『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より

 

 

第一〇講 フランス共産主義

一、バブーフの陰謀

サン=キュロット運動の昂揚

 一七九四年七日、テルミドールのクーデターが成功し、恐怖政治は終わりました。ロベスピエールは、サン・ジュストなどとともに断頭台の露と消えてしまいました。
 新しくテルミドール派・ブルジョワによって、総裁政府がつくられました。「総裁政府は多少緩和された九一年の憲法の線にしたがい、山岳党の九三年憲法の復活を厳重に警戒しつつ、能動的市民と受動的市民による制限選挙制を堅持した」(平岡、前掲書三四ページ)。これによりジャコバン独裁時代に形成された議会ブルジョワとサン=キュロットの民衆運動との連携は、幕を閉じ、総裁政府と民衆との対立は激化してきます。
 総裁政府下で、ブルジョワジーは、経済的自由をとり戻しますが、それは、買占め、投機、物価高騰と未曾有の食糧危機をもたらし、サン=キュロット運動は、新たな高揚をむかえることになります。
 「この経済的危機、食糧危機が、一時的な現象でなく、新しい社会に内在する本質的矛盾ないし構造悪としてとらえられ、それを根こそぎにする第二の革命、フランス革命を完成する最後の革命が、彼らサン=キュロットを中心にくわだてられたのである。それが『平等のための陰謀』であり、その中心人物がバブーフなのである」(同二六ページ)。
 バブーフ主義(バブーヴィズム)といわれるものは、バブーフのまとまった著作からなるものではありません。それは民衆運動のなかから生まれたものですから、厳格なものとして定義することはできませんが、ブオナロッティが事件の三〇年後に著した『バブーフの陰謀』に添付された当時の資料などにより、その中心的な考えをつかむことはできます。
 「一七九三―九四年以来、政治の前面に出てきたパリの下層民衆サン=キュロットは、彼らの解するルソーの平等思想と主権論を楯にとって、政府を批判した」(同三五ページ)。
 このことは、パリの民衆がルソーの『不平等論』や『契約論』を読んで理解していたということを意味するものではありません。フランス革命の推進力となったパリの民衆は、運動のなかで鋭い政治感覚をみがきあげ、ルソーの平等思想と人民主権論を、彼らの政治感覚に即してつかみとっていったのです。
 では、サン=キュロットは、ルソーの人民主権論をどのようにとらえていたのでしょうか。
 「共和二年(註、一七九四年)のサン=キュロットは、主権在民の原則を無条件的に受けいれていた。『譲渡できない、一にして不可分なる主権』は、文字どおりのものであって、主権は本来代表されえないから、代表制は欺瞞であり、偽善的であると考えた」(同三六ページ)。
 九三年憲法は実施されないままに終わりました。ですから九一年憲法の制限選挙は、そのまま持ちこされ、パリの民衆は、引きつづき受動的市民として選挙権を与えられませんでしたので、ルソーの人民主権論にもとづく直接民主主義を主張して政治参加を訴えたのも当然だったといわねばなりません。
 「イギリスの選挙人は選挙中だけ主権者であり、投票後は奴隷にもどるという、ルソーの代表制への不信のことばを、彼らは文字どおりに解した。そこから、次善策として、人民投票による法の裁可、人民の代表者でなくたんなる受任者、事務代行者としての代議士、為政者への監視、進んでは解任を要求するにいたった。九三年憲法(権利宣言)が認めている蜂起権も当然のことと考えられた。『陰謀』の生まれるきっかけをつくった共和三年(一七九五年)のジェルミナルの平和蜂起も、プレリアルのそれも、この信念からおこなわれたものである」(同三六、三七ページ)。
 共和三年のジェルミナル一二日(四月一日)と同年プレリアル一日(五月二〇日)の民衆蜂起は、「バブーフの陰謀」の直接の契機となったものです。この二つの蜂起は、大衆を動員して国民公会へ押しかけて請願書を提出し、人民の要求の実現をせまるという「平和的蜂起」の方式がとられたのですが、ジャコバン独裁の時代と異なり、議会内に呼応する勢力が存在しないところから、弾圧されて失敗に終わり、これを機にバブーフは、武装蜂起による政権奪取の「陰謀」を決意するに至ったといわれています。
 一七九二年、サン=キュロットとブルジョワジーとが結んでブルボン王政を倒し第一共和制を樹立したとき、民衆は、共和制に人間解放を夢みて熱狂しました。その熱狂のさめやらぬなかで人民の要請にこたえる九三年憲法が制定されましたが、テルミドールの反動、執政政府の樹立により、共和制にかけた民衆の期待は、次第に幻滅へと変わっていきます。そのなかで、九三年憲法の復活を求める声が、サン=キュロット運動の高まりのなかで生まれてくるのです。
 「サン=キュロットのほんとうの希望は、凍結されたままになっていた理想主義的な九三年憲法にそそがれ、それが現実の彼らの不幸に対する最大の救いのようにみえていた。
 こうして、『パンと九三年憲法』が、この二回にわたる自然発生的な民衆蜂起の合言葉となった。これは自律的なサン=キュロット運動の最後の現われであった」(同六八ページ)。
 こうして、平和的蜂起の失敗は、総裁政府を倒して、権力をブルジョワジーから人民の手に奪還し、九三年憲法を復活させ、新しい「共同の幸福」社会、つまり共産主義社会を実現しようとする「陰謀」が企てられるに至るのです。
 共和四年ジェルミナル一〇日(一七九六年三月三〇日)、バブーフを中心に、ブオナロッティを含む七名により、「秘密独裁政府」が結成されます。「陰謀」成功後に権力を担うべき、シャドー・キャビネットの意味をこめて「秘密総裁政府」とよんだのでしょう。
 「この秘密総裁政府は、ロベスピエール派とサン=キュロット運動派の二系譜の合流の所産であった。しかしブオナロッティは、その内部における完全な意見の一致を指摘している。『彼らの間には、アマール宅で討議された政治論の主題について、いかなる反対感情もなかった。完全な一致が彼らを結びつけた。すべての者が、労働と享受の平等を真の市民にふさわしい唯一の目標とみなし、そこにしか蜂起の正当な動機を見出さなかった』。つまりブオナロッティによれば、蜂起の究極目標として『労働と享受の平等』について『完全な一致』がみられ、更に九三年憲法の復活を統一綱領とする点でも全員一致をみたのであった」(柴田、前掲書一九一、一九二ページ)。

『バブーフの陰謀』と人民主権論

 九三年憲法をつらぬく基本原理は、ルソーの主張する人民主権論と直接民主主義の原則でした。
 この九三年憲法の復活をかかげる「バブーフの陰謀」は、杉原泰雄教授の言葉を借りると「フランス革命における『人民主権論』の最高の到達点を示」(『国民主権と国民代表制』二二八ページ、有斐閣)すものとなっています。というのも、「陰謀」では、たんに政治的に人民主権を規定するだけではなく、人民が真に主権者として社会の主人公となるために、財産の共有による不平等の解消という経済的改革による共産主義の原理まで含んでいたからです。
 まず「陰謀」では、人民は主権者とされていただけではなく、ルソーの「自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、ドレイとなり、無に帰してしまう」という批判を受けて、法の制定そのものに人民の承認が必要だとされていました。
 「第一の方法は、『人民』によって直接任命される代議士からなる第一院が法律案を作成してその提案理由とともに『人民』の単位である各地区の『主権会議』に送付し、各主権会議における採決の結果を第二院が集計するというものである。
 第二の方法は、各主権会議がイニシァチブをとる場合で、その提案が『人民』の多数によって支持されると、第二院は第一院にその結果を伝え、後者がそれを法案として整備し、第一の方法で『人民の承認』に付するというものである。
 代議士は、『人民』に対して法的・政治的責任を負い、召還と刑罰の対象とされていた。『人民』は、また、『執行官の創始者であり、監視者であり、維持者である』と考えられていた」(同二二九、二三〇ページ)。
 また、「陰謀」は、人民が主権者となることによって、民衆の不幸の原因である私有財産を廃止して、「財産と労働の共有」・「負担と享有の平等配分」という共産主義の原理を打ち出していました。
 これは「不幸と奴隷状態は、不平等に由来し、不平等は財産権に由来する。したがって財産権は、社会の最大の災禍である。それはまさしく公的な犯罪である」(「バブーフの教義の概要」第六集)という考えにもとづくものでした(同二三一ページ)。
 「陰謀」は、執政政府打倒後に、各県一名計九七名からなる国民議会を設け、この革命政府が、人民的諸制度が開始するまでの間統治するものとされていました。
 具体的な、革命政府の任務は、次のように考えられていました。
 「第一は、一七九三年憲法を改良し、その迅速な執行を用意することである。改良すべき要点としては、とくに私有財産制の廃止とそれに伴う社会主義の採用および『人民主権』の徹底があげられるであろう。第二は改良された一七九三年憲法の執行の用意とも関連するが、憲法の全面的執行つまり革命政府から立憲政治への移行に先行して、不変の平等、自由および幸福を確保するための諸制度を設けることである。第三は、一年以内に『基本デクレ』(註、デクレは、「法律」の下位規範としての「命令」)の執行について、人民に報告することである」(同二三二、二三三ページ)。
 以上のように、人民主権論と共産主義論を九三年憲法を軸に展開する「陰謀」について、杉原教授は、次のようにまとめています。
 「ヴァルレ(註、サン=キュロット運動のリーダーの一人)から『バブーフの陰謀へ』という形で示されてくる『人民主権』論の展開は、主権論史・国家論史において不滅の歴史的意義をもっている。社会主義、さらには革命政府論・革命運動論を具備することによって、フランス革命のなかで提起された『人民主権』は、先どり的に、資本主義社会における民衆解放原理としての意義をもつに至っている。『労働の経済的解放をなしとげるためのついに発見された政治形態』としての意義を先どり的に示しているのである。現に、一九世紀に入って賃労働者が輩出され労働者階級が形成されると、それはその労働者階級を主たる担い手とする『プロレタリア主権』として本格的に再登場している」(同二三四ページ)。
 「労働の経済的解放をなしとげるためのついに発見された政治形態」というのは、マルクスが、パリ・コミューンを評価した言葉です。杉原教授が、プロレタリアート執権を人民主権の発展形態としてとらえていることにも、賛同したいと思います。
 いうなれば、ルソーの平等論と人民主権論は、九三年憲法を媒介として、「バブーフの陰謀」のなかで共産主義に結びついていったと、結論することができるでしょう。
 「陰謀」は、秘密総裁政府が成立して、わずか一ヶ月半で露見し、バブーフ、ブオナロッティらは逮捕され、運動は壊滅させられてしまいます。
 しかし、バブーフは、ギロチンにかけられたものの、当時まだ三四才だったブオナロッティは、その後四〇年間も生きながらえ、『バブーフの陰謀』を著してその意義を宣伝したばかりでなく、フランスの一八三〇年七月革命以後、バブーフ共産主義を広げつづけていったのです。
 ブオナロッティとルソーの関係を物語る象徴的事実を最後に紹介しておきましょう。
 それは、「陰謀」により逮捕されたときの、ヴァンドームの高等法院で行なった、彼の弁論です。
 「ジャン・ジャック(ルソー)は私の恩師であった。平等と人民主権の理論は、私の精神を燃え上がらせた。この時以来、私はヨーロッパ文明社会を圧迫する社会組織を転覆し、そのかわりに万人の尊敬と幸福を保存する秩序を打ちたてることに協力することこそ、善人の義務であると深く確信するにいたった」(平岡、前掲書一四五ページ)。

 

二、パリ・コミューン

秘密結社からの脱皮

 バブーフ、ブオナロッティによって、九三年憲法は、フランス共産主義へと理論的に発展していきました。
 しかし、バブーフの陰謀は、あくまで、「陰謀」にとどまり、ついに実現することはありませんでした。しかも、「秘密総裁政府」によってこの「陰謀」が企てられたことは、その後のフランス共産主義に一定の影を落とすことになります。
 一八四〇年代のフランスにおいては、カベー神父のとなえる「イカリア共産主義」が影響力を持っていました。これは、九三年憲法にもとづく共産主義ではなく、キリスト教を共産主義に結びつけるものでしたが、「秘密結社」という点で、バブーフの陰謀を受けついでいたのです。
 「フランスの共産主義者たちにたいしてなされえたはずの反対は、まだほかにもある。彼らはその国の現在の政府を力でくつがえそうとしていて、彼らがひきつづきとった秘密結社方針によって、このことをしめしてきた。これはたしかにそうなのである。イカリア派でさえ、彼らの出版物のなかでは強力革命や秘密結社をさけると言明しながら、その彼ら自身がこうしたやり方に参加していて、力で共和国を樹立する機会さえあれば喜んでそれにとびつこうとしている」(全集①五二九ページ)。
 しかし共産主義の理論は、バブーフの言葉を借りれば「共同の幸福」を実現する人民解放の理論であり、大多数の人民の利益につながるものです。それを少数の者が、人民大衆に公然と革命を訴えるのではなく(もっともバブーフの場合は、かなり公然とパリ市民によびかけていた様です)、秘密裡に革命を準備するというのでは、それ自体矛盾したものだといわなければなりません。
 一八七一年のパリ・コミューンは、世界で最初の共産主義革命でした。
 「コミューンは、多数の人間の労働を少数の人間の富と化する、あの階級的所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、現在おもに労働奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同労働の純然たる道具に変えることによって、個人的所有を事実にしようと望んだ。・・・・・・もし協同組合の連合体が一つの共同計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば──諸君、それこそは共産主義、「可能な」共産主義でなくてなんであろうか!」(全集⑰三一九、三二〇ページ)。
 パリ・コミューンは、まず第一に、「バブーフの陰謀」を現実の共産主義として実現し、第二に「バブーフの陰謀」のもつ秘密結社性から脱却し、労働者階級の公然たる指導によって、共産主義を実現したという点において、「バブーフの陰謀」よりもはるかに歴史上大きな役割を果たしたのでした。
 そして重要なことは、パリ・コミューンが、九三年憲法の諸原則を受けつぎ、真の人民主権国家とは何かを示すと同時に、真の人民主権国家は、労働者階級の指導のもとにおける「プロレタリアート執権」=労働者階級の権力のもとではじめて実現しうることを明らかにしたことでした。こうして、人民主権とプロレタリアート執権が結合して、世界初の共産主義国家が誕生したのであり、また理論的にいえば、ルソーにはじまる人民主権論が科学的社会主義の理論と結合するに至ったのです。
 それを、マルクスが第一インターの呼びかけとして著した「フランスにおける内乱」(全集⑰二九三ページ以下)を中心にみていくことにしましょう。

パリ・コミューンの成立

 一九世紀のフランスは、フランス革命の余波を受けて、激動の時代に突入します。
 フランス革命のなかで実現した第一共和制は、ナポレオン一世による第一帝政、ナポレオン失脚によるブルボン王政の復活、一八三〇年の七月革命をつうじての、オルレアン王政、一八四八年の二月革命による第二共和制、一八五二年ルイ・ポナパルトのクーデターによる第二帝政が誕生します。
 一八七〇年七月、フランスはビスマルク指導下にドイツ統一をめざすプロイセンに宣戦布告し、ここに普仏戦争が始まります。フランス軍は敗北につぐ敗北で、ついにナポレオン三世は捕虜となり、九月二日降伏します。
 その二日後、パリの労働者は共和制(第三共和制)を宣言し、ここにティエールの率いるブルジョワ共和派の国防政府が労働者の味方を装って誕生します。パリの労働者は、国民軍に結集して、愛国的抗戦と「社会的共和制」の実現を要求するなかで、次第にブルジョワジーの代表であることが暴露されていった国防政府と鋭く対決していくことになります。
 ティエールは、七一年一月降伏協定を締結し、続いてプロイセンの援助のもとに、共和制とパリの労働者を打ち倒そうと、三月一八日その武装解除を試み、これに怒ったパリの民衆は反乱を起こします。
 失敗した政府はヴェルサイユに逃れ、三月一八日パリでは国民軍中央委員会が権力を握り、ここにパリ・コミューンが誕生するのです。

社会的共和制

 パリ・コミューンが、「人民による人民の政府」、「真に国民的な政府であったが、それと同時に労働者の政府」であったことは、すでにお話ししてきたところですが、そこを少し詳しくみてみることにしましょう。
 一八四八年の二月革命のさい、パリの労働者は、「社会的共和制」の実現という要求をかかげていました。それはたんなる共和制という以上の要求を意味していましたが、労働者自身にさえどう解すべきか、はっきり分かっていませんでした。しかし、コミューンにおいては、それが「階級支配そのものをも廃止するような共和制」(全集⑰三一五ページ)を要求するものであることが明確な形をとってあらわれてきました。
 当時「共和制」、という言葉は、第一共和制とそのもとでの九三年憲法を念頭に置いて労働者の要求となっていたところから、人民主権とほとんど同じ意味をもっていたのですが、二月革命以来、労働者は、たんに政治的に人民が主権者となるだけでなく、経済的にも主権者となるために、階級そのものを廃止し、階級支配の機関としての国家そのものを廃止する共和制の意味で「社会的共和制」の言葉を使用するようになったのです。
 マルクスが、「真正の共和制」ですら、「コミューンの終局の目標」(同三一八ページ)ではなく、「それは、本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」(同三一九ページ)と述べた理由もそこにあったのです。
 エンゲルスは、かつて「ほんとうの自由、ほんとうの平等、すなわち共産主義」(全集①五二四ページ)と述べたことがありました。九三年憲法をつうじて、人民主権と自由・平等が掲げられたものの、ほんとうの人民主権、ほんとうの自由・平等を実現するには、政治的解放にくわえて、経済的解放を実現しなければならないことを、パリの労働者は、いまや明確に自覚するに至ったのです。
 「この最後の条件がなければ、コミューン制度は、不可能であったろうし、妄想であったろう。共産者の政治的支配と、生産者の社会的奴隷制の永久化とは、両立することはできない。だからコミューンは、諸階級の、したがってまた階級支配の存在を与えている経済的土台を根こそぎ取り除くための桿杆とならなければならなかった」(全集⑰三一九ページ)。
 こうして、経済的解放のためには、国家権力そのものをつくりかえることが必要になります。
 「コミューンの最初の政令は、常備軍を廃止し、それを武装した人民とおきかえることであった」(同三一五ページ)。
 亡国政府の、共和制と労働者弾圧のためのパリ常備軍は解体され、国民軍中央委員会に改組されます。もはや人民の軍隊となった中央委員会は、人民弾圧の機関ではなく、祖国をプロイセンの侵略から守ろうとする愛国者の集団に変化したので、この「プロレタリア革命は、『上流階級』の革命に、ましてその反革命におびただしくつきまとう暴力行為をまったくおこなわなかった」(同三〇七ページ)。「中央委員会のこの寛大さ──武装した労働者のこの雅量──は『秩序党』の習慣と奇妙なほど食いちがっていたので、『秩序党』はこれを、自覚された弱さのしるしにすぎないと誤解した」(同三〇九ページ)のでした。マルクスは、「この中央委員会の寛大さ」を、反革命にたちあがった「ティエールとその血に飢えた猟犬ども」(同三三三ページ)の、「冷血な大量殺戮」、「年令や男女の区別をつけずに虐殺する見さかいのなさ」、「一階級全体にたいする野蛮な狩りたて」(同三三三ページ)と鮮やかに対比させてみせています。
 こうした、経済的・政治的解放のうえに、いまや人民主権と直接民主主義が開花するに至ります。
 「コミューンは、市の各区での普通選挙によって選出された市会議員で構成されていた。彼らは(選挙人にたいして)責任を負い、即座に解任することができた」し、「行政府の他のあらゆる部門の吏員も同様であった。コミューンの議員をはじめとして、公務は労働者並みの賃金で果さなければならなかった。国家の高官たちの既得権や交際費は、高官たちそのものといっしょに姿を消した」(同三一五ページ)。
 「司法職員は、あのにせの独立性を剥奪されるはずであった。・・・・・・他の公僕と同じように、治安制事や裁判官も、選挙され、責任を負い、解任できるものとならなければならなかった」(同三一六ページ)。
 「普通選挙権は、支配階級のどの成員が議会で人民のにせの代表となるべきかを、三年ないし六年に一度決めるのではなくて、どの雇主でも自分の事業のために労働者や支配人をさがすさいには個人的選択権を役立てるのと同様に、コミューンに組織された人民に役だたなければならなかった。それに会社の場合も、個人と同じに、実務の面では概して適材を適所に配置することを心得ており、たまたま選択を誤っても、すぐにそれを訂正することを心得ていることは、だれでも知っている」(同三一七ページ)。
 こうして、人民主権の国家となったコミューンは、「人民の人民による、人民のための政治」を実現していくことになります。
 「コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった」(同三二三ページ)。
 「すべての教育施設は人民に無料で公開され」(同三一六ページ)、「農民を血税から解放し」(同三二二ページ)、「パン焼職人の夜業を廃止」(同三二三ページ)し、「雇い主がいろいろな口実で彼らの労働者に罰金を科して賃金を切り下げるならわし・・・・・・を、罰則を設けて禁止」(同三二四ページ)したのです。
 もちろん、人間のすることですから、いろんな誤まりは当然生じます。しかし、これまでの「あらゆる古い型の政府のおきまりの属性である無過誤性を主張」するのではなく、「コミューンは自分のすること言うことを、公表し、自分の欠陥をすべて公衆に知らせた」(同三二五ページ)のです。
 人民を信頼し、人民に依拠して、人民のための政治を指向するコミューンにとって、人民に隠さなければならないものは、何ひとつ存在せず、恐れるものも何ひとつなかったのです。
 わたしたちは、いまそれを「何物をも恐れぬ科学的社会主義の精神」とよんでいます。

人間解放の社会

 人民主権論は、基本的に人民の相互信頼と連帯をつうじて、人民は自らよりよい社会を築きうる存在であることを前提にしています。
 ルソーの人民主権論が、自然状態の人間を、すべての構成員が人間としての尊厳をもち自由・平等であると、とらえていたことは先にお話ししたとおりです。
 マルクスも同じように、人間の本質を自由な意識と共同社会性に見出していました。
 しかし、人間関係が希薄化し、孤独感と他人への疑心暗鬼をつのらせ、人間として、仲間同士の連帯感を味わう機会の少ない現代社会において、人間の相互信頼と連帯を前提とする人民主権論は、あまりにも空想的かつ楽観的にすぎるとの意見があるかも知れません。
 しかし、コミューンの現実は、人民が搾取と抑圧から解放され、自分自身と社会の主人公となったとき、どんなに素晴らしい人間群像を生みだしうるか、という人間賛歌をもたらした点でも特筆すべきものでした。社会的存在は、社会的意識を規定するという、唯物論的命題の正しさは、見事に証明されたのです。
 マルクスは、人民の軍隊と階級抑圧の軍隊とを鮮やかに対比してみせましたが、さらにそれを一般化し、社会体制のちがいを、人間性のちがいとして、弁証法的に画き出しています。
 まずマルクスは、コミューンの権力を握った人々を、次のように紹介しています。
 「パリ・コミューンが革命の指揮権をその手ににぎったとき、普通の労働者がはじめて彼らの『生まれながらの上長たち』(註、有産階級のこと)の統治特権をあえて犯して、類例のない困難な状況のもとで、控えめに、良心的に、能率的にその仕事を果した」。しかも「その最高額でさえ、首都(ロンドン)の一労務委員会の書記を雇うのに必要な最低額の五分の一になるかならぬかの給料でそれを果した」(同三二〇ページ)。
 さらに、第一インターと「まったく関係のないある尊敬すべきフランスの著述家」の、次の言葉を紹介しています。
 「国家軍中央委員会の委員や、大部分のコミューン議員は、国際労働者協会(註、第一インター)の会員のうちでも最も活動的な、聡明な、精力的な人物であって、・・・・・・あくまでも正直な、誠実な、献身的な、純潔な、よい意味で狂信的な人々である」(同三三九ページ)。
 人民の政府、人民の軍隊は、人民の真の代表として、人民のなかの最も優れた人民から構成されたし、また、いつでも解任しうる人民主権国家のもとでは、そうならざるをえなかったのです。
 しかし、こうしたすぐれた人物たちを自分たちの真の代表として選出するということは、コミューン下の人民自身が、人間性を全面的に回復した、人間解放の人民となったことを示すものに他なりません。
 「じつにすばらしかったのは、コミューンがパリでなしとげた変化である!第二帝政のみだらなパリは、もはや跡かたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主、アイルランドの不在地主、アメリカの元奴隷所有者や成金、ロシアの元農奴主、ワラキアの大貴族の集合地ではなくなった。もはや死体公示所に一つの死体もなく、夜盗もなく、窃盗もほとんどなくなった。じじつ、一八四八年二月事件以来はじめて、パリの街々は安全になった。しかも、どんな種類の警察もないのにそうなったのである」(同三二五、三二六ページ)。
 パリの街々では、革命の若々しい息吹が生みだしたこうした気高い人々のまえに、犯罪者は真人間となり、犯罪は一掃されただけではなく、人民主権国家・コミューンにふさわしい、崇高な使命感と真に人間味豊かな人間像を生みだしたのです。
 遊女たちが、その保護者たちとともにヴェルサイユに逃れたあと、「彼女たちに代わって、古代の婦人のように雄々しく、けだかく、献身的な、真のパリの婦人がふたたび表面に姿をあらわした。労働し、考え、たたかい、血を流しつつあるパリは、・・・・・・その歴史的創意の熱情にかがやいていた!」(同三二六ページ)。
 「パリの人民は、歴史上に知られたどの戦いにも類例のないほど多くの人数が、熱情をもってコミューンのために死んでいく。・・・・・・パリの女は、バリケードや処刑場で欣然としてその命をすてる」(同三三四、三三五ページ)、その英雄的精神こそ、コミューンが人民自身の政府であることの証明でした。
 五月二一日、ヴェルサイユ軍は、パリに入城。「血の一週間」でコミューンを圧殺、それに続く仮借ない皆殺し作戦。
 「パリの住民が──男も女も子供も──ヴェルサイユ軍の進入後八日の戦いで示した自己犠牲的な英雄精神が、彼らの事業の偉大さを反映しているように、暴兵どもの鬼畜のような行為は、彼らをそのおかかえの復讐者としているあの文明のもちまえの精神を反映している」(同三三三ページ)。
 では、ブルジョワジーの文明のもちまえの精神とは何か。それはコミューン圧殺後のパリが証明しています。
 まだコミューン戦士の虐殺が続いているというのに、早くも「カフェーはアブサン酒や玉つきやドミノ遊びの愛好者でいっぱいになり、ふしだらな女が大通りをさまよい、当世風の料理屋の特別室からきこえる酒宴のざわめきが夜の静けさをみだしているのを見るのは、胸のわるくなることである」(同三三四ページ)。
 マルクスは、コミューン下の「パリのこの新しい世界に対比して、ヴェルサイユの古い世界をみよ」と注意をうながし、「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが偽りであった」(同三二六ページ)と結論づけています。

二〇〇三・八・二