『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第九講 善と良心

一、善は「あるべき姿」

 今日から「道徳」の第三章「善と良心」に入ります。
 これまで道徳とは、より善く生きるという生き方を問題とする「正義の哲学」であることをみてきました。
 前講では、より善く生きるとは、自己の行為のうちにおのれの満足を見出すという主体的自由の権利であり、それは幸福追求権という一定の普遍的意志を含んでいること、幸福追求権はそれのもつ一定の普遍性により個人的福祉から万人の福祉へと発展していくこと、しかし、福祉または幸福追求権は、一面では、人間の生きる権利までおかしかねないものであって、けっしてまだ真に普遍的な正義ではないことなどをみてきました。
 こうして、特殊的意志としての主体的な自由の権利も、みんなの欲求を充足する幸福追求権も、いずれも、「正義の哲学」としては十分に展開されていない一面的なものといわざるをえません。
 そこで、より善く生きるうえでの究極の普遍的意志、つまり「正義」としての「善」という問題が出てくるのです。「善」といっても善悪の善ではないことに注意して下さい。
 善とは何かを論ずるにあたって、テキストに入る前に『小論理学』をみてみることにしましょう。実は「善」の問題にヘーゲルの変革の立場がいちばん明瞭に示されているのです。
 「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。直接的なもの、目前にあるものは、意志にとっては不変の存在ではなく、即自的に空無なもの、仮象にすぎない。ここには道徳の立場に立つ人々が空しくその解決を求める矛盾があらわれる。これが実践にかんするカント哲学の立場であり、フィヒテの哲学の立場でさえなおそうである。この立場によれば、善はわれわれが実現しなければならないもの、その実現のために働かなければならないものであり、意志とは活動しつつある善にほかならない。もし世界があるべき姿をもっているとすれば、意志の活動はなくなるのであり、したがって意志はそれ自身、自己の目的が実現されないことをも要求するものである」(『小論理学』下二三五ページ)。
 「善」とは意志のあるべき姿、つまり意志の概念であり、変革の立場に立って自己をも含む世界をそのあるべき姿に変えようとする「正義」の究極的な普遍的目的となるものです。しかし、世界があるべき姿として完成されることはありえませんから、一つの「善」が達成されたら、また次の「善」が登場するというように、「善」は、無限に追求され続けることになります。
 この「善」は、第二部「道徳」においては道徳的目的として取り上げられていますが、それにとどまるものではなく、国家・社会の目的ともなるものです。それは、第三部「倫理」の冒頭に「倫理とは生きている善としての自由の理念である」(第一四二節)とされていることからも明らかです。
 こうして「善」の目的は、「実現されると同時に実現されないという矛盾」(『小論理学』下二三四ページ)のうちにあり、「この矛盾は善の実現の無限進行としてあらわれ、善はそのうちでゾレンとして固定されているにすぎない」(同)ということになるのです。

 

二、善とは何か(第一二九節)

 以上を念頭におきつつ、テキストに入っていくことにします。第一二九節は、善とは何か、を論じています。
 ヘーゲルは、『法の哲学』を全体として、自由な意志の概念が、自分自身を展開する過程として述べています(第三四節、追加)。道徳においては、自由な意志は自己の内における特殊的意志と意志の概念としての善との対立と統一として展開されてくるのです。
 「善は、意志の概念と特殊的意志との一体性として理念である」(第一二九節)。
 自由な意志は、無限に発展し、無限に真理に接近することによって、無限に自由な真にあるべき意志となるのです。ではどうやって、自由な意志が無限に発展するのかといえば、自己のうちに意志の概念、究極的普遍的意志である善(あるべき姿)を定立し、善と現にある特殊的意志との対立を解消して、両者の一体性を実現しようとする過程をくり返すことをつうじて無限に発展するのです。
 道徳における善は、より善く生きるために追求される最高、最大、最終の普遍的理念(イデア)ですから、そこにはこれまで自由な意志の展開として論じてきた抽象的権利も、主体的自由の権利も幸福追求権もすべて含まれ、これらの権利も善に従属することになります。
 その意味で、「善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である」(同)ということになります。ヘーゲルが「それはなにか抽象的に正しいものではなくて、内容豊富なものであり、その実質が権利をも福祉をもなしているのである」(同、追加)といっているのも、善が究極的普遍的目的であり、その他の目的はこれに従属するものであることを示しているのです。 
 「この理念のなかで、福祉は、個別的特殊的な意志の現存在としてはなんらそれ自身の妥当性をもたず、ただ普遍的な福祉としてのみ、そして本質的にはそれ自身において普遍的なものとして、すなわち自由ということからいって妥当性をもつ。――つまり、福祉は、正ないし権利を欠いては善きものではない。同様に正ないし権利も、福祉を欠いては善ではない」(第一三〇節)。
 いまや道徳における正義は、善として存在しているのであって、所有権や一定の普遍的意志である幸福追求権も、究極的普遍的意志としての「善」に従属し、善にかなっているかぎりにおいてのみ妥当性をもつのです。
 「善は、……所有の抽象的権利や福祉の特殊的な諸目的に反対する絶対的な権利をもっている。善とは区別されるかぎりでのそれら諸契機のそれぞれは、ただそれが善にかなっていて善に従属しているかぎりにおいてのみ妥当性をもつのである」(同)。

 

三、善と人間の尊厳(第一三一節)

 第一三一節は、人間の尊厳に関する重要な問題提起が含まれており、それは、世界観にかかわる問題を含んでいます。
 世界観には、自然と人間とを別の次元でとらえる二元論的世界観があります。これは、近代自然科学の発達のなかで形成されてきた世界観であり、事実と価値とを峻別する考えです。つまり世界の客観的なあり方と人間の主体的生き方との間には、・分裂があり、客観的な事実については、科学の対象になりえても、主観的な価値や道徳、倫理(ヘーゲル的意味ではなく一般的意味での)の問題については、厳密な科学の対象にはなりえないとする立場です。この考えによると、物事がいかにあるかを知ることと、いかにあるべきか(われわれがいかになすべきか)を知ることとは、まったく別の問題だということになり、後者は、諸個人の多様な価値観に委ねられるべき問題であって、そこには真理がないということになります。
 これに対して、一元論的世界観は、世界がどうあるかを知ることと、そのなかでわたしたちがいかに行動し、いかに生きるかを知ることとは、一体的で切りはなすことができないという立場から、客観的事実に真理があるのと同様、価値の世界にも真理があると考えるのです。
 プラトンやヘーゲルはこの立場にたっています。ヘーゲルは、その論理学において、「判断」には、「質的判断」「反省の判断」「必然性の判断」「概念の判断」の四種類があり、それらは次第により深い真理を認識する諸段階としてとらえています(『小論理学』下一三四ページ以下)。
 質的判断というのは、事物がどのようにあるのか、という事物の表面にあらわれる質を問題とする表面的な真理の認識です。これに対し反省の判断は、事物の表面的な姿の奥に隠された本質や法則をとらえたもっと深い真理の認識です。必然性の判断は、個別として存在する事物のなかに個別をこえた普遍としての類的本質という実体をとらえたさらに深い真理の認識です。以上、三つの判断は、いずれも事物がいかにあるかの認識に関わるものです。
 これに対し、概念の判断は、客観世界をのりこえた「真にあるべき姿」(概念)に照らして事物がどうあるかの判断という、もっとも深い真理の認識なのです。
 客観世界をこえた世界というのは、「当為」の世界です。これを言いかえれば、客観世界がどうあるべきかという価値判断の世界です。
 概念の判断というのは、真にあるべき姿としての概念を念頭に置きつつ、それと客観的実在とが一致するか否かの判断です。二元論的世界観からすると価値判断については、多様な判断がありうるのであって、ここに真理は存在しないということになります。こうした領域では「価値観の多様性」が存在するのみであり、真理はありえないというのです。これに対し、ヘーゲルは、それを否定し、「当為」という価値判断にも真理があるのみならず、逆に概念の判断こそが最も深い(高い)真理の判断だととらえています。
 科学的社会主義の学説は、変革の理論であり、未来社会を問題とします。そこは、未来社会はどうあるべきかという価値判断の世界ですから、もしそこに真理がないということになれば、科学的社会主義の学説の優位性を主張する根拠はなくなってしまいます。その意味では、科学的社会主義の世界観も、プラトン、ヘーゲルの流れを引く一元論的世界観ということになります。わたしたちは、未来社会のあるべき姿についても真理があり、それが未来の真にあるべき姿だと考えています。未来社会という「当為」の真理としての「概念」を認識しうるところに、科学的社会主義の「科学」たる所以があるのです。この点では、ヘーゲルの判断論は正しいものといわざるをえません。
 「日常生活においても、ある対象、行為、等々が善いか悪いか、真実であるかそうでないか、美しいかそうでないか、等々という判断がはじめて判断とよばれている。われわれは、或る人が『このばらは赤い』、『この絵は赤い、緑である、ほこりだらけである』等々のような肯定判断や否定判断をくだしうるからといって、その人に判断力があるとは言わないであろう」(『小論理学』下一五五ページ)。
 このように、ヘーゲルは各種の判断のなかで、概念の判断こそが判断の名にふさわしい最高の判断であるとしています。
 こうしたことを前提として、第一三一節をみてみることにしましょう。
 「主観的な意志にとっても善はまったく本質的なものである。主観的な意志は、その洞察と意図において善にかなっているかぎりでのみ、価値と尊厳をもつのである」(第一三一節)。
 主観的意志(個人の意志)は、理性にもとづき自ら善を洞察し、善にかなって行動しようとするかぎりにおいて人間としての尊厳をもつのです。人間は自由な意志の主体として、より善く生きるための「善」を目的にかかげ、そこに向って、無限に自己を前進させるところに、人間らしさがあるのであり、人間の尊厳が認められるのです。
 主観的意志は、善を「当為」(あるべし)として追求することによって、だんだん「善い意志」となっていきます。古代中国では、道徳思想の基礎となる人間性について、性善説(孟子)と性悪説(荀子)の対立がありました。ヘーゲルは、「意志は生来はじめから善いのではなくて、ただおのれのをとおしてのみ、おのれの真の姿になることができるのである」(同、追加)として、この対立を止揚しているのです。意志は生まれながらに善いのではなく、善を洞察し、意図することによって、だんだん善くなっていくのです。
 こうして、善の発展は、三つの段階をふくむことになります(同)。
 第一は、善と特殊的意志との対立が定立される段階(第一三二節)です。
 第二は、善と特殊的意志との関係が展開される段階、つまり対立物の相互浸透の問題であり、ここから道徳的義務(第一三五節)が生じてきます。
 第三は、善と義務とを「規定するはたらき」(第一三一節、追加)としての良心の段階(第一三六~一四〇節)です。

 

四、善の洞察(第一三二節)

 「主観的意志の権利とは、(一)意志が妥当的とみとめるべきものはこの意志によって善として洞察されるのだということであり、そして(二)外面的客観性のなかへ入ってゆく目的としての行為が、この客観性のなかでもつ価値についての意志の知識に応じて、行為は正当あるいは不正当、善あるいは悪、適法あるいは違法として意志の責めに帰されるのだということである」(第一三二節)。
 個人の意志(主観的意志)は、自己の内に究極の普遍的意志である善をかかげることによって、すべての価値判断の前提となる価値基準をもつことになり、各人の特殊的意志は、この善にてらして、正当・不当、善・悪、適法・違法の価値判断をうけることになります。
 ヘーゲルは、「善とは、――意志がおのれの真理においてあるあり方である。それゆえに、善はまったくただ思惟のうちに、かつ思惟によってのみある」(同、注解)としています。
 人間は、真にあるべき意志とは何なのかを思惟することによって、はじめて意志の真理としての善を認識しうることになります。
 したがって、人間は、「当為」の問題、どう生きるべきかの問題について、「真なるものを認識できず」(同)とする考えも、善というものは、思惟によってではなく直感によってえられるとして「思惟は善き意志をそこなうのだ」(同)とかいう考えも、いずれも正しくないのであって、これらの考えは「精神から知性的な価値と尊厳をうばい去ると同様に、倫理的な価値と尊厳をもすべてうばい去る」(同)と厳しい批判をヘーゲルは加えています。ヘーゲルにとってあるべき普遍的意志としての善をかかげ、そこに向って前進するところに、無限に発展する人格、人間の価値と尊厳を見出しているのです。
 このように、より善く生きる究極目的としての善を探求し、それを洞察することは、人間の価値と尊厳にかかわる重要な問題なのですが、反面その探求は、主観的意志をつうじておこなわれるところに、道徳のもつ限界が存在しています。それはどこまでいっても、自我の内心の問題としてどう生きるかが探求されるにすぎないからです。
 「自我がそれを理性的であると洞察するものでなければ、なにものをもみとめないという権利は、主観の最高の権利ではあるが、同時にそれの主観的な規定によって形式的でもあって、これにたいして、客観的なものとしての理性的なものの、主観にたいする権利は確固として存続する」(同)。
 自我が、理性的であると認めるもの以外には、何ものをも認めないという権利は、理性に無限の信頼をおく「主観の最高の権利」というべきものですが、主観の最高の権利としての理性にもとづく善の洞察も、主観の内部、内心のできごとという一面的な形式のうえにあり、それと対比さるべき、客観的な善というものも当然考えうるのです。ですから、自我における善の洞察は、「その形式的な規定のために、真でありうるとともにまた、たんなる意見や誤謬でもありうる」(同)ことになります。自我が主観的に善を洞察したと思っても、客観的にみれば、善でもなんでもないということがありうるのです。自我の洞察した善が、客観的にも善になりうるかどうかは、「個人の特殊な主観的な教養に属する」(同)問題ということになり、偶然性に委ねられることになってしまいます。
 こうして、ヘーゲルは、主観的な善としての「道徳」(第二部)の世界から、客観的な善としての「倫理」(第三部)の世界に移行しなければならないというのです。
 「倫理」の世界を代表する「国家」では、実際に制定される憲法と法律によって、何が善であり、何が正義であるかが、客観的に示されることになります。
 「国家は、もろもろの法律の公然性により、またもろもろの普遍的な習俗によって、洞察の権利から形式的な面と主観にとっての偶然性とを取り去るのである。――これらはまだ道徳の立場においては取り去られていないが」(同)。

 

五、善と道徳的義務(第一三三~一三四節)

 第一三一節で、「主観的意志は、善にたいするある関係のうちにある」ということをみてきました。この「関係」というのが、実は、善は価値基準であると同時に、それを目的とし、成就すべき「義務」を生みだすという関係を意味しているのです。人間はより善く生きるために、善という普遍的目標をかかげることによって、現にある特殊的意志をそれに関連させ、そこに向かって生きるべき義務を生み出していくのです。
 「善は特殊的な主観にたいして、この主観の意志の本質的なものであるという関係をもっており、したがってこの主観の意志はまったくこの関係のなかで義務づけられる」(第一三三節)。
 自我は、普遍的意志である善を、「当為」(あるべき姿)として認識し、その実現を義務であると認識します。しかし、そこにとどまるのでなく、自我の主観的意志は、善の成就を自己の義務の履行によって実現しようというものですから、カントのいうように「義務は、義務のために行われるべきなのである」(同)ということになります。いわば、自己の内部に自分で義務をうちたて、その義務を自分で行うことになるのです。
 「私は義務をそれ自身のために行なうべきであって、私が義務のうちに成就するのは、真実の意味での私自身の客観性なのである。私は義務を行なうなかで自分自身のもとにおり、自由なのである。義務のこの意義をきわ立たせたことが、カント哲学の実践的なものにおける功績であり、高い立場なのである」(同、追加)。 
 「私は義務を行なうなかで自分自身のもとにおり、自由なのである」というのは、なかなか含蓄のある言葉です。自由な意志の主体としての人格は、自己のうちに善と義務との対立をうちたて、義務を行うことをつうじて、その対立の解消に努め、無限に発展する自由な存在となるのです。
 このように、義務は、善との関係で生ずるものですが、もともと普遍的意志としての善それ自体が主観的、形式的なものにすぎませんから、義務とは何かを問われた場合、せいぜい善をなすことというくらいしか答えることができません(第一三四節)。
 「義務は道徳的自己意識のなかにあって、この自己意識の本質的すなわち普遍的なものであるかぎり、そしてこの自己意識はおのれの内部でただおのれ自身にだけ関係するものであるかぎり、義務そのものにはしたがってただ抽象的普遍性しかのこっていない。[それは]無内容な同一性、すなわち抽象的な肯定的積極的なもの、無規定なものを、おのれの規定としている」(第一三五節)。
 結局、自己意識のなかにおける義務は、せいぜい善を行うべしという程度の、善との「無内容な同一性」をもつにすぎないのです。

 

六、カントの道徳論批判(第一三五節)

 カントにおいては、道徳が最高の立場とされていました。道徳において、自由な意志は、自己のうちに自ら善を定立し、善と向き合い義務を行うという自己反省をつうじて、より自由になっていくことが、カントの道徳論をつうじて明らかにされ、ここに、ヘーゲルはカントの功績を見出しました。
 しかし、ヘーゲルは、このように善と義務を主観的なものとしてのみとらえるカントの立場は、一面的なものにすぎないと批判し、普遍的意志としての善を客観性と結合させることを訴え、道徳ではなく、客観的善としての倫理こそ最高の立場であると主張したのです。
 ヘーゲルのカントに対する評価と批判をみてみましょう。
 「意志の純粋な無条件的な自己規定が義務の根元であることをきわ立たせるのは、ひじょうに本質的なことであり、じっさいまた意志の認識はカント哲学によってはじめてその確固たる根拠と出発点を、彼の無限な自律の思想をとおして獲得した。けれどもカントは、(客観的)倫理の概念へ移行しないところの、たんに(主観的)道徳的な立場を固持するので、そのためにこの獲得を一つの空虚な形式主義におとしめ、道徳の学を義務のための義務についてのお説教におとしめることもまた、はなはだしいのである」(第一三五節、注解)。
 カントの道徳的定式は、「汝の意志の格率がつねに同時に一つの普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ」(『実践理性批判』)というものです。いいかえると、各人が行為しようとすることを万人が行為した場合にどうなるかを、行為に先立って考え、もしそこに矛盾が生ずるのなら、その行為は道徳的に禁止される、というものです。つまりカントのいう道徳とは「矛盾の欠如」なのです。
 カントの定式にしたがった場合、例えば、「盗み」という行為を万人がしたなら、所有権との間に矛盾が生じ、所有権が成り立たなくなるから、「盗み」は道徳法則によって禁止されるということになります。
 ヘーゲルは、これを次のように批判しています。たしかに「盗み」は、所有権を成り立たなくなるようにするけれども、それは、盗みが所有権を否定してしまうというだけのものであって、盗みと所有権とが、それぞれ自己の絶対性を主張し相対立しているのではないから矛盾とはいえない。所有権というものが、絶対的権利、「確固たる原理」として確立されてはじめて、「盗み」との間に矛盾が生じるといえる。「矛盾は、なにか存在するものとの矛盾、すなわち、確固たる原理として前もって根底にある内容との矛盾としてのみ生じうる」(同)。
 カントのいう「普遍的な立法の原理」が、具体的な内容をもっていればいいのですが、確固たる内容をもたない原則のもとでは、それと矛盾する義務も具体的な内容をもちえないことになってしまい、矛盾の定立と解消といっても、何ら積極的なものは生まれてこないというのです。
 「カント哲学の立場では、原則そのものがまだ存在していないのであって、なにひとつないところではどんな矛盾もまたありえないのだから、どんな矛盾もあるべからずという規準はなにものをも生み出さないのである」(同、追加)。
 結局、道徳の立場は、より善く生きようとして、自己のなかに、何らかの善という当為を定立し、自己意識をこの当為に向かう義務とすることによって、善と義務との矛盾を解消しようとする積極的な生き方ではあるのですが、善も義務も具体的な内容を持たない以上、矛盾の解消もまたありえないことになり、永遠に当為の枠内をさまよいつづけるしかないのです。
 「たんに道徳的な、関係の立場は、永遠につづく当為の、もっとさきのもろもろの二律背反と形態化のなかをただうろつきまわるだけで、それらを解決して当為以上に出ることはできない」(同、注解)。
 そこで、善と義務をさらに特殊的内容で充実させることが求められるに至ります。つまり善を単に「真にあるべき姿」としてではなく、「真にあるべき姿」という真理にまで高めることが求められてくるのであり、ここに、善と義務の判断を行う究極的な主体としての良心という問題が登場してくるのです。

 

七、良心(第一三六~一三七節)

 良心とは、より善く生きようとする心がけであり、それはまた自己の内において究極的普遍的意志としての善とそれに対応する義務とはなにかを決定する主観性でもあります。第一三二節で、「自我がそれを理性的であると洞察するものでなければ、なにものをもみとめないという権利は、主観の最高の権利」(同、注解)であることをみてきましたが、良心は「絶対的な自己確信」にもとづいて、理性的思惟により善を決定し、それを目的に生きようとする主観の最高の権利なのです。
 「この主観性は、そのおのれのなかへ折れ返った普遍性においては、おのれのうちにおける絶対的な自己確信であり、特殊性を定立するもの、規定し決定するもの、――良心である」(第一三六節)。
 ヘーゲルは、この良心は、近代世界がはじめてもたらした「一つの高い立場」(同、追加)だとしています。
 おのれの良心の信ずるところにしたがって、おのれが「善」としてとらえるものを目指してより善く生きるところに、人間の主体的自由があり、近代的自我があるのです。今回の日本共産党新綱領では、「国民が主人公」がキーワードとなっていますが、これも国民の一人ひとりが、ヘーゲルのいう良心をもち、自ら善を決定しうるとの前提に立っているのです。国民の多数が、日本社会の民主的改革を「善」としてとらえたとき民主連合政府が実現することになります。
 憲法一九条は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定しています。公法学会の通説は、思想の自由と良心の自由とは現在では区別する必要がなく、同じような意味だといっています。しかし、良心の自由という場合、思想の自由のように、必ずしも一定の価値観にもとづかない単なる形式的自由、自己決定の自由にとどまらず、一定の価値観、世界観をもつことを前提に、その価値観にもとづいて自己決定する自由という側面があるのではないでしょうか。
 ボン基本法は、「何人もその良心に反して武器をもってする戦争の役務を強制されてはならない」と規定し、そこから、自己の信仰などという価値観にもとづく「良心的兵役拒否」という問題が出てきました。
 こうした点からしても、「良心の自由」の独自の意義について、ヘーゲルも参考にしながら研究してみる必要がありそうです。
 このように良心の自由を認めることは、「近代世界の立場」(第一三六節、追加)からすれば、当然のことですが、良心は、「客観的な内容(即自かつ対自的に善であり義務であるところのもの)を欠い」た(第一三七節、追加)「絶対的な自己確信」(第一三六節)にすぎませんから、良心にも、真実の良心とそうでない良心があることになります。
 「真実の良心は、即自かつ対自的に善であるところのものを意志する心がけである。したがって真実の良心はもろもろの確固たる原則をもっており、しかも良心にとってはこれらの原則はそれ自身、客観的なもろもろの規定であり、義務である」(第一三七節)。
 先にカント批判のなかで、確固たる原理をもたない義務論は、「義務のための義務についてのお説教」にすぎないことをみてきましたが、同様に、良心が真実の良心となるためには、つまり、良心が「真にあるべき姿」という善の真理まで認識するにいたる確固たる原則をもたなければなりません。ヘーゲルは、こういう真実の良心は、「倫理の立場ではじめて存在する」(同)のであって、道徳の立場では、「良心はこうした客観的な内容を欠いて」(同)いるから、真実の場合もそうでない場合もあるというのです。
 日本国憲法七六条三項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しています。この場合の良心は、裁判官としての職業上の良心、すなわち公正・公平な精神を意味しています。裁判は厳正かつ公正に行わなければなりませんから、裁判官個人の主観的な良心はむしろ抑制されるべきものと解されています。裁判官が従うべき公正、公平な良心は、確固たる原則をもった真実の良心というべきものであり、裁判官は、現実にそうであるかどうかはともかくとして、この良心に従い独立してその職務を行うべき義務を負っているのです。
 これに対して、裁判所において証人が証言するに先立っておこなわれる宣誓書のなかにも、「良心」という言葉がでてきます。「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、また何事も付け加えないことを誓います」というものです。
 この場合の良心は、「事実を経験したとおりに証言する」という精神を意味していますが、事実上もっぱら証人の道徳的良心に委ねられていて、「倫理の立場」にたつ裁判官のような「確固たる原則」を持たないところから、証人の証言は、真実に程遠いことがめずらしくないのです。
 はたして一個人の良心が、絶対的な善、真理としての善を決定しうるか否かは、「この善であるとされるものの内容からしてのみ認識される」(第一三七節、注解)ということになるのです。

 

八、良心と変革の立場(第一三八節)

 このように、良心というものは、「なにが正しく、なにが善であるかを、内に向かっておのれ自身のなかにもとめ、おのれ自身からして知りかつ規定する」(第一三八節、注解)ものであり、ソクラテスの産婆術以来のものです。
 大事なことは冒頭にお話ししたように、善を洞察することは、善にしたがって行動し、「世界をそのあるべき姿に変えようとする」変革の立場に結びついていることです。
 人間は、あるべき姿としての善を自己のうちに確立することによってのみ、変革の立場に立つことができるのです。
 ヘーゲルは、良心は、「権利、義務、現存在の、すべての規定されたあり方をおのれのなかで消散させる」と同時に、「さいしょはただ表象されただけの善、あるべき善が、現実性をそれに負う当の力でもある」(第一三八節)といっています。
 前段の、善を頭のなかに思いうかべるということは、現存在(現に存在する世界)を否定し、それを「あるべき姿」に向かって「消散させる」ものであること、つまり、良心により善を洞察することは、あるべき姿に向かって現状は変革されるべきであるという現状批判の武器を持つことを指摘しているのです。次いで後段は、この頭のなかに思いうかべられた善(「ただ表象されただけの善」)は、善に向う義務の履行をつうじて、それを現実に転化する力をもっていること、つまり現状変革の力となることを指摘したものです。
 この箇所を読むとき、エンゲルスが『空想から科学へ』の冒頭でのべている次の文章を思い起こします。
 「フランスできたるべき革命のために思想上の準備をした偉大な人物たちは、彼ら自身がきわめて革命的に行動した。どんな種類のものでも、外的な権威というものを、彼らは認めなかった。宗教に、自然観に、社会に、国家制度に、すべてにすこしも容赦なく批判がくわえられた。いっさいのものが、理性の審判廷に立って、自分が存在してもよい根拠を立証するか、それができなければ、存在することを断念しなければならない、と彼らは考えた」(全集⑲一八六ページ)。
 現存するものを理性の審判廷に引き出し、これに容赦のない批判を加え、存在することを断念させるためには、良心にしたがって善(あるべき姿)という現状批判の武器を自己の内に持つことが求められているのです。
 ヘーゲルの有名な序文の「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」との命題を今一度想い起こしてみて下さい。
 現存在するもののうち、善にてらして「理性的でないものは、現存在することを断念すべき」であり、真実の良心によってとらえられた絶対的な善(真の善)は、「理性的であるがゆえに現実となる」力をもっているのです。
 資本主義社会への容赦のない批判も、未来社会としての社会主義・共産主義社会への展望も、科学的社会主義の学説という「真実の良心」の直接の産物となるものです。
 以上の変革の立場にたって、第三部「倫理」が語られることになります。第三部では、「家族」「市民社会」「国家」が論じられますが、それは全て、「生きている善」、つまり、「善(あるべき姿)の現実化」としてとらえられていることに注意しなければなりません。
 「われわれが権利又は義務とみとめるいっさいのものは、思想によって、一つの無効なもの、制限されたもの、けっして絶対的ではないものとして示されかねない、という点である。ところが主観性は、どんな内容をもおのれ自身のなかで消散させるけれども、他方、こんどはまたこの内容をおのれ自身から展開することも必要とする。(客観的)倫理のなかで生じるものはすべて、精神のこの活動によってつくり出されるのである」(一三八節、追加)。
 第三部「倫理」に入る前に、もう一つだけ片づけておかなければならない問題があります。
 それは、「良心は、それが真実であるか否かという判断に服せしめられている」(第一三七節、注解)ところから、「良心が善であると思い、ないしはそうであると称するところのものが、現実にもまた善であるかどうか」(同)が問題となってきます。それによって良心が真実であるか、否かがきまってくるのです。