『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第四講 認識における自由

一、形式的自由(第八〜一四節)

意志の内容

 主体としての自由とは、自分を特殊的なものとして定立しながら、なお自分自身に還帰し、無限に発展しつつ自分自身であり続けることにある、ということを第三講でみてきました。しかし、意志はもともと「実践的精神一般」(第四節、注解)であり、自己の外にある客観世界に対して働きかけ、「おのれに現存在を与えようとする衝動」(同、追加)ですから、たんに主体としての自由の問題ではなく、客観世界をどのように認識し実践するのかという、認識における自由の問題として、客観世界に関わっていくことになるのです。。
 ヘーゲルは、認識における意志の自由にも、様々な形態があるということで、「意志の諸形式の区別」(第八節)を論議していくことになります。
 意志の特殊化が、「主観的なものと外面的直接的な現存在としての客観的なものとの、形式的な対立であるかぎりでは、この規定された意志は自己意識としての形式的な意志であり、外の世界を自分の前に見いだす」(同)。
 実践的な意志は、客観世界を「自分の前に見いだ」して、それにある「内容」(第九節)を与えようとする「目的」(第八節)としてあらわれます。
 すべての実践的意志の自由は、客観世界にたいして「目的」をもって働きかけようとする点では、すべて共通しているのですが、問題は、その「内容」です。ここには人間の客観にかんする認識の進展に応じて、様々な段階があるのです。

形式的自由または恣意

 まずもっとも低い段階の認識に対応する意志の内容からみてみましょう。
 「この内容、すなわち区別された意志規定は、さしあたり最初は直接的である。そこで、意志はただ即自的に自由」であるにすぎない(第一〇節)。
 「即自的な自由」というのは、それは自由な意志とよびうるものではあっても、客観世界について何の知識もないままの「直接的ないし自然的な意志」(第一一節)にすぎず、「即自的に自由であるが、同時にまた不自由でもある。というのは、意志は真に規定された内容としてはじめて真に自由といえるだろうから」(第一〇節、追加)。
 自由な意志は、最初は、客観世界を前にして「何かやろう」「やりたい」という「衝動、欲求」(第一一節)としてあらわれてくるのみです。あれこれの衝動のなかで、「これをやろう」という「個別性の形式」(第一二節)が意志に与えられると、それは「決定する意志」(同)となります。決定する意志によって、それは個人の意志として客観世界に出て行くことになります。しかし、この単に決定する意志は、形式的には自由ですが、内容においては不自由な意志にすぎません。
 「直接的な意志は、それの形式とそれの内容との区別のために形式的である。この意志に属するものは、ただ抽象的な決定することそのことだけであって、内容はまだこの意志の自由の内容と作品ではない」(第一三節)。 つまり、この段階における意志の内容は、客観世界がどうあろうとそれにお構いなしに決定されるものですから、客観世界の法則に盲目的に支配され、従属したものとなり、そのため「真に規定された内容」をともなっていないということになるのです。
 史的唯物論においては、「物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」(全集⑬六ページ)ととらえます。史的唯物論からすれば、ヘーゲルのいう形式的自由は「社会的存在」によって盲目的に支配されたもとでの、単なる決定の自由ということになるでしょう。
 意志は、「目的」という形式においては、自己の意志を客観のなかに実現しようとするものですが、直接的意志の場合、その「内容」は、客観世界がどのようにあるのかとは無関係に、ただ何かをやろうという「抽象的な決定」をしたにとどまっているので、その目的が実現される保証がありません。これは結局のところ内容のない形式のみの自由にすぎませんので、「形式的自由」とよばれるのです。思想・良心・表現の自由などのブルジョア民主主義としての自由は、こういう「形式的自由」「選択の自由」としてとらえうることになります。
 形式的自由の内容は、「私のものとしてありうることも、ありえないこともあるような、可能的なものにすぎない」(第一四節)のであり、いいかえれば、「恣意」(第一五節)にすぎず、あるいは恣意的な「選択の自由」(同、追加)にとどまるものということに他なりません。
 「意志の自由は、右の規定からいえば恣意である。このなかにはつぎの二つのことがふくまれている。すなわち、いっさいを度外視して自分のなかへ折れ返る自由な反省と、内的あるいは外的に与えられた内容および素材への依存とである」(第一五節)。

 

二、恣意のもつ矛盾(第一五~一六節)

自由と必然の統一

 ヘーゲルは、この二つの側面をとらえて恣意は、「矛盾としての意志」(同、注解)であるといっています。つまり自分では、自由に決定したつもりの「内容」でありながら、その内容は、意志の対象とされた客観的事物に支配され、従属した「与えられた内容および素材への依存」(第一五節)となっているからです。いいかえれば、形式的自由または恣意は、自由であって自由ではないという矛盾した意志なのです。
 面白いのは、ヘーゲルが、一八世紀初頭の哲学論争について、この「意志は現実的に自由であるのか、それとも、意志の自由についてのわれわれの知は迷妄でしかないのか、という論争において眼前におかれていたのは恣意なのであった」(同、注解)としていることです。
 その哲学論争とは、人間の意志は自由なのか、それとも必然なのか、という自由と必然の論争でした。意志自由論は、人間が客観的法則に拘束されない意志の自由を持ち、自由に行為しうると考え、他方、宿命論、決定論は、人間は自然的にも社会的にも因果関係の連鎖のうちにあって、それに依存し、支配され、拘束されているから、自由な意志というのは幻想にすぎないというものでした。
 この論争に決着をつけて、自由と必然をお互いに相いれない対立をするものとしてでなく、対立物の統一としてとらえたのが、他ならぬヘーゲルでした。
 形式的な自由である恣意は、自由な意志決定という点では意志自由論を、客観世界に盲目的に支配されて自由でないという点では決定論をそれぞれ反映するものとして、「矛盾としての意志」なのです。したがって、この哲学「論争において眼前におかれていたもの」つまり、自由か必然かの哲学論争は、いずれもこの恣意のもつ一面性をとりあげての論争にすぎなかったものということになります。
 「恣意ということのうちには、内容が私の意志の本性によってではなく、偶然によって私のものであると規定されている、ということがふくまれている。したがって私もまたこの内容に依存している。これこそ、恣意のうちにある矛盾なのである。ふつうの人間は、恣意的に行なうことがゆるされているとき自由であると信じる。だが、まさしく恣意のうちにこそ、彼は自由でないということが存するのである」(同、追加)。

恣意のもつ特徴

 恣意は、自由のようにみえて、客観世界の法則に支配されているために、けっして自由ではないのです。
 ヘーゲルは、恣意のもつ特徴についても、なかなか面白いことをいっています。
 まず、理性的な(理にかなった)意志と恣意とをその対比においてとらえた上で、「倫理的行為においては私は、自己自身を押し通すのではなくて、ことがらを妥当するようにさせるのである。だが人間は、なにかまちがったことをすることによって、自分一個の特殊性を最も多く突き出させる」(同)。
 理にかなった意志は、誰が見てもなるほどと思わせる行動となってあらわれるのですが、理にかなわない恣意は、「自分一個の特殊性を最も多く突き出させ」て、奇異に見える行動を生みだすのです。
 だから、偉大な芸術家が、理にかなった作品を完成すると、「世人は、このとおりにちがいないと言うことができる。すなわち、その芸術家一個の特殊性はまったく消え去っており、どんなわざとらしい手法もそこには見えない」(同)のです。これに対して、へたな芸術家の場合「それだけますます作品に彼自身、つまり彼一個の特殊性と恣意が見られる」(同)のです。
 あれこれの恣意をとっかえ、ひっかえしてみても、恣意が恣意である限り「意志は有限性を越え出る」(第一六節)ことはできません。

 

三、恣意から普遍的(必然的)自由へ(第一七~二一節)

衝突のなかから

では、恣意から理性的な(理にかなった)意志へは、どのようにして前進するのでしょうか。また理性的意志とはどんな意志でしょうか。その検討が次の課題となってきます。
 まず、恣意が認識の発展にともなって前進することになるのは、恣意自身が、自由であって自由でない、理にかなっているようで理にかなっていない、という矛盾をもっているからです。それぞれの個人のもつ恣意は、自分では理にかなっていて誰もが納得するだろうと思い込んでいるのですが、実際には特殊性の突出したものであって、誰をも納得させることができませんから、自己の内で「たがいに押し合い、へし合し、さまたげ合い、どれもみな充足されたがる」(第一七節、追加)のであって、「もろもろの衝動の抗争」(同)が生じざるをえないことになります。
 この内心の葛藤をつうじて、自己の内部にそれぞれの恣意のなかに多少とも含まれていた、理性的なもの(法則的なもの)がしだいに純化された形で浮かびあがってくるのです。ヘーゲルにはそれを「衝突の純化という要請」(第一九節)であるといっています。
 「もろもろの衝動に関係する反省」は、「このような素材に形式的な普遍性をもたらし、こういう外面的な仕方で、この素材の生で野蛮な状態を純化」(第二〇節)します。
 この特殊な意志の内部抗争から浮かびあがってきた「素材の普遍性」を意志がとらえ、それを自らのものにしたとき、意志は、偶然的な恣意から解放され、普遍的に自由な意志となるのです。ここにいう「素材の普遍性」というのは、客観世界の必然性、法則性として理解すべきものでしょう。
 「この形式的な普遍性……の真理は、自己自身を規定する普遍性、すなわち意志、自由である」(第二一節)。
 主体が客観世界のもつ法則性をわがものとし、その法則性にもとづいて自分自身を規定したとき、普遍的自由を獲得し、合法則的な実践をすることができるのです。
 「即自かつ対自的に有る意志は、意志としての意志そのものを、それゆえ自分をその純粋な普遍性において、自分の対象としている」(同、注解)。

普遍的自由

 先ほど恣意は、自由であって、自由ではないという矛盾をもっているというところを学びました。それは、恣意は、「決定する自由」ではありながらも、その決定する内容は、客観的事物のなかの普遍性(必然性、法則性)に盲目的に支配され、従属した選択にすぎないからです。
 これに対して、即かつ対自的に自由な意志というのは、客観的事物のなかの普遍性を認識し、その普遍性を反映したうえでの決定をする自由、普遍的自由なのです。ここにおいて自由は、必然性との対立においてではなく、必然性との統一においてとらえられることになり、一八世紀初頭の哲学論争を止揚することになります。
 エンゲルスは、これを「事柄についての知識をもって決定をおこなう能力」(『反デューリング論』全集⑳一一八ページ)だととらえています。
 「自己意識が自分の対象、内容、目的を、右の普遍性にまで純化し、高めるのは、意志のかたちでおのれを貫徹する思惟としてこれを行なうのである。ここにこそ、意志はただ思惟する知性としてのみ、真実な自由な意志であるということが、そこで明らかになる点がある」(第二一節、注解)。
 『法の哲学』では、即かつ対自的に自由な意志を、「普遍性にまで純化し、高め」た意志であるといっていますが、先の哲学論争においても、自由か、必然かという問題として議論されてきたように、この「普遍性」は、「必然性」とおきかえて読んだ方がわかりやすいと思います。
 現に、ヘーゲルは、『小論理学』では、もっぱら自由を必然性との関係で論じています。 
 恣意は、「けっして自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない。恣意を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる本当に自由な意志は、その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることをも知っている。これに反して、恣意の段階に立ちどまっている意志は、内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気が向いたらまた他のものを選んだかもしれないという軽薄さを持っている」(『小論理学』下九〇ページ)。
 ヘーゲルのいう、「本当に自由な意志」の内容となる「即自かつ対自的に確実なもの」というのを、別の言葉でいえば、必然性ということになります。
 この自由と必然の問題には、重要な論点が含まれているので、後ほどあらためてふれたいと思います。

 

四、普遍的自由から概念的自由へ(第二二~二八節)

客観的事物に立ち向い、自己に立ちもどる

 こうして、即自的に自由な意志は、形式的自由から普遍的自由へと発展してきました。ヘーゲルはそれを即自かつ対自的な意志だといっていますが、この意志は、事物の普遍性を認識する段階から、さらに前進していくことになります。
 まずヘーゲルは、即自かつ対自的な意志は「真に無限」な意志(第二二節)だといいます。ヘーゲルのいう真無限の意志とは、直線的に「さきへさきへと外に出てゆく」無限(悪無限)の意志ではなくて、外に出て、また自分自身に帰ってくることをくり返し無限に発展していく意志を意味しています。つまり、真無限の意志は、自我が自らを対象のなかに客観化し、さらに客観から自分自身に立ちもどるという、客観(対象)との対立と闘争をつうじて無限に客観的真理に接近する意志を意味しています(『小論理学』上三一八ページ)。
 真無限な意志の「対象は意志にとって他のものでもなければ制限でもなくて、意志はむしろ対象においてまさしく自己のなかへ帰っているからである」(同)。
 ですから、この真無限の意志は、たえず客観的事物に立ち向い、自己に立ちもどるということをくり返すなかで、事物の普遍性、必然性を認識するところからさらに一歩前進し、ついには客観的事物を、もはや「意志にとって他のものでもなければ制限でもなく」、意志によって規定される概念(真にあるべき姿)としてとらえる、概念的自由に到達するのです。

概念的自由は、自らを外化して現実に転化していく

 自由な意志が、事物の概念をとらえることによって本当に自由な意志になると、その意志は、客観的事物から離脱した思惟の独自の産物となり、「他のものへの依存の関係がいっさいなくな」り、「自己自身よりほかのなにものにも関係しな」くなってきます(第二三節)。真にあるべき姿は、事物のなかの抽象的普遍(法則性)よりももっと高い、客観的事物を超越した真の普遍的な姿であり、ヘーゲルは、それを「概念」または「具体的普遍」とよんでいます。
 「普遍性という言葉でまず第一に表象に浮かんでくるのは、抽象的で外面的な普遍性である。だが、ここで規定されたような即自かつ対自的に有る普遍性というばあいには、反省の普遍性、つまり共通性とか総体性のことを考えてはならない。……それ自身のうちで具体的な、それゆえ対自的に有る普遍性――これこそ自己意識の実体、自己意識の内在的な類ないしは内在的な理念である」(第二四節、注解)。
 具体的な普遍、つまり概念的自由こそ、自由な意志の到達すべき目標とでもいうべきものであり、それが自由な意志の「内在的な理念」(イデア)なのです。
 ヘーゲルは、「もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(『小論理学』下一一六ページ)といっています。客観世界の抽象的普遍をとらえる普遍的自由は、まだ本当の自由ではなく、客観世界の普遍性(必然性)を揚棄して、真にあるべき姿としての概念(具体的普遍)をとらえる概念的自由こそが、真に自由な意志といえるのです。つまり、普遍的自由は、必然性を認識することによって、必然性に盲目的に支配される状況ではなくなり、その必然性にそって合法則的に活動することを可能にするものではあっても、依然として必然性の支配そのものをやむをえないものとして受け入れるという意味で「まだ自由ではない」のです。恣意(形式的自由)から普遍的自由への移行は、必然性に盲目的に支配される段階から、必然性を認識しつつも、なお必然性に支配される段階への移行を意味するにすぎません。これに対して概念的自由は、客観世界そのものを超える「真にあるべき姿」を認識することによって、客観世界の必然性そのものを揚棄し、真に自由となることができるのです。
 ヘーゲルのいう具体的普遍は、普遍と特殊の統一としての個別性ですから、普遍ではありながらも自らを特殊化していくことになります。本当に自由な意志(真にあるべき意志)は、いつまでも自己の内にとどまるものではなく自らを外化して客観に転化していくことになります。いわば、「真に無限なものは、自由な意志のうちに、現実性と現存在をもつ」(第二二節、注解)のです。
 こうして主観的な存在にすぎなかった本当に自由な意志は、客観性をもかねそなえることになり、「自由な意志の現存在」(第二九節)として、『法の哲学』の対象としての、「狭義の法」「道徳」「家族」「市民社会」「国家」となってあらわれるのです。

主観的精神から客観的精神へ

 こういう問題意識のもとに、ヘーゲルは、第二五節と第二六節で、主観性と客観性のもつ多義的な内容とその相互移行の問題を論じています。ヘーゲルにいわせれば、主観性も客観性もいずれも一面的なものであり、真理は、主観と客観の統一にあるのです。だから「哲学における真理とは、概念が実在に対応するということである」(第二一節、追加)ということになり、概念(主観)と実在(客観)との統一としての「理念」の真理性が宣言されるのです。ヘーゲルが、理想と現実の統一を求めたといってきたのは、そういうことを意味しています。  以上を予備知識として、主観と客観の多義的内容のうち、当面の主題にかかわるところのみをみていくことにしましょう。
 まず主観的な意志とは、「自己意識の純粋な形式」として、「自我=自我としてまったく内面的」(第二五節)な意志です。これに対して客観的な意志とは、客観に支配され、従属した意志、つまり「自分の客体ないし状態のなかへすっぽり沈め入れられた意志」(第二六節)です。したがっていずれも「一面的な形式」にすぎないところから「その有限性のゆえに、したがってその弁証法的な本性のゆえに、自分と反対のもののなかへ移り込む」(同、注解)ことになります。一面的なものは、「弁証法的な本性」によって、全面的なものとしての主観と客観の統一に発展していかざるをえないのです。
 自由な意志も、主観性という一面的形式から抜け出し、客観性をも身につけざるをえないのであり、こうして「客観的精神」に転化していくことになります。それは、「精神が、自分の自由が自分自身の理性的な体系としてあるという意味においても、この体系が直接の現実であるという意味においても、自分の自由を客観的なものにするということである」(第二七節)。
 以上、本講でいろいろ自由な意志についてのべてきましたが、まとめてみますと、それはまず第一に、客観との関係における認識の自由の問題です。認識の自由は、形式的自由である恣意から出発し、次いで客観的事物のなかにおける普遍性を認識する普遍的自由となり、さらには客観的事物の普遍性をこえて、概念(真にあるべき姿)を認識するに至る概念的自由に到達することによって、真の自由に達するのです。いわば「必然の真理は自由であり、実体の真理は概念」(『小論理学』下一一五ページ)といわれる、必然を揚棄した自由の問題に至るのです。
第二に、自由な意志の真理は、主観性と客観性の統一としての自由な意志、つまり主観性としての概念的自由が客観性をも身につけ、真にあるべき「客観的精神」となるです。『法の哲学』は、全体としてこの意味の「客観的精神」を対象としているのです。
 「意志の活動は、主観性と客観性の矛盾を揚棄し、自分の目的を主観性の規定から客観性の規定のなかへ移し込み、客観性のなかで同時に自分のもとにありつづける」(第二八節)。
 こうして、概念的自由としての自由な意志を客観化した理念が、『法の哲学』の内容である第一部「抽象的な権利ないし法」、第二部「道徳」、第三部「倫理」ということになるのです。

 

五、「法」は自由な意志の現存在(第二九~三三節)

「法」は自由な意志の現存在

 「およそ現存在が、自由な意志の現存在であるということ、これが法ないし権利である」(第二九節)。
 『法の哲学』の対象となる法、権利、道徳、家族、市民社会、国家(この全体が広義の法)は、何よりも主観的な概念的自由の意志を客観的な現実の姿に変えた理念として存在すべきものであり、自由な意志という人間の本質を確保し、現実化するものでなければならないというのです。ここにフランス革命の自由の精神を生涯賛美し続けたヘーゲルの自由への熱い心をみてとることができます。この見地から、ヘーゲルは、カントのとらえる「法とは何か」の規定を批判します。
 それは、「法」とは、「私の自由ないし恣意を、それが普遍的な法則にしたがって各人の恣意といっしょに存立できるように、制限する」(同、注解)もの、というのです。
 このカントの規定は、法を自由の現存在という積極的なものではなく、自由の制限としてしかとらえていないし、また法を普遍的法則としているのは正しいけれども、それをたんに矛盾する意志を調整することから生まれる法則としてしかとらえていないと、ヘーゲルは批判しています。
 さらに、このカントの規定には、ルソー以来の自由意志論、あるいは主権在民論の見解が含まれていると批判しています。
 「それによると、意志といっても即自かつ対自的に有る理性的な意志としてではなく、精神といっても真の精神としてではなくて、特殊的な個人としての精神、一個人の独自の恣意のかたちでの意志としての意志が、実体的な基礎であり、第一のものであるとされる」(同)。
 主権在民論では、一人ひとりの人民が主権者として、その意志を政治や法に反映します。ヘーゲルの問題意識は、そういう「特殊的な個人としての精神、一個人の独自の恣意」を政治や法の実体的な基礎にすることによって、真にあるべき政治や法を実現しうるのか、というところにあります。ヘーゲルの投げかける疑問には、「それはまた人びとの頭のなかと現実のうちにもろもろのおそるべき現象をつくり出しもした」(同)という、フランス革命の恐怖政治が反映しています。しかし、ルソーの名誉のために付言すれば、その「人民主権論」は、主権在民論に立ちつつも、単に多数決原理にもとづく統治ではなく、人民の真にあるべき意志、つまり一般意志にもとづく統治により、治者と被治者の同一性を実現しようというものであって、たんなる恣意による統治を意味しているものではありません。この点は、また第一八講で詳しくお話ししたいと思います。

自由の弁証法的な発展

 ともあれこうしたカントやルソーの批判のうえに、ヘーゲルは、あらためて、「法ないし権利はなにか総じて神聖なものであるが、その理由はもっぱらただ、法ないし権利が、絶対的な概念の現存在、自己意識的な自由の現存在」(第三〇節)であるからだとしています。
 しかし概念的自由の現存在としての「法」(広義)にも、より形式的な、より抽象的な、より制限された法から、「もっと具体的な、もっとそれ自身のうちで豊かな、もっと真実に普遍的なもの」(同)である「法」まで様々な発展段階があります。それが第一部「抽象的な権利ないし法」、第二部「道徳」、第三部「倫理」という発展段階となってあらわれるのです。
 以下の論述で、この発展段階をたどってゆくことになりますが、ヘーゲルはそれを「概念がそれ自身からおのれを展開」(第三一節)する弁証法的な発展だとしています。
 ではヘーゲルのいう弁証法とは一体どんな内容なのか、をきいてみることにしましょう。
 「概念の弁証法とは、規定をたんに制限や反対物として産出するのではなくて、規定から肯定的な内容と成果を産出し把握すること――このことによってのみ規定は展開ないし発展であり、内在的な前進であるとして――である。それゆえ、この弁証法はなにか主観的な思惟の外的な行ないではなくて、内容自身のたましいであり、有機的にもろもろの枝や果実を生じるのである」(同、注解)。
 弁証法とは、ちょうど植物の種が成長して苗となり、やがて幹と枝となり、花が咲き果実が実ってくるのと同様に、もっとも単純な概念から出発して、その肯定的規定のなかに否定的規定を見いだし、その肯定と否定の対立と闘争をつうじて、より抽象的なものからより具体的なものへ、より下位のものからより上位のものへと展開される、その概念自身の内在的な運動、自己運動をとらえるもの(「萌芽からの発展」)、というわけです。
 真にあるべき姿としての概念は、「はじめにはやっと抽象的な概念でしかない」のですが、「だがこのはじめの抽象的な概念はけっして放棄されるのではなく、ただ自分のなかでますますより豊かになるばかりであって、最後の規定が最も豊かな規定」(第三二節、追加)となります。
 弁証法的な発展は、保存と否定の統一です。保存しつつ、否定して、より豊かに、より高いものに発展していくのですから、最初の第一部「抽象的な権利ないし法」がもっとも貧しく、次いで第二部「道徳」そして第三部「倫理」へと発展し、倫理の最後に位置する第三章「国家」が「最も豊かな規定」、もっとも豊かな自由の現存在ということになります(第三三節)。
 第一部では、個人のなかの抽象的な自由意志が論じられ、その主体としての自由な人格と、自由な意志が外面化した物件との関係が論じられます。
 第二部では、個人の内部における自由意志が問題とされます。それがすなわち善をなすべしという道徳の問題です。ヘーゲルはそれを「自己反省した意志であり、普遍的なものにたいして主体的な個別性として規定された意志」(同)といっています。
 第三部は、「右の二つの抽象的な契機の一体性と真理」(同)としての「倫理」です。つまり一人ひとりの人間は、個別でありながら、同時に普遍としての真にあるべき共同体の一員であり、そのなかでこそ自由意志は、最も豊かな規定をもつのです。倫理共同体も、もっとも基礎的な共同体である家族から始まり、ついで市民社会、最後に国家が対象となります。
 「国家の法ないし権利は他の諸段階よりもっと高い。それは、自由がその最も具体的な形態においてあるすがた」(同、追加)というのが、『法の哲学』の結論となるべきものなのです。

 

六、ヘーゲルの自由論と科学的社会主義の自由論

「概念」にいたる自由

 先に、ヘーゲルの即かつ対自的に自由な意志には二つの側面があり、その一つが、必然(客観世界の法則性)との関係における自由であることを指摘しておきました。『法の哲学』ではこの部分の展開が十分でないので、『小論理学』にもとづき、補足しておきたいと思います。
 『小論理学』の偶然と必然に関する項目で、先にも一部引用しましたがヘーゲルは次のようにいっています。
 「次に特に重要なのは、意志にかんする偶然性を正当に評価することである。人々はしばしば意志の自由という言葉をたんなる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志と解している。確かに恣意は、さまざまの決定をする能力であるから、その概念上自由なものである意志の本質的モメントではあるが、しかしそれはけっして自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない。恣意を揚棄されたものとして自己のうちにふくんでいる本当に自由な意志は、その内容が即自かつ対自的に確実なものであることを意識していると同時に、それが自分自身の内容であることをも知っている」(『小論理学』下九〇、九一ページ)。
 ここでは、まず恣意を「偶然性の形式にある意志」であり、「さまざまの決定をする能力」であるととらえ、それは「自由そのものではなく、形式的な自由にすぎない」といっています。
 しかし、重要なことは、ヘーゲルがその決定する自由を「自由なものである意志の本質的モメント」としてとらえ、「特に重要なのは、意志にかんする偶然性を正当に評価することである」といっていることす。
 それは、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言などで、思想・良心・表現の自由などが権利として宣言されたことを正当に評価したものということができます。これらはいずれも「決定する自由」を保障したのみであり、そこから生まれる意志は、偶然性に支配された恣意かもしれませんが、それでもこうした自由は、「意志の本質的モメント」として「正当に評価」されるべきだというのです。
 そのうえで、この恣意を揚棄し、客観世界の法則性(必然性)、普遍性を認識したうえで決定する意志を「本当に自由な意志」だといっているのです。「恣意を揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」といっているのは、「本当に自由な意志」は、決定をする自由という恣意のもつモメントは引きつぎながらも、その内容においては、「偶然性の形式」をすてさって「必然性の形式」をもつことを意味しています。
 ヘーゲルのすごいところは、自由の問題をこのような「必然性の認識」の自由、つまり必然的自由(普遍的自由)にとどめず、さらに必然性を揚棄して、「概念」にまで到達するものとしてとらえていることです。
 なぜなら「概念は必然性の真理であり、そのうちに必然を揚棄されたものとして含んでおり、逆に必然性は即自的には概念である。必然性は、概念的に把握されないかぎりにおいてのみ、盲目なのである」(同九六ページ)からです。
 必然性は、客観世界を支配する冷厳な客観的法則として、諸個人の主観的な思惑とは無関係に、盲目的に貫徹されることになります。しかし、この必然性という「現にある姿」を揚棄し、「真にあるべき姿」としての概念をとらえることにより、人間は、この必然性をも変革しうる真に自由な意志をもつに至るのです。その意味で「概念は必然性の真理」なのです。
 ヘーゲルは、必然的自由(普遍的自由)は、まだ「抽象的な自由」に過ぎず、「諦めることによってのみ、救われる」(同一一六ページ)自由だといっています。つまり客観的法則をやむをえない必然性として認める自由なのです。
 「互につなぎあわされているものが、実際互に無縁ではなく、一つの全体の諸モメントにすぎないこと、そしてこれらモメントの各々は、他と関係しながらも、自分自身のもとにとどまり、自分自身と合致するということを示すのである。これが必然性の自由への変容であって、この自由は単に抽象的否定の自由ではなく、具体的で肯定的な自由である。ここから、自由と必然とを相容れないものとみるのが、どんなに誤っているかがわかる。もちろん必然そのものはまだ自由ではない。しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(同一一六ページ)。
 概念的自由は、自由と必然の統一としてあります。ですから概念的自由のもとにあって自由と必然とは、「互いに無縁ではなく、一つの全体の諸モメントにすぎない」のです。普遍的自由は、客観世界の法則性を認識しつつも、それに圧倒され、それをやむをえないものとして受けとめる「抽象的否定の自由」です。これに対し概念的自由は、客観世界の法則性を認識するにとどまらず、その法則を揚棄し客観世界を変革する「具体的で肯定的な自由」なのです。その意味で「自由は必然を前提」とし、かつその「必然性を揚棄したものとして自己のうちに含んでいる」ことになるのです。

ヘーゲルの自由論の継承と発展

 科学的社会主義の自由論は、このヘーゲルの自由論を継承・発展したものとして誕生しました。
 エンゲルスは、『反デューリング論』で次のようにのべています。
 「ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。……自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。……したがって、意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない。だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。……自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである」(全集⑳同一一八ページ)。
 いかにもエンゲルスらしい鋭い切り口で、ヘーゲルの自由論の本質を正確にとらえています。
 しかし、このエンゲルスの自由論をヘーゲルの自由論と比較してみるとき、そこには、大きく二つの問題があることを指摘しないわけにはいきません。
 まず第一に、このエンゲルスの見解によると、自由論の出発点が自由な意志にあることが明確にされていません。その結果、自由のもっとも低い段階である「概念上自由なものである意志の本質的モメント」としての形式的自由が全く評価されないままとなってしまったのです。
 それどころか、ヘーゲルが「さまざまの決定をする能力」を、低次の自由ではあっても本質的な自由としてとらえていたのに対し、エンゲルスは「意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない」と規定してしまいました。
 このエンゲルスの規定によると「事柄についての知識」をもたずに決定する自由、つまりヘーゲルのいう形式的自由は、自由のカテゴリーに含まれないことになってしまいます。そうなれば、人権宣言にもりこまれたさまざまな自由をすべて否定することにもつながりかねません。
 そして、このエンゲルスの自由論が、その後、科学的社会主義の自由論として定式化され、思想・良心・表現の自由などが必ずしも正当な評価をうけることなく経過することにもなっていったのです。
 もっともマルクスは、「経済学・哲学手稿」のなかでは、『法の哲学』の影響を受け、人間の類本質を「自由な意識的な活動」(全集㊵四三六ページ)に求めてはいるものの、自由と必然の関係をこの論文では十分に展開していません。マルクスのいう自由な意志をエンゲルスの自由論に結びつけてとらえることが求められていると思います。
 わたしたちは、この点からしてもあらためて、ヘーゲルの自由論を学びなおす必要があるのではないかと思われます。そうすることによってはじめて、近代民主主義の諸原則としての自由・民主主義を科学的社会主義の自由論にしっかりと位置づけることができるものと考えます。
第二に、エンゲルスが、ヘーゲルの自由論を「自由とは必然性の洞察である」としてとらえているのも正確ではありません。ヘーゲルは、自由を必然性の洞察としてもとらえましたが、さらにそこにとどまらず「必然性を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」というより発展した段階においてもとらえています。
 エンゲルスは、ヘーゲルの指摘した普遍的自由(必然的自由)と概念的自由との区別を明確には自覚していなかったところから、あまり意識しないで、この二つの自由を使い分けています。
 エンゲルスが「自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある」(全集⑳一一八ページ)というときは、普遍的自由を意味しています。
 これに対し、「自由とは、自然的必然性の認識にもとづいてわれわれ自身ならびに外的自然を支配すること」(同一一八、一一九ページ)というときは、全体として概念的自由をのべたものといえるでしょう。とすれば「自然的必然性の認識にもとづいて」とある箇所は、より正確には、「自然的必然性を認識し、これを楊棄してわれわれ自身ならびに外的自然を支配すること」とすべきものでしょう。ここにも両者を明確に区別しなかったことが反映しているように思われます。
 『反デューリング論』の有名な「必然の国から自由の国への人類の飛躍」(同二九二ページ)という命題は、社会主義・共産主義の国において、搾取と抑圧から解放され、真に人間が社会の主人公になり自由の国が実現されるという意味でしょうから、「必然的自由(普遍的自由)の国から、概念的自由の国への人類の飛躍」という意味として理解すべきものでしょう。
 したがって、ヘーゲルの自由論を「自由とは必然性の洞察である」ととらえることは、ヘーゲルの変革の立場を正しく理解しないことになると同時に、普遍的自由と概念的自由の区別をも曖昧にしてしまうことになりかねないとの批判をまぬがれないでしょう。
 以上の二点からして、あらためてヘーゲルの自由論を、正確に、かつ全面的に科学的社会主義の学説にとり入れることが求められているのではないかと思うものです。
かつて、秋間実氏は、自由Ⅰ(必然性との関係における自由)と自由Ⅱ(基本的人権として立ちあらわれる市民的諸権利の内容をなす諸自由)とを区別したうえで、科学的社会主義の見地から自由を論じるとすれば、「自由Ⅰと自由Ⅱとを統一的に――あるいは、すくなくとも連関させて――つかむことを可能にする哲学的自由論を打ちたてることが課題になっている」ことを指摘しました(『科学と思想』一九七五年一月号)。
 拙著『人間解放の哲学』(学習の友社、四一ページ以下)においてこの問題についての一定の解明をしておきましたが、今回、ヘーゲルの自由論を深く学ぶなかで、自由論の出発点をなすのは意志の自由であり、したがって形式的自由も、「概念上自由なものである意志の本質的モメント」をなすことを学びえたのは大きな収穫だったと思います。そしてヘーゲルの自由論こそ、この秋間氏の問題提起に正面から答えるものだと思うにいたりました。そのかぎりで、『人間解放の哲学』における自由論の見地は、本書の自由論で補充されるべきものだと考えるに至っています。