『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第五講 抽象的な権利ないし法

一、法的人格

法の主体(第三四~三五節)

 前回までの講義で、第一に、『法の哲学』の対象となるのは、「客観的精神」、つまり人間の精神によって産出された世界であり、意志は自由なものであること、第二に、自由な意志は、即自的な自由から次第に発展し、最後には「意志の概念」(第七節)に到達して即かつ対自的に自由な意志となり、ついには単なる主観的意志から主観と客観の統一した自由な意志の理念(現存在)となること、第三に、広義の「法」は、この即かつ対自的に自由な意志の現存在であること、第四に、自由な意志の現存在(「絶対的な概念の現存在」第三〇節)は、「抽象的な権利ないし法」、「道徳」、「倫理(家族、市民社会、国家)」として段階的に発展するという、『法の哲学』の大きな流れをみてきました。
 今日から第一部「抽象的な権利ないし法」に入っていきます。
 第三四節から第四〇節までは、第一部の総論であり、これを受けて、第一章「自分のものとしての所有」、第二章「契約」、第三章「不法」へと発展していくことになります。
 ヘーゲルは、この展開を、自由な意志の概念が、それ自身からおのれを展開し、内在的に発展する「自由の概念の発展段階の相違」(第三〇節)だととらえています。それがヘーゲル弁証法の一つの特徴をなしているのです。
 それでは、第一部「抽象的な権利ないし法」、すなわち狭義の法に入っていきます。
 法治国家という言葉がありますように、近代国家において「法の支配」というのは、恣意的な権力の行使を許さない民主主義的ルールの一つとなっています。ヘーゲルは、「法の支配」の根底にあるのは、自由な意志であるという本質をとらえ、自由な意志の展開として、法の基本原理、つまり所有、契約、不法を説明しています。
 最初の総論部分では、法が自由な意志を前提としているところから、法の主体、つまり法的人格は、自由な意志の持ち主でなければならないことが、まず明らかにされています。
 「即自かつ対自的すなわち絶対的に自由な意志が、それの抽象的な概念のうちに有るばあい、それは直接性という規定されたあり方をしている」(第三四節)。
 自由な意志が、まだ「抽象的な概念のうちに有る」というのは、まだ未展開のうちにあることを意味しています。
 未展開の自由な意志は、「一つの主体の、それ自身のうちで個別的な意志」(同)にとどまっています。いわば、一個の主体として自由な意志をもち、「一つの外的な、直接に眼前に見いだされた世界」(同)、つまり客観世界と向きあって立っています。ヘーゲルは、主体がまだ客観世界と交流することなく、主体として客観世界と無関係に一人立っていることを、「直接性という規定されたあり方」といっているのです。
 「この対自的に自由な意志の普遍性は、形式的な普遍性である。それは自己意識的でそのほかは無内容な、自分の個別性のなかでの自分への単純な関係である。――そのかぎりで、主体は人格である」(第三五節)。
 このような自由な意志をもった主体が、一個の人格としてとらえられ、法的人格として認められるのです。いいかえれば、主体が法的人格となるということは、「有限性のなかでそのように自分を無限なもの、普遍的なもの、自由なものとして知るということ」(同)を意味しています。自由な意志の持ち主であってはじめて、権利や義務という法的関係を担う、法的人格、法的主体になりうるのです。
 人間は、具体的な存在として、有限な存在としてありながらも、自由な意志によって、肉体的にも精神的にも無限に発展していくものという矛盾をもった存在です。ヘーゲルはこの点をとらえて、「人格という概念」は、「高いものであると同時にまったく低いものである」(同、追加)といっています。
 人格は、無限に発展する可能性をもった「自由な自我」としては、高いものであり、「人間の最高のことは、人格であることである」(同)ということができます。しかし現実に存在する具体的人間は、可能性としては無限であっても、実際には、「しかじかの年齢、しかじかの大きさ、この空間にいる」(同)などの有限な存在にすぎないのです。人間は、無限に前進し、発展する真無限の可能性をもつ存在でありながら、他方で特殊性に規定された有限な人格であり、この矛盾に生きるなかで、無限に前進するところに、有限性から解放された自由があり、その前進の過程が後に述べるように「人格の陶冶」とよばれているのです。「陶冶」とは、磨きをかけてより優れたものに練り上げていくことを意味しています。
 法的人格は、自由な意志さえあれば、誰にでも認められる、一番低いレベルの人格ということができます。 
 
権利能力(第三六~三九節)

 法という社会的規範は、権利・義務の関係の上にたっています。権利が侵害された場合には、その回復を求めて民事訴訟を提起したり、加害者が刑事事件として処罰されたりすることになります。権利・義務の根底をなすものが自由な意志なのです。自由な意志を持ち、権利の主体となりうる資格を、法律上「権利能力」といいます。権利をもつのは自然人と法人です。近代法は、国籍、階級、職業、年齢、性別等による差を設けず、すべての人間に、出生から死亡するまでの間、平等の権利能力を認めています。法的人格は、すべての人に認められるものとして、最も低いレベルの人格といわれるゆえんです。ただし、それはあくまでも自由な意志をもつ人格ということが前提になっていますから、真に自由な意志をもたない未成年者や精神障害者は、民事・刑事を問わず例外的に権利能力を制限されることになるのです。
 こうして、「人格性は総じて権利能力をふくむ。そして人格性は、抽象的な、それゆえに形式的な権利ないし法の、概念およびそれみずから抽象的な基礎をなしている。それゆえ権利ないし法の命令はこうである――一個の人格であれ、そして他のひとびとをもろもろの人格として尊敬せよ」(第三六節)。
 すべての人々は、対等、平等な権利能力の主体となる人格であり、お互いに一個の人格として認めあい、尊重しあうところから、個人の尊厳という思想が生まれてくるのです。
 しかし、権利能力というのは、権利の主体となることができるというだけのことであり、具体的にあれこれの権利をもっているということではありません。したがって、あれこれの権利にかかわる「意志の特殊性」は、「抽象的な人格性そのもののうちにはまだふくまれていない」(第三七節)のであって、それは「やっとたんなる可能性でしかない」(同、追加)のです。
 人格が権利能力をもち、法的な主体として、権利を行使するということは、あれこれしても処罰されない、許されるという「許可ないし権能」(第三八節)にすぎず、逆にいえば、「人格性とそこから生じるものをそこなわないことという否定的なものにかぎられる」(同)ことになります。したがって、第二部「道徳」、第三部「倫理」で論じられるような、積極的に「より善く生きる」という問題については、権利能力は「ただ可能性でしかない」(同)のです。
 とはいっても、法的な人格は、自由な意志の持ち主という主体であり、自由な意志は、いつまでも無規定な普遍性にとどまるものではなく、自らを特殊化しようとする実践的精神です。ですから、「人格という個別性は、決定を行なう直接的な個別性として、眼前に見いだされた自然にたいしてふるまう」(第三九節)のであり、「眼前に見いだされた現存在(自然)を、自分のものとして定立しようとする能動的なもの」(同)なのです。
 
所有、契約、不法(第四〇節)

 それでは、権利能力の主体としての法的な人格はどのようにして、具体的な権利を手にいれるのでしょうか。それは、「眼前に見いだされた現存在」、つまり客観世界に対して、自分の内心における自由な意志を投入し、それを自分の意志の現存在(意志に現実性を与えたもの)とすることによって、それをわがものとして所有し、またそれを自己の意志の支配下において占有するのです。
 「権利ないし法はまず第一に、自由が直接的な仕方で自分に与えるところの直接的な現存在、すなわち、自分のものとしての所有であるところの占有である」(第四〇節)。
 こうして、第一次的な本源的な権利が、所有権にもとづく占有ということになります。これが第一章「自分のものとしての所有」の課題となるものです。
 しかし、この所有権は、「ただ自分にたいしてだけふるまう個別的な一つの人格の自由」(同)にすぎません。ある物の所有者としての人格が他の物の所有者たる人格と関係し、二つの人格が区別されてくると、そこから契約が生まれてきます。
 ヘーゲルは、契約とは、所有物を媒介して一方の人格が他方の人格のなかへ、それぞれの人格の権利を保持したまま移り込むことによる、人格の同一性の現存在の獲得であるといっています。いかにもヘーゲルらしい言い廻しですが、妙に納得させるものとなっています。
 お互いの所有物を交換しましょうという、一つの共通な意志が形成されることによる二つの人格の相互浸透が、契約となるのです。これが第二章の「契約」です。
 これに対して、他者の人格との区別ではなく、自分のなかの区別として問題となるのが、「不法と犯罪」(同)です。自分の心のなかで、所有権やその他の権利を侵害してはならないことを知りながら、あえて自由な意志にもとづいて法を侵害するところに犯罪が成立することになるのです。これが第三章「不法」です。
 以上が、第一部の概要と展開を示したものです。
 あらかじめ今後の展開にとって重要な点を指摘しておくと、ヘーゲルは、もし権利の区分をするとしたら、「人格にたいする権利」と、「人格にとって外的なものにたいする権利」(物件にたいする権利)に大きく二分すべきものであるとしていることです。法的な人格は権利の主体たる人格であって、けっして権利の客体としての物件にはなりえないのであり、ここに人間の尊厳という問題が生じることになるのですが、この点はあらためて詳しく論じたいと思います。

 

二、自分のものとしての所有

人格と物件(第四一~四三節)

 以上で、総論部分を終えて、第一章「自分のものとしての所有」に入っていきます。
 何かを所有するということは、権利能力の主体たる人格として何かを所有することになりますから、所有の対象となる物は人格から区別され、人格から外化されたものでなければなりません。
 「人格は、理念として有るためには、ある外的な、自分の自由の圏を自分に与えなければならない」(第四一節)。
 人格が「理念として有る」というのは、人格が、内にある概念から展開して現存在となる(理念となる)ことを意味しています。そのためには、自由な意志が、人格の外に飛びだし羽ばたくことのできる「自由の圏」という、人格から「直接的に相違した、分離されうるもの」(同)が与えられなくてはなりません。
 この人格から分離され、人格にとって、外的なものとなるもの一般が、ヘーゲルのいう「物件」(第四二節)です。物件は、権利能力の主体たる人格から切り離された存在として、「不自由なもの、非人格的なもの、そして無権利のもの」(同)ということができます。「不自由なもの」とは、自由な意志をもたないものという意味であり、「非人格的なもの」というのは、物件に人格は認められないことを意味しています。また「無権利のもの」というのは、物件は権利の客体にはなっても、権利の主体にはなりえないことを意味しています。
 さて、それでは、人格から分離されうるものとは、いったい何でしょうか。それを考えるには、まず、人格とは何かを考えねばなりません。法的な人格は自由な意志の持ち主ですが、自由な意志(精神)は、人間の脳という肉体の機能として生じてくるものですから、人格は、肉体と精神の統一としてあります。それをヘーゲルは、「人格は人格それ自身において自然的な現存在をもって」(第四三節)いるとのべています。「自然的な現存在」とは、人間の肉体を指しています。
 では、人間がその精神と肉体のうえにおいて身につけた「精神的なもろもろの熟練、つまり学問と芸術、そして宗教上のもの」(同、注解)などは、人格と一体となっており、人格にとって「外的なもの」ではないから、物件とはなりえないのではないか、が問題となってきます。いったいどこまでが人格であり、どこからが人格にとって外的なものかは、それほど単純ではないのです。
 「もろもろの知識、学問、才能などは、もちろん、自由な精神に固有のものであり、この精神の内面的なものであって、外面的なものではない。しかしまた精神は外への表明によって、それらの知識、学問、才能などに一つの外面的な現存在を与えることもでき、それらを外に譲渡することもできる」(同、注解)から、これらの「外面的な現存在」は物件とみることができるというのです。ここにいう「外面的な現存在」というのは、内面的な意志が外面的なものとして表現された形態と考えたらいいでしょう。学問を授業の形に表現したり、芸術を絵画や音楽やバレーなどに表現したような場合には、それは人格にとって外的なものとなり、物件の範疇に加えられることにもなるし、外的なものとして譲渡の対象にもなるというのです。この点は、譲渡しうるものとは何かを論ずる第六五節以下で、もう一度立ち戻って考察されることになります。
 
所有権の絶対(第四四~四六節)

 「人格は、どの物件のなかへも自分の意志を置き入れる――このことによってその物件は私のものである――という権利を、自分の実体的な目的としている。……これが人間の、いっさいの物件にたいする絶対的な、自分のものにする権利である」(第四四節)。
 ある人格は、自分の自由な意志を物件のなかに「置き入れる」ことによって、それを自分の意志の支配下におき、自分のものとするのです。
 人格の外にある物件は、「非人格的なもの」であり、自分の意志をもちません。私という人格は、私の自由な意志を物件のなかに置き入れることによって、意志のない物件を、私の意志の入ったものにつくりかえ、自己と同化し、私のものにするのです。ヘーゲルは、これを「物件を揚棄して自分のものに造り直す権利」(同、追加)だといっています。
 物件のなかに自分の自由な意志を置き入れるもっとも原始的な形態は、その物件を自分の意志の支配下におき、自由に使用しうる権利となってあらわれます。それが占有権といわれるものです。「私が或るものを、私の、それ自身が外的な、支配力のなかにもつということが、占有をなす」(第四五節)。
 しかし、占有は、物件を意志の支配下におくといっても、たんに自由に使用できるだけの権利であって、物件を自由に譲渡したり、処分したりすることはできませんから、制限された支配権にすぎません。そこで「自由の見地からすれば、自分のものとしての所有こそ、自由の第一の現存在として、本質的な目的それ自身なのである」(同、注解)。
 マルクスは、『資本論』のなかで、この自由な意志の置き入れによる所有権には「土地の自由な私的所有」(『資本論』⑫一〇八二ページ/六三一ページ)も含まれると理解し、批判を加えています。ヘーゲルの規定からすると、土地の所有をも含むものとなりますから、マルクスの批判には正しいものが含まれていますが、ヘーゲルのいう所有権を、主として土地を除く労働生産物を念頭においていると考えれば、ヘーゲルの主張も合理的なものとなりますし、マルクスも「自由な意志の置き入れ」を所有に結びつけるヘーゲルの見解を取り入れています。
 所有権は、「自由の第一の現存在として」絶対的な権利であり、自由な意志が絶対的に支配する権利なのです。つまり人格がもつ自由な意志が外化し、物件を人格と同化することからくる絶対的な権利なのです。
 このように、ヘーゲルは、所有権を自由な意志の置き入れによる物件の存在としてとらえるのですが、その論理は、同時に時効(取得時効、消滅時効)の根拠ともなっているのです。
 「使用とか利用とか、そのほか意志の外へのあらわれであるところの、この意志の主観的現在は時間に属する。時間にかんしては意志の外へのあらわれの持続が客観性である。この持続なしには物件は、意志と占有との現実性が去ったものとして、無主となる。それゆえ私は、時効によって所有を失ったり獲たりする」(第六四節)。
 つまり、ある物を持っていようとする自由な意志の置き入れは、物件の所有となってあらわれるのですが、長期間放置されている場合には、もはや物件に置き入れた意志は消滅したものとみなされ、時効が成立して、権利が消滅したり(消滅時効)、逆に他人の物件を現実に支配している者がその権利を獲得したりする(取得時効)ことになるというわけです。
 では、自分の意志を物件のなかに「置き入れる」ためには、どのような客観的な行為が必要になるのでしょうか。ヘーゲルはその点を必ずしも明確にしていませんが、それを、労働をつうじて実現するととらえたのがマルクスでした。
 マルクスは、人間の類本質の一つが、自由な意志にもとづいて「普遍的に生産をする」(「経済学・哲学手稿」全集㊵四三七ページ)ところにあると指摘しています。「動物はただ直接的な肉体的必要に押されて生産をするのにたいして、人間自身は肉体的必要から自由な状態で生産をするし、そしてその必要から自由な状態においてこそほんとうの意味で生産をする」(同)。
 人間は、自由な意志にもとづいて、労働対象に働きかけ、労働生産物を産み出します。労働生産物は、生産者の自由な意志を置き入れたものとして、当然にも生産者の所有となり、生産者が取得することになります。「この生産は彼の活動的な類生活である。それによって自然は彼の作品および彼の現実性としてあらわれる。それゆえに労働の対象は人間の類生活の対象化である。というのは、彼は己れを、たんに意識におけるように知的にのみならず、また活動的、現実的にも二重化し、そうすることによって己れ自身を己れの創り出した世界のうちに観るのだからである」(同)。
 マルクスは、労働は己れを二重化するものであり、労働生産物をもってもう一つの己れであるとみているのです。そこから、マルクスは重要な命題を引き出します。つまり生産者が自らの労働生産物を取得できなくなる搾取制度は、たんに労働生産物を奪われるという物件の損失の問題ではなくて、もう一つの己れ自身を喪失することによる人間疎外だととらえているのです。
 これはヘーゲルが、「所有の不自由」を「人格性の放棄の例」(第六六節、注解)としていることに学んだものでしょう。
 「したがって、疎外された労働は人間から彼の生産の対象をもぎ離すことによって、彼から彼の類生活、彼の現実的な類的対象性をもぎ離して、彼の動物にたいする長所を、彼の非有機的な体である自然が彼から取り上げられるという短所へ変える。……人間が彼の労働の産物、彼の生活活動、かれの類的本質から疎外されていることの一つの直接の帰結は、人間の人間からの疎外である」(「経済学・哲学手稿」全集㊵四三八ページ)。
 ですからマルクスにとっても、ヘーゲルと同様、自己の労働にもとづく労働生産物を所有する権利としての所有権は、人間の類本質にかかわる絶対的な権利としてとらえられているのです。
 こうした見地から、マルクスは、『資本論』第一部第二四章のなかで、社会主義・共産主義の社会を、労働の疎外を克服した「個人的所有の再建」としてとらえています。
 「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する」(資本論④一三〇六ページ/七九一ページ)。
 社会主義・共産主義の社会では、搾取制度廃止のために生産手段は社会化されますが、それは、自己の労働にもとづく個人的所有そのものを否定することではありません。日本共産党新綱領は、「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」としてこの趣旨を明確にしています。中国共産党が最近綱領を改定し、私有財産の保障を打ち出しているのも、当然のことといってよいでしょう。
 さて所有は、「個人」の意志の置き入れによるものですから、本来、個人的所有を原則とするものであり、共同的な所有(共有)は、将来的には解消されるべき所有形態であることが第四六節で指摘されています。
 ヘーゲルは、こうした見地から、プラトンの『国家』において、「財産の共有と私的所有の原理の追放」による「一つのな、あるいは友愛的な、そして強制されてさえいる、人々の兄弟的団結という考え」がとられているが、それは、「私的所有ができないという、人格にたいする不法を普遍的な原理としてふくんでいる」(第四六節、注解)、との批判を加えています。

二人の私(第四七~四八節)

 先に、精神と肉体の統一としての人格と、人格にとって外的なものとしての物件とを、どう区別するかの問題にちょっとふれておきましたが、第四七節以下と第六五節以下で全面的にこの問題が論じられ、人間の尊厳とは何かが、そのなかから浮かびあがってきます。まず、第四七節以下の主題からこの問題を検討してみましょう。
 ヘーゲルは、「人格」としての私には、私自身にとっての私と、第三者にとっての私という二つの側面があるという重要な指摘をしています。
 では、第三者にとっての私、つまり本来の私とは何か。
 「人格として私は自身が直接に個別者である。――このことをもっとすすんだ規定でいえば、まず第一に、私はこの有機的な肉体において生きており、そしてこの有機的肉体は内容からいって普遍的な、分かたれぬ、外的な、私の現存在」(第四七節)なのです。
 つまり第三者にとってみると、私という「人格」は、私の精神と肉体とが一体となった心身同一体であり、私の肉体をとおしてのみ、私という「人格」を認識することができるのです。
 「他の人びとにとっては、私は、私が直接的にもっているままの私の肉体において、本質的に一個の自由な者である」(第四八節)。ですから、「私の肉体にたいして手を触れ、暴力を加えるのは、私に直接、つまり現実的かつ現在的に手を触れる」(同、注解)ことになり、私の肉体への侵害であるだけでなく、私の人格そのものへの侵害となるのです。
 しかし、私自身にとってみると、私の「人格」はけっして、私の肉体と同一ではありません。
 「だが人格としての私は同時に、私の生命と肉体をも、他のもろもろの物件をも、ただそうすることが私の意志であるかぎりにおいてのみ、もつのである。……私はこの五体を、生命を、ただ私がそれを意志するかぎりにおいてのみ、もっている。動物は自分で自分を不具にしたり自殺したりすることはできないが、人間はできる」(第四七節、同、注解)。
 「人格」は、もともと精神と肉体の統一したものとしてのみ存在しているのであり、だから第三者は私という「人格」を私の肉体をとおして認識するのですが、私自身にとってみると、私という「人格」は、ただ私の精神の上にのみ存在し、私の肉体や生命は、たんに私という「人格」の持ち物(物件)にすぎないように思えるのです。だから、私は、私の「人格」から生ずる自由意志により、私の身体を傷つけるだけでなく、私の生命までも損なうことができるのです。いわば私自身にとっての「人格」は、心身が分離していて、そのうちの精神のみが人格としてとらえられることになります。
 精神と肉体とは、同一と区別の統一の関係にあります。精神は肉体である脳という物質の一機能であり、その意味では肉体と同一のものですが、同時に肉体から区別して肉体に作用しうる力を持った存在でもあります。精神と肉体のどちらが人間にとって支配的な力をもっているかといえば、いうまでもなくそれは精神です。性同一性障害という概念がありますが、これはその人格の精神が理解する性と、身体の性との不一致を示すものです。この矛盾がどのように解決されるのかといえば、支配的な力をもつ精神の性が、肉体の性を支配し、肉体の性を精神の性に一致させようとするのです。
 このように考えれば、私自身にとってみると、私の精神と肉体とを分離したものとしてとらえうる以上、私の「人格」を、支配力をもつ私の精神のうえに存在するものとして認識するのも当然ということになります。
 さて、このように、私自身にとって、私の「人格」が私の精神のうえにあり、私の人格が私の肉体を所有するということになると、その肉体のなかに、いかに私の人格の持つ自由な意志を置き入れて、私の人格にふさわしい肉体として鍛錬していくかが問題となってきます。
 「肉体は、直接的な現存在であるかぎりでは、精神にふさわしくない。肉体は精神の、意志ある器官となり、活気ある手段となるためには、まずもって精神によって占有取得されなければならない」(第四八節)。
 いわば、私の精神としての「人格」による私の肉体の鍛錬です。赤ん坊をとってみると、その精神も未発達ですが、肉体はそれよりもさらに未発達です。そのために、赤ん坊の人格はまず舌と喉を自在にあやつって言語を覚え、直立二足歩行する肉体を占有取得しなければならないのです。それができるようになったとしても、まだ精神が肉体を完全にわがものとし、自在にあやつることができるわけではありません。私自身の経験からしても、若いときは、精神が眠りを命じてもなかなか肉体がこれに呼応してくれず、不眠に悩んだものですが、最近ようやく眠りたいときに眠れるようになってきました。
 長ずるに及んで、専門的な職業に就こうと思えば、例えば音楽家は音楽家、プロ野球の選手はプロ野球の選手というその職業にふさわしい肉体をさらに鍛錬して手にいれなければならないのです。
 「人格の陶冶」という場合、私自身の精神の面での陶冶と同時に、この精神の要請にこたえて自在に精神の意のままに働く肉体の陶冶の両面を含んでいるのです。
 
人格の陶冶(第五七節)

 ちょっと先の節になりますが、ついでに人格の陶冶にかかわる箇所を見ておきましょう。
 「人間は、彼自身における直接的現存在からいえば、一つの自然的なものであり、彼の概念にとって外的なものである。人間は、彼自身の肉体と精神をつくりあげることによって、すなわち本質的には、彼の自己意識が自分を自由なものと捉えることによってはじめて、自分を占有取得し、彼自身の所有となり、他の人たちにたいして自分のものとなる」(第五七節)。
 人間は、生まれたばかりのときは、「一つの自然的なもの」にすぎず、無限の発展を遂げ、有限性から解放された真にあるべき人格(人格の概念)にとっては、まだ「外的なもの」にすぎません。
 それが、自由な意識にもとづいて、精神自身もより自由になっていくとともに、精神の意のままに働く肉体をつくりあげ、「自分を占有取得し、彼自身の所有」とすることによって、私自身にとって私自身の人格と肉体との不一致もなくなった心身同一体となります。そうすると、私は、私自身としても、第三者からみても心身同一体となり、人格的にみて矛盾の存在しない自由な人間となるのです。
 ヘーゲルはそれを、「他の人たちにたいして自分のものとなる」といっています。
 人は、生まれながらに自由な意識を持つ人格として存在しているのでなく、精神と肉体を自己意識により練磨し、人格を陶冶することによって、はじめて自由な存在になっていくのです。
 こうした見地からヘーゲルは、二つの見解の批判をしています。
 一つは、奴隷を正当なものとする見解です。この見解は、人間を人格を持たない肉体のみの存在(「自然的存在者」)であるとみなすものであり、これは人間の概念を否定するものでしかありません。
 二つは、「精神としての、即時的に自由なものとしての人間の概念を固執する」(同、注解)見解です。「即自的に自由」というのは、生まれながらに自由という意味であり、人は生まれながらにして精神的に自由であるとするルソーの見解を批判したものです。
 ヘーゲルにとって、「自由な精神」は、「たんに即自的に有る」(生まれながらに有る)のではなく、「直接的な自然的現存在を揚棄して、自分に現存在を、ただ自分のものとしてのみ、自由な現存在としてのみ与える」(同)ものだからです。
 ヘーゲルは、人格の陶冶による人格(人間)の無限な発展に、人間の尊厳を見出しているのですが、この問題も後にまとめてお話しすることにしましょう。