『科学的社会主義の源泉としてのルソー』より

 

 

第八講 近代社会主義・共産主義の起原

一、空想的社会主義

「空想から科学へ」と空想的社会主義

 前講で、『空想から科学へ』のなかで、エンゲルスは、サン・シモン、フーリエ、オーエンの三人の空想的社会主義者を引き合いに出してはいるものの、源泉としては扱っていないことを指摘しました。
 今回は、エンゲルスが空想的社会主義者の積極面をどこに求めていたかもう少し詳しく検討してみることにします。
 最初に、エンゲルスは、三人のすべてに共通するものとして、彼らが「プロレタリアートの利害の代表者」として登場したのではなく、その結果「ある特定の階級を解放しようとは思わないで、いきなり全人類を解放しようと思った」(全集⑲一八八ページ)ことをあげています。
 続いてまず、サン・シモンですが、彼が第一に関心をよせたのは、「最も人数の多い、最も貧しい階級」(同一九二ページ)の運命でした。そして「フランス革命を階級闘争として、しかもたんに貴族と市民階級とのあいだだけのではなく、貴族と市民階級と無産者とのあいだの階級闘争として理解」(同一九三ページ)し、「恐怖政治が無産大衆の支配であったこと」(同一九二ページ)を知っていたのは、「一八〇二年としてはきわめて天才的な発見であった」(同一九三ページ)。
 また彼は、「政治学は生産にかんする科学であると言明し、また政治学はまったく経済学のなかに没してしまうことを予言」し、「国家の廃止」についても「すでにはっきりと言明されている」(同)。
 以上ふまえて、次のように総括されています。
 「サン・シモンには天才的な視野の広さが見いだされ、この視野の広さのおかげで彼の思想には、厳密な意味での経済思想を除いて、後代の社会主義者たちのほとんどすべての思想が萌芽としてふくまれている」(同)。
 サン・シモンには、「天才的な視野の広さ」があり、「後代の社会主義者たちのほとんどすべての思想が萌芽としてふくまれ」てはいたものの、それはあくまで思いつきの天才的ひらめきとでもよびうるものでしかなく、一つの理論体系として後の世代に引き継がれるような理論的遺産としてみるべきものはありませんでした。
 次にフーリエですが、「フーリエに見られるのは、現存の社会状態にたいする、真にフランス人的な才気にみちた、それでいて洞察の深さを少しも失っていない批判」(同)です。
 フーリエは、「ブルジョワ世界の物質的、精神的なみじめさを容赦なくあばき出」(同)し、詐欺的投機、小商人根性を巧みに風刺している。「ある社会における婦人解放の程度は全般的解放の自然的尺度である、とは彼がはじめて言明したところである」(同一九四ページ)。
 しかし、フーリエの最も偉大なところは、「これまでの歴史の全行程を、野蛮、家父長制、未開、文明という四つの発展段階に分けている」(同)ことにある、と指摘しています。エンゲルスは、フーリエの時代区分を採用し、「家族、私有財産および国家の起原」のなかで、「野蛮、未開、文明」の三大区分を展開しています。その意味からすれば、この点に関するフーリエの「理論」は、科学的社会主義に「保存」されたといいうるかもしれません。しかし、エンゲルスのこの三つの時代区分は、直接には、生産における技能の発達を基準とするモーガンの時代区分にしたがったものですから、この点だけをとらえて、フーリエを源泉としてとらえるのには、疑問が残るといわざるをえません。
 さらにエンゲルスは、「文明時代には貧困は過剰そのものから生じる」とするフーリエの言葉を引用し、「同時代人のヘーゲルと同じように弁証法を駆使している」(同一九四ページ)と評価し、この弁証法をつかって「フーリエは人類は将来滅亡するという思想を歴史観にみちびきいれた」(同)とのべています。
 最後にオーエンですが、彼は、「天成の人間指導者」であり、「人間の性格」は、「発育期におけるその人の環境の産物である」とする唯物論的啓蒙思想家」(同一九五ページ)でした。彼はニュー・ラナークの大紡績工場を共産主義の実験場にし、そこから生まれた利益は、「万人の共有財産として、もっぱら万人の共同の福祉のためにはたらくべきもの」(同一九六ページ)とされました。
 この共産主義的実験に失敗して貧乏となった彼は、以後も三〇年にわたって、労働者階級の利益のために働きつづけました。婦人・児童保護立法、労働組合のナショナルセンターの結成、協同組合の設立などもすべてオーエンに負うものでした。
 三人の空想的社会主義者は、一九世紀前半に大きな影響を与え、当時の社会主義者は、サン・シモン派、フーリエ派、オーエン派と大きく三つに分かれたのです。
 エンゲルスも、彼らの考えは、「一九世紀の社会主義的観念を長いあいだ支配してきたし、部分的にはいまでも支配している」(同一九八ページ)とのべています。
 しかし、彼らは、お互いに自分たちの社会主義がついに発見された「絶対的真理」であると主張したところから、「絶対的真理相互のこの衝突では、おたがいにすりへらしあうよりほかには、解決のしようがない」(同)ことになり、「そこからは、折衷的な一種の平均的社会主義よりほかには、なにも出てきようがなかった」(同)。
 このような折衷主義からは、「小川の丸い小石のように、論争の流れのなかで個々の構成要素が明確さという鋭い角をすりへら」さざるをえなかったのです(同)。
 いわば、この三派の社会主義は、その弟子達に引きつがれていくなかで、最初の鋭い問題意識すら失われて毒にも薬にもならない折衷的な乞食スープにならざるをえなくなり、こうして歴史の舞台から消滅していったのです。オーエンのいくつかの社会改良的施策を残して。

「共産党宣言」と空想的社会主義

 今度は、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』(一八四八年)のなかで、空想的社会主義がどう扱われているかをみてみましょう。
 いうまでもなく『共産党宣言』は、共産主義者の最初の組織であり、労働者階級の最初の国際的革命的政党である「共産主義者同盟」の綱領として作成されたものです。
 因みに、共産主義者同盟の前身である正義者同盟(義人同盟)は、ブランキ主義者であるカール・シャッパーによって設立されたものです(全集⑲一八一ページ)。
 このなかで、マルクス、エンゲルスは科学的社会主義の立場から、他の雑多な社会主義・共産主義の潮流への批判を加えています。当時はまだ様々な社会主義・共産主義の潮流が併存している状況であり、科学的社会主義もこうした潮流の一つにすぎなかったところから、こうした批判がなされたものです。その潮流は大きく三つに分けられ、反動的社会主義、保守的社会主義と並んで、「批判的=ユートピア的社会主義および共産主義」(全集④五〇三ページ)が取り上げられています。
 まずマルクス、エンゲルスは、三人の空想的社会主義者の体系が、「プロレタリアートとブルジョワジーとのあいだの闘争の初期、その未発達の時期」(同五〇四ページ)にあらわれたものであり、「プロレタリアートの側には、歴史的な自主活動や、プロレタリアートの独特の政治運動は、なにも認められなかった」(同)ことも指摘しています。
 そこで、彼らは、空想的な彼らの社会計画を実行しようと、「たえずだれかれの差別なく全社会に、それどころか、とりわけ支配階級に、呼びかけ」、他方「あらゆる政治行動、とりわけあらゆる革命的行動を非難する」(同五〇五ページ)。
 しかし、彼らには少なくとも、現存社会への批判と、未来社会への積極的な提案がありました。例えば、「都市と農村の対立や家族や私的営利や賃労働を廃止」するとか「社会的調和の宣言」、「国家をたんなる生産管理機関に転化する」などの提案です(同)。
 しかし、「階級闘争が発展して、はっきりした形をとるにつれて、このように空想のうえで階級闘争を超越し、空想のうえで階級闘争を克服することには、どんな実践的な価値も、どんな理論上の正当性もないようになる。だから、これらの体系の創唱者たちが多くの点で革命的であったのに、その弟子たちはいつも変わらず反動的なをつくっている」(同)。
 『空想から科学へ』では、どちらかというと空想的社会主義者の積極的役割を評価する方に力点がおかれていたのにたいし、『共産党宣言』では、むしろ階級的な観点が欠如していることへの批判に力点がおかれています。彼らには、後の世代に継承さるべき「どんな理論上の正当性もない」がゆえに、弟子たちになるほど反動的になるとして、弟子たちが反動化していった根拠を明確にしているところは、注目に価します。
 彼らの行きつく先は、といえば、「反動的社会主義者または保守的社会主義者の部類に落ちこんでいき、ただ、いっそう体系的な物知りぶりと、自分たちの社会科学の奇跡的な効能を狂信する点とで、それらと違うだけとなる」(同五〇六ページ)と手厳しい批判を加えています。
 以上、『空想から科学へ』と『共産党宣言』のなかから、空想的社会主義者への評価をみてきましたが、全体として、空想的社会主義は、歴史上弁証法的に否定されたのではなく、精算主義的に否定されて、今日その痕跡をなにひとつ残していない存在となっていることを確認することができます。その理由は、彼らの理論に、歴史の審判にたえて「保存」さるべき体系化されたものがなにひとつ存在しなかったからに他なりません。
 その点からすると、マルクス、エンゲルスが、彼らを、社会主義・共産主義の先達としては評価しながらも、科学的社会主義の源泉としてはとらえようとしなかったのは、正当であったということになります。
 それでは、レーニンが、「フランス社会主義」を源泉にかかげたのは間違いだったのかといえば、そう言い切ることにも問題があります。というのも、フランス社会主義者には、様々な潮流があり、サン・シモン、フーリエとは、源流を異にする社会主義・共産主義の潮流も存在していたからです。
 そこで、近代社会主義が、どこの国からどのように展開してきたのか、その起原をさぐってみることにしましょう。

 

二.近代社会主義・共産主義の三つの起原

社会主義と共産主義

 現代のわたしたちは、資本主義のより発展した未来社会を、社会主義とも共産主義ともよんで、両者をあまり区別しないで使っています。
 しかし、マルクス、エンゲルスの生きた時代は、必ずしもそうではなかったようです。エンゲルスは、一八四八年の『共産党宣言』の書かれた時代には、社会主義と共産主義とは画然と区別されており、「これを社会主義宣言と名づけるわけにはいかなかった」(同五九七ページ)と述べています。
 「一八四七年に社会主義者といえば、一方では、さまざまなユートピア的体系の信奉者たち、すなわちイギリスのオーエン派、フランスのフーリエ派をさしていたが、このどちらも、すでにたんなるの地位におちこんでいて、しだいに死滅しつつあった。他方では、社会主義者とは、種々雑多な社会的やぶ医者のことであって、資本や利潤にはなんの危害もおよぼさずに、さまざまなつぎはぎ細工によって社会の各種の弊害をとりのぞくと称していた連中であった」(同)。
 このとらえ方からすると、今日では、社会主義・共産主義が区別せずに使われているとしても、レーニンが、源泉を一九世紀の「フランス社会主義」としてとらえることには、用語のうえからも問題があるといわねばなりません。
 これにたいして、「労働者階級のうちで、たんなる政治革命では不十分なことをさとって、全面的な社会変革の必要を宣言していた部分、その部分はみな、当時は共産主義者と名のっていた」(同)。
 したがって、もし源泉になりうるものがあるとしたら、それは「フランス共産主義」に求めるべきことになるでしょう。
「こういうわけで、一八四七年には、社会主義は中間階級の運動であり、共産主義は労働者階級の運動であった」(同五九七、五九八ページ)。
 この箇所をあえて引用したのは、これから源泉を論ずるにあたっては、主として一九世紀前半の理論と運動を問題にすることになりますが、当時マルクス、エンゲルスは、意識的に社会主義と共産主義とを使い分けていたことを知ったうえで、問題の検討に入ることが必要だからです。

科学的社会主義の起原

 エンゲルスは、『空想から科学へ』の「ドイツ語初版(一八八二年)への序文」で、「科学的社会主義の発生」について、次のようにのべています。
 「一方では、科学的社会主義の発生にとってドイツの弁証法がなくてはならないものであったと同様に、このためにはイギリスとフランスの発展した経済的ならびに政治的諸関係もなくてはならないものであったからである」(全集⑲一八五ページ)。
 一八七九年にはじまったフランス革命は、一九世紀前半をつうじてヨーロッパ全土に大きな影響を及ぼしました。フランス革命のかかげた「自由・平等・友愛」は、文字どおり、一八世紀前半から一九世紀前半にかけての「時代の精神」として君臨したのです。しかしフランス革命そのものは、様々の経過を経て、ブルジョワジーの権力を確立するブルジョワ民主主義革命として定着することになり、革命の精神は挫折していくことになりますが、この「時代の精神」をより徹底させる最下層の人民の運動のなかから、それぞれの国の歴史的状況を反映しつつ、ヨーロッパ各地の社会主義や共産主義の思想も台頭してくることになります。
 エンゲルスは、一八四三年一一月「大陸における社会改革の進展」と題する論文を、「ザ・ニュー・モラル・ワールド」というイギリス・オーエン派の週刊誌に寄稿して、各国の「共産主義」の理論と運動の統一を訴えています。この論文の内容にそって、当時の状況をふり返ってみましょう。
 「ヨーロッパの三大文明国すなわちイギリスとフランスとドイツはすべて、財産の共有制を基礎として社会的諸関係を徹底的に変革することが、いまや切迫したさけがたい必然性となったという結論に到達したのである。上述の諸国民がそれぞれ独立にこの結末に到達しただけに、それはいっそう注目をひくのであって、この事実以上につよく次のことを証拠だてるものはありえない。すなわち、共産主義はイギリスあるいは他のいずれかの国民の特殊な境遇からの帰結ではなくて、近代文明の一般的事実のなかにある前提から、ひきだされぬわけにはいかない、一つの必然的な帰結なのだということである」(全集①五二三ページ)。
 まずここで問題にしているのは、「財産の共有制を基礎」とした「共産主義」であって、あれこれの「社会主義」ではないことを明確にしておかなければなりません。
 エンゲルスは、イギリス、フランス、ドイツで、「それぞれ独立に」共産主義に到達したとのべていますが、その共通の土台にフランス革命が存在していたことは否定できません。それはともかく、こうした共産主義が、三国でそれぞれ独立に生じてきたことは、それぞれの国の共産主義に独自の理論的起原と色合いをもたらすことになりました。
 「したがって、この三国民がたがいに理解しあい、どこまで彼らが一致しどこまで一致しないかを知ることは、のぞましいとおもわれるにちがいない。というのは、三国のそれぞれにおける共産社会の教理の、起原のちがいにもとづいて、やはり不一致もあるはずだからである」(同)。
 続いて、エンゲルスは、三国の共産主義の起原と色あいのちがいについて、次のようにのべ、それぞれの特徴を的確にえぐり出しています。
 「イギリス人は、彼ら自身の国における悲惨と退廃と貧窮との急速な増大によって、実際的にこの結論に達した。フランス人は、はじめに政治的な自由と平等を求め、これが不十分であることを知ると、彼らの政治的要求に社会的自由および社会的平等をつけくわえるというようにして政治的にこの結論にたっし、ドイツ人は、第一原理にもとづいて推理することによって哲学的に共産主義者となった」(同)。
 イギリス人は経済的に、フランス人は政治的に、ドイツ人は哲学的に共産主義に接近していったのです(「第一原理」とは、哲学の根本原理の意味です)。
 こうして、いまや「必要なのは、彼らがたがいに知り合うこと」(同五二四ページ)であり、マルクス、エンゲルスは、国際的な科学的社会主義結成の問題意識のもとに、一八四六年ブリュッセルで、「共産主義通信委員会」を設置してロンドン、パリ、ドイツの諸他方に通信委員会を結成し、ヨーロッパ諸国の有力な社会主義者、共産主義者を協力に引き入れようと努力することになります。
 マルクス、エンゲルスが、イギリス、フランス、ドイツの「三国のそれぞれにおける共産主義社会の教理の、起原のちがい」を克服し、「教理」を一本化しようとの意図を持っていたことは明らかであり、そのかぎりでは、フランス共産主義は、もともと科学的社会主義の源泉となるべきものの一つだったのです。

フランス共産主義の起原

 そこで、ルソーを科学的社会主義の源泉としてとらえうるかの問題は、ルソーが、一九世紀前半のフランス共産主義にどのような影響を与えたのか、という問題となってきます。
 エンゲルスに従って、フランスではどのような政治的かたちをつうじて共産主義に到達したのかをたどってみましょう。
 「フランス革命は、ヨーロッパにおける民主主義の根源であった。民主主義というものは、私はすべての統治形態がそうだと思うのだが、一つの自己矛盾、非真理、根底においては、偽善(われわれドイツ人の呼ぶところに従えば神学)にほかならぬもの、なのである。政治的自由はえせの自由であり、可能な最悪の奴隷状態である。それは自由のみせかけであり、したがって隷属の現実なのである。政治的平等も同じであって、だから民主主義は、他のどんな統治形態とも同様に、最後にはこなごなになるにちがいない。偽善は存続することができず、そのなかにかくされていた矛盾は、あらわれずにはおかない」(同)。
 フランス革命によって実現された自由・平等は、ルソーの唱えたものとは大きく異なりブルジョワ民主主義としての限界をもつものでした。市民は能動的市民と受動的市民に区別され、労働者をはじめとする下層の人民には選挙権すら与えられませんでしたし、自由とは、所有権の自由、搾取の自由をその本質とするものだったのです。
 したがって、この「偽善」の民主主義の矛盾は、いずれ顕在化していかざるをえません。
 「偽善は存続することができず、そのなかにかくされていた矛盾は、あらわれずにはおかない。われわれは、本来の奴隷制すなわちむき出しの専制をもつか、ほんとうの自由およびほんとうの平等、すなわち共産主義をもつかの、いずれかになるにちがいない」(同)。
 ここで、エンゲルスが、共産主義を、ブルジョワ民主主義のもつ限界をのりこえた、「ほんとうの自由、ほんとうの平等」としてとらえていることに注目しなければなりません。
 ルソーは、人民が主人公となる人民主権国家において、真の自由、真の平等が実現されることを訴えました。エンゲルスは、それを共産主義とよんだのです。
 「これらの帰結は、二つともフランス革命においてもたらされた。ナポレオンは第一のものを、バブーフは第二のものを、うちたてたのである。私は、バブーフ主義の問題についてはくわしく述べないでいいと思う。なぜなら、ブオナロッティの書いた彼の陰謀の歴史が英語に翻訳されているからである」(同)。
 エンゲルスは、バブーフを、真の自由、真の平等を実現するフランス共産主義の創始者として画きだしています。バブーフ自身は、著作を残していませんが、その弟子であるブオナロッティが、一八二八年通称『バブーフの陰謀』(正確には『バブーフの平等のための陰謀』)のなかで、その掲げる共産主義を明らかにしています。 バブーフは、フランス革命の理念を実現すべく一七九六年武装蜂起を目前に逮捕され、処刑されますが、その影響は、一九世紀のフランスに引き継がれていきます。
 「われわれはどのようにしてバブーフの共産主義が最初の革命の民主主義のなかから生じてきたかをみた。第二の革命すなわち一八三〇年のそれは、もう一つの、もっと強力な共産主義を生んだ」(同五二七ページ)。
 一八三〇年の革命とは、通称七月革命とよばれるものです。この革命は、ブルジョワジーと労働者階級の同盟によって成しとげられますが、革命の成果はブルジョワジーが独占し、労働者は、政治的独占の廃止と共和国の樹立とを求めて、いくたびか反乱を起こしますが、つねに敗北し、オルレアン公、ルイ・フィリップの王政が復活します。
 このたたかいをつうじて、労働者階級は、政治的改革だけでは不十分であることを学び経済的改革を求める共産主義へと向かったのです。
 「新しい教理が、共産主義的な労働者のあいだに発生した。・・・・・・彼らの政治的不満の原因である、彼らの社会的状態は、どんな政治的変革によっても改善されないであろうことを、彼らは知った。彼らは大革命の歴史を参照して、バブーフの共産主義を熱心にとらえた」(同五二八ページ)。
 七月革命の教訓から、共産主義を学ぶべきだと説き、「バブーフの陰謀」をつうじてバブーフの共産主義を広めたのが、ブオナロッティだったのです。
 「フランス革命は、こうした試練にわずらわされることなく、すべての古い世態の理念をこえでるところの理念を生みだした。・・・・・・バブーフの陰謀によって一時敗北した革命的運動は、共産主義理念を生みだした。この理念をバブーフの友人ブオナロッティが、一八三〇年革命ののち、ふたたびフランスにひきいれた。この理念は、首尾一貫したしあげをくわえれば、新しい世態の理念である」(全集②一二四ページ)。
 これは、マルクス、エンゲルスの共著、「聖家族」の文章ですが、最後の「首尾一貫したしあげをくわえれば、新しい世態の理念である」というところに注目してください。これは、バブーフの共産主義が、科学的社会主義の源泉となりうるものであることを指摘したものといっていいでしょう。バブーフの共産主義は粗削りではあっても、すぐれた素材であり、これに磨きをかければ、完成した社会主義・共産主義の理論になると、マルクス、エンゲルスは考えたのです。
以上の紹介をしたうえで、エンゲルスは、「フランスにおける近代共産主義の起源について、確実に断定できることはこれだけである」(全集①五二八ページ)と結論づけています。

フランス革命の第二幕・共産主義革命

 ここで、フランス革命とバブーフ共産主義との関係を媒介するものが何であったのか、を検討してみることにしましょう。
 エンゲルスは、一八四五年末に、一七九二年のフランス第一共和制(ブルボン王朝がフランス革命のなかで倒れて誕生した共和制)の創設を記念した祝祭の記録的論文「ロンドンにおける諸国民の祝祭」(全集②六三七ページ以下)で、次のようにのべています。
 この論文は、全体としてフランス革命の生みだした共和制と民主主義が、当時の共産主義に発展していることを明らかにしたのものです。
 フランス第一共和制を祝うこの祝祭は、「フランス革命にはじまって、フランスの共産主義とイギリスのチャーチズムとに発展した近代民主主義の旗」(同)のもとに、諸国民の親睦をかねて催されたものでした。
 しかし、そこで議論の対象となっている民主主義は、「従来のあらゆる民主主義とは違った」、「全然別個の民主主義であり、簡単にいえば民主主義の概念」でした(同六三八ページ)。
 ここにいう民主主義の「概念」とは、ヘーゲルのいう「概念」、つまり「真にあるべき姿」を意味しています。真にあるべき民主主義とは何か、が問題とされているのです。
 「一七九三年憲法とテロリズムとは、激昂したプロレタリアートをよりどころとする党に端を発するものであったし、ロベスピエールの失脚はプロレタリアートにたいするブルジョワジーの勝利を意味するものであったし、平等のためのバブーフの陰謀は九三年の民主主義の最後の帰結──当時可能であったかぎりでの──を明るみに出したものであった。フランス革命は、はじめからおわりまで、社会的な運動であった。そしてこの革命以後には、純政治的な民主主義はまったくナンセンスになっているのである。民主主義、それは今日では共産主義である」(同六三八、六三九ページ)。
 バブーフ共産主義は、フランス革命の途上に誕生したロベスピエールのジャコバン独裁下に制定された一七九三年憲法に媒介されて誕生したというのです。九三年憲法のことを、エンゲルスは「九三年の民主主義」とよんだのです。
 ブオナロッティの『バブーフの陰謀』が書かれたのと同じ頃、イギリスでは、チャーチスト運動の高揚をむかえていました。チャーチストの急進的部分はすでに共産主義に転じており、この祝祭に参加していました。
 この急進的部分は、「民主主義協会」を創立し、この創立とともに、一七九二年の革命、一七九三年の憲法の発布を祝って一八四四年八月ロンドンで祝祭をもよおしています。
 「彼らは、まず第一に共和主義者であり、しかも、九三年憲法を自分の信条としてかかげ」、「共和主義者であったばかりでなく、共産主義者」(同六四一ページ)だったとされています。
 いうなれば、フランス革命は、一七九三年憲法を媒介にして、フランスではバブーフ共産主義、イギリスではチャーチスト共産主義を生みだしていったのです。
 こうして、一八四五年頃、イギリスでもフランスでも共産主義が大きく台頭し、ヨーロッパ中に社会的関心を与えることになりました。
 こうしたことを背景に、一八四八年マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』が発行され、その冒頭には、「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている──共産主義の妖怪が」(全集④四七五ページ)と記されるに至るのです。
 エンゲルスは、先の論文で当時の状況を次のようにまとめています。
 フランス革命を革命の第一幕だとすると、「今日のヨーロッパの社会運動全体は革命の第二幕にすぎず、一七八九年にパリにはじまっていまでは全ヨーロッパをその舞台にしている劇の大団円の準備にすぎない」(全集②六三九ページ)。いうまでもなく、その「大団円」とは共産主義革命であり、それはフランス革命が必然的にもたらした「革命の第二幕」にすぎないのです。
 こうして、わたしたちの検討すべき課題はいまや明白です。
 すなわち、ルソーの思想と一七九三年憲法とはどのような関係にあるのか、また九三年憲法は、どうしてバブーフ共産主義、チャーチスト共産主義を生みだしていったのか、の問題の検討が求められているのです。

二〇〇三・七・三〇