『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一一講 倫理

一、はじめに

 今日から第三部の「倫理」に入ります。今日は「倫理」の総論にあたる第一四二節から第一五七節までを講義します。「倫理」は、量的にも質的にも、『法の哲学』の中核をなすものです。
 まず最初に、第三部「倫理」の主題は何なのかをみておきましょう。
 ヘーゲルは、道徳において、あるべき姿を追求する変革の立場を明確にしました。それは、現実批判の武器になるとともに現実変革の武器となるものでしたが、まだ道徳の段階においては、自己の内心においてどうより善く生きるべきかという個人的な変革の問題が中心となっていました。しかし、真の善をとらえてより善く生きるということは、たんに個人の主観性の問題ではなくて、より善く生きることを可能にする真にあるべき国家・社会をどう実現するのか、という問題につながってきます。いわば、社会共同体と個人との関係において自由を問題にせざるをえなくなってくるのです。
 ヘーゲルは、「倫理」において、家族、市民社会、国家という三つの社会共同体のあるべき姿をとりあげ、それが自由の真にあるべき姿となることをつうじて、個人が、人間として、個人としてより善く生きる自由な人格となる問題を論じています。ヘーゲルの結論は、「最高の共同性は最高の自由である」(「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」『理性の復権』八五ページ、批評社)というものです。
 ここでもう一度、第一部から第三部に至るまでの自由の現存在の発展段階を、第三三節追加に立ち戻って整理しておきましょう。
 広義の法は「自由な意志の現存在」(第二九節)としてとらえられます。第一部の「抽象的な権利ないし法」においては、自由な意志の現存在は、権利能力の主体となるという抽象的な自由な人格としてあらわれました。「この圏でわれわれのもつ自由は、われわれが人格と呼ぶところのものである。すなわち、自由な、しかも対自的に自由な、そしてもろもろの物件において自分に一つの現存在を与えるところの主体のことである」(第三三節、追加)。
 この段階での自由の現存在は、自由な人格として、物件を所有し、処分するという抽象的な自由にすぎません。本来、自由な人格というものは、権利能力の主体にとどまるものではなく、真理に向って無限に発展するところに求められるものですから、より善く生きるという方向で自我を無限に発展させる第二部「道徳」に移行しなければなりません。そこでは、良心によって善と義務が定立され、自我は善に向って無限に前進し、次第に自由になっていくのです。「すなわち、私は私自身のなかで、主体的なもののなかで自由なのである」(同)。
 しかし、自我は内面において自由となるのみならず、客観的にもより善く生きる方向で無限に発展する自由な人格として実現されることを求め、真の善の客観化、つまり社会共同体が真に自由を実現するあるべき姿になることを求めます。「ここで普遍的な目的であるところの善は、たんに私の内面にいつまでもとどまっているべきではなくて、おのれを実現するはずのものである」(同)。
 家族、市民社会、国家という社会共同体が自由の現存在となることにより、その構成員たる諸個人も無限に発展する具体的に自由な人格となることが客観的にも保障されるのです。「道徳も、その前の形式的な権利ないし法も、両者ともに抽象物であって、倫理がはじめて両者の真理なのである」(同)。すなわち、第三部「倫理」において、自由な人格は、はじめて抽象的な自由から抜け出し、具体的な自由の現存在を獲得するのです。
 したがって、国家は、「自由がその最も具体的な形態においてあるすがた」(同)ということになるのです。 

 

二、倫理とは何か

生きている善(第一四二~一四三節)

 「倫理とは生きている善としての自由の理念である」(第一四二節)。
 前講で、善と主観的な意志の一面性を克服した両者の真理が倫理であることをみてきました。「生きている善」とは、「実現された、現存在するに至った善」という意味ですから、倫理とは、第一〇講でお話ししたように、「社会共同体の真にあるべき姿と諸個人の自由により善く生きることとが結びつき、真にあるべき社会共同体のなかで、より善く生きる自由の理念」とでもいった意味合いで理解すればいいでしょう。それは、現実の社会共同体に自由の真にあるべき姿(真の善)が実現されるなかで、一人ひとりの主体が自由な人格としてより善く生きることになるのです。
 そこで、ヘーゲルは、「倫理とは、現存世界となるとともに自己意識の本性となった、自由の概念である」(同)と言いかえているのです。
 つまりヘーゲルは、現実により善く自由に生きるという問題を、国家、市民社会、家族という現存世界と主体的な個人(自己意識)の両面からみているのです。ヘーゲルにとって、国家ないし社会制度一般は、自由の現存在として社会的な真の善が実現され、そこにおいて個人の権利と自由が保障されるものであり、そのかぎりで、「現存世界となった自由の概念」です。他方、自由な人格にとっても、より善く生きる自由は、「現存世界」を基礎に実現されることにより、そのかぎりで「倫理的存在をおのれの、即自かつ対自的に存在している基礎とし、おのれを動かす目的としている」(同)のです。
 ですから、倫理は、この二つの契機から検討が加えられていくことになります。一つは、客観的倫理としての自由な社会共同体(家族、市民社会、国家)の契機であり、もう一つは主観的(主体的)倫理としての、人格的自由の契機です。
 ヘーゲルは、「今やこれら両契機のおのおのが、それ自身だけで理念の総体であり、理念の総体を基礎とし、内容としている、というふうな区別の意識として存在している」(第一四三節)といっています。「理念の総体」というのは、「自由の理念の総体」と理解したらいいでしょう。
 
客観的倫理の契機 (第一四四~一四五節)

 まず客観的な倫理の契機です。
 「抽象的な善にとって代わる客体的な倫理的なものは、無限な形式としての主体性を介する具体的な実体である。だからこの実体はおのれのうちにもろもろの区別を定立するが、これらの区別は同時に概念によって規定されている」(第一四四節)。
 客観的倫理としての各社会共同体は、第一に自由の「概念」(真にあるべき姿)の規定態としてとらえられています。
 ヘーゲル哲学では、「概念」を普遍、特殊、個別という三つのモメントを不可分のものとして含んでいるものとしていますから、自由の概念も、自らを規定して、自由の個別態としての家族、自由の特殊態としての市民社会、自由の普遍態としての国家という「もろもろの区別を定立する」(同)のです。この三つの区分は、いずれも自由の真にあるべき姿のあらわれとして、相互に関連しあい影響しあう不可分の関係にあり、「必然性の円還としての、自由」(第一四五節)なのです。
 第二に、社会共同体は、「無限な形式としての主体性を介する具体的な実体」(第一四四節)です。
 すなわち、倫理的共同体は、客観的倫理を構成する主体(構成員)との関わりをもつ存在です。ヘーゲルは、この倫理的共同体を社会的実体、その構成員を偶有としてとらえています。実体と偶有というのは、ヘーゲル哲学のカテゴリーの一つであり、実体は、変化のうちにあって自己同一性を保持しているもの、偶有は、実体に付随しているものとして実体の表面で変化するものです。実体は、偶有を生み出す「絶対の力」(『小論理学』下一〇三ページ)なのです。
 ヘーゲルは、この客観的倫理は、実体として、「もろもろの倫理的威力なのであって、これらの威力は、諸個人の生活を支配しており、おのれの偶有性としての諸個人のうちに、おのれの表象と、現象する形態と、現実性とをもっている」(第一四五節)といっています。
 客観的倫理は自由の社会的実体であり、諸個人の生活(主体的倫理)は、自由の偶有だというわけです。したがって「ひとり客体的倫理だけが持続的なもの、威力なのであって、諸個人の生活はこの威力によって支配される」(同、追加)ことになります。
家族、市民社会、国家が全体として社会的実体をなすのであり、諸個人はそのなかにあって、その「倫理的威力」に支配されるなかで、はじめて具体的な社会的存在という現存在を獲得するというのです。
 第三に、社会共同体は、実体としての威力として、「諸個人の生活を支配」(第一四五節)するうえでの「堅固な内容」(第一四四節)をそなえています。その内容は、その共同体が自由を実現するために必然的なルールと組織ともいうべきものです。ヘーゲルは、それを「即自かつ対自的に存在するもろもろの掟と機構」(同)とか、「ことがらの本性から流れ出る規定」(同、追加)とよんでいます。社会共同体には、共同体を自由な共同体として存立、存続するための「掟と機構」、つまり社会的ルールと組織とが不可欠なのです。

主体的倫理の契機(第一四六~一四七節)

 次に、主体的倫理の契機をみてみましょう。
 まず、主体(構成員)にとって、客観的倫理としての「掟と機構」(第一四四節)は、社会的実体として主体に立ち向かってきており、「自然の存在よりも無限に堅固な、絶対的な権威と威力」(第一四六節)をもつ存在です。自然の存在よりも絶対的な権威と威力をもっているのは、それが自由という実体の現存在として、自由な主体にとっても「意識が承認するような特殊な本性をもそなえ」(同、注解)ていて、主体にとって争いがたい力をもっているからです。
 しかし、客観的倫理が自由の現存在であることは、たんに「絶対的な権威と威力」をもった存在であるという側面をもつにとどまらず、また逆に自由な主体にとって客観的倫理は、主体を主体として存立させる「主体自身の本質」であり、自分と一体化した存在であると感じさせる側面をももっているのです。
 「だが他面、倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力は、主体にとっておのれのものでないものではない。それどころか主体は、それらが主体自身の本質であるということについて精神の証を与えるのである。この本質は、主体がそこにおいておのれの自己感情を持つほどの本質なのであり、そこにおいてこそ主体が、おのれと区別されないおのれ本来の境地において生きるほどの本質なのである。――倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力に対する主体のこの関係は、直接的であって、信仰や信頼の関係さえよりももっと同一の関係である」(第一四七節)。
 ここにいう「倫理的実体」とは、家族と国家を念頭においたものです。というのも、ヘーゲルは市民社会を倫理的「一体性の喪失態」、「分裂態」(第一五七節)としてとらえているからです。以下の論述は、そのなかでも主として国家について論及したものといっていいでしょう。ヘーゲル特有の言い廻しになっていますが、実はここに、ヘーゲル国家論の真髄がルソーのいう人民主権論にあることが示されているのです。
 前にも一言しましたが、ルソーの「人民主権論」は、意志の自由を根本にし、たんに人民が主権者として国家意志の形成に参加して全体意志を形成するという、主権在民を意味するのみならず、全体意志が、人民の真にあるべき意志(意志の概念)としての一般意志を生みだし、この人民の一般意志の下に人民が統治されるという、治者と被治者の同一性を主張するところに、その特徴をもつものでした。
 人民が一般意志の統治下におかれることによって、人民の真に願う政治が実現されるところから、統治する者も、統治される者も人民という、治者と被治者の同一性が実現されるのです(以下「人民主権論」という場合は、すべての人民が国家意志の形成に参加するという意味での「主権在民」と区別し、一般意志による統治にもとづく治者と被治者の同一性の意味でのみ使用することとします)。
 ルソーは、この人民主権国家を「何びとにも服従せず、自分自身の意志のみに服従する」(『社会契約論』五二ページ、岩波文庫)ものととらえ、治者と被治者の本質的一体性を、次のように指摘しています。
 「この多数者が、このように、統合して一つの団体をつくるやいなや、その団体を攻撃することなしに、構成員の一人といえども傷つけることはできない。その構成員が苦痛を感じることなしに、その団体を傷つけることは、なおさらできない。このように、義務と利害とがともに、契約当事者の双方がたがいに助け合うように強制する」(同三四ページ)。
 ルソーは、自由な意志と一般意志を媒介にして治者と被治者の同一性を実現しようとしましたが、ヘーゲルも基本的にルソーと同じ土俵に立っているのです。ヘーゲルが、「倫理的実体」と「主体」との「関係」は、「同一の関係」といっているのは、そのことを示しています。

 

三、真にあるべき国家と人民との関係

ヘーゲルとルソーの異同

 ヘーゲルとルソーは、人民主権国家をもって真にあるべき国家としてとらえることでは一致しているものの、国家と人民のどちらが根源的存在なのかという問題では、一見すると真っ向から対立するもののように見えます。
 ヘーゲルが、真にあるべき国家における治者と被治者の同一性の問題を主張しているにとどまらず、国家が「主体自身の本質」であり、しかも「そこにおいてこそ主体が、おのれと区別されないおのれ本来の境地において生きるほどの本質」(第一四七節)であると指摘していることは、注目されねばなりません。
 いわば、国家は個々人の本質ともいうべき存在であって、国家あってこそ個々人には本来的な人間らしい生き方が保障されるのだという見地が、ここに表明されています。個人あっての国家ではなく、国家あっての個人だというのです。この関係を、ヘーゲルは「倫理的なものがとりもなおさず自己意識の現実的生命性をなすような、関係」(同、注解)ともいっています。国家は、個々人に「現実的生命性」を与える存在だというわけです。
 この考え方は、ルソーの『社会契約論』とは全く逆の発想となっています。ルソーの場合は、バラバラな個人から出発し、本来自由で平等なものとして生まれた個々人が、その自由と平等を実現するために社会契約により国家・社会を形成するというアトミズムの考え方にたっています。国家権力は、ともすれば、人民の意志に反して暴走する存在としてとらえられるところから、この暴走を規制するため、政府や代議士は、主権者たる人民の公僕にすぎず、人民の意志に反して行動するときは、いつでも人民によって権力を制限され、あるいは解任されうるものとしてとらえられています。ルソーの場合、個人あっての国家であり、ヘーゲルの場合は、国家あっての個人となっています。
 ということになれば、ヘーゲルの考えは国家主義、全体主義だとして、ルソーの人民主権論に軍配をあげうるのかといえば、そうは単純に言い切れないところに問題があるのです。
 一応こうした問題が存在していることを含みつつ、もう少しヘーゲルのいうところを聞いてみましょう。 

倫理的義務論(第一四八~一四九節)

 「もろもろの掟と権力は、こうした実体的諸規定である以上、――個人にとってはその意志を拘束するもろもろの義務である」(第一四八節)。
 国家は、当然その組織と権力によって個人の意志を拘束し、義務を押しつけることになります。しかし、ここにいう義務を、一般的に国家に対する国民の義務とされる納税の義務とか兵役の義務などと同様に考えるとしたら、大変な間違いをおかすことになります。
 ヘーゲルは、これが「倫理学的義務論」(同、注解)ともいうべき哲学的な義務論であって、抽象的な法における権利・義務論や、道徳論で論じられたようなからっぽな義務論ではないと断ったうえで、「自由の理念によって必然的であるところの、したがってこの理念の全範囲である国家において現実的であるところの、そういう諸関係の展開」(同)としての義務論だといっています。つまり倫理的義務とは自由の理念(自由の概念の現存在)としての国家において、自由を現実のものとする個人の義務だというのです。
 まずヘーゲルは、義務には、おのれを制限する義務とおのれを解放する義務とがあるとしたうえで、自由の理念としての真にあるべき社会共同体のもとでは 、「個人は義務においてむしろおのれの解放を手に入れるのである」(第一四九節)といっています。
 では、倫理的義務は一体いかなる意味でおのれの解放となるのでしょうか。
 ヘーゲルは、まず第一に、この義務が、「自然的衝動においておちいる従属からの解放」(同)だとしています。やっとまだ即自的に自由なだけの自然的意志は、「もろもろの衝動、欲求、傾向」(第一一節)としてあらわれますので、「それはまだ理性的なあり方の形式において有るのではない」(同)。これに対し、倫理的意志にもとづく意志は、理性的な意志として、「自然的衝動」に支配され従属する状態から解放されているというのです。
 第二に、この義務は、「当為と許容についての道徳的反省において主観的特殊性としておちいる沈滞感からの解放」(第一四九節)です。道徳では、善と義務がとりあげられましたが、善は内心において永遠に続く当為をうろつきまわるだけですし、善に対応する義務は、たんに「善をなすべし」という抽象的なものにすぎませんから、「空虚性と否定性の苦しみ」(第一四一節、追加)という「沈滞感」をこうむることになります。
 第三に、それは、「おのれのうちにとじこもっていつまでも一個の非現実性にとどまっている無規定の主観性からの解放である」(第一四九節)。つまり抽象的普遍の自由、何もしない自由から解放されるというのです。
 以上、三つの観点からのべられていることは、いずれも、倫理的義務の消極的な意義を明らかにしたのみであって、その積極的な意義はまだ明らかにされていません。
 こうした消極的意義との対比において、ようやくヘーゲルは「義務においてこそ個人は解放されて、実体的自由を得るのである」(同)という積極的意義を展開しています。
 これは一体何を意味するのでしょうか。第一四九節の追加「自由への前進としての義務」が、その内容を明らかにしています。
 すなわち、倫理的義務は、一方では抽象的な自由、つまり勝手気ままな「主観性の恣意」(同、追加)を制限し、他方では、内心における「抽象的な善」(同)を抜け出すことによって、具体的普遍としての自由を実現するのです。ヘーゲルにおいて、真にあるべき国家(人民主権国家)は「自由の実現態」(第二五八節、追加)としてとらえられています。この国家は、こういう「主観性の恣意」や「抽象的な善」(第一四九節、追加)という抽象的な自由を制限し、義務を課します。だから一見すると、国家は、自由を制限するようにみえます。
 しかし、「こうした自由の制限であるかぎり、義務は自由の制限ではなくて、自由の抽象的観念の制限、つまり不自由の制限にすぎない。義務とは本質への到達、肯定的自由の獲得なのである」(同)。自由な国家が主観的な恣意を制限することは、「不自由」を制限し、積極的「肯定的自由の獲得」を実現するものに他ならないのです。
 真にあるべき国家においては、ほんらい権利は義務であり、義務は権利であるべきものです。何故なら、このような国家では、一般意志による統治によって治者と被治者の同一性が実現されるわけですから、国家は、人民自身なのです。人民は国家が人民に対して果たすべき役割を自ら積極的に担い、それを自らの国家に対する権利として要求すると同時に、義務として履行することによって、自ら国家を統治することになるのです。
 ルソーは、社会契約国家を、支配・服従契約を否定するものとして描いています。しかし、ルソーは、国家が人民を支配してはならないという国家の消極的役割を強調するあまり、人民の国家に対する権利は主張しながらも、人民主権国家において、人民自身が国家を統治するために積極的に何をなすべきかという人民の義務については、何も明らかにしませんでした。
 これに対して、ヘーゲルがこのような国家に対する人民の義務を問題としたことには積極的な意義があります。
 真にあるべき国家において、国家と人民とは一体ですから、国家が人民に対して果たすべき義務は、同時に人民が国家の一員として履行すべき義務となるべきものです。
 しかもその義務は、人民の意に反して押しつけられる制限としてではなく、人民の側から要求し、かつ人民がわがものとして、喜んで引き受けるべきものとして、同時に権利でもあるような義務なのです。そして、この義務の履行によって個人は、「自由の実現態」としての国家と一体となり、真の自由を獲得するのです。
 人類の歴史上初めて人民主権国家の憲法として制定されたフランスの一七九三年憲法は、次のように規定しています。 
 「公職は、本質的に有期的である。それは優遇または褒賞とは考え得ず、義務とみなすべきである」(『人権宣言集』一四六ページ、岩波文庫)。
 「政府が人民の権利を侵害するときは、叛乱は、人民および人民の各部分のため権利の最も神聖なものでかつ義務の最不可欠なものである」(同一四七ページ)。
 つまり、公職についたり、人民の権利を守ったりすることは、人民の権利であると同時に、人民が人民主権国家の担い手として果たすべき義務とされているのです。
 こうしてみてくると、ヘーゲルが、「自由の実現態」としての国家において、「個個人の最高の義務は国家の成員であることである」(第二五八節)といっているのも理解しうるところです。
 また日本共産党の規約第五条は、「党員の権利と義務は、つぎのとおりである」として、「党の会議で、党の政策、方針について討論し、提案することができる」ことなどをあげています。同党は、真にあるべき共同体として、党員の権利は、同時に党員の義務であるとの立場から、権利と義務を対立する関係においてではなく、同一の関係でとらえているのです。
 いずれにしても、倫理的義務論は、真にあるべき倫理的共同体(家族、市民社会、国家)の全体をつらぬくテーマであり、「これらの倫理的諸規定の一つ一つに『それゆえこの規定は人間にとって義務である』という結文はつけ加えられ」(第一四八節、注解)ませんが、それは自明のものとしてとらえられているからにほかなりません。

 

四、徳と習俗

徳(第一五〇節)

 本論の最初にお話ししたように、「倫理とは生きている善としての自由の理念」(第一四二節)です。
 より善く生きるためには、客観的善である倫理的共同体の義務が、たんなる義務の領域を超えて個人の性格にまで結びついていくことが期待されています。倫理的義務が個人の性格となるまでに定着したとき、それが「徳」となるのです。
 「倫理的なものは、自然によって規定されているところの個人的性格そのものに反映しているかぎりでは徳であり、徳は、個人の所属する諸関係のもろもろの義務への個人の単純素朴な適合性以外の何ものをも示さないかぎりでは実直さである」(第一五〇節)。 
 倫理的義務が、義務であるかぎり、またそれは、個人に義務感をもたらし、彼の人格そのものとは区別された、ある外面的なものにとどまっています。これに対して、倫理的義務が人格そのものにまで昇華され、彼の恒常的な性格の一部となったとき、それは、その人にとって徳になり、彼は「有徳の士」だとか、「人徳がある」とかいわれるようになるのです。
 「だから徳論は、それがたんに義務論ではなくて、性格という特殊的なものを含んでいるかぎり、すなわち自然規定性を基礎とするものを含んでいるかぎり、一種の精神の自然誌(博物誌)であるであろう」(同、注解)。
 徳といわれるもののなかには、思いやりとか、正義感とか、献身性とか、いろんな自然の性格的なものが含まれているという意味で、「精神の自然誌(博物誌)」といったのでしょう。
 こういう徳のなかにあって、すべての徳に共通する根底となる徳が、「実直さ」(「誠実さ」とも訳される)なのです。根底となる徳として「実直さは、一つには法律上、一つには倫理上、人間に要求されうる一般的なもの」(同、注解)です。
 法律上の「実直さ」は、「信義誠実の原則」とよばれています。民法第一条第二項は、この原則を民法の基本原則に掲げています。「権利の行使及び義務の履行は信義に従ひ誠実に之を為すことを要す」というものです。民法というのは、個々人が社会共同体の一員として生きていくための一定の普遍的ルールを規定したものです。いわば信義誠実の原則は、人間が共同体のよき一員として生きていくうえで、個々人が最低限身につけなければいけない「徳」とされているのです。
 
習俗(第一五一節)

 このように倫理的共同体の一員として生きていくうえでは、個々人が徳を身につけることが求められているのですが、現実生活において徳を身につけ習慣となった生き方(行為)が、「習俗」(または「習慣」)とよばれるものです。
 「しかし倫理的なものは、諸個人の現実生活と単純素朴に同一になっている場合には、彼らの一般的な行為の仕方として――すなわち習俗として――現われる。――習俗は、第一のたんに自然的な意志に代わって立てられたところの、そして諸個人の生活を貫く魂、意義、現実性であるところの、第二の自然としての、倫理的なものの習慣としての面であり、一つの世界として生きている現存せる精神である。精神の実体はこうしてはじめて精神として存在する」(第一五一節)。
 まず、習俗は、「第二の自然としての、倫理的なものの習慣としての面」です。「第一のたんに自然的な意志」というのは、第一一節で論じた生まれながらにもっている「やっとただ即自的に自由であるだけの意志」(第一一節)「直接的ないし自然的な意志」(同) であり、「もろもろの衝動、欲求、傾向」(同)としてあらわれる意志です。
 これに対して、第二の自然的意志としての習俗は、人間が、社会のなかで教育され習慣的に身につけていく倫理的な意志であり、行為なのです。「教育学は人間を倫理的にする術である。それは人間を自然なものとみなし、人間を生まれ変わらせる道を示す。すなわち人間の第一の自然を第二の精神的な自然に変え、こうしてこの精神的なものが人間のうちで習慣になる道を示す」(第一五一節、追加)。
 また習俗は、「一つの世界として生きている現存せる精神」(第一五一節)であり、「習俗は自由の精神に属する」(同、追加)。
 精神とは、人間の実体をなすものであり、精神の本質は自由です。習俗は、倫理的共同体を支え、共同体を共同体として存在させる紐帯としての「共同体の精神」として、「現存せる精神」であり、共同体に自由をもたらします。この「共同体の精神」が、第一一四節でのべた社会共同体の「掟と機構」として顕現するのであり、同時に共同体の精神としての習俗は、「諸個人の生活を貫く魂」なのです。つまり、共同体を構成する諸個人は、共同体の精神としての「掟と機構」のもとで、その共同体の精神としての習俗を身につけることによって、その共同体の一員として、共同体と一体化することができるのです。
 なお、本題からははずれますが、へーゲルは習慣に関して面白いことをいっています。
 「人間は習慣という慣れのためにも死ぬものである。すなわち人間がすっかり人生に慣れきってしまい、精神的にも肉体的にもだれて、主観的意識と精神的活動との対立が消え失せてしまった時がそうである」(同、追加)。
 人生に慣れきって、精神と肉体の陶冶を止めるとき、人間は、「精神的」に死んでしまうというのです。

 

五、特殊的意志と普遍的意志の統一

人間の尊厳の確立(第一五二節)

 第一四五節で倫理的共同体と共同体を構成する主体(諸個人)との関係は、まず実体と偶有の関係にあり、実体が主体に「現実的生命性」(第一四七節、注解)をあたえるかぎりで、共同体と主体とは、「同一の関係」(同)にあることをみてきました。
 しかし、諸個人は、倫理的義務から、徳を経て習俗を身につけるに至る段階に到達することで、倫理的共同体の一員にふさわしく成長し、特殊的意志から普遍的意志へと前進し、文字どおり、主体と実体との同一と区別の統一が実現されることになってきます。
 次の文は、「普遍者」を「倫理的共同体」ととらえ、「倫理的性格をもつ者」を「習俗を身につけた共同体の構成員たる諸個人」ととらえると理解しやすくなるでしょう。
 「倫理的性格をもつ者は、それ自身は不動でありながらもいろいろと自己限定することにおいて現実的な理性的状態へと開かれている普遍者こそが、おのれを動かす目的であることを知っており、おのれの尊厳と特殊的諸目的のいっさいの存立とがこの普遍者に基づくものであることを認識しており、またじっさいおのれの尊厳と特殊的諸目的のいっさいの存立とをこの普遍者においてもっているからである」(第一五二節)。
 いわば、習俗を身につけた主体は、もはや倫理的共同体のもつ「絶対的な力」によって一方的に支配される存在ではなく、自らも積極的に実体と一体化することに努め、それにより、主体と実体は同一となり、真に自由な人格となって、人間の尊厳を確立するにいたるのです。
 かくして、「主体性そのものが、実体の絶対的形式であるとともに、実体が顕現する現実性なのである。そして主体と、主体にとって対象、目的、威力である実体との区別は、区別されると同時にまたたちどころに消え失せる形式の区別にすぎないのである」(同)。これにより治者と被治者の同一性が実現されることになるのです。
 
主体は自由の概念の顕現(第一五三~一五四節)

 「自由たるべき諸個人の主体的使命にとっての彼らの権利は、彼らが倫理的な現実世界に所属することによってかなえられる。なぜなら、彼らの自由の確信はこうした客体性において真実のものとなるからであり、また彼らは倫理的なものにおいておのれ自身の本質、おのれの内的普遍性を現実に所有するからである」(第一五三節)。
 ヘーゲルは、その自由論を、はじめには専ら主体における自由な「意志」の問題から論じてきました。そして、自由な意志は、形式的自由から、普遍的自由へ、最後に概念的自由へと前進するところをみてきました。
 続いて、ヘーゲルは、「自由な意志の現存在」(第二九節)としての法(権利)や道徳を論じてきました。道徳において、個人の主体的自由は、「善」をめざす当為の立場に立つものとして、自由をめざしながらも、まだ自由の概念に到達することはできませんでした。そしてこの倫理の世界において、主体もようやく、真にあるべき自由な社会共同体と結びついて「自由の概念の顕現」(第一五二節、注解)となることができるのです。
 「この主体性(主観性)は、道徳的立場ではおのれの概念たる自由とまだ区別されているが、倫理的領域においては、自由の概念にとって十全な、自由の概念の顕現である」(同)。
 いわば、倫理において、諸個人は、「倫理的な現実世界に所属する」(第一五三節)ことにより、道徳の領域であらわれた主体的自由の権利、つまり個人の尊厳をもつ主体としてのみではなく、「自由の概念」(真にあるべき姿)をも身につけた人間の尊厳をもつ主体としてもあらわれてくるにいたったのです。真にあるべき国家という「よい国家の公民たることにおいてはじめて個人は、おのれの権利を得るのである」(同、追加)。
 自分が生きたいように生きる、自分の満足を得る生き方をする(特殊的意志)という、近代的な主体的自由の権利は、個人の尊厳を形づくるものです。この主体的自由の権利は、幸福追求権という一定の普遍的意志と結びついていましたが、まだそれは特殊的意志を中心とするものにとどまっていました。しかし人間は個人の尊厳と同時に、真にあるべき社会共同体の「掟と機構」のうちで、真に普遍的な共同体の精神としての習俗を身につけることによって、人間の尊厳を獲得し、自由の概念に到達します。そうして、個人の尊厳と人間の尊厳をあわせもつ真にあるべき人間となるのです。
 真の主体的自由においては、権利と義務は一つのものとなるのです。

精神とその展開(第一五五~一五七節)

 「普遍的意志と特殊的意志とのこの同一性においては、義務と権利とは一つに帰するのであって、人間は倫理的なものを通して、義務をもつかぎりにおいて権利をもち、権利をもつかぎりにおいて義務をもつ。抽象的権利においては、私が権利をもち、他者はこれに対する義務をもつ。――道徳的領域では、私自身の知りかつ意志する権利と私の福祉の権利は、もろもろの義務とただ合致すべきであるにすぎず、客観的であるべきであるにすぎない」(第一五五節)。
 普遍的意志としての共同体(家族、国家)と、特殊的意志としての構成員たる諸個人の同一性が実現されることにより、個人の共同体に対する権利は義務となり、共同体の個人に対する義務は、個人の権利となります。第一部の「抽象的な権利ないし法」では、個人の法的権利・義務のみが問題とされ、第二部「道徳」では、せいぜい個人が自己の良心にもとづいてあるべき姿(善)を定立し、それを実現すべき義務が、個人の主体的権利、幸福追求権とされるにとどまっていました。権利と義務の一体化は、真にあるべき社会共同体である第三部「倫理」の世界ではじめて実現されるのです。
 ヘーゲルは、「倫理的実体」(真にあるべき社会共同体)とその構成員とが一体化したものを「現実的精神」(第一五六節)とよんでいます。この「現実的精神」の立場から、ヘーゲルはもう一度『社会契約論』の批判をしています。
 「倫理的なものを扱うさいには、いつも二つの視点しか可能ではない。すなわち実体性を起点にして考えるか、それとも原子論的扱い方をして個別性を基礎とし、これから昇って行くかである。だが、この後のほうの視点は精神を欠いている。なぜならそれは一つの合成物に行きつくだけであるが、精神は個別的なものではなく、個別的なものと普遍的なものとの一体性だからである」(同、追加)。 
 こうして、第三部「倫理」は精神の展開として構成されることになります。
 まず、「家族」は、「直接的もしくは自然的な倫理的精神」(第一五七節)であり、特殊的意志と普遍的意志とが一体化した、精神としての一体性をもっています。
 しかし、この精神の一体性が喪失し、普遍的意志と特殊的意志とが分裂するに至ると「市民社会」(同)となります。
 最後に今一度、普遍と特殊の同一性の定立された精神が、「国家体制ないし憲法」となるのです。
 その意味で、「家族」と「民族」(国家)とは、「対自的に存在する自己意識を自己意識の概念と一つになったかたちで含むもの」(第一五六節)という共通性をもっており、これに対し、「市民社会」は、倫理の喪失態とよばれています。
 市民社会と国家とを区別したことはヘーゲルの大きな功績です。例えば近代の社会契約説などでは、市民社会と国家を区別することなく、社会共同体としてとらえていたからです。この区別を前提とし、両者の関係を解明したのが史的唯物論ということになります。