2004年5月11日 講義
第11講 倫理
はじめに● 今日は倫理の総論(§142~§157)を ・倫理は、量・質ともに『法の哲学』の中核 ・より善く生きるためには、真にあるべき共同体が必要、それが倫理 ・「最高の共同は、最高の自由」 ● 自由な意志の現存在の発展段階 ・第一部では、抽象的な自由な人格(権利能力の主体) ・第二部では、無限に発展する自由な人格、但し内面においてのみ ・第三部では、真にあるべき共同体のもとで、自由な人格は客観世界において
1.倫理とは何か① 生きている善(§142、§143) ●「倫理とは生きている善としての自由の理念」 ・「生きている善」とは、実現された善 ● 客観的善と主観的善の二つの契機
● 客観的倫理(倫理的共同体)は、自由の概念(真にあるべき姿) ● 家族、市民社会、国家 ● 倫理的共同体は「堅固な内容」をそなえる「掟と機構」をもつ(§144) ● 倫理的共同体は実体、構成員は偶有
● 主体(構成員)にとって、倫理的共同体は「絶対的な権威と権力」(§146)であ ● 共同体と主体との同一性(一体性) ● ルソーの人民主権論の真髄 ・治者と被治者の同一性
2.真にあるべき国家と人民との関係① ヘーゲルとルソーの異同 ● 真にあるべき国家は治者と被治者の同一とする点で、ヘーゲルとルソーは同じ ● しかしヘーゲルは、国家あっての個人の立場であるのに対し、ルソーは個人
●「掟と権力」は、個人の意志を拘束する義務(同) ●「個人は、義務においておのれの解放を手にいれる」(§149) ・自然的衝動からの解放 ・道徳的義務の「沈滞感」からの解放 ・抽象的普遍からの解放 ●「義務において、個人は解放され、実体的自由を得る」(同) ・自由な国家(人民主権国家)の義務は、人民に自由をもたらす ・「義務とは本質への到達、肯定的な自由の獲得」(同 追加) ・人民は、統治の主体であり、義務の履行によって、自ら統治する ・ルソーは、人民が統治するための義務を明らかにせず ・義務は、同時に権利であり、真の自由の獲得 ● 1793年憲法 ・「公職は義務」 ・「人民の権利侵害への叛乱は、権利かつ義務」
3.徳と習俗① 徳(§150) ● 倫理的義務が個人の性格にê まで定着すると徳になる(人徳、有徳の士) ● 根底となる徳が「実直さ(誠実さ)」 ・法律上の「実直さ」は、信義誠実の原則(民法1条2項)
● 習俗とは、徳を身につけた習慣となった生き方 ● 習俗は「第二の自然」としての現存する精神」(同) ・「第二の自然」とは、倫理的共同体において自ずから身につけた生き方 ・「現存する精神」 ── 倫理的共同体を共同体として存続させるうえでの紐帯
4.主体と実体の同一と区別の統一① 主体と実体の関係(§152) ● 主体は、主体としての尊厳と存立の基盤を共同体にもっている ●「主体そのものが、実体の絶対的形式であるとともに、実体が顕現する現実 ● 主体と実体との区別は、定立されると同時に消え失せるような区別
● 諸個人は、倫理的共同体に所属することによって、真にあるべき自由を身につ ●「よい国家の公民たることにおいてはじめて個人は、おのれの権利を得る」 ● 主体的自由の権利は、真にあるべき国家のうちで実現(§154)
●「人間は倫理的なものを通じて、義務をもつかぎりにおいてのみ権利をもち、 ● 倫理的実体は精神をもつ ・アトミズムからは合成物は生まれても、精神は生まれない ● 倫理の構成は、精神の展開 ・家族 ── 自然的倫理的精神 ・市民社会 ── 精神の一体性の喪失 ・国家 ── 即かつ対自的倫理的精神としての憲法体制 ● 市民社会と国家を区別 ・この区別と対立を明らかにしたのはヘーゲルの功績 ・史的唯物論で両者の関係を解明 ・国家による市民社会規制の論理は、民主連合政府につながる議論に
*次回第12講は、第一章家族(第158節から第181節まで)。
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