『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

第二〇講 ヘーゲルから何を学ぶのか

一、より善い生き方と変革の立場

 これまで『法の哲学』を全体をとおして学び、第一九講では、マルクスの『法の哲学』批判の検討をしてきました。
 こうした全体像のうえにたって、最後に科学的社会主義の立場にたって、ヘーゲル『法の哲学』から学ぶべきものは何なのか、エンゲルスのいった「無数の宝」をどのようにとらえるべきものかについて、まとめてみたいと思います。
 ヘーゲル哲学は、何よりもその弁証法において科学的社会主義の源泉の一つに数えられてきました。ヘーゲル自身『法の哲学』において「思弁的な認識の仕方」、つまり弁証法的方法が採用されていることに他の哲学との本質的区別があることを指摘しており、現実にも始めから終わりまで弁証法的方法が貫かれています。
 エンゲルスは弁証法哲学を次のように要約して説明しています。
 「この弁証法的哲学は、究極的な絶対的真理とそれに照応する人類の絶対的状態といった考えをすべて解消してしまう。この哲学のまえには、究極的なもの、絶対的なもの、神聖なものは、何も存立しない。……そしてこの哲学のまえには、生成と消滅との不断の過程、低いものからもっと高いものへの無限の上昇の不断の過程以外には、なにも存続しない」(全集㉑二七一、二七二ページ)。
 そして重要なことは、ヘーゲルが弁証法を人間の実践と結びついた変革の哲学としてとらえていることにあります。弁証法的「認識の仕方」(第二講参照)にたつ『法の哲学』が「実践的精神一般」としての「意志」から出発しているところにも、その変革の立場が示されています。
 本来、哲学というものは、真理を探究すると同時に、より善く生きるための人間の生き方を探究する学問です。ヘーゲルは、より善く生きる生き方を変革の立場と結びつけて、独自の哲学を『法の哲学』で確立するに至ったのです。
 第二講でお話ししたように、ヘーゲルは、理想と現実の統一を掲げつづけた人でした。現実をしっかりみつめて、そのなかから「理性的なもの」を導き出すならば、その「理性的なもの」は人間の実践を媒介として必然的に現実に転化し、現実を変革しうると、ヘーゲルは考えました。序文の有名な「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」との命題の真の意義もそこにあるのです。
 では、「理性的なもの」とは一体何でしょうか。それがヘーゲルのいう「概念(事物の真にあるべき姿)」に他なりません。人間は、現実を深く分析して、そのなかから、事物の「真にあるべき姿」という理想を見出し、それを実践することにより、事物を合法則的に変化・発展させ、理想を現実に転化させることができるのです。
 そうした意味でヘーゲルは、「概念」を「あらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式」(『小論理学』下一二二ページ)とよんでいます。「概念」という理想をかかげることによって、人間は無限に、創造的となることができるのです。そこでヘーゲルは、「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である」(序文)といっているのです。
 客観化された概念をヘーゲルは「理念」とよんでいます。この理念を主観的目的にかかげるとき、それは「善」とよばれ、「善は実現された自由であり、世界の絶対的な究極目的である」(第一二九節)とされています。人間は、「善」を掲げて生きることによって、より善く生きることができるのであり、より善く人間らしく生きるところに人間としての「価値と尊厳」(第一三一節)をもつのです。
 第二部「道徳」、第三部「倫理」を貫ぬくメインテーマが「善」です。第九講でお話ししたように、「善」をかかげて生きることは現状批判の武器をもつことであり、また、「善」に向って義務を実践することは現状変革の力となるのです(第一三八節)。「道徳」は、自己の内面に「善」をかかげてより善く生きる変革の立場を示すものであり、「倫理」は、「生きている善」(第一四二節)、実現された善であり、真にあるべき共同体と個人とは何かを探求する変革の立場を示すものとなっています。より善く生きるという問題は、自己の内面の善と外界の善とをともに探究することによってはじめて実現されるのであり、そのどちらが欠けても、一面的な生き方にならざるをえないのです。
 こうしてヘーゲルは、事実と価値、存在と当為を峻別する二元論的世界観に対し、世界がどうあるかを知ることと、そのなかでわたしたちがいかに生きるべきかを知ることとは、一体的で切りはなすことができないという一元論的世界観をとっているのです(第九講)。
 この一元論的世界観は、変革の理論である科学的社会主義の学説にしっかりと受け継がれています。マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」として有名な次の文章は、科学的社会主義の学説の要諦をなすものとなっています。
 「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである」(全集③五ページ)。
 ですから、科学的社会主義の学説を身につけるということは、真にあるべき共同体にむけて、社会変革の立場に立つということと同時に、それは、より善く人間らしく生きる道を選択する問題でもあるのです。より善く生きる問題は、内面的道徳の問題であると同時に、客観的倫理の問題でもあります。「自己の生き甲斐を社会進歩と重ね合わせる」という表現も、生き甲斐が、内面の道徳と外界の倫理の両分野にまたがっていることを示したものといっていいでしょう。
 最後に、いま一度『小論理学』におけるヘーゲルの変革の立場を紹介しておきましょう。
 「知性は単に世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎないが、意志はこれに反して世界をそのあるべき姿に変えようとする。……世界の究極目的が不断に実現されつつあるとともに、また実現されているのだということを認識するとき、満足を知らぬ努力というものはなくなってしまう。一般的に言ってこれが大人の立場である」(下二三五、二三六ページ)。
 「善」という理想をかかげてその実現のための革命的実践をすることは、どんな労苦と困難があろうともそれによって「世界の究極目的が不断に実現されつつある」のであって、その努力それ自体に無駄はなく、その努力に満足を覚えるべきものなのです。

 

二、ヘーゲルの自由論

科学的社会主義の自由論の源泉

 次に指摘したいのは、ヘーゲルの自由論です。ヘーゲルはその自由論を自由な意志を基盤とし、自由を必然性との関係でとらえることによって、もっとも深遠にして包括的な自由論として展開したのです(第三講、第四講)。
 エンゲルスは、「ヘーゲルは、自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である」(全集⑳一一八ページ)と述べて、ヘーゲルの自由論を科学的社会主義の自由論の源泉としてとらえたことを明らかにしています。
 では、自由な意志に立脚しながら必然性との関係で自由をとらえる、とは何を意味しているのでしょうか。それは、自由を客観世界(人間、自然、社会)と無関係に、自分自身で勝手気ままに考え、決定し、行動するところに求めるのではなく、客観世界という必然性(法則性)の支配する世界とのかかわり合いにおいて、自己を見失うことなく、自由な意志を保ち続けることを意味しています。
 ヘーゲルは、それを「自由とは、一つの規定されたものを意志すること、しかしこの規定されたあり方においてありながらも自分のもとにあること」(第七節、追加)といっています。
 自由に関する自分自身と客観世界との関係には、二つの側面があります。一つは、客観世界をどのように認識するかという、主として認識の自由の問題であり、もう一つは、客観世界のなかにどう自由な意志を実現するかという、自由な意志の現存在の問題です。ヘーゲルはこの両者に目配りしつつ、『法の哲学』で、必然性との関係において全面的にその自由論を展開しているのです。
 まず第一に認識の自由の問題についていうと、人間は自由な意志をもって客観世界(他の人格をも含む)と対峙しており、客観世界の必然性(法則性)を認識する度合に応じて、人間はより解放され、より自由になっていくと、ヘーゲルはとらえています。
 客観世界との関係における最初の自由は、「どんな内容もなにか制限であるとするいっさいの内容からの逃避」(第五節、注解)、つまり客観世界そのもの(必然性そのもの)の存在を否定する「否定的な自由」(同)です。ついで、客観世界に目を向けた場合、まだ自然状態にある人間は、自由に決定する能力をもっているという形式的意味では自由であるということができますが、内容的には客観世界の必然性を無視することによって必然性に盲目的に支配されている不自由な意志でしかありません。ヘーゲルは、「やっとただ即自的に自由であるだけの意志は、直接的ないし自然的な意志」であり、「もろもろの衝動、欲求、傾向」(同)としてあらわれるにすぎないといっています(第一一節)。
 こういう自然的な意志にもとづく形式的にのみ自由な意志をヘーゲルは、「形式的自由」とよんでいます。思想・良心・表現の自由などは、すべて形式的自由を意味しています。というのも、それは単なる恣意にすぎず、「内容からすれば真実で正しいものを選ぶ場合でさえ、気が向いたらまた他のものを選んだかもしれないという軽薄さを持っている」(『小論理学』下九〇ページ)からです。
 恣意的な選択の自由としての形式的自由は、自己決定するという形式においては自由であっても、決定する内容においては、客観世界の必然性(法則性)に支配され、従属した不自由さをもっています。しかし、この形式的自由は、自由な意志にもとづく自己決定の自由として「その概念上自由なものである意志の本質的モメント」(同)であり、正当に評価さるべきものです。
 この段階から抜け出し、自由な人格が客観世界の必然性を認識する「普遍的自由」の段階に至れば、この必然性にそって自己決定することができることになり、客観世界に盲目的に支配・従属していた不自由さから抜け出し、客観世界の必然性と共存し、合法則的に行動する自由を獲得することになります。
 この普遍的自由において、「私は、自己自身を押し通すのではなくて、ことがらを妥当するようにさせる」(第一五節、追加)のであり、それは「だれでもそこを行く国道であって、そこではだれひとり抜きんでて見えはしない」(同)のです。
 しかし、人間の認識はさらに前進すると、客観世界と共存するのではなくて、それをより真なるものに変革させようとする立場からその事物の「概念(真にあるべき姿)」を認識するに至ります。これが「概念的自由」といわれるものであり、ここに一元論的世界観があらわれることになります。
人間の認識は、概念的自由に到達することによって最高の自由に到達すると同時に、この最高の自由は、客観世界に関わる変革の立場と結びついてくるのです。

自由な意志の客観化

 こうしてヘーゲルの自由論は、認識の自由から、自由な意志の客観化、現存在の問題へと前進し、『法の哲学』の第一部、第二部、第三部と展開されていくことになります。
 まず第一部「抽象的な権利ないし法」では、狭義の法が自由の意志の現存在であることが明らかにされると同時に、個々の人格は、自由な意志の主体として権利能力をもち、抽象的に自由な人格であることが論じられます。個々人は、契約をつうじて、自由な人格を相互に承認し合うのです。 
 第二部「道徳」に至ると、抽象的な人格的自由ではなく、無限に発展する自由な意志をもつ主体的自由が論じられます。つまり自己のうちに「あるべき意志」(善)がかかげられ、そこに向って無限に前進していくところに、自由な意志の現存在としての主体的自由が認められることになり、その「あるべき意志」(善)は、やがて万人の「あるべき意志」としての「道徳」となっていくのです。こうして主体的自由としての諸個人は、「道徳」をつうじて普遍的自由の立場に移行していくことになります。「それゆえ、第二の圏である道徳は、大体において自由の概念の実在的な面をあらわす」(第一〇六節、注解)。
 しかし、社会共同体との関係を抜きにした主体的自由は、まだ真の自由ということができません。そこで「最高の共同性は最高の自由」(「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」『理性の復権』八五ページ、批判社)である社会共同体における自由が問題となり、第三部「倫理」へと移行するのです。
 「主体性(主観性)は、自由の概念が顕現する基盤をなす(§一〇六)。この主体性(主観性)は、道徳的立場ではおのれの概念たる自由とまだ区別されているが、倫理的領域においては、自由の概念にとって十全な、自由の概念の顕現である」(第一五二節、注解)。
 いわば、「道徳」から「倫理」への移行は、主体的に自由な人格が普遍的自由から概念的自由へ移行することを意味し、ここに自由は、単に認識の問題としてではなく、実践の問題においても最高の段階に達し、「自由の概念にとって十全な、自由の概念の顕現」となるのです。この第一〇六節と第一五二節との関係をしっかりつかむことが重要です。
 この「倫理」の最高の段階が、人民の一般意志による統治にもとづく、治者と被治者の同一性実現の国家、真に自由な人民主権国家となります。
 この段階に至って、ようやく人間は客観世界の必然性から解放されて自由となり、客観世界を支配し、自在に操作することができるようになるのです。
 こういう変革の立場にたって、無批判に現存在に追随しないところに、自由な意志をもつ人間の真の意義があります。

科学的社会主義の自由論の発展のために

 マルクス、エンゲルスは、このヘーゲルの認識論としての自由論を科学的社会主義の自由論の基本にすえていますが、二つの点で十分正しく継承していないのではないかと思われます。
 第一に、エンゲルスは自由論の出発点を意志の自由、つまり「単なる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志」(『小論理学』下九〇ページ)としてとらえようとせず、「意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定をおこなう能力をさすものにほかならない」(全集⑳一一八ページ)という、より高度の自由におきかえてしまいました(尚この点は補論参照)。
 そのため恣意ないし形式的自由(思想・良心・表現の自由などのブルジョア民主主義としての自由)を、自由論の本質的構成部分として明確にしえなかったという問題を残し、秋間実氏も指摘したように、科学的社会主義の陣営内での論争をよびおこすことにもなりました(拙著『人間解放の哲学』参照)。
 形式的自由は、けっして真の自由ではありませんが、それでも「その概念上自由なものである意志の本質的モメント」(『小論理学』下九〇ページ)をなすものとしてとらえることが、あらためて重要になっていると思われます。
 このヘーゲルの自由論に立ってこそ、秋間氏の提起した自由Ⅰと自由Ⅱとを統一してとらえることができるのです。
 第二に、エンゲルスの自由論は、必然性を認識する自由(普遍的自由)と必然性を揚棄した自由(概念的自由)とを明確に区別することなく、「自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである」(全集⑳一一八、一一九ページ)ととらえています。
 しかし、「必然性を認識すること」と「われわれ自身ならびに外的自然を支配すること」とは、けっして同じレベルの自由の問題ではありません。
 ここでエンゲルスのいいたかったことは、概念的自由ですから、より正確には「自由とは、必然性を揚棄してわれわれ自身ならびに外的自然を支配することである」というべきだったのです。
 例えば、資本主義社会で日々生活しているわたしたちにとって、資本主義が貧富の対立をもたらすという「必然性を認識すること」は今日的課題となっていますが、社会主義・共産主義の社会を建設し「われわれ自身ならびに外的自然を支配すること」は、なお先の未来社会の課題だといわなければなりません。
 「もちろん必然そのものはまだ自由ではない、しかし自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(『小論理学』下一一六ページ)。
 つまり、必然性を認識するにとどまる普遍的自由は、まだ真の自由ではなく、その必然性を揚棄したものとして自己のうちに含むことによって、客観世界そのものを合法則的に変革し、真の自由に到達することができるのです。
 こうしてみてくると、あらためてヘーゲルの自由論の豊かさと深さに驚嘆せざるをえません。科学的社会主義の自由論もこの見地からもっと研究されるべきものと思われます。

 

三、人間の尊厳と個人の尊厳

 三つ目のヘーゲルの功績として、以上の自由論とも関連して人間の尊厳、個人の尊厳という問題を明確に打ち出したことをあげたいと思います。しかしヘーゲルも、人間の尊厳と個人の尊厳との同一と区別の問題を明確に論じているわけではありませんので、あわせてその問題もここで検討しておくことにしましょう。
 第三講で『法の哲学』は、人間の本質から出発して、法、社会、国家などを論ずるという特徴をもっていることをお話ししましたが、人間論から出発するヘーゲルにとって、人間の尊厳、個人の尊厳は、『法の哲学』を支える理論的大前提となっているのです。
 まず人間の尊厳は、人間が人間らしく生きること、つまり人間の類本質を顕現するところに求められます。
 人間は、何よりも自由な意志をもった主体としてあること、いいかえれば自由な人格を保持することから出発します。人間の尊厳も、本来他人に譲渡しえない自由な人格を保持するところに認められるのであり、(第六六節)、この自由な人格を他人に譲渡したり、人格を放棄してしまうことは、人間の尊厳を否定するものとなります。この点で、ヘーゲルが自由な人格の外在化としての所有の権利を制限する「所有の不自由」(同、注解)、つまり搾取制度を、「人格性の放棄の例」(同)として挙げているのは重要なところだと思います。
 しかし、自由な人格は、人間としての出発点にすぎませんから、同様に人間の尊厳にとっても出発点となるものにすぎません。ヘーゲルは、「人間の最高のことは、人格であることである。だがそれにもかかわらず、たんなる抽象物たる人格といえば、すでにその表現においてなにか軽蔑すべきものである」(第三五節、追加)といっています。
 自由な人格が、自然状態から出発しながら、次第に形式的自由から普遍的自由へ、さらに概念的自由へと、より高い自由に向かって無限に前進していく過程を、ヘーゲルは人格の「陶冶」(第一八七節)とよび、人格を陶冶することが「教養」(同)を身につけることだといっています。
 それを別の側面からみると、人間がより善く人間らしく生きるところに、人間の尊厳の発展した形態が認められることになります。つまり、人間が、自己の内面においても、客観世界においても、「善」をかかげ、高い質をもって生きることが、発展した人間の尊厳を生みだすのです。
 ヘーゲルは、こうした点をとらえて、「主観的な意志は、その洞察と意図において善にかなっているかぎりでのみ、価値と尊厳をもつのである」(第一三一節)といっています。
 このように、人間が人間らしく生きるところに人間の尊厳が認められるのに対し、その人がその人らしく生きる、つまり自分らしく生きるところに、個人の尊厳が認められます。いわば、人間の尊厳は、人間の普遍性において認められるのに対し、個人の尊厳は、主体的自由の権利、つまり個人の特殊性において認められるのです。
 ヘーゲルは、「おのれの満足をおぼえようとする主体の特殊性の権利、あるいは、こういっても同じことだが、主体的自由の権利、これが古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」(第一二四節、注解)といっています。諸個人は、その人の生き方がどんなに特殊的な生き方であろうとも、個人として尊重され、その生き方をつうじて個人的満足を見いだす権利をもっているのです。その意味で、個人の尊厳は、諸個人の幸福追求権をその内容としてもつものです。
 憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定しています。
 いわば、諸個人の特殊的生き方を、その人がその人らしく生きる権利としてそのまま肯定するところに、基本的人権という「普遍的人格」(第二〇九節、注解)の承認があるのです。個人の尊厳の承認は、諸個人が、自らの欲するままに、生命、自由、幸福追求権を行使することの承認を意味しています。
 このような個人の尊厳の承認は、近代への転回点をなす重要な意義をもつものですが、それが一面では、独りよがりの身勝手な生き方にもなることを否定することはできません。
 そこで、ヘーゲルは、人間を普遍性と特殊性の統一としてとらえ、人間の尊厳と個人の尊厳を統一するところに、真の人間らしい生き方、人間解放の姿を求めているのです。
 資本主義社会(市民社会)は、特殊性の原理の支配する社会であり、そこでは個人の尊厳が一面的に強調されていますが、ヘーゲルの人間の尊厳と個人の尊厳の統一には、資本主義社会の一面性を批判する鋭い目がそそがれているのです。
 つまりヘーゲルは、主体的自由の権利という特殊性の原理に個人の尊厳を見出し、これを最大限尊重すべきだとしながらも、個人の尊厳の一面的強調は、普遍性の原理にたつ社会共同体との調和を損なうものだとして、この特殊性の原理は人間の尊厳という普遍性の原理のもとに統一されるべきものであり、特殊と普遍の統一にこそ、人間として解放された無限に自由な主体があるととらえたのです(第一三講)。

 

四、真にあるべき国家

 ヘーゲルから学ぶべき四つ目の問題として、ヘーゲルが訴えた、資本主義の矛盾を解決するものとしての、真にあるべき国家をあげておきたいと思います。
 まず第一に、ヘーゲルは、真にあるべき国家として、一般意志による統治にもとづく治者と被治者の同一性を実現した国家、人民主権国家を主張しました。これはルソーの人民主権論を継承したものでしたが、ルソーにはない二つの大きな特徴をもっています。
 一つは、治者と被治者の同一性を実現するには、人民と国家との間に職業団体と地方自治団体という中間団体の存在が必要だとして、中間団体を媒介として上から下に、下から上に、人民から国家に、国家から人民に一般意志を確認しあうという、循環型統治を主張していることです。
 これは、今日的にいえば、プロレタリアート執権論にもとづく人民の統一戦線を媒介として、国家と人民の同一を実現するという考えにもつながる積極的なものといえます。人民は、人民の代表を選出する数年間に一回の普通選挙だけでは、けっして国家との同一性を実現することはできません。日常的に上から下へ、下から上へという人民の特殊意志と国家の普遍的意志との交流をする中間団体なくして、一般意志を統治の基本原理として確立し、実現し、かつ貫きとおすことも、したがってまた治者と被治者の同一性を実現することもできないのです。
 二つには、ヘーゲルは、ルソーと違って倫理的義務論を唱えていることです。すなわち治者と被治者の同一性を実現する国家にあっては、人民の国家に対する権利は、同時に人民の国家への義務となり、この倫理的義務の履行をつうじて、人民は国家の主人公となり、人間としても解放されるというものです。
 真にあるべき国家における「生産者が主役」となる労働も、こうした倫理的義務論としてとらえることが重要です。人間は労働をつうじて猿から人間へと発展してきたのであり、未来社会の、搾取から解放された労働も、もっとも人間らしい営み、人間の自由な意志の外在化として、労働することは生産者の権利であると同時に義務となるものであり、労働をつうじて生産者は人間として解放されるのです。
 以上の二点において、ヘーゲルの人民主権国家は、ルソーのそれを一層発展させたものとして積極的に評価することができます。
 第二に、ヘーゲルの国家論の最大の特徴は、真にあるべき国家を、市民社会を規制し、市民社会の矛盾を解決する存在として規定していることにあります。
 ヘーゲルが、真にあるべき国家を、資本主義的経済諸関係をそのままにして、国家による市民社会規制の国家としてとらえたことは、マルクスの目からすれば、国家と市民社会の関係を逆立ちして描くものとして「国法論批判」のなかで、厳しい批判を受けることになりました。
 資本主義の枠内での民主主義革命を問題としえなかった歴史的状況のもとでは、マルクスの批判もある意味では当然だったのかも知れません。
 しかし、民主主義革命の意義が日本共産党の綱領路線をつうじて改めて明確になっている今日的条件のもとにあっては、ヘーゲルのこの見解は民主連合政府についての理論的根拠を提供するものとなっていることも指摘しないわけにはいきません。
 これまで史的唯物論では、〝土台である経済的諸関係が、上部構造である国家と政治的諸制度などを規定しつつも、上部構造は相対的独立性をもっているために、土台に対して一定の反作用をもたらす〟と考えられてきました。
 この上部構造の土台に対する「反作用」というのは、一般的には国家と法的・政治的諸制度による、土台を強化する作用としてのみとらえられ、社会革命の時期には、改革された上部構造が土台を規制する作用をもつことは、史的唯物論との関係では、あまり積極的に評価されてこなかったように思います。
 例えば、エンゲルスは一八九〇年一〇月のシュミット宛の手紙で次のようにのべています。
 「経済発展にたいする国家権力の反作用は三通りありえます。すなわちその作用が同じ方向にすすむ場合がありうる、そのときにはスピードが早い、これに相反する場合もありうる、そのときにはその反作用は今日では長期的には、どの大国民にあってもだめになってしまいます、あるいはまたそれが経済発展の一定の方向をさえぎって、他の方向を指定することもありえます――この場合は結局のところ、先のふたつのどれかに帰着します。しかし、第二、第三の場合には政治権力が経済発展に大損害をあたえ、力と物資の大量な浪費を生み出しうることは明らかです」(全集㊲四二四、四二五ページ)。これは、土台を規制する国家権力の反作用には消極的役割しか期待しえないことを表明したものです。
 これに対して、ヘーゲルは、国家と政治が土台を規制し、コントロールするという逆方向の反作用も存在するだけではなく、それが社会変革に積極的役割を果しうるという問題提起をおこなっているのです。第一九講でみたように、上部構造である国家の、土台たる経済的諸関係への「反作用」には、土台を強化する「反作用」も、また逆に規制する「反作用」もありうるとするのは正しい見解というだけではなくて、第一九講で紹介したエンゲルスのプロレタリアート執権論とも結合する見解というべきであり、ヘーゲルの国家論は、史的唯物論を今日的に発展させる契機を内包しているものといっていいでしょう。
 民主連合政府の経済政策は、「ルールある資本主義」の確立です。つまり国家が、独占資本の横暴を規制する法令(ルール)を制定し、それによって独占資本をコントロールしようというものです。そのかぎりでは日本共産党も、上部構造の「反作用」には土台を規制し、支配する方向もあるという考えに立脚しているものといえます。
 いずれにしてもヘーゲルの真にあるべき国家は、民主的国家による市民社会の規制の積極的意義を評価したという点において、民主連合政府の理論的根拠を提供するものとなっているところは、高く評価されるべきものといっていいでしょう。
 第三に、とはいっても、ヘーゲルの国家論にはいくつかの問題点があることも率直に指摘されねばなりません。
 一つは、ヘーゲルが市民社会の重大問題とした「いかにして貧困を取りのぞくべきか」の問題について、市民社会内部から生まれた普遍性としての職業団体と地方自治団体によっては根本的解決はありえないとして、その解決をより高い普遍性としての国家の手に委ねておきながら、その国家論においては、一般意志による統治というのみで、何ら貧困解決の具体的政策を明らかにしていないことです。
 この点は、経済的・社会的不平等の原因は私有財産制にあるとして、生産手段を国家に「全面譲渡」することによって、真の平等を実現しようとしたルソーの到達点からも後退している、との批判を免れないところでしょう。
 結局、この問題の解決は、生産手段の社会化による搾取の廃止というマルクス、エンゲルスの創始した科学的社会主義の学説に委ねられることになったのです。
 二つには、ヘーゲルは、一般意志による統治の人民主権国家を主張しながらも、恐怖政治への反感から、人民への不信頼と普通選挙制への消極的評価を生みだし、主権在民論を否定して一般意志の形成を官僚群の手に委ねるという俗物的解決策に堕してしまったことです。しかし、ヘーゲルの解決策は、恐怖政治という歴史的現実に立脚しているだけに、一面では正しい問題提起でもあり、「定形のない塊り」(第二七九節、注解)としての人民から、果して人民の一般意志を形成しうるのかという鋭い問題提起に対して、どう回答するのかがせまられることになったのです。
 これをうけて、マルクス、エンゲルスは、「原子論的な群れ」(第二七三節、注解)であり「定形のない塊り」である人民を主権者としつつ、いかにして人民の一般意志を形成し、人民主権国家を建設するかという難問に立ち向かい、ついにプロレタリアート執権論という理論を創造することにより、「主権在民の人民主権国家」、「国民が主人公の国家」を未来社会として展望することができたのです。
 こうしてみてくると、ヘーゲルの国家論は、いくつかの重大な欠陥をもちつつも、民主連合政府への理論的根拠を提供したという意味においても、また「主権在民の人民主権国家」への理論的橋渡しをしたという意味でも、さらには中間団体の媒介による循環型統治と統一戦線論への手がかりを提供したという意味でも、科学的社会主義の国家論の源泉となりうるものとしてとらえることができるのではないでしょうか。

 

五、人間疎外論と人間解放論

ヘーゲルとマルクスの人間疎外論

 科学的社会主義の学説は、人間解放の学説です。
 人間解放とは何か、を考えるにあたっては、そもそも何からどのように解放されるのかが問題とされなければならず、ひいては、人間の本質とは何なのかが問題とされなければなりません。拙著『人間解放の哲学』では、人間の本質が自由な意識と共同社会性にあること、そこから自由と民主主義が人間としての本質的欲求となっていること、搾取制度と国家の支配により、この自由と民主主義が奪われ、人間疎外が生じていること、搾取制度の廃止と階級支配の機関としての国家の廃止により、人間は疎外から解放され、人間解放が実現すること、人間解放を唱える科学的社会主義の学説は、人間性の回復を求めるヒューマニズムの理論であること、などを明らかにしてきました。
 この疎外論に関して、ヘーゲルはきわめて重大な問題提起をしています。
 まず第一に、ヘーゲルは、疎外論について原理的な問題提起をしています。つまり、自由な意志を類本質としてもつ人間が、自由な意志の外在化である労働生産物を搾取され、「所有の不自由」(第六六節、注解)をこうむることを、不可譲の「人格性の放棄」(同)つまり、人間疎外としてとらえていることです。
 マルクスは「経済学・哲学手稿」のなかで、この疎外論を発展させています。すなわち、人間は、「自由な意識的な活動」(全集㊵四三六ページ)という「類性格」(同)にもとづいて「普遍的に生産をする」(同四三七ページ)。しかし、搾取にもとづき「労働の疎外」(同四三四ページ)が生じ、「それゆえに彼の労働は自由意志的なのではなくて、強いられたもの、強制労働」(同)となる。「かくて疎外された労働は、人間の類的本質を……彼にとっての余所ものたらしめ」(同四三八ページ)、「人間の人間からの疎外」(同)を生みだす、というのです。マルクスが、「ヘーゲル哲学のほんとうの産まれ場所であり、秘密であるところのヘーゲル現象学」(同四九三ページ)といっていることから、疎外論の源流をヘーゲルの『精神現象学』にあると判断する人もあるようです。しかし、加藤尚武氏がこの点をとらえて、「マルクスは、むしろ『法』哲学から、彼の『疎外』論のモチーフをつかみだしている」(『ヘーゲルの法哲学』一五ページ、青土社)としているのは、けだし正解というべきものでしょう。
 つまり、ヘーゲルもマルクスも、搾取によって人間の類本質としての自由な意志が侵害されるところに、労働の疎外、人間の疎外をみているのです。
 第二にヘーゲルは、「市民的社会の原理」(第一二四節、注解)としての主体的自由の権利を「古代と近代との区別における転回点かつ中心点をなす」(同)として高く評価しながらも、それが他面では、もう一つの人間の類本質である社会共同体的本質を奪う人間疎外をもたらすものとしてとらえています。
 したがって、未来社会においては、人間は主体的自由を確立するとともに、人間の共同体的本質を実現することによってはじめて人間として解放されるのであり、この相矛盾する二つのカテゴリーを結びつけるキーワードとなるのが、倫理的義務論なのです。「義務においてこそ個人は解放されて、実体的自由を得るのである」(第一四九節)。
 こうして「国家は具体的自由の実現」であり、そこでは、「人格的個別性とそれの特殊的権利とが余すところなく発展」し、「承認されるとともに」、他面では、国家を「おのれ自身の実体的精神として承認し、そしておのれの究極目的としてのこの普遍的なもののためにはたらくということにある」(第二六〇節)ということになるのです。
 つまり、「最高の共同性は、最高の自由である」というわけです。
 日本共産党第二三回大会決議は、今日の道義的危機の根本には、自民党政治のもとでの国民の生活、労働、教育などにおける矛盾、困難の蓄積があるとして、次のように指摘しています。
 「たとえば大企業のリストラ競争のもとでの雇用破壊や長時間過密労働は、家族のだんらんやコミュニケーションを破壊している。『勝ち組・負け組』といった弱肉強食の競争至上主義の風潮がつくられ、他人を思いやるゆとりが奪われ、国民の精神生活にも殺伐とした)雰囲気が持ち込まれている。若者の深刻な雇用危機は、青年の社会参加の権利を奪い、就職・結婚・子育てなど、将来の希望を閉ざす重大な問題となっている」(『前衛』七七六号八四ページ)。
 こうした社会現象を一言でいうならば、家族、市民社会、国家において、エゴイズムの原理が支配し、人間の共同体的本質が奪われているということではないでしょうか。
 人間は、本来、共同体的本質をもつ存在として、諸個人のそれぞれの個性を尊重しつつ、対話と討論による積極的なコミュニケーションをつうじて、相互扶助、信頼、連帯、友愛の人間関係のなかに生きる喜びを見出してきたのです。しかし資本主義の競争原理は、人間関係の基礎となるコミュニケーションすら奪い取り、相互不信と、ものいわぬ、孤立した、歪んだ人間像と疎外された人間関係を生みだしてきました。
 マルクスは、「ミル評注」において、疎外された社会では、人間はコミュニケーションの手段である言語まで奪われてしまうとして、次のようにいっています。
 「われわれはたがいにすっかり人間的本質から疎外されているために、人間的本質の直接の言葉はわれわれには、人間の尊厳を傷つけるものに思われ、反対に、事物の価値という疎外された言語が、公認された、自信にみちた、自己自身を承認する人間的尊厳のようにみえるのである」(全集㊵三八一、三八二ページ)。
 人間疎外の現代社会では、人間を社会的存在として育てていく媒体としての言語までもが、国会での政府答弁にみられるように人間の尊厳を傷つけ、人間不信をもたらす媒体に転化してしまっているのです。
 これに対し、解放された「人間としての生産」は何をもたらすのか。
 「私は私の個人的な生命発現のなかで直接に君の生命発現をつくりだし、したがって、私の個人的な活動のなかで直接に私の真の本質を、私の人間的な本質を、私の共同的本質を、確証し実現したという喜びを、こうした喜びを私は直接に味わうことであろう」(同三八三ページ)。
 また、マルクスは、「ユダヤ人問題によせて」のなかで、ブルジョア民主主義革命は、「共同体からの人民の分離の表現」、「利己的な人間への解消」(全集①四〇五ページ)をもたらしたのであり、人間的解放の完成のためには、「抽象的な公民を自分のうちにとりもどし」、「人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識」する「類的存在」、つまり人間の共同体的本質を実現することが必要であると訴えたのです(同四〇七ページ)。

ヘーゲルとマルクスの人間解放論

 ヘーゲルは、「最高の共同性は、最高の自由」であるととらえ、人間が真にあるべき国家において、主体的自由の権利を行使しつつ、共同社会性を習俗として身につけるところに人間解放の姿をみました。いわば、自由な意志と共同社会性という人間の類本質の回復をもって、人間解放ととらえたのです。
 この点は第一六講でもお話ししたように、マルクスにも基本的に継承され、かつ発展させられていると思われます。
 「人間的自己疎外としての私的所有のポジティヴな廃棄、したがってまた人間による、また人間のための人間的本質の現実的獲得としての共産主義。したがって、社会的すなわち人間的な人間としての人間の、意識的に、かつ従来の発展のまったき豊かさの内部でなされた、自身にたいする完全な還帰としての共産主義。この共産主義は成就されたナチュラリズムとしてヒューマニズムに等しく、成就されたヒューマニズムとしてナチュラリズムに等しく、人間と自然との、また人間と人間とのあいだの相剋の真の解消……である」(全集㊵四五七ページ)。
 ここでは、人間の自己疎外からの回復が、「社会的すなわち人間的な人間」への還帰であり、「人間と人間とのあいだの相剋の真の解消」、つまり、人間の共同体的本質の回復にあるととらえていることを指摘しておきたいと思います。
 また、マルクスは、「自由な意識的な活動は人間の類性格である」(同四三六ページ)として、自由な主体を人間の本質ととらえています。この主体的自由は、「市民社会においては、各人は他人のなかに自分の自由の実現ではなく、むしろその障害を見いださせるようにさせられている」(全集①四〇二ページ)が、「〔他人たちとの〕共同こそが〔各〕個人がその資質をあらゆる方向へ伸ばす方便なのである。したがって共同においてこそ人間的自由は可能となる。……ほんとうの共同態において諸個人は彼らの連帯のなかで、またこの連帯をとおして同時に彼らの自由を手に入れる」(「ドイツ・イデオロギー」全集③七〇ページ)。
 結局、ヘーゲルもマルクスも、人間解放といいうるためには、人間が人間の本質である主体的自由と同時に、共同体的本質を回復することが必要であると考えています。そしてそのためには、人民は、真にあるべき国家の成員たる「公民」としての義務を履行することによって、私人と公民の統一を実現し、私的生活の充実とともに国家のために働き、国家を名実ともに人民のものとすることが求められているという点でも共通の認識に立っています。
 ヘーゲルとマルクスとの人間解放理論の差異がどこにあるのかといえば、マルクスの場合には、ヘーゲルと違って、これらの要件に加えて「私的所有のポジティヴな廃止」という土台における革命が、必要とされているところにあるといっていいでしょう。
 日本の現状が、人間らしい人間関係の破壊にあることをみるとき、人間の共同体的本質の回復をもって人間解放の一要件ととらえるヘーゲルの観点は、極めて重要であろうと思われます。
 科学的社会主義の見地に立って『法の哲学』から学ぶべき点は、まだ他にもいろいろあると思いますし、また研究してみたい課題もいろいろあります。
 しかし、講義時間との関係でこれ以上ふれることはできませんので、またの機会ということにして、ここではヘーゲルから学ぶべき「無数の宝」について、とりあえず以上の点のみにとどめておきたいと思います。
 長期間のご静聴ありがとうございました。

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