『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より

 

 

第一二講 科学的社会主義の源泉としてのルソー

一、ルソーと科学的社会主義

ルソーの価値ある理論的遺産

 いよいよ最終回となりましたので、これまでのまとめとして、ルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえうるのか、またとらえうるとしたら、科学的社会主義のいかなる構成部分の源泉となりうるのか、の結論に入っていきたいと思います。もちろん、「新メガ」が完成していない状況のもとでの検討という、歴史的制約があることは承知のうえでのことになります。
 第七講で、源泉となるうえでの四つの要素をのべました。もう一度ふり返ってみると第一に、先の理論が後の理論体系の重要な構成部分となっていること、第二に、先の理論が後の理論に保存されていること、第三に、先の理論が後の理論によって否定されていること、第四に以上の結果として、先の理論は後の理論の重要な構成部分となり、しかもより発展させられ、より高度の、またより真理に接近した理論として生かされているということでした。
 こうした観点から、ルソーを源泉として検討するには、あらためて、ルソーの理論のうち、歴史的遺産としての価値をもつ理論的柱は何であったのかを、特定しておかなくてはなりません。
 これまでにのべてきたことを整理してみると、次のようにまとめることができると思います。
 第一は、人民主権論です。ルソーの人民主権論は、たんに人民が国家意志の形成に参加する民主主義ととらえられただけではなく、一般意志という未来の真理をとらえることによる治者と被治者の同一性を実現する理念として、普通選挙にもとづく民主共和制をも批判しうる理論となりました。
 その意味では、ルソーの人民主権論は、フランス革命の理論的支柱になっただけではなくて、ブルジョワ民主主義の限界を明らかにし、資本主義社会をも批判する理論ともなったのです。それは、この人民主権論が、フランス共産主義をつうじて、東ヨーロッパの人民民主主義理論、日本共産党の「国民が主人公」の理論に継承発展させられたことをみても明らかだといっていいでしょう。
 ルソーの人民主権論は、支配・服従の階級社会を否定し、治者と被治者の同一性を一般意志を媒介に実現するという未来の真理をとらえる理論として、人間解放の一般理論になりえたということができます。
 第二に、人間論とそれを基軸とする社会発展論(未来社会論)です。自然法思想によってではなく、自然状態の考察から人間の本質を自由・平等にあるとみたルソーは、私的所有により階級社会に突入し、階級支配の機関としての国家が成立することによって、この人間の本質が疎外されるととらえ、私的所有を廃止することによって真の自由・平等を実現する人民主権国家を未来社会として展望しました。
 これは、当時としては、画期的な社会発展観であり、またジョン・ロックと比較しても突出した未来社会論でした。
 エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、ヘーゲルの社会発展観を社会主義を生みだした「実在的な基盤」として指摘しています。
 ヘーゲルの功績は、「自然的・歴史的・精神的世界の全体が一つの過程として、すなわち、不断の運動・変化・転形・発展のうちにあるものとして叙述されたのであり、またこの運動や発展の内的連関を証明しようとする試みがなされたのである」(全集⑲二〇二ページ)。
 ヘーゲルは、この観点から、人類の歴史における「あらゆる外見上の偶然性をつらぬくこの過程の内的法則性」(同二〇三ページ)を指示しようとします。
 では、人類発展の「内的法則性」とは何か。ヘーゲルは、それを自由の発展ととらえました。
 「世界史とは自由の意識の進歩を意味するのであって、――この進歩をその必然性において認識するのが、われわれの任務なのである」(ヘーゲル『歴史哲学』上、四四ページ岩波書店)。
 「世界史は自由の意識を内実とする原理の発展段階を叙述するものである」(同九三ページ)。
 エンゲルスは、社会を発展するものとしてとらえたところに、ヘーゲルの「画期的な功績」(同二〇三ページ)を見いだしていますが、ヘーゲルの社会発展観と比べてみても、ルソーの社会発展観は、はるかに高度の、かつ史的唯物論に接近した理論だということができます。
 また、ルソーの未来社会論は、生産手段の社会化による搾取の廃止、より高度の平等の実現として、社会主義・共産主義をも展望するものであり、フランス共産主義を生みだすことにつながっていったのでした。   
 第三に、個人の尊厳と人権思想です。ルソーは、人間の本質を自由な意識にあるととらえると同時に、この本質を保ってこそ人間だということができるとの立場から、個人の尊厳と自由を主張し、それを否定する服従契約、奴隷契約を厳しく批判して、自由・平等な人間関係の社会を主張しました。
 それは、近代的な自我の目覚めを主張するものであり、その自由・平等論は、その後の人権思想へと発展していきました。人間は人間として、人間であるだけで尊重されるべきであり、生まれながらに自由・平等であるという人権思想は、現代の発展した人権思想の中核をなすものとなっているのです。

人民主権論の継承・発展

 では、これらのルソーの価値ある理論的遺産は、果たして、「否定されつつより高度の理論」として、科学的社会主義の理論に継承発展させられているのかどうか、を検証してみることにしましょう。
 まず最初に人民主権論からみていきます。
 ルソーの人民主権論には二つの側面があります。一つは、治者と被治者の同一性を実現するという側面であり、これは、人民が主人公、あるいは「国民が主人公」の社会を実現するという命題につながるものです。ルソーは、この目的を実現するために、社会契約国家の成立という政治的変革が必要だと考えたのでした。
 もう一つは、人民主権というためには、全体意志を一般意志にまで高めねばならないという側面です。人民の一般意志は、人民の真にあるべき意志、真にあるべき政治を求める未来の真理を示す意志です。この未来の真理である一般意志をいかにして形成していくのかは、一箇の大きな問題であり、ルソーは、神にも等しい天才でもでてこない限りそれは不可能だろうと考えていました。
 この二つの側面から、ルソーの人民主権論と科学的社会主義の関係をみていくことが必要となります。
 まず治者と被治者の同一性の側面から、人民主権論と科学的社会主義の関係をみていきましょう。
 ルソーは、人民が主人公となる人民主権国家は、政治的変革によって実現されると考えていました。
 しかし、政治的な変革のみでは、けっして真に人民が主人公となる人民主権国家を実現することはできません。フランス革命によって権力を掌握したブルジョワジーは、人権宣言をも武器として資本主義的生産様式を発展させましたが、同時にそれは新たな富と貧困の対立を生みだし、一方ではブルジョワジーによる支配と、他方ではプロレタリアートの従属と抑圧を生みだしたのです。エンゲルスが、「理性の国家、ルソーの社会契約は、ブルジョワ的民主共和国としてこの世に生まれでたし、またそのようなものとして生まれでるよりほかはなかった」(全集⑲一八七ページ)と指摘したのも、経済的改革を抜きにした、政治的改革の限界を示したものといってよいでしょう。
 ルソーは、社会契約における全面譲渡論によって、生産手段の私的所有を廃止するという経済的改革の方向も指し示してはいたのですが、その点の詳しい説明は不足していたところから、同時代の人々は、もっぱらルソーの社会契約論を政治的変革の面からのみとらえていました。そのうえルソーは、全面譲渡論を主張しながらも、「社会状態が人々に有利であるのは、すべての人がいくらかのものをもち、しかも誰もがもちすぎない限りにおいてなのだ」(『契約論』四一ページ)と述べることによって、生産手段の私的所有の廃止という生産様式の問題ではなく、たんに所有の平等という分配様式の問題だと主張するにとどまるような曖昧な表現もしていました。
 そこから、サン=キュロットも、はじめはルソーの平等論を「所有権の廃絶でなく、財産が多すぎも少なすぎもしないこと、極端な貧富の差をなくすること、つまり中庸をえた貧乏、ないし生存権の保証」を意味するものととらえていたのですが、「極度の食糧危機とはなはだしいインフレーション、貧富の懸絶という総裁政府下の現実に押されて、右の主張は、『エゴイズムの体系』には無力であるとさとり、サン=キュロットは所有権の制限から廃絶に進むことにな」ったとされています。(平岡、前掲書三六ページ)。
 ルソーが不平等の根源を私的所有に求め、不平等の解決として、社会契約にもとづく人民主権国家をとらえていたことからすると、サン=キュロットの当初の理解は、ルソーの誤解ではないかと思われますが、いずれにしてもルソーのいう人民主権国家は、生産手段の社会化を実現しえないかぎり、「ブルジョワ的民主共和国」にとどまらざるをえないことが歴史の進展をつうじて明らかになったところから、フランス共産主義が生まれることになります。
 しかし、フランス共産主義は、人民が主人公となるためには、私有財産の廃止が必要であるとして、ルソーではややあいまいだった私的所有の廃止をうち出したものの、それは深い経済的研究に裏付けられたものではなく、粗雑なものにとどまっていました。
 ここに経済学的な科学のメスを加え、剰余価値学説によって搾取の秘密を明らかにするとともに、生産手段の社会化という経済的改革によって、搾取をなくすことにより、はじめて人民が真に主人公となり、治者と被治者の同一が実現できる社会となるとしたところに、ルソーの人民主権論を止揚した科学的社会主義の功績があります。それは、本来政治的改革とあわせて、経済的改革が必要であるという意味に理解されるべきものでした。
 こうして、科学的社会主義の学説は、ルソーの人民主権論をより発展させ、治者と被治者の同一を現実のものとする道筋を明らかにしたのです。
 人民主権論のもう一つの側面である、未来社会の真理の探究と科学的社会主義の関係をみてみましょう。
 人民が主人公という場合、いちばんの問題は、ヘーゲルにいわせれば「不定型の塊り」ともいうべき人民は、常に正しい選択をする訳ではなく、暴走する危険性をもっているということです。民主主義とは衆愚政治であるとの批判も、人民主権論への批判として、一面正しい側面をもっているのです。
 それだけに、人民の全体意志を正しく一般意志へと導く、未来の真理への導き手の存在が不可欠の問題となってきます。ルソーは、それを神にも等しい天才的個人としてとらえることによって、人民主権国家を天才的個人の登場を待つ偶然の所産にしてしまいました。
 マルクスは、この人民の意志と未来の真理へ導く導き手を、フランスにおける階級闘争の現実をつうじて労働者階級に見出すことによって、ルソーの一般意志の導き手の問題、ひいては人民主権の問題を偶然的なものから必然的なものへと発展させたのです。
 それが「プロレタリアート執権」論に他なりません。
 さらに、マルクスは、一人ひとりの労働者を、階級としての労働者、つまり労働者階級に組織することは、労働者階級の政党を組織することをつうじてのみ可能であることを明らかにしました。プロレタリアート執権論は、科学的社会主義の政党の指導にもとづく労働者階級の権力として位置づけられ、未来の真理探究者として、科学的社会主義の理論で武装した政党の役割が明確にされるに至ったのです。
 こうして、科学的社会主義の政党に結びついたプロレタリアート執権論は人民主権論と結合することにより、人民が主人公となる人間解放の社会への展望が、科学的に導き出されることになりました。
 しかし先にものべたように、プロレタリアート執権論は、本来人民主権論を空想から科学へ転化する理論であり、人民主権論の一部分ともいうべき理論であったにもかかわらず、それが、人民主権論から切り離されて一人歩きを始めるようになってしまいました。
 そしていわば、その本体部分ともいうべき人民主権論の方が後景にしりぞいてしまったのです。
 この問題の解決は、ソ連という歴史的巨悪の崩壊を受けて、現代の科学的社会主義の学説と事業にもちこされることになり、それがいま日本共産党の改定綱領で解決されようとしているのです。

人権思想の継承・発展

 第九講でもお話ししたように、マルクス、エンゲルスは、彼らが科学的社会主義の立場に脱皮する以前には、民主主義者として、歴史の舞台に登場し、リンカーンへの理解にみられるように人権宣言の擁護者であることを明確に打ち出していました。
 しかし、マルクスの若いときの関心が、フランス共産主義にみられる政治優先の考えを批判し、政治や法よりも、経済の方が社会を動かすより根本的原因となっていることを強調することにあったところから、若い頃の論文が、経済的変革を一面的に強調するものとなり、「ユダヤ人問題によせて」にみられるように、結果的に政治的改革としての人民主権論や人権思想の評価を一面的なものにしたことは否定できません。
 マルクスは、経済学の研究に向かった経緯を自分自身で次のように語っています。
 「私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、一八四四年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことであった。すなわち、法的諸関係ならびに国家形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解されるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根ざしているものであって、これらの諸生産関係の総体をヘーゲルは、一八世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、『市民社会』という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない」(「経済学批判序言」全集⑬六ページ)。
 一八四四年の「独仏年誌」のなかに、第九講でとりあげた論文「ユダヤ人問題によせて」が掲載されていたのです。この論文の基調は、フランス革命という政治的革命の限界を指摘し、それとあわせて「市民社会」の革命、つまり経済的変革の必要性を強調するものとなっており、全体として九三年憲法の人民主権論、人権思想には十分な光があてられていません。
 すなわち、人間は市民社会のなかでは「一個の世俗的存在」にすぎない。「これに反して、人間が類的存在だと考えられている国家のなかでは、人間はある仮想的主権の空想的成員であり、その現実的な個人的生活をうばわれて、人間は非現実的な普遍性でみたされている」(全集①三九三ページ)。「政治的革命は、市民生活をその構成部分に解消するが、これらの構成部分そのものを革命し批判することはしない」(同四〇六ページ)。
 フランス革命という「政治的革命」によって、人間は主権者とされ、普遍的な人権をもつものとされましたが、その主権は「空想的主権」にすぎず、人民は「空想的成員」としての主権者にとどまり、「市民社会」における「現実的な個人的生活」においては、搾取され、抑圧されるがままの「一個の世俗的存在」にすぎない、との批判です。
 それは、マルクスが「経済学・哲学手稿」(全集40)のなかで、ヘーゲル『法の哲学』の批判を「まとめて一つの著作に押しこむ』ことには無理があるとして、「さまざまな独立の小冊子のかたちで法、道徳、政治等々の批判をつぎつぎに出し、そして最後に一つの別箇の著作においてさらに全体の連関、個々の部分の関係、そして締めくくりとしてあの材料の思弁的加工の批判を示すよう試みるつもりである」(同三八七ページ)としているところからも、うかがうことができます。
 マルクスの政治革命への批判は手厳しいものがあります。しかしマルクスのためにあえて弁明をするなら、マルクスの史的唯物論は、けっして社会を経済的諸関係のみにおいてとらえるものではありません。まず社会全体を「経済的社会構成体」としてとらえ、土台としての経済的諸関係の総体と、上部構造としての法的、政治的諸制度、社会的意識形態という立体的構造をもつことを明らかにしたものでした。
 こうした観点からすると、マルクスは、経済学の研究が終わったら、もう一度法的、政治的諸制度の問題に立ち返り、トータルな資本主義という経済的社会構成体と、その矛盾を止揚した社会主義・共産主義という経済的社会構成体を解明したかったのではないでしょうか。
 しかし、マルクスには、『資本論』すら完成する時間が残されていませんでしたから、もう一度、法的、政治的諸制度の研究に立ち戻ることはできませんでした。『資本論』には、未来社会についても、簡潔ながら示唆に富む叙述が散見されます。エンゲルスは、『資本論』を「マルクスの経済学的=社会主義的見解の基礎」(全集⑲一〇八ページ)を叙述した著作だとして紹介しているほどです。『資本論』における「社会主義的見解」は、いずれも基本的には、搾取も抑圧もない真に平等で自由な人間関係からなる共同社会を展望しています。しかしそれは経済的分析の観点から政治的内容にも言及したというにとどまり、政治的結論のみを数行の文章で示した、あくまで「社会主義的見解の基礎」の解明にとどまっています。これは、『資本論』で資本主義的生産様式の分析が完了したら、資本主義的法と政治の本格的分析にはいることを予告しているようにも思えるのです。
 エンゲルスも、また晩年『資本論』の第二巻、三巻の完成に追われて、資本主義的法と政治についての本格的な論述は、わずかに『反デューリング論』にみられる程度にとどまっています。しかも『反デューリング論』では、自由論を、「自由とは必然性の洞察である」とする見地から取りあげているのみであり、近代市民社会の人権思想としての自由論が本格的に論じられないままとなっていたことから、その後の科学的社会主義の自由論を一面的なものにする要因ともなっていったのです。
 また、マルクス、エンゲルスが、人民主権論や、自由・平等を中心とする人権思想、個人の尊厳などの課題を含む人間論、政治論について、若いときにはこれらの問題について縦横に触れながらも、それ以降本格的に取り組まれていないことは、その後の科学的社会主義の学説を一面的なものに歪曲させる余地を残しました。
 科学的社会主義の理論は、本来「経済的社会構成体」という概念により、社会とそれを構成する人間とを、政治、経済、法律、文化、イデオロギーの総体としてとらえ、しかもそれを弁証法と史的唯物論という科学的手法によって現在および未来の真理においてとらえる学説です。レーニンが、「マルクスの学説は、正しいので全能である」(レーニン全集⑲三ページ)とのべているのは、人間と社会について、個々の構成部分も含めてトータルに真理を認識しうる学説であることを明らかにしたものです。したがってそのなかに、人間論、政治論が含まれるべきことはいうまでもありません。それは、当然それまでの価値ある歴史的遺産を継承発展させた人間論、政治論として登場してくることになったでしょう。
 マルクスは、若いときの論文「ミル評注」(全集40 三六一ページ以下)や「一八四四年の経済学・哲学手稿」(同三八五ページ以下)において、人間論、人間疎外論を論じていますし、『資本論』草稿のなかで、「個の発展」に関する歴史的考察も行っています(「経済学批判要綱」第一分冊八三ページ大月書店)。
 これらは、いずれも人間の本質、個人の尊厳などの人間論に関し貴重な問題提起となってはいるものの、後年これらの問題提起を深める研究はなされないままにとどまっています。
 人民主権論、人権思想、個人の尊厳などの問題は、マルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の学説と事業を引きついだ、その後の科学的社会主義の運動に引きつがれることになりました。
 あえて誤解をおそれず単純化していえば、ルソーは、人民が主人公という人間解放の社会を、政治的改革により実現しようとしたのにたいし、マルクスは、この人間解放の社会を政治的改革と経済的改革の統一として実現しようと考えながらも、それを十分には果たしえず、結局経済的研究も未完に終わり、政治的改革の問題には、本格的にふみこみえなかったといえるのではないでしょうか。
この問題の解決もまた、日本共産党の手に委ねられることになったのです。

 

二、科学的社会主義の今日的到達点

日本共産党の改定綱領

 今日の日本共産党の改定綱領は、四三年前(一九六一年)にきめられた綱領路線の真価が、資本主義の枠内での民主主義革命にあることをあらためて確認すると同時に、民主主義革命のより発展した先に、資本主義の古い枠組みをこえる未来社会、つまり社会主義・共産主義の日本を展望するものとなっています。いわば資本主義のもとでの自由と民主主義を、政治、経済、文化、社会の全体にわたって推し進めたその先に人民解放の社会主義・共産主義の社会があらわれてくるととらえています。
旧綱領では、この民主主義革命が、「独立・民主・平和・非同盟中立・生活向上の日本をきずく人民の政府、人民の民主主義権力」の確立をめざすものであり。そのもとで日本国民は「はじめて国の主人公」となることが明らかにされていました。そしてこの民主的日本の先に、「真に平等で自由な人間関係の社会」、共産主義社会が展望されていました。
 今回の改定では、この趣旨がより明確にされ、「国民が主人公」という理念が民主主義革命の段階のみならず日本の未来社会全体をつらぬくテーマとして強調されるに至っています。
 「社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる。『搾取の自由』は制限され、改革の前進のなかで廃止をめざす。搾取の廃止によって、人間が、ほんとうの意味で、社会の主人公となる道が開かれ、『国民が主人公』という民主主義の理念は、政治・経済・文化・社会の全体にわたって、社会的な現実となる」。
 不破氏は、この「国民が主人公」の社会の意義について、「一口でいって、『資本が主人公』の社会から、『人間が主人公』の社会に変わる」ことだと説明しています(日本共産党創立八一周年記念講演)。
 また改定綱領では「社会主義的変革は、短期間に一挙に行われるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である」とされていますが、この点について、不破氏は、社会改革をするとき「国民の合意を先行させる。これは当たり前のことであります。『人間が主人公』の社会をつくろうというのに、国民をそっちのけにした、勝手なことができるはずがありません」(前記記念講演)とのべています。
 いわば、民主主義的変革から社会主義的変革に至るすべての過程において、「国民が主人公」の立場をつらぬき、社会主義、共産主義の日本において、「人間が、ほんとうの意味で社会の主人公」、本当の意味で、「国民が主人公」となるというものです。

「国民が主人公」の源泉・ルソー

 では、日本共産党が、未来社会を「国民が主人公」としてとらえる理念の源泉になるものは何かといえば、それはルソーの人民主権論ということになるのではないでしょうか。なるほどロックも人民主権論を唱えましたが、それはあくまで、資本主義擁護論としての人民主権論であり、資本主義の未来社会まで展望しうる人民主権論は、ひとりルソーのものであるといっていいでしょう。
ルソーの人民主権論は、人民が真に社会の主人公にならねばならないという積極的側面をもちながらも、それを政治的改革を中心に考えていました。しかし科学的社会主義では、社会の土台が経済的諸関係にあることを明らかにし、政治的改革のみでは、社会改革は完成しないと考え、人民が主人公の社会は政治的改革と経済的改革の統一として実現しなければならないとしてとらえました。しかしマルクス、エンゲルスの時代には、経済的改革こそが根本的条件であることが強調された反面、人民主権の政治的改革の意義が過小評価されていました。また、ルソーの人民主権論のもう一つの側面である未来の真理としての人民の意志導き手論は、プロレタリアート執権論によって必然的なものに転化しながらも、それが人民が主人公の見地と結合した理論であることの指摘が明確でないという問題をかかえていました。
 例えばマルクス・エンゲルス全集「別巻④」の「事項索引」をみてみると、「人民大衆(人民)」という項目はあっても、「人民主権」という項目は存在しません。
 マルクスは、一八四八年のドイツ革命において普通選挙にもとづくフランクフルト議会が誕生したとき、「国民議会の第一の行為は、ドイツ人民のこの主権を、声高らかに、公然と宣言することであるべきだった」(全集⑤一二ページ)として、人民主権という概念を使用していますが、同じ普通選挙にもとづいて誕生した一八七一年のパリ・コミューンについては、人民主権という概念は使用していません。
 思うに、一九世紀前半のフランスの階級闘争の前進をつうじて、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争が顕在化するなかで、マルクス、エンゲルスは、人民が主人公の見地は、パリ・コミューンの評価にみられるように一貫して堅持しながらも、プロレタリアート執権論を確立することにより、それ以降没階級的な概念である人民主権の用語の使用は、階級闘争の学説にふさわしくないという思いがあったのではないでしょうか。エンゲルスが一八四八年以降、「『人民』のなかに隠れている対立的要素」を無視して、「人民」の勝利を予期する者を、「俗流民主主義者のいだく幻想」と批判していることもそのことを推測させるものとなっています(全集⑦五二一ページ)。
またそのことは、まだ普通選挙権が一般的制度として定着せず、議会をつうじての多数者革命が現実的政治課題となりえていない状況のもとでは、ある程度止むをえないことだったのではないかと思われます。
 しかし今日のように普通選挙権が普遍的価値をもつものとして全世界的に承認されているという状況からすれば、あらためてプロレタリアート執権論と「人民が主人公」の見地の統一を強調する必要があるというべきものでしょう。
 日本共産党は、ルソーの人民主権論を二つの側面から止揚しただけでなく、これまでの科学的社会主義の理論の不十分さをも、二つの側面において克服したということができます。
 すなわち、社会主義・共産主義の日本は、一つには生産手段の社会化による「搾取の廃止」を実現するのみならず、政治的にも「人間が本当の意味で、社会の主人公となる」社会であり、二つには、人民の真にあるべき政治の探究は、労働者階級の権力(社会主義をめざす権力)によっておしすすめられるものではあっても、労働者階級のみならず国民全体の合意のもとに一歩づつ社会発展をすすめていくという意味でも「国民が主人公」の社会だとされているのです。

自由と民主主義の源泉・ルソー

 日本共産党が一九七六年に発表した「自由と民主主義の宣言」(一九八九年補正、一九九六年一部改訂)は、科学的社会主義の学説と自由と民主主義の関係を本格的に解明した論文となっています。
 そこでは、科学的社会主義の学説と運動は「自由と民主主義の問題でも、近代民主主義のもっとも発展的な継承者、国民の主権と自由の全面的で徹底した擁護者」であり、「あらゆる搾取から解放された、真に平等で自由な人間関係の社会――共産主義社会の建設を根本目標」としていることがまず明らかにされています。
 ここで、「科学的社会主義の学説と運動」としていることは、マルクス、エンゲルス、さらにはレーニンの学説と運動に限定するものではなく、その後の全世界の科学的社会主義の学説と運動を射程に入れた議論を展開しているからに他なりません。
 「宣言」は、アメリカの独立宣言やフランス人権宣言をつうじてうちたてられた近代民主主義の諸原則が、「最初から多くのブルジョワ的制約と限界をもっていた」として、次のように述べています。
 「アメリカの『独立宣言』(一七七六年)やフランスの『人権宣言』(一七八九年)で、国民主権が宣言されたが、選挙権ひとつとっても、女性をふくめてすべての国民に参政権を保障する普通選挙権が、主要な資本主義国に確立するまでには、それ以後、百数十年にわたる各国人民の努力が必要だった。国民の自由と人権の問題でも、フランス革命当時は、労働者の団結やストライキは、革命政府自体によって『自由と人権宣言』をおかす犯罪として禁圧された。労働者の団結権やストライキ権が、近代国家における当然の民主的権利として一般的に確認されるまでには、政府とブルジョアジーの暴圧に抗しての、労働者階級の長期にわたる不屈の闘争が必要だったし、この闘争は、今日の日本においても、なお継続されている」。
 こういう自由と民主主義を発展させる人民の長期にわたる闘争に、科学的社会主義の事業は、最も重要かつ先進的貢献をおこなってきたのです。
 それは科学的社会主義の学説と事業が、近代民主主義にもとづく人民の政治的解放に満足することなく、搾取制度の廃止による経済的、社会的解放による、真の人間解放を目指すものだったからに他なりません。
 こうした自由と民主主義の今日的到達点のうえにたって、改定綱領は、「社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる」と規定されるに至っているのです。
 ルソーの打ちだした個人の尊厳と自由・民主主義の思想は、いま日本共産党の綱領に継承・発展させられているのであり、この点でもルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえることができるのです。

科学的社会主義の源泉としてのルソー

 こうしてみてくると少なくとも、日本における科学的社会主義の学説からみる限り、ルソーをその源泉として正面からとらえることが求められているということができます。
 ルソーの人民主権論は、「国民が主人公」の側面からも、プロレタリアート執権論の側面からも、日本における科学的社会主義の学説の源泉となっています。それだけではなく、その人間論、個人の尊厳、自由・平等を中心とする人権思想、さらには社会発展論においても、また源泉になっているということができます。
 ある意味で、ルソーは、「資本主義時代の価値ある成果のすべて」の要素をもっているといっても過言ではないのです。
 第一講で、エンゲルスが、「近代の社会主義は、……その理論上の形式からいえば、それは、はじめは、一八世紀の偉大な啓蒙思想家たちが立てた諸原則を受けついでさらに押しすすめ、見たところいっそう首尾一貫させたものとして現われる」(全集⑲一八六ページ)とのべていることを指摘しました。いまでは、この「フランスの偉大な啓蒙思想家たち」という箇所を「ルソー」に置き換えて読むことも許されるのではないかと考えるものです。
 日本の「自由民権運動」を支えたイデオロギーは、ルソーの思想であり、その日本における代表者は中江兆民でした。自由民権運動のなかで「国民主権」の主張もうまれ、人民による憲法の制定、思想・集会・結社の自由を求めるたたかいが展開されました。そして、この人民の自由と権利のための闘争は、労働者階級によって引きつがれ、やがて片山潜、幸徳秋水らによる、わが国最初の社会主義政党「社会民主党」結成へとつづいていくのです。兆民の一番弟子であった幸徳が社会主義者となったのは、堺利彦が述べたように「自然の道程」だったのです。
 フランスでルソーの思想を継承・発展させて、フランス共産主義が誕生したのと同様に、日本でも、ルソーの思想から最初の社会主義政党が誕生したのです。
 マルクスは、「ヘーゲル法哲学批判」のなかで次のようにのべています。
 「理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えるように論証をおこなうときであり、理論が人に訴えるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、物事を根本からつかむことである」(全集①四二二ページ)。
 ルソーは、もっともラディカルに人民主権論を訴えたところから、人民主権論は、フランス革命当時のみならず、資本主義社会において人民解放を求める大衆をつかむ理論ともなりました。
 「ルソーは、フランス革命の精神をもっともラディカルな形で代表するとともに、さらに一九世紀の社会主義者に先駆する者と見られ得るであろう」(野田又夫「ルソーの哲学」『ルソー研究』五九ページ)。
 こうして、ルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえることによって、逆に、人民主権論や人権思想、個人の尊厳などを、科学的社会主義の不可欠の構成部分として位置づけうることにもなるのです。
 日本共産党の改定綱領は、ある意味で今日的意味での科学的社会主義の理論の到達点を示すものといっていいでしょう。
 この綱領を、ひとり日本共産党の独自の理論としてではなく、科学的社会主義の学説の根本理論に直接立脚するものとしてとらえるためにも、いまルソーを科学的社会主義の学説の源泉としてとらえることが必要であり、それはまたマルクス、エンゲルスの果たしえなかった政治的改革と経済的改革の統一という課題を実現することにもなるものといっていいでしょう。

ルソーはいかなる構成部分の源泉となるのか

 さて、以上みてきたように、ルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえうるものとした場合、それでは、科学的社会主義の学説のいかなる構成部分の源泉としてとらえるべきかの問題が残されています。
 レーニンの定式化を前提にすると、ルソーは、空想的社会主義者または、フランスの階級闘争に理論的武器を提供したものとして、「階級闘争の学説」の源泉ということになるかもしれません。
 しかし、階級的視点が十分でなく、小商人、小手工業者、職人、労働者、小農などの被抑圧階級を、一まとめにして「人民」と称したルソーを、果たして「階級闘争」の学説の源流となしうるのかについては疑問が残るといわざるをえません。また仮にルソーを空想的社会主義者としてとらえうるものとしても、マルクス、エンゲルスは、サン・シモン、フーリエ、オーエンを科学的社会主義の源泉としてはとらえていなかったことはすでに見てきたところなので、ルソーのみを空想的社会主義者として「階級闘争の学説」の源泉としてとらえるべきかの問題もあるでしょう。
 第七講でもふれたように、史的唯物論をして「経済的社会構成体」という概念により、人間と社会とをトータルにとらえる理論だとするならば、科学的社会主義の学説は人間と社会の全分野をその構成部分として包括する理論でなければなりません。科学的社会主義の学説の構成部分としては①哲学、②経済学、③政治・法学、④社会主義・共産主義の学説、⑤階級闘争の学説という五つの部分が最低限必要となるものと思われます。
 ルソーを源泉としてとらえる場合に、レーニンの定式に無理矢理押し込むのではなく、あらためて、この五つの構成部分を念頭において検討してみることにします。
 まず第一に、ルソーは、科学的社会主義の政治・法学の源泉としてとらえることがとりわけ重要になっています。
 科学的社会主義の政治・法学の内容をなすのは、(イ)個人の尊厳と自由・民主主義論を中心とする人権論、(ロ)国家の成立と本質に関わる国家論、(ハ)人民主権論を柱とする主権論、(ニ)革命とは何かを論ずる革命論などになるものと思われますが、ルソーは、これらのほとんどすべての項目にわたって、源泉として位置づけられることになります。
 第二に、ルソーは、科学的社会主義の哲学、弁証法的唯物論と史的唯物論の源泉としてとらえることができます。
 ルソーの人間論は、唯物論の見地から人間の本質を探究したものとして、科学的社会主義の哲学における人間論の先駆となるものです。
 またルソーの五段階の社会発展論は、エンゲルスが『空想から科学へ』で引用しているヘーゲルの社会の発展観よりもはるかに唯物論的であり、また史的唯物論に接近していますので、史的唯物論の源泉として位置づけうるものと思われます。
 第三に、ルソーは社会主義・共産主義の学説にとっても、その源泉として位置づけられるべき存在です。
 本来、社会主義・共産主義とは人間が主人公となる人間解放の社会です。人間は、この未来社会において、人間の類本質である個人の尊厳、自由と民主主義を全面的に開花させることになるのです。
 ところが、二〇世紀に社会主義への道をふみだしたソ連や東欧では、レーニンの民主主義における理論的偏向とスターリンによるその誤りの固定化により、実際には、社会主義とは無縁の人民抑圧国家に転化してしまい、当然ながら歴史の審判にたえかねて崩壊してしまいました(詳しくは『人間解放の哲学』参照)。
 科学的社会主義の学説から大きく逸脱したソ連や東欧の誤った姿によって、社会主義・共産主義の理念は、あたかも自由と民主主義を否定し、人間性を否定する理論であるかのような偽りの衣を被せられてしまいました。
 一九世紀から二〇世紀前半にかけて、社会主義・共産主義の理念は、資本主義社会の矛盾と苦難にあえぐ労働者をはじめとする人民にとって、希望に満ちた未来をさし示すものでした。それが本来の科学的社会主義の学説だったのです。
 いま「社会主義」はようやくその偽りの衣をぬぎすて、日本共産党の綱領にその本来の姿を示すに至っています。この綱領が科学的社会主義の学説を正統に継承しその今日的到達点を示すものであることを明らかにするためにも、ルソーを源泉としてとらえ返すことが求められているのです。
 二一世紀の日本は、八方ふさがりの閉塞感につつまれた状態としてスタートしました。この日本を希望にあふれる日本に再生するために、あらためて科学的社会主義の学説と事業に光があてられなければなりません。またその指し示す方向以外に、この閉塞感から抜け出す道は存在しないと言っていいでしょう。
このことを今一度強調し、「真理のために命をささげる」をたんに座右の銘としたにとどまらず、文字どおり生涯をつうじてつらぬいたルソーに最大の敬意を表して、本講座のまとめとさせていただきます。

二〇〇四・ニ・一八 (二・ニ六)