『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第八講 道徳とは何か

一、より善く生きる

 今日から第二部「道徳」に入ります。『法の哲学』の第一部が狭義の「法の哲学」であるのに対し、第二部、第三部は正しさという意味でのレヒト(法)、いうなれば「正義の哲学」です。
 哲学という学問は、真理・真実を探究すると同時に、人間がより善く生きるためにはどう生きればいいのかを問い続ける学問だと言っていいでしょう。道徳というと道徳教育の押しつけとも関連して反発される向きもあるかと思いますが、ヘーゲルのいう道徳とは、いかに善く生きるか、という生き方を問題にしているのであり、生き甲斐のある人生とは何かの探究なのです。
 ソクラテスは、その哲学が青年たちに害悪を訴えるものとして告訴されたとき、「わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、決して知を愛し求めること(哲学)を止めないだろう」と語りました(『ソクラテスの弁明』プラトン全集一巻八三ページ、岩波書店)。
 そして「わたしが、歩きまわって行なっていることはといえば、ただ次のことだけなのです。諸君のうちの若い人にも年寄りの人にも、誰にでも、たましいができるだけすぐれたよいものになるよう、ずいぶん気をつかわなければならないのであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならないと説くわけなのです」(同八四、八五ページ)。
 また別の箇所では、「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」(『クリトン』同一三三ページ)ともいっています。
 たましいをすぐれたものとして、より善く生きることの主体としての探究が、道徳といわれるものなのです。
 先にものべたように、マルクスは若い時には人間論にかかわったものの、史的唯物論を確立してからは、道徳を、宗教、哲学などとならぶイデオロギーの一形態としてとりあげ、経済的諸関係によって規定されるものとしてのみとらえていて、それ以上の考察をしていません(例えば「ドイツ・イデオロギー」全集③三三ページ)。したがって、人間論の一環ともいうべき道徳の問題の掘り下げた検討はなされていません。
 しかし、科学的社会主義の哲学は、二五〇〇年の哲学の歴史のなかの価値ある部分をすべて継承・発展させたものとして誕生したものですから、人間が社会・国家という共同体のなかにあって、主体としてより善く生きるための道徳の問題をその視野の外におくことはできません。
 現に、日本共産党第二一回大会決議は、「民主的な社会の形成者にふさわしい市民道徳」として、「人間の生命、たがいの人格と権利を尊重し、みんなのことを考える」、「真実と正義を愛する心と、いっさいの暴力、うそやごまかしを許さない勇気をもつ」、などの主体的に生きるべき一〇項目を提案しています(『前衛』六九三号、二五ページ)。
 また同党の第二三回大会決議第七章は、「日本社会の直面している危機には、政治的危機、経済的危機だけでなく、道義的危機というべき深刻な問題がある」として「社会の道義的な危機を克服する国民的対話と運動を」よびかけています(『前衛』七七六号、八四ページ)。
したがって、わたしたちは、原点に立ちかえって、科学的社会主義の道徳論を探究する見地から、ヘーゲルの道徳論を学んでいく必要があると思うのです。 

 

二、道徳とは何か

主体的自由(第一〇五~一〇八節)

 第三五節では、主体から人格への移行を学びました。つまり、たんなる自由な意志の持ち主に過ぎなかった主体が、自己意識をもつことによって、自我にめざめ、人格となるというものでした。
 しかし、道徳では、逆に人格から主体への移行をとらえています。といっても、最初の主体と同じ主体ではありません。単に自我に目覚めるというのみならず、より善く生きようとする主体として登場してくるのです。より善く生きるということは、自覚的に自己のうちにあるべき普遍的意志を定立し、そこにむかって自己の意志を前進させ、無限に人格を発展させることを意味しています。この自覚的に無限により善く生きようとする人格が、主体としてとらえられているのです。
第一〇五節から第一一四節までは、道徳の「総論」にあたる箇所であり、第一一五節からが道徳の「各論」となります。
 「道徳的立場は、意志がたんに即自的に無限であるばかりでなく対自的に無限であるかぎりにおける、意志の立場である。意志のおのれのなかへの折れ返りとしてのこの反省が、・・・・・・人格を主観ないし主体にまで規定する」(第一〇五節)。
 「即自的に無限」というのは、本来的に無限という意味であり、「対自的に無限」というのは、自己自身のうちで反省的に無限であること、つまり、自己のうちで自覚的に無限な発展を追求するという意味です。
 「意志のおのれのなかへの折れ返り」としての「反省」こそ、人格を主体に向上させる要因となるものです。それをいいかえれば、自我が自分自身と向きあい、自己のうちに即自的な意志(現にある特殊的意志)と普遍的意志(あるべき普遍的意志)との対立・区別を定立し、「反省」をつうじて、この区別を解消・揚棄し、自己を普遍的意志に高めようとする自由な意志の活動ということになります(第一〇六節、注解)。
 第三講で、「自由とは、・・・・・・規定されたあり方においてありながらも自分のもとにあること」(第七節、追加)を繰り返すことによって自我が無限に発展する自由な主体にあることをみてきました。いまようやくこの道徳の立場に至って、自我が無限に発展する自由な主体として具体的にとらえられることになるのです。
 「それゆえ、第二の圏である道徳は、大体において自由の概念の実在的な面をあらわす。この圏の過程は、さいしょはただ対自的に有るだけの意志を、……それが普遍的意志とのこの区別のなかでおのれ自身に没頭する面では揚棄することである」(第一〇六節、注解)。
 いわば第二部「道徳」においては、主体性(主観性)が「自由の概念の実在的な面をあらわす」ことになります。その限りでは、第一部における権利能力の主体になるという抽象的に自由な人格から、具体的に自由な人格に前進することになりますが、まだ、第二部における主体的な(主観的な)自由は、自己自身における主観的自由にすぎず、客観的な自由と結びついていません。したがって第二部「道徳」は、さらに主体的自由と客観的な自由との統一である第三部「倫理」に移行しなければならないのです。
 「主体性(主観性)は、自由の概念が顕現する地盤をなす(一〇六節)。この主体性(主観性)は、道徳的立場ではおのれの概念たる自由とまだ区別されているが、倫理的領域においては、自由の概念にとって十全な、自由の概念の顕現である」(第一五二節、注解)。
 道徳の立場においては、近代的な自我、自由に自己決定しうる主体が前提とされています。主体が自覚的に自分自身と向きあうことにより定立される普遍的意志は、意志の真にあるべき姿(意志の概念)、つまり正しい(正義の)意志ということになり、これがやがて発展して道徳となっていくのです。というのも、自由な意志は、広義の「法の地盤」(第四節)となるものであって、たんに狭義の法や権利の地盤となるのみならず、正しさ(正義)の地盤にもなるものだからです。この自由な主体が、主観的意志の正義・正しさとは何かを無限に追い求め、この正しさにてらして、意志決定をしようとするところに、道徳的立場が生じるのです。
 「それゆえ道徳的立場は、それの形態においては、主観的意志の正ないし権利である。この正ないし権利にしたがってのみ意志はなにものかを承認し、かつ、なにものかである」(第一〇七節)。
 ヘーゲルは、この正義という絶対的なものを無限に追い求め、正義にもとづいて自己を規定しようとする道徳的立場に、人間の尊厳と人間の高い価値とを見出しています。「道徳においては人間の独自の関心こそが問題になる。そして人間が自己自身を絶対的なものと知り、かつ自己を規定するという、このことがまさに人間の高い価値なのである」(同、追加)。
 したがって、道徳の立場は、主観的意志が道徳的な正しさ(意志の概念)に向って限りなく前進し、それと一致すべきだという「」(そうあるべし)の立場となります。
 「意志のこの形式的なものは、・・・・・・このように主観性としてあらわれるばあいは、まだ意志の概念と同一的なものとしては定立されていないのであるから、道徳的立場は、関係と当為(べし)ないし要請の立場である」(第一〇八節)。
 また主観的意志は、自己のうちに特殊的意志と普遍的意志の対立を定立したとしても、それはまだ内心の意志にとどまり、客観的な行為としては立ちあらわれていないという、「形式的なもの」(同)にすぎません。そこで、この主観的意志は、外にあらわれでて自らを客観化しようとする、つまり、道徳的な行為にでようとすることになり、それを考察するのが第一〇九節から第一一三節までの課題となります。
 それはともかく道徳の立場は、まだ「当為」の立場から、脱け出すことはできないのであり、この「当為」の立場から脱却して、文字どおり正しく生きるためには、主観性(道徳)の世界から主観と客観の統一の世界=倫理の世界にまで到達しなければならないのです。
 「自己規定は道徳においては、まだどんな存在するところのものにも達しえない純粋な不安と活動であると考えられねばならない。倫理的なものにおいてはじめて、意志は、意志の概念と同一的であり、ただこの概念だけをおのれの内容とする。・・・・・・つまり道徳的なものは相違の立場であって、この立場の過程は、主観的意志が意志の概念と同一化する過程である」(第一〇八節、追加)。「道徳的なものは相違の立場」とありますが、意志の概念と同一になろうとしつつも、同一になれないのが、道徳だというのです。しかし、このことは道徳のもつ独自の意義を否定するものではなく、道徳の問題は、独自の意義を持ちながらも根本的には社会・国家の問題であることを指摘したものというべきものでしょう。
 このヘーゲルの立場は、方法論においては、道徳から、社会・国家を目指すものとなっており、経済的諸関係がイデオロギーの一形態としての道徳を規定するととらえる史的唯物論とは逆の方向性となっていますが、道徳を社会・国家と切りはなしてはとらええないとの見地は、史的唯物論と共通のものがあるといっていいでしょう。
 昨年来登場してきた、野菜、果物、米泥棒とか、長崎の俊ちゃん殺し事件、ネット自殺のような、これまでにみられない新たな道徳的頽廃現象も、個人的道義の問題ではなく、社会の病理としてとらえなければならないことは明らかだと思います。
 日本共産党第二三回大会決議も、「今日の道義的危機の根本には、自民党政治のもとでの国民の生活、労働、教育などにおけるゆがみや矛盾、困難の蓄積があり、それらの民主的打開のために力を尽くすことが重要である」と指摘しつつも、道義的危機は、「それには解消できない、社会が独自にとりくむべき問題」であることを強調しています(『前衛』七七六号八四、五ページ)。

道徳論の概説(第一〇九~一一四節)

 第一〇九節から第一一四節までは、道徳論全体を概説するものとなっています。
 主体としてより善く生きるという道徳の立場は、まず生きるうえでの「主観的意志」の問題から出発します。しかし主観的意志といっても、それは自由な「意志の概念」(第一〇六節、第一〇九節)としての「実践的精神一般」ですから、より善く生きるためには、こうあるべきだとする主観性から抜け出し、行為となってあらわれるところまで前進していきます。したがって自由な意志は、こうあるべきだとする主観性を実践に移し、主観性と客観性を「対自的に、区別し、かつ両者を同一的として定立する」(第一〇九節)こととなります。
 つまり自由な意志は、「当為」としての自己の目的となる普遍的意志を客観的な行為に移し入れ、主観と客観の統一を実現しようとするのです。
 「意志は、右の制限を廃棄しようとする意欲である。すなわち、右の内容を主観性から総じて客観性へ、ある直接的な現存在へ移し入れようとする活動である」(同)。
 道徳は、法律のように強制されるものではありませんが、法律と同様の社会規範の一つです。つまり社会的共同体のなかで諸個人が生き、かつ生活するうえで、一人ひとりが共同体の一員であるが故に自覚的に守るべき行為の基準となるものです。したがって、道徳では、主観的意志から出発しつつも、それが主体のいかなる行為となり、いかなる結果と結びつくのかという客観性の立場と結びつき、客観的な行為をつうじて主体性(諸個人)も道徳的評価をうけることになるのです。
 自己の内心の普遍的意志を行為として客観化すること、つまり「生きる」ということの意味を考えてみると、そこにはいくつかの問題があります。
 まず第一に、それは、私の意志の内容を行為として外面化するものですから、私が生きて行動する行為には、私の主体性が含まれ、その限りで私の責任が生じることになります。また「生きる」ことは、社会のなかで他人と交流しつつ行動することですから、その限りで、社会的にみて、私の道徳的責任が生じてくるのです。
 「内容は、……私の内的な目的として私の主観性をふくむだけではなく、それが外面的な客体性を得たかぎりでも、私の主体性を私にとって(対自的に)ふくんでいる」(第一一〇節)。「行為はそれの外面的なあり方のなかで私によって自分のものとして知られる」(第一一三節)。これが第一章で扱われる「企図と責任」の問題です。
 「企図」というのは、何らかの行為を思いうかべることを意味しています。道徳の問題の第一歩は、自己の企図した行為のもたらした社会的結果には私の主体性が含まれているところから、その結果について私が道義的責任を負うというところから始まるのです。
 第二に、私の行為は、私の特殊的意志としてあらわれますが、そこには多かれ少なかれ正しさを求める意志(意志の概念)としての普遍的意志が含まれてきます。つまり、生きる以上は、社会的にも道義的責任が問われることになりますので、そこからより善く生きようとする意志が生じてこざるをえないのです。
 「たとい内容がなにか特殊的なもの〔これがほかのどこから取って来られたにせよ〕をふくんでいるにしても、それは、おのれの規定されたあり方のなかでおのれ自身のなかへ折れ返って反省した意志、したがって自己同一的でかつ普遍的な意志の内容である」(第一一一節)。
 これが第二章でとりあげられる「意図」なのです。「意図」とは、私の特殊的意図(ある行為を実践しようとする意志)のなかには、より善く生きて満足をえようという一定の普遍的意志が含まれていることを意味しています。この満足をえようという一定の普遍的意志の展開したものが、「福祉」あるいは「幸福」とよばれるものなのです
 こうして第二章では、「意図と福祉」が論じられることになります。
 第三に、私は私の行為において満足をえようという普遍的意志を媒介に、他の人たちの意志とかかわることになります。普遍的意志は、普遍的であるが故に、他の人たちにとっても普遍的意志となり、ここに社会的な価値観の共有が生れるのです。
 より善く生きるということは、自分さえ幸せであれば良いということにはならないのです。自分が幸せだと思うことが、社会の誰にとっても「正義」と思われるより普遍的な生き方につながらなければならないのです。
 「私の目的の実行は、私の意志と他の人たちの意志とのこうした同一性を内に蔵している。すなわち、それは他の人たちの意志への、ある肯定的積極的な関係を持っている」(第一一二節)。「行為は他の人たちの意志への本質的な関係である」(第一一三節)。
 ここに、法と道徳のちがいがあります。
 法はもろもろの禁止を命ずるだけの消極的な生き方に関わる問題ですから、他の人たちと無関係に自分の意志だけで対応しうるのですが、道徳は、正しさを求めてより善く生きようという普遍的な目標をかかげた積極的な生き方ですから、他の人たちの意志と共通する社会的価値観(普遍的意志の共有)、すなわち究極的に普遍的な意志である「善」(正義)を持つこととなり、これが社会規範としての道徳となるのです。
 「権利ないし法のばあいには、所有においておのれに現存在を与える私の意志にかんして、他の人たちの意志がなにごとかを欲するだろうかどうかは問題ではない。これに反して、道徳的なものにおいては、他の人たちの福祉もまた肝腎なのであって、こうした肯定的積極的な関係はこの道徳的なものにおいてはじめて生じうるのである」(第一一二節、追加)。
 主体としてより善く生きるということは、特殊的な意志がより普遍的な意志にまで高まり、第三章の「善と良心」にまでたどりつくことになります
 こうして、第二部「道徳」は、第一章「企図と責任」、第二章「意図と福祉」、第三章「善と良心」という構成をもつことになります。
 ヘーゲルの言葉でまとめてみますと、第一章では、「行為の内容は、総じて私のものであるということ。したがって行為は主体的意志の企図であるということ」(第一一四節)が論じられます。
 第二章では、「行為の特殊的なもの」は、「行為の内容の普遍的な性格が規定されている仕方」であり、「福祉」であることが論じられます(同)。
 第三章では、特殊的な意志の内容が、「普遍性のなかへ」高められたものが、「意志の絶対的な目的、つまり善」であり、善と良心が論じられるのです(同)。

 

三、企図と責任(第一一五~一一八節)

 人間が生きて何らかの行為をすることは、ある目的のもとに、その目的を実現すべく客観世界に働きかけ、そこに一定の変化をもたらしますが、そのかぎりで、道徳的「責任」という問題が生じてきます。
 「所行はこの眼前にある現存在に一つの変化を定立するのであって、意志は総じて、この変化された現存在のうちに私のものという抽象的賓辞がふくまれているかぎりにおいて、おのれの所行に責任がある」(第一一五節)。
 私の自由な意志が、私の「行為の結果」(所行)に含まれているところから、その結果に対して、私の責任が生ずるのです。ここでは、法ではなく、道徳を論じているのですから、責任といっても法的責任ではなく、道義的責任が問題とされています。
 また、私のもろもろの所有物の所行が他人に損害を与えた場合、その結果は私の所行によるものとはいえませんが、その所有物が「私の支配、注意、等々のもとに属している」(第一一六節)ところから、この所有物の所行の結果について同様に私の責任が生じるのです。いわば管理責任といわれるものです。
 しかし、私や私の所有物のもたらした結果が、すべて私の責任となるわけではありません。その結果のなかには、私が予見しえなかったようなものまで含まれることがありますが、そういうところにまで、「私のもの」という私の意志を認めることはできないからです。
 「意志の権利は、自分の所行のなかで、ただ右のように自分の表象のうちに含まれていたものだけを自分の行為として認めるということである。すなわち、自分の所行のもろもろの前提のうち、ただ自分の目的のなかで知っているもの、自分の企図のなかにあったものにだけ、責任をもつということである」(第一一七節)。
 また、行為から結果までの間には、様々な「外面的な力」の作用する可能性があります。「これらの外面的な力は、行為がそれだけとしてあるのとはまったく別のものを行為にむすびつけ、行為をもろもろの遠い無縁な結果のなかへころがしていってしまう」(第一一八節)こともありますから、行為の「必然的な結果」(同、注解)として生じたものについてのみ、責任を負うことになります。いわば行為と結果とが必然的因果関係で結ばれている場合にのみ、その結果について行為者の責任が生じるのです。
 いいかえれば、行為者は自分の個別的、直接的な行為が、どこまで普遍的な行為と結びついているかを知らねばならないし、普遍的行為の必然的結果を知らねばならないことを意味しているのです。
 「だが、たとい私はただある個別的、直接的なものしか生ぜしめはしないとしても、どんな行為にもむすびつくところの、そしてそのかぎり、その個別的、直接的なものがそれ自身のうちにもっている普遍的なものであるところの、必然的なもろもろの結果というものがある。なるほど私は、阻止できるかもしれないもろもろの結果を予見することはできないが、私は個別の所行の普遍的な本性を知らなくてはならない」(同、追加)。
 こうして、「私がたんに自分の個別的行為だけでなく、それと連関している普遍的なものを知るべきだ」(同)とする要請は、「企図」から「意図」への移行をもたらします。

 

四、意図と福祉

意図の権利(第一一九~一二〇節)

 「個別的なものの真理は普遍的なものであり、行為の規定されたあり方はそれ自身、ある外面的な個別性として孤立した内容ではなくて、それ自身の内に多種多様な連関をふくんでいる普遍的な内容である。企図は、思惟する者から発するものとして、たんに個別性をふくむばかりではなく、本質的に右の普遍的な面――すなわち意図をふくんでいる」(第一一九節)。
 例えば、放置自転車に乗るという個別的な行為は、窃盗という普遍に連関し、髪の毛を引きぬく行為は、傷害という普遍に連関し、「この個別の点の普遍的な本性は、その点の広がりをふくんでいる」(同、注解)。こういう個別のなかにおける普遍的なものを意志することが「意図」とよばれているのです。
 たんに生きるだけではなく、より善く生きるということは、この個別のなかにおける普遍的なものを意志し、これを「当為」として追求することが求められるのであり、それが道徳的立場となるのです。
 刑法でいう「未必の故意」(ヘーゲルのいう「間接的犯意」、第一一九節、注解)は、こういう個別から普遍への広がりを故意について認めたものです。例えば火のついたタバコをゴミ箱に投げすてるのは、燃やすつもりはなかったとしても、放火する「未必の故意」があったとして、放火罪が成立します。だから道徳的立場からしても、ゴミ箱に火のついたタバコを捨てるべきではないことになるのです。
 こうして、個別から普遍へという認識の広がりは、正しさを求めてより善く生きる問題についても、企図(知の権利)から意図(意図の権利)へと広がりを持つに至るのです。
 「意図の権利とは、行為の普遍的な質がただ即自的に有るばかりではなく、行為する者によって知られること、したがってもう彼の主観的な意志のなかにふくまれていたということである。また逆に、行為の客観性の権利――と呼ばれうるもの――は、思惟する者としての主体によって知られ欲せられていると主張することである」(第一二〇節)。
 行為者が自分の行う個別的行為は、「普遍的な質」と結びついていると知っていることを「意図の権利」といっており、逆に行為者は「普遍的な質」を知っているはずだとして、その道義的責任を主張することを「行為の客観性の権利」といっているのです。逆にいえば、個別と普遍との関係を認識しえないような主体――つまり自由な意志の主体としては欠陥をもつ主体に対しては、道徳に関する責任は軽減されるか、免除されざるをえないことになります。
 「こうした洞見を要求するこの権利はとうぜん、子供や白痴や狂人などの行為のばあい、彼らの責めに帰することがまったくできないか、わずかしかできないということをともなう」(同、注解)。
 刑法上、これは、「責任能力の軽減」とよばれています。心神喪失者や心神耗弱者の行為は、責任能力が存在しないか、または欠けているとして処罰されないか、減刑されることとなっています。道義的責任もこうした人には同様に軽減されることになります。

個人の尊厳と幸福追求権(第一二一~一二六節)

 このように行為者の意図する特殊的意図には、一定の普遍的なものが含まれているのですが、あくまで「行為を規定するたましい」(第一二一節)は、特殊的意志であり、この特殊的意志が行為において実行されるところに「主体的自由のもっと具体的な規定におけるあり方」(同)があり、行為者も「行為のうちにおのれの満足を見出すという、主体の権利をなす」(同)のです。
 より善く生きるとは、何よりも主体が自己の行為のうちに満足を見出すところにあります。しかし自己が、主体的自由のなかで、満足を見出しうるには、その行為のなかに一定の普遍的なものが含まれていなければなりません。そのような満足を見出しうる一定の普遍的なものが「福祉とか幸福」(第一二三節)といわれるものなのです。これが現代では幸福追求権といわれるものです。個人の尊厳は、幸福追求権の承認としてあらわれるのです。
 テキストでは、「福祉とか幸福」と訳されていますが、第三部第二章「市民社会」「C」の「福祉行政」との対比からしても、ここは、「福祉」ではなく「幸福またはしあわせ」と訳すべきものでしょう。
 アリストテレスは、すべての行為のめざすものは「善」であり、善のうちの「最高善」は、「幸福」であるといっています(「ニコマコス倫理学」アリストテレス全集⑬第一巻)。というのも「条件ぬきに終局的なものと言えば、それは常にそのもの自体として選ばれ、いかなる場合にも他のもののゆえに選ばれることのないもの」(同一七ページ)ということになりますが、それこそ「幸福」以外にはないからです。ヘーゲルもアリストテレスの影響を受けて、その道徳論を展開しているのです。
 こういう道徳論における幸福追求権を否定する「二つの主張」(第一二四節)があります。一つは、幸福を追求するからには、絶対的な幸福を目的とするのでなければ意味がないとする考えであり、もう一つは、満足しさえすればどんな目的でもいいという考えです。ヘーゲルは、「どちらも抽象的悟性の空虚な主張」(同)だといっています。追求されるべき幸福は、一定の普遍的意志であるべきものですが、かといって絶対的に普遍的意志である必要はないというのがヘーゲルの立場なのです。
 どんなに、幸福に主観的な価値しかないとしても、行為者が主体として、自己の信ずる一定の普遍的な価値を選択し、それに主観的な満足をえることは、それ自体、大いに意義のあることだといわなければなりません。
 「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利、あるいは、こういっても同じことだが、主体的自由の権利、これが古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」(同、注解)。
 近代的自我は、何ものにも制約されない自己決定の自由という主体的な自由の権利であって、どんなにそれが特殊的な欲求であろうとも、自己の欲求が充足されることによって、満足をおぼえる権利、つまり幸福追求権をそのうちに含んでいるのです。
ですから憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政のうえで、最大の尊重を必要とする」として、幸福追求権を個人の尊厳の一内容としてとらえています。
 いわば、幸福追求権は、その中に「幸福」という一定の普遍的意志を含んでいながらも、主体的自由としての特殊的意志を中心とする権利です。したがって幸福追求権は利己的欲望の充足という側面が主要な内容となっているという制約をもっているのです。その一面性をきびしく批判して、幸福追求権を否定する逆の意味での一面的な道徳観もあるのです。
 「抽象的反省は、道徳はただ自分の満足にたいする敵対的な闘争としてのみ永続するのだと考える道徳観――『義務の命ずるところを嫌悪しつつ行うこと』という要求を生み出すのである」(同)。
 ヘーゲルは、ここでもこんな形でカントに批判を加えています。カントのいう「義務の命ずるところを嫌悪しつつ行う」ことは、より不快に生きることであって、より善く生きるという道徳論の名には値しないというのです。
 幸福、つまり主体が自己の行為に満足をうるような行為というのは、多くの人が一定の共通のイメージをもつことができますので、そのかぎりでは一定の普遍的なものということができます。そこから、個人の特殊的な幸福追求権は、万人の幸福追求権へと展開される可能性をもっています。
 「この契機は、さしあたりまずそうした特殊性そのものに即して定立されたものとしては、他の人たちも含めた福祉であり、――十全な、だがまったく空虚な規定でいえば、万人の福祉である」(第一二五節)。
 この「万人の福祉」は、「公共の福祉」と類似した用語ですが、ここでは「万人の幸福」という意味としてとらえるべきものでしょう。それは、ヘーゲルが「いわゆる普遍的な最善、国家の福祉、すなわち、現実的具体的精神の権利ないし正は、まったく別の圏」(第一二六節、注解)といっていることからも、そういえます。「公共の福祉」とは「国家の福祉」に他ならないからです。ヘーゲルは、個人の満足を基盤とする私的な幸福追求権を普遍的な国家に対して絶対的な権利として「押しとおす」(同)ことは、「抽象のしばしばおかす失策の一つ」(同)だといっています。
 個人の幸福追求権は、それがたとえ万人の幸福に拡がったとしても、それは、依然として特殊的な価値、主観的価値を中心にしているという側面をもち続けているのです。
 一九世紀の功利主義者は、全体と個との安定的調和をはかろうとしました。その一人ベンサム(一七四八―一八三二)は、功利とは「最大多数の最大幸福」だととらえました。しかしヘーゲルは、万人の幸福も、自己満足を前提としている限り、「十全な、だがまったく空虚な規定」にすぎず、「正とは異ったもの」(第一二五節)だといっています。
ですから、幸福追求権は、なるほど「私が一個の自由なものであるかぎりにおいてのみ、ひとつの権利」(第一二六節)であり、またその幸福が「万人の幸福」を意図しているからといって、それだけで「一つのあるべき善き心」(同)があるとはいえないのです。
 道徳は、何よりも「正義の哲学」でなければなりません。正義というより普遍的な目的の前には、一定の普遍性をもつ幸福追求権もそれに従属しなければなりません。「万人の幸福」をかかげることによって、「なんらかの不正な行為を正当化するわけにはゆかない」(同)のです。

生の尊厳(第一二七~一二八節)
 
 幸福追求権としての「利益関心の単純な総体性」、つまり万人の認める利益が、「生命としての人格的現存在」(第一二七節)という人間としての生きる権利です。ヘーゲルは、「生命は、もろもろの目的の総体として、抽象的な権利に反対する一つの権利をもっている」(同、追加)といっています。
 生きる権利は「もろもろの目的の総体」として、幸福追求権を含むすべての抽象的な権利に優先する権利であり、いうなれば、生の尊厳とでもいうべきものです。
 より善く生きるためには、何よりも人間として生きる権利が、つまり人間の尊厳の問題としてまず保障されなければなりません。
 その権利をヘーゲルは、「危急権」(第一二七節)と呼んでいますが、今日的にいえば、生存権、つまり「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法二五条一項)ということになるのでしょう。
 「この生命は、究極の危険に瀕し、ある他人の正当な所有と衝突したばあい、危急権を〔衡平としてではなく権利として〕要求しなければならない。なぜなら、そういうばあいには、一方のがわに現存在の無限の侵害と、したがって全面的な権利喪失とのおそれがあるのに、他方のがわには、ただ自由の或る個別の制限された現存在の侵害のおそれしかないからであり、したがってこのばあい同時に、権利そのものと、ただこの所有の点でだけ侵害された者の権利能力とが認められるからである」(第一二七節)。
 まだ生存権という概念はもとより、社会保障という概念すらも存在しなかった時代に、人間の人間らしく生きる権利の前には、絶対的な権利としての所有権(幸福追求権の一形態)も制限されるべきだとする見解を堂々と披瀝しているのは、人間の尊厳を一貫して主張するヘーゲルの先見性を示したものとして評価しうるところです。 もっとも、ジャコバン独裁のもとで、人民主権の旗を高く掲げて制定された一七九三年憲法には、「公の救済は、一の神聖な負債である。社会は、不幸な市民に労働を与え、または労働することができない人々の生存の手段を確保することにより、これらの人々の生計を引きうけなければならない」(『人権宣言集』一四五ページ、岩波文庫)として事実上、生存権の保障が規定されていました。フランス革命に傾倒していたヘーゲルは、あるいは九三年憲法のことを知っていたのかもしれません。しかし、そこでは、社会保障は危急権という「権利」としてではなく、国家の「義務」として規定されているにすぎませんから、仮にヘーゲルがそのことを知っていたとしても、それを一歩押しすすめ、国家の義務を国民の権利にまで高めた功績を否定することはできません。
 この危急権は、「緊急避難の権利」とも訳されています。緊急避難は刑法上責任の軽減理由とされており、用語自体はヘーゲルの創作ではありません。しかし、刑法上の緊急避難は、自己の生命、身体にたいする危害を避けるために、止むなくその危害よりも小さい害を第三者に与えても責任は免れるというものです。
 これに対し、ヘーゲルは危急権の内容として、「資力限度の恩恵」(第一二七節)をあげています。「すなわち、債務者にたいして手道具とか農具とか衣服とか、総じて彼の資産のうち、つまり債権者の所有のうち、債務者の――しかも身分相応の――生計の可能性に役立つと見なされるだけのものは、取りあげずにおかれるという恩恵」(同)です。いわば、刑法上の緊急避難のいう止むなく第三者に危害を与える場合ではなく、生存権の保障をその内容としているのです。ですから「緊急避難の権利」との訳は適切でないように思われます。
 とすれば、危急権という従来の法律用語を用いつつ、それに生存権の保障という独自の新しい内容を盛りこんだところに、ヘーゲルの独自の工夫があったといえるのではないでしょうか。それにより、生きる権利を、国家の義務としてではなく、国民の権利としてとらえたところに、ヘーゲルの功績を見出すことができます。
 岩崎允胤氏は、「人間の、人間たるゆえんの本質、すなわち、人間性にもとづいて人間の尊厳の理念が生まれ」るのであって、「人間とその生の尊厳を現代倫理学の究極の基礎と考える」(『現代哲学概論』一三四、一三五ページ、青木書店)と主張しています。これはヘーゲルの危急権の主張を継承・発展させたものということができるでしょう。
 ヘーゲルは、特殊的意志としての主体的自由の権利も、一定の普遍的意志としての幸福追求の権利も、いずれも一面的なものであり、これらの追求は、ついには人間が人間らしく生きる権利まで奪ってしまうところに、その「有限性を、したがって偶然性を開示する」(第一二八節)としています。そしてこの「両契機が、それの真理性、それの同一性にまで統合され」なければならないとして、この一面性をのりこえる第三章の「善と良心」への移行を示しているのです。