『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一七講 人民の一般意志にもとづく統治

一、一般意志(第二五八節)

 前講で、ヘーゲルのいう真にあるべき国家は、治者と被治者の同一性(実体的同一性)を実現する国家だというところをみてきました。被治者が人民であることに異論はありませんから、治者と被治者の同一性とは、治者も人民であり、被治者も人民であることを意味する人民主権国家であることもお話ししました。
 第一一講でもお話ししましたが、ヘーゲルにとって、真にあるべき倫理的共同体とは、社会共同体とその成員とが一体化し、社会共同体「においてこそ主体が、おのれと区別されないおのれ本来の境地において生きるほどの本質」(第一四七節)となる存在であることを意味しています。この倫理共同体の最高のあらわれが国家ですから、真にあるべき国家を治者と被治者の同一性が実現される人民主権国家としてとらえているのは、論理的な必然といわねばなりません。
 しかし、ヘーゲルの国家は、ルソーの人民主権国家とは、一見するかぎり、かなり様相を異にするものとなっています。
 『法の哲学』の副題は、「自然法と国家学要綱」となっています。「自然法」というのは、自然法思想にもとづく社会契約国家、とりわけルソーの『社会契約論』を意味し、「国家学」というのは、ギリシア哲学の国家・政治学、とりわけプラトンの『国家』を意味しています。ヘーゲルは、ルソーの『社会契約論』とプラトンの『国家』という国家論に関する歴史的二大著作を止揚し、フランス革命から生まれた自由の精神の現存在としての国家を、真にあるべき国家としてとらえようとして「自然法と国家学要綱」との副題をつけたのです。先にヘーゲルのプラトン『国家』の批判はみてきましたので(第一三講)、次に、ヘーゲルはルソーから一体何を学び何を克服しようとしたのかを検討してみましょう。
 第一六講でもお話ししたように、ヘーゲルは、真にあるべき国家は、「即自かつ対自的に理性的なもの」(第二五八節)でなければならないから、「思惟された概念」(同、注解)という哲学的考察をつうじてのみ把握されるべきものだと考えました。
 ヘーゲルは、「この概念を探し出すという点で、ルソーには、……意志を国家の原理として立てたという功績がある」(同)と、ルソーを高く評価しています。ルソーが個々人の自由な意志を基礎とし、真にあるべき人民主権国家を打ちたてたことを評価したものです。
 ルソーの場合、治者と被治者の同一性は、人民が、一般意志(ヴォロンテ・ジェネラル。普遍的意志とも訳される。すなわち人民の真にあるべき意志)を形成し、この一般意志にもとづく法の制定と執行により、実現しようとするものです。これがルソーの人民主権国家ということになります(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー 』参照)。
しかし、ヘーゲルは、ルソーのいう「一般意志」とは個別的意志を寄せ集めた「全体意志」にすぎないと決めつけ、個別的意志(特殊的意志)の寄せ集めた「共同的な意志」からは、理性的な意志は生まれえないと批判しているのです。
 「だが彼は、……普遍的意志を、意志の即自かつ対自的に理性的なものとしてではなく、ただ意識された意志としてのこの個別的意志から出てくる共同的なものとして捉えたにすぎない」(第二五八節、注解)。だから、「個別的な意志から出てくる共同的な意志」(全体意志)にもとづく統治としてのジャコバン独裁は、「われわれが人類史について知って以来はじめての、途方もない光景をひきおこした」(同)というのです。
 つまり、ルソーが「意志を国家の原理とした」ことは評価しうるものの、その意志は「個別的意志から出てくる共同的なもの」にすぎず、「即自かつ対自的に理性的なもの」として捉えていないから、恣意的な、暴走する恐怖政治を生みだしたというのです。
では、ヘーゲルは、本当にルソーのいう全体意志(万人の意志)と一般意志(普遍的意志)との区別に気づいていなかったのかといえば、そうではありません。その手がかりは『小論理学』にあります。
 「単なる共通性と真の普遍性との相違は、ルソーの有名な社会契約のうちに見事に言いあらわされている。ルソーは、国家の法律は普遍的意志(volonte generale)から生じなければならないが、といって決して万人の意志(volonte de tous)である必要はない、と言っている。もしルソーが常にこの区別を念頭においていたら、かれはその国家論にかんしてもっと深い業績を残したであろう。普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である」(『小論理学』下一二九、一三〇ページ、岩波文庫)。
ヘーゲルは、全体意志と一般意志とを区別したところに、ルソーの功績を認めながらも、ルソーが「常にこの区別を念頭」におくことなく、時には両者を混同したところから、その国家論は十分な業績を残しえなかったのに対し、自分はこの両者を明確に区別し、ルソーのいう一般意志を国家論の基本原理にすえたからこそ、『法の哲学』の国家論にかんして「深い業績を残」すことができたのだ、といいたいのです。
 こうしてヘーゲルのいう「即自かつ対自的に理性的な」意志または普遍的意志とは、ルソーのいう一般意志(ヴォロンテ・ジェネラル)に他ならないことを暗示しているのです。
 ルソーの名誉のためにいうならば、ルソーは、国家統治の原理としての一般意志を、多少あいまいとも思える表現をとりながらも、常に全体意志(「個別意志から出てくる共同的なもの」)から区別しているのであって、ヘーゲルのこの点の評価は正しくありません。
 いずれにしても、こうしてヘーゲルは、検閲を考慮したのか、ひそかに一般意志(ヘーゲル流にいうならば「普遍的意志」または「意志の概念」、つまり人民の真にあるべき政治を求める意志)を、国家統治の基本原理にすえ、これにより、治者と被治者の同一性を実現しようとする革命の哲学を主張しているのです。
 以上で第三章「国家」の総論を終えたことにし、各論に入っていきます。各論はA「国内公法」、B「国際公法」、C「世界史」の三つに分かれています。さらに「国内公法」は、「それ自身としての国内体制」と「対外主権」とに分かれ、前者はさらに君主権、統治権、立法権に分かれています。

 

二、国内公法

国家は一般意志を媒介とする特殊性と普遍性の統一(第二六〇節)

 「国家は具体的自由の現実性である。だが具体的自由とは、人格的個別性とそれの特殊的利益とが余すところなく発展して、それらの権利がそれ自身として独立に〔家族および市民社会の体系において〕承認されるとともに、またそれらが一面では、おのれ自身を通して普遍的なものの利益に変わり、他面では、みずから了承し同意してこの普遍的なものを承認し、しかもおのれ自身の実体的精神として承認し、そしておのれの究極目的としてのこの普遍的なもののためにはたらくということにある」(第二六〇節)。
 国家の存在理由は、何よりも具体的自由の実現にあります。具体的自由とは、特殊性(主体的自由)と普遍性(客観的自由)との統一です。ですからまず第一に、国家の成員としての国民の主体的自由の権利が、家族および市民社会での生活を通じて全面的に「余すところなく発展」し、権利として承認されることになります。この一事をもってしても、ヘーゲルを「国家主義的イデオロギーの持主」とすることがいかに誤りであるかは明瞭です。
 次いで第二に、国民は、国家を自由の実現のためにのみ存在する普遍的なものにつくり変え、国家をこのような普遍者として承認し、国家のために働くことを、自己の究極的目的とするのです。国民は、国家により私人としての私的利益が保障されると同時に、他方で公民として自由の現実体としての国家を支えるのです。
 「その結果、普遍的なものは、諸個人の特殊的な利益や知と意志のはたらきをぬきにしては、効力をもちもしないし貫徹されもせず、諸個人もまたたんに特殊的な利益や知と意志のために私的人格として生きるのではなく、同時に普遍的なもののなかで、普遍的なもののために意志し、そしてこの目的を意識した活動をするのである」
(同)。
 もちろんヘーゲルは、現実の市民社会において、資本主義的国家が、このような自由の現実体ではなく、国民が国家から疎外されていることは十分承知しています。そのうえで、「近代国家の理念」からするならば、このような国家が真にあるべき国家として実現されなければならないと訴えているのです。  
 では真にあるべき国家は、どのようにして実現されるというのでしょうか。それが問題です。
 「近代における国家理念の特色は、国家を主観的意向に基づくのではなくて意志の概念、すなわち意志の普遍性と神性に基づく自由の実現態とするところにある」(同、追加)。
 この箇所は、先ほど引用した『小論理学』の「普遍的意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律はこの概念にもとづいている意志の特殊規定である」と、重ね合わせて理解すべきものです。
 「近代における国家理念」というのは、「意志の概念」(一般意志)にもとづいた「憲法」(と法律)を制定し、この憲法にもとづく一般意志による統治を訴えたルソーの人民主権国家を意味しているのです。
 「現代国家の原理のもつとてつもない強さと深さは、主体性の原理がおのれを完成して人格的特殊性という自立的な極点になることを許すと同時に、この主体性の原理を実体的一体性のうちへ連れ戻し、こうして主体性の原理そのもののうちに実体的一体性を保つということにある」(第二六〇節)。
 近代国家が、個人の自由な自己決定という主体性の原理を基本にしながらも、人民の「意志の概念」という原理にもとづく憲法によって統治されるところに、近代国家の「とてつもない強さと深さ」があり、またこの原理によって、個々人の主体的自由は、国家という共同体のなかで「おのれを完成」させるのです。「最高の共同性は、最高の自由」なのです。そしてこの「意志の概念」をつうじて、諸個人は、国家という「実体的一体性のうちへ連れ戻」されるのです。
 結局、ヘーゲルとしても、国家と人民の一体性を実現するためには、ルソーのいう「一般意志」の概念を導入せざるをえなかった、ということではないかと思うのです。

権利と義務の合一(第二六一節)

 このように、国家は、人民の一般意志を媒介として特殊性と普遍性の統一を実現することになりますが、それを人民の側からみると、権利と義務の合一となるのです。
 「国家はおのれの強さを、おのれの普遍的な窮極目的と諸個人の特殊的利益との一体性のうちにもっており、また諸個人が同時に権利をもつかぎりにおいて国家に対する義務をもつ、という点にもっている」(第二六一節)。
 先に第一四四節で倫理的義務論を、第一五五節では「普遍的意志と特殊的意志とのこの同一性においては、義務と権利とは一つに帰する」ことを学びました。そして第一四九節では、倫理的義務において、「むしろおのれの解放を手にいれる」ことをみてきました。
 いま人民の一般意志の統治する人民主権国家において、一般意志の実現を国家に対して要求することは人民の権利であると同時に、実現された国家意志としての一般意志を執行することは、人民の義務となります。こうして一般意志の実現を権利として要求し、実現された一般意志の執行を義務として履行することをつうじて、人民は真に国家と社会の主人公となるのです。
 「義務からすれば臣民である個人が、市民としては、義務を履行することにおいて、おのれの人格と所有を保護してもらい、おのれの特殊的福祉を顧慮してもらい、そしておのれの実体的本質の満足と、この全体の成員であるという意識と自己感情とを得るのである。そしてこのように市民が、もろもろの義務を国家に対する務めおよび職務として果たすことによってこそ、国家は維持され存続するのである」(第二六一節、注解)。
 人民は国家と一体化することにより、人民の国家に対する倫理的義務は、同時に自ら国家を人民のものとするための権利であり、この義務と権利の合一のなかで、人間解放が実現されるのです(第一四九節)。
 したがって、「義務と権利との合一という概念は、最も重要な規定の一つであり、国家の内的な強さを含んでいる」(第二六一節、注解)のです。
 同じ一般意志による統治を唱えていても、ここにルソーとヘーゲルの違いがあります。一般意志による統治の意義を、ルソーは人民の側から国家権力の手をしばるところに見出しているのに対し、ヘーゲルは、人民が国家の主人公として、自ら統治するところに見出しているのです。
 この点は、ヘーゲルの偉大な功績といっていいと思います。わたしたち国民は、資本主義社会のなかで様々な階級闘争をたたかうなかで、主権者としての自覚を高め、権利と義務の合一という「国民が主人公」の見地を身につけ、未来社会の担い手としての力量を身につけていかねばなりません。 

国家の精神(第二六二~二七一節) 

 最初にお話ししたように、『法の哲学』は、エンチクロペディーの「客観的精神」を「同一のもろもろの根本概念を、もっとすすんで、とくにもっと体系的に論じたもの」(序文)です。 
 この客観的精神の最高の存在が、国家ですから、国家は精神としてとらえられます。ヘーゲルにとって、「絶対者は精神」(エンチクロペディー第三八四節)であり、国家は、人間の精神活動の最高の産物としての絶対者なのです。
 「現実的理念は精神であり、そしてこの精神は、おのれの概念の二つの観念的な圏である家族と市民社会におのれ自身を分かち、こうして有限性となり、しかる後にこれら両圏の観念性から出て対自的に無限な現実的精神となる精神である」(第二六二節)。
 第二五七節で、国家は、「倫理的理念の現実性」であることを学びました。つまり、自由な意志の真にあるべき姿が国家という最高の社会共同体の精神として、現実のものとなっており、家族や市民社会をも支配する精神となるのです。この精神を国家において現実のものにするのが、人民の一般意志という「意志の概念」を体現した「憲法」なのです。
 社会共同体には、共同体の紐帯となる「共同体の精神」があり、家族の場合、それは家族愛でした。国家における共同体の精神は、「人民の一般意志」です。国家の精神というと、何か観念論的なひびきを感じますが、ヘーゲルの場合、国家と人民とを一体化する精神的な紐帯を意味しているのであって、それを「人民の一般意志」ととらえれば、観念論の問題として片づけられるべきではないことがわかります。
 国家というのは、統治の主体となるものですから、様々な統治の機構をもっています。しかし、もっとも重要なことは、国家は、国家の精神としての「憲法」をもった一個の有機体だということであり、したがって国家は、上から下までそのあらゆる機構にこの憲法の精神が貫かれなければならないのです。ですから、国家にとってもっとも重要な「人民の一般意志」という国家の精神を失うとき、真にあるべき国家は死んでしまうのです。この国家の精神は、家族、市民社会のなかから生まれ出たものとして、「対自的に無限な現実的精神」とよばれているのです。
 ヘーゲルは、こういう国家の精神は、家族、市民社会という「二つの圏においては、必然性というかたちをとった理性的なものの威力」(第二六三節)であり、司法制度、福祉行政と職業団体のような「諸制度として存在している」(同)といっています。これまでヘーゲルはこれらの諸制度を、特殊性の原理を規制する普遍性としてとらえていましたが、ここにきて、それが「人民の一般意志」という国家の精神であったことを明らかにするのです。
 国家の精神は、自由と必然の統一です(第二六五、二六六節)。というのも、これらの諸制度は、一見すると家族や市民社会に外から押しつけられた必然性のようにみえながらも、実際には人民の一般意志を実現することにより、人民を解放し、自由にするものに他ならないからです。
 ヘーゲルは、有機体に例えるならば、家族は「感受性」、市民社会は「反応性」、国家は「神経組織そのもの」(第二六三節、追加)だといっています。
  神経組織は、有機体の一体性を保つ中核となる「精神」を形づくるものですが、それを支える肉体が存在してこそはじめて、機能しうるのです。国家という神経組織も、「そのなかで右の両契機が、すなわちここでいえば家族と市民社会が、発展させられているかぎりにおいてのみ生命をもつものである」(同)というのです。
 国家の精神は展開して、主体的実体性と客体的実体性となります。
 「それは主体的実体性としては政治的心術であり、これとは区別された客体的実体性としては国家の有機組織、すなわち厳密な意味での政治的国家とそれの体制ないしは憲法である」(第二六七節)。
 主体的実体性としての政治的心術は、愛国心です。
 愛国心というと最近の自民党の教育基本法の改悪と愛国心の押しつけを思い浮かべ、反感を覚える人もいるかもしれません。しかしここにいう愛国心は、押しつけの愛国心ではなく、治者と被治者の同一性の実現される人民主権国家において、自分と国家とが一体となっているという「真理をふまえた確信」(第二六八節)から内発的に生まれる国家に対する「信頼」としての愛国心です。
 この愛国心は、「私の実体的で特殊的な利益」が、国家の「利益と目的のうちに、すなわち個としての私に対するこの他者の関係のうちに、含まれ維持されている、という意識である」(同)。
 これに対し、客体的主体性としての国家の精神は、人民の一般意志を体現した憲法と、憲法の精神によって貫かれた有機的一体性をもった国家機構としてあらわれます。
 「この有機組織は、理念がおのれのもろもろの区別項へと、そしてそれら区別項の客体的現実性へと展開したものである。……そしてまたおのれのこうした産出の前提となっているのが普遍者である以上、普遍者はどこまでもおのれを保持するのである」(第二六九節)。
 ここにいう「普遍者」が「人民の一般意志」であることはいうまでもありません。
 今でこそ、国家が、国家の基本法、最高法規としての憲法をもっていることは当たり前になっていますが、当時は決してそうではありません。フランス革命から生まれた一七九一年憲法やジャコバン憲法といわれる一七九三年の憲法は、世界を震駭させ、ヘーゲルに革命を実感させるものとなりました。
 ヘーゲルは、憲法を国家の理念として高く掲げた立憲国家に、世界ではじめて精神が現実界を支配する理性的な国家を見出したのです。
 「権利の思想に基づいていまや憲法が制定され、以後一切はこの基礎の上に据えられることになった。太陽が蒼空に位し、星辰がこれを巡って運行するようになって以来幾久しいが、人間が頭の上に、すなわち思想の上に立ち、思想に基づいて現実界を築き上げるようになろうとは、全くわれわれの夢想だにしないところであった。
 アナクサゴラスは、ヌース[理性]が世界を支配するということを主張した最初の人であった。しかし、人間はここにはじめて、思想が精神的現実界を支配すべきものだということを認識する段階にまでも達したのである。
その意味で、これは輝かしい日の出であった。思惟をもつ限りのすべての者は共にこの新紀元を祝った」(『歴史哲学』下三一一ページ、岩波書店)。
 ヘーゲルは、この憲法体制のもたらす一体性には、ローマの貴族メネニウス・アグリッパの「胃の腑とその他の身体諸部分についてのがぴったりあてはまる」(第二六九節、追加)といっています。それは、手足が胃袋に対して、他のものは胃袋の欲求を満たすために労働しているのに、胃袋は何も仕事をしていないと非難したのに対し、胃袋は、自分は食物を自分のなかから送り出して他のものへ分けていると言った、という寓話です。
 憲法は、その持っている人民の一般意志という精神的紐帯を、それぞれの国家機構に送り出し、それらに生命を与えているのです。

 

三、国内体制

立憲国家(第二七二節)

 国内体制は憲法の理念にしたがい、その理念を特殊化したものとして規定されることになります。
 「体制が理性的であるのは、国家がおのれの活動を概念の本性にしたがっておのれのうちで区別し規定するかぎりにおいてであり、しかも国家が、これら諸権力のおのおの自身がそれ自身のうちで総体性であるように、おのれの活動を区別し規定するかぎりにおいてである」(第二七二節)。
 憲法のかかげる理念の根本は、人民の「意志の概念」、つまり人民の一般意志による統治という大原則にあります。各国家の統治の機構(君主権、統治権、立法権)のすべてに、この人民主権の原理が貫かれることになりますから、「これら諸権力のおのおの自身がそれ自身のうちで総体性」を保つことになるのです。
ヘーゲルは、統治の機構の区別を「概念の本性にしたがった区別」だといっています。ヘーゲルは論理学において、概念とは、普遍と特殊とを統一した個別、すなわち具体的普遍としてとらえています。したがって概念の本性にしたがった区別というのは、「人民の一般意志」という「意志の概念」が、普遍性としての立法権、特殊性としての統治権、個別性としての君主権に区別されつつ、その全体が相互に影響しあいつつ、「人民の一般意志」という「総体性」を保つといっているのです。
 この見地からヘーゲルは、モンテスキューの三権分立の思想を次のように批判しています。
 すなわち、モンテスキューの権力分立の思想には、概念にしたがって区別が生ずるという「理性的規定性という契機がある」(第二七二節、注解)ということは評価しうるものの、「諸権力は相互に絶対的自立性をもっているというふうに間違って規定されたり、あるいは諸権力相互の関係が否定的な関係として、すなわち相互的制限として一面的に解されたり」(同)していると批判しています。モンテスキューのいうチェック・アンド・バランス(立法権・行政権・司法権という三つの権力は、相互に独立し、牽制しつつ、バランスを保つ)の思想は、国家の「生きた一体性」(同)を否定するものであり、人民の一般意志に貫かれた真にあるべき国家においては、誤った思想だというのです。
 「われわれは国家のなかに、理性的本性の表現以外の何ものも望んではならない。国家は精神がおのれのために作り上げた世界であり、したがって国家は、一定の、即自かつ対自的に存在する歩みをつづける」(第二七二節、追加)。ここに真にあるべき国家への、ヘーゲルの熱い思いをみることができます。
ともかくこうして、ヘーゲルのいう真にあるべき国家の憲法体制は、君主権を頂点とする立憲君主制として規定されることになります。
 ヘーゲルの故国ヴュルテンベルクでは、一八一五年憲法が制定され、立憲君主制とされていたところから、この立憲君主制を評価したヘーゲルは、プロイセンの御用哲学者だとの批判を浴びることになります。また、ヘーゲル自身も言論弾圧をあえて回避するために、立憲君主制を真にあるべき国家体制としてとりあげたという見方もできるでしょう。またここには、フランスの恐怖政治にみられるような、人民主権国家への批判も込められていたこともあるでしょう。
 このとかく議論のある立憲君主制について、ヘーゲルのいうことを聞いてみることにしましょう。

立憲君主制(第二七三~二八〇節)

 「国家の立憲君主制への成熟は、実体的理念が無限の形式を獲得した近代世界の業績である。……こうした自由な成熟過程、すなわちそこにおいて理念が、おのれの諸契機を、……それぞれ総体性をなすものとしておのれから解き放し、まさにそうするとともに、それらを概念の理想的一体性のうちに保持し、この一体性において実在的な理性的状態を成立せしめるところの過程、――倫理的生活のこの真の形態化の歴史、これこそ普遍的な世界史の仕事なのである」(第二七三節、注解)。
 注意深く読んでみると、この箇所は、国家の精神が憲法となり、憲法のもとに各統治機構が憲法の精神を体現したものとして一体性を保持しなければならないというものであり、結論において立憲国家体制を評価したものではあっても、決して立憲君主制それ自体について、その根拠をかかげて評価したものではありません。何故、立憲国家がその頂点に君主を戴かなければならないのか、ヘーゲルは実質的には何もその点の説明をしていないのです。
 ヘーゲルにとっては、人民の一般意志を体現した自由な立憲国家体制こそが重要なのであって、その立憲国家が君主制(立憲君主制)なのか民主制(立憲民主制)なのかは、さほど重要な問題ではないのです。
 「近代世界の原理は、要するに主体性の自由である。……この立場に立てば、どの形式がよりよい形式なのか、君主制なのか民主制なのか、というようなくだらない問いはまず発せられるはずがない。われわれは、おのれのうちに自由な主体性の原理があることに耐えることができず、成熟した理性に適合するすべを心得ていないようないっさいの国家体制の形式は、一面的な形式である、と告げさえすればいいのである」(同、追加)。
 とすれば、何故ヘーゲルが君主制を必要としたのかが問い返されねばなりませんが、その答えは、国家の主権に求められているのです。
 「国家のもろもろの特殊な職務と権力が、……それらの単一の自己としての国家の一体性のうちに究極の根柢をもっているということ、このことが国家の主権をなす」(第二七八節)。
 ヘーゲルのいう主権とは、国家の一体性とそのあらわれである国家としての意志決定を意味しており、「だからして絶対的な決定を行なうところの全体のこの契機は、個体性一般ではなくて一個の個体、すなわち君主である」(第二七九節)。 
 国家は有機的組織をもつ自立した国家として、一個の意志をもって決定の断を下すことになりますが、その一個の国家意志を表示するためには、特定の一個人が必要であり、それが君主だというのです。しかし集団で一個の国家意志を決めることもできるのですから、これはヘーゲルらしからぬ屁理屈といっていいでしょう。
 それはともかく、ヘーゲルにとって君主の権限は、憲法にしたがって制定された法律を「承認する」というだけの形式的決定権のみとされています。もちろん君主にその法律の否認権は与えられていないのです。
 「憲法がしっかりしていれば、君主にはしばしば署名するほかにはなすべきことはない」(第二七九節、追加)。
 「完成した国家組織にあっては、形式的決定を行なう頂点だけが大事なのであり、……君主はただ『然り』と言って、の最後のピリオッドを打ちさえすればいいのである。……しっかりした秩序をそなえた君主制においては、客観的な面は当然法律にだけ帰属し、君主はただこの法律に主体的な『われ意志す』をつけ加えさえすればいいのである」(第二八〇節、追加)。
日本共産党新綱領は、現行の象徴天皇制を「君主制」だとしていた従来の規定をあらため、「形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだった」という表現にとどめました。その理由として、君主制というためには、君主が国の内外の政治に関し、部分的にしろ何らかの権能を持つことが必要なのに対し、日本の象徴天皇制は、国事行為のみを行い、「国家に関する権能を有しない」(憲法第四条一項)とされているから、君主制ではない、と説明されています。
 確かにその通りだと思います。そして、この論理からすれば、ただ「然り」という権能のみしか与えられていないヘーゲルの君主もまた、君主制の名に値しないものといわねばなりません。後にみるように、君主は統治権の頂点に立つとされながら、統治の責任はすべて「最高審議職」(第二八三節)が負い、君主は、「統治行為に対するいっさいの責任」(第二八四節)を負わないのですから、なおさら名目のみの君主制といえます。
 結局、ヘーゲルのいう立憲君主制は、実質的にはたんなる一般意志にもとづく憲法をもつ、立憲国家体制を意味するにすぎず、立憲君主制は、プロイセン国家からの弾圧を逃れる隠れ蓑だったのではないかとすら思われます。君主制が単なる形式にすぎないとするヘーゲルの指摘は、第二七三節、第二七九節、第二八〇節の各追加、つまり文章化されていない講義のなかにおいてのみなされているのもそれを物語るものであって、決して偶然の所産とは思えません。
 しかし、もしヘーゲルのいう立憲君主制が、実質的には立憲国家体制だというのであれば、何故ヘーゲルは立憲民主制(民主共和制)に対して色目すら使おうとしなかったのか、が疑問とされなければなりません。一般意志を体現する自由の国家体制は、本来、民主制の上にのみ構築さるべきものだからです。
 ここには、フランス革命の経験をふまえた民主制に対するヘーゲルの独特の見解があります。次講でその問題を検討してみることにしましょう。