『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第六講 人格と人間の尊厳

一、はじめに

 今日は、第一章「自分のものとしての所有」の残りの部分、すなわち第四九節から第七一節までを予定しています。
 本講の中心となるテーマは、所有物の占有取得、使用、譲渡という所有の諸形態です。しかし、科学的社会主義の立場から『法の哲学』を学ぶという本講座の性格からして、これらの法的諸問題一般を議論することにはあまり積極的な意義を見出すことはできませんので、人格にとって、譲渡しうる精神的または肉体的なものとはいったい何なのか、逆に言えば、人格にとって絶対に譲り渡すことのできないものとは何なのかを中心に考察していきたいと思います。
 それは、いいかえれば、人間にとって絶対に譲り渡すことのできない人間の尊厳とは何かを考えていくことにもなります。
 また第六三節の物件の質と量は、マルクスの『資本論』にも多大の影響を与えた箇所であり、ヘーゲルらしいユニークな考察がおこなわれています。
 こうしたことを中心にみていきますので、主題とあまり関係のないところは、大幅な省略ですすめていきたいと思います。

 

二、平等論(第四九節)

 法的人格というものは、自由な意志の持ち主として、権利の主体となることを意味しています。したがって、自由な意志の持ち主であれば誰でも平等に、権利能力をもつ一個の人格として認められるのです。そのかぎりでは、すべての人は、「抽象的な人格としての人格の平等」(第四九節、注解)のもとにあるということができます。 フランス革命のスローガンは、「自由・平等・友愛」というものでした。そのスローガンの生みの親ともいうべきルソーは、人は生まれながらの自然状態において、自由・平等であり、それが階級社会において奪われていったところから、社会契約にもとづく自由・平等を回復する社会・国家の実現を訴えました。
 しかしヘーゲルに言わせると、人間は、その人格を陶冶することによって次第に自由になっていく存在ですから、ルソーのいう「生まれながらの」自由なるものは幻想にすぎないだけでなく、「平等」の概念すらも、抽象的な人格の平等としてのみ意味をもつにすぎないと批判しています。
 「平等ないし同等は、悟性の抽象的な同一性であって、反省する思惟が、したがっておよそ、並みの精神が、統一と区別の関係に出あうとまず第一に思いつくものである。いまわれわれの論じているこの段階で平等ないし同等といえば、抽象的な人格としての人格の平等であろう。まさにそのために、占有にかんするいっさい、すなわち、不平等の地盤は、抽象的な人格そのものの外に属する」(同)。
 ヘーゲルは、平等という概念は「抽象的な人格」としての平等を意味するにとどめるべきであり、経済的平等を論じることは間違いであるといっています。
 「占有と能力ないし資産との不平等な分配にかんして自然の不公正を論じるわけにはいかない。なぜなら、自然は自由でなく、それゆえ公正でもなければ不公正でもないからである」(同)。
 つまり、能力の差は、分配の差となるべきものだというわけです。こうしてルソーが、自然状態において、すべて人間が平等であったとしていることに疑問を投げかけたうえで、ヘーゲルは経済的平等の要求を、「道徳的な願望」、「なんら客観的なものでない願望」(同)にすぎない、といっています。
 しかし、後にのべるように、ヘーゲルが資本主義的生産様式が貧富の対立を生みだしていることを厳しく批判していることから考えれば、経済的平等の要求をたんなる「願望」としてしりぞけたものではなく、形式的な一律平等論を批判したものとして理解すべきものでしょう。いいかえればヘーゲルは、能力に応じた分配の差は肯定しつつも、それをこえる搾取にもとづく経済的不平等は否定したものととらえるべきでしょう。いずれにしてもこの分配論は「別の圏、市民社会に属している」(同)問題として、第一四講の第三部第二章「市民社会」(第二〇〇節)であらためて議論されることになります。

 

三、所有物の占有取得、使用、譲渡(第五一~六二節)

 人格がある物件のなかへ自分の意志を置き入れることが、所有の根本規定です。
 しかし、それは、いわば「所有の概念」にすぎず、「この概念の実現」(第五一節、追加)として、所有権の行使についての様々の形態が生まれてきます。
 第一には、所有といいうるためには、たんに「内面的な表象と意志では十分でないのであって、そのうえに占有獲得が必要とされ」(第五一節)ます。
 つまり、物件を実際に自分のものとして自己の支配下におくことが、「占有取得」です。
 意志による物件の支配は、形式的支配にすぎないのに対し、占有取得によって、形式、内容ともに物件支配となるのです。
 ヘーゲルが、人格の陶冶も、精神と肉体を「占有取得」することだといっているのは、なかなか面白いところです。「私の有機的肉体をもろもろの熟練にまで形成しあげることも、私の精神を陶冶することもまた、多かれ少なかれ不完全な占有取得と貫通である」(第五二節、注解)。ここは、「多かれ少なかれ不完全な」ではなく、「完全か不完全かの違いはあるにせよ」と訳されるべきところだと思います。
 第二に、所有するということは、その物件を自由に使用・処分することを意味しています。「使用とは、物件を変化させ、ほろぼし、消費することによって、私の欲求を実現すること」(第五九節)です。
 使用と所有の関係について、使用の全権限を有する場合は所有そのものですが、「部分的ないし一時的の使用」の権限しか有さないときは「物件そのものの所有とは区別されている」(第六二節)のであり、「それゆえ、所有は本質的に自由な、完全な所有である」(同)ということになります。

 

四、価値と使用価値(第六三節)

 ヘーゲルは、「物件の使用」に関連して、価値と使用価値の区別を論じていますので、そこをみてみることにしましょう。
 「使用されている物件は、一つの個別的な、質と量からいって規定された物件であって、ある独特の必要への関係のうちにある」(第六三節)。
 この文章から、マルクスの『資本論』の冒頭の文を思い出した人も多いでしょう。
 「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす一つの物、一つの外的対象、である。……鉄、紙などのような有用物は、どれも、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない」(『資本論』①五九~六〇ページ/四九ページ)。
 ヘーゲルが、「物件」、「ある独特の必要への関係のうちにある」一つのものと言っているのを、マルクスは、「商品」、「人間的欲求を満たす一つの物」と言っているというちがいはあるものの、どちらも質と量の統一とみている根本は同じです。またマルクスが「一つの外的対象」といっているのも、ヘーゲルが物件を「外的なもの」とよんでいるのに習ったものでしょう。しかしヘーゲルとマルクスの記述の一致は以上にとどまるものではなく、まさにここから始まるのです。
 「だがその物件の独特の有用性は同時に量的に規定されたものとして、同じ有用性をもった他のもろもろの物件と比較されうる。また、その物件が役に立つ独特の必要も同時に必要一般であって、その点で、それの特殊性からいってやはり他のもろもろの必要と比較されうる」(第六三節)。
 「有用性」をもった物件同士は、それを必要とするものの間で比較され、商品交換がはじまるのです。
 この有用性のことをマルクスは、「使用価値」(『資本論』①六〇ページ/五〇ページ)とよんでいます。
 では、ヘーゲルのいう、比較の基準となる「同時に量的に規定されたもの」とは何を意味するのでしょうか。 「物件のこうした普遍性の単純な規定されたあり方は、その物件一個の特殊性から生じ、したがってこの独特の質は同時に度外視される。物件のこのような普遍性こそは、物件の価値であって、この価値において、物件の真実の実体性は規定されており、かつ、意識の対象なのである。私は物件の完全な所有者として、物件の使用についてと同じほど物件の価値についても所有者なのである」(第六三節)。
 ここにいう「価値」がマルクスのいう交換価値であることはいうまでもありません。この文章をマルクスのそれと比較してみましょう。
 「交換価値は、さしあたり、一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち比率としてあらわれる」(『資本論』①六一、六二ページ/五〇ページ)。
 しかもヘーゲルは、物件の価値は、物件のなかに含まれる「事物の共通性」であり、「これらの事物の共通性が、そのばあい、私がそれらの事物を測りうるようにさせるわけである」(第六三節、追加)と述べています。マルクスも、同様に「諸商品の諸交換価値もある共通物に還元されて、諸交換価値は、この共通物の多量または少量を表わすことになる」(『資本論』①六三ページ/五一ページ)としたうえで、さらに一歩すすめ、その共通物が「抽象的人間的労働」(同六五ページ/五二ページ)であることを明らかにしていきます。しかし、価値を規定するものが何であるかは、もちろんヘーゲルの考察の外に存在するものです。
 またヘーゲルは、交換価値の実体は究明しえなかったものの、商品は、価値を体現した価値の標識(章標)だととらえていました。
 「価値の概念を考察するならば、物件そのものはただ標識と見なされるだけであって、それ自身としてではなく、それが値いするところのものとして通用する」(第六三節、追加)。
 マルクスは、『資本論』のなかで、「どの商品も一つの章標であろう。なぜなら、どの商品も、価値としては、それに支出された人間的労働の物的外皮にすぎないからである」の文章のあとに、このヘーゲルの文章を注(四七)として引用しています。(『資本論』①一五四、一五六ページ/一〇五、一〇六ページ)。
 さらにヘーゲルは、貨幣をたんなる章標ではなく、貨幣という独特な商品の価値を表現したものとして正しくとらえていました。
 「もし価値の独特なものをではなくて抽象的なものを表現しようとするなら、貨幣がこれである。貨幣はすべての事物を代表する。だが、貨幣は必要ないし欲求そのものをあらわすのではなくて、必要ないし欲求の標識でしかない以上、貨幣自身がまた、独特な価値によって支配される。この価値を、抽象的なものとしての貨幣はただ表現するだけである」(第六三節、追加)。
 ヘーゲルは、経済学にも関心をもち、スチュアート、スミス、セー、リカードの古典経済学を学んでいたところから、かなり正確な価値論を展開しており、『法の哲学』をつうじて、マルクスの価値論にも一定の影響を与えたことは否定できないでしょう。

 

五、不可譲な人格(第六五~六六節)

 私という人格は、私の意志の置き入れによって物件を取得することもできれば、また私の意志によりそれを自分の外に放棄することもできます。
 「私の所有は、私がそのなかへ私の意志を置き入れるかぎりにおいてのみ、私のものなのだから、私はそれを自分の外に放棄することができる。……しかしただその物件がそれの本性上、一つの外面的なものであるかぎりにおいてのみである」(第六五節)。
 第五講で、人格は、精神と肉体の同一と区別の統一であること、こういうなかで人格と人格にとって外的な物件とをどう区別するかを、主として第四七節以下の精神と肉体の関係の問題として検討してきました。第六五節以下では、この同じ主題が、さらに掘り下げられて検討されていくことになります。
 こうした検討をつうじて、人間の尊厳とは何かが、浮かびあがってくることになってきます。
 さて、第六五節で、私という人格は、私にとって外面的なものである物件を所有したり、放棄したりしうることがあらためて確認されましたが、では、精神と肉体の同一と区別の関係のなかにおいて、私という固有の人格とは何なのか、が次の検討課題となってきます。
 「それだから、私の最も固有な人格と私の自己意識の普遍的な本質とをなすような、もろもろの貴重なもの、あるいはむしろもろもろの実体的な規定、すなわち私の人格性一般、私の普遍的な意志自由、倫理、宗教のごときは、外に譲渡されえないのであり、同様にまたそれらのものにたいする権利も時効にかからないのである」(第六六節)。 
 「私の最も固有な人格」とは、自己自身の精神と肉体とを私の自己意識によって陶冶し、無限に発展し、無限に自由になっていく人格であり、このような存在として、人間の尊厳を持っているのです。また他方からすれば私という人格は、人格にとって外的な物件を所有する主体です。譲渡の対象になるのは、私の人格の外にある物件のみであり、物件を所有する主体としての私という「人格性一般」は、譲渡の対象とすることはできません。人格は、絶対に譲渡されえないものとして、人間の尊厳を形づくっているのです。
 同様に、ヘーゲルは、「私の最も固有な人格と私の自己意識の普遍的な本質とをなすような、もろもろの貴重なもの」である「私の普遍的な意志自由、倫理、宗教のごとき」ものも譲渡されえないとしています。
 これらのものは、「精神の概念」(同、注解)、精神そのものというべきものであって、人格のうちに含まれる「内心の自由」に属するものだからです。したがって内心の自由としての「普遍的な意志、自由、倫理、宗教」など固有の人格に属するものは、「外に譲渡されえない」し、また、客体としての物件でもありません。物件でなければ、他人に取得されることもありませんから、「時効にかからない」(第六六節)のです。
 ヘーゲルは、人格性放棄の例として、「奴隷や農奴の身分、所有の占有不能、所有の不自由、等々」(同、注解)をあげています。奴隷や農奴は自由な意志を持つ自由な主体ではありませんし、また人格は、外的なものを持つ主体としてあるのですから、外的なものを「所有」することができない奴隷や農奴は、主体とはいえないのです。また第五講で一言したように、生産者が労働生産物を搾取されることも、「所有の不自由」として、人格権の放棄、つまり人間疎外となるととらえているのは、注目されていいところです。
 またヘーゲルは、マインドコントロールされていて、「自分がどんな行為を行なうべきか」「良心の義務とは何であるか」などについて、自由に思惟することができず、「自分に規定し指図すべき権威と全権が他人に譲与されたばあい」(同)も同様であるといっています。こうした場合には、すでに内心の自由が存在しないのです。マスコミの世論誘導に支配されることも、ある意味で人格性の放棄ということになるのです。

 

六、労働力の売買(第六七節)

 このように固有の人格とは何か、を明らかにしたうえで、人格が肉体と精神の同一と区別の統一にあることを前提として、労働力を売買することは人格を譲り渡すことにならないか、の検討に入ります。
  「私の特別な、肉体上および精神上のもろもろの熟練と活動のもろもろの可能性とについて、私は個々の諸産物と、時間上制限された使用とを、他人に譲渡することができる。なぜなら、この制限にしたがって、それらは、私の総体性と普遍性にたいする一つの外面的な関係を与えられるからである。そうではなくてもしも私が、労働を通じて具体的な私の全時間と私の生産物の総体を外に譲渡するとしたら、私はそれらのものの実体的なもの、私の普遍的な活動と現実性、私の人格性を、他人の所有たらしめることになろう」(第六七節)。
 労働力というのは、労働をなしうる身体能力であり、肉体と精神とが結びついてはじめて生まれてくるものです。マルクスは、「われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体、生きた人格性のうちに実存していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するそのたびごとに運動させる、肉体的および精神的諸能力の総体のことである」(『資本論』②二八六ページ/一八一ページ)といっています。
 いわば労働力とは、肉体と精神の統一としての人格そのものと結合した「肉体的および精神的諸能力の総体」ですから、労働力を売り渡すことは、不可譲の人格そのものを譲り渡すことになるのではないか、が問題となってくるのです。
 これに対し、ヘーゲルは、労働力のすべて、つまり「労働を通じて具体的な私の全時間と私の生産物の総体」を外に譲渡するのであれば、「私の人格性を、他人の所有たらしめることになろう」が、労働力の「時間上制限された」譲渡の場合には、それは、「私の総体性と普遍性にたいする一つの外面的な関係を与える」から、人格の譲渡にはならないのだ、といっています。
 さらにその説明を補足するものとして、第六七節注解では、第六一節の「物件の実体と物件の利用との関係と、同じ関係である」といっています。つまり、それは所有と占有・使用の関係と同じだというのです。物件の占有・使用を第三者に委ねても、それは絶対的普遍的権利としての所有権が制限を受けるだけで所有権を失うことにはなりません。それと同様に、労働力の使用を第三者に委ねたとしても、人格と一体化した「肉体的および精神的諸能力の総体」としての普遍的な労働力は、それによって制限は受けるが、人格を喪失するものではない、というのです。
 しかし、このヘーゲルの例は適当とはいえません。というのも、例えばある土地の一部ではなく、そのすべてを第三者に賃貸しても、地主の所有権はなくなりませんが、労働力のすべてを売り渡せば、人格そのものを喪失してしまうことになることをヘーゲルは認めているからです。
 むしろ、もう一つの例としてあげている、普遍と特殊の関係の方が適切だと思われます。「ある力の外へのあらわれの総体は、その力そのものであり、……もろもろの特殊化したあり方の総体は、普遍的なものである」(第六七節、注解)。特殊とは普遍の規定された姿を意味していますが、その規定された様々の姿としての特殊をすべてよせ集めた総体が普遍となるのです。
 労働力は、人間の筋肉、脳、神経などの諸機能の有機的関連から生じる人間の生命力の一つのあらわれです。人間は生きているかぎりたえず労働力を再生産する生命力を持っており、労働力は生命力と結びついた普遍的な力です。しかし現実に労働契約の現場において売り渡されるのは、この普遍的な力そのものではなく、それと区別された特殊的な労働力であるにすぎません。特殊的労働力は、普遍的労働力を、時間的にもその目的においても限定されたものとすることによって特殊化され、普遍的労働力から区別されるのです。人格そのものは普遍的労働力一般と結びついているのに対して、特殊的労働力は、人格つまり普遍的労働力一般から切り離して、外化しうるのです。したがって人格は、その外化された特殊的労働力を「持つ」ことができるのであり、また譲渡することもできると考えるべきものでしょう。また、譲り渡される労働力は、「私の総体性と普遍性」とをもつ労働力そのものから切りはなされた、「特殊的労働力として外的なもの」となることにより、所有の対象としての物件となる、ということができます。
 マルクスは、『資本論』でこの点に注目し、次のようにのべたあと、第六七節本文を「注四〇」で引用しています。
 「この関係が続いていくためには、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということが必要である。というのは、もし彼が労働力をひとまとめにして全部一度に売り払うならば、彼は自分自身を売るのであって、自由人から奴隷に、商品所有者から商品に、転化するからである。人格としての彼は、自分の労働力を、いつも自分の所有物、それゆえまた自分自身の商品として取り扱わなければならない。そして、彼がそうすることができるのは、ただ、彼がいつでも一時的にだけ、一定の期間だけに限って、自分の労働力を買い手の処分にまかせ、したがって労働力を譲渡してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないという限りでのことである」(『資本論』②二八七ページ/一八二ページ)。
 さすがにマルクスは、ポイントを押さえています。普遍的労働力は人格と一体になっているのですが、労働者は、資本家と労働契約を結び、例えば営業マンとしての労働力を一日七時間だけ売りましょうと合意することにより、時間的にも使用目的においても特殊的労働力を切りはなして自己の人格から外化し、自己の所有物として売り渡すことになるのです。
 これに対して、「労働力をひとまとめにして全部一度に売り渡す」ということは、「特殊化したあり方の総体」としての普遍的労働力=人格を譲り渡してしまい、自由人から奴隷に転落してしまうのです。

 

七、労働時間の短縮と人間解放

 労働力の売買を普遍的労働力一般から区別された特殊的労働力の売買としてとらえた場合、労働時間の短縮をどうとらえるかの問題についても、新たな視点を提供してくれることになります。
 日本共産党新綱領(二〇〇四年一月採択)は、未来社会論を生産物の分配という角度から二段階発展論(社会主義社会から共産主義社会へ)としてとらえてきた国際的な〝定説〟を否定し、未来社会論の中心を「生産手段の社会化」におきました。そして、「生産手段の社会化」による「三つの効能」の一つとして、「労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」ことをあげています。
 不破議長は、「生活の物質的向上と人間としての『全面的発達』、これが未来社会の人間解放の内容になる」(不破「報告集日本共産党綱領」五一ページ、中央委員会出版局)としたうえで、労働時間の短縮が人間としての全面的発達を「保障する土台」の意味を次のように説明しています。
 例えば、労働時間が半分になったから「あとは全部自分の自由時間になる。そういうことになったら、すべての人が、生活を楽しみもするでしょうが、同時に、自分がどんな才能を持っているか、それを試したり伸ばしたりする機会と条件を保障されるようになるでしょう」(同二五七、二五八ページ)。
 「生産力が発展したら、その条件を、社会の富をより豊かにする目的にどれだけ活用するか、そして労働時間を減らして労働者の自由時間を増やす目的にどれだけ活用するか――そういう段取りを計画的に組めるような仕組みが生まれてくるのです。生産力の発展を、こういう形で活用して、社会の富も豊かにしながら、人間の能力が自由に発展できる条件を積極的につくりだす、これは、利潤第一主義から解放された未来社会でこそはじめて生まれてくる、まったく新しい展望です」(同二六〇ページ)。
 つまり、労働時間短縮による自由な時間の増大は、その自由時間の活用により人間的発展を保障する土台になるというものです。これに対しヘーゲルの労働力売買に関する考えは、別の方向からの人間解放を考えさせるものとなっています。
 まず最初に明確にしておかなければならないのは、資本主義のもとでの労働力の売買と、生産手段が社会化されたもとでの労働力の売買とでは、同じ労働力の売買(社会主義・共産主義のもとでも、労働者は、「社会に対して労働力を売買し、賃金を受け取る」という点では労働力の売買といいうるでしょう)といっても、売買の質が違うことを指摘しておかなければなりません。生産手段が社会化された社会主義・共産主義社会においては、搾取が廃止されるだけではなく、生産の現場において「生産者が主役」(同綱領)となりますから、労働者にとって、生産現場での労働は、もはや人間性を奪われた苦役と屈辱の場としての性格をい、労働をつうじて人間的発展を可能とする場となることでしょう。
 もともと、労働は、人間を人間にするための本質的要素ですから、一面では労働することは人間の生きる喜びであると同時に、他面では労働力の支出として一定の苦しみを伴うものともなっています。搾取制度のもとでの労働は、後者が主たる側面となり、搾取のない未来社会では前者が主たる側面となりますが、いずれの場合にも労働にこの二つの側面が存在していることは否定できません。
 したがってこうした労働の質的相違があるにしても、社会主義・共産主義のもとでの労働も、売り渡された労働力のもとにあるという制約をまぬがれることはできません。
 ヘーゲルにとって労働力の売買は、普遍的労働力のなかに含まれている特殊的労働力の売買を意味しています。重要なことは、特殊的なものの総体が普遍だということであり、特殊的労働力は、普遍的労働力の一部分を構成しているということです。売り渡す労働時間が次第に増加し、例えば、一日一五時間にも及べば、それは労働者にとっての一日に再生産される普遍的労働力そのものといってもいいでしょう。そうなれば、「私の全時間」を譲渡することになり、「私の普遍的な活動と現実性、私の人格性を、他人の所有たらしめる」ことになってしまうのです。
 いわば、労働力の売買は、人格の部分的な譲渡という側面をもっており、売り渡される労働時間が増大すればするほど、私に残された人格性は減少し、全労働時間が売り渡されたとき、私の人格そのものが譲渡されたことになってしまうのです。
 いいかえれば、労働時間短縮がすすむ度合いに応じて、自由時間をどう活用するかに関わりなく、私は私の人格性を回復する度合いを強めていくのであり、それにより、人間解放の度合いを強めていくことになるのです。
 その意味では、労働者にとって、自由時間の増大は、それ自体「人間解放の内容」をなすものであり、この自由時間を活用して社会的諸活動をすることは、人間解放を別の側面から補足するものということができるのではないでしょうか。
 いずれにしても、ヘーゲルが提起し、かつマルクスが『資本論』で受けとめた労働時間の短縮の問題は、人格性と関連させてもっと研究が必要な課題ではないかと思われます。

 

八、人間の尊厳(第六八節)

 続いてヘーゲルは、精神活動の所産は外的なものになりうるか、の検討に入ります。
 「精神的な生産における自分特有のものは、外にあらわす方式をつうじて直接に、物件の外面性――今や同様に他人によっても生産されうるような物件の外面性、に変わりうる」(第六八節)。
人間の精神活動は、文芸上の著作や美術作品という「外にあらわす方式」をつうじて物件性を取得し、譲渡しうるものとなるのです。精神活動は「内心の自由」にかかわるのですが、その内心の自由を外化する自由が、「表現の自由」とよばれるものです。表現の自由は、ヘーゲルのいう形式的な自由(恣意)にすぎませんが、基本的人権の根幹をなすものであり、自由をめぐる階級闘争の焦点ともなる課題でした。
 マルクスも若い頃、プロイセンの検閲制度に反対して出版の自由(表現の自由の一形態)を守るためにたたかいました。そして、「検閲制度の真の根本的治療はその廃止にある」と喝破しています(全集①二七ページ)。
 最後にヘーゲルは、生命と人格との一体性を論じています。
 「外的な活動の包括的な総体、すなわち生命は、それ自身がこのものであり直接的である人格性にたいして、なんら外的なものではない。生命を放棄すること、ないしは犠牲に供することは、この人格の現存在であるどころか、かえってその反対である。それゆえ私は生命の放棄にたいしては総じてどんな権利をももっていない」(第七〇節)。
 人格は、自由な意志をもつ主体ですが、それは人間という生命体として存在することによってはじめて主体としてあるのであり、したがって、人格は、生命のうえにのみ存立しうるものです。だから、生命は「人格性にたいしてなんら外的なもの」(同、追加)ではなく、「人格がその生命のうえに支配を及ぼす権利ということを論じるのは」、「一つの矛盾」(同)なのです。
 人間は、自殺する権利はもっていません。しかし私自身にとって、人格は私の精神のうえに存在していることから、私は私の肉体を支配し、自殺することができるのです。
 ここで、あらためて、人格と人間の尊厳の関係をまとめてみることにしましょう。
 ヘーゲルは、第三五節追加において、「人間の最高のことは、人格であることである」といっています。人間が人間として最高のものとなる人格性を身につけることから、人間の尊厳はスタートしていくのです。
 人間が人格性を身につけるとは、自分自身を思惟の対象とし、「有限性のなかでそのように自分を無限なもの、普遍的なもの、自由なものとして知るということ」(第三五節)、つまり人間が、自分を自由な意識の主体として無限に発展し、有限性から解放されて自由になる存在だという自覚をもつことを意味しています。
 無限に発展する自由な主体としての自覚を持つことによって、人間は人間としての尊厳を持ち、人間らしく生きることができるのです。
 ですから、ヘーゲルにいわせると、奴隷はそういう自覚をもたないので、人格性を喪失した存在だということになります。
 「奴隷は自分の本質、自分の無限性、つまり自由を知らず、自分が本質であるとは知らない。――そして彼が自分をそうとは知らないのは、すなわち、彼は自己を思惟しないのである」(第二一節、注解)。
 自由な主体としての人格性を喪失することは、人間性の喪失あるいは人間性の疎外ともいうべきことですから、人格は、人間にとって絶対に譲り渡すことのできないものです。その人格性を堅持するところに、人間の尊厳の基盤があるのです。
 この人格性は、本来、肉体と精神の統一のうえにのみ存在しています。つまり肉体と精神の統一としての生命体である人間そのもののうえに、人格性はなりたっています。ですから、第三者からみると、私の人格というのは、私の精神と肉体であり、私の精神を傷つけるのも、私の肉体を傷つけるのも、自由な主体としての私を傷つけ、私の人格(権)を侵害することになります。
 しかし、私自身にとってみると、私の精神と肉体は分離したものであり、人格は精神のうえにのみ存在し、人格が肉体を自己の外化したものとして所有するように思えます。 
 そこから、私という人格が、私の肉体を物件として処分する問題が生じてきます。 
そこには様々な形態があります。 
 まず労働力の売買は、先ほどお話ししたように人格と一体化した普遍的労働力から、時間的にも、その使用目的においても特殊的労働力を切りはなし、処分するものです。しかし、これは、特殊的労働力を人格から切りはなし、外化することによって、売買するのですから、「私の全時間」を売却しない限り人格そのものを譲り渡すという問題は生じません。
 これに対して、自分の肉体そのものを売り渡す場合はどうでしょうか。自分の肉体を丸ごと処分することは、人格の喪失であり、奴隷となることはいうまでもありません。では、肉体の一時的な売買はどうでしょうか。
 この場合、私自身は、肉体のみの売買にすぎないと考え、人格まで売り渡したつもりはないのですが、買い受けた第三者からすると、精神と肉体の統一としての私の人格そのものを買い受けたわけですから、私の人格を自由に傷つけ、処分することになります。そのことによって、私自身も、私の肉体の売買は、人格の売買そのものであり、人間の尊厳の一時的喪失であったことを思い知らされることになるのです。
 また、同様に、私は、私の肉体を処分の対象と考え、それを傷つけ、あるいは破壊して、ついには自殺にまで至ることもできます。しかしそれも、単に肉体を損うのみならず、人格そのものを傷つけ、さらには、生命を喪失することによる人格の喪失にまでつながっていくのです。このように、自由の主体としての抽象的な人格は、有限性から解放され無限な存在となる可能性をもった存在として人間にとって最高の存在ですが、しかし、現実の人格は、実際には有限なものでしかありません。
 「こうして人格は、高いものであると同時にまったく低いものである。人格のうちには、無限なものとまったくただ有限なもの、規定された限界とまったく無限界なものとの、こうした一体性がふくまれている」(第三五節、追加)。
 人は、人格性において自由な主体だといっても、それはまだ形式的な自由の世界をさまようのみの、低い存在にすぎません。人格は、形式的自由から、普遍的自由へ、ついで概念的自由へと無限に発展することをつうじて、真に自由な主体となっていくのです。これから、この抽象的人格は、道徳、倫理(家族、市民社会、国家)の世界へと歩み出すことになりますが、そういう世界との関わりのなかで、概念的自由を獲得していくことになります。
 人格における有限性と無限性の対立と闘争をつうじて、人格の高まりとともに人間の尊厳も、次第により高度のものとなっていくということができます。