『人間解放の哲学』より

 


 本書は、広島県労働者学習協議会で開催した「講座・科学的社会主義における自由と民主主義」(二〇〇二年四月~七月)での講義をベースにしながら、講義を受けての討論と、編集委員会での論議をふまえ、大幅な加筆・訂正を加えたものです。
 社会主義の基本理念は、人間解放といわれています。では、いったい人間解放とは何を意味しているのでしょうか。この問いに答えるには、そもそも人間とは何か、という人間の類本質が考察されなければなりません。本書はこうした問題意識から出発して自由と民主主義を検討しています。それが本書を『人間解放の哲学』と名づけたゆえんです。人間の類本質から自由と民主主義を説き起こしたものとして、本書はあまり前例のないものだと思います。また「プロレタリアート執権(ディクタツーラ)論」は、これまでソ連・東欧の一党専制支配と結びつけられ、科学的社会主義の理論の反民主主義性を象徴するものであるかのような批判を受けてきました。それだけに、この批判に正面から立ち向かい、マルクスやエングルスの「執権」論が「真に民主主義的な権力」であることを鮮明にする試みも、本書のもう一つの特色となっています。ルソーの人民主権論の継承・発展としてマルクス、エングルスの「執権」論をとらえ直すというのが私の見地です。

 広島県労学協は、一九六三年に創立され、今年四〇周年を迎えました。その道のりはけっして平坦ではなく、七〇年代初頭の高揚、そして八〇年代初めごろから約一〇年にわたり、組織的な運営の存在しない状態(労働学校などの事業は継続されてはいたのですが)をへて、一九八九年九月に組織と機関を再建し、今日にいたっています。
 組織再建をした一九八九年は、中国で天安門事件が起こった年でもあり、その年から九一年にかけて、東欧やソ連が一連の民主化の流れのなかで崩壊してゆきました。「社会主義崩壊論」の大合唱のなかで、広島県労学協は新たな船出をしたのです。「そもそも科学的社会主義の学説とは何か」、「科学的社会主義と自由・民主主義とはどういう関係にあるのか」という問題に正面からたち向うことが再建当初の理論的実践的な課題となりました。
 すでに、日本共産党の『自由と民主主義の宣言』(一九七六年)が発表されていましたので、当時もこれを手がかりにしながら、講演をし、小論を書きました。引き続き、この問題をさらに哲学的に深めてみたいと思いつつも、本格的にこのテーマに取り組む機会がないまま時がたってしまいました。
 ですから、本書のテーマは、広島県労学協再建以来ずっとあたためてきたものです。
 ヘーゲル弁証法の全体像をつかむという、これまでの仕事が一段落したため、この積年の課題に挑戦することにし、二〇〇一年秋から準備して、冒頭に書きましたように翌二〇〇二年春に講義しました。手探りの状態で始めた講義でしたが、自由・民主主義論の太い骨格については確信を手にしえた感触をえましたので、編集委員会で議論し、今回、思い切って出版することにしました。
 本書は新しい問題提起を含んでいるだけに、荒削りで未熟なものを多分にもっていると思います。ですから、本書を批判的に取り扱っていただき、討論の素材としていただければ幸いです。本書が提起した自由・民主主義論を契機として、積極的な論議がよび起こされ、科学的社会主義の自由・民主主義論が、より豊かに、より真理に接近する方向に発展することを期待するものです。

 本書でとり扱った哲学的見地の詳細については、県労学協編の拙著『ヘーゲル「小論理学」を読む』、『変革の哲学・弁証法』(いずれも学習の友社刊)を参照していただければと思います。
 本書も、筆者の執筆した原稿をもとに、県労学協編集委員会の幾度にもわたる集団的論議のなかで、練りあげられ編纂されたものです。その意味では、県労学協の「編集」というより、県労学協の「著作」といった方が正確かとも思います。討論をつうじての認識の弁証法的な発展という点からしても、こういう出版の仕方は、科学的社会主義の理論の探究の方法として有益なものと考えます。右委員会のご協力にたいし、あらためてこの場を借りて心からの謝意を表明するものです。
 なお、装丁は、テキスタイルーデザイナーである二女、高村まどかが担当しました。

二〇〇五年 五月 三日  憲法記念日に   
                 高村 是懿