『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一八講 主権在民の人民主権国家

一、『法の哲学』の国家体制

官僚中心の国家体制(第二八一~三二九節)

 ヘーゲルの民主制批判に入る前に、『法の哲学』でヘーゲルが提起している、真にあるべき国家体制としての「立憲君主制」の統治機構について簡単にみてみましょう。
 まず、「立憲君主制」は、憲法の存在を前提としつつ、君主権、統治権(行政権)、立法権に分けられます。モンテスキューは『法の精神』(一七四八年)において、立法、司法、行政の三権分立を説きましたが、ヘーゲルの場合、司法権は、福祉行政権とともに統治権のもとに位置し、市民社会の自治に委ねられつつ、国家権力としての統治権の監督を受けることになっています(第二八七節)。
 君主権は、「国家体制の頂点および部分」(第二八一節、追加)として、国家を代表し、統治権の頂点に立っています。その下に君主権を補佐する「最高審議職」(第二八三節)、さらにその指揮下に統治権をもつ政府と、各行政機関が位置しています。最高審議職は、君主にかわって「統治行為に対するいっさいの責任」(第二八四節)を負い、君主は何らの責任も負いません。
 次に統治権ですが、ヘーゲルは、上からの統治と下からの統治の統一を訴えています(第二九〇節)。つまり官庁組織には、職業団体、地方自治団体(福祉行政団体)の長も組み込まれ、市民社会と国家の有機的結びつきが重視されています。統治権の中心を担うのは、市民社会の普遍的身分である最高審議職を頂点とする政府構成員と行政官(官僚)です。ヘーゲルは、「教養ある知性と合法的な意識」(第二九七節)を持つ官吏は、「合法性と知性という点で国家の柱石」(同、追加)だと高く評価しています。
 最後に立法権は、憲法の枠内での法律制定権力です(第二九八節)。議会は、市民社会の職業身分を反映した身分議会とされています。上院は実体的身分(農民、貴族)を代表する土地貴族からなり(第三〇七節)、下院は商工業身分から選出される代議士で構成されます(第三〇八節)。
 というのも、ヘーゲルは、議会の主たる役割を、政府と市民社会との「媒介機関」(第三〇二節)としてとらえているために、議会は市民社会を構成する国民一人ひとりの代表ではなく、「社会の本質的な各圏の代表者」(第三一一節、注解)、つまり職業身分の身分代表だとされているのです。
 また、ヘーゲルにとって、統治権も立法権も同じ人民の一般意志の実現という、国家の精神を体現する統治の機構としてとらえられていますから、両者の区別も相対的なものでしかなく、立法権には「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(憲法四一条)との位置づけはされていません。
 そこから、法律(立法権)と命令(統治権)との区別も相対的なものでしかなく、国家の諸権力の有機的一体性のもとでは、両者は「一つの同じ精神」(第二九九節、注解)にすぎないとされています。
 それどころか「議会という制度は、国家の要件がこの制度によって即自的事実的に最もよく審議され決議されるようになることを使命とするのではない。この面からいえば議会はたんに一つの派生物をなすにすぎない」(第三一四節)と、行政権よりも軽く扱われているのです。
 これに対し、他方で「国家の柱石」としての最高官吏は高い評価を受けています。 
 ヘーゲルは、「国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に対していっそう深くて包括的な洞察を必然的にえている」(第三〇一節、注解)から、「議会なしでも最善のことをなすことができる」(同)のであって、議会の役割は、官吏のオンブズマンという「一種お添物(そなえもの)的な洞察」(同)をするにすぎないとまでいっているのです。

民主制批判への二つの視点

 こうしたヘーゲルの官僚中心の国家体制の考えは、一体どこからきているのでしょうか。
 真にあるべき国家は「即自かつ対自的に理性的なもの」(第二五八節)として、人民の一般意志を国家の精神とするものでなければなりません。しかし、こういう理性的な意志は、諸個人の特殊的意志の寄せ集めから生じるものではなく、優秀な理性的官吏の手にその形成を委ねるべきではないか、それがフランス革命の恐怖政治の教訓ではないのか、というのがヘーゲルの根底をなす考えとなっています。
 ヘーゲルの主権在民あるいは民主制に対するこの批判には、二つの側面があるように思われます。
 一つは、フランス革命における恐怖政治のイメージがあまりにも強く、それが人民全体に対して絶対的信頼をおくことはできないという認識とつながっています。この点にルソーとヘーゲルとの根本的違いがあります。ルソーも、人民が常に正しい政治的選択をするとは考えていませんでした。しかし、人民が正しい政治的選択ができないのは、人民の責任ではなく、人民を欺くものの責任だと考え、ルソーは人民に無限の信頼をおいていたのです。
 「人民の決議が、つねに同一の正しさをもつ、ということにはならない。人は、つねに自分の幸福をのぞむものだが、つねに幸福を見わけることができるわけではない。人民は、腐敗させられることは決してないが、ときには欺かれることがある。そして、人民が悪いことをのぞむように見えるのは、そのような場合だけである」(『社会契約論』四六、四七ページ)。
 恐怖政治という歴史の現実をふりかえるとき、果してルソーのいうように人民を絶対的に信頼していいのかどうかは問題であり、また人民主権下においてなぜ恐怖政治が生じたのかも、検討に値する問題だということができるでしょう。
 もう一つは、ヘーゲルの理性に対する信頼です。人間の精神活動が、理性的なものの高みにまで到達するところに、ヘーゲルはその価値を見出しており、国家も理性的な国家として、はじめて真にあるべき国家となるのです。理性との対比でとらえられるのは、恣意です。個々人の意志は、直接的自然的状況のもとでは恣意にすぎませんから、個々の人民の意志を一つの全体意志にまとめたとしても、それは、恣意の集合にすぎないのであって、決して理性的意志にはなりえないとヘーゲルは考えています。普通選挙にもとづく多数決原理が必ずしも理性的な結論を生みだしていないことを考えれば、ヘーゲルの批判にも耳を傾けるべきものがあります。ヘーゲルは、こういう理論的認識の立場にたって主権在民論あるいは民主制への批判をおこなっているのです。
 人民をどうみるべきなのか、多数決原理という民主主義的原則は、正しいものとして是認すべきものか否か、ヘーゲルのつきつける問題には、避けて通ることのできない重要な論点がふくまれています。
 それでは、以下、ヘーゲルのいうところを聞いてみることにしましょう。

 

二、ヘーゲルの主権在民論批判

世論と人民をどうみるか

 「だれが国家体制を作るべきか、というもう一つ別の疑問がともすると起きてくる。この問いは見たところはっきりしているように思えるが、もっとよく見てみると、無意味であることがすぐわかる。というのは、この問いは、どんな国家体制も存在していず、したがって諸個人のたんなる原子論的な群れがたむろしていることを前提にしているからである。そこで右の問いは、諸個人の一つの群れはどのようにして一つの国家体制に達するのであろうか、みずからによってなのか、他人によってなのか、平和的手段すなわち思想によってなのか、それとも暴力によってなのか、ということになるが、これはどこまでもこの群れ自身の決定に委ねなければならないであろう。群れにかかわり合ういわれは、概念にはないからである」(第二七三節、注解)。
 これは、まだルソーのいう自然状態の人間、国家成立前の「原子論的な群れ」の人間をとりあげているのですが、人間の集団を「群れ」とみなし、この「群れ」からは理性的なものは生まれえないから、「群れ」が国家体制をつくるというのはナンセンスであって、国家形成に関し「群れ」にかかわり合ういわれはない、とするあたりに、ヘーゲルの人民のとらえ方が示されています。
 個々の人民が、政治にかんして形式的自由(恣意)にもとづき、その政治的意志を表明するとき、それは世論となります。
 「世論においては、即自かつ対自的に普遍的なもの、実体的にして真なるものが、その反対のものと、すなわち多くの人々の私見というそれ自身としては個人独自の特殊的なものと結びついている。だから現実に現われた世論は、それ自身の現存する矛盾、現象としての認識であり、その本質性は非本質性とまったく同様に直接的である」(第三一六節)。
 世論がつねに大きく二分されているということは、わたしたちも日常的に新聞の世論調査などで経験しているところであり、「世論のなかでは、真理と限りない誤謬とがきわめて直接に結合している」(第三一七節、注解)のです。
 世論のなかには、人民の一般意志あるいはその萌芽は存在しているのですが、世論自身は何が人民の実体的意志、つまり一般意志であるかを認識しえないのです。「実体的なものこそ世論の内に含まれている核心」(同)でありながら、「だがこの実体的なものは世論からは認識されえない」(同)のです。
 だから、「世論は、尊重にも軽蔑にも値する」(第三一八節)のであって、「世論に従属しないことが、偉大にして理性的なものへ至る〔現実においても学においても〕第一の形式的条件なのである」(同)。
 以上の世論への評価は、一定の限度で正しいものであるといわざるをえません。
 この世論の見方は、同時に人民という「集団(塊り)」をどうみるかという問題につながってくるのです。
 「人民という言葉は往々にして個々人としての多くの人々の意味に解されるが、個々人としての多くの人々はなるほど一つの集まりではあるが、しかし多数の衆としての集まりにすぎない。――これは定形のない塊りであって、その動きとふるまいは、まさにそれゆえに自然力のように暴力的で、無茶苦茶で荒々しく、恐るべきものであるであろう。だからわれわれは、国家体制ないし憲法にかんする論議において、相変わらず人民というこの非有機的な全体のことが語られるのを聞くや否や、それだけでもう、一般論とひねくれた長談義しか期待できないものと、あらかじめ心得てかかっていいわけである」(第三〇三節、注解)。
 ここには、恐怖政治の負の経験が色濃く反映しています。人民を「定形のない塊り」(第二七九節、注解)としてとらえるこの見解は一面の正しさをもっていますが、けっして全面的に賛同することはできません。いずれにしてもヘーゲルは、この見地から人民の意志は、選挙においても職業団体、地方自治団体という「定形のある塊り」の意志、つまり組織された意志として表示されるべきだという結論を引き出しています。
 それでは、次にヘーゲルが、すべての人民に選挙権を与える普通選挙制や代議制をどうみているかをみてみましょう。

普通選挙制と代議制をどうみるか

 まず、ヘーゲルは、下院の選挙は、「もろもろの組合や地方自治団体や職業団体などに分節されている社会として代議士選出を行なう」(第三〇八節)という「社会の本質的な各圏の代表者」(第三一一節、注解)の選出だから、「選挙するということはそもそもなにか余計なことであるか、それとも私見と恣意との取るに足りない遊びに帰着する」(第三一一節)とみなしています。したがって普通選挙制についても次のような評価となっています。
 「多数の個々人による選挙についてなお一言しうることは、とくに大きな国家では、自分の一票などは多数の衆のなかではさしたる効果をあげないという理由から、自分の票を投ずることに対して必然的に無関心な態度が生じ、投票権がどれだけ高い価値があると諭されても、有権者たちは必ずしも投票には現われないということである。――こうしてこのような制度からはむしろ、それのたてまえとは逆のことが結果として生じるのであって、選挙は少数者や一党一派の手中におちいり、したがってほんとうはまさに解消されなければならないはずの特殊的な偶然的利益に支配されることになるのである」(第三一一節、注解)。
 選挙を一種の利益代表と考えること自体の問題はあるものの、普通選挙制へのヘーゲルの指摘は、わが国の国政選挙での投票率の低さや、無関心層の増大をみるとき、一定の説得力をもつものとなっています。それと同時にこの低投票率が結果的にムネオ政治にみられるような自民党の公共事業を利用した利益誘導型選挙と、ゼネコン・大企業優先の政治を生みだしていることをも思い起こさせるものとなっています。
 次に、代議制に関して。
 「議会の協賛の必要性ないし有用性にかんして、常識がさしあたりいつも思い浮かべる観念にしても、主としてほぼつぎのようなものである。すなわちそれは第一に、国民から出てくる代議士、いやそれどころか国民でさえも、何が国民の福祉に役立つかを最も善く理解しているはずであるという観念」(第三〇一節、注解)であるが、「実情はむしろ逆」(同)である。
 すなわち、「理性の欲するものを知るということは、深い認識と洞察の結実であって、こうした認識と洞察は必ずしも国民のあずかり知ることではないのである。――公共の福利と公共の自由のために議会がなすところの保証は、ちょっと考えただけで、議会の特殊な洞察のうちにはないことがわかる。――というのは、国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に対していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣をも必然的に具え」(同)ているからである。
 つまり、国家の実現すべき「公共の福利と公共の自由」という人民の一般意志を洞察しうるに足る深い認識をもっているのは、人民でもなければ、議会でもなく、「国家の最高官吏」だというのです。
 ここには、当時のプロイセンの特殊な事情が反映されています。イエナ会戦でナポレオンに敗れたプロイセンでは、「国家の最高官吏」であったシュタインと、それを引き継ぐハルデンベルクの手による上からの民主的改革が進められていました。シュタインはフランス革命のかかげた自由の精神をとりいれながら、農民を地主階級から解放したり、都市自治制を実施したりして、統一した近代国家を実現しようとしました。この「シュタイン=ハルデンベルクの改革」にヘーゲルは大きな期待をかけたのです。
 最後に、こうした考えの総まとめとして、ヘーゲルが、主権者は国民一人ひとりだとする主権在民論をどうみているかをみてみましょう。

主権在民論をどうみるか

 「国民主権を、君主のうちに顕現している主権に対立するものとするのが、近ごろ国民主権について語られはじめた普通の意味である。――だがこのように君主主権に対立させられた国民主権は、国民についてのめちゃな表象に基づく混乱した思想の一つである。国民というものは、君主を抜きにして解されたり、まさに君主とこそ必然的かつ直接的に関連している全体の分節的組織を抜きにして解されたりする場合は、定形のない塊りであって、これはもはや国家ではない」(第二七九節、注解)。
 ヘーゲルは、国民全体を一つに統合する君主から切りはなされバラバラとなった国民は、「定形のない塊り」にすぎず、理性的な国家を形成しうる存在ではないと考えます。したがって君主主権との対比で語られる国民主権ないし主権在民論は、国民ないし人民という「定形のない塊り」をあたかも理性的な「塊り」であるかのようにとらえる「国民についてのめちゃな表象に基づく混乱した思想の一つ」だということになるのです。
 以上、かなり長文にわたって、ヘーゲルの人民と民主制に対する見解を紹介してきました。そこには、一面で深い洞察にもとづく真理がとらえられていると同時に、他面では民主主義の普遍的意義にてらして、そのままでは到底是認できないという面も含まれています。そこで項をあらためて、ヘーゲルの民主制批判の検討をしてみたいと思います。

 

三、「ヘーゲルの主権在民論批判」の批判

人民主権国家をどうやって実現するのか

 ヘーゲルにとって、真にあるべき国家は、自由の現存在としての理性的な国家です。理性的ということは、普遍性と特殊性とが相互に浸透しあって一体をなすことであり、これを内容に即していえば、客観的自由と主体的自由とが一体をなすことを意味しています(第二五八節、注解)。こうして最高の共同としての国家において、個人の最高の自由が実現することになります。また国家と人民とは、一体となり、「個個人の最高の義務は国家の成員であることである」(第二五八節)ということになるのです。
 自由は、意志の根本規定であり、意志は自由なしには空語にすぎません。人間は自由な意志をもつ人格として、自由な主体であることをその本質としています。
 国家と人民との一体性は、自由な主体の自由な意志をつうじて現実のものとなります。したがって、その一体性は、人民のなかから生まれる人民の一般意志(未来の真理としての意志、真にあるべき意志)を、憲法として確立し、これを国家の意志、国家統治の意志にすることによってしか生じることはできません。ヘーゲルもそのことに気づいて、「近代における国家理念の特色は、国家を主観的意向に基づくのではなくて意志の概念、すなわち意志の普遍性と神性に基づく自由の実現態とするところにある」(第二六〇節、追加)といっているのです。
 ヘーゲルが、人民の一般意志にもとづいて国家と人民の一体化を実現する人民主権国家を建設しようとしたのは評価しうるところですが、問題は、人民の一般意志がどのようにして形成されると考えたのかにあります。
 ルソーは、人民の個々の特殊的意志を寄せ集めた全体意志から一般意志が形成されると考えましたが、そのためには、人民を啓蒙する神にも等しい「立法者」が必要だと考え、結局母国フランスにおいてすら人民主権が現実のものになるとは考えていませんでした。

ヘーゲルの矛盾

 ヘーゲルは、ここでルソーと同様大きな矛盾にぶつかったのでした。人民の一般意志は、人民のなかから生まれなければならないと同時に、人民から生まれることはできない、という矛盾です。
 〝ここがロドスだ、ここで跳べ〟
 ヘーゲルは、「世論のなかにはいっさいの虚偽と真実が含まれているが、そのなかの真実のものを見つけるのが偉人の仕事である。時代が意志しているものを、言い表わし、時代に告げ、そして成就する者、これが時代の偉人である。彼は時代の心髄にして本質であるところのものを行なって、時代を実現する」(第三一八節、追加)といっています。
 そしてヘーゲルは、この「時代の偉人」を優秀な官僚群に見出したのです。もちろんヘーゲルの考える官僚群は、現在の資本主義国家における官僚群ではなく、国家と人民が一体化した真にあるべき国家における官僚群であり、現在におきかえて考えるならば、国家公務員労働組合のなかにあって、人民に服務することを信条とした民主的な公務員労働者群ということもできるでしょう。
 しかし、立憲君主制のもとにおける、君主を頂点とする統治権の担い手としての官僚群という外形からするかぎり、ヘーゲルの国家論は、真にあるべき国家としての正しい方向を見出しながらも、その一般意志形成の担い手の問題において巨大な流産とならざるをえなかったのです。
 この矛盾を解決したのが、他ならぬマルクス、エンゲルスのプロレタリアート執権の理論でした(拙著『科学的社会主義の源泉としてのルソー』参照)。
 マルクスは、一八七一年のパリ・コミューンを目の当たりにして、「プロレタリアート執権」の概念を充実させ、発展させていきました。マルクスは、「時代の偉人」や神のごとき「立法者」の手を借りることなく、「定形のない塊り」としての人民のなかから一般意志を導き出すためには、人民の先頭にたって、人民の導き手となる労働者階級の指導的役割が必要であることを見出し、それを「プロレタリアート執権」とよんだのです。また同時に、労働者を労働者階級という「階級」に組織するには、不屈性と先見性とをともなった労働者階級の政党が必要となってくることを明らかにしました。労働者階級の政党が、真理に接近しうる科学的社会主義の理論によって武装し、人民の前に、人民の未来の真理としての一般意志を提示し、これを人民全体の意志におし広げていくところに、「プロレタリアート執権」の真の意義があります。これによってはじめて「定形のない塊り」としての人民は、一般意志を自らの手にし、これを国家意志とすることによって、国家と人民の一体化した人民主権国家を現実のものとすることができるのです。
 一七九二年のジャコバン独裁は、一般意志にもとづく統治を意図しながらも、人民の一般意志を形成する労働者階級とその政党が存在しなかったために、恐怖政治へと暴走することになってしまったのです。

矛盾の解決としてのプロレタリアート執権

 一般意志は、人民から生まれなければならないと同時に、人民から生まれえないという矛盾は、「プロレタリアート執権」により解決され、無事〝ロドス〟で跳ぶことになるのです。
 真にあるべき国家が、治者と被治者の同一性を実現する国家であることは、絶対的真理といっていいでしょう。そのためには、被治者である人民の真にあるべき政治を求める意志が、国家の意志、国家統治の意志となるべきことも、また同様に絶対的真理です。
 人間は、社会的存在であり、社会共同体とともに人間として発展してきました。その意味では人間が社会をつくり、社会が人間をつくってきました。社会共同体が共同体として維持・発展していくためには、社会共同体は成員全ての意志を反映した共同体の精神としてのルールを持ち、成員がそのルールにしたがって生活することが求められることになります。
 こういう社会共同体を維持・発展させるルールが、民主主義といわれるものです(拙著『人間解放の哲学』参照)。
 民主主義の原則の一つは、手続き民主主義、つまり社会共同体としての意志は、その成員全員の個別意志を集めた全体意志として決定されるという手続きとなってあらわれます。
 社会共同体の意志は全体意志のなかの多数意志として決定される、という原理が、多数決原理といわれるものです。多数決原理そのものは、手続き民主主義のあらわれとして、無条件に正しいものであり、主権在民の根本原理となります。しかしルソーやヘーゲルも指摘するように、〝多数決は必ずしも真ならず〟です。多数の恣意による決定は、常に正しい選択をする概念的自由に到達しているわけではないのです。
 そこから多数決原理のもつ欠陥を止揚した、もっとも民主的な国家意志決定の方法が探求されることになり、ルソーの一般意志という概念が誕生するに至ったのです。
 「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」(『社会契約論』一三三ページ)という有名な文章は、多数決原理の批判をも含むものとして理解されるべきものでしょう。
 人民の「意志の概念」(真にあるべき意志)としての一般意志をもって国家意志とすることは、民主主義を頂点にまで押しすすめたものであると同時に、人民の主体的自由を真に実現するものであり、この民主主義的ルールの確立によって、社会共同体は、治者と被治者の同一性を完全に実現することができるのです。これがルソーのいう人民主権国家です。その意味では、人民の一般意志にもとづく国家の統治は、真にあるべき未来社会を示した真理ということができます。マルクス、エンゲルスが、『共産党宣言』のなかで未来社会を「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会」(全集④四九六ページ)といっているのも、同様の趣旨をのべたものということができます。
 しかし、ルソーの人民主権国家は、ジャコバン独裁下の恐怖政治により歴史的な批判をこうむることになり、この経験のうえに、ヘーゲルの高級官僚による人民主権国家が提案されることになります。しかし、人民から遊離した高級官僚が、人民の一般意志を形成しうると考えることは、しょせん観念論的議論に他なりません。人民の一般意志は、あくまで人民の全体意志を通じて、全体意志のなかから導き出されねばなりません。こうした一般意志形成の弁証法的発展として、マルクス、エンゲルスのプロレタリアート執権と結びついた「主権在民の人民主権国家」の理論が誕生することになったのです。
 マルクス、エンゲルスが、「ヘーゲル国法論批判」の段階から、いかにしてプロレタリアート執権論にまで辿りついたのか、その過程で『法の哲学』でヘーゲルが提起した矛盾をどのようにとらえ止揚しようとしたのか、それをここで論ずる時間はありませんので、今後の研究に委ねたいと思います。
 あらためて明確にしておかなければならないのは、「主権在民」と「人民主権」とは、概念上明確に区別しなければならないということです。主権在民とは、国家の統治意志を決定する最終的権限が人民にあることを意味しています。人民の普通選挙制にもとづく民主共和制は、主権在民を示すものです。これに対し人民主権とは、人民の一般意志にもとづく国家統治による治者と被治者の同一性の実現を意味しています。いわば、主権在民はルソーのいう全体意志に、人民主権は、ルソーのいう一般意志に結びつく概念です。
 ですから、わたしたちが展望する真にあるべき未来社会は、「主権在民の人民主権国家」でなければなりません。主権在民を人民主権に結びつけるものこそプロレタリアート執権なのです。
 しかし、その後レーニンのもとで、プロレタリアート執権論は、主権在民論からも人民主権論からも切り離され、大きく歪曲されることになりました。
 それがいま、日本共産党綱領、とりわけ新綱領のなかで完全復活を遂げ、「国民が主人公」をキーワードとする未来社会論として公然と語られるようになったのです。「国民が主人公」とは、主権在民と人民主権の両者を含む、「主権在民の人民主権」を意味するものといっていいでしょう。


四、国際公法と世界史(第三三〇~三六〇節)

 ヘーゲルは、国内公法として、君主権、統治権、立法権、対外主権などの項目について細かい議論を展開していますが、以上で、「国内公法」を終えることにします。わたしたちが、科学的社会主義の見地から『法の哲学』を学ぶうえでは、これまで検討してきた諸問題で十分であり、それ以上にこれらの問題に深入りする今日的意味はあまり存在しないと思うからです。
 そこで、最後に、「国際公法」と「世界史」の問題を一しておくことにしましょう。
 国家は、対外的には、国家主権をもつ独立した国家として登場します。
かつて、ベトナムがアメリカの侵略に反対して戦ったとき、ホー・チミンは、「もっとも尊いものは自由と独立である」といって、人民のたたかいを激励しました。真にあるべき国家は、人民と一体となった国家ですから、その国家の独立を守ることは、人民の倫理的義務となるのです。ヘーゲルは、それを「おのれの所有や生命までをも、危険にさらし犠牲に供することによって、この実体的個体性を、すなわち国家の自立と主権を維持するという義務である」(第三二四節)といっています。
 「国際公法は独立した諸国家の関係を基とする」(第三三〇節)。
 したがって国際公法(国際法)の原則は、国家間の契約である条約は遵守せらるべし(第三三三節)ということになります。
 しかし「国家間には法務官は存在せず、たかだか仲裁者や調停者がいるだけ」(同、注解)であり、条約が守られないことによる国家間の争いは、「それぞれの国家の特殊的意志が合意を見いださないかぎり、ただ戦争によってのみ解決されうる」(第三三四節)ことになります。
 かつて搾取も階級も国家も存在しなかった時代には、戦争も存在しませんでしたが、人類社会が階級社会に突入してくるとともに戦争が始まりました。とくに近代社会になって、残虐な大量破壊兵器が開発されるなかで、非戦闘員もまきこむ無差別大量殺人が行なわれるようになり、人類はどうすれば戦争をなくすことができるのか、を真剣に模索し、苦闘するようになります。
 一六世紀には、エラスムスが「平和の訴え」をあらわし、一八世紀初頭には国際平和機構の設立を訴えたサン・ピエール、次いでルソー、カントが登場します。
 「カントは国家連合による永久平和を思いえがいた。彼は国家連合が、あらゆる争いを仲裁してくれ、各個別国家によって承認された威力として、あらゆるを調停してくれ、したがって戦争による解決を不可能にしてくれるだろう考えた。しかし、この考えが前提としている諸国家の同意は、・・・・・・は、特殊的な主権的意志に基づくものであろうし、そのためどこまでも偶然性にまとわれたものであろう」(第三三三節、注解)。
 諸国家は、相互の関係においては、特殊的意志をもつにすぎないから、戦争をなくすためにはこの特殊性を支配する威力としての普遍的精神が必要となってくるというのです。
 「この弁証法から、普遍的精神すなわち世界の精神が、無制限なものとして、まったくそれのあるがままの姿で出現し、おのれの法を――その法こそ至高の法である――世界審判としての世界史において、各民族精神に対して執行するのである」(第三四〇節)。
 ヘーゲルは、人類の歴史には発展法則があるととらえ、「世界史とは自由の意識の進歩を意味するのであって、――この進歩をその必然性において認識するのが、われわれの任務なのである」(『歴史哲学』上四四ページ)といっています。
 人類は、「自由な意識」を進歩させ、諸国家の特殊的意志を支配し、戦争をなくす「世界の精神」を生みだしてきたのです。それを今日的にいえば、国連憲章ということになるでしょう。
 国連憲章は、第二次大戦の反省のうえにたって、「国際の平和及び安全を維持すること」を目標につくられました。国連は今や世界の一九一カ国が参加する組織となり、国連憲章は文字どおりの世界精神となっています。
 この国連憲章は第二次大戦の反ファッショ連合国が作成したものであり、国連結成の中心をになったのがアメリカだったところから、国連は長い間、アメリカが思いのままに世界を支配する組織となってきました。
しかし、今回のイラク戦争で、国連は国連憲章の精神に則って、はじめてアメリカに「ノー」をつきつけ、自由な世界精神としての存在感を全世界にアピールしました。
 「世界史はさらに、普遍的精神の威力によるたんなる審判ではない、すなわちある盲目的運命の抽象的で没理性的な必然性ではない。普遍的精神は即自かつ対自的には理性であり、理性の対自存在は精神においては知であるから、世界史はむしろ、もっぱら精神の自由の概念からする理性の諸契機の必然的発展、したがって精神の自己意識と精神の自由との必然的発展であり、――普遍的精神の展開であり現実化である」(第三四二節)。
 ヘーゲルは、人間の理性に無限の信頼をおき、精神の国は自由の国であるととらえました。世界精神は、たんに「没理性的な必然性」として、諸国家に威力を示すのではありません。自由な精神から生まれる真理の持つ力、理性の持つ力によって、威力を示すのです。もしヘーゲルが今回のイラク戦争で国連の果した役割をみたならば、きっとこう言ったことでしょう。
 「世界精神は、ついに真にあるべき姿として出現し、世界審判としての世界史において、おのれの法をアメリカの民族精神に対して執行した」と。