『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一三講 市民社会

一、市民社会論から何を学ぶべきか

市民社会の矛盾

 今日は「市民社会」の総論部分(第一八二節から第一八五節まで)を講義します。
 「市民社会」という用語は、古い歴史をもっている用語です。 
 すなわち、もともとはアリストテレスが、ポリス(国家)の定義に用いた「コイノニア・ポリティケー」(市民共同体)に由来するものです。その後キケロが、これを「ソキエタス・キウィリス」とラテン語に訳し、さらにそこから「ビュルガリッヘ・ゲゼルシャフト」(市民社会)というドイツ語が生まれたのです。
 アリストテレスにおいて、国家は、家族社会(オイコス)の長たる市民(自由民)の結合から生まれる共同体(コイノニア・ポリティケー)でしたから、国家と市民社会とは区別されていませんでした。
 このような伝統的理解は、一八世紀半ばまで続きました。ルソーの『社会契約論』における社会も、国家とは明確に区別されないままとなっています。
 これに対して、ヘーゲルは、『法の哲学』において、はじめて明確に国家と市民社会とを区別し、市民社会を自由な人格による自由な経済活動としての「経済社会」、国家を「政治社会」の意味においてとらえ、真にあるべき国家と市民社会との関係を論じています。
 しかもヘーゲルは、この市民社会を「市民社会の創造は現代世界に属する」(第一八二節、追加)として、資本主義的生産様式の経済社会としてとらえ、その矛盾を鋭く指摘しており、マルクスの『資本論』にも影響を与えています。
 こうしたところから、『法の哲学』の市民社会論は、「『法の哲学』の白眉」といわれているのです。
 倫理とは、「生きている善」(第一四二節)、つまり実現された真の善ですから、そこで論じられる、家族、市民社会、国家のいずれも、それぞれの真にあるべき姿が問題とされています。
 したがって、市民社会でも真にあるべき経済社会が問われることになりますが、イギリスの古典経済学を学んだヘーゲルは、資本主義的生産様式のもつ矛盾をとらえ、その矛盾を止揚するものとして、市民社会と国家をとらえようとしています。
 資本主義の爛熟から衰退の過渡期ともいうべき二一世紀において、資本主義的生産様式のもつ矛盾は、ヘーゲルの時代より、はるかに深刻かつ鋭くなり、しかも地球的規模でその矛盾は拡大しています。
 日本共産党新綱領は、この矛盾をつぎの七つの点から明らかにしています。
 「広範な人民諸階層の状態の悪化、貧富の格差の拡大、くりかえす不況と大量失業、国境を越えた金融投機の横行、環境条件の地球的規模での破壊、植民地支配の負の遺産の重大さ、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの多くの国ぐにでの貧困の増大(南北問題)」。
 もちろん、ヘーゲルは、資本主義の基本的矛盾を経済学的に正確にとらえているわけではありませんし、そのとらえ方も、ヘーゲル哲学のカテゴリーを使っての哲学的矛盾としてとらえるものにとどまっています。つまり、市民社会を特殊と普遍との対立と闘争(矛盾)としてとらえているのです。
 このとらえ方は、あまりにも抽象的にすぎると思われるかも知れませんが、しかし、現代資本主義社会の諸矛盾に照らしてみるとき、ヘーゲルの問題提起には、意外な新鮮さをもって迫ってくるものがあり、未来社会を考えるうえでも重要な視点を提供してくれるものとなっています。
 一言紹介しておきますと、ヘーゲルは、市民社会を「特殊性の圏としての社会」(第一八一節、追加)、つまり、自由な人格たる個人が「もろもろの欲求のかたまり」(第一八二節)として自由な経済活動を展開するエゴイズムの社会だととらえ、そこでは、共同体の倫理という普遍性は後景にしりぞいてしまうところに資本主義社会の最大の矛盾を見いだしています。
 市民社会における個々人は、自由な人格による自由な経済活動の主体であるがゆえに、その個人的欲望によってバラバラな存在となり、共同体の一員としてのコミュニケーション、連帯感や相互扶助、弱者救済、万人の幸福などの精神的紐帯は失われてしまっているのです。
 こういう後景にしりぞいてしまった倫理的一体性をどう取り戻していくのか、ここにヘーゲルの市民社会に投げかけた根本的問題があるのです。
 
市民社会から未来社会へ

 この市民社会の持つ特殊と普遍との対立を押し隠すイデオロギーの役割を果たすことにもなったのが、いわゆるブルジョア民主主義でした。
 ブルジョア民主主義を代表するアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言は、人はすべて生まれながらに自由・平等であることを宣言し、人間としての基本的人権を歴史上はじめて宣言したという意味で画期的な意義をもつものでした。
 それは、まさに国家も市民社会も、普遍性の支配する社会であることを宣言し、そこにはあたかも搾取も階級対立も存在しないかのように、自由、平等の原理が支配しているものとして確認されたのです。しかし実際にはこの国家の宣言した普遍性は、市民社会の特殊性に従属し、支配される存在でしかなかったのです。
 人間は自由と民主主義への欲求を本質的にもっている類存在です(拙著『人間解放の哲学』参照)。それが、階級社会と国家の誕生により、自由と民主主義は抑圧され、人間疎外が生じます。人間は、疎外からの解放を求めて、自由と民主主義を求める階級闘争に立ち上がります。そして、ついに、ブルジョア民主主義革命をつうじて国家はそれを人間の基本的人権として宣言するところまで到達したのです。それは、「特殊性の圏」としての市民社会を規制する「普遍性」として、国家を位置づけようとするものでした。
 しかし、ブルジョア民主主義革命から生まれた国家は、自由な取引、自由な搾取を求めるブルジョアジーのむきだしの「欲望のかたまり」である市民社会に従属した存在でしかないことを明らかにしました。その結果、それはたんに、搾取階級と被搾取階級の間に対立と闘争を生みだしたのみならず、被搾取階級相互の間、さらには、被搾取階級の中核となる労働者階級のなかにも競争原理をもち込んで、諸個人相互の間にはコミュニケーションすら成立しないような、バラバラな存在に切り離し、倫理的共同体を根底から解体してしまうことになったのです。
 この点に注目したのが、マルクスの論文「ユダヤ人問題によせて」(全集①三八四ページ以下)です。この論文は、一方ではフランス人権宣言を受けての一七九一年憲法、さらには最も民主的な一七九三年憲法について、これらの憲法が基本的人権を宣言した意義を正当に評価していないという重大な問題をかかえてはいるものの、 他方ではブルジョア民主主義の諸原則が、倫理的共同体を解体し、社会的存在としての人間の本質を奪うものだという側面に注目して根本的批判を加えていることは、今日の資本主義の現状に照らしても、極めて重要な意義をもつものといわねばなりません。
 まずマルクスは、「市民社会の革命」は、「古い社会」つまり封建制度を解体したことを明らかにします (同四〇四ページ)。
 では、古い市民社会とは、どんな社会だったのか。
 「古い市民社会は政治的性格を直接的なかたちでもっていた。すなわち、たとえば財産とか家族とか労働の様式とかのような、市民社会の諸要素は、領主権、身分、といった形で、国家生活の要素にまで高められていた。それらの要素は、こうした形で、個々人の国家全体にたいする関係、すなわち彼らの政治的関係」(同)を規定していたのです。
 つまり、封建制社会の場合、被搾取階級は、国家からは分離し、閉め出されながらも、身分別組織、職業団体、ギルドなどの人民の側の政治的組織によって、「個人の特定の市民的活動および状態を普遍的な行動および状態に転化」(同四〇五ページ)させていました。
 しかし、市民革命は、こうした「身分、職業団体、同職組合、特権を粉砕」し、「これによって、市民社会の政治的性格を揚棄」(同)してしまいました。どのように揚棄したのかといえば、「それは市民社会をその単純な構成部分に、つまり一方では個々人に、他方では、これらの個々人の生活内容である市民的状況を形成する物質的および精神的諸要素に、粉砕した」 (同)のです。
 市民革命は、古い封建制権力を打ち倒したのみならず、人民の封建的諸組織(共同体)をも粉砕し、一人ひとりをバラバラに解体してしまい、そのことにより、共同体の一員としての「普遍的な行動および状態」をも消滅させてしまいました。
 「封建社会は、その基礎へ、つまり人間へ、解消された。しかしそれは、実際にその基礎となっていたままの人間、利己的な人間への解消であった。市民社会の成員であるこういう人間が、いまや政治的国家の土台であり前提である。人間は、人権のなかで、国家からこうしたものとしてみとめられている。ところで、利己的な人間の自由とこの自由を是認することとは、かえって彼の生活内容をなしている精神的および物質的諸要素の勝手きままな運動を是認することである」(同四〇五、四〇六ページ)。
 人民の封建的共同体の解体は、「利己的な人間」を生みだし、人権宣言における自由や平等という人権は、個々人の「勝手きままな運動を是認する」ものでしかなくなったのです。というのも、新しく誕生した「市民社会」、つまり資本主義社会は、ヘーゲルのいう「欲望のかたまり」の社会でしかないからです。
 マルクスは、自由という人権の本質は、「人間と人間との結合にもとづくものではなく、むしろ人間と人間との区分にもとづいている。それはこうした区分の権利であり、局限された個人の、自己に局限された個人の、権利」(同四〇二ページ)だとしています。
 このように、自由を「区分の権利」と批判したうえで、マルクスは、さりげなく、「市民社会においては、各人は他人のなかに自分の自由の実現ではなく、むしろその障害を見いださせるようにさせられている」(同)とのべています。ここには、きわめて重要な思想がもりこまれています。つまり自由とは、本来、他人との共同のなかに実現されるのであって、他人から区別されるところにあるのではない、したがって他人の存在を自由の障害だととらえるブルジョア民主主義の自由は、真にあるべき自由ではない、というものです。
 マルクスは、自由や平等にとどまらず、「いわゆる人権はどれ一つとして、利己的な人間以上に、市民社会の成員としての人間以上に、すなわち自分の殻、私利と我意とに閉じこもり共同体から区分された個人であるような人間以上に、こえでるものではない」(同四〇三ページ)と結論づけています。
 重要なことは、マルクスが、こういう利己的な人間は、「本来の人間」ではないとして、「結局、市民社会の成員としての人間は、本来の人間、公民(シトワイヤン)とは区別された人(オム)である」(同四〇六ページ)といっていることです。
 では、マルクスは、「本来の人間」つまり、人間が人間として解放された存在としての人間をどのようにとらえているのか、そこが問題なのです。
 「あらゆる解放は、人間の世界を、諸関係を、人間そのものへ復帰させることである。……現実の個別的な人間が、抽象的な公民を自分のうちにとりもどし、個別的人間のままでありながら、その経験的な生活において、その個人的な労働において、その個人的な関係において、類的存在になったときはじめて、……そのときにはじめて、人間的解放は完成されたことになる」(同四〇七ページ)のです。
 ヘーゲルは市民社会を、一方では自由な社会共同体ではあるものの、他方ではエゴイズムの社会であるととらえ、その矛盾を国家によって止揚するところに真にあるべき社会を見いだしました。マルクスも市民社会を「利己的な人間の自由」の社会ととらえ、このような性格をもつ市民社会そのものを止揚し、個別的人間が類的存在(共同体的存在)になったときに人間解放が完成されると考えました。
 市民社会が止揚されるべきだという点に関し、両者は共通の問題意識にたっています。それは、本来の人間とは、利己的なエゴイズムの人間ではなく、真にあるべき共同体の精神を身につけた人間だからです。問題は、その実現を国家による市民社会の規制としてとらえるのか、それとも市民社会そのものを変革すべきなのか、というちがいが両者の間にあるのです。
 以下、こうした問題意識を持ちつつ、本題に入っていくことにしましょう。

 

二、市民社会とは何か

市民社会は強制国家(第一八二~一八四節)

 「特殊的人格としての自分が自分にとって目的であるところの具体的人格が、もろもろの欲求のかたまりとして、また自然必然性と恣意との混合したものとして、市民社会の一方の原理である。――ところが特殊的人格は、本質的に他人のこのような特殊性と関連している。したがってどの特殊的人格も、他の特殊的人格を通じて、そしてそれと同時に、まったく普遍性の形式というもう一方の原理によって媒介されたものとしてだけ、おのれを貫徹し満足させるのである」(第一八二節)。
 市民社会は、「欲求のかたまり」としての「特殊的人格」、つまり個々人が自由な経済活動を展開する特殊性を原理とする社会です。しかし、社会において、人間が生きていくためには、自分の欲望をそのまま他者に押しつけることはできませんから、他者との間に一定の経済的、社会的諸関係を結ばなくてはなりません。そのかぎりでは、個々人の欲望も「普遍性の形式というもう一方の原理」、つまり経済法則や法律という社会規範のもとで、これらの普遍性の原理に媒介されて、おのれを満足させることになります。普遍性の原理を無視したのでは、おのれの欲望を満足させることもできないのです。いわば、「特殊性は普遍性という制約に縛られて」おり、「各特殊性はこれによっておのれの福祉を促進させるのである」(同、追加)。
 ヘーゲルは、市民社会を「外的国家」、「強制国家および悟性国家」(第一八三節)とよんでいます。市民社会は、なによりも「欲求のかたまり」のぶつかりあう社会であり、特殊性と普遍性とは分離しています。そしてその特殊性は、普遍性の法則という必然性に強制されて、止むなく普遍性に従うのであって、特殊と普遍との統一の関係は、後に国家のところでのべるように自由な関係ではないところから、市民社会を外的国家、強制国家とよんだのです。
 こうして市民社会においては、特殊性と普遍性という二つの契機には、「それぞれ独自の現存在」(第一八四節)が与えられ、特殊性は特殊性、普遍性は普遍性としてそれぞれ独自に機能することになります。
 「すなわち特殊性には、あらゆる方面に発展して思いのままに活動する権利を授け、普遍性には、普遍性こそ特殊性の根拠であるとともに必然的形式であることを実証し、なおまた特殊性とそれの究極目的とを支配する威力であることを実証する権利を授ける」(同)。
 先に、自由と必然の関係をみてきました。ヘーゲルのいう必然性というのは、法則性と同じような意味合いです。経済法則や法律といった普遍性は、「必然的形式」を持つ「掟と機構」(第一四四節)として、個々人の特殊的人格を「支配する威力であることを実証する」のです。
  特殊性と普遍性の「それぞれ独自の現存在」というのは、「市民社会においては、特殊性と普遍性とは離れ離れになっていながら、それでもなお両者は、相互に結びつけられ、相互に制約しあっている」(第一八四節、追加)という関係にあることを、そう表現したのです。
 
特殊性の権利のもたらすもの(第一八五節)

 それでは、まず特殊性を普遍性から切り離して、独立に考察してみることにしましょう。
 先に、道徳のところで、こうした「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利」は、「主体的自由の権利」であり、これが「古代と近代との区別における転回点かつ中心点」(第一二四節、注解)をなすことを学びました。
特殊性の権利、主体的自由の権利を認めることは、近代的自我としての自由な人格と自由な経済活動との承認を意味しており、個人の尊厳という人間の本質的在り方を示す重要な意義をもっています。しかし、この主体的自由の権利は、他方でマルクスの批判する「利己的な人間の自由」となるのであって、倫理的共同体としての社会を解体し、社会に厳しい階級的差別と対立を生みだすことになるのです。
 「特殊性はそれだけになると、一方では、あらゆる面で解き放たれて、おのれのもろもろの欲求、偶然的恣意、主観的な好みを自由奔放に満足させるから、こうした享楽において、おのれ自身とおのれの実体的概念を滅ぼしてしまう」(第一八五節)。
 この箇所を読むとき、『資本論』の「〝大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!〟これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである」(『資本論』②四六四ページ/二八五ページ)を思い起こす人もいるでしょう。
 これに続く箇所は、さらに鋭く資本主義の矛盾を告発するものとなっています。
 「市民社会はこうした対立的諸関係とそのれ合いにおいて、な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す」(第一八五節)。
 これも、『資本論』の次の文章を思い起こさせるものです。
 「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」(『資本論』④一一〇八ページ/六七五ページ)。
 
ヘーゲルのプラトン「国家」批判

 しかし、ヘーゲルのすごいところは、個人の尊厳をもたらす主体的な自由の権利が、それだけではこうした「倫理的な頽廃」をもたらすとしながらも、他方で、それでは特殊性を否定し、普遍性のみが支配すれば真にあるべき社会になるのかといえば、そうではないとして、プラトンの主著『国家』の批判をしているところにあります。
 ヘーゲルの『法の哲学』は、これまでの歴史に登場した国家・社会論、とりわけプラトンの『国家』とルソーの『社会契約論』を意識しつつ、これを止揚するものとして著わされたものといっていいでしょう。
 これまでのところ、『法の哲学』の序文、第四六節注解、そして第一八五節注解の三カ所でプラトンの『国家』についての論評がなされていますので、ここでまとめてとりあげておきましょう。
 プラトンは、そのイデア(理念)論にもとづいて、「真にあるべき政治国家とは何か」という、政治と国家の理念を探求しています。
 「彼の理念のきわだった特徴の中心をなす原理が、まさしくその当時、世界の切迫している変革の中心となった軸であるということによって、プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである」(序文)。
 「世界の切迫している変革の中心となった軸」とは、キリスト教のことです。ヘーゲルは、人間はその真実の本質をイデアという精神のうちにもち、そのイデアが現存在になることを普遍的な原理にしたものがキリスト教であるととらえ、プラトンのイデア論がここに生かされたと評価したものです。
 プラトンの真にあるべき国家では、財産と妻子の共有という普遍的原理が支配すべきだとされ、また諸個人が国家、社会のなかでどの身分に属し、どんな職業につくべきかも、国家の統治に当たる統治身分という普遍者が決定すべきものだと考えることによって、近代的な主体的自由の権利を否定しました。ヘーゲルは、こうしたプラトンの国家体制を、普遍性が特殊性を否定するものとして批判したのです。
 すなわちプラトンは、「私的所有と家族というそれの端緒形態においてまで排除し、さらにはそのもっと発達した形態においては個人自身の恣意や身分の自己選択などとして完全に排除した」(第一八五節、注解)。
 「プラトン的国家の理念は、私的所有ができないという、人格にたいする不法を普遍的な原理としてふくんで」おり、「精神の自由と法ないし権利との本性を見そこな」うものだというのです(第四六節、注解)。
 このプラトン的国家の理念は、ギリシアのポリス(都市国家)から学んだものでした。しかし、すべてのものは、現実世界にあって、特殊と普遍の統一として存在しているのであって、社会や国家において特殊性を一切否定し、普遍性一色に塗りつぶすことは、「夢想」の世界となってしまうものです。
 「この欠陥のゆえに、彼の国家のすぐれた実体的真理でさえも誤解されて、この国家は通常、抽象的思想の夢想とみなされ、またしばしばまったく理想と呼びならされているところのものとみなされるのである」(第一八五節、注解)。
 すでに、ギリシアのポリスにおいても、主体的自由という特殊性を求めるさらに深い原理が浸透しつつありました。しかし、プラトンは、それをギリシア的倫理を滅ぼすものとして、頭から否定してしまったのです。
 「それによって彼はギリシア的倫理のさらに深い衝動、自由な無限の人格性を、まさしく最も深く傷つけた」(序文)。
 あくまでも、国家・社会において、主体的自由は、人間の本質に根ざすものとして保障されなければなりません。しかし他方で、主体的自由という特殊性は、「肉体的かつ倫理的な頽廃の光景」(第一八五節)を生みだします。
 このことによって、主体的自由という特殊性は、排除されるのではなくて、倫理的一体性という普遍性と調和されねばならないのです。
 ヘーゲルは、この調和をもたらすものこそ、国家であるべきだととらえたのです。
 「この放埒な享楽と窮乏との紛糾状態は、この状態を制御する国家によってはじめて調和に達することができる。プラトンの国家は特殊性を排除しようとしたが、それはなんの役にもたたない。というのはこうした救助策は、特殊性を解き放って自由にするという理念の無限の権利と矛盾するであろうからである。キリスト教においては、とりわけ主体性の権利が対自存在の無限性と同じように芽を出した。しかし主体性の権利が芽を出した場合には、全体性はそれと同時に、特殊性を倫理的一体性と調和させる強さを手に入れなくてはならない」(同、追加)。

ヘーゲルのプラトン批判の現代的意義

 このヘーゲルの批判は、旧ソ連や東欧の国家体制への批判にもつながるものがあります。
 旧ソ連や東欧では、マルクス、エンゲルスのプロレタリアート執権論が、誤ってとらえられ、一党支配の国家体制がつくられました。その結果「社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」(日本共産党新綱領)。
 つまり、旧ソ連や東欧の一党支配国家体制のもとでは、国家の普遍的原理が、一切を覆いつくして個々人の特殊性を排除してしまい、この「特殊性を解き放って自由にするという理念の無限の権利」、「自由な無限の人格性を、まさしく最も深く傷つけ」ることになってしまったのです。
 マルクスが、社会主義・共産主義の社会を、生産手段を社会化し、生活手段については個人的所有を再建するととらえたことは、先にもお話ししたところです。ここには、私的所有に関する見事な特殊性と普遍性の統一をみることができます。生活手段については、特殊性を保障しつつ、生産手段は、社会化(普遍化)することによって、所有における特殊と普遍の統一を完成したのです。
 しかし、マルクスにおける特殊と普遍の統一は、あくまで私的所有に関してのみであり、「ユダヤ人問題によせて」において、「その個人的な関係において、類的存在となったとき」に「はじめて、人間的解放は完成」(全集①四〇七ページ)されるといってはいるものの、ヘーゲルが問題にしている倫理的共同体における特殊と普遍の統一にまで明確に踏みこんだものとはなっていません。
 ここに、わたしたちが、ヘーゲルの市民社会論から学ぶべき課題があるように思います。
 ヘーゲルは、特殊性と普遍性の統一をもたらすものは、最終的には国家だと考えているのですが、しかし同時に市民社会内部に、特殊性を規制し、普遍性を実現する契機を見いだしていることにも注目しなければなりません。