2004年4月27日 講義
第10講 道徳から倫理へ
1.善と悪の弁証法(§139)① ヘーゲル弁証法の真髄 ● 良心は変革の立場 ── 問題はより善い方向への変革か否かが問題 ● 139節 ── ヘーゲル弁証法の真髄 ・即自 ── 矛盾に気づいてない段階 ・対自 ── 矛盾を自覚する段階 ・即かつ対自 ── 矛盾の止揚
● 即自的意志 ──「自然的意志」善悪の区別できず ● 対自的意志 ──「自由な意志」善悪の区別と対立を自覚 ・良心は、絶対的自己確信として、善と悪との共通の根 ・「肯定的なもののうちに否定的なものを把握する」)同 追加) ・善と悪とは、共に必然的
● 善は意志の普遍性、悪は意志の特殊性 ● 善悪の対立は、意志の本質としての善に統一される ・悪の選択は、当人の「自由と責任」(同 追加)の問題 ・「人間は悪を欲しうる。しかし必然的に悪を欲せずにいられないのではな
2.善と悪との諸形式(§140)● 良心は、絶対的自己確信として、自己を肯定的なものとして押し出す ・人間は自己の行為を善であると主張する ・しかし、良心は、善にも悪にも結びつくから、すべての行為を善とするの ・「主観性の最高の尖端」(同)── 主観性の一面性と傲慢さが最高度に ・しかし、本来善には客観的真理としての善がある ● フリースの哲学はその一例 ● 主観性の六つの形式
● この考えにたつと、やましい心を持たない極悪人は、悪をなさないことになっ ● 人間は理性的存在であり、善悪を認識しうる以上、悪を認識してやましい心を
● やましい心に加えて、他人をだます ── 悪であると知りつつ、善であると偽る ● だますために、もろもろの立派な理由を持ちだしてくる ● しかし、理由はどんなものにでもつけられる
● 権威者のもっともらしい理由を持ちだして他人をだます ● 御用学者の存在理由は、この蓋然説によるだましのため
● 何らかの理由をもちだして人をだます ● すべての悪を善に転化するもの ●「目的は手段を神聖にする」か ・善を目的に犯罪を手段とすることができるか(死刑や戦争による殺人はその ・裁判や戦争の場合は「厳格に規定されている」から許されるとヘーゲルはい ・かかる命題は全否定さるべき
● 自分が正しいと信じるものが善 ・「おのれを絶対者として主張する主観性」 ● 信念の原理は「倫理的な客観性の外見すら消失」 ・もはや悪を偽って善とする偽善を論ずる余地なし ● 客観法則と信念の原理 ・信念の原理は、信念が客観法則に反しても、誤まりだとは認めない ・ただ、客観法則によって打ち砕かれるのみ
● 究極的真理をとらえるのは、自分自身 ・主観性は、傲慢の頂点に ・カルト的宗教団体 ● この立場では、自己以外のものは、すべて悪。また主観を空洞化
3.道徳から倫理への移行(§141)① 道徳論の小括 ● より善く生きるとはどういうことか ・良心によって、自己のうちに善と義務とを定立し、この区別を揚棄しようと ● しかし、善は抽象的普遍性で、具体的内容(現実性)をもたない ● 良心は純粋な自己確信であり、悪が善に、善が悪に転倒する ● 善と良心の一面性を克服するのが倫理
●「善と主観的意志との具体的な同一性、すなわち両者の真理が倫理である」 ・善(あるべき姿)にはそれを実現する主観的意志(良心)を持つ主体が欠け ・両者は合体し、「真にあるべき社会において、より善く生きること」が倫理 ● 倫理では ・善は真にあるべき国家、社会という具体的内容をもった現実性に ・主観的意志は、真にあるべき国家、社会のなかで、絶対的により善く生きる ● 倫理は、自由の現存在の真理をなすもの ・第一部抽象的権利ないし法、第二部道徳の真理が倫理 ・第一部では、抽象的な人格の自由にとどまり、真に自由な主体は存在しない ・第二部では、自由な主体がとりあげられ、あるべき姿を模索しつつも内心の ・第三部で、自由な主体が真にあるべき社会と結合し、社会的にも、主体的に ・倫理は、法と道徳の真理、自由の現存在の真理
*次回第11講は、第142節から第157節まで。
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