『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一〇講 道徳から倫理へ

一、善と悪の弁証法

 今日は第一三九節から一四一節までです。第一四〇節はたいへん長い節になっており、善と悪の弁証法的関係が論じられています。ただしここでいう善と悪は、文字どおりの意味であって、「善と良心」における善ではないことに注意してください。いわば「あるべき姿」としての善に、善と悪とがあるという意味なのです。
 第一三七節をつうじて、良心とはおのれの自己確信にもとづいて、真理としての善を認識し、より善く生きようとする心がけ、「主観性」であることをみてきました。そして一三八節で、この自己確信は、自己の理性を唯一の頼りとして現状を批判し、現状を変革する武器となることもみてきました。
 しかし問題なのは、その「主観性」としての変革の立場が、現状をより善いものに変革する立場なのかどうか、つまり良心が善に与える内容が問題となってくるのであり、ここから善と悪との弁証法的関係が第一三九節で問題とされるにいたるのです。
 この節で論じられる弁証法はヘーゲル弁証法の真髄ともいうべきものです。マルクスは『資本論』(あと書き〔第二版への〕)において、弁証法は、「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定」を含むととらえていますが(『資本論』①二九ページ/二八ページ)、この文章も、一三九節追加「思想は、なにか根拠を、そして必然性を要求するのであって、肯定的なもののうちに否定的なものを、それ自身根ざすものとして、把握しようとするのである」からとられたものと思われます。
 本論に入る前にもう一度、ヘーゲル弁証法の三段階展開を岩崎氏の解説(『世界の名著ヘーゲル』四五ページ)でふりかえってみましょう。
 「第一の段階はそれ自身のうちに実は暗々のうちに矛盾が含まれているにもかかわらず、その矛盾に気づいていない段階」(即自態)であり、「第二の段階はこの矛盾を自覚する段階」(対自態)であり、「第三の段階が即自かつ対自態とよばれるのは、それが第一と第二の段階の総合であるからであるのは言うまでもない」。第一三九節は、善と悪の弁証法を、この三段階の展開としてとらえているのです。

即自的意志から対自的意志へ(第一三九節)

 ヘーゲルは、まず自然的意志と自由な意志とを対立する関係においてとらえています。自然的な意志は「即自的な意志」であり、自己のうちに善と悪の対立・矛盾が含まれていることを自覚しない段階です。
 これに対し人間は、例えればアダムとイブのように智恵の木の実を食べることによって自然的意志から抜け出し、自由な意志をもつにいたってはじめて善悪の区別と対立を自覚する「対自的意志」となります。
 「ふつうの表象はまさに自然的意志こそ罪がなくて善い意志であると思うからである。だが自然的意志は自由の内容に対立するのであって、そのためにこそ、自然的意志をもつ子供や無教育の人間は、より少ない程度の責任能力のもとにおかれているのである。……ところでもちろん自然的なものはそれ自身においては無邪気であって、善でもなければ悪でもない」(第一三九節、追加)。
 対自的となった自由な意志は「純粋な自己確信」(第一三八節)によって、善悪を区別しますから、その選択の結果は普遍的意志(善)となることもあれば、特殊的意志(悪)となることもあるのです。 
 「自己意識は、いつもは通用するもろもろの現実をすべて空虚と見て意志の純粋な内面性のうちにあるばあい、一方、即自かつ対自的に普遍的なものを原理にする可能性であるとともに、他方、普遍的なもの以上におのれ自身の特殊性を原理にして、それを行為によって実現する恣意――悪である可能性もある」(第一三九節)。
 良心(より善く生きようとする心がけ)は、おのれ自身だけに依拠し、おのれ自身を絶対的確信とするものです。この絶対的自己確信という主観性の共通の根から、善と悪とが生れてくるのであり、善が必然であるのと同様に悪もまた必然なのです。いわば「肯定的なもののうちに否定的なもの」が存在しているのです。
 「ただ人間だけが、しかも彼がまた悪でもありうるかぎりにおいて、善なのである。善と悪は分離できないのであって、その分離できないゆえんは、概念はおのれに対象的となって対象として直接に区別の規定をもつのだという点に存する」(同、追加)。
 したがって「悪の根源は神秘のうちに、すなわち、自由の思弁的なもののうちに存している」(同、注解)のであって、善に「外から加わってくる」(同、追加)ものではないのです。
 「思想は、なにか根拠を、そして必然性を要求するのであって、肯定的なもののうちに否定的なものを、それ自身根ざすものとして、把握しようとするのである。……したがって悪は、善と同様に意志のうちにその根源をもつのであって、意志はそれの概念において、善であるとともに悪である」(同)。

対自的意志から即自かつ対自的意志へ(第一三九節、注解)

 では、悪は必然的だということになると、良心が悪を選んだとしても責任がないのかといえば、そうではありません。
 先に善は意志の普遍性であり、悪は意志の特殊性であることをみてきました。意志の概念は、善と悪の対立を生みだすと同時に、「即自かつ対自的意志」として、この分裂を克服し、普遍的意志という本質的意志に特殊的意志をとりこむことによって対立物の統一を実現しようとするのです。
 この「分裂の立場が起こってはいけないというのではない。……そうではなくて、この分裂の立場のうえにとどまりつづけないようにというのである。普遍的なものにたいして特殊性を本質的なものとして固執しないようにというのである。すなわち、この分裂の立場が無効として克服されるようにというのである」(第一三九節、注解)。
 こういう本質的な普遍的意志への統一を否定し、悪という特殊性を選ぶのは、「彼の自由と彼の責任とのすること」(同、追加)です。結局「人間は悪を欲しうる、しかし必然的に悪を欲せずにいられないのではない、というのが悪の本性なのである」(同)。
 こうして良心という「主観性」を共通の根に持つ善と悪とは様々な紋様を織りなすことになります。その「主観性」の諸形式が以下六つの態様において考察されることになります。

 

二、主観性の諸形態(第一四〇節)

 良心という自己意識は、絶対的な自己確信ですから、必然的に自己を肯定的なものとして押し出すことになります。どんな人物でも、内心で何を考えていようとも、人間は、自分を肯定的なものとして押し出す必然性をもっています。
 こういう自己意識の肯定的側面によって、人間は、自己の「行為を他の人たちおよび自己自身にとって善であると主張する」(第一四〇節)のです。
 しかし自己意識は、善にも悪にも結びつくものですから、すべての行為を他の人たちに対して善であると主張することは、「いつわりないし偽善」(同)をもたらすことになります。
 ヘーゲルは、実際には、善であったり、悪であったりするものを、すべて善であると主張することは、「道徳の立場における主観性の最高の尖端」(同、注解)、つまり主観性のもつ一面性と傲慢さが最も強調された形式であるとして、これを批判しています。先に序文で紹介したフリースの哲学はその典型ともいうべきものであり、こんな善悪を混同するような哲学はエセ哲学であって、哲学の名に値しないのです。というのも、哲学は、真理を探求する学問であり、善悪の真理をも当然認識しうるものだからです。
 そういう浅薄な「主観性」の哲学として、ヘーゲルは以下六つの例をあげています。

「悪意のない悪は、悪にあらず」説

 最初の例は、悪を「ただそれがやましいこころをもって……行なわれたかぎりにおいてのみ悪である」(第一四〇節、注解〔a〕)とする考えです。つまりある行為を悪といえるのは、行為者が善と悪とを知りながら、あえて善にさからうという「やましいこころをもって行なう」(同)場合のみだという説です。
 これに対してパスカルは、こういう考えによると、罪の意識のない極悪人は、自己の行う悪の行為についてやましい心をもっていないから、「地獄も手に負えない」(同)として罪を問われないことになってしまうと批判しています。 
 ヘーゲルは、人間が理性的存在である以上、悪を悪と知りつつ、やましい心を持たずして悪をなすことはありえないとして、パスカルを支持しています。
 「人間は客観的な面からいえば、人間の概念からいって精神として有り、理性的なもの一般として有るのであって、それみずからを知る普遍性という規定を人間はもんくなしに自分のうちにもっている」(同)。
 したがって悪を行うにあたって「多かれ少なかれどこまで文字どおりのやましいこころをもって行なわれたものか、――このことは、もっとどうでもよい面」(同)だというのです。

「偽善」説

 「だが悪は、そしてやましいこころをもって行為することは、まだいつわりないし偽善ではない。いつわりのばあいには、悪をまず第一に他の人たちにとっては善であると主張し、自分は総じて外面的には善で、良心的で、である等々のふりをする||こうしてそれはただ他の人たちにたいするだましの芸でしかない||という、不真実の形式的規定がつけ加わる」(同〔b〕)。
 つまり、偽善というには、やましい心をもって行為するだけではなくて、さらに悪であると知りつつ、それをあえて善であると偽り、他の人をだますという、「不真実の形式的規定」を必要とするのです。
 ではどうやって、悪を善と偽って押し出すのかといえば、「総じてもろもろのりっぱな理由のうちに、おのれ自身にとって悪のための正当化を見いだすことができる。なぜなら、彼はそれらの理由によって悪を自分にとっては善に転倒するからである」(同)。
 ヘーゲルは、『小論理学』第一二一節補遺で「理由(根拠)」について考察し、理由というものは、絶対的に規定された内容をもたないから、どんなものにでも理由をつけることができるとして、次のようにのべています。
 「今日のような反省と理由づけにみちた時代には、あらゆるもの、最も悪く最も不合理なものにたいしてさえ、何かしかるべき理由を持ち出すことのできないような者は成功はおぼつかない。すべて世の中の腐敗したものは、しかるべき理由があって腐敗したのである。理由を持ち出されると、人々は最初はたじたじとなりやすい。しかし理由というものが本来どんなものかがわかってくると、人々はそんなものになかなか耳を傾けなくなり、またそんなものにもはや威圧されなくなる」(『小論理学』下四一、四二ページ)。
 さしづめ、小泉首相が首相の座にのぼりつめたのは、こういう理由の持ち出しにたけていたからでしょう。アメリカのイラク攻撃の正当性について質問され、「大量破壊兵器が見つかっていないからといって、存在しなかったといえないのは、フセインが見つからないからといってフセインが存在しなかったといえないのに等しい」という趣旨の珍答弁をしたことにも、それが示されています。
そこでヘーゲルは、偽善者がどんな理由を持ち出して悪を善と偽るのか、以下にその例を示しています。

「蓋然」説

 蓋然性というのは、ある程度の確実性があることを意味しています。ある程度確実と思われる権威者の言説を理由に持ち出して、悪を善と偽るのが蓋然説です。
 つまり「ある行為にとって意識がなんらかのりっぱな理由をさがし出すすべを知っているならば」、たとえその理由がなんであろうと「その行為はゆるされているのであって、そのことにかんして良心は安心していることができるという原理」です(第一四〇節、注解〔c〕)。
 支配者に媚びる御用学者は、こういう「りっぱな理由」を提供するための権威としてのみ社会に存在しているのです。
しかし何にでも理由がつけられるということは、「りっぱな理由というのはひじょうに多くて、おまけに対立し合っている以上、この考えのなかにはまた同時に、ことがらのこの客観性(理由)ではなくて主観性こそが決定をしなければならないのだということがふくまれて」(同)おり、この主観性にもとづき「善悪にかんしては好き勝手な恣意が決定をするものにされ、倫理も宗教も底を掘り崩されてしまうのである」(同)。

「善を欲するのが善」説

 「つぎのもっと高い段階は、善い意志とはそれが善を欲するということにこそ存するとされる段階である。行為が善いといわれるためには、このように抽象的善を欲することで足りる、いや、この意欲だけがそのための唯一の必要事だというのである」(同〔d〕)。
 なぜこの立場を蓋然説より「もっと高い段階」だというのか、といえば、蓋然説の場合は、他人をだまして善であると主張するには、少なくとも何らかの権威を有する者の示す「りっぱな理由」が必要とされていたのに対し、抽象的善を欲する意志の場合は、善であると主張する理由が権威者の言説である必要すら存在しないからです。「ここではそれぞれの主観が直接にこの(神学者のような)高位につかせられているのであって」(同)、誰もが「おのれを絶対者として主張する」(第一四〇節)という、高い主観性を主張しているからです。
 蓋然性のところで、どんな悪にも、肯定的な理由を見出しうることを指摘しておきましたが、この抽象的善の立場からすると、どんな根拠のない理由であろうと、なんらかの理由を見つけ出すことによって、すべての悪を善に転化してしまうことになってしまうのです。
 例えば、「貧しいひとたちに親切をほどこすためのぬすみ。自分の生活のため、自分の〔おそらくはまたおまけに貧しい〕家族のため配慮するという義務ゆえの、ぬすみとか戦いからの脱走。また憎しみと復讐からの殺人。すなわち、自分は正しいという、総じて正しさの自己感情と、相手は悪いという感情とを満足させるための殺人」(第一四〇節、注解〔d〕)などがすべて善として肯定されることになります。
 結局、この抽象的な善は、「こうして、それらのもつ内容の肯定的な面のために、善い意図にされ、したがって善い行為にされている」(同)のであり、「善と悪の区別、したがってまたいっさいの現実的な義務は、消失している」(同)のです。
 この抽象的な善の一形態として、「目的は手段を神聖にする」という命題があります。ここで問題にされているのは、善い目的のために犯罪を手段とすることが許されるのかという命題です。それを肯定する理由として、裁判官や軍人の殺人があげられ、これらの殺人は、目的が神聖だから手段も神聖とされるのであり、こうした見地は一般的にも認められるべきだとするものです。
 これに対してヘーゲルは、裁判官や軍人の場合は、「どういう性質の人間のゆえに、またどういう事情のもとに、このことがゆるされており、かつ義務であるかが、厳格に規定されている」(同)から殺人も許されるのであって、一般的に「目的は手段を神聖にする」との命題にまで押し広げることは許されないと批判しています。
しかし、アメリカが、テロ対策を口実として、イラクのファルージャで子供や女性、老人への無差別殺戮をしているのをみると、そもそも理不尽な殺人をくり返すテロや戦争それ自体が否定されるべきものですし、刑罰としての死刑も廃止論がだんだん主流になってきています。こうした点からも「目的は手段を神聖にする」との弁解は成立の余地をなくしています。 

「信念の原理」説

 信念の原理は、最も高い主観性を示すものです。
 蓋然説では、善とするには「りっぱな理由」が必要でしたし、抽象的な善では、自らが善を欲するという何らかの理由が必要でした。
 ところが、「あるものを正しいと考える信念」(同〔e〕)の原理は、もはや何らかの理由すらも必要とせず、善であろうと悪であろうと、自己が正しいと信じるものが善であるという、「おのれを絶対者として主張する主観性」(第一四〇節)を示すものとなっています。ヘーゲルは、フリースの自称哲学は、この信念の原理に立っているとして、「この自称哲学は、真なるものが認識されうることを否認する」(第一四〇節、注解〔e〕)と批判しています。
 「信念の原理は、行為を善の規定のもとへ包摂するのは主観のすることであるという、このもっとすすんだ中味をもっている。これによって倫理的な客観性の外見すらもすっかり消失している」(同)。
 信念の原理に立つとき、その行為が客観的な善か悪かは、もはや問題とされることなく、信念の命ずるものがそのまま善とされるのですから、善悪を問題とする「倫理的な客観性の外見すらもすっかり消失している」ことになるのです。
 ブッシュ大統領は、イラク戦争開始の時、「大量破壊兵器の危険を取り除く」という「大義」を掲げていましたが、それが発見されないとなると、はじめから「テロとの闘争」が目的だったかのように、開戦理由を切りかえてきました。しかし、これはどだい無理な理由であり、二〇〇三年一一月の国連安保理テロ対策委員会報告書によっても、「フセイン政権の崩壊直後から」テロ集団の活動に「機会を提起するようになった」と明記されているのです。こうなると、ブッシュがイラク戦争は正しいと考える信念以外に、開戦の根拠はなかったことにならざるをえません。
 この信念の原理に至れば、自己の正しいと信ずることが善ということになりますから、もはや、悪を偽って善
とする偽善を論ずる余地はなくなってしまいます。
 「もし善い心、善い意図、主観的な信念こそは、もろもろの行為にその価値を与えるのだと宣言されるなら、もはやどんないつわり、ないしは偽善も存在せず、およそどんな悪も存在しない。というのは、・・・・・・自分の行なうことは自分の信念という契機によって善いものなのだからである」(同)。
 しかし、こうした信念の原理に立つ場合、信念を持つ主体にとっては、信念にもとづいて行為するかぎり、どんな悪も存在しないことになりますが、信念そのものの当否は当然問題とならざるをえません。
 ヘーゲルは、この信念を裁くものは、「ある即自かつ対自的な法則」(同)だといっています。
 この法則というのが、何を意味しているのか必ずしも明瞭ではありませんが、この法則は「神の権威、国家の権威を味方」(同)としており、「人間たちおよびそのすべての行為と運命がそのなかでしめくくられて存立していた幾千年という権威、つまり無数の個人たちの信念をふくむもろもろの権威を、この法則はもっている」(同)といっていることからすると、社会の客観的法則と考えていいでしょう。
 信念の原理からすると、私がその「法則を自分の信念のなかへ受け入れたか」(同)どうかだけが問題となります。私がその法則を受け入れなくても、私の信念が誤りだとされるのではなく、私の「うぬぼれ」がその法則「そのものによってかたづけられ」る、つまり、打ち砕かれるだけのことなのです。
 今日的にみれば、こうした社会の客観的法則を示したものとして、国連憲章をあげることができるでしょう。この国連憲章に対して「自分一個の信念を対置」したブッシュの「とてつもなく大きく見えるうぬぼれ」も、国連憲章という「原理そのものによってかたづけられている」(同)というべきものなのです。

「近代的イロニー」説

 ソクラテスは、美や正義とは何か、という問題を論ずるにあたり、相手に意見をまず出させ、それを否定することを重ねるという弁証法的対話をつうじて、究極的なイデア(真理、真にあるべき姿)をつかもうとしました。この真理に接近する方法が、イロニー(産婆術)といわれるものです。
 こういうソクラテスのイロニーに対し、ヘーゲルが、形式的な良心の一形態としてとりあげる近代的イロニーは、究極的な真理をとらえるものは、自分自身だとするような主観性です。
 つまり「主観性がそのうえにまだ自分をこのように真理と権利と義務にかんして決定し決心するはたらきであると知ること、これこそ、主観性のこの頂点にほかならない」(第一四〇節、注解〔f〕)。
 「主観性の頂点」といわれるのは、このイロニーにおいてこそ、主観性が傲慢の頂点に達し、「おのれを絶対者として主張する主観性」の「最高の尖端」(第一四〇節)となるものだからです。
 この傲慢な主観性は、オウム真理教などのカルト的宗教団体にあらわれ、唯我独尊の立場をとることとなってあらわれます。「私は法則を越えてもおり、それを何とかすることができる。ことがらがすぐれたものなのではなくて、私がすぐれたものなのである。私は法則とことがらにたいする主人であり、主人はそれらを自分の好みとしてただもてあそぶだけである」(同、注解〔f〕)というわけです。
 このイロニーの立場からすると、自己以外のものは、すべて悪となってしまいます。それだけではなく、自己を理由なく絶対化することにより、主観性を空洞化させてしまうのです。
 「この形態の主観性は、もろもろの権利、義務、法則のもついっさいの倫理的な内容の空虚さ、||つまり悪、しかもそれ自身のうちでまったく普遍的な悪であるばかりではない。この形態の主観性はまた、自分自身をいっさいの内容のこうした空虚さとして知り、この知のなかで自分を絶対的なものとして知るという形式、つまり主観的空虚さをもつけ加えるのである」(同)。

 

三、道徳から倫理への移行(第一四一節)

道徳論の小括

 以上、第二部「道徳」では、より善く生きるとは、どういうことなのかをみてきました。より善く生きるとは、自由な意志の主体が、自己のなかに普遍的な意志(あるべき意志)と特殊的意志(現にある意志)との区別を定立したうえで、この区別を揚棄しようとする「当為」の立場に立つことを意味していました。「当為」の立場とは、あるべき姿に向かって前進しようとする変革の立場であり、それをヘーゲルは主体的自由としてとらえているのです。自由な意志は、主体のなかにあって、無限にあるべき普遍的意志に向って自己の特殊的意志を前進させるなかで、自己自身を道徳的価値をもつ絶対的存在だと知ることになるのです。
 普遍的な意志は、一人の幸福から万人の幸福をへて、善(正義)として定立されます。善は道徳にとって「世界の絶対的な究極目的」(第一二九節)となり、善をなすべしという義務が生じてくることになります。
 善は、主体にとって、様々な価値判断をする価値基準であり、この善を洞察するところに「知性的な価値と尊厳」(第一三二節、注解)が認められることになります。
 しかし、善と義務といっても、善はあくまで、抽象的な普遍的意志にとどまり、「確固たる原理」(第一三五節注解)としての具体的内容(現実性)をもつものではありませんから、「永遠につづく当為」(同)をただうろつきまわるだけとなります。
 自己の内において、何が絶対的な善(真の善)であるかを決定する心がけ、つまり絶対的に善く生きる主観的な心がけが、「良心」です。しかしこの良心は、「主観性」としての限界をもつ「自己確信」でしかないところから、そこには真実の良心と形式的な良心とがあることになります(第一三七節)。
 形式的な良心は、純粋な自己確信であり、善であろうと悪であろうと、自己自身にとって善であると主張する「おのれを絶対者として主張する主観性」(第一四〇節)という独善におちいってしまう危険性をはらんでいます。その結果、「悪のこの最後の最も難解な形式によって、悪が善に、善が悪に転倒され」(同、注解)てしまうのです。
 こうして、自由な意識のもとにより善く生きるという問題は、一面では、善にもとづく生き方を可能にすると同時に、他面では、かえって悪にもとづく生き方にもつながるあやうさをもっているのです。
 したがって、善や良心のこうした一面性が克服され、真の善をめざしてより善く生きるという課題が客観的に保障される世界へと前進しなければならないことになります。それが第三部「倫理」の領域なのです。いわば、存在と当為の対立という道徳の変革の立場は、存在と当為の一致した真にあるべき社会共同体と真にあるべき自由な主体という倫理を生み出していくのです。
 ヘーゲルが、より善く生きるという問題を、単に個人の内面の問題としてとらえるのではなく、国家・社会との関連においてとらえようとすることは、唯物論的見地からも評価しうるところです。
 とりあえず以上を前置きとして、ヘーゲルのいうところを聞いてみることにしましょう。

道徳から倫理へ

 「善と主観的意志との具体的な同一性、すなわち両者の真理が、倫理である」(第一四一節)。
 第一三一節で、「主観的意志は、善にたいするある関係のうちにある」ということを学びました。
 その「ある関係」というのをもう少し詳しくみてみますと、「この関係は、善が主観的意志にとって実体的なものであるべきであり、すなわち主観的意志は善を目的とし成就すべきであるとともに、善のほうでもまた現実のなかへあらわれるための媒介をただ主観的意志のうちにのみもつ、という関係である」(第一三一節)ということになります。
 いわば、善は、「主観的意志にとって実体的なもの」として、単なる主観的な真にあるべき姿にとどまることなく、客観性を持つことが要請されてきますが、そのためには主観的意志を持つ主体(諸個人)と結合しなければなりません。他方、より善く生きる心がけとしての主観的意志にとっても、より善く生きるためには真の善が社会的実体となってあらわれ、この社会的実体との関わりのなかで生きることが求められます。
 こうして両者が合体し、「社会共同体の真にあるべき自由な姿と諸個人の自由により善く生きることとが結びつき、真にあるべき社会共同体のなかでより善く生きる自由の理念」とでもいうべきものが、「倫理」とされているのです。
 「善は自由の実体をなす普遍的なもの、しかしまだ抽象的なものであるから、したがって善にとっては、総じてもろもろの規定とこれらの規定の原理とが、しかしこの原理は善と同一的なものとして、要請されている。それはちょうど、規定するはたらきのたんに抽象的な原理たる良心にとっても、それのもろもろの規定の普遍性と
客観性が要請されているのと同じことである。この両者、善と良心は、どちらもそれだけで全体性にまで高められると、無規定なものとなる。この無規定なものはとうぜん、規定されるべきである」(第一四一節)。
 いわば、真にあるべき自由な社会的実体としての善と、社会的実体の構成員となる主観的意志とは、当為と存在との関係として、お互いに相手を求めつつも、自己確信にとどまる「主観性」としての道徳の領域では一体となることができなかったのです。
 その実現できなかった「具体的同一性」を主観と客観の一体性において実現したものが倫理だというのです。
ヘーゲルは、主観性も客観性もいずれも一面的なものであり、両者の統一こそ真なるものであると考えています(第二六節)。倫理は、主観性と客観性の統一として真なるものなのです。「実体としての自由は、主体的な意志として実存在しているのと同じほど現実および必然として実存在している。――これは理念がその即自かつ対自的に普遍的な実存在においてあるあり方、すなわち、倫理である」(第三三節)。つまり倫理において、善は真にあるべき自由な国家・社会という具体的内容を伴った現実性となってあらわれてくると同時に、諸個人のより善く生きたいという主観的意志も、善としての真に自由な国家・社会のなかで、客観的なものとなっていくのです。いわば、より善く生きたいという個人の意志が内心のなかの「当為」としてさまよいつづけるのではなくて、真にあるべき(真の善としての)自由な共同体のなかで、客観性を確保し、絶対的により善く生きる心がけになる。それが倫理だというわけです。
 『法の哲学』において、広義の法は、第一部「法」、第二部「道徳」、第三部「倫理」の三段階としてとらえられており、倫理は、広義の法である「自由な意志の現存在」(第二九節)の最高段階をなすものです。「自由の現存在は、(一)直接的には権利としてあったが、(二)自己意識の折れ返りとしての反省のなかでは善として規定されている。(三)第三のものは、それの移行中のここでは、右に述べた(どちらも抽象的な)善と主観性との真理であるから、したがって同じくこの主観性と権利ないし正との真理でもある」(第一四一節、注解)。
 倫理は、こうして、善と主観的意志との真理のみならず、自由の現存在の真理、権利と道徳との真理でもあるのです。というのも、法(権利)における自由な意志は、抽象的な人格と形式的な規範がとりあげられるのみで、自由な主体は不問とされ、他方、道徳では、自由な主体は取り上げられるものの、内心をさまよい続けるのみで、社会共同体との関わりという現実性をもたないからです。これに対し、倫理は、自由な主体が真にあるべき客観的に自由な社会共同体と結合し、社会的にも、主体的にも真の自由が実現されます。したがって倫理は法と道徳の真理、自由の現存在なのです。
 「権利的ないし法的なものと道徳的なものとは、どちらも自分だけで現存在するわけにはいかないのであって、倫理的なものを担い手とし基礎としていなければならない。というのは、法には主観性の契機が欠けており、道徳は道徳でまたこの契機をもっぱら自分だけでもっており、そこで両契機はどちらも自分だけではなんら実現性をもたないからである」(同、追加)。