『ヘーゲル「法の哲学」を読む』より

 


               序

 本書のベースになったのは、広島県労働者学習協議会主催の「講座・ヘーゲル『法の哲学』を読む」(二〇〇三年一二月から二〇〇四年九月)の二〇回分の講義です。その講義に加筆・訂正・整理をしたうえで、「補論」を加えたものが本書となりました。
 二〇〇三年五月に出版した『人間解放の哲学――科学的社会主義の自由・民主主義論』のなかで、ルソーの『社会契約論』や『法の哲学』についても、いくつか触れる機会がありました。それを契機に受講生のなかから、もっとルソーやヘーゲルについて学習したいとの声が上がり、それが二〇〇四年七月出版の『科学的社会主義の源泉としてのルソー』、そして今回の本書として結実したものです。
 その意味では、以上の三冊は、科学的社会主義の自由・民主主義論三部作とでもいうべきものとなっています。
この三つの著作をつうじて、著者自身の認識も弁証法的に発展してきていることを感じています。
 一つは、プロレタリアート執権の問題です。『人間解放の哲学』では、プロレタリアート執権とは、「科学的社会主義の政党に導かれつつ、労働者階級が先頭に立って、未来の真理としての人民の一般意志を実現する権力」(一九八ページ)ととらえていますが、本書においては、さらに発展させて労働者階級の指導のもとにおける「主権在民の人民主権」の権力ととらえています。
 真にあるべき国家については、ルソーからヘーゲルを経て、マルクス、エンゲルスにいたる認識の弁証法的な発展過程は、非常に興味のある内容となっています。
 二つには、自由論の問題です。科学的社会主義の自由論は、必然との関係における自由論として、自由の真理をとらえたものとなっています。
 しかし、反面では、この自由論が、ブルジョア民主主義としての自由(思想・良心・表現の自由など)とどう関わるのかは、かねてより議論のあるところでした。
 今から三〇年前、秋間実氏は、この両者を「統一的に――あるいは少なくとも関連させて――つかむことを可能にする哲学的自由を打ち立てることが課題となっている」ことを指摘しました。
 『人間解放の哲学』でも、この課題に取り組んだのですが、今回、ヘーゲルの自由論をあらためて深く学ぶなかで、ようやくこの課題の真の解決に到達した思いを深くしています。それはまたマルクスが『資本論』の「三位一体的定式」で取り上げている、自由と必然の問題をどう理解するかとも関連するところから、補論・「科学的社会主義の自由論について」を付加することにしました。
 エンゲルスは『フォイエルバッハ論』のなかで、『法の哲学』を含むヘーゲル哲学には「今日でも完全に値うちのある無数の宝がある」(全集 二七四ページ)といっています。科学的社会主義の立場にたって、この「無数の宝」を発掘することも、本書の大きな目的の一つとなっています。それが成功しているか否かは、読者の皆さんのご判断にお任せする以外にありません。
 いずれにしても、『法の哲学』の研究書が巷間にあふれているなかで、本書が科学的社会主義の立場にたった著作であり、〝真理の前にのみ頭を垂れる〟の精神で著されたところに本書の特徴があることだけは指摘しておきたいと思います。
 今回も、県労学協編集委員会の皆さんには、言葉に言い表せないようなご協力をいただき、本書をこれまでと同様、編集委員会編として出版することができました。あらためてこの場を借りて、心からの敬意と感謝の気持ちを表明するものです。
 なお装丁は、娘婿のインテリア・デザイナー、ロス・ミクブライドが担当しました。

二〇〇五年 六月 二五日       
  『法の哲学』序文の記された日に

             高村 是懿