『人間解放の哲学』より

 

 

第一一講 人民主権とプロレタリアート執権(2)

一、多数決原理の問題点

多数決は、必ずしも真ならず

 民主主義とは、多数決原理であるといわれることがあります。
 国民主権の原則にたって、普通選挙にもとづき、多数の支持をえた者が国会議員となって、国会を構成するという政治制度は、議会制民主主義とよばれています。また国会議員の多数の支持をえて内閣の長が選出され、その長が内閣の構成員(閣僚)を任命して内閣を形成し、議会の信任を前提に内閣が存続しうる政治制度は、議院内閣制と呼ばれています。
 いずれも、多数決原理にもとづく民主的な政治制度だとされています。しかし近代民主主義が生みだした、こういう多数決原理にもとづく民主主義的な諸制度のもとで、資本主義国家は、ブルジョアジーの支配を維持し続けてきたのです。人民が自由なのは、議員を選挙する間だけ、議員が選ばれるや否や、人民は奴隷となる、とのルソーの名言は、国民主権のもとでの多数決原理のもつ問題点を浮きぼりにしたものといっていいでしょう。
 第七講で、国民主権原理がブルジョアジーの支配する政治的、経済的、社会的諸制度のもとで、いかに民意を反映しにくいものに変形、歪曲されてきたかについてお話ししてきました。多数決は、必ずしも真ならず、といわれるゆえんです。戦後のほとんどすべての期間、大企業奉仕、対米従属の自民党政治が支配してきたのも、国民主権のもとでの多数決原理にもとづくものでした。
 では、国民主権や普通選挙権、さらには多数決原理そのものが否定されるべきものかといえば、もちろんそうではありません。主権者たる国民一人ひとりの声と、それを集めた世論の尊重は、手続き民主主義の立場からして当然のことといわねばなりません。ですから、多数決は治者と被治者の同一という民主主義の立場からみて、必要な原理ではあっても、十分な原理ではない、ということになります。そこで、問題は、どうすれば、普通選挙にもとづく多数決原理をつうじて一般意志を形成し、民意を正しく政治に反映させることができるのかにあります。これは、いわば世論というものをどうみるか、に関わる問題であり、この点でもヘーゲルの『法の哲学』は、深い哲学的な解明をおこなっています。
 「世論においては、即自かつ対自的に普遍的なもの、実体的にして真なるものが、その反対のものと、すなわち多くの人々の私見というそれ自身としては個人独自の特殊的なものと結びついている。だから現実に現われた世論は、それ自身の現存する矛盾、現象としての認識であり、その本質性は非本質性とまったく同様に直接的である」(『法の哲学』世界の名著『ヘーゲル』五七二〜三ページ)。
 世論というものは、ねりあげられた意見の形成ではなくて、常識的な見解の枠をこえるものではありませんから、そこには正しいものもあれば、正しくないものもある、というわけです。だから、「民の声は神の声」といわれることもあれば、「無知な俗衆」といわれることもある、として、ヘーゲルは、「世論のなかでは、真理と限りない誤謬とがきわめて直接に結合している」(同五七四ページ)といっています。いわば、世論というものは、ルソーのいう全体意志ではあっても、つねに一般意志(ヘーゲルのいう普遍的意志)となるわけではないのです。
 だから、「世論は、尊重にも、軽蔑にも値する」ものであり、「世論に従属しないことが、偉大にして理性的なものへ至る(現実においても学においても)第一の形式的条件なのである」(同五七五ページ)としています。
 ヘーゲルは、『法の哲学』において、理性的な国家、いいかえれば、国家の真にあるべき姿とは何かを探求しました。
 『法の哲学』のキーワードは、その序文にある「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(同一六九ページ)という命題です。エンゲルスは、この命題に注目し、真にあるべき姿をとらえれば、それは現実に転化する必然性を有するという意味だとして、ここにヘーゲル哲学の真髄と革命的性格があらわれている、としています。
 ここでヘーゲルが、世論に従属しないことが、「理性的なもの」にいたる第一の形式的条件といっている「理性的なもの」も、同様に「真にあるべき姿」と考えていいでしょう。
 「だがこの偉大にして理性的なものの側では、世論がやがて自分を是認し、承認してくれて、世論のもつもろもろの先入見のなかの一つにしてくれるであろうと確信していいわけである」(同五七五~六ページ)。真理と誤謬の結合した世論のなかから、真理を見い出し、全体としての世論を「理性的なもの」へ発展させるには、世論をその方向に導く。
 「偉大にして理性的なもの」の存在が必要となってくるのです。

一般意志への導き手

 「世論のなかにはいっさいの虚偽と真実が含まれているが、そのなかの真実のものを見つけるのが偉人の仕事である。時代が意志しているものを、言い表わし、時代に告げ、そして成就する者、これが時代の偉人である。彼は時代の心髄にして本質であるところのものを行って、時代を実現する」(同五七六ページ)。
 国家や社会の真にあるべき姿は、世論のなかにしか存在しないと同時に、直接的な姿としては世論のなかに存在しないのです。この国家や社会の「真にあるべき姿」を示す人民の意志こそが、ルソーのいう「一般意志」なのです。多数決は必ずしも真ならず、という命題は、全体意志は必ずしも一般意志ではないことを意味しているのです。
 ヘーゲルによれば世論のなかにある「真にあるべき姿」の萌芽を発見し、それに磨きをかけて一般意志として完成させ、こうして「時代が意志しているものを、言い表わし、時代に告げ、そして成就する者」が、「時代の偉人」とよばれているのです。
 ルソーも、一般意志の形成は、自然発生的には生じないことを認識し、人民の全体意志を一般意志に導く「導き手」が必要だと考えていました。
  「人民は、ほっておいても、つねに幸福を欲する。しかし、ほっておいても、人民は、つねに幸福がわかるとはかぎらない。一般意志は、つねに正しいが、それを導く判断は、つねに啓蒙されているわけではない」(『社会契約論』六〇ページ)。
 ルソーは、この導き手を「立法者」とよんでいますが、立法者は、「すぐれた知性」(同六一ページ)で「人間の力をこえた企て」(同六五ページ)をなす神にも等しい人物でなければならないから、「うまく組みたてられた国家はめったにない」(同七六ページ)し、ルソー自身もフランスで一般意志に指導される国家が実現されるとは考えていませんでした。
 ルソーの人民主権論は、たんに人民が主権者として国家を統治するということを意味しているのではありません。人民が国家統治の意思(主権意志)として一般意志を形成することによってのみ、治者と被治者の同一性が実現され、真の人民主権が実現されるというものです。
 しかし、ルソーは、人民の一般意志を形成するには、導き手が必要であることを指摘しながらも、それは、神のような天才的な個人の登場を考えていましたから、ルソーのいう人民主権の国家は、理想国家ではあっても、現実となる必然性をもった国家としてとらえることはできません。
 一般意志に導かれる人民主権の国家を現実のものとするには、人民の全体意志を一般意志に導く、導き手が現実に生みだされねばならないのです。

科学的社会主義の政党の存在理由

 いつの時代にも、「時代の偉人」は存在しました。科学的社会主義の学説が誕生し、社会の発展法則と階級闘争の理論が発見されるまでは、「時代の偉人」は、時代の生みだした偶然の産物でしかありませんでした。しかし科学的社会主義の学説によって、「科学の目」をもって時代に立ち向かい、「科学の目」によって、そのなかから国家、社会の真にあるべき姿(人民の一般意志)を見つけだすことができるようになりました。「科学の目」をもって一般意志を探求する科学的社会主義の政党こそ、ヘーゲルのいう「時代の偉人」に該当するのだろうと思います。またエンゲルスが「執権」概念を労働者階級の政党と結びつけて理解したのも、こうした見地に立ってのものと思われます。
 エンゲルスは、普通選挙権を「労働者階級の成熟度の計測器」と呼んだことがありました。
  「プロレタリアートが、まだ自己解放をなしとげるまでに成熟していないあいだは、彼らの大多数は既存の社会制度を唯一の可能な制度と認めるであろう」。「しかし、彼らがその自己解放にむかって成熟するにつれ、彼らはみずからを独自の党に結成し、資本家たちの代表ではなく彼ら自身の代表を選出するようになる。だから、普通選挙権は労働者階級の成熟度の計測器である」(『国家の起源』全集㉑一七ニページ/古典選書版二三二~三ページ)。
 プロレタリアートが成熟していないあいだは、普通選挙にもとづく全体意志は、社会の根本的変革を求めようとはしません。しかしプロレタリアートは、みずからの階級の利益を代表する「独自の政党」を組織し、この政党はプロレタリアートの真に進むべき道、一般意志をさし示します。共産主義者は、「実践的には、すべての国の労働者諸党のうちで、もっとも断固たる、たえず推進していく部分である。理論的には、プロレタリア運動の諸条件、その進路、その一般的結果を洞察している点で、残りのプロレタリアートの大衆に先んじている」(『共産党宣言』全集④四八八ページ/古典選書版七二ページ)。
 労働者階級の政党、つまり科学的社会主義の政党は、その理論的洞察力において「残りのプロレタリアートの大衆に先んじている」のであり、科学的社会主義の政党に導かれて、労働者をはじめとする勤労人民が、一般意志に接近することは、「自己解放にむかって成熟する」ことを意味しています。だから普通選挙権は、労働者階級をはじめとする人民が一般意志にどれだけ接近したかという「成熟度の計測器」となるのです。
 そして、普通選挙による全体意志が、一般意志と一致することになれば、「普通選挙権の温度計が労働者のあいだで沸騰点を示す」(『国家の起源』全集㉑一七二ページ/古典選書版二三三ページ)ことになるのです。
 日本共産党第二二回大会は、これまで規約前文にあった「日本共産党は、日本の労働者階級の前衛部隊であり、労働者階級のいろいろな組織のなかで最高の階級的組織である」との規定を次のようにあらためました。
 「日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党であり、民主主義、独立、平和、国民生活の向上、そして日本の進歩的未来のために努力しようとするすべての人びとにその門戸を開いている」。
 その改定理由ですが、「労働者階級の政党」から、「労働者階級の党であると同時に日本国民の党」に改めたのは、もともと労働者階級の党と規定したのは、労働者階級の歴史的使命を目標とする政党という意味であり、政治を変え、社会を変える方法としては、「国民が主人公」の立場、「多数者革命」の立場であったので、その趣旨を明確にしたものと説明されています・(『前衛』第二二回大会決定特集、七三五号、一四二ページ)。
 もともと、前衛政党という規定は「労働者階級、あるいは日本の国民に号令したり、その考えや方針をわれわれが『前衛』だからといって国民に押しつける」ためではなく、「実践的には不屈性、理論的には先見性」をもつことを表現するためでした(同一四三ページ)。
 そして理論的先見性とは、「当面のことだけではなく、運動の結果や先々の見通し、未来社会の展望まで科学の立場にたって見定めながら先見的な役割」を果たすことを意味し、現実にも日本共産党は理論的先見性をつうじて 「戦前、戦後、日本社会のなかで社会進歩の道を切り開く先進的な役割をはた」してきたことを明らかにしています(同ページ)。
 「理論的先見性」とは、真にあるべき姿という未来の真理を、すべての国民の前に提示し、国民のすすむべき道を明らかにすることを意味しています。一般に政治は未来社会を論じるものです。すべての政党はその公約によって、自らの信ずる未来のあるべき姿を国民の前に提示します。科学的社会主義の政党は、数ある未来像のなかから、真にあるべき姿という未来の真理を提示するのです。真にあるべき姿は、一つしかありません。なぜなら真にあるべき姿は未来の真理であり、真理は単一なものだからです。ヘーゲルは、未来のあるべき姿一般を「当為」とよび、「当為」の一つとしての真にあるべき姿を、「概念」(「理性的なもの」ということもありますが、一般的には「概念」)と呼んで区別しました。科学的社会主義の政党は、真理を認識しうる方法である弁証法的唯物論と史的唯物論をつかって、
 「概念」を把握し、国民の前に提示するのです。
 ヘーゲルのいう「概念」を、国家、社会の関係でとらえたとき、ルソーのいう「一般意志」となります。一般意志は、未来の真理をとらえる「概念」だからこそ、常に正しく、誤ることがないのであり、また真理だからこそ、至高にして単一なのです。
 科学的社会主義の政党のさし示す「概念」〈一般意志)が統一戦線をつうじて、国民の全体意思に転化したとき、普通選挙による国民の多数の支持をえて人民の一般意志が形成され、国政を動かすことになります。これをくり返すことによって、社会は、国民の多数の意志のもとに一歩ずつ前進していくことになるのです。
 しかし、もし、科学的社会主義の政党のさし示した未来が、真理をとらえるものでなければ、国民の多数の支持を得ることはできませんし、国政を動かす力にもなりえないことになります。科学的社会主義の理論と運動は、一般的に未来の真理に接近しうる蓋然(がいぜん)性をもつものではあっても、無条件に真理への到達が保証されているわけではありません。ですから不断に現実から学ぶ努力をし、かつ主権者たる国民の判断をあおぎながら、未来の真理を探究していく、困難で厳しい作業を続けていくことになるのです。
 理論的先見性と実践的不屈性を発揮しつつ人民連合の統一戦線を結成するために奮闘し、統一戦線によって権力獲得をめざすこと、このような綱領の見地は、「執権」概念の創造的発展といってよいものと思われます。

 

二、人民主権からプロレタリアート執権へ

万人の意志と普遍的意志

 ヘーゲルが、「もしもルソーが万人の意志と普遍的意志との区別を常に念頭においていたら、国家論でもっと深い業績を残したであろう」、と述懐しているのは、以上の点に関連しているのです。
 ここで「普遍的意志」と訳されているのは、フランス語で volonte generate であり、『社会契約論』では「一般意志」となっています。「万人の意志」は volonte de tous であり、「全体意志」と訳されています。
 ルソーが多数決原理に結びつく全体意志にもとづいた国の統治を主張するのではなく、全体意志から区別された一般意志を主権者の意志(主権意志)ととらえ、一般意志にもとづく国家の統治を主張したことを、ヘーゲルは積極的に評価したのです。ここに世論を真理と誤謬の結合ととらえ、多数決原理を絶対化しなかったヘーゲルの見地が生かされています。
 しかしルソーは他方で、一般意志を個々人の特殊意志のもつ特殊性が相殺されたあとに残る「共通の利益」を求める意志であるという一見すると矛盾した言い方もしています。
 その点をヘーゲルは批判するのです。
 ヘーゲルは、意志を国家の原理として立てたところにルソーの功績があるとしながら、次のように批判しています。
 「だが彼は、意志をただ個別的意志という特定の形式において捉えただけであり(のちにフィヒテもそうしたように)、そして普遍的意志を、意志の即自かつ対自的に理性的なものとしてではなく、ただ意識された意志としてのこの個別的意志から出てくる共同的なものとして捉えたにすぎない」(『法の哲学』世界の名著四八一ページ)。
 すべての個別的事物は、普遍と特殊の統一としてあります。個別のなかには、その個別に特有な特殊性と同時に、特殊性を越える普遍性があります。ある特定の類におけるすべての個別に「共通する普遍」を、ヘーゲルは抽象的普遍とよんで、これは真の普遍ではないといっています。ヘーゲルのいう普遍とは、現実のなかから生まれながら、現実をのりこえた意識の産物としての具体的普遍であり、それが、ヘーゲルのいう「概念(真にあるべき姿)」なのです。

未来の真理としての一般意志

 ヘーゲルは、一般意志(普遍的意志)を全体意志(万人の意志)から区別したところにルソーの功績を見出しながらも、その一般意志が、個々人のもつ特殊意志に共通な普遍、つまり抽象的普遍としてとらえているようにもみえるところが許せないのです。もしそうなると一般意志は、直接的な世論という特殊意志の総和のなかに、そのままの姿で現存することになるからです。国家を統治すべき一般意志は、国家の真にあるべき姿を問題にするのですから、未来の真理をとらえるものでなければなりません。それは現存する世論に、そのままの姿として存在するわけではなく、その未来の真理を現実のなかから導き出すところに、人間の意識の自由な能動的・創造的役割がある、とヘーゲルは考えるのです。
 そこで、ヘーゲルの結論は、国家を統治すべき「普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である」(『小論理学』㊦一三〇ページ)ということになります。国家の統治、つまり国家において制定されるべき法律は、あれこれの特殊意志にもとづくものとしてではなく、その分野における 「概念(真にあるべき姿)」すなわち一般意志を法形式に具体化したものでなくてはならないし、「概念」〈一般意志)の法による支配が、真にあるべき国家の姿なのです。
 ルソーの人民主権論を、ヘーゲルのとらえる一般意志と重ねあわせて考えると、人民主権の国家とは、人民が主権者として未来の真理としての一般意志を形成し、一般意志をもって国家統治の主権意志とする国家ということになります。人民は一般意志により民意を正しく主権意志に反映させ、自ら統治の主体となりつつ統治されるという、治者と被治者の同一性が実現されることになるのです。

人民主権からプロレタリアート執権ヘ

 ルソーの人民主権国家は、真の民主主義を実現する国家として高く評価されるべきものですが、先にのべたように、一般意志の導き手の登場を偶然の所産としているところに大きな問題をかかえており、マルクス、エンゲルスは、導き手としての科学的社会主義の政党の結成をつうじて、人民主権国家を現実的なものにしようとしたのではないかと思われます。
 マルクス、エンゲルスが、あえて「プロレタリアートの執権」という概念を用いたのも、科学的社会主義の政党を導き手として、人民の一般意志を形成し、この一般意志の指導の下に労働者階級をはじめとする被抑圧人民が、権力を掌握して、人民主権国家を実現することを念頭においていたのではないでしょうか。
  「プロレタリアートの執権」は、ルソーの人民主権論を発展させ、人民主権の国家をたんなる理想から現実的なものへ転化させる概念として必要不可欠とされたものだと考えるものです。いうなれば「プロレタリアートの執権」とは、「科学的社会主義の政党に導かれつつ、労働者階級が先頭にたって、未来の真理としての人民の一般意志を実現する権力」といっていいでしょう。「人民の一般意志を実現する権力」だから、プロレタリアート執権は、もっとも民主主義的な権力として存在しうることになるのです。マルクスは変革の立場にたって未来の真理を探究する労働者階級こそ、人民の一般意志を体現する階級だととらえ、「労働者階級の権力」を主張したものと思われます。
 この未来の真理としての、単一にして至高の一般意志を形成し、これを主権意志としてその実現をめざすのが、科学的社会主義の政党と労働者階級の役割だということになるのです。

 

三、執権と統一戦線

主権意志(一般意志)の形成

 以上を前提として、プロレタリアート執権と人民主権の関係をまとめてみることにしましよう。
 マルクス、エンゲルスが、「プロレタリアート執権」という概念を用いたのは、資本主義の矛盾を克服して、より発展した社会である社会主義・共産主義に向かって前進していくために、労働者階級が、国家の全権力を掌握することが必要であることを強調するためでした。
 労働者階級は、国家を統治する主権意志をすべての人民の前に提示し、一般意志の形成を求める階級闘争のにない手となり、そのたたかいの先頭にたって革命を推進する原動力となります。労働者階級は、もっとも革命的な階級として、変革の立場に立つことによって、一般意志を形成するうえでも、積極的役割を果たすことになります。
 また労働者階級は、自らの政党として、科学的社会主義の政党を生みだします。科学的社会主義の学説は、「科学の目」により、過去、現在および未来の真理の発見につとめ、社会の合法則的発展の道すじを明らかにします。科学的社会主義の政党は、その理論的先見性により、一般意志形成の導き手となります。
 日本の民主主義革命をめざす民族民主統一戦線は、「労働者、農漁民、勤労市民、知識人、女性、青年、学生、中小企業家など、平和と祖国を愛し民主主義をまもるすべての人びとを結集するもの」(「綱領」)です。もちろん、日本共産党も、志を同じくする他の政党とともにそこに加わります。
 そこでは、労働者階級をはじめとして、諸階級、諸階層のさまざまな要求が反映され、科学的社会主義の政党に導かれつつ、そこでの民主的な討論をつうじて日米支配層の支配を打ち倒すための当面する政治課題の一つひとつについて、一般意志が議論されることになります。
 日本国憲法では、普通選挙にもとづいて、衆・参両議員が選出され、国会の多数派から内閣総理大臣が選出されるとされています。いわば議会制民主主義と議院内閣制という民主主義的政治制度が採用されているのです。普通選挙によって示される人民の全体意志と、民族民主統一戦線によって示される一般意志との間には、最初は当然ながら落差があります。
 しかし統一戦線の提示する主権意志が、人民の未来の真理をあらわしている場合には、真理のもつそれ自身の力によって、次第に国民の多数の支持を獲得し、人民の全体意志は、次第に一般意志に接近していき、ついには、人民の全体意志は一般意志と一致し、人民による一般意志の形成が完成することになります。こうして多数者による多数者のための多数者革命が推し進められていくことになるのです。
 「真理は必ず勝利する」という命題があります。なぜ真理が勝利するのかといえば、最初は、少数者の認識にすぎなかった真理が、真理それ自身のもつ力によって多数者の認識となり、必然的に現実に転化する力をもつようになるからです。ヘーゲルが「この偉大にして理性的なものの側では、世論がやがて自分を是認」してくれると「確信していい」、と述べているのは、この点を明らかにしたものです。

統一戦線の基礎たる一般意志

 統一戦線には、様々の価値観や世界観をもつた人びとが結集します。
  「当面のさしせまつた任務にもとづく民主勢力と広範な人民の共同、団結を、世界観や歴史観の相違などを理由としてこばんだりさまたげたりすることは、祖国と人民の解放の根本的な利益をそこなうものである」(「綱領」)。
 価値観や世界観のちがいをこえて、また、階級的、階層的利害のちがいをこえて、なぜ民族民主統一戦線を結成しうるのかといえば、アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配を打ち倒して、独立、民主主義、平和、中立、生活向上という独立・民主の日本を実現することが、未来の真理であるからです。未来の真理のもつ力が、民族民主統一戦線に人民を結集させるのです。また同様に、民族民主統一戦線が、当面する政治課題の一つひとつについて人民の前に提示する主権意志が、一般意志をさがしあて、未来の真理をとらえている場合には、統一戦線をより多数者を結集する組織に発展させ、また全体意志を一般意志に接近させることになるのです。
 こうして民族民主統一戦線勢力が、国会の安定した過半数を占めることができるならば、議院内閣制により、統一戦線勢力の代表が首相となる民族民主統一戦線政府が樹立されることになります。
  「民族民主統一戦線のうえにたつ政府の樹立は、日米支配層のあらゆる妨害に抗しての闘争である。そして、この政府を革命の政府、革命権力につよめる土台は、当面する民主主義革命の目標と任務にむかっての、民主勢力の広範な統一と大衆闘争の前進である」(「綱領」)。
 民族民主統一戦線が、政府を樹立し、しかもそれを革命の政府に発展させるには、当面する政治課題の一つひとつについて、未来の真理となる人民の意志を、人民の前に提示し民族民主統一戦線を中軸とする人民の階級闘争を発展させ、国民の多数の支持をえながら、一歩ずつ社会発展の階段をのぼっていくことになります。革命期の階級闘争は一〇年を一日に圧縮したような日々の連続です。その日々のたたかいのなかで、次々と歴史の舞台に登場する新しい政治課題のすべてについて、未来の真理をかかげ続けることは、なみ大抵のことではありませんが、激動の情勢は、統一戦線をも情勢にふさわしく鍛えあげてくれることでしょう。
 こうして、民族民主統一戦線が革命の政府となったとき、この人民連合は、人民民主主義権力(人民執権)となります。この人民連合の統一戦線は、人民の一般意志の形成とその意志を実現する階級闘争のにない手として、主権を掌握するのです。
 人民民主主義権力は、「名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立」(「綱領」)します。
 人民を直接代表する国会が国権の最高機関となりますが、統一戦線は、すべての法律の制定について、人民の一般意志を提示し、これを受けて、統一戦線勢力が多数をしめる国会で法律が制定されることになります。
 もし、統一戦線の提示した一般意志と異なる法律が制定されようとする場合があれば、統一戦線は、機関紙誌、ビラ、デモ、集会などの手段を使って大衆的な抗議行動を起こし、場合によっては国会議員や内閣のリコール(罷免)運動を展開することになります。また逆に統一戦線の示した主権意志が一般意志と一致しない場合には、国民の厳しい批判を浴びることになります。

公務員罷免権と抵抗権

 この点て、注意を喚起しておきたいのは、憲法一五条一項に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と規定されていることです。これは、あらゆる公務員について、国民の普通選挙にもとづく選定の権利を定めるだけでなく、人民による罷免権まで定めたものとして、パリ・コミューンの経験をそのまま引きついだ「執権」を保障する重要な規定です。しかし自民党政治のもとで、この公務員罷免権(リコール権)は、地方議員や地方自治体の首長など地方公務員に対してのみ具体化され、もつとも重要な国会議員や首相、大臣、その他の高級官僚、そしてすべての裁判官(もつとも最高裁判所の裁判官についてのみ、現在でもきわめて不十分な国民審査制度があります)を罷免する法律の制定はサボリ続けられています。人民民主主義権力のもとでは、まつ先に具体化されるべき法律の一つといえるでしょう。
 こうした統一戦線による大衆行動をする権利は、単に基本的人権、私権としての表現の自由にとどまらず、主権の行使、つまり公権としての抵抗権として最大限に尊重されなければなりません。また大衆行動の向けられる対象は、単に法律の制定という立法権のみならず、行政権、司法権など国家機関のすべての行為に及ぶことになります。
 パリ・コミユーンの経験に学んで、国会議員や高級官僚も含め公務員の賃金や退職金も労働者並みとする法律の制定も、「地位争いや出世主義をしめ出すかんぬき」として欠かすことはできません。「すべての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(憲法一五条二項)との規定の意味するところは、公務員は人民の一般意志の奉仕者であって、特殊意志の奉仕者ではない、との趣旨として理解すべきものです。
 こうして、人民連合の統一戦線により人民の一般意志が国政の全般にわたって提示され、またその一般意志の実現を求める統一戦線の大衆行動が、人民執権の具体的内容となるものです。
 ですから、この「執権」は、民主主義を否定するものであるどころか、近代・現代民主主義の制約を打ち破り、一般意志を実現して「国民が主人公」となる、真の民主主義、真の人民主権の実現をめざすものなのです。
 普通選挙権にもとづく民主共和制があるだけでは、「国民が主人公」とはいえません。国民が主権者であるのが、議員を選挙する間だけのことであってはならないのです。一年三六五日、いついかなるときでも主権者としてふるまい、扱われねばなりません。そのためにも主権意志は、国家を統治する意志として、単一であり、かつ一般意志であることが求められます。個々バラバラの主権者の特殊意志を一つにまとめ、しかもそれを真にあるべき一般意志にまで高めるには、導き手としての科学的社会主義の政党の存在が必要となります。また人民によって形成された一般意志を実現するには、主権者である一人ひとりの国民と国家機関とを結ぶ恒常的なパイプが必要です。それが人民連合の統一戦線であり、人民の意志を単一にして至高のものに統一するための職務、権限が「執権」なのです。人民執権のもとで人民の意志は単一の一般意志として主権意志となり、人民の一般意志が現実政治を支配しはじめることになります。

人民執権の発展としてのプロレタリアート執権

 こうして、人民民主主義国家体制のもとで、「国民が主人公」の民主主義の花が咲き始めるのです。しかしそれは別の角度から見れば、「資本主義の枠内の民主主義」としての限界ももっています。
 人民民主主義国家は、「国家権力による疎外」を克服し、この疎外からの回復を実現しようとするものです。これまで国家独占資本主義国家がもっていた搾取と抑圧強化のための国家機構は解体され、国家のもう一つの機構である共同の利益、つまり福祉、医療、年金、教育などに関わる機構は、大幅に拡充され、国家予算も、共同の利益実現の方向に再編されることになります。
 しかし、まだ「搾取による疎外」は、そのまま残されています。人民民主主義国家は、そのもとで、自由と民主主義を開花させ始めますが、その開花の度合に比例して「搾取による疎外」の制約も、まざまざと国民の前に明らかになってきます。
 その結果、民族民主統一戦線が、これまでの社会的、政治的経験をつうじて、「搾取の廃止と社会主義の建設」をもその目標にかかげるようになると、民族民主統一戦線は社会主義統一戦線に向かって前進をはじめるのです。
 社会主義統一戦線は、社会主義建設をめざす労働者階級と人民諸階級・諸階層との広大な連合です。この社会主義統一戦線が社会主義革命を実現すると、プロレタリアート執権=労働者階級の権力が確立されます。
 プロレタリアート執権のもとで、人民は、「国家権力による疎外」と「搾取による疎外」という二重の疎外から解放され、名実ともに人民主権が実現されることになります。
 結論的にいうならば、プロレタリアート執権こそ、人民執権のより発展した執権として、ルソーのいう一般意志実現の人民主権であり、治者と被治者の同一性を完成させる真の民主主義的な権力なのです。プロレタリアート執権が一般意志を実現する真に民主主義的権力だからこそ、マルクス、エンゲルスも強調したように、民主的政治制度である民主共和制が、プロレタリアート執権にもつともふさわしい国家形態となるのです。
 そこで次回は、社会主義、共産主義と、自由・民主主義の問題について考えてみることにします。