『人間解放の哲学』より

 

 

第一二講 社会主義、共産主義における個人の尊厳

一、労働の疎外からの解放

搾取からの解放

 社会主義の目標は、真の人間解放を実現することです。真の人間解放とは、国家権力による疎外からの回復のみならず、資本主義制度にもとづくいつさいの搾取制度を廃止し、「搾取による疎外」からも解放することです。いいかえれば、階級差別をなくし、国民を政治的にはもちろんのこと、経済的、社会的に解放することをその内容としています。
 搾取制度を廃止し、労働者階級をはじめとする圧倒的多数の人民を階級差別と社会的貧困から解放し、すべての人民の「生存の自由」を実質的にも保障するところに、社会主義の資本主義にたいする根本的優位性があるのです。豊かな生産力は、利潤追求のためではなく、すべての国民が健康で文化的な、人間らしい生活を営むために活用されることになります。経済活動の目標は、「生産のための生産」から、「国民の生活をより豊かにするための生産」にと、根本的な転換がおこなわれるのです。
 搾取制度の廃止は、たんに「生存の自由」を実現するだけではありません。人間らしさをとり戻し、人間の尊厳を回復するという意味でも、真の人間解放をもたらします。第一講で、エンゲルスの『国家の起源』から、原始共同体の人間が、「人格的威厳、率直さ、性格の強さ、勇気」の持ち主として白人を驚嘆させたことを紹介し、あわせて階級社会の人間像を次のように画き出していることをお話ししました。
 「新しい文明社会、階級社会をひらくものは、低劣きわまる利害──いやしい所有欲、獣的な享楽欲、きたならしい貪欲、共有財産の利己的な略奪──である。古い無階級の氏族社会を掘りくずし、引き倒すものは、破廉恥きわまる手段──窃盗、暴行、奸計、裏切りである」(『国家の起源』全集㉑一〇一ページ/古典選書版一三二ページ)。
 この階級社会における人間の腐敗、堕落、退廃、道徳性の欠如の根本原因は、「搾取の自由」とそこから生じる「貧困の自由」にありました。さらにマルクス、エンゲルスは、それに加えてもう一つの要因、すなわち「搾取による疎外」と関連した「労働の疎外」を見いだしたのです。
 「労働は、人間生活全体の第一の基本条件であり、しかもある意味では、労働が人間そのものを創造したのだ、と言わなければならないほどに基本的な条件なのである」(「猿が人間になるにあたっての労働の役割」全集⑳四八二ページ/『自然の弁証法〈抄〉』古典選書五一ページ)。
 労働が人間をつくり、人間は労働をつうじて人間らしさ、人間性を形成してきました。そのなかでもとくに重要なのは、生産者と労働生産物との関係です。マルクスは、労働による労働生産物を、自分の自由な意志を外在化し、対象化したものとしてとらえます。したがって、生産者が自らの労働生産物を取得することは同時に、自分が自由な意志の持ち主であり、自由な人格であることを確認することになります。労働と所有の結合は、人間性の基底をなすものなのです。

労働の疎外からの開放

 しかし、搾取制度は生産者からその労働生産物をとりあげ、「労働の疎外」を生みだします。
 「労働者の、彼の労働の産物にたいするあり方が何か他人のものにたいするごときあり方であるという規定のうちに、これらすべての帰結が含まれている。けだしこの前提からして明らかなことは、労働者が身をすりへらして働けば働くほど、彼が自分に対抗したものとして作り出すところの余所ものの対象的世界がますます強力なものになり、彼自身、彼の内面的世界がますます貧しくなり、彼自身に属するものはますます少なくなるということだからである」(「経済学・哲学手稿」全集㊵四三二ページ/『経済学・哲学草稿』岩波文庫八七~八ページ)。
 搾取社会では、「労働の疎外」によって、労働者はその労働生産物を奪われるだけではありません。その労働生産物が労働者に敵対し、労働者の「内面的世界がますます貧しくなり、彼自身に属するものはますます少なく」なっていきます。労働者から人間らしさ、人間の尊厳までもが奪われるのです。
「労働の疎外」のもとで、労働者は労働生産物の奴隷となり、「この奴隷状態の極では、労働者はもはや労働者としてでしかわが身を身体的主体として保つ〔ことはでき〕ず、そしてもはや、身体的主体としてでしか労働者ではない」(同四三三ページ/岩波文庫八九ページ)。
 労働者は自由な人格としてではなく、ただ働くだけの動物的存在となってしまうのです。もはや労働者は、食ったり飲んだりするだけの存在であり、「これらのはたらきを人間的活動の爾余の圏から切り離して究極にして唯一の目的たらしめるような捨象においては、それらは獣的である」(同四三五ページ/岩波文庫九三ページ)。
 人間は、自由な意識をその類本質としてもっていることを最初にお話ししてきました。労働者は搾取されることによって、自由な意志の産物を奪われるだけでなく、人間性まで奪われてしまうのです。
 「疎外された労働は人間から ⑴自然を疎外し、⑵彼自身を、換言すれば彼自身の能動的なはたらき、彼の生活活動を疎外することによって、人間から類を疎外する」(同四三六ページ/岩波文庫九五ページ)。
 社会主義社会では、生産手段が社会化されることによって搾取制度は廃止されます。人間は「搾取による疎外」から解放され、「労働の疎外」からも解放されるのです。

個人的所有の再建

 「生産手段の社会化」は、土地、機械、工場などの生産手段を資本主義的私的所有から社会的所有に移行することによって行われます。社会的所有の形態にはいろいろありうるでしようが、大事なことは、生産手段を使って生産する労働者が主人公となる所有形態でなくてはならないということです。マルクスは、社会主義社会を「結合された生産者たち」が自分の手に生産手段を握り、生産の主役になることだととらえていました(不破『ふたたび「科学の目」を語る』新日本出版社七五ページ)。
 こうして搾取が廃止されることにより、国民生活は豊かに、消費手段の私的所有はより充実したものとなります。
 しかし、搾取の廃止は、消費手段の私的所有をより豊かにするという以上の意味をもっています。それは、労働者が自分の労働にもとづく私的所有を回復することをつうじて人間の尊厳を確立することにつなかっているのです。
 マルクスは、『資本論』第一部第二四章のなかで、社会主義社会を労働の疎外を克服した「労働と所有の結合」、つまり、「個人的所有の再建」としてとらえています。
 まずマルクスは、資本主義的生産を生みだす力となった、資本の本源的蓄積とは何かについて、「直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私的所有の解消を意味するにすぎない」(『資本論』④一三〇三ページ/〔Ⅰ〕七八九ページ)と述べています。
 つまり、資本主義に先だつ小経営の場合は、小経営者が生産手段を所有し、労働にもとづく私的所有が実現されていました。しかし資本主義的生産様式のもとで、この小経営は破壊され、「自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個人とその労働諸条件との癒合にもとづく私的所有は、他人の、しかも形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私的所有によって駆逐される」(同一三〇四ページ/同七九〇ページ)。
 ここで、マルクスが、「自分の労働にもとづく私的所有」と「資本主義的所有」とを区別していることに注意してください。資本主義に先だつ小経営の場合、所有権とは、自分の労働にもとづいて労働生産物を取得する権利だったのですが、資本主義的生産様式のもとでは、労働と所有の結合は否定され、所有権の弁証法的な転換が生じるのです。
 「すなわち奇妙な因果関係によって、資本の側では所有権は、他人の生産物に対する権利、すなわち他人の労働にたいする所有権、等価なしに他人の労働を領有する権利に、そして労働力能の側では、自己自身の労働または自己自身の生産物にたいして、これを他人の所有としてふるまう義務に。所有権は、一方では他人の労働を領有する権利に転回し、他方では自己の労働の生産物と自己の労働自身とを、他人に属する価値として侵してはならない義務に転回する」(『経済学批判要綱』Ⅱ、三九三ページ/『資本論草稿集』②九七ページ)。
 しかし、資本主義によって一度は否定された労働と所有の結合は、社会主義社会のもとで、もう一度否定され、新たな「労働と所有の結合」を生みだし、「個人的所有を再建」するのです。
 「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果──すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有──を基礎とする個人的所有を再建する」(『資本論』④一三〇六ぺージ/〔Ⅰ〕七九一ページ)。
 否定の否定としての「個人的所有の再建」とは、「自分の労働にもとづく私的所有の再建」を意味しています。しかしマルクスは「社会的・集団的所有の対立物としての私的所有は、労働手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合にのみ存立する」(同一三〇三ページ/〔Ⅰ〕七八九ページ)と理解していましたから、生産手段の社会化の基礎のうえに立つ「自分の労働にもとづく私的所有」、つまり労働と所有の結合を、「私的所有を再建するわけではないが……個人的所有を再建する」と表現したものでしょう。
 マルクスは、「自分の労働にもとづく私的所有」の再建を、社会主義のもっとも重要な要素としてとらたのです。なぜなら、それが「搾取による疎外」からの解放を意味するにとどまらず、再び「所有と労働の結合」を生みだすことによって「労働の疎外」からも解放し、「人間性の回復」をもたらすものと考えていたからです。
 しかし、「自分の労働にもとづく私的所有」が、人間の類本質である人格的自由と深く結びついているものなのかどうかについては、もう少し別の観点からの検討が必要だと思われます。
 人格とは何か、権利とは何か、個人の尊厳とは何かなど、「法または権利」(レヒト)と個人の尊厳との関係が検討されなければなりません。

 

二、権利と自由

自由な意志

 法と権利は、人間が自由な意志をもって、自己決定しうる存在であることを前提として成立しています。それは民事法においても、刑事法においても異なるものではありません。
 民事法を代表する民法一条の三は、「私権の享有は出生に始まる」と規定し、人間が人間であるかぎり、権利の主体として権利能力を有するととらえています。しかし、未成年者や精神に障害をもつ者の権利能力は、抽象的には自由な意志の持ち主として認められるものの、具体的な自由の意志には欠けるところがありますから、行為能力がない者(無能力者)とされ、法定代理人等をつうじてのみ法律行為をなしうるものとされています。
 近代法の原則として、「契約自由の原則」があります。契約の当事者が自由な意志のもとに合意すれば、どんな内容であっても国家は干渉せず、有効とみなされるという原則です。しかし、契約自由の原則はあくまで自由な意志を前提とするものですから、その契約が詐欺や強迫による場合には、自由な意志を欠くものとして、取り消すことができるのです。
 刑法でも同様です。刑事罰を受けるためには、たんに刑法の規定に違反する行為をしたというだけでは足りなくて、行為者に責任がなくてはなりません。責任論の基礎となるのが自由な意志です。行為者が自由な意志をもち、法に触れる行為をすれば処罰されることを知っていたか、あるいはちょっと注意すれば知りえたのに、あえて違反したという場合に、はじめて行為者に非難可能性が生ずるのであり、したがって責任があるものとして処罰されるのです(ちなみに前者を故意責任、後者を過失責任といっています)。精神に障害があり、自由な意志をもたないか、あるいは制限されているときは、心神喪失または心身耗弱として、処罰されないか、刑を軽減されることになります。(刑法三九条)。
 では、覚せい剤中毒者が、覚せい剤を使用すれば必ず暴力をふるうことを知りながら、あえて使用して精神錯乱状態となり、傷害事件を起こした場合はどうでしよう。行為時に自由な意志がなかったとして責任を逃れるかといったら、そうはいきません。こうした場合は「原因において自由な行為」とよばれていますが、傷害事件の原因となった覚せい剤を使用するときには自由な意志があった、として処罰されるのです。ここでも自由な意志が責任論の前提となっています。

人格の形成と個人の尊厳

 第四講で、ヘーゲルの『法の哲学』をつらぬく一本の太い線は自由論であるとお話ししました。ヘーゲルは、法と権利の基礎には自由な意志があるというところから『法の哲学』を説き起こしています。
 「およそ現存在が、自由な意志の現存在であるということ、これが法ないし権利である。-法ないし権利はそれゆえ総じて自由であり、理念として有る」(前掲『法の哲学』二ー九ページ)。
 人間は自由な意志の持ち主として、権利能力をもつ存在となり、権利能力の主体として一個の人格となります。自分が自由な意志の持ち主であることを自覚し、一人ひとりの人間が、自己の人格性をみいだします。また、そのことを通じて、他者を一個の人格として承認することになります。このように、人格性の相互承認、相互尊重をつうじて、個人の尊厳が確立されるのです。
 「人格性は総じて権利能力をふくむ。そして人格性は、抽象的な、それゆえに形式的な権利ないし法の、概念およびそれみずから抽象的な基礎をなしている。それゆえ権利ないし法の命令はこうである。── 一個の人格であれ、そして他のひとびとをもろもろの人格として尊敬せよ」(同二三二ページ)。
 人間は、権利能力をもち権利の主体となることによって、個人の尊厳を確立していくことになるのです。
 権利のうちでもっとも基本となるのは、[労働と所有の結合]としての私的所有の権利、所有権です。人間社会は、労働生産物の生産および交換という経済的諸関係をその土台としています。この土台から生じる私的所有(もっとも原始共同体の場合は、生産物の共有という形態における労働と所有の結合)は権利問題の根本をなすものです。
 「これらの物を商品として互いに関連させるためには、商品の保護者たちは、その意志をこれらの物にやどす諸人格として互いに関係し合わなければならない。それゆえ、一方は他方の同意のもとにのみ、したがってどちらも両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を譲渡することによって他人の商品を自分のものにする。だから、彼等は互いに私的所有者として認め合わなければならない」(『資本論』①一四四ページ/〔I〕九九ページ)。
 生産者が労働生産物を生産するという行為は、自分の自由な意志を労働生産物のなかに実現することを意味していますから、生産者は自己の自由な意思のあらわれとして、労働生産物を自己の所有物として取得する権利を有するのです。
 「人格は、どの物件のなかへも自分の意志を置き入れる─物件は私のものである─という権利を、自分の実体的な目的としている……これが人間の、いっさいの物件にたいする絶対的な、自分のものにする権利である」(『法の哲学』前掲二三九ページ)。
 したがって、生産者が自分の労働にもとづく労働生産物を自己の所有物として取得する「労働と所有の結合」は、自由な意志をもつ人間の類本質に直接由来する権利です。そのかぎりで自分の労働にもとづく所有は、人間の類本質にとって、絶対的な権利だということができます。
 ヘーゲルは、プラトンの『国家』が、私的所有一般を否定していることをとらえて、「精神の自由と法ないし権利との本性を見そこな」うものだと、批判しています(同二四二ページ)。
 人間は、自分の労働にもとづく所有を絶対的権利として保障されることにより、権利能力一般の所持者となります。また権利能力一般の主体となることによって、一個の自由な人格として認められ、基本的人権を享有する個人としての尊厳を確立していくのです。
 第一講で、類としての人間の発展と個としての人間の発展の関連についてお話ししました。自由な人格としての個人の尊厳の確立は、歴史的に形成される個の発展の度合いを示すものです。階級社会において被搾取階級は、自分の生産する労働生産物を搾取されることによって、根本的なところで個人の尊厳を奪われているのです。

「自分の労働にもとづく私的所有」の軽視と個人の尊厳の否定

 残念ながら、これまで社会主義をめざしたり自称したりした少なくない国々では、自分の労働にもとづく私的所有や個人の尊厳があまりにも軽視されてきた事実があります。
 スターリン以降のソ連社会では、「農業の集団化」の命令で数百万の農民が農村から追放され、数百万、数千万人ともいわれる大量弾圧がおこなわれました。中国の「文化大革命」でも数百万の生命が奪われ、一九八九年の天安門事件では、民主化を求める自主的な運動が戦車によって押しつぶされたことも記憶に新しいところです。
 社会主義を自称していたカンボジアのポルーポト政権も数百万の大量虐殺をおこなっています。小泉首相の訪朝により、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間に、日朝国交正常化交渉の窓口が開かれたことは、歓迎すべきものです。そのなかで、日本の主権と人権を侵害する拉致の事実がはじめて明らかにされました。
 北朝鮮を社会主義国とするのは論外だというべきでしょうが、それにしても、現代民主主義を代表する日本国憲法下の日本国民の人権感覚と、北朝鮮の人権感覚との落差の大きさを、あらためて思い知らされました。
 この個の発展と所有権との関係についてもう少し深く検討してみることにしましょう。

 

三、資本主義的私的所有の限界

労働と所有の分離と結合

 マルクスは、『経済学批判要綱』のなかで人間社会の進歩、発展にともなって、個の発展がもたらされるととらえました。階級社会においては「物的依存性のうえにきずかれた人格性」が認められるにとどまりますが、社会主義、共産主義の社会において、諸個人の普遍的発展のうえに自由な個性が生まれてくるのです。
 ブルジョアジーは、「搾取の自由」を求めて革命をおこし、近代民主主義の諸原則を人権宣言としてうちだします。「搾取の自由」を実現するうえで、もっとも重要な権利は、資本主義的な「私的所有の権利」です。資本主義的な所有権は、私的所有の権利ではあっても、「労働と所有を分離」し、生産者の自分の労働にもとづく労働生産物を取得する権利を侵害するという側面を同時にもっているのです。
 ですから、人権宣言における「所有権の自由」とは、「搾取の自由」の保障にほかなりません。
 「私的所有の人権は、任意に、他人にかまわずに、社会から独立に、その資力を収益したり処分したりする権利、つまり利己の権利である」(「ユダヤ人問題によせて」全集①四〇二ページ/『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫四四ページ)。
 資本主義は、資本主義的私的所有の権利を主張することをつうじて、自由な人格と人権を宣言し、個人の尊厳を強く打ち出したのです。しかし他方で、資本主義的私的所有は、「搾取の自由」、「労働と所有の分離」をもたらし、生産者である労働者の個人の尊厳を奪いとっていくという矛盾をもたらしたのです。
 マルクスが、「労働の疎外」からの回復による「個人的所有の再建」を社会主義の重要なメルクマール(指標)としたのも、労働と自分の労働にもとづく所有が結合してこそ、個人の尊厳を全面的に確保しうると考えたからではないかと思われます。
 さらに資本主義のもとでの「個人の尊厳」は、「生産のための生産」、利潤第一主義の利己の権利としての「個人の尊厳」でしかなく、共同社会性を犠牲にした「個人の尊厳」であることも見ておかなくてはなりません。人間の類本質は、自由な意識と共同社会性にあります。本来、人間の自由は、共同社会性のなかにおいて実現されるのであり、最高の自由は最高の共同なのです。しかし、「市民社会においては、各人は他人のなかに自分の自由の実現ではなく、むしろその障害を見いださせるようにさせられている」(同ページ)。

共同社会性の否定

 資本主義的自由は、人権感覚と個人の尊厳を確立するうえで一定の役割を果したものの、他方で資本主義的私的所有による「搾取の自由」と「労働の疎外」により、労働と所有の分離をもたらし、また人間の類本質の一つ、共同社会性を喪失させることになったのです。「だから、いわゆる人権はどれ一つとして、利己的な人間以上に、市民社会の成員としての人間以上に、すなわち自分の殻、私利と我意とに閉じこもり共同体から区分された個人であるような人間以上に、こえでるものではない。人権において人間が類的存在としてみなされるどころか、むしろかえって類的生活そのものである社会が、個々人の外部のわくとして、個々人の本来の自主性の制限としてあらわれるのである」(同四〇三ページ)。
 資本主義的私的所有の生みだした個人の尊厳と人権感覚は、社会主義社会に引きつがれるべき歴史的遺産ということができますが、しかしそれは、階級的制約と人間の類本質である共同社会性の犠牲のうえにのみ成立する一面的な自由にすぎません。容易にそれは、「自分さえよければ」という利己主義につながるものです。最近日本でも、理由なき殺人、家庭内暴力、児童虐待など、社会の弱者への攻撃という弱肉強食のゆがんだ社会現象が次々に顕在化してきました。
 小泉首相の唱える「構造改革」も、弱者を切りすて、財界の負担と規制を軽減しようとするものにほかなりません。現代日本における利己主義と社会共同体としての倫理観の喪失の根底には、資本主義社会の弱肉強食の論理が働いているのです。
 こうしてみてくると、マルクスが「物的依存性のうえにきずかれた人格性」といった言葉の重みが、あらためて実感できるのではないでしょうか。資本主義的私的所有のうえにきずかれた人権と人権感覚、個人の尊厳は一面的なものであり、「自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定」である「資本主義的な私的所有」は、もう一度否定され、「協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有──を基礎とする個人的所有を再建する」ことになるのです。
 人間の類本質である共同社会性は、「結合された生産者たち」による「協業」と生産手段にたいする彼らの「共有」という物質的土台のうえに花開きます。そして個人の尊厳も、「労働と所有の結合」による「個人的所有の再建」のもとで全面的なものとして実現されてゆくのです。

 

四、「個人的所有の再建」と個人の尊厳

自由と共同社会性の実現

 小林靖昌氏の『ヘーゲルの人倫思想』(以文社)は、ヘーゲル『法の哲学』をつうじて「市民社会再生への道」を探究しようとする意欲的な著作です。
 小林氏は、自由論から説き起こす「ヘーゲルの『法哲学』が市民社会的国家論であり、近代市民社会の主体的自由の権利を擁護し、また人倫性喪失の欠陥を克服しようとするものであることは、疑うことができない」(同一九〇ページ)ということを議論の出発点としています。
 ヘーゲルのいう「人倫性」とは、「真の共同体」とか「共同体の倫理」というような意味ですから、小林氏はヘーゲル国家論を、国家の真にあるべき姿は自由と共同社会性を実現するところにあるととらえるものであり、この点での小林氏の理解に異論はありません。
 また小林氏はマルクスの『ヘーゲル国法論批判』について、次のように批判しています。
 「マルクスはヘーゲルにおける、さらには哲学における『理念(Idee)Jの意義をまったく認めていないということである。理念の現実的展開を『論理的汎神論的神秘主義』としてマルクスは論難し去るのであるが、それは彼がアリストテレスのデュナミスとエネルゲイアとの関係をも、目的因と始動因、形相因と質料因の連関をも、また合目的性の哲学的かつ事象論理的意義をも理解していないことを暗示している。少なくともヘーゲルにとって、理念は現実に展開されることなしには真の理念ではありえないのであり、また現実の諸現象は理念の展開でない限り真に現実的ではありえないのである。『序文』の有名な命題もまさにこの連関に関わると言えよう」(同五〇七ページ)。
 いうまでもなく序文の「有名な命題」とは、「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(『法の哲学』一六九ページ)のことです。マルクスは、ヘーゲルが国家の理念を主体にし、家族や市民社会をその理念の展開としてとらえていることをもって「論理的汎神論的神秘主義」と批判しています。しかし、ヘーゲルは国家の理念、国家の真にあるべき姿を問題にし、こうした真にあるべき国家をとらえることによって、その理念、理想は現実となることを強調したものであることを考えると、小林氏の指摘も理解しうるところです。
 しかし、次の小林氏の見解には、同意することはできません。
 「マルクス主義はヘーゲルが既に認識していた人倫喪失態としての市民社会の疎外された経済機構をより科学的に分析した点において功績を有するが、近代市民社会の歴史的・思想的意義を正当に評価しえなかったために自立した個人の主体的自由、特殊性の権利、基本的人権を抑圧し、人倫の原理としてはむしろ古代の実体人倫に逆戻りする、つまり個人の所有や職業の選択や社会的・政治的・文化的諸活動に関する特殊的な主体的自由を否定する統制的国家体制への傾向を示した」(『ヘーゲルの人倫思想』一六ページ)。
 この小林氏の見解は、マルクス、エンゲルスの文献の綿密な検討から導かれた結論ではなく、ソ連や東欧の実態に引きずられた議論だと思います。
 階級社会における「搾取による疎外」と「国家権力による疎外」という二重の疎外からの回復による人間解放を求める科学的社会主義の理論を、「個人の主体的自由、特殊性の権利、基本的人権」を抑圧する理論ととらえることぐらい的はずれの評価はありません。
 マルクスは、二重の疎外から回復された「個」としての人間は、疎外以前の原始共産制の時代の人間に立ち戻るのではなくて、より高い歴史的段階へと、らせん型に発展した「個の発展」を展望しています。それは「個人の主体的自由」の問題でも、「特殊性の権利、基本的人権」についても、資本主義的制約から解放されるのみならず、より高い人間性へと止揚した主体的自由、人権ととらえているのです。

私権と公民権の統一

 フランス人権宣言(一七九一年)の正式名称は、「大および市民の権利宣言」です。人の権利(droits de l' homme)とは自由と平等を基調とするいわゆる基本的人権であり、市民の権利(droits du citoyen)とは公民としての権利、つまり社会共同体に参加する権利です。このようにフランス人権宣言は、人の権利と市民の権利とを区別したうえで、その両者をともに人権として宣言したのですが、実際にはそのいずれにも大きな問題をかかえていました。
 まず市民の権利は、所有の自由(所有権)を中心とする自由権をその柱としていますが、その自由とは、「国家からの自由」を意味する「逃避の自由」でしかありません。「逃避の自由」は先にも述べたように「利己の権利」でしかないのです。
 また公民の権利は名目のみの権利となり、人の権利に従属した存在でしかありませんでした。
 「公民であることが、政治的共同体が、政治的解放者たちによって、このいわゆる人権の保全のための単なる手段にまで引き下げられたこと、したがって公民(citoyen)は利己的人間(homme)の召使と宣言され、人間が共同的存在としてふるまう領域は部分的存在としてふるまう領域の下におしさげられ、結局、シトワイヤン(公民 citoyen)としての人間ではなしに、ブルジョア(市民社会の一員)としての人間が本来的な真の人間だと考えられた」(「ユダヤ人問題によせて」全集①四〇三ページ/『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫四七ページ)。
 人間は自由な意識と共同社会性を類本質としてもっています。自分の労働にもとづく所有から、個人の主体的自由、個人の尊厳、そして人の権利(私権)としての基本的人権が生まれてきます。他方、共同社会性から、個人も社会的存在として社会共同体に主体的に参画する権利、公民の権利(公民権)が生まれてきます。公民権の中心をなすのが人民主権です。
 人間は私権と公民権とをあわせもつことにより、権利の面からも人間の類本質を回復し、人間らしい人間として個人の尊厳を確保することができるのです。
  「現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、その経験的な生活において、その個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在となったときはじめて、つまり人間が自分の『固有の力(forces propres)』を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力の形で自分から切りはなさないときにはじめて、そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになるのである」(同四〇七ページ/岩波文庫五三ページ)。
 では、現実の個別的な人間がその個人的な関係において類的存在となるとは、どういう状態なのでしょうか。それこそが二重の疎外から回復するという前提にたったプロレタリアートの執権であり、一人ひとりの国民が一般意思形成に参加することなのです。それを法的に表現するならば、ルソーのいうところの人民主権を高くかかげ、そのもとでの私権と公民権とを全面的に享有することだといえるでしょう。こうしてこそ、個人の尊厳も名実ともに実現されるのです。
 マルクスが『資本論』において「協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有──を基礎とする個人的所有を再建する」と述べていることには、表現されている以上に重い意味あいが含まれている
ことに気づかされます。
 生産者が自分の労働にもとづく労働生産物を取得することは、人間が権利主体となり、自由な人格と個人の尊厳を保障される基底的要件となります。しかし、資本主義的私的所有の保障は、同時に利己的な権利の側面をもち、搾取による個人の尊厳を否定する要素をもっています。ですから、人間は生産手段を共有し、「労働と所有の結合」と生産、分配における共同社会性を確保することによって、資本主義的私的所有のもつ否定的側面をのりこえ、最高の共同は最高の自由となって、個人の尊厳という人間性を全面的に開花させることができるのです。
 こうして、社会主義、共産主義の社会において「諸個人の普遍的な発展のうえに、また諸個人の社会的力能としての彼らの共同体的・社会的な生産性を従属させることのうえにきずかれた自由な個性」(『経済学批判要綱』Ⅰ、七九ページ/『マルクス資本論草稿集』①一三八ページ)という、個の発展が実現されることになるのです。
 この点を考えると、ソ連や東欧が、個人の尊厳という見地からの人間解放においても完全に失格であり、社会主義の名に値しなかったことは明白だといわねばなりません。