『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一五講 市民社会から国家へ

一、司法活動

権利能力の主体から基本的人権の主体へ(第二〇八~二〇九節)

 市民社会は、諸個人が生産・交換しあう経済圏であり、そこでは、生きた具体的諸個人の「欲求のかたまり」が交錯し合うことになります。マルクスは、「この市民社会があらゆる歴史のほんとうのであり、現場である」(全集③三二ページ)として、社会の土台をなすものととらえています。
 所有権に象徴される諸権利は、自己の自由な意志を置き入れたものとして、「自由の第一の現存在」(第四五節、注解)としての普遍性ですから、この普遍性は市民社会において特殊性を支配する威力として示されなければなりません(第一八四節)。つまり第一部の「抽象的権利」は、抽象的権利にとどまることなく、特殊性を支配する普遍性として、「市民社会」において現存在を与えられることになるのです。
 この所有を中心とする市民としての諸権利を権利として実現し、保護し、普遍性の威力を示すのが、権利・義務の関係を含む「司法活動」なのです。
 普通の考えからすれば、司法は国家権力の一部を構成するものですから、「市民社会」の問題ではなく、「国家」の問題だということになります。
 しかし、ヘーゲルは、フランスのブルジョア民主主義革命が、市民の要求から出発して、所有権の自由を中心に、自由と平等を宣言し、個々人の基本的人権を認めて、個人の尊厳をうちだしたことを、市民社会の生みだした「法」として高く評価し、この具体的法を保護する司法活動を市民社会の産物としてとらえているのです。
 「この欲求の体系の原理は、知と意志のはたらき自身の特殊性であるから、即自かつ対自的に存在する普遍性、すなわち自由の普遍性を、ただ抽象的に、したがって所有の権利として含んでいるにすぎない。しかしここでは所有の権利は、もはやただたんに即自的に存在しているのではなく、効力をもつところの現実性に達しており、司法活動による所有の保護として存在する」(第二〇八節)。
 分業化された社会での商品交換は、商品を媒介にして、具体的な人間と人間との関係を生みだし、ここに権利と義務が客観的現実性をもってあらわれてきます。その中心をなすのが「所有の権利」であり、所有権を侵してはならない権利として保護するのが法であり、その法を実現するのが司法活動ということになります。
 「もろもろの欲求もそれを満たす労働も、いずれも相互依存的関係にあるという相関的な秩序が、ひるがえってそれ自身の内面へと反省されると、さしあたりこの秩序はまず、総じて無限な人格性というかたち、〔抽象的な〕法というかたちをとる。ところでこの抽象的な法に現存在を与えるものこそ、この相関的秩序の圏、陶冶としての教養の圏そのものなのである。こうして抽象的な法は、普遍的に承認され、知られ、意志されたものとして存在し、このように知られ意志されているということによって媒介されて、効力と客観的現実性をもつのである」(第二〇九節)。
 「秩序の圏」とか「教養の圏」とかいっているのは、市民社会のことを指しています。市民社会において、第一部で論じられた抽象的な法は具体的な現存在を与えられることになります。
 第一部「抽象的な権利ないし法」においては、法の主体としての人格は、たんに抽象的な権利能力の主体としてあらわれるにとどまっていました。そのとき法の命ずるところは、「一個の人格であれ、そして他のひとびとをもろもろの人格として尊敬せよ」(第三六節)という、人間の尊厳を認め、人格の相互尊重を求めるにとどまっていました。
 しかし、市民社会における法の主体は、もはや抽象的な人格としてではなく、「普遍的に承認され、知られ、意志された」(第二〇九節)人格、つまり「普遍的人格」として登場してくるのです。「普遍的人格という点においては、すべての人が同一であるが、私がこうした普遍的人格として理解されるのは、陶冶としての教養のたまものである。すなわち個々人を普遍性の形式において意識するものとしての思惟のたまものである」(同、注解)。
 普遍的人格というのは、基本的人権の主体としての人格という意味でしょう。ヘーゲルのいう市民社会は、とりわけフランス革命を契機に人権思想が誕生し、フランス人権宣言をつうじて人間が人間であることによる人権、基本的人権が高く掲げられた社会としてとらえられているのです。
 ですからヘーゲルは、この「普遍的人格」に関して、「人間が人間とみなされるのは、彼が人間であるからであり、……思想がかかわるこうした意識は無限に重要である」(同)といっているのです。
 第一二四節で、「主体的自由の権利、これが古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」ことを学んできました。
 ヘーゲルにとって主体的自由の権利は、『法の哲学』全体をつらぬくテーマであり、真にあるべき未来社会を担う主体の権利という問題なのです。
 それは、つまり「思想によって正当とされていないものは、どんなものでも、心ぐみのなかで認めまいとすること、これは一つの偉大な我意、人間の名誉とされる我意」であり、「この我意こそ近代の性格の特徴をなすもの」(序文)だとされているのです。
 この主体的自由の権利は、市民社会のなかで、基本的人権をもつ普遍的人格として、現存在を獲得するに至り、ここに主体的自由にもとづく個性の開花した「個人の尊厳」が人権として承認されることになるのです。ヘーゲルが、「思想がかかわるこうした意識は無限に重要である」といっているのも、普遍的人格と個人の尊厳こそ、未来社会を担う適格性をもった人間にふさわしいものだからに他なりません。
 
司法の問題点

 第二一〇節から第二二八節までは、即自的な法と実定法の関係、法律の適用、法体系、訴訟などが議論されています。この箇所はいわゆる「法哲学」一般の対象ではあっても、ヘーゲル『法の哲学』の主題からするとあまり重要ではないので、骨子のみを紹介しておきます。
 まず「a法律としての法」では、本来の法(第二九節)と実定法との関係が論じられています。第二一一節は本来の法と実定法、実定法と慣習法、第二一二節では本来の法と実定法との差異、第二一三節では実定法の内容となるもの、第二一四節では法の適用がとりあげられています。
 「b法律の現存在」では、法律(実定法)とは何かが議論されます。第二一五節では法は知られなければならないこと、第二一六節では法律の有限性と無限性、第二一七節では権利における形式的手続き、第二一八節では犯罪の本質が論じられています。
 「c裁判」では、裁判による権利の回復が問題とされます。第二一九節は裁判の意義、第二二〇節では刑罰の本質、第二二一節では裁判を受ける権利、第二二二節では訴訟手続、第二二三節では和解と調停、第二二四節では裁判の公開、第二二五節では判決の意義、第二二六節では事実認定、第二二七節では裁判上の真理、第二二八節では訴訟当事者の自己意識の権利が論じられています。
 この自己意識の権利には、ヘーゲルの特徴がよく表れていますので、少し紹介しておきます。いま日本でも司法制度改革が日程にのぼっており、そのなかで、刑事裁判に国民を参加させる裁判員制度が実施されることになりました。ヘーゲルは、裁判を国民のものとするうえで、訴訟当事者が添えものにされないためには「主体的自由の契機である自己意識の権利」(第二二八節、注解)が保障されなければならないとして、次のようにのべています。
 「法律全体のありようを通しての法についての知識、さらには裁判の審理手続についての知識、そして法を追求する可能性、――これらが一身分だけの所有物であるということは、つまり自分の権利を守ろうとしている当事者に対して一種の外国語である専門用語を使ってまでも排他的にふるまう一身分だけの所有物であるということは、生計のために自分の活動と自分自身の知と意志のはたらきだけが頼りであるところの市民社会の成員が、最も人格的で最も固有のものに対してだけでなく、そのなかの実体的で理性的なものである権利に対しても局外者として扱われるということであり、また専門家身分の後見を受ける身とされ、専門家身分に対して一種の奴隷状態にさえおかれるということである」(同)。
 日本の裁判においても、司法の独立が事実上否定され、司法消極主義といわれる行政への従属、追随はもはや周知の事実です。自衛隊の海外派兵という明白な違憲行為さえ、裁判所はこれを事実上追認している有様です。裁判が、あたかも国民の世論や常識とは別の世界の、別の論理にもとづいて行われているような様相さえ呈している一つの理由に、国民が、法律家という「専門家身分に対して一種の奴隷状態にさえおかれる」事実をあげることができると思います。国民主権原理のうえにたつ裁判は、国民の前に開かれた、国民のだれもが納得のいく裁判でなければなりません。訴訟当事者が、法廷に「自分自身の知のはたらきをもって出席」することをもって「主体的自由の契機である自己意識の権利」としてとらえているヘーゲルの指摘は、重要な意味をもっていると思われます。
 さて、それはともかくとして、裁判による普遍性の実現は、あくまでも個別の事件をつうじての、個別的事例の枠内における普遍性の実現にとどまります。そこで、この普遍性を市民社会全体にまで押し広げていく体制が求められることになるのです。
 「こうした市民社会も、司法活動においてはおのれの概念へ、すなわち即自的に存在している普遍的なものと主体的特殊性との一体性へ連れもどされる。とはいえこの主体的特殊性は、個々の事件におけるそれであり、即自的に存在している普遍的なものは、抽象的権利という意味でのそれである。そこでこの一体性を特殊性の全範囲にまで拡張して実現するにさいし、それをまず相対的合一として実現することが福祉行政の使命をなすのであり、限られてはいるが具体的な総体性において実現するのが職業団体である」(第二二九節)。
 こうして、次の「福祉行政と職業団体」に入っていくことになります。
 福祉行政というのは、ポリツァイというドイツ語の訳です。ポリツァイは、ギリシア語のポリス(都市国家)を語源とするポリティア(都市国家の体制)に由来するものです。
 ポリツァイは、消極的には警察(ポリス)を意味しますが、ここでは、地方自治団体による社会保障政策一般を意味しています。
 社会保障の内容としてヘーゲルが提唱しているものをあげてみると、公共事業(第二三五節)、日常的生活必需品の価格規制(第二三六節)、失業対策(同)、義務教育の実施(第二三九節)、浪費者の後見(二四〇節)、救貧策(第二四一節から第二四五節)、植民政策(第二四八節)など、広範な領域にわたっています。特に第二四五節では、「一方では生産物があり余り、他方ではこれに釣り合った〔それ自身生産者である〕消費者が不足するということになるのであって、これがとりもなおさず禍の本質である」として、生産と消費の矛盾による恐慌の指摘までしているのには驚かされます。いずれにしても、ヘーゲルはこうした政策によって市民社会(資本主義社会)という市場経済のもたらす矛盾を解決しようというのです。
 ヘーゲルが、これを国家の政策としてではなく、市民社会の政策としているのは、市民社会をギリシアの都市国家にみられるように、自らを統治する自治組織として機能するものととらえ、その地方自治団体としての自治政策としてとらえられているからです。あえて今日的形態におきかえるならば、ポリツァイは、「住民自治の行政組織(地方自治体)のあるべき社会保障政策」ということができるでしょう。
 他方、職業団体というのは、ドイツ語のコルポラツィオンの訳です。コルポラツィオンは、都市の商工業身分において組織された職業団体のことです。マルクスも「ユダヤ人問題によせて」のなかで、「職業団体(コルポラツィオン)」が普遍性をもった団体であるといっていますので、当時のドイツでは具体的イメージがあったのでしょう。ヘーゲルはイギリスの「友愛組合」という労働組合の前身である労働者の互助組織に示唆されて、コルポラツィオンを打ち出したといわれていますから、さしづめ今日の労働組合あるいは労働者互助会と考えればよいでしょう。

 

二、福祉行政と職業団体

社会保障の権利(第二三〇~二三三節)

 「欲求の体系では、個々人それぞれの生計と福祉は一つの可能性として存在するだけで、その現実性は、個々人の恣意と自然的特殊性によって制約されていると同様、欲求の客観的体系によっても制約されている。しかも他方、司法活動によっては、所有と人格性との侵害が償われるだけである」(第二三〇節)。
 欲求の体系のもとでは、自由な経済活動によって、貧富の対立が生じますので、個々人の生計と福祉が確保されるか否かは、偶然性に委ねられた問題となっています。所有と人格性を保障する司法活動も個別の救済をもたらすのみです。そこで、所有と人格の安全と同時に、「個々人の生計と福祉の保障が――つまり、特殊的福祉が、権利として取り扱われ実現されることを要求する」(同)。
 資本主義の矛盾を緩和するものとしての社会保障を、しかも個人の権利(生存権)としてとらえるこのヘーゲルの考えは、歴史上、最も早い時期のものではないかと思われ、高く評価さるべきものです。
 これまで、社会保障の諸原則を最初に明らかにしたのは、一九一二年、レーニンの率いるロシア社会民主労働党第六回全国協議会であるとされてきました。この協議会で、労働者が労働能力を失い、失業のために賃金を失うすべての場合に、本人とその家族を対象に、企業と国家の負担による賃金の全額補償などの原則を定めた労働者保険が提案されたのです(レーニン全集⑰四八九ページ)。こうした考えを土台に、一九一七年のロシア革命で生まれたソビエト政権のもとで、世界ではじめて、企業主全額費用負担による「失業保険」と「疾病保険」が実現し、それが大きな刺激となって資本主義各国の社会保障が前進するに至ったのです。
 これに対し、ヘーゲルの見解は、それよりも一〇〇年も前に、あれこれの社会保障ではなく、貧富の必然的対立を生みだす資本主義社会のもとで、全体としての「個々人の生計と福祉の保障」が、社会の責任において、かつ、個人の権利として保障されなければならないことを示したものとして、まさに画期的なものであり、社会保障の起源は、ヘーゲルの名と関連させてとらえられるべきものではないかと思われます。先に「道徳」のところで、ヘーゲルが「危急権」(第一二七節)、つまり今日的な生存権について言及していることを学んできましたが、市民社会において、それは具体的な現存在をもつに至るのです。
 「生計と福祉を保障し、所有と人格性を安全にする普遍者の威力は、さしあたり、これらのいずれの目的にとっても特殊的意志が相変わらず原理であるかぎりでは、一面では、その力のおよぶ範囲を偶然的なものの範囲に局限せられたままであり、したがって他面では、依然として外的秩序であるにとどまる」(第二三一節)。
 第二部「道徳」で問題とされた、福祉を求める権利(幸福追求権)は、まだ「抽象的で形式的な自由」にすぎませんでした。この福祉を求める権利を現実のものにするためには地方自治団体による、福祉行政という外的秩序が必要になってくるのです。
 ヘーゲルのいう福祉行政は、市民社会が、社会として、特殊的意志にたち向かう「外的秩序」であり、また特殊的意志に対して「普遍者の威力」(ポリツァイ)を示すことになります。そのかぎりでは、福祉行政は横暴な恣意への規制という側面をもっています。
 ヘーゲルは、横暴な恣意への規制について、それを一種の「刑罰」であるといっています。
 「それ自身としては合法的な行為をなしたり、所有物を私的に使用したりする許された恣意もまた、他の個々人や、共通の目的のための他の公共の事業に対して、やはり外面的関係をもっている。このような一般的な面のために、私的行為といえども、私の手から離れて、他人に損害や不法をおよぼしかねないところの、あるいは実際におよぼすところの、思いがけない偶然事になる」(第二三二節)。
 現代日本の大企業は、競争原理をテコにした労働強化や賃下げ、リストラなどの攻撃により、下請けを泣かせ、多くの労働者を過労死やうつ病に追いやっていますが、それはすべて「許された恣意」とされています。つまり大企業の私的行為は、合法性の形態をとりつつ、「他人に損害や不法をおよぼし」ているのです。
 「これが右のような私的行為のなかに含まれている不法の面であり、したがって福祉行政の立場からなされる刑罰に正義がある究極の理由である」(第二三三節)。
 日本共産党新綱領は、日本の民主的改革の一分野として経済的民主主義を掲げています。その内容は、「労働者の長時間労働や、一方的解雇の規制を含め」、「大企業にたいする民主的規制を主な手段として、その横暴な経済支配をおさえ」、「国民の生活と権利を守る『ルールある経済社会』をつくる」というものです。
 日本の大企業は、「ルールなき資本主義」として、「それ自身としては合法的な行為をなしたり、所有物を私的に使用したりする許された恣意」でありながら、「他人に損害や不法をおよぼし」ているから、これを民主的に規制しようというものです。
 ヘーゲルの福祉行政には、その行政の主体が、国家ではなくて市民社会(地方自治団体)という点はあるものの、資本主義のもたらす矛盾を経済活動に対する行政の民主的規制によって克服しようとする点でも先駆的なものが含まれているのです。
 
福祉行政の内容(第二三五~二四八節)

 さてそれでは、以上を前提として、福祉行政の内容をみてみましょう。
 まず第二三五節では、道路、港湾、電気、水道などの社会基盤整備のための公共事業があげられており「一般的な仕事と公益のための事業には、公の威力による監督と事前の配慮とが必要」とされています。
 第二三六節では、市場原理のもたらす生産と消費の矛盾の緩和策が唱えられています。
 その第一は、「最も日常的な生活必需品目の価格指定」。これはおそらくフランス革命のジャコバン独裁時代、生活必需品について、「最高価格令」がだされ、物価高騰を防ぎ、消費者の生活を守ったことを念頭においたものでしょう。ヘーゲルは、この権利が承認される理由は、詐欺商法を規制し「公衆のだまされないという権利の擁護と、商品検査の管理とが、共通の仕事として公の威力によって行なわれうるから」だとしています。
 第二は、失業対策です。
 「市民社会における商工業の自由を一方の極とすれば、これに対するもう一方の極は、すべての人の労働を公の対策によって斡旋し指定することである」(第二三六節、注解)。資本主義的な経済活動の自由は、必然的に失業をうみだすところから、「盲目的に利己的目的に没頭してしまえばしまうほど、ますますこうした規制を必要」(同)とするのです。
 第二三七節、第二三八節では、「生計の資」(第二三八節)を確保するための市民社会の責任をのべています。
 資本主義的経済活動は、分配の不平等(第二〇〇節)と貧富の対立を生み出し、個々人の生計を脅かすことも生じます。これに対して、こうした貧困家庭の生計を確保することが市民社会の責任とされるのです。というのも、生計を支えてきた家族から個人を引き離したものこそ、市民社会に他ならないからです。
 「人間がこのように市民社会の一員であるほかないとすれば、彼は家族においてもっていたのとまったく同様の権利と要求を、市民社会に対してもつ。だから市民社会はその成員を保護し、成員の諸権利を擁護しなければならないが、それと同じく個々人もまた、市民社会の諸権利に対して義務を負わされている」(第二三八節、追加)。
 こうして個々人は、「市民社会の息子」(第二三八節)として、市民社会に対して、生存権を主張しうることになります。
 いま年金改悪が問題となっています。財界・大企業は市民社会の主役でありながら、年金の企業負担分をなくし、消費税増税で年金財源をまかなおうとしているのをみるとき、あらためて、ヘーゲルの問題意識の確かさと財界・大企業の社会的責任を思わずにはいられません。
 第二三九節、第二四〇節では、市民社会が家族にとってかわる存在として、家族が担ってきた子供の教育を受ける権利の保障、浪費者の後見の仕事も引き受けることがのべられています。
 市民社会は、「一人の賎民をも生じはさせてはならない」(第二四〇節、追加)との言葉には、人間の尊厳を一貫して主張するヘーゲルの熱い思いが込められているのを見てとることができます。
 第二四一節から第二四八節までは、資本主義社会の最大の矛盾ともいうべき貧困をどう解決するかの問題を扱っています。いわば、第二三七節等で指摘された市民社会の責任をどうはたすのかが、ここで具体的に検討されることになります。
 ヘーゲルは、「いかにして貧困を取り除くべきかという重大問題こそ、とりわけ近代社会を動かし苦しめている問題なのである」(第二四四節、追加)と位置づけ、その打開策を検討しています。
 まずヘーゲルは、貧困対策としての慈善事業(主観的援助)をとりあげ、その必要性は否定しないものの、それは本来の普遍的な貧困対策にはなりえないことを指摘しています。
 「しかし、こうした援助は、それ自身としても、その効果においても、偶然性に左右されているから、社会の努力目標は、窮民とその救済策とのうちに普遍的なものを見つけ出して、普遍的対策を講じ、右のような主観的援助をよりいっそう不要のものにすることにある」(第二四二節)。
 というのも、ヘーゲルは、貧困を資本主義社会における諸個人の特殊性からくる偶然の産物ではなく、市民社会の必然的産物だととらえているからです。
 「人間のもろもろの欲求を通じて人間の連関が普遍化することによって、またこれらの欲求を満たす手段を作製調達する方法が普遍化することによって、富の蓄積が増大する。というのはこの二重の普遍性から最大の利得が得られるからである。――しかしこれは一面であり、他面では、特殊的労働の個別化と融通のきかなさとが増大するとともに、この労働に縛りつけられた階級の隷属と窮乏とが増大し、これと関連してこの階級は、その他のもろもろの能力、とくに市民社会の精神的な便益を、感受し享受する能力を失う」(第二四三節)。
 もちろん、ヘーゲルは、搾取の経済的仕組みも知りませんし、一方での「富の蓄積」と他方での労働者階級の「隷属と窮乏」をもたらす資本主義的蓄積の一般的法則も知りません。しかし、資本主義の発展により富と貧困の蓄積とが同時に進行する現象とみているところにヘーゲルの慧眼があるのです。
 「大衆がこの一定の生計規模の水準以下に零落するということは、――したがって権利感情、遵法感情、おのれの活動と労働によって生活を維持するという誇りの感情を失うまでに転落するということは、――賎民の出現をひきおこし、これに伴って他方では同時に、不釣合な富が少数者の手中に集中することがいっそう容易になる」(第二四四節)。
 「賎民」とは、最下層の貧困層の一部である犯罪者、浮浪者、売春婦などを意味しています。
 貧困は、たんに貧困それだけの問題ではなく、ついには主体的自由と人間の尊厳までも奪ってしまうのです。日本にも「貧すれば鈍する」という言葉がありますし、マルクスも「貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、道徳的堕落の蓄積」(『資本論』④一一〇八ページ/六七五ページ)といっています。
 では、どうやって貧困と賎民の出現を防止するのか。
 まず一つは、「賎民の生計」を「労働によって媒介されることなくして保障」(第二四五節)すること、つまり生活保護です。これをヘーゲルは、「市民社会の諸個人の自主独立と誇りの感情という原理に反する」(同)ものだといっています。では、「彼らの生計を労働によって〔労働の機会を提供することによって〕媒介する」(同)とすればどうか。この場合には、一方では生産物があり余り、他方では消費者が不足するという「禍」が増大するばかりだというのです。
 「ここにおいて、市民社会が富の過剰にもかかわらず十分には富んでいないことが、すなわち貧困の過剰と賎民の出現を防止するにたるほどもちまえの資産を具えてはいないことが暴露される」(同)。
 こうした対策では、貧困と賎民の出現を防止しえないところから、ヘーゲルは、「自分よりおくれている国外の他民族のうちに、購買者を求めるとともに、必要な生計の資を求め」(第二四六節)、世界商業と植民地政策にその打開の道を求めます。といっても、ヘーゲルは、植民地政策を正当化しているわけではありません。それは「植民地の解放がそれ自身本国にとって最大の利益であることが証明されるのは、奴隷の解放が主人にとって最大の利益であることが証明されるのと同様である」(第二四八節、追加)とのべていることからも明らかです。
 
職業団体(第二四九~二五六節)

 しかし、これらの施策によっても、これらの問題が根本的に解決されるわけではありません。というのも、こうした普遍的なものとしての福祉行政が、地方自治団体の行政という、市民社会にとって「一つの外的な秩序ならびに対策」(第二四九節)として実現されていて、市民社会自身の内部の普遍性から生まれていないところに問題があると、ヘーゲルは見ているのです。そこから市民社会内部の普遍性である職業団体の必要性が生まれてくるのです。
 「ところが特殊性自身が、理念にしたがって、おのれの内在的利益のうちにあるこの普遍的なものを、おのれの意志と活動の目的および対象にすることによってこそ、倫理的なものが内在的なものとして市民社会に帰ってくるのであって、これを実現するのが、職業団体の使命である」(同)。
 職業団体は、各職業の特殊性に応じて組織され、「同輩関係としての組合という形で現実に顕現することによって、おのれの特殊的なものをめざす利己的目的は、同時に普遍的目的であることが理解され、かつ実証される」(第二五一節)ことになります。
 職業団体は、その職業の特殊的利益を実現しつつ、「成員の特殊的生計の全範囲」(第二五二節、注解)という普遍的目的も追求しますから、国家の監督を受けながら「所属員のために第二の家族の役を引き受ける」(第二五二節)のです。
 職業団体の成員となるためには、技能と実直さという客観的資格が求められ、そのかわり成員になるとその生計は、才能に応じて保障されます。したがって成員であることによって、社会的にも、「自分がひとかどの人物である」(第二五三節)ことが証明されることになります。こうして、職業団体の成員であることは、身分上の誇りになるのです。
 職業団体の存在意義は、何といっても貧困と賎民の解決に求められます。
 賎民出現の理由の一つに、「おのれの活動と労働によって生活を維持するという誇りの感情を失う」(第二四四節)という倫理的理由がありましたが、職業団体の成員となることは、身分上の誇りをもたすことによって、この倫理的要因をとり除くこととなります。
 また貧困に対する援助も、働く者の誇りを失わせるものにはなりません。
 「職業団体においては、貧困が受ける援助は、偶然的なものでなくなるとともに、不当に自尊心を傷つけるものでもなくなる。そして富は、同輩に対するそれの義務のために、尊大ととを、すなわちそれが富者に抱かせがちな尊大と、貧者に抱かせがちな嫉妬とを、いずれも抱かせないようにし、――そして実直さが真に認められ誇りとされるのである」(第二五三節、注解)。
 互助の精神にもとづく成員への貧困の援助は、職業団体の当然の責務とされ、成員の自尊心を不当に傷つけるものとはならないというのです。
 こうして職業団体は、「家族が国家の第一の倫理的根柢」をなすのに対して、「国家の第二の倫理的根柢」となります(第二五五節)。
 しかし、職業団体の目的は、その職業に固有の制限されたものにすぎませんから、市民社会のもつ矛盾を解決するためには、もっと普遍的な目的をもつ組織、国家に移行しなければならないのです。
 「こうして直接的倫理を市民社会の分裂態を通過して国家にまで展開してゆき、そうして国家が両者の真実の基礎としておのれを示すこと、こうした展開だけが国家の概念の学的証明である」(第二五六節、注解)。
 ヘーゲルにおいて、一方で家族という特殊性と普遍性の統一態、他方で市民社会というその分裂態、そしてこの両者の再統一態として国家がとらえられることになるのです。国家においては、特殊性と普遍性とは、分離・対立しつつ、統一されているのです。
 詳しくは、次回以降にみていくことになりますが、最後に一言つけ加えておくと、第三部「倫理」は、論理的には、家族、市民社会、国家という順序で展開されていますが、「現実の世界においては、国家こそ総じてむしろ最初のものであり、国家の内部ではじめて家族が市民社会へと発達するのであって、国家の理念そのものがこれら両契機へおのれを区分するのである」(同、注解)として、ヘーゲルはこの第三部「倫理」を締めくくっています。

 

三、福祉行政と職業団体の現代的意義

 以上、ヘーゲルの市民社会論の柱ともいうべき福祉行政と職業団体について検討してきました。
 ヘーゲルは、資本主義経済社会を念頭においた市民社会を支える原理を、特殊性の原理ととらえています。言いかえれば、個人の主体的自由の原理に立脚した経済活動の自由とそれにもとづく市場経済に支えられた経済社会が、ヘーゲルのいう市民社会です。ヘーゲルは、自由な意志の無限な発展に社会の真にあるべき姿を求めていますから、この主体的自由を遺憾なく発揮する市場経済こそ「市民社会のあらゆる生動の原理」(第二〇六節、注解)であるととらえます。
 しかし、ヘーゲルの弁証法は、特殊性の原理の一面的強調は、富と貧困の対立を生みだすものであり、真の自由をもたらすものではないととらえます。市民社会における特殊性という「恣意」は、「市民社会や国家において理性によって必然的に存在するもの」(同)、つまり普遍性の原理に媒介されねばならないのであって、「このことの承認と権利こそ、とりわけ社会通念において自由と呼ばれているところのもののいっそう進んだ規定」(同)なのです。つまり貧しくて人間らしく生きていくことのできない人が一人でもいる限り、その人に自由はありませんから、その社会も真に自由な社会とはいえないのです。真にあるべき自由の現存在としての国家においては、「一人の賎民をも生じさせてはならない」(第二四〇節、追加)のです。
こうした立場から、ヘーゲルは、市民社会の生みだす普遍性の原理として、福祉行政と職業団体のカテゴリーを持ちだしてきます。
 それはいわば、資本主義の矛盾を緩和ないし解決する普遍的政策として提起されているのです。
 ここには、科学的社会主義の学説にとって継承・発展されるべき二つの問題が含まれていると思われます。

資本主義の民主的改革

 一つは、資本主義の民主的改革の問題です。ヘーゲルは、失業と貧困という資本主義の二大矛盾ととりくみ、地方自治団体による福祉行政と職業団体をつうじてこの解決策を模索しています。失業対策としては、ケインズばりの公共事業を訴え、貧困対策として、全般的な社会保障政策を強調するとともに、職業団体(労働組合)のもとでの、相互扶助による生計の維持を訴えています。これらの政策の妥当性はともかくとして、ヘーゲルが、市民社会は個人を「市民社会の息子」(第二三八節)とする以上、「市民社会はその成員を保護し、成員の諸権利を擁護しなければならない」(同、追加)として、その責任を問うているのは重要な指摘だといわなければなりません。今日的にいうならば、財界・大企業の社会的責任ということになるでしょう。
 ヘーゲルが市民社会それ自体の社会的責任という見地から、市民社会における特殊性の原理および市場経済に一定の規制を加え、資本主義の民主的改革を唱えていることは、社会の段階的発展を唱える科学的社会主義の理論にも継承されるべきものであり、とりわけ日本共産党の民主連合政府や「ルールある資本主義」とも重なり合うものといっていいでしょう。

人民と国家の中間団体

 科学的社会主義の学説では、真にあるべき国家は治者と被治者の同一性が実現され、搾取も抑圧もない「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」(日本共産党綱領)としてとらえられています。別な言葉でいえば第一八講で詳論しますが、主権在民の人民主権国家ということになるでしょう。
 しかし、主権在民の人民主権国家を実現するためには、人民が選挙のときだけではなく、日常的に主権者として行動しなければなりませんので、人民と国家を結ぶ中間団体が実質的に権力を握り、日常的に人民と国家とのパイプ役を果たすことが必要となってきます。これがいわゆる「プロレタリアート執権」とよばれるものであり、実質的には、社会主義・共産主義の実現を目的とする人民連合、人民の統一戦線がその役割を担うことになります。統一戦線の中核を担うのが、科学的社会主義の政党と労働者階級であるところから、プロレタリアート執権(労働者階級の権力)とよばれているのです。
 ヘーゲルのいう地方自治団体と職業団体を、中間団体としての統一戦線と協力・共同し、あるいはその一翼をになう、民主的地方自治体と労働組合としてとらえたとき、それは今日的意義をもつものといえるのではないでしょうか。
 労働組合の地方、中央の組織は統一戦線における中心的勢力として、労働者をはじめとする人民の諸要求を国政に反映し、また人民主権国家が提起した諸課題を具体化し、その政策的正しさを検証する役割を担うことになるのです。
 このように考えてみると、ヘーゲルの提起した地方自治団体と職業団体という中間団体の役割は、治者と被治者の同一性を実現するうえで、貴重な示唆を含んでいるものといっていいでしょう。
 統一戦線をになう中間団体の役割については、もう一度、第二〇講でもふれることになります。