『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第三講 「法」の理念

一、何から出発するか

 今日から「緒論」にはいります。緒論は第一節から第三三節までです。ここでは、広義の「法」の真にあるべき姿、「法」の理念とは何かが問題とされます。そして「法」は自由な意志を基盤とするものであることを前提として、自由な意志とは何かが論じられます。ここで論じられる自由論は、深く、かつ全面的に論じられた自由論として、科学的社会主義の人間論や自由論としても学ぶべきものが多々ふくまれています。
 これまでにもお話ししてきたように、ヘーゲルの体系のなかで『法の哲学』は、「精神哲学」の一構成部分という位置づけになっています。ヘーゲルにとって「精神哲学」とは、「自然哲学」に対立する概念であり、「主観的精神」「客観的精神」「絶対的精神」という三つの篇から構成されていて、人間の精神活動から生まれる一切のものを対象としています。『法の哲学』は、そのなかの「客観的精神」である、狭義の法、権利、道徳、家族、市民社会そして国家を哲学的に考察したものです。したがって、『法の哲学』の出発点となるのは、そもそも人間とは何か、人間の本質とは何かという人間論であり、その土台のうえに法、権利、国家などが論じられることになります。
 この方法論に正面から異議を唱えたのが、マルクスでした。
 第一講で紹介したように「経済学批判・序言」(全集⑬六ページ)のなかで、マルクスは『法の哲学』の批判的検討をつうじて、「法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解されうるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根ざしている」(同)という史的唯物論を確立していったことを明らかにしています。
 ヘーゲルは、「人間精神の一般的発展」として法と国家を論じていますが、マルクスは、法と国家を論じるのであれば「物質的な諸生活関係」、つまり経済的諸関係から論ずべきであり、法や国家は、土台である経済的諸関係に規定される上部構造としてとらえなければならないというのが、「研究の到達した結果」であったのです。いわば、ヘーゲルが人間論から出発して法や国家を論じたのに対し、マルクスは経済的諸関係から出発して法や国家を論ずべきだと考えました。
 マルクスの若いときの論文「ユダヤ人問題によせて」や「聖家族」では、こうした史的唯物論の見地にたって、近代の人権宣言は、資本主義的生産様式という土台に規定されたブルジョア民主主義の法にすぎないことが、厳しく批判されています。
 しかしヘーゲルのためにあえて弁明するならば、ヘーゲルは、真にあるべき法や国家を問題としているのであって、資本主義国家の実定法を問題にしているのではありません。そのかぎりでは、『法の哲学』の対象となっているものは、マルクスがおこなっている資本主義的国家の法批判の問題とは次元の異なる問題ではないかと思われます。もっとも、ヘーゲルは『法の哲学』のなかの「市民社会」において、資本主義社会そのものを問題としてはいます。しかし、これもあくまで真にあるべき国家を考えるうえで、克服すべき課題としての「市民社会」を論ずるかぎりでとりあげているにすぎません。
 それはともかく、国家と法の本質が、土台である経済的諸関係を反映する階級的視点からとらえられるべきだとしても、それでは、人間の本質から出発して、法や国家を論じる『法の哲学』がその意義を失ったのかといえば、けっしてそうではありません。
 法や国家が、人間社会に固有の産物であり、人間の精神活動の一つの所産であることを考えれば、人間論から出発する『法の哲学』は、史的唯物論からとらえる法や国家とは異なる独特の意義をもっているといわなければなりません。
 史的唯物論では、人間の集団をバラバラな個人の集まりではなく、生産手段とのかかわりから生ずる搾取階級と被搾取階級という階級に大別してとらえ、階級間の矛盾と闘争をつうじて社会が発展するという、社会の構造と発展の法則を明らかにしました。それにより「人類の歴史」はもはや「無意味な暴力行為」の「乱雑なもつれ合い」ではなく、「人類そのものの発展過程」(『反デューリング論』全集⑳二三ページ)としてとらえることができるようになりました。
 その功績はきわめて大きいものがありますが、他面からいうと、その階級的観点は人間を集団としてとらえるものであり、逆に、人間とは何か、という人間論の探求が十分展開されないことになりました。そのため、個々の人間における人間の尊厳や個人の尊厳という問題が二の次とされたことは否定できません。
 これに対して、ヘーゲルの場合は、人間論から出発し、人間の本質から法や国家を論ずるものとなっているために、人間の尊厳や個人の尊厳という問題が徹底的に探求されるところとなる功績を残したのです。
 マルクスも若いときは、「ミル評注」や「経済学・哲学手稿」などで、人間論についての研究もしていたのです。しかし経済学の研究に本格的に打ち込むようになってからは、もはやこの問題に立ち戻る時間的余裕はありませんでした。それだけに、あらためて『法の哲学』の検討をつうじて、科学的社会主義の人間論や自由論を深めていく必要があるのではないかと思うものです。

 

二、「法」の理念(第一〜三節)

理念とは何か

 「哲学的法学が対象とするのは法の理念」(第一節)です。「法」の理念とは、そもそも広義の法とは何か、広義の法の本来の姿とは何かを問い直すことを意味しています。「理念」(イデー、イデア)というのは、ヘーゲル哲学の根本概念となるものであり、またヘーゲルが観念論者といわれるゆえんともなっている概念です。
 この「理念」はもともと、プラトンの「イデア論」に由来する概念であることは、第二講でお話ししました。しかし、プラトンが、イデア界という真実在の世界は、彼岸にある超越的世界であると考えたのに対し、ヘーゲルは、「イデア」を、現実のなかにあって、現実のなかから生まれてくるものであると同時に、イデアは必然的に現実に転化し、現実と一体化する概念であるととらえました。つまり「エネルゲイアとしてのイデア」(運動するイデアとして、現実と一体となった概念。『小論理学』下八三ページ参照)としてとらえたのです。
 だから、「法の理念」は「法の概念と、これの実現」(第一節)であるとし、「概念とその現存在は、たましいと肉体のように、別々でしかも一つになっている二つの面」(同、追加)といっているのです。
 つまり、ここで問題とする法は、あれこれの(例えばプロイセン国家の)実際に制定された法(実定法)ではなく、真にあるべき法が客観化された法であり、「概念」としての「法」が現実となったものだと言明されているのです。
 理念は、概念が現実性を身につけたものですから、「法学は理念を……概念から展開しなければならない」(第二節)ということになります。では、「法」の概念とは何か。ヘーゲルは、「法の概念は生成の面では、法の学の外にある」(同)のであり、「哲学的論理学から前提される」(同、注解)といっています。つまり、「法」の概念は、『エンチクロペディー』の「精神哲学」でとりあげられた、精神、自由、意志という普遍的原理を前提とし、その必然的な展開として示されることになるのです。
 ここで「法」とは何かを論ずるにあたって、ヘーゲルは、「法」の概念からスタートするやり方と法の定義からスタートするやり方とがあることをあげたうえで、後者は「非哲学的な方法」(同、注解)であると批判しています。というのも、定義というものは、現にあるもろもろの実定法という「特殊なばあいから抽象」してとりだしたものであり、「定義の正しさは現に有るもろもろの表象との一致」(同)におかれるにすぎないからです。
 ヘーゲルは、こういう定義のやり方では「内容にかんしてはことがらそれ自体の〔ここでは法の〕必然性が、また形式にかんしては概念の本性が、わきにおかれる」(同)と批判しています。つまり、存在している実定法を前提とし、法の「定義」からスタートするやり方は現状をそのまま肯定するものでしかなく、現実と格闘し、批判し、そこから概念を導き出すという哲学的方法によらない方法だから真理に接近しえない、というのです。
 さらにヘーゲルは、それではなぜ、実定法から導かれる法の定義からスタートしてはならないのか、その理由を明らかにしています。

「法」とは何か

 ヘーゲルは、実定法には、「一つの民族の特殊な国民的性格と、その民族の歴史的発展段階」(第三節)の要素があるといっています。実定法にはその民族、国家のもつ特殊歴史的状況が反映されているため、その特殊歴史的な実定法から、そこに共通する要素を法の定義としてとりだしたとしても、それは、普遍的意義をもつものにはなりえないというのです。
 ヘーゲルはその例として、紀元前四五〇年頃制定されたローマの「一二表法」をあげています。この「一二表法」は、当時のローマで事実上法的規範性をもっていた諸原則、つまり慣習法を成文化したものですから、当時のローマ奴隷制社会という特殊歴史的状況を反映したものとなっており、その当時の歴史的状況のもとでのみしか承認しえない諸原則を含んでいます。
 ですからヘーゲルは、「法とは何か」を論ずるにあたって、実定法という「史的な諸根拠にもとづく展開」と「概念にもとづく展開」とを混同してはならない(同、注解)としたうえで、総じて実定法というものは、「ただ歴史的な価値しかもっていない」のであり、「それゆえにまた一時的な過ぎ去りやすいのもの」(同)だと断じています。哲学的な法(概念にもとづく法)と実定法との関係は、ローマの「法学提要」と「法学大全集」との関係のようなものだといっています。つまり、哲学的な法は法の根本原理を明らかにしたものであるのに対し、実定法は、哲学的な法から展開されるものにすぎないのです。 
 いやしくも法とは何かを問題とするのであれば、すべての時代とすべての法に妥当するものが問題とされなければなりません。「一時的な過ぎ去りやすい」実定法を基準としては、「法とは何か」を考えることはできない、というのがヘーゲルの結論です。
 したがって、「法とは何か」をとらえるには、思惟をめぐらして「法」の「概念」をとらえ、その概念の展開として、法と権利を説き明かしていかなければならない、ということになってきます。

 

三、「法」の地盤は自由な意志(第四節)

「法」の地盤は意志

 さて、これから、いよいよ思惟をめぐらして、「法」の概念を求めていく旅に出ることになります。
 まず最初に、ヘーゲルは「法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす」(第四節)といっています。
 「法」(レヒト)は人間の精神活動の所産です。「法」の世界は、精神の世界なのです。「法の体系は、実現された自由の王国であり、精神世界から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である」(同)。精神を知ることは、すなわち人間を知ることであり、いよいよここからヘーゲルの人間論がはじまるのです。
 ヘーゲルの『精神哲学』は、次の文章からはじまっています。
 「精神の認識は最も具体的な認識であり、したがって最も高く、最も困難な認識である。汝自身を知れ、この絶対的な命令は、……人間の真実なものの、絶対的に真実なものの認識という意味を、精神としての本質そのものの認識という意味をもっているのである」(『ヘーゲル・エンチュクロペディー』堅山欽四郎他訳、三〇九ページ、河出書房新社)。
 「汝自身を知れ」というのは、ギリシヤのデルフォイの神殿の入り口に刻まれていた有名な言葉です。精神をもつ人間とは一体なにか、また人間の精神活動は、いかなる内容をもって展開していくのでしょうか。ヘーゲルは、『エンチクロペディー』の内容を要約して、次のようにのべています。
 「精神はまず第一に知性であること、知性がその発展において感情から表象を経て思惟へとすすんでゆくさいに通る諸規定は、精神がおのれを意志として生み出す道であること、そして意志は、実践的精神一般として、知性のすぐつぎの真理であること」(第四節、注解)。
 精神活動が、「感情」から「表象」(イメージすること)を経て、「思惟」へとすすんでいくなかで、「意志」が生まれ、この「意志」を地盤として「法」が生まれるというのです。
 では、「思惟」と「意志」は、同一なのかそれとも区別されるのか。ヘーゲルは、意志とは何かを実現しようという精神の活動であるとして、意志を「実践的精神一般」とよんでいます。「思惟と意志の区別は理論的態度と実践的態度との区別にほかならない」ものであって、「意志は、……おのれに現存在をあたえようとする衝動、としての思惟なのである」(同、追加)。しかし、思惟と意志とは、このように区別はしうるものの「それらは一つの同一のものであって、思惟ならびに意欲のどんな活動のうちにも両方の契機が見い出されるのである」(同)。
 ヘーゲルは『小論理学』では、この「思惟と意志」との対比を「認識と意志」との対比としてとらえています。「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする」(下二三五ページ)。意志を変革の立場からとらえていることは、『法の哲学』と同じ立場といっていいでしょう。
 法の地盤を意志に求めるヘーゲルの考えは、ルソーの影響を受けたものと思われます。ルソーは、『社会契約論』(桑原武夫他訳、岩波文庫)のなかで、社会契約の本質を「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受けとるのだ」(同三一ページ)ととらえました。そして法とは、一般意志の形式化であり、一般意志にもとづく統治により治者と被治者の同一性が実現されると考えたのです(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。
 ルソーの功績は、力による支配を否定し、人民の一般意志による統治という民主主義の原則を確立するところにありました。ヘーゲル『法の哲学』は、ルソーの哲学のうえに、それを止揚するものとして成立しています。ですからヘーゲルも、一方ではルソーのこの功績を評価しつつ、他方ではこれを批判しています。批判の部分は、また後日検討することにして、とりあえず評価している箇所をみてみましょう。
  「哲学的考察が取り組むのは、すべてこうしたものの内部にあるもの、すなわち思惟された概念だけである。この概念を探し出すという点で、ルソーには、たんに形式上思想である原理〔たとえば社会衝動とか神的権威とかいったようなもの〕ではなく、形式上だけではなく内容上も思想であり、しかも思惟そのものであるような原理、すなわち意志を、国家の原理として立てたという功績がある」(第二五八節、注解)。

意志は自由

 「法」の基盤が意志であるとして、では、実践的精神一般としての「意志」とは、いったい何でしょうか。
 ヘーゲルは、「意志」は「自由」と同じことであり、「意志は自由なしには空語であり、自由もまた、意志として、主観ないし主体としてはじめて現実的なのである」(第四節、追加)といっています。
 人間の精神活動として、何かをやろうとする実践と結びついた意志は、やりたいことは何でもやろうとする意志として、自由な意志でしかありえないのです。ヘーゲルは、「自由は、重さが物体の一根本規定であるのとまったく同様に、意志の根本規定だからである」(同)としています。
 しがって、いまでは、「法の地盤は……自由な意志である」と規定されることになります。「自由が法の実体と規定をな」し、「法の体系は、実現された自由の王国」(第四節)なのです。
 では自由とは何か。ここからいよいよ『法の哲学』の最大の功績の一つともいうべき自由論に入っていくことになります。

 

四、主体としての自由(第五〜七節)

否定的な自由(自我そのもの)

 人間は「考える葦」であり、思惟する存在です。思惟は、思惟する主体としての個人(自我、自分自身)なくしては存在しません。自由もまた、「主観ないし主体としてはじめて現実的」(同、追加)となるのです。
 第五節から第七節までは、主体としての自由(主体的自由)とは何かを問題としています。
 第五節ではまず自分自身のうちに沈潜して、客観世界に背を向け何も実践しようとせず、その意味では、自分を特殊化することなく、普遍的な自分自身にとどまり続ける自由、つまり主体としての同一性を保ちつづける自由をとりあげています。これは、いわば自我そのものといっていいでしょう。こういう特殊性を否定し、抽象的な自分自身という普遍にとどまっていようとする抽象的な普遍的自由を、ヘーゲルは、客観世界を否定する自由として「否定的な自由、ないしは悟性の自由」(第五節、注解)とよんでいます。
  「意志は、自我のまったくなんともきめられていない純粋な無規定性、すなわち、ひたすらおのれのなかへ折れ返る純粋な自己反省、という要素を含む」(第五節)。
 社会現象としての「引きこもり」が問題となっています。そこには何も積極的なものは見られないように思うむきもあるかと思いますが、ヘーゲルはそこに抽象的な普遍にとどまり続けようとする主体としての自由の端緒的形態を見出しているのです。それは、人間が他人や客観世界に影響されることなく自分らしくあり続けたいという、主体としての自由を求める一つの証しでもあるといってよいでしょう。あれもやりたい、これもやりたいという主体(自我)は、何でもやりたいがゆえに、あれこれのやりたいこと(特殊性)に振り回されない、自己同一性を保つ普遍的な主体としてまず存在しているのです。それは、「どんな内容もなにか制限であるとする、いっさいの内容からの逃避」としての「否定的な自由」(同、注解)なのです。
  「つまり意志は、いっさいを度外視する絶対的な抽象ないし絶対的な普遍性という、無制限な無限性であり、自己自身の純粋な思惟である」(第五節)。
 こういう否定的な自由が、自己に向かうとき、それは、「インド的な純粋瞑想の狂信とな」り、「現実へと向かうとき」それはたとえば、フランス革命の恐怖政治のように「いっさいの既存の社会的秩序粉砕の狂信となる」(同、注解)のです。
 この否定的な自由は、あらゆる特殊性を否定するという一面的な自由ではありますが、主体としての自己同一性(絶対的普遍性)を保つ意識、つまり自分自身であり続けたい自由として、意志の「一つの本質的な規定をふくんで」おり、「それゆえ捨て去ってはならない」(同、追加)積極的意義をもっているのです。
 なぜなら「人間は自己自身の純粋な思惟であって、思惟するものとしてのみ人間は、おのれに普遍性を与えるという力」(同)である、つまり、思惟する主体として存在しているからです。
  
特殊的な自由(自我の定立)

 しかし、人間は、いつまでも客観世界を否定し、自分自身のもとにとどまり続けられるものではなく、客観世界を対象として具体的に何かを実践しようという、特殊な意志の自由をもっています。自己同一性を保とうとする意志から、実践的精神により、自己に変化を求めようとする意志への移行といってもいいでしょう。いわば抽象的な無規定の普遍的自我から、客観世界に足を踏み入れ、特殊的に規定された自我へ移行する自由です。
 「自我はまた、区別なき無規定性から区別立てへの移行」であり、「自我はこのように自己自身をある規定されたものとして定立することによって、現存在一般のなかへ踏み入る。——これが自我の有限性ないし、特殊化という絶対的契機である」(第六節)。
 抽象的普遍の自由は、「なにものをも欲しない」自由であるのに対し、特殊的な自由は、「たんに意志するだけではなくて、あるものを意志する」(同、追加)自由なのです。それは自分自身を、何ものをも欲しないがゆえに何でも欲しうるという状況から、一つの特殊的なものを意志する(欲する)という状況に制限し、意志を無限なものから有限なものに移行させることになります。それはいわば、抽象的自我を否定して、客観世界との関わりのなかで、ある規定された自我として定立するものだということになるのです。

具体的普遍の自由(自由な自我)

 ヘーゲルは、自分自身(自我)という主体(個別性)の自由は、このような、抽象的普遍の自由と特殊的自由とを統一した自由(具体的普遍の自由)であるととらえています。
 意志は、この「両契機の一体性」、「すなわち、特殊性がそれ自身のなかへ折れ返り、このことによって普遍性へと連れ戻されたあり方、つまり個別性である」(第七節)。
 個別性としての自我という主体は、どんなに、自らを特殊的なものとして規定しながらも、主体としての自己同一性を失わず自分自身であり続けるところに自由な意志の保持者と認めることができるのです。あれこれの特殊意志に制限されて、自分自身に立ち戻れないような自我は、いわば自己喪失ともいうべき状況にあって、自由な意志の主体と認めることはできないのです。
 「いいかえれば、それは、自我が自分を、自己自身の否定的なものとして、つまり規定され制限されたものとして定立しながら、同時に、依然として自分のもとに、つまり自分との同一性と普遍性のうちにありつづけ、したがって規定のなかで自分をただ自己自身とのみつなぎ合わせるという、自我の自己規定である」(同)。
「自我の自己規定」というのは、自我が自我としての自分を確立していくという意味に理解したらいいでしょう。
 人間は、無限に発展しうる自由な意志をもつことにおいて、自由な主体なのです。いいかえれば、現在どんなに特殊な意志をもっていたとしても、いつでもその特殊な意志を放棄して、再び他の特殊な意志を追求しうる自分自身に立ち戻れるということが、自由な意志なのであり、それが、自由な意志の「概念」なのです。ヘーゲルは、真にあるべき姿としての「概念」を「具体的普遍」としてとらえています。「概念」は、自らを特殊化する力をもちつつも普遍性を保ちつづける個別性、つまり特殊と普遍の統一としての個別という「具体的普遍」なのです。
 「自我は、この規定されたあり方を自分のもので観念的なものであると知る。つまり自我は、この規定されたあり方がたんなる可能性であって、自分はこれによってしばられておらず、自分がこの規定されたあり方のうちにいるのは、自分がそれにおいて自分を定立するからにすぎないのであると知る。このことが意志の自由なのである。この自由が意志の概念ないし実体性をなし、意志の重さをなすことは、重さが物体の実体性をなすのと同様である」(同)。
 ここにいう「観念的なもの」とは、ヘーゲル独特の用語法であって「有限なものは真なる存在ではなく、無限性こそ真なるもの」ということを意味しています。つまり、自我は、自らを特殊化したあり方は有限なものであるがゆえに真実な存在ではなく、たえず特殊化されたあり方から普遍的な自我へ、さらに普遍的自我から特殊化へを繰り返しつつ、無限に発展する「観念的なもの」であることを知るところに、自由な意志の主体といわれるゆえんがあるのです。自我を無限なものとして知ることが、「意志の自由」なのです。
 ヘーゲルは、自由が「意志の概念」をなすとのべたあとで、概念が「具体的で真なるもの」つまり具体的普遍であることを説明しています。
 「具体的で真なるもの……は、普遍性が特殊的なものを対立物としてもちながら、しかもこの特殊的なものがそれ自身のなかへの折れ返りによって普遍的なものと等しくされているような、そういう普遍性である。このような一体性が個別性である」(同、注解)。
 以上ヘーゲルが主体としての自由で訴えたいことを要約すれば、人間は、客観世界との関わりのなかでたえず自己を特殊化しつつ、それを否定することをくり返すことによって、自己を無限に発展させる可能性をもつところに、自由な意志の主体、自由な自我としての意義があるということなのです。
 「自由とは、一つの規定されたものを意志すること、しかしこの規定されたあり方においてありながらも自分のもとにあること、そしてもとどおり普遍的なもののなかへ還帰することである」(第七節、追加)。
 ヘーゲルは、このように自由をとらえたうえで、その自由の例として、友情と愛をもちだしています。
 すなわち友情も愛も、自分自身が相手との関係においてはじめて成立する「感情」ですから、それは直接「意志」の問題ではありませんが、具体的普遍としての自由とは何かを考える好材料となっているのです。
 友情も愛も、内にあった自分自身が、客観世界にとびだし、相手とぶつかり、相手の気持ちに同調して自分を相手と一体化させ、そのかぎりで自分を特殊化します。それにより、相手に自分の気持ちを奪われながら、そのことによって友情や愛を、自分自身のなかから失うのではなく、かえって自分自身のもとに「還帰」して自己のうちに友情や愛の感情を育み自己を確立していくことになります。そういう自我が自分自身を規定し、「他のもののうちにありながら、しかも自分自身のもとにある」(同)ことが、「自由の具体的概念」(同)であるというのです。
 ヘーゲルの自由論は、主体としての自由の問題から、認識としての自由の問題へと発展し、ますます面白くなってきますのでご期待下さい。
 ヘーゲルの自由論と科学的社会主義の自由論の関係については、次講で詳しく検討することにします。