行しつつある激化した階級闘争の時期には、プロレタリアートは、自己の国家組織を不可避的に、以前の支配階級の代表を参加させない戦闘組織として建設しなければならない。この段階では、およそ 『人民の総意』という擬制は、プロレタリアートにとって直接に有害である。議会的な権力分立は、プロレタリアートには不必要で、有害である。プロレタリア執権の形態はソビエト共和制である」(『コミンテルン資料集』①大月書店二二四ページ)。
 こうして、ソビエトがプロレタリアート執権の「唯一の適切な形態」とされてしまい、人民主権は投げ捨てられ、ソビエト型「執権」を唯一のもととして承認することが、共産主義運動の前提条件とされたのです。
 「レーニンは、コミンテルン第二回大会(一九二〇年)で、コミンテルンへの加入条件についての演説のなかで、政治権力の獲得を認めるだけでなく、プロレタリアート執権を認めることが必要だという趣旨の演説をしているが、ここでレーニンがいうプロレタリアート執権とは、選挙での多数によらず、強力革命で権力をにぎること、議会制度をふくめ資本主義国家の全機構の破壊、議会制民主共和国にかわるソビエト型国家の承認、ブルジョアジーにたいする強力的弾圧など、ロシア革命の経験と結びついた一連の特殊な規定を意味していた」(前掲、不破『科学的社会主義研究』一〇六ページ)。
 ロシア革命の特殊性に引きずられたレーニンの独自の「執権」論と民主主義否定論は、その後の国際共産主義運動に、色濃く反映され、負の影響を長期にわたって及ぼすことになるのです。

民主主義論におけるレーニンの転換
 
 しかし、レーニンが並の人物でないことは、自己の理論の誤りに気づくと、ただちに事実に照らしてその修正をはかるところです。そのことからも、レーニンが弁証法的唯物論を深く身につけ、血肉としていたことがうかがえます。
 引き続き、不破氏の研究をたどってみましよう。
 レーニンは、一九二〇年のコミンテルン第二回大会の時点では、西ヨーロッパの情勢は革命に接近しているとの見方にたっていましたが、その後、革命的情勢は遠のき、革命の長期的成熟にそなえて、より根本的な準備の必要性を認識するようになります。
 そこで、レーニンはこれまでの「少数者革命論」から「労働者階級の多数者の獲得」という、多数者革命論への転換をおこない、これに抵抗する勢力と、コミンテルン第三回大会を舞台に論争が展開されることになったのです(不破『レーニンと資本論』第七巻二五〇ページ~)。
 コミンテルン第三回大会の準備では、「戦術にかんするテーゼ」の作成がもっとも重要な課題でした。レーニンは、そのなかで、「共産主義の原則へ労働者階級の多数者を獲得する手段にかんする問題」を、第一の中心問題として全面に押し出し(同二八七ページ)、プロレタリアート執権の勝利のためには、農村で「小農民」の支持を獲得することが「前提条件」となると位置づけました。
 これまでレーニンは、「プロレタリアートの執権が樹立され、国家権力を活用して『上からの改革』を実行してみせないかぎり、農村住民の多数の支持をえることはできない」ことをもって、多数者革命論を否定する最大の論拠にしていたのですから、「ここには、革命論におけるレーニンの転換の底深さをしめす象徴的な指標があると言ってよい」と、不破氏はまとめています(同二八八ページ)。
 レーニンのこの「テーゼ」に対して、「左派」グループは、「労働者階級の『多数者の獲得』にかんする命題の削除」などを求めて、修正案を提出します。
 レーニンは、この修正案を「左翼的愚行」と批判し、「断固たる攻勢をおこなわないなら、全運動は破滅するほかはないであろう」とまでいっています(同二九六ページ)。そしてロシア革命が、多数者の獲得なしに革命に勝利した実例だとする「左派」の主張に対し、ロシア革命が勝利したのは、労働者階級の明白な多数が味方しただけでなくて、革命の直後に、「軍隊の半数がわれわれの味方に変わり、また数週間のうちに農民大衆のI〇分の九がわれわれの味方に変ったからである」(同二九九ページ)と反論して、論争に決着をつけたのです。
 不破氏は、「レーニンが、以前、多数者革命論から後退した革命論を展開した時期には、ロシア革命の同じ経験が、革命以前には多数者の支持をえることが不可能だという議論の論拠として援用された」ことからすると、「そこには、明らかに、以前の多数者革命否定の立場から脱皮しつつあるレーニンの姿」があった、と指摘しています(同ページ)。
 こうして、コミンテルン第三回大会で打ち出された、労働者と被搾取勤労住民の多数者の獲得が革命の前提条件とする命題は、西ヨーロッパの共産党の運動に、新たな展望を切りひらき、第四回大会にいたる過程で、「統一戦線戦術」として発展していくことになるのです。
 しかし、レーニンにとって第二回大会から第三回大会にかけて、革命論の転換はおこなわれたものの、多数者革命論という「新しい要素を十分に展開させ、理論的に仕上げる仕事に取り組むための時間的な余裕は、残されてはいませんでした。病気は、レーニンからその可能性を奪ってしまったのでした」(同三五六ページ)。
 レーニンは、一九二一年六月、病に倒れて病床から指導を続けますが、回復しないまま一九二四年一月、死亡します。もしこの道を探求し続けることができたなら、レーニンの「執権」論と民主主義論も根本的に改められることになったのではないかと思われ、残念というほかありません。

スターリンによる民主主義否定論の固定

 レーニンは、みずからの「亡きあと」を懸念して遺書を残しますが、その遺書はスターリンによって封印されたままとなります。そして、スターリンはレーニンの後継者としての地位につき、レーニンが探求した成果を完全に無視し、意図的にそれに背をむけたのです。その一つが、これまで論じてきた多数者革命の問題です。
  「スターリンは、レーニンが最後の時期に基本方針としてくりかえし強調した『労働者階級の多数者獲得』の路線、『被搾取勤労住民の多数者獲得』の路線を、まったく無視しています。しかも、十月革命後の『世界革命』の基本戦略なるものの図式をもちだし、そのなかで、革命運動が主要な打撃をむけるべき方向を『小ブルジョア民主党を孤立させ、帝国主義との妥協政策の重要な支柱である第ニインタナショナル諸党を孤立させること』だと規定しました。これは、レーニンが探求を開始した社会民主主義諸党との統一戦線の道を、共産党の側から閉ざしてしまうセクト主義・図式主義の戦略でした」(同四四ニページ)。
 またスターリンは、『レーニン主義の基礎』のなかで、「法律によって制限されず、強力に立脚する権力」というレーニンの定式をくりかえすとともに、これは、「強力革命の過程で生まれる権力」だとのべて、「執権」概念を、より明確に強力革命という革命の特定の方法と結びつけると同時に、「執権」=ソビエトとして、「執権」と民主共和制を対立的にえがきだしていったのです。
 スターリンが執筆したとされている『ソ連共産党小史』の結論部分は、次のように述べています。
 「一九〇五年のロシア革命、とくに一九一七年二月における革命は、社会政治組織の新形態である労働者農民代表ソビエトを全面に押し出した。二つのロシア革命の経験の研究にもとづき、レーニンはマルクス主義理論から出発して、プロレタリアート執権の最もよい政治形態は議会制民主共和国ではなくて、ソビエト共和国であるという結論に達した」(不破『科学的社会主義研究』九三ページからの重引)。
 ソビエト唯一形態論は、ソビエトのなかで共産党が多数を占めるようになると、その指導的地位の確認に結びついていきます。一九三六年、スターリンの指導のもとに制定されたいわゆる「スターリン憲法」で、「共産主義社会を建設するための闘争において、勤労者の前衛部隊であり、すべての社会的ならびに国家的組織の指導的中核」として共産党が位置づけられることになります。これは、レーニン時代のソ連憲法には存在しなかった規定であり、これによりソ連共産党の一党支配と、そのもとでの大多数の国民の従属、抑圧という「人民抑圧国家」の基本形態が形づくられることになっていくのです。

踏みにじられたユーゴの自主的探求

 第二次大戦後、束ヨーロッパ諸国は、ソ連軍の進駐下において、社会主義への道をふみだします。これらの諸国では、近代民主主義の影響もあって、ソ連とは違う社会主義への道の探求が当然のように語られ「人民民主主義共和国」と総称されていました。人民主権、普通選挙制、議会制民主主義、民主共和制が共通の課題であり、自主的、民主的にそれぞれの歴史的条件に即した社会主義がめざされていたのです。
 ところが、スターリンは、一九四七年、ヨーロッパ九力国(ソ連、ユーゴスラビア、ブルガリア、ルーマニア、八ンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、フランス、イタリア)が加盟したコミンフォルム(ヨーロッパ共産党・労働者党情報局)をつくり、これを大国主義的干渉の道具として、東ヨーロッパ諸国にソ連型「社会主義」の押しつけをおこなったのです。
 その端緒となったのが、一九四九年のユーゴスラビア共産党の「破門」です。
 ユーゴは、チトーの指導のもとに、一九四六年「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国憲法」(『人権宣言集』岩波文庫二九九ページ~)を制定し、自主的な社会主義への道を歩みはじめました。
 そこには、ユーゴが、「共和国型の同盟的人民国家」(第一条)であり、「すべての権力は人民から発し、人民に属する」(第六条)として人民主権が明記されていました。また「国家権力のすべての代表機関は、普通、平等、および直接の選挙権にもとづいて、秘密投票により、市民によって選挙される。国家権力のすべての機関における人民の代表者は、自分の選挙人にたいして責任を負う。選挙人がどのような場合に、どのような条件で、またどのような方法で自分の人民代表者を、かれらが選挙された任期の満了前にリコールすることができるかは、法律によって定められる」(第七条)として、パリーコミューンの経験をふまえた民主主義的原則を採用していました。
 とりわけ特徴的なのは、「生産手段の社会化」に関する政策です。
 まず、「私的所有の不可侵は保障され、経済における私的企業活動は保障」され、「私的所有は、公共の利益が必要とする場合、法律にもとづいてのみ、これを制限または収用することができる」(第一八条)とされています・(この点は、個人の尊厳との関連で重要なところだと思います。第二一講で社会主義・共産主義社会における個人の尊厳を論じるときに立ち戻ってお話ししたいと思います)。
 そして、「生産手段は、全人民的財産すなわち国家の手中にある所有か、または人民協同組合の所有か、または私的な自然人および法人の所有」(第一四条)だと明記されています。この点も、現在中国やベトナム、そして日本共産党が追求している、社会主義国家における「市場経済と計画経済の結合」の問題に関連するものでした。
 こうして自主的、民主的な社会主義への道を歩むユーゴは、スターリンとソ連共産党のいいなりにならなかったところから、激しい干渉を受け、一九四九年のコミンフォルムの会議では、「帝国主義の手先」、「ファシストの党」と決めつけられ、チトー主義との闘争は「全世界の共産党および労働者党の国際的任務」と規定されたのです。
 それまで、束ヨーロッパ諸国では、それぞれの国の歴史的条件に見合った「民族的な道」の探求が基本方針とされていたのですが、「『チトー主義』との闘争以後は、一転して、『民族的な道』について語ることは、重大な政治的犯罪とされるようになりました。そして、国際問題でソ連の政策を無条件に支持することだけでなく、自国の国内建設においても、ソ連型社会主義を唯一のモデルとしてこれを模倣することが、義務的とされるにいたったのです」(不破『スターリンと大国主義』新日本新書一三三ページ)。

ソ連型「社会主義」の崩壊

 その後、東ヨーロッパでは、何度となく、自主的・民主的な社会主義建設の動きがありました。一九五六年のハンガリー事件、六八年のチェコ五力国軍隊侵入事件、七九年のアフガニスタン侵略、八〇年代のポーランド問題など、そのことごとくをソ連は、その大国主義的干渉と武力弾圧で押しつぶしてきたのです。
 一九八九年に東ヨーロッパ諸国から始まった一連の民主化の流れは、まさに疾風怒濤(しっぷうどとう)とよぶにふさわしいものでした。その過程で打ち出された、複数政党制、自由選挙、選挙による政権交替、「共産党の指導的地位」の憲法からの削除、などの要求は、これらの諸国における自由と民主主義への欲求が、踏まれても、踏まれても、けっして押しつぶすことのできない、人間の類本質に根ざすものであることを示すに十分なものだったといっていいでしょう。
 こうして、ソ連型「社会主義」は、それを押しつけられた東ヨーロッパ諸国だけではなく、本家本元のソ連でも、破綻し、崩壊せざるをえなくなったのです。
 科学的社会主義の理論が、自由と民主主義の全面開花をめざす人間解放の社会をめざしていることからすれば、自由と民主主義を否定し、人民を抑圧したソ連型社会主義が。「社会主義」の名に値しないことは当然だといわねばなりません。
  ソ連およびそれに従属してきた東ヨーロッパ諸国の支配体制の崩壊は、科学的社会主義の失敗ではなく、それから離反した覇権主義と官僚主義・専制主義の破産である。これらの国ぐにでは、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標がかかげられたが、指導部が誤った道をすすんだ結果、社会の実態として、社会主義社会には到達しえないまま、その解体を迎えた。ソ連覇権主義という歴史的巨悪の解体は、大局的な視野でみれば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性をひらいたものである」(「綱領」)。
 こうやって、二〇世紀の歴史をふりかえってみますと、自由と民主主義をめぐるソ連の誤りが、スターリンとそれ以降の指導者の責任にあったことは明白です。そして、残念ながら、レーニンの理論、とりわけそのプロレタリアートの執権論の誤りがスターリンに利用されてしまったことも否定できないと思います。
 いままでお話ししたように「執権」とは「真に民主主義的な権力」という意味をもつ概念でした。それは近代民主主義の限界と制約を乗り越えた概念として提起されたものです。しかし、「プロレタリアート執権」概念のたどった道は、近代民主主義を否定し、その到達点すら踏みにじることになってしまったのです。私は、ここに、ソ連という歴史的巨悪を生み出す理論的弱点があった、と考えています。
 いわば、近代民主主義にたいする左からの偏向した評価が、ここまで誤りを拡大していったのです。