『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より

 

 

第三講 社会発展論


一、自然状態から社会状態へ

自然状態

 第二講で、『不平等論』は、第一部で人間論、第二部で不平等の起原を考察していることを紹介しました。それを別の角度からいうならば、第一部では、自然状態の人間、第二部で社会状態の人間を考察してることを意味しています。自然状態において自由、平等であった人間が、社会状態に突入することによって、いかに不平等に転じているのか、また社会発展にともなって、自由と平等は、どのような制約を受けるのかが、検討されることになります。
 こうして『不平等論』『契約論』は、ルソーの社会発展観を示すものともなっています。
 ルソーは、まず『不平等論』において、社会発展の第一段階を自然状態としたうえで、次の社会状態をさらに細区分して、第二段階として自然的社会状態、第三段階として階級的社会状態、第四段階として偽の社会契約国家に分けています。さらにこの社会状態を抜けだした第五段階を、『契約論』のなかで真の社会契約国家としてとらえています。ルソー自身がこういう名称を使って時代区分しているわけではありませんし、研究者によってルソーの時代区分をどのようによぶか、また、その時代区分を四段階とすべきか、五段階とすべきか、六段階とすべきか、いろいろ議論があります。各時代の名称及びこの区分の仕方はとりあえず筆者独自のものであることをお断りしておきます。なぜこのような名称で時代区分し、五段階説をとるかは、以下の論述のなかで明らかにしていきたいと思います。

自然的社会状態

 先にみたように人間の自然状態は、「何も所有しない」時代でした。
 やがて人間は、その「自己改善能力」により、「新たな工面工夫」を重ねていきます。「海や川の沿岸では、彼らは糸と針とを発明し、漁夫となり魚食民族となった。森のなかでは彼らは弓と矢とをつくり、狩人となり、戦士となった」(『不平等論』八七ページ)。
 やがて人類は火を用い、言語を使い、住居を改善し、やがて家族が生まれ、群れをつくって生活するようになります。
 ルソーは、この時代を「一種の私有財産を導き入れた最初の革命の時代」(同九〇ページ)とよんでいます。生産力の一定の発展により、私有財産は生まれるのですが、それはまだ構成員の共有にすぎないという意味で、「一種の私有財産」とよんだものでしょう。
 何も所有しない自然状態から、何ものかを所有する時代に移行したことからすれば、社会状態への移行といえますが、まだ自然状態に保っていた自由と平等という人間の本質は疎外されていないことからすれば、自然状態が持続しているとみることもできますので、この時代を「自然的社会状態」と名付けることにします。
 自然的社会状態の一つの特徴は、この段階で、人間社会が誕生するとされていることにあります。ルソーは、自然状態の人間は、個々バラバラな原子論的個人だったと考え、人類の一定の発展段階で初めて人間社会が誕生すると考えたのです。今日的な歴史的認識からいえば、人類は、社会を持つことによってチンパンジーから区別されるようになったと考えられていますから、人間は、最初から社会とともにあり、人間が社会をつくり、社会が人間をつくったというべきものでしょう。
 そのような批判があるとしても、この「自然的社会状態」そのものは、原始共産制社会をとらえたものとして、今日的意義をもつものです。
 ルソーは、この時代を、「もっとも幸福でもっとも永続的な時期」、「人間にとって最良の状態」(九五ページ)と讃え、「この状態は真に世界の青年期」(同九六ページ)であったとしています。
 「人々がその粗末な荒屋で満足していたかぎり、また彼らがその毛皮の衣服を棘や魚の骨で縫い、鳥の羽や貝殻で身を飾り、からだにいろいろな色を塗り、その弓や矢を完成したり美しくしたりし、よく切れる石でいくつかの漁業用の丸木舟や粗末な楽器類を作りあげるだけに止まっていたかぎり、一口でいえば、彼らがただひとりでできる仕事や、数人の手の協力を必要としない技術だけに専心していた限り、彼らはその本性によって可能だった程度には、自由に、健康に、善良に、幸福に生き、そしてたがいに、独立の状態での交流の楽しさを享受しつづけたのであった」(同九六ページ)。
 しかし、この「もっとも幸福」で、「人間にとって最良の状態」は、協業にもとづく生産力の発展によって、終りを告げ、第三段階の「階級的社会状態」というおそろしい時代に突入していくことになるのです。

階級的社会状態

 ルソーの筆は、にわかに活気を帯び、後世に残る名文句で時代の告発を始めます。
「ところが、一人一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えを持つことが有効であると気づくやいなや、平等は消え失せ、私有が導入され、労働が必要となった。そして広大な森林は美しい原野と変って、その原野を人々の汗でうるおさなければならなかったし、やがてそこには収穫とともに奴隷制と貧困とが芽ばえ、生成するのが見られるようになった。
 治金と農業とは、その発明によってこの大きな革命を生みだした二つの技術であった。人間を文明化し、人類を堕落させたものは、詩人からみれば金と銀とであるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである」(同九六、九七ページ)。
 生産力の発展は、私有財産を生みだし、平等を消滅させ、奴隷所有者と奴隷という階級の対立をもつ階級社会を生みだしていったのです。そこでこの状態を「階級的社会状態」と名づけることにしました。
 私有財産の対象となるべき最大のものは、土地でした。『不平等論』の第二部は、次の有名な文章から始まっています。
 「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、『こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!』と同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてやれたことであろう?」(同八五ページ)。
 人類が階級社会に突入する最大の要因を、ルソーが当時の最大の生産手段であった土地の私的所有に求めたことは、すばらしい慧眼だったといわなければなりません。マルクス、エンゲルスは、生産手段の私的所有が搾取をもたらし、階級分化を生みだすことを科学的に明らかにしました。
 「社会の一部の者が生産諸手段を独占しているところではどこにおいても、労働者は、自由であろうとなかろうと、生産諸手段の所有者のための生活諸手段を生産するために、自分の自己維持のために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えなければならない」(『資本論』②三九九ページ)。
 ルソーは、直感的に、土地の私的所有こそ、搾取と階級分化、そして社会的、経済的不平等の原因と考えました。ですから、これを人間社会発展上の、「第二の革命」としてとらえたのです。
 まだ「搾取」という言葉こそ使用していませんが、ルソーは、「私有の観念が手の仕事以外のものに由来する」とか「自分では造らなかったものをわがものとする」(『不平等論』九九ページ)という言い方でもって、土地の私的所有が搾取を生み出すものととらえているのです。ルソーのいう「手の仕事」とは、マルクスのいう「自分の労働にもとづく個人的な私的所有」(『資本論』④一三〇六ページ)を意味していると理解すべきものでしょう。

恐ろしい戦争状態

 私的所有にもとづく不平等は、様々な社会的悪徳をもたらします。それをルソーの記述する順序にしたがって紹介しておきます。
 まず第一には、仮面の生活です。
 「自分の利益のためには、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要だったのである。有ること(存在)と見えること(外観)がまったくちがった二つのものとなった。そしてこの区別からいかめしい威厳と欺瞞的な策略とそのお供をうけたまわるあらゆる悪徳とが出てきた」(『不平等論』一〇一ページ)。
 この文章を読むと、思わずマルクスが、資本主義的生産様式をとらえて、「ぺてんと詐欺の全体制を再生産する」(『資本論』⑩七六〇頁)と述べていることを思い出します。階級社会において、支配階級は、搾取と収奪を隠蔽し、合理化するために、仮面の生活を生み出し、それを「いかめしい威厳」によって取り繕おうとするのです。
 第二に、「他方では、以前は自由であり独立であった人間が、いまや、無数の新しい欲求のために、いわば、自然全体に、とりわけその同胞に屈従するようになり、彼はその同胞の主人となりながらも、ある意味ではその奴隷となっているのである」(『不平等論』一〇一ページ)。
 私的所有は、階級対立を生みだし、支配・従属の関係を打ちたてることになります。
 しかし弁証法家ルソーは、支配する側も「ある意味ではその奴隷」となっていて、疎外された人間となっているととらえています。『契約論』の冒頭には、より明確に「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ」(『契約論』一五ページ)としています。階級社会にあっては、支配される側はもとより、支配する側も、その人間性を疎外されているのです。マルクスが、「資本家としては、彼はただ人格化された資本にすぎない。彼の魂は資本の魂である」(『資本論』②三九五ページ)と述べているのに対応する見解ということができます。
 「富める者のほうでも、支配することの快楽を知るようになると、たちまち他の一切の快楽を軽蔑した。そして新しい奴隷を服従させるために古い奴隷を使い、こうして隣人たちを征服し、隷属させることしか考えなかった。それはあたかも、ひとたび人肉の味を知ると、他の一切の食物をすてて、以後は人間を貪り食うことしか望まないあの餓えた狼のようなものである」(『不平等論』一〇二、一〇三ページ)。
 搾取する階級は、人間でありながら、人間を「貪り食う」狼と同様の存在だというのです。最初に『資本論』を読んだとき、「資本は、剰余労働を求めるその無制限な盲目的衝動、その人狼的渇望のなかで、労働日の精神的な最大限度のみではなく、その純粋に肉体的な最大限度をも突破していく」(『資本論』②四五五ページ)とあるのをみて、いったいどこから「人狼的渇望」という言葉を引き出してきたのだろうとの感想をもった記憶があります。いまではその原典はルソーにあったのではないかと推測しています。
 第三には、階級分化に伴う階級闘争の発生です。
 「このようにして富める者の横領と貧しい者の掠奪と、万人の放縦な情念が、自然的な憐れみの情とまだ弱々しい正義の声とを窒息させて、人々を強欲に、野心家に、邪悪にした。強者の権利と最初の占有者の権利とのあいだに、はてしのない紛争が起り、それは闘争と殺害とによって終息するほかはなかった。生れたばかりの社会は、この上もなく恐しい戦争状態に席を譲った」(同一〇三ページ)。
 階級社会に突入することによって、自己愛と憐れみの情に満ちあふれた友愛の社会は幕を閉じ、「この上もなく恐ろしい戦争状態」である、階級闘争の時代に入っていくのです。

偽の社会契約国家

 ルソーは、階級闘争のなかから、階級支配の機関としての国家が誕生することを、独特の論理展開で示してみせます。
 搾取には、合理的理由がありませんので、搾取階級は、階級闘争に勝ち目がないことを予感することから、ことは始まります。
 「彼らがその横領にいかなる色彩を与えようとも、その横領が単に一時的で不当な権利を楯にとっているにすぎず、また、その横領はただ力によって獲得されたものであるから、それを力によって剥奪されても、彼らはそれに文句をいう理由をもたない、ということを彼らは十分に感じていた。単に巧知・術策だけによって富んだ者たちであっても、その私有をもっと立派な権限によって根拠づけることはほとんどできなかった」(同一〇四ページ)。
 そこで搾取階級は、被搾取階級を欺して偽の社会制約を結び、法の名で搾取を合理化しようとするのです。のちに、『契約論』のなかで詳しくお話しする予定ですが、ルソーは、国家が成立するためには、統治者と被統治者の間に、国家の一員となることにより権利・義務の関係を形成する合意が必要だと考え、社会契約にもとづく国家の成立を訴えたのです。
 しかし、偽の社会契約は、被搾取階級の利益のためになる契約ではありませんから、人民をペテンにかけて結ばれることになります。
 「富者は、必要に迫られて、ついには、かつて人間の精神に入り込んだもののなかでもっとも深く考えぬかれた計画を思いついたのである。それは、自分を攻撃した者たちの力そのものを自分のために使用し、自分の敵を自分の防御者にすることであり、自然法が自分にとって不利であるのとちょうど同じくらいに自分にとって都合のよい、別種の格率を彼らに吹き込み、別種の制度を彼らに与えることであった」(同一〇五ページ)。
ここにいう「別種の格率」というのは、「別種の法則」というような意味です。
 ここから、搾取階級のペテンが始まります。
 「富者は隣人たちを、自分の目的へつれてゆくためのもっともらしい理由を、容易に説明したのである。彼は彼らにむかって言った。『弱い者たちを抑圧からまもり、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。・・・・・・要するに、われわれの力をわれわれの不利な方に向けないで、それを一つの最高の権力に集中しよう、・・・・・・』粗雑でおだてに乗りやすい人々をそそのかすためには、こんな弁舌に似たものすら要らないぐらいであった」(同一〇五、一〇六頁)。
 こうして、人民をペテンにかけて、搾取階級は、人民との間に社会契約を装った、しかし真の社会契約とは縁もゆかりもない「偽の社会契約」を結び、国家を設立することになります。搾取階級は国家の名で法を制定し、それをもって、搾取と抑圧を合理化するのです。こうして「偽の社会契約」国家は、搾取階級の搾取と抑圧を固定し、搾取階級の階級支配の機関となるのです。
 「この社会と法律が弱いものには新たなくびきを、富める者には新たな力を与え、自然の自由を永久に破壊してしまい、私有と不平等の法律を永久に固定し、巧妙な簒奪をもって取り消すことのできない権利としてしまい、若干の野心家の利益ために、以後全人類を労働と隷属と貧困に屈服させたのである」(同一〇六ページ)

不平等の進行

 階級支配の機関としての国家が成立し、法が制定されることになれば、法を執行する政府が、人民を統治する執行権という強大な権力を掌中におさめることになります。いったん権力を手にした政府は、専制的に権力を行使するようになり、こうして、不平等は次第に進行し、やがて、その極限にまで達することになります。ルソーは、当時のフランスの絶対君主制を、不平等の極限としてとらえたのです。「これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との説立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう。従って富者と貧者との状態が第一の時期によって容認され、強者と弱者との状態が第二の時期によって容認され、そして第三の時期によっては主人と奴隷との状態が容認されるのであるが、この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は帰着する限界であって、ついには、新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、または合法的な制度に近づけるにいたるのである」(同一二一ページ)。
 では、この不平等の限界に到達した先はどうなるのでしょうか。ルソーの見解は、一見するととらえどころのないものとなっています。
 一方では、ルソーは、これをもって、不平等の円環は閉じられたとしています。
 「これがすなわち不平等の到達点であり、円環を閉じ、われわれが出発した起点にふれる終極の点である。ここですべての個人がふたたび平等となる。というのは、今や彼らは無であり、家来はもはや主人の意志のほかなんらの法律ももたず、主人は自分の欲情のほかなんらの規則をもたないので、善の観念や正義の原理がふたたび消滅してしまうからである」(同一二六、一二七ページ)。
 自然状態の平等、社会状態の不平等、そして社会状態の極限における万人が無となる平等によって、円環は閉じられ、出発点にもどった、というのです。いわば、弁証法でいう「否定の否定」です。しかし円環が閉じられたということによって、社会発展は終極を迎えるに至った、だから現状であきらめなさい、というのであれば、ルソーがフランス革命の理論的指導者となることは決してなかったでしょう。
 そもそもディジョンのアカデミーが提出した問題は、人々の間における不平等は、「自然法によって容認されるか」というものでした。
 ルソーの結論は、次のとおりです。
 「われわれは欺瞞的で軽薄な外面、つまり徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽だけをもつことになったのか、これらのことを示すのは、私の主題には属さない。私としては、そういうことがけっして人間の根源的な状態ではないこと、そしてこのように一切のわれわれの自然の傾向を変化させ、悪化させるものが、もっぱら社会の精神であり、また社会が生みだす不平等であることを証明しただけで十分なのである」(同一三〇ページ)。
 こうして、社会的不平等は、「人間の根原的状態」に反するから、「明らかに自然法に反する」(同一三一ページ)との結論となってくるのです。
 では、社会的不平等は、自然法に反するから、どうすべきだというのか、それにとってかわるどんな社会を実現すべきなのかについて、ルソーは『不平等論』のなかで、直接の答えをなにも用意していないのです。
 ただ「専制君主は最強者である間だけしか支配者でないし、人々が彼を追放することができるようになればたちまち、彼はその暴力に対して異議を申し立てる理由がなくなってしまうのである」、「ただ力だけが彼を支えていたのだから、ただ力だけが彼を倒させる。万事はこのように自然の秩序に従って行われる」同一二七ページ)として、専制君主を打倒する革命の正当性がさりげなく主張されるにとどまっています。当時の言論への制約が、このような婉曲な表現の選択をやむなくさせたものでしょう。

 

二、社会状態から社会契約へ

真の社会契約国家

 ルソーは、『不平等論』を著した一七五四年から八年経過した一七六二年、『契約論』を発表しました。
 『契約論』は、絶対君主制への批判を抜きにして、いきなり正当な政治上の原則はなにかという問題にはいっていきます。そこから『不平等論』と『契約論』の関係をどうみるかについては今日まで様々な議論がたたかわされています。
 『不平等論』の訳者兼解説者である平岡昇氏は、「この二つの著作を機械的につなぎ、同じ文脈のなかに位置づけるには多少の問題があるようにみえる」(『不平等論』二七九ページ)としながらも、「この二つの書物が、その基本的な精神・原理において密接な連関を保っていることは否定できないし、両者がわずか五、六年をへだてて同じ歴史的状況のなかから生まれていることも見のがせない事実であろう」(同二八〇ページ)と、「密接な連関」を指摘するにとどめています。
 これに対し『契約論』の解説者河野健二氏は、自然状態と社会状態のズレの由来を明らかにするのが、「『不平等起原論』の課題であったこと、また『社会契約論』の課題は『社会状態』のこのズレをどうすれば『正当なものとなしうるか』という点にあったことを読みとることができる」(『契約論』二二八ページ)として、連続するものととらえています。
 思うに、ルソーが、「偽の社会契約国家」のもとにおける不平等を「自然法に明らかに反する」としてとらえたこと、および、この自然法に反する国家を変革すべきだと訴えていることからすると、「偽の社会契約国家」を打倒して、「真の社会契約国家」を打ち立てることは、理論の必然的展開ともいうべきものです。
 しかし、『不平等論』と『契約論』を直接結びつけることは、ルソーにとってあまりに危険であり、弾圧されかねないところから、あえて両者の関係を曖昧にしたものといっていいでしょう。
 『契約論』では、真の社会契約を成立させるきっかけを、次のように述べています。
 「人々は、自然状態において生存することを妨げるもろもろの障害が、その抵抗力によって、各個人が自然状態にとどまろうとして用いうる力に打ちかつに至る点にまで到達した、と。そのときには、この原始状態はもはや存続しえなくなる。そして人類は、もしも生存の仕方を変えなければ、亡びるであろう」(『契約論』二八、二九ページ)。
 ここの「自然状態」は、社会契約に至る直前の状態ですから、『不平等論』でいえば、「偽の社会契約国家」の状態と考えるべきでしょう。偽の社会契約国家によってもたらされた不平等という「障害」がその極限にまで達して、絶対君主制の「用いうる力に打ちかつに至る点にまで到達した」とき、絶対君主制は、「もはや存在しえなくな」り、革命によって「真の社会契約的国家」が成立する、というのです。ルソーは弾圧をも考慮してここでも婉曲の表現にとどめていますが、そのなかにも、真の社会契約国家は、革命をつうじて誕生することを強調しいとの意志をはっきり汲みとることができます。
 そしてルソーのこの願いは、ルソーの死後『契約論』がフランス革命のバイブルとして評価され、そこに示された政治理念の具体化がフランス革命全体をつうじて議論されることになったのです。
 エンゲルスは、ルソーの平等論を、否定の否定という弁証法の一例としてあげています。自然状態における平等、社会状態における不平等、そして真の社会契約のもとでの真の平等、という「否定の否定」です。
 「こうして不平等はふたたび平等に転化する。だがそれは、言語を知らない原人の古い自然のままの平等ではなく、社会契約にもとづくより高度の平等である。抑圧者は抑圧される。それは否定の否定である」(全集⑳ 一四六ページ)。
 これをみると、エンゲルスも『不平等論』と『契約論』とを論理的にも連続したものとしてとらえ、『不平等論』の第四段階である「偽の社会契約国家」から、第五段階の「真の社会契約国家」に発展するものとしてとらえていることが分かります。
 ルソー自身も、『告白』のなかで「社会契約論の中の大胆な議論は、すべて『人間不平等起原論』にことごとくある」(『ルソー』世界古典文学全集 二五七ページ)といっていることも、最後に紹介しておきたいと思います。

ルソーの社会発展観と史的唯物論

 以上、ルソーの社会発展観を、自然状態─自然的社会状態─階級的社会状態─偽の社会契約国家─真の社会契約国家、という五段階としてみてきました。
 もちろん細かな点で問題とすべきところは多々あるにしても、ここには、科学的社会主義の史的唯物論に驚くほど近似した思想をみることができます。
 第一には、古代社会(自然状態および自然的社会状態)を、私有財産の存在しない共同社会ととらえ、そこにおける根本原理を自由・平等ととらえていることです。
 これは、エンゲルスが、『家族、私有財産および国家の起源』で解明した原始共産制の社会と基本的に一致するものとなっています。
 第二には、生産力の発展を基盤とする社会発展が、同時に階級対立と社会的不平等をもたらしたこと、この不平等の根源が私的所有、とりわけ生産手段の私的所有にあるととらえたことです。
 桑原武夫氏は、次のように述べています。
 「『不平等起原論』の意義は、ルソーの死後、社会主義の思想や運動が広がるにつれて、改めて顧みられるようになる。とくにマルクス主義が普及するにつれて、マルクス以前にすでに財産問題の重要性とその弊害をこれほど深刻にルソーが分析しえたことが驚嘆の念をもって回想されてくる」(『ルソー』一九、二〇ページ、岩波新書)。
 第三には、国家を社会発展の一定段階で発生した階級支配の機関としてとらえていることです。
 ルソーは、第三段階の階級的社会状態後の第四段階として国家の成立をとらえることによって、国家が超歴史的存在であることを否定し、第一、第二段階には国家が存在しなかったし、存在する必要もなかったことを明らかにしました。同時に、国家は、私的所有の発生と階級対立から生まれた階級支配の機関であるという、国家の本質をも的確にとらえたのです。
 第四には、階級対立と社会的不平等を克服し、再び人間の本質である自由と平等を回復する人民主権の社会として、未来社会を展望していることです。
 エンゲルスが、「ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがある」(全集⑳一四六ページ)と述べているのは、けっして理由のないことではないのです。
 この詳細は、『契約論』で検討することになりますが、ルソーの未来社会論は、資本主義の枠組みをこえて、社会主義・共産主義をも展望する射程距離をもつものとなっています。

二〇〇三・七・一五