『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第一九講 ヘーゲルからマルクスへ

一、マルクスの問題意識

 第一八講までで、一応『法の哲学』は終えたこととし、ここでマルクスのヘーゲル『法の哲学』批判を検討してみることにします。
 その内容に入る前に、マルクスにとって、ヘーゲル批判がどういう位置づけをもち、どういう意図をもって行なわれたのかを、もう一度みてみることにしましょう。
  第一講でもふれましたが、マルクス自身が自己の思想的発展を分析的に明らかにした「経済学批判・序言」は、次のようにのべています。
 「私を悩ました疑問の解決のために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であって、その仕事の序説は、一八四四年にパリで発行された『独仏年誌』に掲載された。私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解されうるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根ざしているものであって、これらの諸生活関係の総体をヘーゲルは、一八世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、『市民社会』という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない、ということであった」(全集⑬六ページ)。
 ここにいう「私を悩ました疑問」というのは、右の記述からして、経済と政治・国家の関係、いいかえれば、市民社会と国家の関係をどうとらえるべきかという疑問だと考えていいでしょう。この「疑問の解決」のために、マルクスが最初に取り組んだのが、ヘーゲルの『法の哲学』だったということは、マルクス自身、ヘーゲル左派に属していたというだけでなく、この著作が、国家、政治、経済の全体を取り扱い、しかも当時最も強い影響力をもっていたからでもあったのでしょう。
マルクスのヘーゲル『法の哲学』批判は、「独仏年誌」に掲載された「ユダヤ人問題によせて」(一八四三年秋)「ヘーゲル法哲学批判・序説」(一八四三年末)の他にも、「ヘーゲル国法論批判」(一八四三年夏)や「批判的論評」(一八四四年七月)があります(いずれも全集①に収録)。中心となるのは「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル国法論批判」であり、前者が市民社会と国家との関係を大きくとらえているのに対し、後者では、『法の哲学』の第二六一節から第三一三節まで(第三部、第三章「国家」の一部)について逐条的な批判をしています。
 マルクスは「独仏年誌」に載せた「法哲学批判・序説」に続いて、「序説」に続く本文に相当する「国法論批判」を(『法の哲学』全体についての逐条的批判として完成させたうえで)発表しようと思っていたようですが、ヘーゲル『法の哲学』全体を批判するとなると、膨大なページ数になってしまい、一つの著作にまとめることには無理があると考え、中断してしまいました。マルクスは、「さまざまな独立の小冊子のかたちで法、道徳、政治等々の批判をつぎつぎに出し、そして最後に一つの別個の著作においてさらに全体の連関、個々の部分の関係、そして締めくくりとしてあの材料の思弁的加工の批判を示すよう試みるつもり」(全集㊵三八七ページ)であったことを「一八四四年の経済学・哲学手稿」で述懐しています。
 実際にもマルクスは一八四五年頃、「市民社会と共産主義革命」(全集③五九六ページ)と題する「政治学プラン」をたてています。それによると、「近代国家の成立史あるいはフランス革命」「人権の宣言と国家の憲法」「国家と市民社会」「代議制国家と憲章」「権力の分割」「立法権・執行権・司法権」「人民・政党・選挙権」など、いわば「マルクスの国家論」ともいうべき構想が展開されています。そのなかでフランス革命に関連して、「政治的制度の思いあがり」と指摘していることや、「人権の宣言と国家の憲法」に関連して「人民主権」がとりあげられていることなどが注目されるところです。しかし、結局この「政治プラン」も構想のままに終わり、また「国法論批判」も一九二二年リャザノフによって発見され、一九二七年モスクワの「マルクス、エンゲルス研究所」によって公表されるまで、未完の草稿のまま八〇年間も眠り続けることになったのです。
 こうしてマルクスの『法の哲学』全体におよぶ批判は、実現することができませんでした。市民社会と国家との関係を解明するとしながら、「国法論批判」には、『法の哲学』第三部第二章の市民社会論への批判が全く含まれていないのは、こうした事情によるものといわなければなりません。
 エンゲルスは、一八八八年『フォイエルバッハ論』において、「ヘーゲルとわれわれとの関係についてわれわれはあちこちで考えを述べはしたが、しかしどこでも包括的な連関で述べるということはしなかった」(全集㉑二六七ページ)と述べています。それと同時に、「このような事情のもとで、ヘーゲル哲学とわれわれとの関係について、すなわち、われわれがどのようにしてこの哲学から出発し、どのようにしてそれから離れたかについて、手短かにまとめて叙述することがますます必要になっ」た(同)と、『フォイエルバッハ論』出版の事情を説明しています。それでは、この論文でエンゲルスが、『法の哲学』の全面的な批判的検討をしているのかといえば、「手短かにまとめて叙述」とあるように、けっしてそうではありません。第一講でお話ししたように、ヘーゲル哲学の革命的性格と「今日でもなお完全に値うちのある無数の宝がある」(同二七四ページ)などの点が指摘されるにとどまり、この論文の主題は、あくまでフォイエルバッハの批判にとどまっています。
 こうしてみてくると、結局、マルクス、エンゲルスにとって『法の哲学』は、科学的社会主義の出発点となるものであり、『法の哲学』の批判的検討をつうじて科学的社会主義の学説を構築する契機となったことは理解しうるものの、マルクス、エンゲルスによるその全面的検討と批判は、未完のままに終ったものといわなければなりません。
 したがって、この残された課題を受け継ぎ、『法の哲学』がいかなる意味で科学的社会主義の出発点となり、あるいは科学的社会主義の源泉となったのかを検討することは、現代に生きるわたしたちに残された課題となっているのです。

 

二、マルクスのヘーゲル批判

史的唯物論の出発点

 以上を前提としながら、「国法論批判」を中心にマルクスの『法の哲学』批判をみていくことにしましょう。
 最初にとりあげるのは、「経済学批判・序言」でもとりあげられた、メインテーマである国家と市民社会の関係をどうみるか、の問題です。
 ヘーゲルは、市民社会と国家を、はじめて明確に分離してとらえ、かつ両者を対立するものとしてとらえつつ、官僚と職業団体、地方自治団体という中間団体を媒介として、国家と市民社会とを統一し、治者と被治者の同一性を実現しようとします。市民社会は、主体的自由の原理、特殊性の原理を基本とする市場経済の社会であり、そこから生じる諸矛盾を人民の一般意志を体現した国家によって規制し、国家と人民の一体化を実現しようというものです。これはエンゲルスにいわせると「国家が規定的な要素で、市民社会は国家に規定される要素」(全集㉑三〇五ページ)であるという見方です。
 これに対してマルクスは、国家と市民社会の同一性は幻想にすぎないと批判しています。何故それが幻想にすぎないのかといえば、フランス革命がそれを証明しているというのです。
 マルクスは、フランス革命によって「政治的生活と市民社会の分離はこれでもって完了していた」(全集①三二〇ページ)としたうえで、政治的生活は「空中楼閣であり、市民社会の霊気圏」(同三一九ページ)だといっています。その結果、「個々の国民が彼らの政治的世界の天国にあっては平等で、社会の地上的生活にあっては不平等となるようにしたのは、歴史の一進歩である」(同三一九ページ)と、皮肉たっぷりにのべています。つまり、革命によって国家は、理性的普遍的国家に変革されたものの、市民社会は、何ら根本的には変わってはいないのであって、なるほどフランス革命は、「歴史の一進歩」ではあるものの、到底これで満足すべきものではないとの批判です。
 同様の見解は、「ユダヤ人問題によせて」でも示されています。
 「政治的国家が真に発達をとげたところでは、人間は、ただ思考や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。すなわち、一つは政治的共同体における生活であり、そのなかで人間は自分で自分を共同的存在だとおもっている。もう一つは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他人を手段とみなし、自分自身をも手段にまで下落させて、ほかの勢力のとなっている。政治的国家は市民社会にたいして、ちょうど天上が地上にたいするのと同じように、精神主義的に臨む」(同三九二ページ)。
 マルクスが、先にあげた「政治学プラン」で、フランス革命に関連して「政治制度の思いあがり」(全集③五九六ページ)とのべているのも、同様の趣旨と理解しうるものです。
 こうした見地から、マルクスは、国家と市民社会の分離・対立を官僚と中間団体を媒介に統一しようとするヘーゲルを批判し、「彼が市民社会と国家とのあいだにでっち上げる同一性は二つの敵対する軍勢の同一性」(全集①二八七ページ)であって、虚構にすぎないと批判しています。
ここから導き出されるべき結論は、本来なら、普遍的理性的国家にふさわしく市民社会も改革されて「天上と地上との二重の生活」が解消される、ということでなければなりません。しかし、「国法論批判」の段階では、マルクスはまだその方向を明確に打ち出すにはいたっていません。わずかに、政治的国家と市民社会との矛盾を、「ただ指摘するだけでなく、それらの矛盾を明らかにし、それらの生成、それらの必然性を把握する」ことが求められているというのみであり、そのためには、「ヘーゲルの考えるように、論理的概念の諸規定をいたるところに再認するところにあるのではなくて、独自な対象の独自な論理をつかむところにある」(同三三二ページ)として、市民社会の独自の分析が必要であることを示唆するにとどまっています。
 こうしてこの段階でのマルクスの見地は、まだ「国家すなわち政治的秩序は従属的なものであって、市民社会すなわち経済的諸関係の領域が決定的要素である」(全集㉑三〇五ページ)とする史的唯物論の立場に明確にたったものではありませんが、国家を「規定的な要素」とするヘーゲルへの批判が、後に史的唯物論に結実することになったのです。
 しかし、国家の本質は土台である経済的諸関係によって規定されるとする史的唯物論が基本的に正しい理論であることは否定しがたいとしても、そこからあらゆる「国家、すなわち政治体制は従属的なものであって、市民社会すなわち経済的諸関係の領域が決定的」との一般的結論を導き出すとすれば、それは言いすぎといわざるをえません。
現に、マルクスが「経済学批判・序言」のなかで規定した史的唯物論の定式は、土台が上部構造を規定するとのべたうえで、次のようにこれを展開しています。
 「社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる」(全集⑬六、七ページ)。
 このように、マルクスも、「社会革命の時期」に「上部構造全体」、つまり国家とそのもとでの政治的、法的諸関係が、「急激にくつがえる」ことを認めています。
 マルクス、エンゲルスが、プロレタリアート執権論を唱えた理由の一つは、労働者階級が国家権力を手に入れ、国家の力によって社会改革とりわけ経済改革を押しすすめる必要があることを強調したいところにありました。つまり、「社会改革の時期」には、まず「上部構造全体」がくつがえり、政治的・法的諸制度が改革されると同時に、この改革された上部構造の力によって、土台を改革すること、すなわち上部構造が土台を規定することが必要であると考えたのです。
 エンゲルスは、パリ・コミューンの経験をふまえて、次のように語っています。
 「プロレタリアートの勝利ののちに、勝利した労働者階級がすぐ使えるかたちで見いだす唯一の組織が、まさに国家なのです。この国家はそのあらたな機能を果たすためには、改造を必要とするでしょう。だが、このような時点でそれを破壊することは、勝利した労働者階級が、その助けをかりて、新しく奪取したその権力を有効にはたらかせ、資本家というその敵を制圧し、社会の経済革命を遂行することができる唯一の機構を破壊することになるでしょう。この社会の経済革命がおこわれなければ、勝利全体が敗北と、パリ・コミューン後のそれと同じような労働者階級の大量虐殺とに終わらざるをえないのです」(全集㊱九、一〇ページ)。
 ヘーゲルの国家論は、矛盾が激化して革命期に至れば、まず政治的革命が生じ、政治的革命から生まれた国家が土台である経済体制を規定することもありうることを明確にしたものです。その意味では社会の変革は、土台(経済的諸関係)と上部構造(政治と国家)の両面において必要であるとの問題提起をしたという功績を認めることができるのではないでしょうか。
 現にフランス革命自体も、政治的革命として歴史の舞台に登場し、新しい革命国家が土台である経済的諸関係を改革して封建的な制約を否定し、資本主義的経済体制をつくりあげていったという歴史的経過を辿っているのです。
 社会をみるとき、経済を土台としてみるという見解を、いかなる場合にも妥当すると考えると、第一一講でもふれたように民主連合政府の意義そのものをも否定することになりかねません。
 他方、ヘーゲルの見解は、真にあるべき国家を資本主義の枠内での民主的改革にとどめてしまい、市民社会の変革を伴う社会主義・共産主義社会という搾取のない社会は展望しえないという限界をもっています。この制約を打ち破ったのが史的唯物論だったことはいうまでもありません。

ヘーゲルの観念論批判と変革の立場

 次に指摘したいのは、マルクスが『法の哲学』の検討をつうじて、ヘーゲルの観念論を批判し、唯物論の立場を明確にしていったという問題です。
 マルクスは、「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「ヘーゲルによってもっとも徹底した、もっとも豊かな、最後的な表現を得た」「ドイツの国家哲学と法哲学」(全集①四二一ページ)の批判のポイントは次の二つだといっています。
 一つは「近代国家およびこれと関連した現実の批判的分析」(同)、つまり、ドイツの立憲君主制の批判です。マルクスはこれを「民主制」の理念との対比で批判を加えています。
 二つは「ドイツの政治的・法的意識の従来のあり方全体の決定的な否定」、つまり『法の哲学』の観念的体系に対する批判です。
 まず後者の方からみていくことにしましょう。
 ヘーゲルの観念論的色彩がもっとも色濃くあらわれるのは、その国家論においてですが、マルクスは、「国法論批判」全体を貫く基調として、ヘーゲルの観念論批判の立場を明確にしています。
 例えば、第二六二節には、「現実的理念は精神であり、そしてこの精神は、おのれの概念の二つの観念的な圏である家族と市民社会におのれ自身を分かち、こうして有限性となり、しかる後にこれら両圏の観念性から出て対自的に無限な現実的精神となる精神である」とあります。この箇所をどのように理解すべきかについては、すでに第一七講でお話ししました。
 マルクスはこの箇所をとらえて、「論理的汎神論的神秘主義が非常に歴然とあらわれる」(全集①二三六ページ)と批判し、「この節のうちに法哲学、またヘーゲル哲学一般の全秘密が蔵されている」(同二三八ページ)と決めつけています。
 また国家の理念は展開して、政治的心術と国家の有機組織となるとした第二六七節に関し、「重要なのは、ヘーゲルがどこででも理念を主体にし、そして『政治的意向』のような本来の現実的主体を述語にする」(同二四〇ページ)とか、あるいは「唯一の関心事は、国家の場であろうと、自然の場であろうと、どのような場であれ、ずばりただ『理念』『論理的理念』を見つけ出すことにあるのであって、ここでの『政治的体制』のような現実的な主語は、理念のたんなる名まえにすぎなくなるのである」(同二四一、二四二ページ)とのべています。
 これらの箇所に対するマルクスの批判が、『法の哲学』全体におけるこれらの節の位置づけからして適切なものであったかどうかはさておき、ここにはフォイエルバッハの強い影響を受け、「主語と述語との転倒」というフォイエルバッハの用語法まで借用しながら、ヘーゲルの観念論を徹底的に批判しようとする若きマルクスの姿勢を読みとることができます。
 後年、このヘーゲル批判の立場は、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』において、次のようにまとめられることになります。
 「ヘーゲルでは、自然および歴史のなかに現われる弁証法的発展は、……概念の自己運動のつまらぬ模写にすぎないのである。このようなイデオロギー的なさかだちは、除去しなければならなかった。われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見るのではなしに、ふたたび唯物論的にわれわれの頭脳のなかの概念を現実の事物の模写と解した。これによって弁証法は、外部の世界および人間の思考の運動の一般的諸法則にかんする科学に還元されたのである」(全集㉑二九七、二九八ページ)。
 ただあえて弁明するならば、ヘーゲルが論じているのは、あくまで「真にあるべき国家」という国家の概念ないし理念であるところから、ある程度観念論的表現となったのも止むをえなかったともいえるでしょう。
 さらに重要なことは、ヘーゲルの国家論には、「革命の哲学」という真の姿を押し隠すためにあえて観念論的な、わかりにくい表現を用いたのではないか思われる側面もあることです。しかし、マルクスはこの点を残念ながら汲みとっていないことを指摘しておかねばなりません。
 第一講、第一六講でみたように、ヘーゲルの革命の哲学は、何よりもルソーの一般意志による統治という人民主権論の継承・発展にあります。しかしヘーゲルは当時の政治的状況への配慮から、あたかもルソーの批判者として登場したかのようなポーズをとりつつ、その人民主権論を密かに国家論の中軸にすえたのです。
 その真意を押し隠すために、ヘーゲルは「国家は倫理的理念の現実性」(第二五七節)、「国家は、……即自かつ対自的に理性的なもの」(第二五八節)、「即自かつ対自的な国家は倫理的全体であり、自由の実現態」(第二五八節、追加)などと、観念的な一見すると理解しにくい表現をとっています。しかし他方で第一七講でお話ししたように、自己の真意を「近代における国家理念の特色」に置きかえ、「意志の概念」(第二六〇節、追加)としてさりげなく盛り込むとともに、『小論理学』で、一般意志を常に念頭においていたら、ルソーは「その国家論にかんしてもっと深い業績を残したであろう」(下一二九ページ)として、一般意志を高く評価し、『法の哲学』にそれを取り込んだことを示唆しているのです。
 しかし、当時フォイエルバッハの唯物論に傾倒していて、もっぱらフォイエルバッハの立場から『法の哲学』を批判したマルクスも、やがて、一方ではフォイエルバッハには、変革の立場がないことに気づくと同時に、他方では、あらためて『法の哲学』が革命の哲学であったことに気づいていったものと思われます。それは、「国法論批判」の約二年後、一八四五年春の「フォイエルバッハにかんするテーゼ」のなかにはっきりと示されています。
 「これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。それゆえ能動的側面は、唯物論に対立して抽象的に観念論――これはもちろん現実的な感性的な活動をそのようなものとしては知らない――によって展開されることになった」(全集③三ページ)。
 ここにいう「観念論」は、ヘーゲル以外に考えられません。主体的自由を基調とし、自由な意志にもとづく客観的世界の変革という「実践」の立場こそ、『法の哲学』を貫徹するテーマとなっているからです。
 『フォイエルバッハ論』におけるエンゲルスの、次のようなヘーゲルとフォイエルバッハとの対比もヘーゲルを「実在論的」、つまり唯物論的に再評価するものとなっています。
 『法の哲学』は「(一)抽象的な法、(二)道徳、(三)人倫、をふくみ、人倫にはさらに家族、市民社会、国家が包括されている。ここでは形式は観念論的であるが、内容は実在論的である。……フォイエルバッハではこれと正反対である。彼は形式から言えば実在論的で、人間から出発しはする。しかし、この人間が生活している世界についてはそれこそ一言もなく、それでこの人間は、いつになっても、宗教哲学のなかではばをきかしていたのと同じ抽象的人間のままである」(全集㉑二九一ページ)。
 つまり、ヘーゲルは、フォイエルバッハと違って、人間を「人間が生活している世界」において、唯物論的にとらえている、といっているのです。

プロレタリアート執権論への道

 次に、ドイツの立憲君主制への批判をみてみましょう。
 ヘーゲルが真にあるべき国家として、論理的装いのもとに、プロイセンの国家体制であった立憲君主制をかかげたことについて、マルクスが厳しく批判したのは、民主主義者マルクスからすれば、あまりにも当然のことでした。現に、マルクスは、一八四二年三月のルーゲ宛の手紙のなかで、『法の哲学』批判の核心は、「どこまでも自分と矛盾し自分を止揚する両性体としての立憲君主制に対する攻撃」(全集㉗三四二ページ)にあるとのべています。
 「ヘーゲルの咎められるべきなのは、彼が現代国家の在り方をあるがままに描くからではなくて、現にある姿を国家というものの在り方だと称するからである。理性的なものが現実的であることは、ありとあらゆるところで、その実体はその申し立てるところの逆でありその申し立てるところはその実体の逆であるような非理性的現実性の矛盾のうちにこそ証しされている」(全集①三〇一ページ)。
 『法の哲学』の序文で、「理性的なものこそ現実的」であるといって、いかにも理性的な国家を目指すようなことをいっておきながら、実際に『法の哲学』で理性的な国家として押し出したものは、非理性的で陳腐なプロイセンの立憲君主制という「現実性」ではないか、というのがマルクスの批判です。
 他の箇所でもマルクスは同様の批判をしています。
 「古い内容が一つの哲学的な形式、一つの哲学的証明書を手に入れたのである」(同二七五ページ)。
 「ヘーゲルが『統治権』について言うところは哲学的展開などとよべる柄のものではない。たいていの節はそのまま文字どおりプロイセン国法に載っておかしくなかろう」(同二八〇ページ)。
 こうして、マルクスはまず君主制をとりあげ、「この人格化された理性は『われ欲す』という抽象物以外のいかなる内容をももたない。国家はわれなり(L、Etat cest moi )」(全集①二五九ページ)と批判しています。最後の文章は、フランス絶対君主制の頂点に立ったルイ一四世の言葉で、通常は「朕は国家なり」と訳されています。
 しかし、ヘーゲルのいう「われ意志す」(第二七九節、追加)の意味は、最終的に国家の意志を形式的に表明する役割が君主制であり、「憲法がしっかりしていれば、君主にはしばしば署名するほかにはなすべきことはない」(同)としていることからすれば、ヘーゲルの君主制をあたかも絶対君主のように描き出すマルクスの論難はいきすぎの感をまぬがれません。
 立憲君主制に対するマルクスの批判の中心は、ヘーゲルが国民主権と君主主権について論じた、もっとも論議をよぶ次の箇所にむけられています。
 「しかし国民主権を、君主のうちに顕現している主権に対立するものとするのが、近ごろ国民主権について語られはじめた普通の意味である。――だがこのように君主主権に対立させられた国民主権は、国民についてのめちゃな表象に基づく混乱した思想の一つである。国民というものは、君主を抜きにして解されたり、……する場合は、定形のない塊りであって、これはもはや国家ではない」(第二七九節、注解)。
 ここには、フランス革命における恐怖政治から学んだヘーゲルの教訓が端的に示されています。つまり一人ひとりバラバラにされた国民は、「定形のない塊り」にすぎず、どこに暴走するか分らない危険性をもっているから、理性的国家の意志決定を一人ひとりの国民に委ねる主権在民論は正しくないという、ヘーゲルの独特な理論が示されています。
 ヘーゲルが、一般意志にもとづく治者と被治者の同一性という人民主権国家を訴えながらも、ルソーとちがって、人民を信頼せず、「定型のない塊り」として主権在民論を否定したことは、ヘーゲル国家論の致命的弱点の一つといってもいいものです。またそれは、「現代国家の原理のもつとてつもない強さと深さは、主体性の原理がおのれを完成して人格的特殊性という自立的な極点になることを許すと同時に、この主体性の原理を実体的一体性のうちへ連れ戻し、こうして主体性の原理そのもののうちに実体的一体性を保つということにある」(第二六〇節)としているヘーゲルの記述とも矛盾するものとなっています。
 しかし同時に、このヘーゲルの見解は、主権在民論のもつ限界をも浮き彫りにするものとなっています。すなわち主権在民論にたつ普通選挙制は、民主主義的原理として必要なものではありますが、けっして十分なものではないからです。〝多数決は必ずしも真ならず〟なのです。ドイツのファシズムも多数決原理から生まれたことを忘れてはなりません。この点ではヘーゲルの主権在民否定論にも一面の正しさがあることを認めなければなりません。
 したがって問題は、主権在民論にたちつつ、いかに人民の一般意志を形成し、人民主権国家を建設するのかという点にあるのであって、ヘーゲル批判も本来この見地からなされるべきものです。
 しかし、『国法論批判』を著した当時のマルクスは、ヘーゲルの提起した最大の問題が、人民の手に委ねて果して人民の一般意志が形成されうるのかどうか、という点にあることに気づきませんでした。
 ですから、マルクスは、ヘーゲルのいう真にあるべき国家が、一般意志による統治という人民主権国家である点に注目することもなければ、また人民を「定形のない塊り」ととらえるヘーゲルの見解を正面から批判することもしていません。
 「国法論批判」の段階では、マルクスは、君主制に対して、民主制こそが本来あるべき国家体制だということを指摘するにとどまっています。
 「民主制においては諸契機のどれ一つといえども、それに帰属する以外の意義をもつにいたることはない。一つ一つが現実的に全人民(デモス)の契機であるにすぎない。君主制においては一つの部分が全体の性格をきめる。全体制は固定した点に合わせてそのあり方を修正せざるをえない。民主制は体制の類である。君主制は一つの種、しかも不良種である」(全集①二六三ページ)。
 では、ここにいうマルクスの「民主制」とは何を意味するのでしょうか。そのヒントは、マルクスが一見すると同じような意味をもつ民主制と共和制とを、明確に区別し、しかも対立する上位概念と下位概念としてとらえているところにあります。すなわち、マルクスは一方で「民主制にしてはじめて普遍と特殊との真の一体性なのである」としながら、他方で君主制や共和制を「ただたんに特殊的なだけの一つの国家形式」(同二六四ページ)としています。「普遍と特殊との真の一体性」とはヘーゲルのいう人民主権国家に他なりません。したがってマルクスのいう「民主制」は、治者と被治者の同一性を実現した人民主権国家なのです。ですから「民主制はあらゆる国家体制の本質、社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり、それと爾余の国家体制との間柄は、類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである」(同二六三、二六四ページ)。マルクスもルソーやヘーゲルと同様、人民主権を、国家体制の真にあるべき姿(「体制の類」)としてとらえたのです。これに対し、マルクスのいう共和制とは、主権在民の体制、つまり普通選挙にもとづく代議制国家を意味しています。したがってこの「共和制」は「民主制」という「類」の下位概念である「種」の一つにすぎないとされているのです。
 マルクスは、ヘーゲルが『法の哲学』で立憲君主制の陰に人民主権国家を主張しているのに気づかないままだったところから、ヘーゲルの主権在民論否定の人民主権国家を批判するのに、主権在民論否定への批判ではなく、人民主権国家をもって立ち向うという筋違いの反論を試みているのです。
 またジャコバン独裁の恐怖政治を念頭において、人民は「定形のない塊り」だとするヘーゲルの見解は、主権在民論という民主主義の大原則に真っ向から挑戦するものとなっていました。したがって、この点への批判がヘーゲル批判の最大の問題点であるにもかかわらず、マルクスは、恐怖政治の原因がどこにあったのかを解明することもなければ、それをどう解決すべきかについても一言も論究することなく、「一国民が君主制として編成されている場合、それはたしかに、この編成から外されると、無定形の衆およびたんなる一般的観念である」(同二六二ページ)という批判にもならない批判にとどめていて、ヘーゲルの主権在民論批判に対し、正面から何の反論も加えていないのです。
 しかし、マルクスは、「国法論批判」を書き上げた直後の一八四三年一〇月、自由な行動の余地のないドイツを去り、革命の息吹のたちこめるパリに移住します。
 そこで、マルクスは、『法の哲学』でヘーゲルが提起した問題の意味をようやくつかみえたのか、主権在民論に立ちつつ人民主権国家を建設するには、「定形のない塊り」である人民を組織する部隊が必要であり、それがプロレタリアートであることに気づきます。 
 そこで一八四三年末から一八四四年一月にかけて執筆された「ヘーゲル法哲学批判・序説」では、「ドイツをただ近代諸国民の公式水準に高めるばかりでなく、これらの国民の次の将来である人間的な高さにまでも引き上げるような革命に到達できるであろうか」(全集①四二二ページ)との問いを自ら発し、次のように解答しています。
 「それではドイツの解放の積極的な可能性はどこにあるのか? 解答。それはラディカルな鎖につながれた一つの階級の形成のうちにある。……ドイツ人の解放は人間の解放である。この解放の頭脳は哲学であり、それの心臓はプロレタリアートである」(全集①四二七、四二八ページ)。
 この「国法論批判」で展開した人民主権論と、「法哲学批判・序説」で展開した人民解放のための人民の組織者としてのプロレタリアートの理論は、その後一つに結合し、プロレタリアートの指導による主権在民の人民主権国家の建設という、プロレタリアート執権論へと発展していくことになるのです。

憲法の改変批判

 ヘーゲルは、「国家体制ないし憲法は、がんらい、立法権がそれを基礎として立つところの、堅固な、一般的に認められている基盤」であり、「存在しているものであるが、しかしまたそれは本質的に生成してゆくものでもある」(第二九八節、追加)ことを認めています。
 いわゆる解釈改憲といわれるものであり、憲法の解釈を変えることにより、憲法の内容を変えていく手法です。ヘーゲルはこれを「変化の形式をとらない変化」(同)だといい、この「過程は、外見上は静かな、気づかれない過程である。国家体制ないし憲法はこういうふうにして、長い期間の後で以前とはまったく別の状態になるのである」(同)といっています。
 憲法九条の戦争放棄、非軍事平和の原則のもとで、第二次世界大戦後の日本は、軍隊を持たない国、戦争をしない国として出発しながら、自衛隊の発足、専守防衛から海外派兵に、ついにはイラクに重装備の自衛隊を派遣し、武力行使を是認するところまで、九条を空洞化してきました。それだけにヘーゲルの指摘は、非常な重みをもってせまってきます。
 しかし、この行政や立法の行為により、人民の一般意志を体現した憲法の改変を認めることは、理性的国家を立憲国家として認めるヘーゲルの立場からすると矛盾するものでしかありません。マルクスはそこを批判しています。
 「ところで、ヘーゲルによれば自由の最高の定在、自覚的理性の定在であるところの国家のなかで、自由の定在である法が支配するのではなくてかえって盲目的な自然必然性が支配するということはほんとうのことだろうか?………ヘーゲルは至るところで国家を自由な精神の現実化としてあらわしてみせようとするが、実際には彼はあらゆる厄介な衝突を、自由とは対立するような自然必然性によって解決する」(全集①二九三ページ)。
 憲法とは、多かれ少なかれ革命の産物であり、革命時の階級闘争の力関係を固定化して反映したものです。しかし階級闘争は、憲法制定後も続きますから、その後の階級闘争の力関係の変化は、憲法に「変化の形式をとらない変化」をもたらすのです。
 マルクスが、「憲法は政治的国家と非政治的国家とのあいだの調停にほかならず、それゆえに内容上、必然的にそれは本質的に異質な諸権力間の協定である」(同二九四ページ)といっているのも同様の趣旨でしょう。
 ですから、ヘーゲルのいう真にあるべき国家も、人民の一般意志をひとたび憲法として確定すれば、それですべて終わりということではなくて、不断に主権者たる人民の側の、憲法を守り発展させるたたかいが必要になってくるのです。この点に関するマルクスの指摘も的確なものとなっています。
 「正しい問い方をするなら、これは、国民は自分たちのために新しい憲法を設ける権利があるかということにほかならぬ。これは無条件的に肯定されねばならない。けだし憲法は民意の真のあらわれであることをやめるやいなや、一つの実践的幻想になっているのだからである」(同)。
 人民主権の憲法を実現するのみならず、実現された人民主権国家を維持・発展していくためには、科学的社会主義の政党に導かれる人民の権力が必要です。それがプロレタリアート執権の具体的内容になるものです。日本共産党新綱領は、それを日本共産党が先頭にたった統一戦線としてとらえています。統一戦線が、人民の一般意志を体現した憲法を日常不断に守り発展させていく力となるのです。
 ヘーゲルは、市民社会の普遍性を実現する組織として、福祉行政(地方自治団体)と職業団体(労働組合)という中間団体をあげています。
 ヘーゲルが、せっかく人民の一般意志にもとづく立憲国家を訴えながら、憲法の改変を止むをえないものであるかのように述べているところから、マルクスにより、そんな「盲目的な自然必然性の支配」に委ねていいのかとの厳しい批判を受けることになりました。ヘーゲルとしても、どうやって真にあるべき国家における、真にあるべき憲法を守っていくのかという問題を論じなかったのは、やや片手落ちというべきものです。ヘーゲルにおいて地方自治団体と労働組合は、市民社会と国家とをつなぐ普遍性の形式を伴った中間団体としてとらえられているのですから、この二つの組織が憲法改変をくい止める積極的役割を担うべきであることを一言述べておくべきだったと思います。ここにも主権在民論に立ちえなかったヘーゲルの限界があらわれています。民主連合政府が「国民が主人公」の政治を推し進めていくうえで、地方自治団体と労働組合とが統一戦線とも協力しながら、政府の諸政策についてチェック機能を果たしていくことは重要な点だろうと思います。

 

三、まとめ

 以上でマルクスの『法の哲学』批判の検討を終えることにします。時間の関係で網羅的に検討することはできませんでしたが、ヘーゲルの国家論に対するマルクスの大枠での批判はとりあげることができたのではないかと思います。また「国法論批判」では、統治の機構に対するマルクスの逐条的なコメントがなされていますが、そもそも『法の哲学』のこの部分自体を論ずることに現代的意義があるとは思えませんので、逐条的批判の一つひとつへの検討は必ずしも必要とは思われません。
 いずれにしても、若いマルクスのこれらの著作が、その後のマルクスの理論的到達点からすれば、様々な限界をもつことは否定できません。とりわけ「国法論批判」は、ほとんどノートに近いものであり、科学的社会主義の出発点となる契機にはなったものの完成された論文にはほど遠いものであることもあって、歴史的制約のある著作として学ぶべきものでしょう。
 近時、ヘーゲルの講義録が相次いで刊行され、ヘーゲル像の新しい研究がすすむなかで、ヘーゲルのもつ現状美化の保守主義と革命的立場との矛盾の生じた理由が解明されつつあります。
 「イルティングは、ヘーゲルにかかった圧力から、彼の公刊された法哲学の形態は政治問題におけるヘーゲルの実際の立場を示すものではないと説明している。この著書は、とりわけ、それが保存されている講義の筆記録と異なっていることによって、『政府のありがたい意図を直接に促進しうる』ように哲学を教える教授として、『自己防衛』に乗り出したヘーゲルの『横顔作りの苦心』との関連で理解されるというのである」(ディーター・ヘンリッヒ編「編者序論」二七五ページ『ヘーゲル法哲学講義一八一九/二〇』牧野広義他訳、法律文化社)。
 「理性的なものこそ現実的である」との命題に、「革命がかくれている」とみたのは、ひとりエンゲルスだけではなく、一八四五年以降のマルクスもそうであったと信ずるものであり、『法の哲学』の革命的性格をとらえることの正しさは、歴史の経過とともに検証されつつあるように思われます。