『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第二講 理性的であるものこそ現実的

 

一、『法の哲学』の位置づけ

 今日から「序文」に入ります。この箇所は全文ヘーゲルが自ら筆をったものであり、『法の哲学』をとおしてヘーゲルの伝えようとした主題が強く押し出されています。
 それを一言でいえば、エンゲルスがとりあげた「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」との命題に集約されることになります。
 いわば、ヘーゲル哲学の真髄が、この命題のなかで表現されているといっていいでしょう。それだけに短い文章ですが、する必要があります。
 また、この命題は、「ヘーゲルの観念論」といわれているものがいったい何なのかということについても再考させるものとなっていることを、ここで指摘しておきたいと思います。この点からも序文は重要な意義をもっています。
 さて、冒頭でヘーゲルは、『法の哲学』の形式について説明しています。それによると、まず、『法の哲学』の基礎になったのは、ヘーゲルがベルリン大学で行なった「講義のための手引書」つまり講義用「要綱」であり、その本文にヘーゲル自身が「注解」(本文中の一字下がりの部分)を加えたものが、もともとの『法の哲学』なのです。
 しかし、現在出版されている『法の哲学』には、この本文と注解に加えて、「追加」という部分が付加され、三段構えの構成となっています。この「追加」部分は、後日『法の哲学』の編集を担当したガンスが、ヘーゲルの講義録の一部を適宜つけ加えたものです。ヘーゲルは、一八一七年から一八三一年まで計七回(最後の講義は二回のみで、コレラにより死亡したため、実質六回)の講義をしており、そのうち、ホトーとグリースハイムの講義録の一部が、「追加」に採用されているのです。
 したがって、正確には、本文と注解のみがヘーゲルの『法の哲学』の内容となるものです。「追加」部分は、参考資料として理解しておけばいいでしょう。しかし、ヘーゲルが検閲を逃れて本音を語ったと思える箇所もあり、「追加」部分と「要綱」「注解」部分との比較検討をつうじてヘーゲルの本音を探るのも、今後の研究課題の一つといえるのではないでしょうか。 
 この意味で、私たちが手にしている『法の哲学』は、ヘーゲルとその弟子たちの合作とでもいうべきものとなっています。
 なお、ヘーゲルの全六回の講義録は、現在日本でも次々出版されており、これをつうじてヘーゲルの研究も深まり、ヘーゲルの再評価も生じてきていることもあわせて紹介しておきたいと思います。

 

二、真理認識の方法としての弁証法

 このように、『法の哲学』の基本となるのは、本文としての「要綱」なのですが、ヘーゲルは、要綱は要綱であっても、自分の要綱はふつうのものとはちがい、「一つの題材から別の題材へとすすみ、しかも学的に証明するという哲学的な仕方、この総じて思弁的な認識の仕方」(一五四ページ、『世界の名著ヘーゲル』中央公論社/四ページ、『ヘーゲル 法の哲学』中公クラシックス)がとられている、といっています。
 「思弁的な認識の仕方」とは、弁証法的な認識の仕方であり、ヘーゲルは、詳しくは『論理学』を読むようにといっています。
 ヘーゲルの弁証法は、事物や認識の三段階的発展をその特徴としており、ヘーゲルは、それを、「即自」「対自」「即自かつ対自(即対自)」とよんでいます。即自とは、発展の可能性を秘めながらも対立が未分化の統一した状態、対自とは、即自から発展した分裂・対立をかかえている状態。即かつ対自とは、分裂・対立を止揚してより発展した統一を回復した状態を意味しています(一五九ページ注五参照/三三ページ注一四参照)。
 この弁証法というのは、事物や認識の運動、変化、発展をとらえる方法です。
 まず事物の運動として、人間の成長を例にとると、赤ん坊は「即自的」な人間、悩める青春時代は「対自的」人間、酸いも甘いも噛み分けた老大人が「即自かつ対自的」人間、とでもいうことになるのでしょう。
 弁証法を認識発展の方法としてとらえた場合、それは運動する事物を運動するものとしてとらえる、真理認識の方法ということになります。
 『法の哲学』の対象となるのは、前講でみたように、法、道徳、家族、市民社会、国家など社会全般にわたっています。これらの対象について真理を認識するには、弁証法によらねばならない、もろもろの哲学とちがって、自分の『法の哲学』は、弁証法という「思弁的な認識の仕方」を採用しているから、これらの問題について真理に到達しえたのだ、とヘーゲルは言いたいのです。
 ヘーゲルは、弁証法の認識の仕方について、「一つの題材から別の題材へとすすみ、しかも学的に証明するという哲学的仕方」(一五四ページ/四ページ)であり、「学においては、内容は本質的に形式に結びついている」(同)とのべています。『法の哲学』の対象となる各項目について、「自由な思惟」(一五六ページ/七ページ)から出発し、もっとも下位のものから上位のものへ、単純なものから複雑なものへ、抽象的なものから具体的なものへと弁証法的に発展させ、全体として有機的一体性を保つ構成に体系化したから、『法の哲学』は真理に到達することができたというのです。「学においては内容は本質的に形式に結びついている」(一五四ページ/六ページ)とありますが、内容の真理性は、あれこれ思いつくままに書きつらねることによってではなく、弁証法的な発展形式によってはじめて実現されるのであり、そういう内容と形式の統一した哲学のみが「学」の名に値するというわけです。
 これに対して、「形式はなにか外面的なもので、ことがらにとってはどうでもよいものであり、肝腎なのはことがらだけ」(一五五ページ/六ページ)、つまり内容さえ正しければ、弁証法という形式を用いようが用いまいが関係ない、という人もいますが、ヘーゲルは弁証法という形式をぬきにして、内容のみが正しいとか、真理だとかいっても、「もろもろの真理の押し合いへし合い」(一五六ページ/七ページ)のなかで、どれが真に正しいものか、区別しえないではないか、と批判しています。
 さらに、『法の哲学』の真理性について、別の方面からも疑問が投げかけられてきます。
 それは、「自然については、哲学は自然をあるがままに認識しなくてはならないこと、賢者の石はどこかに、しかし自然そのもののなかに隠されている」(一五八ページ/一〇ページ)から、自然のなかに隠されている真理を発見することはできるかもしれないが、「精神的宇宙は偶然と恣意にゆだねられており、神に見すてられている」(同)から、精神的世界である『法の哲学』に客観的真理を求めるのは、ないものねだりに等しい、という議論です。つまり、客観世界には客観的真理があっても、「偶然と恣意にゆだねられた」人間の精神の世界には客観的真理はない、あるいは「真なるものはただ課題である」(同)にすぎず現実には手にしえないという見地から、『法の哲学』が真理をとらえたとすることを批判する見解です。
 これに対してヘーゲルは、自然と精神世界とでは、真理のあり方が異なるだけであって、精神世界にも客観的真理はあるのだ、と反論しています。
 すなわち、法則には二種類、「自然の法則と法のおきて」(一五八ページ/一一ページ)とがある。「自然の法則」は、「われわれの外」(同)、つまり自然のなかにあって、われわれはただそれを認識するだけで真理を手にいれることができる。これに対して「法の認識も一面ではそのとおりであるが、他面ではそうでない」(一五九ページ/一一ページ)。実定法の法則については、自然の法則と同様であるが、「法」のあるべき法則を問題にするとき、客観的真理は、われわれ自身の内にある。つまり「人間は、妥当するものの真もしくは非真なることの確証をおのれ自身のうちに見いだす」(同)、というのです。
 ヘーゲルは、「法」のあるべき法則は、「思想をとおしておのれを把握し、思想をとおしておのれに、理性的であることの形式を、すなわち普遍性と規定されたあり方とを与える」(一六四ページ/一八ページ)ことによってえられるとしています。
 理性にもとづいてわれわれの内に、「法」のあるべき法則を求めるとき、「正ないし法のもろもろの思想を認識」(一六〇ページ/一三ページ)し、「ことがらそのものの概念」というあるべき姿の客観的真理を認識することができるというのです。以下にそれをみていこうというわけです。

 
三、フリース批判

 ついでヘーゲルは、「法」についての客観的真理を否定し、あるいは真理を手にしえないとする浅薄な哲学の代表として、フリースの批判をしています。
 イエナ大学の進歩派・フリースは、ドイツの愛国的な学生団体を激励して、「国家と憲法」という題目の演説のなかで、「真正の共同精神が支配しているような国民であれば、おおやけの諸問題のどんな仕事にも生命は下から国民からやってくることであろう」(一六二ページ/一六ページ)とのべました。この演説は、客観的真理の存在を否定し、真理を単に主観的なものでしかないとしたものと受けとめられ、学生たちに自己の内心の確信さえあればいかなることをしてもさしつかえないという思想を生みだしました。やがてその影響は愛国の至情にあふれたザントという学生の殺人事件を引きおこし、その是非が社会問題にまで発展したのです。「真なるものそのものは認識されえないのであって、倫理的なもろもろの対象、ことに国家、政府、憲法にかんしては、各人の自分の心情と感激からおのずと生じてくるものこそ、真なるものである、と」(一六一ページ/一五ページ)。
 ヘーゲルは、これを次のように批判しています。
 「浅薄さというやつのおもな了見は、学を思想と概念の展開のうえに立てるかわりに、むしろ直接的な覚知と偶然的な思いつきのうえに立てようとすることである」(一六二ページ/一六ページ)。
 こうした考えは、数千年にも及ぶ人類の営々として積み重ねてきた「思惟する概念によって導かれた理性的洞察と認識の骨折り」(一六二ページ/一七ページ)を、無に帰するものというわけです。 
 それだけではありません。ヘーゲルは、この哲学には、「法則にたいする憎しみ」(一六四ページ/一八ページ)があり、「このやましい心には、義務と法則としての正しいものの形式は、死んだ冷たい文字であり、一つの枷であると感じられる」(同)と批判しています。
 ヘーゲルは、「法則はことがらの理性」ととらえていますから、「法」という精神世界にも、法則を認めるのか否かが、「自称国民のいつわりの兄弟、いつわりの味方」(同/一九ページ)を見分ける試金石であると位置づけています。 
 ヘーゲルにとって、この浅薄な哲学は、真理を認識しようとする哲学そのものの地位をおとしめるものであり、かつまた理性そのものを否定しようとする試みでしかありません。
 「そこでは明らかに哲学がののしられ、哲学の内容、つまり、神と物理的及び精神的な自然を概念において把握する認識、真理の認識が、一つのおろかな、それどころか罪深い僭望であると宣言されている。そして理性が、またしても理性が、無限にくりかえして理性が告発され、非難され、弾劾されている」(一六六ページ/二二ページ)。
 しかし、この浅薄な哲学も、たった一つ、予期せぬ功績を生みだしました。それは、哲学そのものをおとしめることによって、逆にヘーゲルの『法の哲学』という「学にとって一つの幸運」(一六八ページ/二三ページ)を生みだしたというのです。
 以上をふまえて、いよいよヘーゲルの哲学的真髄、理想と現実の統一の問題にふみこんでいくことになります。

 

四、現実に対する哲学の立場

ヘーゲルの観念論と唯物論

 一般にヘーゲルは、客観的観念論を代表する人物だとされています。客観的観念論とは、現実の物質的世界をこえた超自然的な精神の存在を認め、それがこの物質的世界を支配する第一次的、本源的なものだとする立場です。
 エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、ヘーゲルの観念論を次のように紹介しています。
 「彼にとっては、彼の頭脳のなかの思想は現実の事物や過程の多かれ少なかれ抽象的な模写とは考えられないで、逆に、事物やその発展がすでに世界よりもまえになんらかの仕方で存在していた『理念(イデー)』の現実化された模写でしかないと考えられたのである。こうして、すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関はまったくひっくりかえされていた」(『空想から科学へ』全集⑲二〇三ページ)。
 ここにいう「理念(イデーまたはイデア)」は、プラトンの「イデア論」に由来するものです。プラトンは、感覚される個物の世界は真の世界ではなく、理性によって認識されるイデアの世界こそ真実在の世界であり、個物はイデアの模写に過ぎないと考えました。イデアとは、真にあるべき姿を意味しており、ヘーゲルは、それを「概念」としてとらえ、概念が客観となってあらわれたもの(概念と客観性の統一)を「理念」ととらえています。
 ヘーゲルの論理学は、有論、本質論、概念論という構成になっており、概念論のなかで、概念、理念がとり扱われ、論理学の最後は「絶対理念」でしめくくられています。さらにヘーゲルの『エンチクロペディー』では、先にものベたように、「論理学」「自然哲学」「精神哲学」という構成になっています。
 エンゲルスは、ヘーゲルのこの哲学体系において、「絶対理念」がキーワードとなっているとして次のようにのべています。
 論理学では、「終点である絶対的理念——これは、彼がそれについて絶対になにも語ることができないかぎりにおいてだけ絶対的なのである——がみずからを『外化して』、すなわち転化して、自然となり、そしてのちに精神において、すなわち思考と歴史とのなかで、ふたたび自分自身に帰る」(『フォイエルバッハ論』全集㉑ 二七二、ニ七三ページ)。
 いわばヘーゲルの哲学体系は、思想(論理学=哲学)の産物である「絶対理念」が外化して「自然(哲学)」となり、「絶対理念」が、自然から自分自身に帰って「精神(哲学)」となるというものであり、この体系そのものに客観的観念論であることが明瞭に示されている、というのです。
 しかし、エンゲルスは、ヘーゲルの哲学体系が、客観的観念論であり、「すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関はまったくひっくりかえされ」ていて、「巨大な流産」(『空想から科学へ』全集⑲二〇三ページ)であった、としながらも、第一講でお話ししたように、この体系は「無理なこしらえもの」であり、「こうしたこしらえものは、彼の仕事のわくであり、足場であるにすぎない」(『フォイエルバッハ論』全集㉑ 二七四ページ)
 ですから、エンゲルスは、続けて「むだにここに足をとめず、もっと深くこの巨大な建物のなかにはいりこんでいってみると、そこには、今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」(同)と述べているのです。
 もしヘーゲルの哲学が、すべて「絶対理念」のうえに構築されているのだとしたら、それは単なるたわごとにすぎず、そこから学ぶべきものは何もないといっていいでしょう。
 しかし、第一講でも述べたように、ヘーゲルは、その生涯をかけてフランス革命という現実と対決し続けたのであって、けっして空想の世界をさまよい続けたのではありません。だからこそ、『法の哲学』には、「完全に値うちのある無数の宝」が含まれているのです。
 絶対理念をふりかざす観念論者ヘーゲルと、フランス革命という現実と向きあう唯物論者ヘーゲル、この矛盾する哲学的態度をどう読みとくのか、その鍵が、この「序文」のなかに隠されているのです。

現実に対する哲学の立場

 なるほどヘーゲルは、「理念」を追求した哲学者ですが、ヘーゲルのいう「理念」はけっして現実から遊離した、現実の「彼岸」にあるものではないことに注意しなければなりません。
 「哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって、彼岸的なものをうち立てることではないということである。そんな彼岸的なものがいったいどこにあるかは、神様だけが知っている」(一六八ページ/二三ページ)。
 ここにいう「理性」とは、個人の主観的理性ではなく、「万物をつらぬく存在の理法、合法則性、必然性として、現実のうちに内在し、現実において顕現する」(一六九ページ注八/三七ページ注三七)ものです。だから、理性的なものの根本を究めるには、現実と向き合い、現実と対決しなければならないのであって、現実に背を向けて、現実の「彼岸」に「理性的なもの」を求めるべきではないのです。
 ヘーゲルは、『小論理学』で、「一口に言えば哲学の内容は現実である」(㊤ 六八ページ)といっています。では、現実とは何か。ヘーゲルは物質世界に存在するもののすべてが「現実」ではないとして、「単に現象にすぎないもの」と「真に現実の名に値するもの」とを区別しなければならない、といっています(同)。
 「日常の生活では、あらゆる気まぐれ」、「どんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手あたり次第に現実と呼ばれている」が、「偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しない」のであって、「偶然的なものは可能的なもの以上の価値をもたない存在」(『小論理学』㊤ 六九ページ)にすぎません。ヘーゲルは、別の箇所で、「現実は、それが自己を展開するとき、必然性としてあらわれる」(同㊦ 八八ページ)とのべています。
 客観世界のなかにおける存在のなかから、偶然的なものを取り除き、必然性として現にあるような「現実」を把握し、そのなかから「理性的なもの」としての概念や理念をとり出すところに、哲学の課題がある、とヘーゲルはいうのです。
 では、その「現実」のなかから、とり出すべき「理性的なもの」とは何かをみてみましょう。
 人間の意識は、客観世界を反映したものです。その反映の高まりにつれて、感性的認識から理性的認識へと前進していきます。ヘーゲルはその反映の度合の最高の産物を、「理性的なもの」とよんでいるのです。
 「感情、直観、欲求、意志、等々の諸規定性は、それらが意識されているかぎり、一般に表象と呼ぶことができる。したがって一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる」(同㊤ 六五ページ)。
 ここにいう「概念」とは、通常の意味の概念、つまり、事物に共通する抽象的普遍という意味と、ヘーゲル特有の意味の概念、つまり、事物の真にあるべき姿としての具体的普遍という両者を意味しています。
 「われわれの意識の真の内容は、思想や概念の形式に翻訳されても保存されるということ、否むしろそれによってはじめて本来の姿を照し出される」(同㊤ 六七ページ)。
 客観的事物を真にとらえる(保存する)ためには、単なる表象ではなく、思想や概念にまで高めること、つまり真にあるべき姿である概念、ひいては、理念にまで高めることが必要となるのです。この「概念」をわたしたちは、通常「理想」という言葉でよんでいます。それがヘーゲルのいう「理性的なもの」なのです。
 「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である」(一七一ページ/二七ページ)というのが、ヘーゲルの結論です。
 「本稿は、国家学をふくむかぎり、国家を一つのそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握し、かつあらわそうとするこころみよりほかのなにものでもないものとする」(一七〇、一七一ページ/同)。つまり、『法の哲学』の対象となっているのは、現にある「法」ではなく、真にあるべき「法」(法、道徳、家族、市民社会、国家)であり、とりわけ真にあるべき国家なのです。
 それに続く、「それは哲学的な著作として、あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いものであらざるをえない」(一七一ページ/同)との文章も、その前後の文章との関連からすると、現実から切りはなされた、空想的な「あるべき国家を構想する」ものではないとの趣旨に解すべきものでしょう。

 

五、理性的なものは現実的となる

 こうしたことを理解したうえで、いよいよ『法の哲学』の真髄を示す次の命題の検討に入っていきましょう。 「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(一六九ページ/二四ページ)。
 この命題は一見すると現実をまるごと肯定する保守主義ともみえるところから、ヘーゲル自身「この簡単な命題は多くの人に驚きと敵意をおこさせた」(『小論理学』上六九ページ)といっています。しかしヘーゲルの真意は全く別なところにありました。それを以下にみてみましょう。
 右にみたようにヘーゲルは、『法の哲学』の課題が、国家を「概念において把握」するこころみであるといっていますが、では国家を「概念」において把握するためには、何をなすべきなのか。
 ここで、ヘーゲルは、後にマルクスが『資本論』で引用することになる、「ここがロドスだ、ここで跳べ」という言葉をもちだし、「哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を越え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳びこえて外へ出るのだと妄想するのとまったく同様におろかである」(一七一、一七二ページ/二七ページ)。
 ヘーゲルの生きた時代における「時代の精神」ともいうべきフランス革命こそが、国家の概念をとらえるべきロドス島であり、ヘーゲルは、この舞台でいま、国家の概念を求めて跳びたとうとしているのです。
 「哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現われる」(一七四ページ/二九、三〇ページ)。フランス革命の第一幕がおりた現在こそ、ヘーゲル哲学の登場のときなのです。
 フランス革命の「現実」のなかから、国家の真にあるべき姿という「理性的なもの」をとりだそう、そうすればその国家の概念は、単なる理想にとどまらず、挫折したフランス革命の自由の精神を、必ず必然的に「現実」へと転化させるであろう。これこそヘーゲルが、序文の命題に託した真意として理解すべきものなのです。
 ここには、エンゲルスのいうヘーゲルの革命的性格と変革の立場が、それとなく示されています。
 「熱きにもあらず、冷やかにもあらず、それゆえに吐き出されるようなしろものたる、真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。他方また、この現世ではたしかに万事がひどいか、せいぜい中くらいの状態だということは認めるが、そこではどうせましなものは得られないものとし、それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような、冷たい絶望でもっても理性は満足しない。認識が得させるものは、もっと熱い、現実との平和である」(一七三、一七四ページ/二九ページ)。
 ヘーゲル哲学は、実践に結びつかない真理の認識などで満足してはならないとして、現世にたいする冷たい絶望ではなく、現実を真にあるべき姿に変革するという「熱い、現実との平和」を求めているのです。
 「ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」(一七四ページ/三〇ページ)という有名な文章も、けっして哲学は時代の後尾にしたがうべきだということを意味しているのではなく、フランス革命という「時代の精神」の成熟した、「フランス革命のたそがれ」としてのいまこそ、『法の哲学』という知の使者が、未来に向って飛びたつことを意味しているのです。 
 ヘーゲルは、理想を掲げるのであれば、現実となる必然性をもった理想でなければならないと考え、理想と現実の統一をめざしました。
 「一般の漠然とした考え方にもすでに理性的なものの現実性を否定するような考え方がある。その一つは、理念や理想は幻想にすぎず、哲学とはそうした幻想の体系にすぎないというような考え方であり、もう一つは逆に、理念や理想は現実性を持つにはあまりにもすぐれたものであるとか、理念や理想は現実性を手に入れるにはあまりに無力であるというような考え方である」(『小論理学』㊤ 七〇ページ)。
 しかし、このように、理想と現実とを切りはなすことは正しくないとして、ヘーゲルは「哲学はただ理念をのみ取扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンにとどまって現実的ではないほど無力なものではない」(同七一ページ)と断じています。「ゾレン」というのは、(そうあるべき)という意味です。『法の哲学』は、単にそうあるべき「法」を論じているのではなく、現実となる必然性をもった理想としての「法」を論じているのです。
 ちなみに、ヘーゲルの一八一九年から二〇年の講義録(『ヘーゲル法哲学講義録』ディーター・ヘンリッヒ編、法律文化社)では、「理性的なものは現実的になり、現実的なものは理性的になる」(同五ページ、太字は引用者)として、その趣旨がより明確な命題となっています。
 エンゲルスも、この命題を「人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存する見かけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられている」(『フォイエルバッハ論』全集㉑ 二七一ページ)ものとしてとらえています。
 しかし、この命題のもつ真意をもっとも深く、かつ正確にとらえたのは、マルクスでした。
 マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の第二テーゼをみてみましょう。
 「人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はなんらの問題などではなくて、一つの実践的な問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、を証明しなければならない」(全集③三ページ)。
 「観想(テオリー)」というのは、頭の中だけで考え、思いめぐらすことです。マルクスは真理を認識するには、現実に立ち向う実践が必要であって、観想の問題ではないと考えました。そして現実のなかからつかみだした理想は、実践をつうじて現実に転化するという力をもっていることを示すことにより、真理であったことを証明するというのです。真にあるべき姿という、現実に転化する必然性をもった理想は、「彼岸(ひがん)」(あの世)にではなく、現実の「此岸(しがん)」(私たちの生きている現実世界)に存在するのです。
 こうしてみてくると、ヘーゲルが、「絶対理念」という概念をその哲学体系全体の舞台回しの役割に使っており、その限りでヘーゲル哲学の体系という枠組みそのものは、観念論的体系ということができますが、けっしてヘーゲル哲学全体を「客観的観念論」の体系としてとらえることのできないのは明瞭だと思います。
 最後に、今一度ヘーゲルの言葉を紹介しておきます。
 「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」(『小論理学』㊦ 二三五ページ)。
 現実と格闘し、現実のなかから理想を導き出す、しかも現実に転化するだけの必然性と力をもった理想を導き出し、意志の力によって世界を真にあるべき姿にかえようとするヘーゲルの変革の立場は、わたしたちも学ばねばらない唯物論的態度だということができるのではないでしょうか。