『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第七講 契約・不法

一、はじめに

 今日は、第一部「抽象的な権利ないし法」の第二章「契約」、第三章「不法」を講義します。
 第一章「自分のものとしての所有」においては、自由な意志をもつ人格が、権利の主体となること及び、権利の客体である所有、使用、譲渡の問題をみてきました。
 しかし、権利・義務という法的な関係は、二つの人格が物件をはさんで向きあい、お互いの自由な意志が交錯する「契約」または「不法」の関係において、つまり、個々の人間が共同体の一員として生活するなかで、はじめて抽象的な権利から抜け出し、現実と向きあう関係となってきます。また個々の人格は、共同体の世界に分け入ることによって、共同体を支える論理としての普遍性と向き合うことになり、はじめて個人の特殊的意志と普遍的意志との関係が、一つの大きな柱として論じられることになってきます。
 第二章の「契約」というのは、一つの物件をめぐって、「売りましょう」「買いましょう」というお互いに自由な意志にもとづく権利・義務が生ずる場となります。契約にもとづいて権利が生じ、契約に違反することは義務違反として違法となります。
 いわば、民事事件の根本問題がここで、扱われることになります。
 これに対し第三章の「不法」では、法によって禁止されていることを、自分の自由な意志にもとづき、あえて行うことによって法を侵した場合に、普遍的意志としての法は自己の回復を求めて不法を弾劾するという問題として議論されることになります。
 いずれにしても、法の世界というのは、社会共同体のなかにあって、普遍的意志としての法にもとづき、「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」という特殊的意志を規制する消極的な生き方が求められているにすぎません。
 そこで、社会共同体のなかで、個々人はより自由な意志を発揮する積極的な生き方が求められることになり、第二部「道徳」にすすんでいくことになります。「道徳」においては、積極的により善く生きるにはどうすべきか、という問題が論じられます。その意味で道徳の立場は、善をなすべしという当為の立場です。しかし、われわれがいかに善をなそうとしても、もしその善がたんに主観的なものにすぎなければ、それは一つの恣意にすぎないことになります。
 そこで、ヘーゲルは主観的な善としての道徳の立場から、客観的な善としての第三部「倫理」の立場に移行します。「倫理」の立場は、真に客観的な善を社会共同体として実現し、それをつうじてその構成員の主体的自由も実現して、概念的自由に達しようとする立場です。こうした立場から「倫理」では、真にあるべき共同体とその成員という「客観的な善」が探求されます。真にあるべき共同体のもとにおいて、真の自由が実現されることになるのです。
 以上を前置きとして、第二章「契約」に入っていきます。

 

二、契約(第七二~七七節)

 「自分のものとしての所有の現存在ないし外面性という側面が、もはやただある物件であるばかりでなくて、ある〔したがって他の〕意志という契機をふくんでいるばあい、そういう所有は契約を通じて出来あがる」(第七二節)。
 私は、私の意志を置き入れた一つの所有物(商品)をもっています。それは、価値と使用価値をもった商品として存在しています。
 別の商品所有者である第三者は、私の商品に目をつけ、それを自分の持つ商品と交換して手に入れたいと思います。私の商品を、第三者が欲しがるとき、私の商品は、「他の意志という契機をふく」み、契約へと発展していくのです。
 「この過程は、私が他の者と同一的なある意志のうちに、所有者たることをやめるかぎりにおいて、私は対自的に有る所有者、他の意志を排除する所有者であり、かつありつづける、という矛盾がそのなかであらわれて媒介される過程である」(同)。
 契約というものは、相対する所有者が、それぞれ自分の所有物を手放すかぎりにおいて、相手の所有物を手に入れようという、「同一的なある意志」をもっています。両者の意志がこの点で一致しなければ、契約は成立しません。
 しかし、「自分の所有物を手放し、相手の所有物を手に入れる」という点では同一であるとしても、それぞれの所有物は異なるものですから、手放すものも、手に入れるものも異なったものであり、この意味では、両者の意志は同一ではないということになります。
 「両者の意志のこのような同一性のうちにはまた〔この段階では〕、各々が相手と同一でない意志、対自的に独自な意志であり、かつ、ありつづけるということもふくまれている」(第七三節)。 
 お互いに「売りましょう」「買いましょう」という合意は、契約の基本となるものです。したがって契約が成立するには、自由な意志の主体としての「直接的な自立の人格」(第七五節)の存在が不可欠になってきます。
 厳しい身分制の支配していた封建制社会には、人は土地に縛りつけられていて、契約の自由はありませんでした。
 封建制社会のなかから台頭してきたブルジョアジーは、契約の自由、取引の自由を求めて、ブルジョア民主主義革命を実現し、資本主義社会を誕生させたのです。
 資本主義社会の成立は、一方では、取引の自由を求めるブルジョアジーの登場、他方では自由な人格としての労働者が誕生するなかで、はじめて現実的になっていきました。マルクスは、一定量の貨幣が資本に転化するためには、たんに一方の側に貨幣の所有者が存在するのみならず、他方の側に二重の意味で自由な労働者(人格的自由と生産手段からの自由)を見出さねばならなかったといっています(『資本論』②二八九ページ/一八三ページ)。そこから、封建制社会から資本主義社会への移行は、「身分から契約へ」の移行といわれているのです。
 こうした前置きのもとに、ヘーゲルは契約には三つの契機があることを指摘しています(第七五節)。
 一つは「契約は恣意から出発する」(同)ことです。契約は、両当事者の合意のみにもとづいて成立するものですから、どんな内容でも契約に盛りこむことができます。それを近代法上は、「契約自由の原則」とよんでいます。それは、反面からすれば、契約を不法へと結びつける要素ともなるのです。
 二つには、契約をつうじて、端緒的な、その意味では「即自かつ対自的に普遍的な意志ではない」(同)ところの「普遍的な意志」として、「共通の意志」があらわれてくることです。最初にのべた普遍的意志と特殊的意志の関係が、ここから始まるのです。
 三つには契約の対象となるのは、「ある個別の外面的な物件」(同)です。この見地から、ヘーゲルはカントの批判をしています。すなわち、「契約の概念のもとには婚姻を包摂することはできない」(同、注解)というものです。
 カントは、婚姻を、ひとりの人間が他のものとの間において、肉体を使用することの相互承認の契約だととらえていました。これに対してヘーゲルは、私の人格は、肉体と精神の統一として存在しているのであって、私の肉体は、私にとって「外面的な物件」ではないから、契約の対象にはなしえない、だから肉体の相互使用という契約はありえないと批判しました。
 第六節でお話ししたように、このヘーゲルの批判は適切なものといっていいでしょう。またこの見地に立つならば、自分の肉体を一時的に売買することも、人格を売り渡すものとして許されないことになるでしょう。ヘーゲルは「譲渡されえない貴重なもの」である人格を譲り渡す契約を結ぶ場合、そこから生じる損害は「無限」(第七七節、注解)であるといっています。肉体を一時的にしろ売り渡すことは、本来「譲渡されえない」人格を譲渡するものとして、人間の尊厳を損なうものであり、その人物にとってとりかえしのつかない無限の損害をこうむることになるのです。
 しかし、ヘーゲルのカント批判は、婚姻を肉体の相互使用契約とすることの誤りを指摘するものにはなりえても、婚姻の契約性そのものを否定する論拠にはなりえないでしょう。
 憲法二四条一項は、「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定しています。婚姻を対等平等な両性の人格相互間の合意のみに基づいて成立するという意味では、婚姻も一種の契約であるといっていいでしょう。しかも夫婦がともに自立した人格として「同等の権利を有する」ととらえていることは、「人間の最高のことは、人格であることである」(第三五節、追加)とするヘーゲルによっても、肯定すべきものだと思われます。そこから夫婦の相互に協力し扶助する義務(民法七五二条)も生じてくるのです。

 

三、社会契約説批判(第七五節)

 またヘーゲルは、「契約は恣意から出発する」との見地から社会契約説の批判をしています。社会契約説は、一七世紀から一八世紀にかけて、イギリスのロック、ホッブス、フランスのルソーなどによって展開され、封建制社会を批判する有力な武器となりました。すなわち、自由で平等な個人が、それぞれの自由な意志をもって契約を結び、社会、国家を形成するという考えであり、主体的個人の理念を前面に押し出し、契約という個人の自由な意志により社会や国家が成立したとする点に、その本質的意義がありました。
 ホッブスの社会契約説は、「万人の万人にたいする闘争」という自然状態から脱出するため、社会契約を結んで自然権を主権者たる君主に委ね、個人は主権者の支配に服するというものでした。
 これに対し、ルソーの社会契約説は、自然状態において自由・平等であった人間は、階級社会において、自由・平等から疎外されているため、その回復を求めて、社会契約国家を形成するというものでした。
 これに対するヘーゲルの批判は、もともと契約というものは、「恣意から出発する」ものであり、本来理性的なものであるべき国家を、恣意に委ねてもいいのか、という点にあります。
 「近ごろの時代においては君主と国家とのもろもろの権利は、契約の諸対象として、契約にもとづいたものと見なされ、意志の或るたんに共通的なものとして、一つの国家に結合した者たちの恣意から生じたものと見なされることになった」(第七五節、注解)。
 では、国家が恣意にもとづく契約ではないとすれば、国家と個人とは一体どのような関係にあるのだというのでしょうか。
 「ひとはの面ですでに国家の市民なのだから、国家から自分を切り離すことは個人たちの恣意でできることではないからである。人間の理性的な規定は、国家のうちに生きることである。……近代における国家の偉大な進歩は、国家がどこまでも即自かつ対自的な目的であって、なんびとも国家への関係においては中世のように自分の私的な約定にしたがったやり方をすることは許されない、という点である」(同、追加)。
 詳しくは、第三部第三章「国家」において、国家と個人の関係を論じることになりますが、ここでは、大きく二つの問題について、ふれておくことにしましょう。
 一つには、ヘーゲルにとって、国家とは、最高の存在であり、国家と個人とを切り離すことはできないとの考えにたっています。「人間の理性的な規定は、国家のうちに生きることである」というのも、国家あっての個人という考えを示しています。
 ヘーゲルは、この見地から、個人から出発するアトミズムの見地にたつ社会契約説を批判しています。しかしこれをヘーゲルの国家主義、全体主義を示すものととらえるのは、大変な誤解というべきでしょう。もともと『法の哲学』が、個人の人格的自由から出発していることは、これまでにみてきたとおりです。ヘーゲルは、個人を国家のなかに埋没させるのではなく、個人の人格的自由は、真の共同体である国家のなかにおいてこそ真に開花すると考えているのです。
 人間は、社会とともにあり、人間あっての社会、社会あっての人間という関係のなかで、人間は社会とともに発展してきたのです。ですから、人間を考えるにあたって、人間が先か、社会が先か、という問題提起自体が問題であり、人間と社会とは同時発生とみるべきものでしょう。その意味では個人を先とした社会契約説をヘーゲルが批判したことは、一面の正しさはあるのですが、反面では、国家あっての個人という考えにも同様の一面性があるとの批判を免れないことになるでしょう。
 二つには、国家は、理性的であるべきであり、個々人の恣意に委ねてはならない、との批判です。
 ここには、フランス革命のなかで生じた恐怖政治への強い批判がこめられています。ルソーの社会契約論にもとづく人民主権論が、ロベスピエールのジャコバン独裁と恐怖政治に結びついていったところから、こうした批判となったものでしょう。
 史的唯物論において、国家の本質が階級支配の機関にあることが解明され、現代日本の政治が、独占資本という階級の「恣意」に委ねられていることをみると、国家は「恣意」に委ねられてはならないとするヘーゲルの批判もまた新鮮に感じられる側面をもっています。

 

四、契約から不法へ(第八一節)

 ヘーゲルは、契約のもつ恣意という要素には、他面で不正・不法の契機がある、という鋭い指摘をおこなっています。
 資本主義社会は、個人を封建的身分制から解放し、自由な人格と所有権絶対の原則を確立しました。先にもちょっとふれた契約自由の原則は、個人意志自由の原則にもとづき、資本主義的取引の自由を実現する役割を果たしました。ヘーゲルは、契約自由の原則が、資本主義的経済の発展をもたらしたことを正当に評価しながらも、そこに含まれている不正・不法の契機をけっして見逃さなかったのです。
 契約にあらわれる両当事者の、「売りましょう」「買いましょう」の意志は、契約における「共通な意志」にすぎず、それはその商品のもつ価値にもとづく「ただ相対的に普遍的な、定立された普遍的な意志でしかない」(第八一節、追加)のです。いわば価値どおりに売買されるのであれば、売買の対象が例えば麻薬であっても、武器、弾薬という人殺しの道具であっても構わない「特殊的な意志」にすぎないところから、容易に不正、不法につながっていくのです。
 「彼らの特殊的な意志は、普遍的な意志とは対自的にちがった特殊的な意志として、洞察および意欲の恣意性と偶然性というかたちをとって、即自的に正ないし法であるところのものに反対の態度に出る。――これが不正・不法である」(第八一節)。 
 マルクスは、『資本論』の第三部第二七章「資本主義的生産における信用の役割」のなかで、株式制度というものは、信用を利用して「他人の資本および他人の所有」の「絶対的な処分権」(資本論⑩七六一ページ/四五五ページ)を獲得するものであり、株式の取引により「新たな金融貴族を、企画屋たち、創業屋たち、単なる名目だけの重役たちの姿をとった新種の寄生虫一族を再生産する」(同七六〇ページ/四五四ページ)として、次のようにのべています。
 「会社の創立、株式発行、株式取引にかんするぺてんと詐欺の全体制を再生産する。これは、私的所有の統制を欠く私的生産である」(同)。
 契約自由の原則にたった株式会社制度は、信用を利用して株式を売却し、これにより他人の資本を獲得し、利用するという恣意の要素を含んでいるために、「不正と不法に結びつきぺてんと詐欺の全体制を再生産する」ことになるのです。
 二〇〇二年は、アメリカの巨大独占企業、エンロン、ワールドコムの粉飾決算による倒産で、企業会計そのもののあり方が問われた年になりました。
 日本の場合、もっと問題は深刻です。大銀行はバブル経済から生じた不良債権をわれわれ国民の血税を湯水のごとく使って処理し、他方で大企業の借金を棒引きにするという、およそ株式を証券市場に上場し、社会的信用の上に存在している株式会社とはいえないような事態を生みだしています。
 雑誌『経済』(新日本出版社)二〇〇三年一二月号に掲載された保雄氏の論文「会計から現代資本主義を見る」は、この点に関し、貴重な指摘をしています。
 それは、学問上、「簿記」と「会計」は概念上明確に区別されるべきだというものです。「簿記」は、個別企業内部の管理のための記録・計算であり、可能なかぎりの網羅性・正確性を目指しているのに対して、「会計」は、証券・金融市場から資本を調達する株式会社の必要に応えて、投資家を対象とし、投資家に売り込むための情報公開の一つの制度だというのです。したがって、そもそも粉飾のない「会計」報告は皆無にひとしいのです。
 アメリカ資本主義は株式資本主義、機関投資家資本主義といわれており、日本資本主義もその道をひた走っています。
 しかしそれは、他方では「不正・不法」への道、「ぺてんと詐欺の全体制」への道につづいているのです。

 

五、不法(第八二~八七節)

 ヘーゲルは、契約が法という本質の現象であるのに対し、不法は法という本質の仮象だといっています。
 現象というのは、法の本質がそのままの姿であらわれたものであるのに対し、仮象というのは、同じ本質の現われではあっても、転倒した姿としてあらわれることを意味しています。
 「契約においては、即自的な法は一つの定立されたものとして有り、この法の内的な普遍性は(契約する双方の)恣意および特殊的意志の一つの共通的なものとして有る。法のこの現象、すなわち、法において法とその本質的な現存在つまり特殊的意志とが直接いきなり、すなわち偶然的に一致するという現象は、つづいて進行して不法のかたちで仮象となる」(第八二節)。
 つまり契約においては、本来の普遍的法のもつ本質は、共通的な意志となった特殊的意志として現象するのに対し、不法においては、本来の普遍的法は、それを否定する特殊的意志によって仮象にされてしまうのです。
 不法な行為により仮象にされた法は、本質としての本来の普遍的法に回帰すべきものであり、その「仮象の真理性」(同)への回復が、不法に対する弾劾(損害賠償、刑事罰)ということになるのです。
 「右の仮象は空ないし無効なものであるということ、法はこのおのれの否定を否定することによっておのれを回復するということが、この仮象の真理性である。法は、おのれの否定からおのれに帰るという、おのれを媒介するこうした過程を通じて、おのれを現実的かつ妥当するものとして規定する」(同)。
 自由な意志の現存在としての法は、不法によって一度否定されます。しかし、法は、不法を犯した者に刑罰を加えることによって、「おのれの否定を否定」し、「おのれを回復する」のです。いわば不法に対する弾劾は、「否定の否定」なのです。
 ヘーゲルは、この仮象としての不法には、三つの種類(第八三節、追加)があるといっています。
 第一は、「無邪気な不法」であり、「私にとって不法が法とみなされる」場合です。
 第二は、「詐欺」であり、不法なものを法として、相手をだまし不法をなすことです。
 第三は、「犯罪」です。第一、第二の場合は、民事上の不法として、第三の場合は、刑事上の不法としてとらえられています。
 第一の無邪気な不法というのは、私が主観的には正・法だと考えているものが、不正・不法だという場合の不法です。私には不正・不法をなしているという意識はありませんので、「無邪気な不法」とよばれています。
 実は、こうした「無邪気な不法」がしばしば民事訴訟の原因になっているのです。というのも、法や権利というものは、数々の特殊な意志をふまえた普遍的な自由な意志の現存在として規定されているため、権利の基礎となる要素(権利根拠)もけっして一つではなく、いくつもの多様な、場合によれば相反する要素が、主張、抗弁、再抗弁などの形で盛りこまれていることも少なくありません。そこで、お互いが自分に都合のよい権利根拠を持ちだし、自分の主張こそ法にもとづくものだとして相争うことになるのです。
 「それらの人格の各々は自分の特殊な権利根拠からその物件を自分の所有と見なし、そのことによってもろもろの権利の衝突が生じる」(第八四節)。
 したがって「この衝突は市民どうしの権利の争い、民事訴訟の圏をなし」ており、「訴訟は、ただ物件をどちらのがわの所有のもとに包摂するかにかんするだけである。――すなわち、私のものという賓辞のなかでただ特殊なものだけが否定されるところの、端的に否定的な判断である」(第八五節)。
 しかし、実際には民事訴訟の場合、訴訟当事者の一方に法があり、他方に不法があるということでしかありません。「端的に否定的な判断」というのは、法の規定そのものは、当事者双方ともそれを肯定したうえでこの法の規定に照らして、私のものまたは第三者のものであるということが否定されるというだけのことですから、たんなる否定的判断ということになります。
 次に詐欺というのは、例えばガラス玉の指輪をダイヤモンドの指輪と偽り、相手もそれを信じて買い受けるような場合をいいます。表面からみるかぎり、この指輪を「売りましょう」「買いましょう」という意志の一致がみられますから正当な売買がなされたように見えますが、欺く私の側からすれば、不法な取引を法にもとづくものと偽るわけですから、本来の法は、仮象でしかなくなるのです。
 ヘーゲルは、詐欺においては、「普遍的なものが特殊的意志によって一つのただ見かけのうえの、仮象的なものにまで、――まず第一に契約において意志のただ外面的な共通性にまでおとしめられる」(第八七節)といっています。

 

六、強制と犯罪

不法という廻り道をしての強制(第九一~九四節)

 自由な意志の現存在としての法は、「自由な意志は即自かつ対自的に強制されえない」(第九一節)ものですから、本来的には強制を伴うものではありません。内心の自由には誰も強制を加えることはできません。しかし、実際には、法に違反するものは、法によって強制されることになります。そこでこれをどう説明するのかが問題となってきます。ヘーゲルは、不法を強制する者は、強制によって自由な意志「それ自身を破壊」(第九二節)することになる、しかし、自由は意志の真にあるべき姿として維持され保持され続けなければならないから、不法という強制は、今一度法によって強制され、「否定の否定」により自由な意志が回復する、と説明するのです。
 「強制は、それの概念においてそれ自身を破壊するということの実在的な示現を、強制は強制によって揚棄されるということのうちに有する。したがって強制はただ条件的に正当、合法的であるばかりでなく、必然的である」(第九三節)。
 本来、法ないし権利は自由な意志の現存在なのですが、「不法という廻り道」をとおって、はじめて「強制の権利ないし法」(第九四節)、つまり、強制力となってあらわれてくるのです。法はこの強制力により、階級社会においては階級支配の道具となってきます。
 「抽象的すなわち厳格な法を、もともとはじめからすぐさま、そのためにひとを強制してもよいような法として定義すること」(同、注解)は、法の本質が自由な意志の現存在であることを見失わせるものといわなければなりません。
 そうでないと、真にあるべき法とは何かを問題にすることができなくなり、根拠があろうとなかろうと強制を伴なうものが法だということになってしまうのです。

刑罰の根拠(第九五~九九節)

 「第一の強制は、……権利としての権利ないしは法としての法を侵害するところの強力が、自由な者によって遂行されるばあいとして、犯罪である。それは完璧な意味での否定的―無限判断である」(第九五節)。
 「否定的―無限判断」というのは、「あれでもない」「これでもない」として無限に否定し続ける判断のことです。民事事件の場合には、このものに対する私の権利または第三者の権利が否定されるだけの否定的判断だったのに対し、例えば盗みを行う者にとって、盗もうとするこの物は、「私のものでも、彼のものでも、他の誰のものでもない」として、この物に対する権利一般を否定することになるところから、否定的無限判断だといわれるのです。
 したがって、刑事罰というのは、この最初の強制に対する強制の揚棄であり、「否定の否定」による正義ないし法の回復となります。
 「犯罪の行為は一つの否定的なものであり、したがって刑罰は否定の否定にほかならないのである。現実的な法はこのように侵害の揚棄である。それはまさにこのことにおいておのれの妥当性を示し、おのれが一つの必然的な媒介された現存在であることの実を示すのである」(第九七節、追加)。
 これに対して、近時の刑法学では刑罰の正当性の根拠を「予防説、威嚇説、戒告説、矯正説」(第九九節、注解)などに求めています。これらの理論は、犯罪は「害悪」であり、それに対し、刑罰を加えることによって、犯罪者を威嚇して、予防につとめたり、矯正したりするという「善」がなされる、との立場に立っています。
 つまり、犯罪対刑罰の対立は、害悪対善の対立だというわけです。
 ヘーゲルは、次のようにこれらの理論の批判をしています。
 「だが問題はたんに害悪でもなければ、あれこれの善いことでもなくて、はっきりと、不正・不法と正義である。〔ところが〕右の皮相的な観点によって、犯罪について第一のかつ実体的な観点である正義の客観的な考察がわきへおかれる。その結果おのずから、犯罪の主観的側面である道徳的観点が、ありふれた心理学的諸表象とまぜこぜになって、本質的なものとなる」(第九九節、注解)。
 刑罰の正当性の議論で肝腎なのは、「犯罪が、しかもそれが害悪のとしてではなくて、法としての法の侵害として、廃棄されなければならないということである」(同)。
 様々な刑罰論をげにしてやっつけ、刑罰とは、「否定の否定」による法の回復だという根本的な批判を加えているのは、痛快というほかありません。

量刑(第一〇一~一〇三節)

 以上のように刑罰は、「否定の否定」ですから、否定された法益(被侵害利益)に対する、一種の報復のようにみえますが、実際には法的な正義の回復であって復讐ではありません。したがってその程度(量刑)も、質量ともに犯罪に見合ったもの(同一性)でなければなりません。
 「だが概念にもとづくこの(報復の)同一性は、侵害の特殊的性状における同等性ではなくて、侵害の即自的に有る性状における、――つまり侵害の価値からいっての同等性である」(第一〇一節)。
 価値の同等性に着目するのではなく、犯罪の特殊的形態の同等性にとどまると、「目には目を、歯には歯を」という単なる復讐になってしまいます。そうなると、刑罰それ自体が一つの新たな侵害として「無限な過程のなかにおちいり、はてしなく代々つたわってゆく」(第一〇二節)ことになってしまいます。またこの被侵害利益と量刑との価値の同等性が考慮されないかぎり、量刑には基準がないことになってしまいます。
 いまアメリカは、テロへの報復として、アフガン、イラクの二つの政権を軍事力でうち倒し、中東の石油にたいする権益を確保しようとしています。テロは、国際的犯罪ですから、犯罪として国際的ルールにのっとり処罰されるべきものです。しかるにアメリカはそれを刑事罰の対象としてとらえるのではなく、「目には目を」の復讐にでたことから、無限なテロの連鎖におちいり、アメリカの報復も、被侵害利益との「価値の同等性」を失って、無限に拡大していかざるをえないという結果を生みだしています。アメリカのイラク戦争は、大量破壊兵器がなかったという違法性をもつのみならず、法的な正義の回復という性格からも無縁のものとなっています。
 こういう刑事罰による不法・不正を揚棄する方式は、「復讐的ではなくて刑罰的な正義を要請すること」(第一〇三節)であり、このことのうちには、「特殊な主観的意志として普遍的なものそのものを欲するような意志」(同)、つまり道徳の概念が要請されています。
 こうして、「権利ないし法」は、「道徳」への移行の橋渡しを手にしたことになります。

 

七、法から道徳へ(第一〇四節)

 こうしてみてくると、法から道徳への移行の問題は、自由な意志の弁証法的な「発展の形態」(第一〇四節)を示すものであると同時に、「意志の概念」の「現実化」(同)を示すものです。
 まず、自由な意志は直接的な未分化な意志として自己に現存在を与え、物件を所有します。次いで契約において、自由な意志は、「共通的な意志」として、特殊的意志と普遍的意志の一致を実現します。さらに不法において、特殊的意志と普遍的意志とは対立と統一の関係にあることが示され、道徳にあっては特殊的意志と普遍的意志の対立と統一を自己自身の内部において展開することになるのです。
 犯罪者は、自己の特殊的意志によって犯罪を犯し、法という普遍的に自由な意志との対立のなかに自分をおくことになります。そして、法によって処罰されることによって、犯罪者は自分の特殊的意志は間違いであり、法という普遍的意志を受け入れ、この対立を揚棄して自らこの普遍的に自由な意志に立ち戻るのです。
 道徳も、同じような意志の発展形態をたどります。ただし自己のうちに、普遍的意志と特殊的意志の対立を生み出し、特殊的意志から普遍的意志に向かって無限に前進するのが道徳の立場なのです。道徳の場合は、不法とちがって、自己の内面における葛藤となるのです。
 「抽象的な権利ないし法においては、意志はただ人格性としてあるだけだが、今後は意志はおのれの人格性をおのれの対象とする。自由のそういうように対自的に無限な主観性が、道徳的立場の原理をなす」(同)。
 こうして、自由な意志は第一部「抽象的な権利ないし法」から、第二部「道徳」へと向かうことになります。
このように道徳は、自己の内部における普遍的意志と特殊的意志との対立とその止揚であり、「内心の自由」にかかわる問題ですから、法とちがって、どんな強制も行なわれえないのです。
 「道徳的なものにおいては私は自分自身だけでおり、対自的に有るのであって、ここでは強力はどんな意味をももっていない」(第九四節、追加)。