『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 

 

補講 科学的社会主義の自由論について

『資本論』「三位一体的定式」の自由論

 マルクスは『資本論』第三部第四八章の「三位一体的定式」において、未来社会を自由論との関係において展開しており、それをどう解釈すべきなのか、科学的社会主義の自由論との関係をどう考えるべきなのか、が議論になっていますので、補論として検討しておきたいと思います。) ちょっと長くなりますが、まず該当箇所を引用しておきます。
 「自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって——盲目的な支配力としてのそれによって——支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が——といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが——始まる。労働日の短縮が根本条件である」(『資本論』⑬一四三四、一四三五ページ/八二八ページ)。

科学的社会主義の自由論

 この箇所の検討に入る前に、あらためて科学的社会主義の自由論とは何か、をみておきましょう。
 科学的社会主義の学説において、自由論は特別重要な意義をもっています。というのもその自由論は、真にあるべき未来社会論との関係で、議論されているからです。
 それを科学的社会主義の学説を代表する『空想から科学へ』(一八八〇年)と『共産党宣言』(一八四八年)という二つの古典からみていくことにしましょう。
 エンゲルスの『空想から科学へ』は、『反デューリング論』の中心的理論部分を抜粋してつくられた科学的社会主義の入門書というべきものです。
 もともと『反デューリング論』は、エンゲルスの著作ではありますが、マルクスとの共著ともいえるものです。エンゲルスは、「三つの版の序文」のなかで、「この書物で展開されている考え方は、大部分マルクスによって基礎づけられ発展させられたものであって、私のあずかるところはごくわずかな部分にすぎないのであるから、私が彼に黙ってこういう叙述をしないということは、われわれのあいだでは自明のことであった。私は印刷するまえに原稿を全部彼に読みきかせた」(全集⑳九ページ)とまでいっています。
 マルクスは『空想から科学へ』の「フランス語版(一八八〇年)へのまえがき」において、いかにマルクスとエンゲルスとが共同して科学的社会主義の運動を展開し、共同して『共産党宣言』を発表し、共同して「新ライン新聞」を発行したかについてのべたうえで、「われわれはこの小冊子に同書(『反デューリング論』——高村)の理論的な部分からの最も適切な抜粋をのせる。これは、科学的社会主義の入門書とよぶべきものとなっている」(全集⑲一八一〜一八三ページ)として、『空想から科学へ』を「われわれ」の小冊子であるとのべています。
 その意味で、マルクス、エンゲルスの共著に等しい、円熟した晩年における『空想から科学へ』で展開された未来社会論は、科学的社会主義の未来社会論であり、かつ自由論だということができるでしょう。
 エンゲルスは、『空想から科学へ』のなかで次のようにいっています。
 「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現れる。……いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによって、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。……これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」(全集⑲二二三、二二四ページ)。
 これは一方で階級社会としての資本主義社会を「必然の国」としてとらえ、他方で搾取も階級もない社会主義・共産主義の社会を「自由の国」としてとらえたものです。この場合の自由とは、いうまでもなくヘーゲル自由論を継承・発展させた必然性との関係における自由を意味しており、社会主義・共産主義の社会は、ヘーゲルのいう概念的自由という意味で「自由の国」ととらえられているのです。
 ヘーゲルは、概念的「自由は必然を前提し、それを揚棄されたものとして自己のうちに含んでいる」(『小論理学』下一一六ページ)といっています。
 資本主義的生産様式は、剰余価値の生産を規定的目的とするところから生産力を爆発的に発展させながらも、他方で貧富の対立、失業、恐慌を生みだすという必然性をもっています。社会主義・共産主義の社会は、搾取を廃止することによって、この資本主義的生産様式のもつ必然性を揚棄し、生産力の発展を保存しつつも人間が社会の主人公になって、自在に計画的、意識的に社会を組織するところに、「必然の国から自由の国への人類の飛躍」といわれる所以があるのです。
 では次に、時間的には、『空想から科学へ』に三二年も先行する若いマルクス、エンゲルスの文字どおりの共著『共産党宣言』から、その未来社会論、自由論をみてみることにしましょう。
 「共産主義の特徴は、所有一般を廃止することではなくて、ブルジョア的所有を廃止することである。しかし、近代のブルジョア的な私的所有は、階級対立にもとづく、一部の人間による他の人間の搾取にもとづく、生産物の生産と取得の最後の、そしてもっとも完全な表現である」(全集④四八八ページ)。
 「階級と階級対立のうえにたつ旧ブルジョア社会に代わって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件であるような一つの協同社会が現われる」(同四九六ページ)。
 ここでは、未来社会が、搾取も階級もない「自由の国」であることが指摘されているものの、その場合の自由が、果たして必然性との関係においてとらえれているのかどうか、必ずしも明確ではありません。
 しかしそれに先立つ「経済学・哲学手稿」において、マルクスは、人間の類本質は「自由な意識的な活動」(同四三六ページ)にもとづき、「肉体的必要から自由な状態で生産」(同四三七ページ)するところにあるが、階級社会においては、「彼の労働は、自由意志的なのではなくて、強いられたもの、強制労働」(同四三四ページ)となっており、「労働の疎外」(同)「人間の人間からの疎外」(同四三八ページ)が生じている。としたうえで次のようにいっています。
 「人間的自己疎外としての私的所有のポジティブな廃棄、したがってまた人間による、また人間のための人間的本質の現実的獲得としての共産主義」(全集㊵四五七ページ)は、「自由と必然とのあいだの、・・・抗争の真の解消である」(同)。
 したがって『共産党宣言』の未来社会もまた、資本主義的生産様式の必然性を揚棄した自由な社会としてとらえたものと理解することができると思います。
 こうしてみてくると、科学的社会主義の自由論は、自由な意志から出発し、最初から最後まで自由を必然との関係でとらえるものであり、ヘーゲルの自由論を基礎にして、それを継承・発展させたもの、ということができるでしょう。この見地から、真にあるべき未来社会は、「自由の国」としてとらえられているのです。第四講で、『反デューリング論』の自由論には、自由な意志を出発点とする見地が欠けていることを指摘しましたが、この点は「経済学・哲学手稿」の自由論とあわせて読まれるべきものでしょう。
 現に、マルクスの未来社会論も、『資本論』全体をとおしてみると、必然との関係における自由の国としてとらえられているのをみてとることができます。
 「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』①一三三ページ/九二ページ)。
 「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれるとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる」(同一三五ページ/九四ページ)。
 「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」(『資本論』④一〇一六ページ/六一八)。
 これらはいずれも、未来社会を、必然性を揚棄した自由な社会としてとらえたものといってよいでしょう。

「三位一体的定式」の自由論批判

 以上のような科学的社会主義の自由論の見地から、「三位一体的定式」の自由論をみてみると、『空想から科学へ』で使用されたのと同じ「必然性の王国」「自由の王国」という用語が使用されてはいるものの、その内容は、科学的社会主義の自由論における自由と必然の概念とは異なるものになっていることを指摘せざるをえません。
 この箇所でマルクスが言わんとしていることは、およそ次のようなものといってよいでしょう。

 人間は、「自分の生活を維持」するという生活上の必要にせまられて「物質的生産」をせざるをえない。それは「自然的必然性」の王国である。
 未来社会において、生産手段を社会化し、人間が社会の主人公となったとしても、それはただ「自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同管理のもとにおく」という点においてだけ「自由」と認められるにすぎず、「これはまだ依然として必然性の王国」である。
 真の自由の王国は、「本来の物質的生産の領域の彼岸」にある。すなわち「事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる」。それは、「必然性の王国の上に」「労働の短縮」を「根本条件」として開花する。
 ここで、マルクスが「本来の物質的生産の領域」を「必然性の王国」とよんだのは、生活上の必要性にせまられての労働または生産は、人間を支配する外的強制法則(必然性)であるという意味でそうよんだものでしょう。 これに対して、「自由の国」とは、生産力がさらに発展して、生活上の必要性と「窮迫」にせまられて労働、生産するのではなく、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となった」(「ゴータ綱領批判」全集⑲二一ページ)社会発展の段階を意味するものといってよいでしょう。
 この自由の国は、物質的生産の領域ではあるものの、必要性にせまられた生産という「本来の物質的生産の領域」をこえるものであるところから、「本来の物質的生産の領域の彼岸」とよばれているのです。
 したがって生産手段を社会化して、人間が社会の主人公になっても、生産力の発展が十分でなく「労働がたんに生活のための手段」であるかぎり、「依然として必然性の国」であり、必然性の王国のなかでの自由にとどまる、というわけです。
 マルクスの「物質的生産の領域」を二段階に区分して議論するやり方は、すでに「経済学・哲学手稿」においてもみられるところです。
 「たしかに動物も生産をする。それは蜜蜂やビーバーや蟻等々のように自分の巣や住いをこしらえる。しかしそれは直接に自分もしくは自分の仔にとって必要なものを生産するだけである。それは一面的に生産をするのにたいして、人間は普遍的に生産をする。動物はただ直接的な肉体的必要に押されて生産をするのにたいして、人間自身は肉体的必要から自由な状態で生産をするし、そしてその必要から自由な状態においてこそほんとうの意味で生産をする」(全集㊵四三七ページ)。
 この場合の自由とは、肉体的必要の有無に関係なく、という意味ですから、必然性と無関係な自由であることがわかります。
 これに対して、「共産主義のより高度の段階」(同二一ページ)では、生産力の十分な発展により「労働日の短縮」を生みだし「労働そのものが第一の生命欲求」となるところから、「物質的生産」という「必然性の王国の上に」、「本来の物質的生産の領域の彼岸」としての真の自由の王国が開花する、というわけです。

 さて、以上のようなマルクスの自由論について、マルクスが、未来社会をその生産力の発展段階に応じて二段階に区分することはよいとしても、それを「必然性の王国」と「自由の王国」と称することには疑問があります。
 というのも、社会発展の段階からすると、まず搾取制度のある階級社会としての資本主義社会と、搾取制度が存在せず階級のない未来社会との決定的違いにこそ意味があり、しかもそれは必然性の支配する国と必然性を揚棄した自由の国との違いとしてとらえるべきものだからです。それをマルクスのいうように、未来社会のなかにさらに生産力の発展の度合いに応じて、必然の国と真の自由の国とがあるとすることは、全体として未来社会の本質が自由の国にあるとする科学的社会主義の理論上に混乱をもたらすものになりかねません。
 さらに、「物質的生産の領域」をその生産力の量的差異を基準として、生活上の必要にせまられての生産と、それをこえる生産とに区別し、前者を必然の国、後者を自由の国とよぶことも、自由と必然とを対立するものとしてとらえるものであり、この点でも科学的社会主義の自由論を混乱させるものでしかありません。というのも、「肉体的必要からの自由」をあえて自由とよぶことはできるでしょうが、その場合の自由は必然性を揚棄した自由ではなく、必然性と無関係という意味で、ヘーゲルのいう否定的自由にすぎないからです。
 物質的生産を自由と必然の関係でとらえるのであれば、自然のもつ法則性(必然性)と人間がその法則性を認識する自由(必然的自由または普遍的自由)との相関関係、つまり自由と必然の統一としてとらえるべきものです。その場合には、生産力の発展は必然的自由の段階的発展を意味することになります。
 結局、未来社会を生産力の発展の見地から二段階の発展としてとらえるのであれば、マルクスが「ゴータ綱領批判」(全集⑲)で展開しているように、「生まれたばかりの共産主義社会」(同一九ページ)と「共産主義社会のより高度な段階」(同二一ページ)とに区別したうえで、「共産主義社会のより高度の段階」では、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求とな」り、労働日の短縮による「個人の全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでる」(同二一ページ)と規定すれば十分であり、あえて必然の国、自由の国という概念を用いて区分することは、科学的社会主義の自由論に混乱を持ち込むのみだと思われます。
 したがって、科学的社会主義の自由論からいえば、「三位一体的定式」での自由論は、マルクスの勇み足としてとらえるべきものではないでしょうか。

不破氏の問題提起

 これに対して、不破氏は、『マルクスの未来社会論』のなかで、「三位一体的定式」の未来社会論、自由論こそ、科学的社会主義の未来社会論、自由論の本流であるかのようにとらえ、しかも次のような独特の解釈を展開しています。
 第一に、マルクスの自由とエンゲルスの自由とでは、同じ「自由」という言葉を「まったく性格を異にする意味で使っている」(『マルクス未来社会論』二一九ページ、新日本出版社)。
 すなわち、「マルクスの場合には、『自由』という言葉を、個人と社会の生活を維持し発展させるための労働という義務的な性格をもたない、人間としての自由な活動という意味」(同)で使っているのに対して、「エンゲルスの場合には、『自由』という言葉を、自然や社会で働く客観的諸法則と人間との関係を表す言葉として使って」いる(同)。
 第二に、エンゲルスは、「必然性の国」「自由の国」という用語を、「明らかに、社会発展の異なる段階を表す言葉として使」(同二一六、二一七ページ)っているが、マルクスの場合には、「二つの『国』の関係は、社会の発展段階の違いではなく、同じ社会のなかでの二つの部分の関係」(同二〇四ページ)である。
 第三に、マルクスにおいて、「物質的生産の領域は、外的な目的に規定された『必然性の国』に属する」(同一九六ページ)。
 マルクスは、「未来社会における人間の活動を、『本来の物質的生産の領域』とそれ以外の自由な人間活動の領域とに、きっちり区分して」(同)おり、「前者の『物質的生産の領域』を『必然性の国』(あるいは、『自然的必然性の国』)と名づけ」(同)ている。
 第四に、以上から出てくる結論として、「この二つの『国』とは、人間活動の二つの領域をさした言葉であって、同じ社会のなかで、人間が物質的生産にたずさわる時間が『必然性の国』を形づくり、それ以外の自由な時間が『真の自由の国』を形成する」(同二〇四ページ)。

不破解釈への疑問

 以上のような解釈には、いくつかの疑問が生じます。
第一に、まず科学的社会主義の自由論とは何かを論じないで、いきなり、「マルクスの自由論」と「エンゲルスの自由論」として並列的にとらえたり、あるいは、マルクスの自由論を科学的社会主義の自由論の本流であるかのようにとらえていることです。
 不破氏が「エンゲルスの自由論」といっているのは、『空想から科学へ』における自由論であって、それがひとりエンゲルスのものではなく、マルクスの見解でもあることは、先にみたとおりです。
 その意味では、科学的社会主義の自由論は、基本的に『空想から科学へ』の自由論として確立しているものであって、「エンゲルスの自由論」と「マルクスの自由論」として対立的に並置してとらえるのは正しくないと思います。むしろマルクスの「三位一体的定式」における自由論は、自由を必然との統一においてではなく、必然の否定としてとらえるものであり、本来の科学的社会主義の自由論を逸脱するものとしてとらえるべきものだと思われます。
 二一世紀において、自由のもつ普遍的価値は、ますますその意義を増大させています。
 そのときにあって、科学的社会主義の自由論に、統一した学説が存在しないとしたら、それは科学的社会主義の学説そのものが、時代の要請に対応しえないことを示すものでしかありません。
 科学的社会主義の自由論は、自由な意志を出発点とし、必然性との関係において自由をとらえるところから「正しいので全能」(レーニン)なのであり、マルクスの「三位一体的定式」における自由論は、科学的社会主義の自由論からすれば、本流には位置しえないものといわねばなりません。
 科学的社会主義の自由論を本格的に展開した『反デューリング論』が事実上、マルクスとエンゲルスの共同著作であったことからしても、また『資本論』の未来社会論にふれた先の引用箇所との関係からしても、「三位一体的定式」の自由論は、たんに未来社会においては、「労働時間の根本的短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」(日本共産党綱領)というにとどめるべきであり、自由時間の増大の重要性を強調したいという意図は十分に理解できるものの、あえて「自由の国」「必然の国」という言葉を用いるべきではないと思われます。
 第二に、不破氏が「必然性の国」「自由の国」という用語を、マルクスの場合には「社会の発展段階のちがいではなく、同じ社会のなかでの二つの部分の関係」としてとらえている点も疑問です。マルクスは、生産力の発展を基準として「本来の物質的生産の領域」と、「本来の物質的生産の領域」を超え、その「彼岸」にある「物質的生産の領域」とを区別して、前者を「必然性の王国」、後者を「真の自由の王国」とよんでいるのです。つまり「物質的生産の領域」のなかに、「本来の物質的生産の領域」と「本来の物質的生産の領域の彼岸」という区別があることを前提とし、前者を「必然性の王国」、後者を「真の自由の王国」とよんでいるのです。
 その意味では、マルクスも、「必然性の王国」と「真の自由の王国」とを「社会発展の異なる段階を表わす言葉」として使用しているといわざるをえません。
 真の自由の王国は、「本来の物質的生産の領域」という「自分たちと自然との物質代謝」の領域、つまり「必然性の王国の上にのみ」、しかも「本来の物質的生産」をのりこえた「この王国の彼岸」において、はじめて成立するというのです。
第三に、したがってマルクスによれば、「真の自由の王国」は、生産力が十分に発展し、生活上の必要にせまられた生産から解放されると同時に、労働日の短縮による自由時間の増大の上に成立する、人間が社会の主人公となる社会全体を意味しています。一つの社会のなかに、「自由の王国」と「必然性の王国」があるわけではありませんし、「人間が物質的生産にたずさわる時間が『必然の王国』を形づくり、それ以外の自由な時間が『真の自由の王国』を形成する」わけでもありません。
 もしそんなことになれば、未来社会においては、一人の人間が一日のうちに、「必然性の王国」と「真の自由の王国」との間を行き来することになってしまいますし、資本主義社会においても、「必然性の国」と「真に自由の国」とが存在することになり、未来社会を論ずる意味はなくなってしまいます。
 「真の自由の王国」としての未来社会が、労働から解放された「自由な時間」においてのみの「自由の国」であり、労働の現場においては、必然性に支配される「必然性の国」であるとしたら、あまりにもロマンも希望もない社会となってしまうのではないでしょうか。
 第四に、真の自由を、労働から解放された自由時間に求めることは、必然との対立において自由をとらえ、必然性を否定するところに自由があるとする、「自由か必然かの哲学論争」(第一五節)に立ち戻ることになり、自由を矮小化してしまいます。
 科学的社会主義の自由論は、「自由か必然か」という形式論理学の上に立った「政治論争」を止揚し、自由と必然の統一という対立物の統一の弁証法に立つところにその優位性が認められるのです。
 「哲学論争」における自由は、必然性との関係を否定する否定的な自由にすぎません。これに対し本来の自由論の領域は、必然性との関係における自由にあるのであり、ヘーゲルは、その意味の自由を、必然性を無視する形式的な自由、必然性を認識する普遍的自由、必然性を揚棄する概念的自由と、段階的発展の過程としてとらえました。
 『空想から科学へ』における「必然の国から自由の国への人類の飛躍」というのは、必然性を認識しつつも、なおその支配からまぬがれえない普遍的自由の国から、必然性を揚棄した概念的自由の国への飛躍を意味しています。
 これに対して、「自由な時間」における自由とは、必然性との関係を否定し、必然性との対立において自由をとらえるものであって、ヘーゲルの言葉でいえば、「否定的な自由」というもっとも低いレベルの自由にすぎないのです。「自由な時間」をもって、「真の自由の国」とすることは、科学的社会主義の自由論のもつ豊かな内容とその優位性を放棄するに等しいものです。 
第五に、自由を自由時間と同義にとらえることは、最終的に、科学的社会主義の自由論を自由な意志から断絶することになり、ブルジョア民主主義としての自由との接点を持たない独自の概念に変えてしまうものとなります。
 というのも、自由の出発点となるのは、あくまでも自由な意志であるべきであり、そこから、自由な意志にもとづく自己決定としての、思想・良心・表現の自由などが自由の一形態としてとらえられるからです。これに対し、科学的社会主義の自由を、自由時間だととらえることになれば、その自由には、ブルジョア民主主義としての自由を含む余地はないことになってしまいます。
 それは秋間実氏が三〇年前に提起した、自由Ⅰ(必然性との関係における自由)と自由Ⅱ(基本的人権として立ちあらわれる市民的諸権利の内容をなす自由、ブルジョア民主主義としての自由)とを、「統一的に——あるいは、すくなくとも連関させて——つかむことを可能にする哲学的自由論を打ちたてる」という課題を、最終的に達成しえないことを宣言するに等しいものとなってしまい、科学的社会主義の学説が、その自由論においてブルジョア民主主義の正統な継承者であることを否定してしまうことにもなってしまいます。
 第六に、不破氏の見解によると、社会主義・共産主義の社会が、その発展段階のいかんを問わず全体として「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」(綱領)であるという未来社会の本質を見失わせるものになってしまいます。
 二〇世紀末のソ連や東欧の崩壊をつうじて、科学的社会主義の学説は、自由と民主主義の対極に位置する、反自由・反民主主義の学説であるような誤った宣伝がおこなわれてきました。
 そのなかにあって、「自由と民主主義の宣言」を掲げた日本共産党の綱領路線は、科学的社会主義の学説こそ、ブルジョア民主主義革命の打ち立てた自由と民主主義の正統な継承者であることを明らかにして、科学的社会主義の学説の輝きを取り戻したのです。
 日本共産党新綱領には、「社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられる」ことが明記され、社会主義・共産主義の社会が「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」であることが確認されています。
 これは、ヘーゲルの自由論のうえにたって、概念的自由という最も高い段階の自由は、当然にも形式的自由というより低いレベルの自由を包含するものであることを宣言したものということができます。
 社会主義・共産主義の社会は、その発展段階のいかんを問わず、社会全体、つまり経済的社会構成体としてみた場合、最高の自由である概念的自由の段階にあるものとして「自由の王国」とよばれることになるのです。一つには、資本主義時代の価値ある成果としての民主主義と自由とがいっそう発展させられることにより、二つには、搾取から解放された「自由な人々の連合体」(『資本論』①一三三ページ/九二ページ)による、自由な意識活動により組織された社会として。
 もちろん概念的自由もそれ自体発展するものであり、社会全体が「自由の国」としてあることによって、その社会も構成員としての個人も、ともに限りなく自由となっていくのです。
 マルクスの「三位一体的定式」における自由論に拘泥することは、これまで日本共産党が自由と民主主義の継承・発展のために果たしてきた積極的役割と綱領の路線にも、いくばくかの疑問を抱かせることになるのではないかと懸念するものです。
以上のような指摘も含めて、科学的社会主義の自由論については、今後ひきつづき検討されるべき重要な課題の一つであると考えるものです。