『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一二講 家族

一、はじめに

 今日は、第三部「倫理」の各論、第一章「家族」を講義します。第一一講で、「倫理とは生きている善としての自由の理念」(第一四二節)であることを学びました。つまり真にあるべき社会共同体のなかで無限に発展する自由な人格を実現し、より善く生きる自由の理念が、倫理とされているのです。
 家族というのは、出発点となる社会共同体として、真にあるべき社会共同体の基礎単位となるべきものであり、それだけに倫理共同体といってもまだ無自覚的な自然的要素を残しています。そこで、家族は「直接的もしくは自然的な倫理的精神」(第一五七節)といわれています。
 家族と婚姻のあり方が、大きく変わってきています。未婚の増大、婚姻の高齢化、核家族、単身赴任、すれちがい夫婦、少子化現象、孤老、子どもへの虐待、家庭内暴力、契約結婚、熟年離婚、家庭内離婚などなど。
 ある意味で現代は、家族の危機の時代といっていいのかもしれません。社会を支える基礎単位となる家族の危機は、日本社会という共同体の危機をも思わせるものとなっています。
 それだけに、真にあるべき家族とは何かを問題とし、それを哲学的に解明しようとしたヘーゲルの営みは、こうした家族の危機の諸現象を読み解き、解決の方向を模索するうえでの手がかりを与えてくれるものとなっています。

 

二、家族とは何か(第一五八~一六〇節)

 ヘーゲルは家族を、倫理的実体の最初のあらわれであり、自由な意志から生まれる家族愛(愛)という「共同体の精神」によって結ばれた社会共同体としてとらえています。家族の成員は、一個独立の人格としてではなく、愛で結ばれた一体性をもつファミリーの一員として、家族によって自己の存立を与えられているのです。
 「家族は精神の直接的実体性として、精神の感ぜられる一体性、すなわち愛をおのれの規定としている。したがって家族的心術とは、精神の個体性の自己意識を、即自かつ対自的に存在する本質性としてのこの一体性においてもつことによって、そのなかで一個独立の人格としてではなく成員として存在することである」(第一五八節)。
 「心術」というのは、日本語としてあまり使われない言葉ですが、ドイツ語のゲジンヌングの訳です。ヘーゲルは、第二部「道徳」のなかで、「真実の良心」とは何かを問題とし、「真実の良心は、即自かつ対自的に善であるところのものを意志する心がけである」(第一三七節)といっていますが、この「心がけ」の原語がゲジンヌングです。倫理の立場ではじめて真実の良心が成立し、真にあるべき家族の根本的心がまえという確固としたものになるのであり、それが「家族的心術」とよばれているのです。
 家族的心術は、その成員が独立した人格としてではなく、家族の一員としての一体性の意識をもつことにあります。では、家族の成員を一体化して共同体の精神となる「愛」とは、一体なんでしょうか。ヘーゲルは、愛を「とてつもない矛盾」(第一五八節、追加)だといっています。というのも、愛は、私が他者から独立した人格であることを否定し、他者と一体であることを知ることによって、私は私であることを知ることにあるからです。愛において私と他者とは、同一と区別の統一という関係におかれているのです。第七節追加で、自我は「他のもののうちにありながら、しかも自分自身のもとにある」ことによって、「自由の具体的な概念」としてあることを学びましたが、いまそれが家族において現存在をもつにいたったのです。
 自由な意志のあらわれとしての愛をつうじて婚姻することによって家族が生まれ、子どもが誕生し、家庭が形成され、家族としての基礎が確立していきます。しかし、この家族としての一体性を生みだす愛がなくなれば、家族は解体し、崩壊していくことにもなります。
 家族(ファミリー)は、社会共同体として一つの実体をなしており、家族の成員は、この家族としての実体のうえに生活し、存在している偶有性なのです。成員の生活は家族を基礎に組みたてられ、成員の住居費、食費、光熱費、交際費、養育費、教育費などの諸経費が家計から支出されることになります。「個々人が家族の一体性のおかげで受けとる権利は、まず最初はこの一体性における彼の生活そのものである」(第一五九節)。
 ですから、家族の権利というのは、家族としての実体を維持する権利であり、「家族の一体性から出てゆくことに反対する権利」(同、追加)という、消極的な権利にとどまります。
 いわば、それは権利とはいっても、家族の一員として生活する権利にとどまるものであって、家族に対して、法的に何かを請求するという意味の権利ではありません。
 そういう家族に対する法的な権利は、成員が独立の人格として成長し、家族から分離独立するか、あるいは家族が解体するときに、はじめて、顕在化してくるのです。
 こうして家族は、三つの面から考察されることになります(第一六〇節)。すなわち、A家族の誕生としての婚姻、B家族という社会共同体を支える家族共有財産と子ども、C子どもの自立、離婚、死亡等を理由とする家族の解体の三つです。
 ヘーゲルは、「子供の教育」をCに分類していますが、後にみるようにBとCの両者にまたがるものとなっています。

 

三、婚姻

婚姻の二つの契機(第一六一節)

 婚姻は、家族を成立させる出発点となるものであり、それは同時に夫婦二人という最小限の人数からなる社会共同体の出発点ともなるものです。したがって、倫理的共同体は、婚姻から始まり、やがて市民社会、国家へと広がりをもって展開していくことになります。
 「婚姻は直接的な倫理的関係」(第一六一節)です。「直接的」といっているのは、最初の倫理的社会共同体を生みだす関係だという意味と、自然的要素を含んでいるという意味とをあわせ持っているからです。
 そこから、婚姻には、本質的に二つの契機があることが指摘されます。
 第一は、「自然的生命活動という契機」(同)。つまり性的関係という契機をもっているということです。ヘーゲルは、それを「人類の現実および過程としての生命活動」(同)といっています。一人の男性と一人の女性は、いずれも一個人にすぎないのであって、自分一人では人類になりえません。そこで「他者との合一によって自己を補い、この媒介によって自己と類を〔推論的に〕連結し、類を現存在へもたらそうとする衝動」(『エンチュクロペディー』三六九節、三〇三ページ、河出書房新社)、つまり婚姻して類になろうという衝動をもっているのです。
 いわば、男性も女性も、他者との合一によって類に現存在をもたらそうとする、類としての「生命活動」の衝動をもっており、婚姻はこの衝動のうえになりたっています。
 しかし、この「自然的生命活動」は、婚姻の一つの契機にはなりえても、それだけで婚姻という共同体がなり立つわけではありません。
 「第二に、自然的両性のつぎのような一体性が、すなわちただ人類の生命活動の内にあるだけの、すなわち即自的にあるだけの、そしてまさにそれゆえに顕現したあり方においては外面的であるだけの一体性が、精神的な愛へ、自己意識的な愛へ変えられるのである」(第一六一節)。
 ヘーゲルは、性的関係における一体性は、「外面的であるだけの一体性」、つまり、精神的一体性を伴わない自然的関係にすぎず、それを「精神的な愛」という倫理的一体性にまで高めたものが婚姻だといっているのです。
 こうして「婚姻は本質的に、一つの倫理的関係」(同、追加)となるのです。
 ヘーゲルはこの見地から、婚姻に関する三つの考えの批判をしています。第一は、婚姻を性的関係としてのみとらえる考えであり、ここでは婚姻のもつ倫理的一体性が無視されています。第二は、婚姻を契約とする考え(カント)です。この考えも二人の人格が別個のままのものとしてとらえられており、両者が一人格となる倫理的関係を無視しています。第三は、婚姻の本質を愛におく考えです。確かに愛は、家族という共同体の精神をなすものですが、ヘーゲルは、倫理的な関係は移りやすい愛という感情によってのみ規定される関係ではないと批判しています。こうしてヘーゲルは、「婚姻は、より正確には、法的に倫理的な愛である」(同)といっています。

婚姻は両人格の自由な同意(第一六二~一六三節)

 婚姻の「客観的出発点は、両人格の自由な同意、詳しくいえば、自分たちの自然的で個別的な人格性を前述の一体性において放棄して一人格を成そうとすることの同意である。この一体性は、自然的で個別的な人格性という点からすれば一つの自己制限であるが、しかし彼らはこの一体性において彼らの実体的自己意識を獲得するのであるから、まさにこのゆえにこの一体性は彼らの解放である」(第一六二節)。
 ヘーゲルが婚姻の出発点を「両人格の自由な同意」に求めているところは、主体的自由を尊重するヘーゲルらしい清明さを感じさせます。またここに家族が自由な社会共同体とされる理由があるのです。同意の内容は、両性の個別的な人格性を「放棄して一人格を成そうとすることの同意」、つまり夫婦という新しい一人格を形成しようとする同意です。
 またヘーゲルが、真にあるべき婚姻のなかに、人間解放の原始的形態を見出していることは重要だと思います。第一四九節で、倫理的義務は、「義務においてむしろおのれの解放を手に入れ」、「義務においてこそ個人は解放されて、実体的自由を得る」ことをみてきました。
 婚姻による家族という倫理的実体において、個別的人格は制限されながらも、家族としての一体性のなかで、家族としての倫理的義務を履行することをつうじて、夫婦のそれぞれは、実体的自由を獲得し、個人として解放されていくとして、「この一体性は彼らの解放である」といっています。
 そこでヘーゲルは、「人間の客観的なつとめ、したがって倫理的義務は、婚姻状態に入ることである」(同、注解)といっています。最近、様々な社会的障害から未婚の男女が増大し、婚姻の高齢化、少子化が進行しています。「人間のつとめ」としての婚姻すら思うにまかせないという状態は、現代的な人間疎外の一形態といえるのかもしれません。
 この家族における倫理的実体とは、一体何を意味するのでしょうか。
 「婚姻の倫理的な点は、実体的目的としてのこの一体性の意識にある。したがって愛、信頼、個人的生活全体の共同にある。|| こうした心術と現実生活においては、自然的衝動は、満たされればすぐ消え失せるのが定めの自然的契機という様相にひきさげられるとともに、精神的な絆がおのれの権利を得、この絆が、実体的なものとして、したがって情熱の偶然性や一時的な特殊的好みの偶然性を超えた、それ自体においては解消することのないものとして、ひときわはっきりと姿をあらわしてくる」(第一六三節)。
 家族としての精神的一体感が、婚姻を倫理的実体として成立させるのです。この一体感の前には、自然的衝動も従属的な契機へと押下げられてしまい、それにかわって家族としての「精神的な絆」がはっきりと姿をあらわしてくるのです。
 ヘーゲルが、カントの結婚契約説を否定した理由の一つに、契約においては、独立した人格の存在が前提とされていることがあります。ヘーゲルはこれを批判し、婚姻において、独立した人格は、家族の一体性のなかに揚棄されていることを強調しているのです。
 こうした点からすると、いわゆる契約結婚といわれるものの問題点も明らかになってきます。この場合それぞれの経済的独立性を留保しながら、入籍して、限定された共同生活を営むことになります。それも精神的一体性が保ち続けられる限り、家族としての倫理的一体性は保たれることになりますが、この倫理的一体性の現存在としての家産(夫婦共有財産)という物質的土台が形成されない分、精神的一体性ももろさとうつろいやすさをかかえているといえるのではないでしょうか。
 このように、家族としての精神的一体性が、婚姻の重要な契機となりますので、この一体感を喪失した場合には、たとえ夫婦が一つ屋根の下に共同生活を送っていたとしても、それは、もはや家族の名に値しない家庭内離婚ということになってしまうのです。

婚姻の社会的承認(第一六三~一六四節)

 真にあるべき婚姻は、家族という新しい一つの人格を形成しようとする精神的一体感から生まれてくるものであり、「両人格の自由な同意」(第一六二節)のみにもとづいて成立するというヘーゲルの考えは、近代の主体的自由をもつ自我を前提とするものであり、積極的に評価されるべきものです。
 しかし、婚姻を倫理的実体にまで高めるためには、この同意を、社会的に宣言し、社会的承認をうるための儀式が必要となってきます。これにより「精神的な愛」としての婚姻は、主観的な倫理的実体から客観的な倫理的実体へと転化するのです。
 「婚姻という倫理的な絆を結ぶことの同意を儀式的に宣言し、これに応じて家族と地方自治団体がこの絆を承認し確認することが、……婚姻の正式の締結と現実性をなす。だからこの結合は、こうした挙式が先に行なわれることによってのみ、倫理的なものとして確立されるのである。こうした挙式は、精神的なものの最も精神的な現存在としての言語というしるし〔§七八〕による実体的なことがらの完結なのである」(第一六四節)。
 婚姻は、婚姻届を提出するだけで形式的な承認をうることはできます。しかし結婚式・披露宴という場で、公然と社会に対して婚姻を宣言することにより、家族という倫理的実体を形成したことへの社会的承認をえて「実体的なことがらの完結」をするのです。そういう意義をもっていることを考えれば、結婚式・披露宴はたんなる形式だから婚姻にとってなくてもいい、といい切ることには問題があり、できるだけおこなわれるべきものということになるでしょう。実行委員会形式の結婚式・披露宴は、最初から社会的承認を前提として、両名の婚姻を承認した実行委員会の手によって準備されるものですから、より望ましい形式ということができるでしょう。
 ヘーゲルは、「婚姻の締結そのものである儀式によって、この結合の本質が感情や特殊的な愛着といった偶然的なものを超えた倫理的なものであることが表明され確言されるのである」(同、注解)として、この儀式がたんなる「外面的な形式」(同)であることを否定しています。

婚姻における同一と区別(第一六五~一六六節)

 しかし、婚姻が倫理的一体性をもってその本質とするといっても、婚姻によって、両性の自然的区別がなくなるわけではありません。
 「男女両性の自然的規定性は、彼らの理性的本性によって知性的かつ倫理的な意義を得る。この意義は、概念としての倫理的実体性がおのれ自身においておのれをそれへと区分するその区別によって規定されている」(第一六五節)。
 つまり、婚姻という倫理的一体性を保つために、両性はその自然的規定性に応じて、形成された家族の実体を維持・発展するうえで必要な任務の分担をおこなうことになるのです。
 まず「男性は、おのれを二つに割」り、「対自的に存在する人格的独立性と、自由な普遍性を知りかつ意志するはたらき」(第一六六節)とを担います。すなわち、男性は、家長として家族という一個の独立した人格を代表すると同時に、学問や国家・社会の任務を引きうけるという「自由な普遍性」を仕事にするのです。他方「女性は、合一においておのれを保つところの精神的なものであり、実体的なものを具体的個別性と感情との形式において知りかつ意志するはたらきとしての精神的なものである」(同)。すなわちヘーゲルは、女性を倫理的実体としての家族を守ることを自分の本分とするものとしてとらえています。
 その結果「男性は対外関係においてたくましく活躍するもの、女性は受動的で主観的なものである」(同)として、男性は外に、女性は内にあるべきととらえています。さすがのヘーゲルも当時の男女間の差別的地位という歴史的状況を超える認識をもちえなかったものとして、ある種の感慨を覚えます。

一夫一婦制(第一六七~一六八節)

 しかしヘーゲルが、男性と女性の能力や性向のちがいによる役割のちがいを主張しながらも、両性の対等、平等な人格を前提として、真にあるべき婚姻は本質的に一夫一婦制であるべきだとしているのは、今日においても評価しうるところです。それは、たんにそうあることが望ましいという「当為」の立場ではなくて、婚姻の倫理的実体性から導かれる倫理的必然性として打ち出されているのです。
 「婚姻は本質的に一夫一婦制である。なぜなら婚姻関係に身をおき身を委ねるのは、人格性という直接的な排他的個別性であるからであり、したがって婚姻関係の真実のあり方、真心からの繋がり〔実体性の主観的形式〕は、ひとえにこの人格性の一身同体となった相互献身からのみ生じるのであるからである」(第一六七節)。
 婚姻において、個別的な人格は、自己の個別性を放棄し、家族という倫理的な人格的一体性に自分を献げ、倫理的義務を尽すことになります。夫婦の双方が、自分を家族のために献げることにより、家族としての一体性を実感し、自己の存在を確認することができるのです。
 そこでは、一夫一婦制による対等かつ平等な相互献身が求められており、そうしてこそ、一体感を共有しうることになります。
 「人格性が、他者においておのれ自身を意識するというおのれの権利を得るのは、人格としての、すなわちアトム的個別性としての他者が、この同一性のうちにいるかぎりにおいてだけである」(同)。
 家族という倫理的共同体において、自己を共同体の一員として意識することができるのは、夫婦が個人の尊厳を保ちつつ相互に協力・扶助しあい、両者が対等・平等な関係において一体感を持ちうるかぎりにおいてということになります。夫婦は、夫婦であるかぎりにおいて、「同居し、互に協力し扶助しなければならない」(民法七五二条)のです。すなわち、一夫一婦制のもとにあっても、夫と妻との関係が、支配・従属の関係にあって、「一身同体となった相互献身」となっていない場合には、「婚姻関係の真実のあり方」とは無縁だといわざるをえないのです。
 ヘーゲルは、この「自由な献身の問題」から、近親結婚を否定する倫理を展開しています。つまり、「婚姻は、両性のこうした各自の無限に固有な人格性の自由な献身から生じるのであるから、すでに自然的に同一の、よくり合った、万事においてうちとけ合った間柄の内部で結ばれてはならない」(第一六八節)として、「血族間の婚姻は、婚姻の概念に反する」(同)といっています。
 しかしヘーゲルの論理からするなら、血族関係にはない近隣のもの同士の結婚も「うちとけ合った間柄」として許されないことになってしまいますので、これは近親結婚否定の論拠としてはなりたちません。
 ヘーゲルのこじつけともいうべきものであり、近親結婚否定の論理は、やはり本来の遺伝的影響に求めるべきものでしょう。

 

四、家族の資産(第一六九~一七二節)

 家族の精神的一体性が、外側にあらわれでて現存在を獲得するに至ると、それは家族としての資産(家産)となります。
 「家族は人格としてはその外面的実在性を所有においてもつが、家族がその実体的人格性の現存在をもつのは、資産というかたちでの所有においてだけである」(第一六九節)。
 第四四節で、自由な人格は、自分の意志を物件のなかへ置き入れることによって、その物件を自分の所有とすることを学びました。
 家族も一つの独立した人格として、家族としての共同体の精神を外面化して、家族としての所有をすることになりますが、それが家族としての資産(家産)なのです。
 「家族は所有をもつだけではない。むしろ普遍的で永続的な人格としての家族にとっては、持続的で確実な占有である資産の必要と使命とが生じる。抽象的所有におけるたんなる個々人の特殊的欲求という恣意的契機と、欲望のエゴイズムとは、ここでは共同のもののための配慮と取得に、すなわち倫理的なものに変わる」(第一七〇節)。
 ヘーゲルは、ここで、所有一般と家産とを明確に区別しています。個別者の意志を置き入れる所有は、私的所有(第四六節)であり、そこでは「個々人の特殊的欲求」と「欲望のエゴイズム」とが支配しています。これに対して家族の資産は、家族という共同体に属する倫理的なものとして、個人的な所有の枠をこえる家族全員の共有財産なのです。
 家族は、愛という精神的一体感をもってその紐帯とする「普遍的で永続的な人格」ですが、家族が永続するためにも、うつろいやすい愛という精神的紐帯にのみ依拠するのではなくて、この愛を支える物質的土台としての「持続的で確実な」資産が必要となるのです。そこでヘーゲルは、「この資産は共同の所有であり、したがって家族のどの成員も特別の所有はもたないが、どの成員もこの共同のものに対する権利はもっている」(第一七一節)といっています。いわば、家産は子どもまで含めた家族全員の共有なのです。
 民法でも、夫婦が婚姻後に取得した資産は、夫婦いずれの名義になっていようと夫婦の共有財産とされています。しかし、夫婦のみの共有財産だとすると、死亡により家族が解体し、相続が開始するとき、なぜ子どもにまで相続権が生ずるのかを説明することができません。ここは、家族の資産を、夫婦、子どもを含めた家族全員の共有財産とするヘーゲルの考えに軍配をあげるべきでしょう。
 個人的所有の例外としての共有は、例外であるが故に、共有物を分割して、個人的所有に解消する自由が認められています。「共同的な所有がその本性からいって個別化されて占有されうるばあい、この所有は、即自的に解消されうるような共同態であり、そのなかで私の分け前をそのままにしておくことはそれ自身、恣意の問題である」(第四六節)。民法でも「各共有者は何時にても」共有物の分割を請求することを得(二五六条)、と規定されています。
 しかし、家族というものは「普遍的で永続的な人格」(第一七〇節)として考えられていますので、家産は、家族の共有財産ではあっても、私的共有とは異なり、分割されることを予定していません。したがって、民法でも婚姻継続中は、夫婦共有財産の分割は認められず、家族が解体する離婚の際にはじめてこの権利は財産分与として顕在化するのです。民法では、家産はあくまで夫婦のみの共有財産ですから、配偶者には財産分与は認められているものの、子どもには認められていません。これもまた問題だといわざるをえません。
 ヘーゲルは、この家族の共有財産を取得し、「配分し管理する役目」は、家族を代表する「家族の長としての夫」の仕事だとしています。「どの成員もこの共同のものにたいする権利はもっている」(一七一節)ので、夫の配分について、成員が異議を唱えることも起りうるのです。
 また、家族の一員だった子どもが結婚すれば、新家族がつくられることになります。「新家族は倫理的愛を基礎としている」(第一七二節)ので、ここに新しい倫理的一体性が生まれ、自然的血縁関係を基礎としている旧家族からは独立することになります。
ヘーゲルは、「各新家族こそ血縁関係というより広い繋がりにくらべていっそう本質的なものなのであり、夫婦と子供こそ」「家族の本来の核をなすもの」(同、追加)といっているのは、その通りというべきでしょう。

 

五、子どもの教育と家族の解体

子どもは婚姻の一体性の現存在(第一七三節)

 「婚姻の一体性は、実体的なものとしては真心からの繋がりと心術であるにすぎず、現実に現われたものとしては両主体に分かたれている。
 このような婚姻の一体性は、子供においては、一体性そのものとしてそれ自身だけで独立に存在するかたちで顕現し、両主体が自分たちの愛として、自分たちの実体的現存在として愛するところの対象となる。||このことは自然的面からすれば、直接的に現存している両人格||両親としての両人格||という前提が、子供において成果となるということである」(第一七三節)。
 婚姻における愛という精神的一体性が、外面化して現存在をうるに至るのは、一つには家産であり、もう一つには、子どもなのです。
 「資産においては一体性は、外面的物件というかたちにおいてあるにすぎないが、子供においては精神的なものというかたちにおいてある」(同、追加)。
 愛で結ばれてはいるものの、両性に分かれている夫婦は、子どもにおいて、婚姻の一体性が「それ自身だけで独立に存在するかたちで顕現」(第一七三節)しています。だから両親は、子どものなかに、倫理的一体性としての愛を見出し、また子どものなかに配偶者と自己との一体となった姿を見出すのです。
 「両親は子供において自分たちの合一の全体を目の前にもつのである。母は子供において夫を愛し、夫は子供において妻を愛する。こうして両人は子供において自分たちの愛を目の前にもつのである」(同、追加)。
 マザーコンプレックスという言葉がありますが、母親が父親への愛を喪い、子どものなかに、自己自身を見いだしたとき、母子は、母という人格を母子で分け合っているかのように錯覚するのです。
 また子どもは、夫婦間における愛の外面化であり、現存在ですから、家族の精神的紐帯としての愛が喪われ、配偶者への憎しみへと転化したとき、子どもは、配偶者と同一視されて憎しみの対象となり、両親の子どもへの虐待が生まれてくるのです。妻は子どもにおいて夫を憎み、夫は子どもにおいて妻を憎み、子どもは、両親のいずれにとっても憎しみの対象に転化するのです。
 これに対して、「子はかすがい」ということわざがあります。夫婦愛が破綻していても、婚姻の一体性そのものとしての子どもを愛することをつうじて、子どもにおける配偶者への愛をとりもどし、婚姻の一体性を回復することにもなるのです。
 子どもへの虐待も、「子はかすがい」も、現象的には対立するようにみえながら、いずれも子どもは婚姻の一体性の現存在であるという本質から生じている二つの現象なのです。

子どもの教育(第一七四~一七五節)

 子どもは、家族の一員として「共同の家族資産で扶養され教育される権利」(第一七四節)をもっています。
 子どもは、まだ自立した人格を持つには至っていませんが、将来一個の自由な人格をもつべき存在ですから、けっして物件ではなく、したがって両親の所有しうる存在でもありません。子どもが扶養され、教育される権利は、子どもがいまだ人格性は備えてはいないものの、将来自由な人格となる存在であって、たんなる物件ではないことのあらわれなのです。
 ヘーゲルは、子どもの教育には、矛盾する二つの使命があるといっています。
 一つは、「家族関係からみての積極的使命、すなわち倫理性を直接的でまだ対立を含まない感情というかたちで子供のなかに作りあげ」(第一七五節)ることです。
 いわば家族という倫理的実体をつうじて、共同体の一員として生活するうえで必要とされる倫理性、つまり「愛と信頼と従順」(同)などの感情を育てるという使命です。
 もう一つは、「同じく家族関係からみての否定的使命、すなわち子供を、その生来の状態である自然的直接性から抜け出させて、独立性と自由な人格性へと高め」(同)る使命です。つまり子どもは、一方では家族の一員としての自覚を教育されながら、他方で家族から自立するようにという矛盾した教育を受けるのです。
 ヘーゲルが、このように子どもの学習権を認めたことは、人格的自由をもって個人の尊厳とする考えからすれば、当然の帰結というべきものではあっても、まだ義務教育すら存在しない当時としては、極めて進歩的な考えでした。まだ子どもが親の所有物であるかのように考えられ、親によって奴隷のように児童労働をさせられたり、懲罰を加えられたりしていた時代に、自から学習することのできない子どもに対して、学習権を認めたのは、画期的ともいうべきものです。ヘーゲルは「人間はあるべき姿を、本能的にそなえているのではなく、努力によってはじめてそれをかちとることができる。教育されるという子供の権利はこのことに基づいている」(第一七四節、追加)として、自己の人格の完成、実現のためには、学習権が保障されねばならないと考えたのです。
 最後にもう一つヘーゲルの慧眼を紹介しておきましょう。
 「概して子供は、親が子供を愛するよりは親を愛さないということである。というのは、両親は子供において自分たちの結合の客体的対象性をもつのに対して、子供は自主独立に向かって近づいてゆき、強くなり、それゆえ親を後にするからである」(一七五節、追加)。なるほどとうなづく人も多いことでしょう。

家族の解体(第一七六~一八〇節)

 家族の解体は、三つの方向ですすんでいきます。
 一つは、離婚です。婚姻は、愛という主観的偶然的な感情から生まれるものですから、愛の消滅により解消されることはありうることです。しかし、「婚姻は倫理的なものであるから、恣意によってではなく」(第一七六節、追加)、役場への届出や裁判といった「或る倫理的権威によってのみ解消させられうる」(同)のです。
 二つには、子どもの自立です。子どもが、自由な人格へと教育され、成年に達すると、法的人格として認められ、社会に巣立っていくことにより、家族は解体していくのです。
 しかし、この面での家族の解体は、単に不可避的というのみならず、社会における世代交替として必要不可欠なものでもあります。いま日本の青年は、現代社会の矛盾の集中点となっており、安定した雇用と収入にも、また青年向け住宅にも恵まれないところから、いつまでも両親から自立できないパラサイト・シングルやニート(仕事もしていない、学校にも行っていない、職業訓練も受けていない)とよばれる現象が起きています。これは日本の未来を、経済的にも社会的にも担うべき次世代の自由な人格が育っていないという意味で、少子化とともに、現代日本の社会問題の一つであり、日本の未来社会へ重大な警告を発するものとなっています。ここにも、現代社会の根本的矛盾があらわれているのです。
三つには、親の死亡による家族の解体です。
 親が死亡すれば、家族は解体しますので、それに伴い家族共有財産(家産)も分割されることになります。それが相続です。「相続はその本質からすれば、事実上の共同資産が個人のものとしての占有になることである」(第一七八節)。日本の民法でも、相続人が配偶者と子どもの場合には、配偶者二分の一、子ども二分の一(三人の子どもがいれば、六分の一ずつ)と法定相続分が定められています。
 しかし、被相続人が遺言を作成している場合には、その意志が尊重され、その結果、法定相続分がおかされることも少なくありません。そこでヘーゲルは、遺言を「倫理的諸関係をする誘因」(第一七九節、注解)になると批判しています。
 したがって、遺言によって法定相続分をおかすのも、「家族の基本関係を毀損しないように、極度に制限して行なわれるかぎりでのみ許される」(第一八〇節)としています。
 民法でも、遺言により、家族の法定相続分の二分の一がおかされる場合には、相続人は、遺留分減殺請求をすることができることになっています。
 ヘーゲルは、倫理的共同体としての家族を守るという見地を一貫してつらぬいているのです。

 

六、家族から市民社会へ(第一八一節)

 「家族は自然的な仕方で、また本質的には人格性の原理によって、多数の家族に分かれていく。こうして各家族は総じて独立の具体的人格としてふるまい、したがって相互に外面的にふるまう」(第一八一節)。
 こうして、家族の自然的解体をつうじて、独立した自由な人格が社会に送りだされ、その相互の交流をつうじて、「市民社会」が形成されることになります。
 家族は、ある意味で普遍と特殊の直接的同一性です。つまり、家族という普遍(倫理的実体)とその成員(特殊)とは完全に一体となっています。
 これに対し、市民社会という倫理的実体では、特殊と普遍が分離しています。個人は自由な人格と自由な経済活動により特殊的利益を追求する存在であり、これに対し市民社会という普遍性がこの特殊性と相対し、特殊性を規制し、支配することになるのです。
 その意味では市民社会は、「特殊性の規定」(第一八一節)であり、「この普遍性は、特殊的なもののうちにただ映現するだけの形式的な仕方においてあるにすぎない」(同)のです。
 したがって、「この立場では、倫理は失われたようにみえる」(同、追加)のですが、失われたわけではなく、「普遍性は実は私にたいする究極の支配力をあくまで失わないのである」(同)。