『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一四講 教養および欲求の体系

一、陶冶としての教養

精神の陶冶(第一八六~一八七節)

 今日は「市民社会」の総論の部分の残りを講義し、引き続き各論としての「欲求の体系」に入っていきます。
 前講で、市民社会において特殊性と普遍性とは区別されつつ、統一されていることをみてきました。それを市民社会を構成する諸個人を中心に考えてみた場合、諸個人の特殊性を普遍性にまで高めることが、「人格の陶冶」とよばれ、人格を陶冶することが、「教養」とよばれています。諸個人は、人格を陶冶することによって人間の尊厳を高めていくことになります。
 市民社会における特殊性は、普遍性という制約に縛られており、「この普遍性においてのみ特殊性の原理は、おのれの真理とおのれの積極的現実性の権利」(第一八六節)をもちます。
 つまり、特殊性は、おのれを普遍性という形式に高めることによってのみ、おのれの真理と現実性を獲得することができるのです。自然や社会の必然性(法則性)という普遍性を無視して、おのれの欲求を満足させようとすると、これらの必然性によって手痛いしっぺ返しを受け、欲求を満足させることもできないのです。
 「諸個人の目的は普遍的なものによって媒介されているから、彼らの目的が彼らによって達成されうるのは、ただ彼ら自身が彼らの知と意志のはたらきと行動とを、普遍的な仕方で規定し、彼ら自身をこの連関の鎖の一環たらしめるかぎりにおいてだけである」(第一八七節)。
 したがって、諸個人の特殊的な目的を実現しようと思えば、特殊的意志を普遍性の形式にまで高めていくこと、つまり諸個人の自然的精神を概念としての精神の形式に高めることが必要となってきます。それが人格の陶冶としての教養です。
 第五七節でも人格の陶冶を学んできました。そこをもう一度ふりかえってみると、その出発点となったのは、「人間は、彼自身における直接的現存在からいえば、一つの自然的なものであり、彼の概念にとって外的なものである」(第五七節)というところにありました。人間は、生まれながらの自然的存在としては、人間の真にあるべき姿(概念)にとって外的なもの、つまり真にあるべき姿から遠く離れた存在でしかありません。自然的存在から、人間の概念に向って自己を高めていくことが、人格の陶冶という問題なのです。こうして人格を陶冶していくところに、人間の尊厳があり、「人間の最高のことは、人格であることである」(第三五節、追加)とされる所以があるのです。
 しかし、第五七節では、まだ人格の陶冶といっても、「人間は、彼自身の肉体と精神をつくりあげる」ことによって「自分を占有取得し、彼自身の所有」とするという、精神が肉体をわがものとし、自在に操れるように精神の支配下におくというレベルの問題にとどまっていました。
 これに対して、第一八七節では、精神そのものの陶冶という、よりレベルの高い人格の陶冶が問題になっているのです。
 ヘーゲルは、まず「精神の本性と理性の目的」(第一八七節、注解)に関する二つの誤まった見解を批判するところからはじめます。
 一つは、「自然状態を無垢と見、未発達の諸民族の習俗を純粋と見る考え方」(同)です。
 これは、ルソーを含む自然法学者の見解を批判したものであり、人間の生まれたままの自然的精神をそのまま肯定することになれば人格の陶冶を必要としなくなってしまうではないかと批判しているのです。
 もう一つの考えは、「もろもろの欲求、それの満足、個人特有の生活の享楽とこの生活を快適にしてくれるものなどを、絶対的諸目的とみなす説」(同)です。
 これは、肉体的満足をうるものをそのまま精神のうえでも肯定し、それによって客観世界に精神を埋没させてしまうことを肯定する考えです。変革の立場から、精神の自由な働きによる人格の陶冶に人間の本質をみるヘーゲルからすれば、この考えをとうてい受け入れることなどできません。

精神の有限性の克服(第一八七節、注解)

 「精神が現実性をもつのはただ、精神がおのれ自身のなかでおのれを分裂させ、もろもろの自然的欲求とこれの外的必然性の連関とのなかで、おのれにこの制限と有限性を負わせ、そしてまさにおのれを陶冶してこの制限と有限性のなかへ身をおくことによってこれらを克服し、これらにおいておのれの客観的現存在を獲得するということによってだけである」(同)。
 精神は、おのれを陶冶して、精神の自然状態という制限を克服し、市民社会に埋没するという有限性を克服し、普遍性を身につけることによって、はじめて精神としての現存在を獲得する(精神の概念にふさわしい精神となる)のです。
 「それゆえ理性の目的は、右の習俗の自然的純朴さでもなければ、特殊性が発達するにつれて文化によって得られるところの享楽そのものでもなくて、自然的純朴さが労働によって取り除かれるようになることである」(同)。
 ここで、「労働」という言葉が出てきましたが、これは肉体的労働だけではなくて精神的労働をも意味しており、言い換えれば、「学習」ということです。人間は学習によって、おのれを陶冶し、精神の「自然的純朴さ」を克服して、人間としての尊厳を高めていくのです。
 「すなわち一面では、自己を意識しない受動的な状態が克服され、他面では、知識と意志の未熟状態、つまり精神がすっぽりはまり込んでいる直接性と個別性が克服されることであり、そしてさしあたってはこうした精神の外面性が、それの受け入れうる理性的本性、つまり普遍性の形式、悟性的分別を手に入れることである。このようにしてのみ精神は、この外面性そのものにおいておのれの家郷にいるのであり、おのれ自身のもとにいるのである」(同)。
 「精神の外面性」というのは、精神が内心にとどまっているのではなくて、客観世界と向きあい、対峙しあうことを意味しています。ちょうど、第五七節で、精神が自己の肉体を占有取得したのと同様に、精神は客観世界と対峙し、客観世界の普遍性、法則性をわがものとして取得することが、理性の目的なのです。これが第四講で学んだ普遍的自由というものです。だから、この「普遍性の形式」を手にいれることにより「精神は、この外面性そのものにおいておのれの家郷にいる」ような、安心立命の境地に至るのです。

教養は解放(同)

 「だから陶冶としての教養とは、その絶対的規定においては解放であり、より高い解放のための労働である。すなわちそれは、倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための、絶対的な通過点なのである」(同)。
 ヘーゲルは、客観世界の普遍性をわがものとする精神の陶冶を「教養」としてとらえています。
 その教養を「解放」とよんでいるのは、この普遍的自由の獲得により、客観世界の必然性に盲目的に支配される状態から解放され、人間が、人間らしさを実現し、人間の尊厳を確立していくからです。また「より高い解放」のための「絶対的な通過点」というのは、この普遍的自由からさらにすすんだ概念的自由を手に入れることにより、客観世界そのものを変革し、自己の支配下におくことによる真の人間の解放、真の人間の尊厳の確立への通過点を意味しているのでしょう。
 科学的社会主義の学説としての史的唯物論は、人間社会とその歴史の普遍性をわがものとし、その必然性への従属からの解放をめざす人間解放の学説です。これによって、社会全体を土台と上部構造という構造と骨格をもった有機的一体性においてとらえることが可能となり、また原始共同体を除いて、これまでの歴史は階級闘争の歴史であることを明らかにしました。この階級闘争の理論は、社会の動きを個々の人間においてではなく、諸階級の対立と相互関係においてとらえる階級的観点により、社会の個々の現象をマクロ的、包括的にとらえることを可能にしました。そして、資本主義社会の矛盾を止揚するものとしての社会主義・共産主義の社会への発展の展望を明らかにしたのです。
 こうした科学的社会主義の学説によって、はじめて社会そのものの探究を科学の対象とし、この探究をつうじて真理に接近することができるようになったと同時に、実践を媒介とする社会の合法則的変革が可能となったのです。
 ヘーゲルのいう「陶冶としての教養」は、客観世界の普遍性をわがものとする労働一般を意味していますが、科学的社会主義の学説を学ぶことが、「陶冶としての教養」となることに疑問の余地はありません。 
 ヘーゲルは、この教養を、人間が人間として解放されるための労働であり、しかも「より高い解放のための労働」であるといっています。それは、人間の精神を、その自然的状態からも、また客観的世界に埋没した状態からも解放するというにとどまらず、さらにこの客観世界を真にあるべき世界にむけて変革する力とするという意味においても「より高い解放のための労働」といっているのです。それは、ヘーゲルがそれに続けて、「普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための、絶対的な通過点なのである」といっていることからも明らかです。「無限に主体的な実体性」とは、社会を限りなく変革する主体となりうる精神という意味でしょう。科学的社会主義の学説は、この点まで含めた「陶冶としての教養」となっています。

厳しい労働(同)

 この学習によって教養を身につけることは決して容易なではなく、それは「厳しい労働」なのです。
 「この解放は(個々の)主体においては、動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけではなく、感情の主観的な自惚れや個人的意向の気まぐれをも克服しようとする厳しい労働である。解放がこのような厳しい労働であるということこそ、それが嫌われることの理由の一部である。しかし陶冶としての教養のこの労働によってこそ、主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって、この客観性においてのみ、主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し、理念の現実性たりうるのである」(同)。
 科学的社会主義の学説を学習することは、確かに「厳しい労働」であり、「それが嫌われることの理由の一つ」となっていることも否定できませんが、同時にそれは、真理に無限に接近する喜び、自己をより高く解放することの生きる喜びにつながっていることも強調しておきたいと思います。主観的意志が、「理念の現実性」となることこそ、もっとも人間らしく生き、またより善く生きることになるのです。 
 ヘーゲルは、「特殊性は、労働と陶冶によっておのれを作りあげ高めあげて」、「無限に対自的に存在する自由な主体性」にまで発展させるところに、「陶冶としての教養の無限の価値」(同)があるといっています。客観世界の普遍性をわが掌中のものとすることによって、客観世界に盲目的に支配され、従属する状態から解放され、さらには概念的自由にまで到達することによって、人間は無限に自由な主体、人間としての尊厳を身につけた主体となるのです。
 最後に、教養を身につけ、普遍性をわがものとするとは、どういうことをもたらすのかについて、面白い記述がありますので、紹介しておきます。
 「無教養の人は、ただ、勝手気ままにふるまうばかりで、他人の感情を省みないから、とかく他人の心を傷つけることになる。彼は他人を傷つけようと思っているわけではないが、彼の言動は彼の意志と一致しないのである。それゆえ教養とは、特殊性の圭角をりおとして、特殊性がことがらの本性にしたがってふるまうようにすることである。真の独創性は、ことがらの本性に合った本物を作り出すものであるから真の教養を求めるが、偽の独創性は、無教養の人たちにしか思いつかないような愚にもつかぬことどもを受け入れる」(第一八七節、追加)。
 科学的社会主義の学説を学び、合法則的な活動スタイルを身につけることは、「特殊性の圭角を磨りおとし」、事物の本性にしたがってふるまうことを可能にすると同時に、社会主義・共産主義という「本性に合った本物」の未来社会を作り出す「真の独創性」を発揮することになるのです。

 

二、欲求の体系

課題は経済法則の探究(第一八八~一八九節)

 さて、以上を「市民社会」の総論とし、いよいよ各論に入っていきます。市民社会は、A「欲求の体系」、B「司法活動」、C「福祉行政と職業団体」の三つの契機を含んでいます(第一八八節)。全体として、意志の特殊性と普遍性の形式との相互関係が論じられることになります。「欲求の体系」が特殊性の側面であり、「司法活動」、「福祉行政と職業団体」とが普遍性の側面となります。
 「特殊性はまず、総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして、主観的欲求である」(第一八九節)。
 市民社会における諸個人は、資本主義経済社会の土台のうえにたつ主観的欲求の持ち主として登場します。彼らは、いまや自己の労働生産物の所有者、つまり商品所有者として登場し、所有物を交換することにより、主観的な欲求の満足をえようとして待機しているのです。
 「主観的欲求の目的は主観的特殊性を満足させることであるが、しかし他の人々の欲求と自由な恣意とに関連して普遍性がしてくるから、この有限性の圏への理性的本性のこのような映現が悟性なのである。この悟性が考察の眼目となる面であり、この圏自身の内部でをもたらすものをなす面である」(同)。
 こうして諸個人は、その労働および労働生産物の交流を通じて、他の人々と一定の経済的諸関係を結ぶことになりますが、そこから生じてくる普遍性が、「悟性」としての資本主義の経済法則であり、この法則の探究という経済学が市民社会の考察の眼目となります。私益の追求が公益を達成するというスミス流の予定調和論に立って、資本主義は、「内部での宥和をもたらす」ととらえているのは、ヘーゲルの限界を示すものといっていいでしょう。
 ヘーゲルは、「食べること、飲むこと、着ることなどのような一般的欲求」が「どのようにして満たされるかはまったく偶然的事情による」ものであるが、「この一見ばらばらで無思想に見える」ものは、「一個の必然性によって支えられ」ているのであり、「この必然的なものを発見することが国家経済学の目的であって、国家経済学は、大量の偶然事にかんしてもろもろの法則を見いだすのであるから、思想の栄誉になる学である」(同、追加)といっています。 
 ヘーゲルの市民社会論は、経済法則を探究するうえで一定の先駆的役割を果たし、マルクスの『資本論』にも大きな影響を与えました。資本主義的生産様式の経済法則の詳細は『資本論』で学んでいただくことにして、ここでは、「欲求の体系」にみられる資本主義批判の鋭い指摘を中心にとりあげておきたいと思います。むしろ市民社会論でもっとも学ぶべき箇所は、市民社会の特殊性を規制する普遍的形式としての「福祉行政と職業団体」です。したがってそこまでのところは必要最小限度の検討にとどめておくことにします。

富と貧困の対立(第一九〇~一九五節)

 まずヘーゲルは、人間と動物の欲求と満足の仕方のちがいを指摘します。
 「動物の欲求は制限されており、それを満足させる手段および方法の範囲も、同様に制限されている。人間もまたこうした依存状態にあるが、それと同時に人間はこの依存状態を越えて行くことを実証し、そしておのれの普遍性を実証する」(第一九〇節)。
 人間は、欲求においても、それを満足させる手段や方法においても、動物とちがって、自然的制約を打破り、普遍的に生産するのです。マルクスは、同様の趣旨を次のようにのべています。
 「たしかに動物も生産をする。……しかしそれは直接に自分もしくは自分の仔にとって必要なものを生産するだけである。それは一面的に生産をするのにたいして、人間は普遍的に生産をする。動物はただ直接的な肉体的必要に押されて生産をするのにたいして、人間自身は肉体的必要から自由な状態で生産をするし、そしてその必要から自由な状態においてこそほんとうの意味で生産をする」(全集㊵四三七ページ)。
 続いてヘーゲルは、市民社会で論じる人間は、シトワイヤン(公民)に対する意味での、ブルジョア(市民)という「表象にとっての具体的存在者」であり、「それゆえここではじめて、そしてまた本来ここでのみ、この意味での人間が問題になる」(第一九〇節、注解)としています。この箇所は、マルクスが、「聖家族」(全集②三七、三八ページ)で引用しているところです。人間は社会の生産諸関係のなかで、はじめて具体的な存在、社会的存在となるのです。
 普遍的に生産をする人間は、「特殊化されたもろもろの欲求にたいする手段も、また総じてこれらの欲求を満足させる方法も、同じく部分化され多様化され」(第一九一節)、生産手段や生産方法の多様化は無限に進行し、生活の快適さも無限に追求されることになります。
 ヘーゲルは、こうして、「欲求は、直接欲求している人々によって作り出されるよりもむしろ、その欲求が生じることによって儲けようとする人々によって作り出される」(同、追加)として、ここに「生産のための生産」という資本主義的生産様式の本質を見いだしています。
 さらにヘーゲルは、この「生産のための生産」による欲求を満足させる手段・方法の多様化には限界がなく、その結果は階級対立を生みだすとみているのです。
 「もろもろの欲求や手段や享楽をとめどなく多様化し種別化する社会的には、自然的欲求と文化的欲求との差違と同じように、限界がない。この社会的趨勢は――一方ではである。しかし他方ではこの趨勢は、依存と窮乏との同じく無限な増大化である」(第一九五節)。
 ここで、「自然状態における人間は自由のうちに生きているのではないか」(第一九四節、注解)というルソーなどの自然法思想を批判して、「労働のうちにある解放の契機」について語っているのは、なかなか面白いものがあります。
 「これが誤った考え方であるのは、自然的欲求そのものや、自然的欲求を直接的に満足させるということは、精神が自然のなかへすっぽりはまり込んだ」不自由な状態にすぎず、「自由は、精神的なものが、……おのれを自然的なものから区別し、そしておのれを自然的なものに反射させることのうちにのみ存するからである」(同)。
 つまり、労働は、自然に働きかけ、自然をつくりかえるのですが、そのことによって、精神は、自然に埋没した状態からぬけ出し、精神を自然に反射させることによって自由になり、自然から解放されるというのです。これに対して、自然法思想は、自然に埋没した不自由な精神を、自由なものとみているとして批判しているのです。労働の問題にもヘーゲルの自由論が反映されているのをみることができます。

ヘーゲルの「平等論批判」(第一九九~二〇〇節)

 ヘーゲルは、ちょうど家族において家産という共有財産が生まれるのと同様に、全面的な相互依存の市民社会においては、社会の普遍的な資産が形成されるとしています。 
 「万人の依存関係という全面的からみ合いのなかに存するこの必然性が今や、各人にとって普遍的で持続的な資産なのであり、各人は、自分の教養と技能によってこれに参与してその配分にあずかり、自分の生計を安全にする可能性を与えられている。――それとともに他方ではまた、各人の労働によって媒介されたこの取得が、普遍的資産を維持増大するのである」(第一九九節)。 
 この「普遍的で持続的な資産」というのは、社会的総生産物という意味でしょう。
 問題は、「普遍的資産に参与して、その配分にあずかる可能性」(第二〇〇節)としての個人資産に関するヘーゲルの見解です。
 ヘーゲルは、個人の資産は、「一つには彼のもちまえの直接的な基礎財産〔資本〕によって、また一つには彼の技能によって制約されている」(同)との立場から、個人資産は平等であるべきであるとする自然法思想の批判をしています。 
 「理念のなかに含まれている精神の特殊性の客観的権利は、自然〔不平等の本来の〕によって定められている人間の不平等を、市民社会において廃止しないばかりか、むしろそれを精神からも産出して、技能や資産の不平等へ、さらには知性的教養や道徳的教養の不平等にさえ高める。こうした精神の特殊性の権利に平等性の要求を対置することは、平等というこの悟性的抽象と悟性的当為を実在的で理性的なものと思う空虚な悟性のなすことである。普遍的なものについて誤った考えをいだくこの特殊性の圏は、このように普遍的なものとのただ相対的な同一性のうちにあるにすぎないから、自然的特殊性を恣意的特殊性と同じ程度におのれのうちにとどめており、したがって自然状態のをおのれのうちにとどめている」(同、注解)。
 ヘーゲルは、特殊性の原理の支配する市民社会において、あるべき分配は平等な分配ではないといっています。というのもヘーゲルにとって生産者が自らの自由な経済活動により労働生産物を取得するのは、自由な人格が自己の意志を、労働をつうじて置き入れることによる人格との一体化によるものだからです。
 もろもろの知識、熟練、能力などは、その人格(自由な精神)にとって固有のもの(第四三節参照)ですから、人格によってこれらの諸能力にちがいがあることは、当然のことといえます。第一八七節で、陶冶としての教養を学びました。精神は、厳しい労働をつうじて自分自身を高め、「無限に対自的に存在する自由な主体」に作りあげていきます。精神は、おのれの制限と有限性を陶冶して克服することにより、客観的現存在を獲得するのです。
 だから、ヘーゲルは、人間の不平等は、「理念のなかに含まれている精神の特殊性の客観的権利」(第二〇〇節、注解)だといっています。したがって市民社会においては、人間の自然的不平等は廃止されないばかりか、「むしろそれを精神からも産出して、技能や資産の不平等へ、さらには知性的教養や道徳的教養の不平等にさえ高める」(同)のです。
 自然的能力の不平等に加えて、教養による不平等が付加されるところから、分配における平等の要求は、精神の特殊性の権利を否定するものでしかないとされています。
 「こうした精神の特殊性の権利に平等性の要求を対置することは、平等というこの悟性的抽象と悟性的当為を実在的で理性的なものと思う空虚な悟性のなすことである」(同)。
しかし、ヘーゲルは、市民社会におけるあるべき分配論を平等分配論ではなく、能力に応じた分配論であるべきだとしながらも、他方では、それが貧富の対立を生みだすものであることを指摘しています(後述する第二四四節)。
 そして「社会関係にあっては、貧苦はたちどころに、どれかの階級に加えられる不法の形式をとる。いかにして貧困を取り除くべきかという重大問題こそ、とりわけ近代社会を動かし苦しめている問題なのである」(同、追加)として、貧困は「不法」であり、解決されるべき重大問題としてとらえています。能力に応じた分配は当然であるが、かといって貧困を生じさせてはならない、ここにヘーゲルのみつめる市民社会の根本的矛盾のあらわれがあるのです。

未来社会の分配論を考える

 では、未来社会の分配論はどうあるべきでしょうか。ヘーゲルはこの問いには、直接答えていません。
 日本共産党新綱領は、これまでレーニンが定式化していた共産主義社会の二段階発展論を、生産物の分配方式のちがいによって社会の発展段階を区別するものであるとして批判し、未来社会を、生産手段の社会化を中心とする社会主義・共産主義の社会として一本化しました。
 レーニンの二段階発展論というのは、マルクスが「ゴータ綱領批判」(全集⑲一五ページ以下)において、未来社会を、生産物の分配という角度からみると、〝能力におうじて働き、労働におうじて受けとる〟という原則が実現される「第一段階」と、〝能力におうじて働き、必要におうじて受けとる〟という原則が実現されるようになる「高い段階」とに分けられるとしたことをとらえ、この「第一段階」を社会主義社会、「高い段階」を共産主義社会と呼んだものですが、このことが問題とされたのです。
 マルクスは、未来社会のあり方の中心問題を生産手段の社会化にあると考えており、分配問題を中心において論じる考え方をきびしく戒めていたにもかかわらず、レーニンが、分配問題を中心に未来社会を規定しようとしたために批判されるところとなったのです。
 しかしこのように、分配問題を中心に未来社会のあり方を論ずる二段階発展論が誤りであるということは、未来社会の分配論を論じる必要がなくなったことを意味するものではありません。
 エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、史的唯物論における生産と分配との関係について、生産が分配を規定するものとしてとらえています。    
「唯物史観は次の命題から出発する。すなわち、生産が、そして生産についではその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であり、歴史上に現われるどの社会においても、生産物の分配は、それとともにまた諸階級または諸身分への社会の区分は、なにを、どのようにして生産するか、そして生産されたものをどのようにして交換するかによってきまるという命題である」(全集⑲二〇六ページ)。
 マルクスも、また「ゴータ綱領批判」のなかで「いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果に過ぎない」(同二二ページ)から、「分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方」(同)を俗流社会主義として批判したのです。
 マルクスのいう「生産諸条件の分配」というのは、生産手段が社会の諸階級の間にどのように分配されている
かということを意味しています。
ここでエンゲルスが、生産物の分配が「諸階級または諸身分への社会の区分」をもたらすと指摘していることに注目する必要があります。諸階級は、社会的生産物の分配の大きさのちがいによっても区分されるのであり、階級の廃止は、「分配の大きさのちがい」の廃止をも意味しているからです。
 またエンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで、資本主義の基本矛盾を「社会的生産と資本主義的取得」(同二一〇ページ)に求めています。この場合の「取得」とは「生産物の取得」、つまり分配を意味しています。資本主義的生産様式のもとでは、生産は社会的になったものの、分配は資本主義的分配のままに残されているとして、分配の不平等がそのまま存続することを資本主義の基本的矛盾としてとらえたのです。
 ですから、未来社会における生産手段を社会化し、搾取を廃止するという生産様式の変更は、分配上の不平等を解決することによる階級の廃止という分配論に結びついているのです。
 エンゲルスは、共産主義は、「ほんとうの自由とほんとうの平等」(全集①五三〇ページ)を求めて登場してきたものであり、社会主義・共産主義の社会を「生産者の自由で平等な協同団体を基礎にして生産を組織しかえる社会」(全集㉑一七二ページ)といっています。この意味では、社会主義・共産主義の社会を、生産手段の社会化によって規定される生産物の平等な分配の社会ととらえているのです。
 日本共産党綱領でも、社会主義・共産主義の社会は、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」と規定しています。
 綱領で未来社会を論ずるにあたって、青写真主義をいましめる立場からすれば、綱領のうえでは、分配論に関して、「真に平等」な共同社会というだけで十分でしょう。しかしその場合でも、「真に平等な」共同社会とは何か、を議論しておく必要はあるように思います。
マルクスの「ゴータ綱領批判」における、未来社会の二段階分配論は、詳しくは次のようなものです。すなわち「生まれたばかりの共産主義社会」(全集⑲一九ページ)の分配は、搾取がなくなることにより、その分配されるべきものは当然増大することにはなるものの、労働におうじて分配を受けるという「ブルジョア的制限につきまとわれている」(同二〇ページ)のに対し、「共産主義社会のより高度の段階」(同二一ページ)においては、「各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて」(同)分配され、能力的不平等も解消される、というのがマルクスの見解です。
 つまり、能力におうじて分配されるという分配方法は、「生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている」(同二〇ページ)分配方法でしかないのに対して、生産力の十分に発展した未来社会においては、必要におうじて分配されるという分配方法が真にあるべき分配方法とされているのです。
 なお不破氏は、「労働に応じて」から「必要に応じて」へと発展するマルクスの分配論は、「この時点での試論とみるのが適当ではないか」(『マルクス未来社会論』七八ページ、新日本出版社)と述べていますが、エンゲルスが「ゴータ綱領批判」作成の一五年後に、もう一度これを読み直したうえで(全集㊳六九ページ以下)、自信をもって綱領論争のために発表していることからすると、マルクス、エンゲルスの公式の分配論として理解しうるのではないでしょうか。
 以上、ヘーゲルとマルクスの分配論をふまえて、真に平等な分配方法とは何か、を考えてみましょう。
 日本共産党の未来社会論は、「市場経済を通じて社会主義に進む」、「計画性と市場経済とを結合させた弾力的で効率的な経済運営」を探究するところにあります。市場経済には需要と供給を調節する独特の機能があるところから、社会主義的な計画経済のもとにあっても、市場経済は、何をどのくらい生産するのかという生産計画の前提としての位置づけがなされているのです。
 市場経済を残すことは、価値法則にもとづいての商品交換も残ることになり、したがって労働力についても価値法則が働くことを意味しています。となれば、労働に応じた分配という要素も残らざるをえません。
 しかし、搾取を廃止して社会から貧困をなくすためには、まず全ての人民に対し、健康で文化的な生活に必要な最低限度のものがまず保障されなくてはなりません。いわばすべての個人に適用される全国一律最低賃金制とそれに呼応した社会保障制度により、まず「必要におうじた」分配が社会的分配の土台とならねばなりません。その「必要におうじた」分配がなされたうえに、さらに生産物の余剰があれば、労働力の価値をも考慮した「労働におうじた分配」が加算されることになるのではないでしょうか。
 結局、未来社会においては、社会的総生産物のなかから、消耗した生産手段の補填分、追加分、社会保障、医療、教育などの社会の共同の利益分などを控除した残りから、まず、「必要におうじた」最低賃金部分が分配され、なお残りがある場合に「労働におうじた」分配がなされることが「真に平等な」分配となるのではないかと思われます。
 そして生産力が高まるにつれ、「必要におうじた」分配部分も嵩上げされると同時に、「必要におうじた」部分に比し「労働におうじた」部分の比率が増していくことになるのではないでしょうか。
 いずれにしても、もっと研究し、議論すべき課題だろうと思われます。