2005年9月25日講演

 

 

『ヘーゲル「法の哲学」を読む』出版記念講演

人間はどんなときに輝くのか
~科学的社会主義の生き甲斐論~


講師  高村 是懿

 長年科学的社会主義の学説と運動に関わってきましたが、私自身こういうテーマでお話しするのははじめてのことです。様々な文献をみましても、科学的社会主義の立場から生き甲斐論を取り上げたものは、ほとんど見られない状況です。しかし、果たしてそれでいいのかということが、かなり前から私の問題意識にありました。いまから数年前に『変革の哲学・弁証法―レーニン「哲学ノート」に学ぶ』という本を出しました。この本の冒頭に哲学とは何かという問題提起をしまして、哲学は真理・真実を探求する追求すると同時に、人間の生き方の問題をも追求する学問であることを書いています。
 では、より良く生きるための哲学とは何かをこの本の冒頭に提起しているのですが実はこの本にはその真の解答は載っていません。
 そこを読んでみますと、「そもそも世界観というのは、自然や社会、人間あるいは人間の生き方を含め、世界全体についてのまとまった見方を意味します」。
 そういう世界観を持っている科学的社会主義は、より善く生きる問題についてどう考えるかというと、こう書いています。「より善く生きるとはどういうことかというと、「哲学ノート」を学んだ最後に考えることになるかも知れませんが、さしあたり言えることは、生きることそのものの質を高めていくことではないでしょうか」という「さしあたり」の回答にとどめています。
 より善くいきることとは、生きることの質を高めることではないか、ということを言っていて、ではどういう生き方が質を高めることなのかについては、実は変革の立場に立つことなのだという結論を出すにとどまっていて、哲学的な深い考察はなされていません。 
「哲学ノート」の対象になったのは、ヘーゲル論理学ですから、論理学の観点に立つ限り、そういう答えしか出てこなかったのだと思います。しかし、それだけでいいのかという疑問は、長年私のなかにあって、いつかはこの問題を解明しなければならないと思っていました。
というのも科学的社会主義の学説というのは、人類が生みだした価値ある遺産をすべて受け継ぐ、人類の価値ある遺産の総和として誕生したものです。
 その一つが哲学の分野です。哲学というのは英語でいうとフィロソフィー、もともとはギリシャ語のフィロソフィアからきています。フィロは愛するということ 、ソフィアは知、知ることですから、哲学というのは知を愛する、愛知ということです。ですから、愛知県はさしづめ哲学県となるわけで、愛知万博は知の結集になっているはずですが、そうはなっていないようです。
知を愛するという場合の知というのは、何について知ることなのか、それは大きくあげて、二つの対象があると思います。一つは客観世界、自然や社会が、どういうふうに存在しているのか、そのあり方を知ることであり、もう一つは、人間の生き方、行為のあり方を知るという二つの対象を哲学はもっています。
ところが、科学的社会主義の哲学といわれる場合に、それはどういうことを頭においているのかというと、教科書などに書かれているのは、弁証法的唯物論と史的唯物論です。つまりこれは、自然や社会がどのようなあり方をしているのかに関する哲学だといっているのです。
内容については説明するまでもないと思いますが、自然や社会はバラバラな固定したものとして存在するのではなく、相互に複雑に絡み合って運動・変化・発展する存在である、自然や社会を運動するものとしてとらえる、そういう哲学です。
 これに対して、知のもう一つの対象である人間の生き方、行為のあり方について弁証法的唯物論がどういう観点に立っているかを一言でいいますと、先ほど『変革の哲学』で紹介しましたように、「変革の立場」です。大変有名なのは、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」の最後のテーゼ、これはマルクスのロンドン郊外にあるお墓にも彫ってありますが、「哲学者たちは、世界をたださまざまに解釈しただけである。肝腎なのはそれを変えることである」というものです。
 こういう変革の立場が人間の生き方に関する唯一の哲学であるかのように語られてきたのではないかと思います。しかし、人間のより善い生き方、あり方を考えるときに、それは果たして変革の立場ということだけですべてを言いきれるのかというとそういう問題ではないと思われます。
人類の二五〇〇年に及ぶ哲学の歴史のなかで、凛然と輝くソクラテス、プラトン、アリストテレスという三人の哲学者たちは、哲学するに当たって、自然や社会がどのようなあり方をしているのかを対象にすると同時に、どのように善く生きるかという問題をも対象としました。
ソクラテスは、「大切にしなければいけないのは、ただ生きるということではなくて、善く生きるということ」という提起をしています。つまり、哲学する、知を愛するということは、客観世界についてよりよく知ると同時に、人間としてより善く生きること、そして、この二つがどのような関係にあるかを解明することが哲学の課題であるというふうに思われます。
しかし、現在、科学的社会主義の哲学も含めて、人間の生き方に関する哲学は、はなはだ軽視されている、いったい何故そうなったのかという点を考えてみる必要があると思います。かつては哲学はその二つの部分、自然哲学と人間哲学とに分かれていました。自然と人間を二つの対象にした哲学として誕生しました。しかし、その後の人類の歴史のなかで、自然哲学の分野だけが以上に発達をするという歴史的経過をたどるわけです。
 自然哲学はその後、自然科学と名前が変わります。そして、この自然科学がだんだんに発展してくるなかで、次第に人間哲学のかげが薄くなってきたわけです。いわゆる科学主義、科学万能論、物質万能論という時代になってきました。
 先ほど愛知万博がけっして真に知を愛する万博になっていないということを言いましたが、テレビなどで放映されているのを見ると、あれはまさに物質万能主義の博覧会です。別の言葉でいえばトヨタのトヨタによるトヨタのための万博です。ですからあそこでは珍しいロボットが歌を演奏したり、一人乗りのロボットの車があったりするのですが、人間がいかに生きるべきかという問題については何一つ答えようとするものは存在しません。そこに自然科学の優位性のもたらす一つのゆがんだ姿が現れているのではなかろうかと思います。
自然哲学の方が圧倒的に発達することになって、人間哲学の方が置いてきぼりにされることになり、本来、ギリシャ哲学の時代には、二つの哲学が一つに結びついていたにもかかわらず、別々に切り離されることになってきました。
 それを二元論的世界観といいます。つまり、本来自然をより善く知ることは、より善く生きるためのものでなければならないはずなのに、世界には自然と人間の生き方の二つのものがあって、その二つは別々のもので、別々の基準で考えなければならないというものです。
 人間哲学の方は人間としてより善く生きるとはどういうことなのか、ということを問題にするわけで、人間にとって何が価値あるものなのかということを問題にしますから、これは「価値」の問題というふうに一言でいわれることがあります。
これに対して自然哲学は客観世界を問題にしますから「事実」の問題を対象にするといわれることがあります。いわば、事実と価値とは別々のものだというとらえ方がされてくるようになってきます。そこから自然科学の没価値性という言葉が出てきます。自然科学は事実を問題にするのであって、価値を問題とするものではないから、価値から切り離されたものとして科学しなければならないという考え方です。
いわば、人間の価値観を自然科学に持ち込んではならないということになります。そこからさらに進んで、この二元論の立場は、事実の問題については真理がある、しかし、価値の問題については真理は存在しないという考え方に発展していきます。人間の生き方、つまり価値観の問題には真理は存在しない、価値観は多様にあるだけでそのどれか一つに優越性を認めることはできないという立場です。
人間のどういう生き方がより善い生き方かを問うこと自体がまちがいだという考えになってくるわけです。そして、このことは、現代において非常に大きな問題を生み出しています。つまりそれは、科学の非人間性という問題です。科学が価値の問題と切り離されることによって、単に事実を事実としてを問題にするだけだということによって、非人間的な科学が生まれてきたということです。科学万能主義、科学主義というのは、核兵器や生物化学兵器などのような大量破壊の残虐な兵器を生み出してきました。最近湾岸戦争以来問題になっている劣化ウラン弾などはその最たるものではないかと思いますが、あれは通常兵器と呼ばれる核兵器なのです。それが通常兵器と同様に使用されているのですから大問題といわなければならないのであり、て、まさに人類の生存に関わる問題が科学主義の名前で横行しているわけです。
地球規模での環境破壊の問題も同様に科学主義の一つの産物だということができます。
ですから、現代という時代は、あらためて自然科学の没価値性そのものが問いなおされなければならない時代だということができるだろうと思います。
客観世界についてよりよく知ることと、人間がより善く生きる問題とは、別個の問題ではなく、一つの問題としてとらえなおす必要があるということです。言い換えれば、一元論的な世界観ということになります。
 ギリシャ時代のソクラテス、プラトン、アリストテレスが追求した道、すなわち、より善く知ることをより善く生きることに結びつける道を、現代においてもう一度たどる必要があるのではないかと思います。その点についての先駆的な役割を果たしたのがヘーゲルという人です。  
ヘーゲル哲学は大きく二本柱があると思うのですが、一本の柱はヘーゲル論理学という柱であり、もう一本が法の哲学という柱です。この両方の柱でヘーゲルはより善く生きるとは何かを追求しています。
まず論理学の方では、より善く生きるということは、主観と客観を統一することにあると考えています。つまり、人間が客観世界をよりよく知るという問題は、同時に客観世界をよりよいものに変革するということに結びつかなければならないという考えです。そうやって主観と客観を統一させようということであり、それが言い換えれば変革の立場ということになってくるわけです。
よく知ることは善く生きることに結びつかなければならない、それを結びつけるのが人間の実践であり、人間の実践を媒介にして主観と客観の統一を実現するという変革の立場が、論理学で追求したより善く生きるという問題に対する一つの答えです。それをマルクスは、まっすぐに引き継いでいるわけです。
しかし、この変革の立場は、より善く生きるという問題に対しての全面的な回答をしているわけではありません。より善く生きる問題をさらに深い立場で検討したのが、ヘーゲル『法の哲学』という本です。
 実は、私も今度『ヘーゲル「法の哲学」を読む』を出版するまでは、『法の哲学』の神髄がより善く生きることにあるということに気づきませんでした。これまで何度も読んできましたが、そういう主題が貫かれているということに気づかなかった。それは何も私が悪いのだけではなくて、今までの哲学史全体が『法の哲学』をそのように解釈していないわけです。しかし私は『法の哲学』のもっとも大きな主題は、人間がより善く生きるとはどういうことなのかという課題を全面的に追究したことにあると考えています。
そのことはこの本の終わりのところにほんの少し書いているだけですが、もう少し骨太く書かなくてはいけなかったかと、出版した直後に反省しているわけです。人間の認識は一歩ずつしか発展しませんので、その問題に気づいただけでも意義があったのではないかと思っています。
この『法の哲学』で展開された、より善く生きるとはどういうことなのかという問題は、残念ながら科学的社会主義の立場にはそのまま引き継がれることはありませんでした。それは何故なのかというのは、なかなか興味あるテーマなのですが、実はマルクスがあまりにも若いときにヘーゲルの『法の哲学』に取り組んだのが、その理由ではないかと思います。若干二五才の時にマルクスは、いかにヘーゲルを乗り越えようかと、ヘーゲルと格闘するわけで、その最初の対象となったのが『法の哲学』です。マルクスの若いときの諸論文はすべてこの『法の哲学』の批判として書かれているといっても過言ではないくらいで、とにかく闇雲にヘーゲルの批判をしています。若気の至りというところがいたるところに見られるわけで、私としては、マルクスが晩年になってもう少し『法の哲学』の検討をしてほしかったと思うわけです。しかしマルクスは、この『法の哲学』の批判を通じて科学的社会主義の道へ進み、人間社会を動かしているのは本当は経済であるということで、経済学の研究に没頭してその途上で倒れたわけですから、もう一度より善く生きる問題に立ち戻れなかったのは、ある意味では当然だったといえるのかもしれません。
しかしそれだけに私たちは、この『法の哲学』から、あらためてより善く生きるとはどういう問題なのかを考え直し、それを科学的社会主義の哲学のなかにしっかりと位置づける必要があるのではないかと思っています。
結論的に言いますと、『法の哲学』においてより善く生きるとはどういうことかといいますと、それは、人間がより自由になることだというのです。
まず人間の生き方を問ううえでは、人間とは何かを問わなければなりません。人間の本質はどこにあるのか、それを探究したのが、私が数年前に出版した『人間解放の哲学』という本です。これは自分でいうのはどうかと思いますが、なかなか面白い本です。
 人間の本質とは何かを追究することを通じて、人間解放とは何かを議論した本なのですが、そこでも書きましたように人間の本質の一つは、自由な意志にあります。動物と違って人間は自由な意志をもって自由に客観世界を作りかえることができる、ここに人間と動物の決定的な違いがあります。
自由とは何かという問題についてヘーゲルは、深い思索を巡らします。人類の認識の発展というのはなかなか面白いもので、弁証法的に発展するのです。ヘーゲルの先輩にあたるのはルソーですが、このジャン・ジャック・ルソーという人は、「人は生まれながらにして自由・平等である」といいました。そこからフランス革命では自由・平等・博愛というスローガンが出てくるわけです。
 「人は生まれながらにして自由なのか?」とヘーゲルは問い返して、決してそうではないという結論を出します。生まれたばかりの人間は、まだ客観世界のなかに埋没しているわけで、動物と異なるところはありません。しかし人間は自由な意志を持っているところから、この客観世界に埋没した状況から次第に抜け出して自由になっていくわけです。個人としても人類としても次第に自由になっていきます。客観世界に埋没している人間は単に生きているだけです。より善く生きているわけでは決してないのです。
そこからヘーゲルは、自由という問題は客観世界との関わりにおいてはじめてとらえることができるのだろうと理解します。そういう見地からヘーゲルは、自由を大きく四つの段階に分けています。第一の段階は、客観世界の存在自体を否定してしまう自由、否定的自由とよんでいます。達磨和尚は面壁八年、壁に向かって八年間座禅を組んで悟りを開いたといわれています。悟りを開くとは最高の認識に到達することですから、壁に向かって悟りを開くということは、客観世界には壁以外のものは存在しないという立場ですから、いわば、客観世界を否定して自己のなかにのみ沈潜するということです。そのように客観世界を否定する生き方、これが否定的自由です。最近の閉じこもり現象はある意味で、否定的自由の一つの現れでしょう。家の中の範囲に限ってを客観世界を認めて、それより外は認めない、認めたくない、認められないから一歩も外に出られないということになるわけです。しかし、こんな自由はきわめて限られたものでしかないということはすぐにお分かりでしょう。
そこで、二番目の自由は、客観世界の存在は認めるけれどもそれとはまったく関係なしに自分の自由な意志で自分の行動を決めるというやり方、ヘーゲルはそれを形式的自由とよんでいます。形の上では自分の意志で決めるかぎりでは自由といえなくもないのですが、客観世界のあり方、法則性、必然性を無視するやり方ですから、それは形式的には自由かも知れないけど内容的には不自由なので、それは形式的な自由でしかないといっています。
 三つ目の自由は、普遍的自由です。つまり、客観世界の法則性、必然性を認識したうえで、その法則にもとづいて行動する自由です。『反デューリング論』というエンゲルスの有名な本の一部を取り出したものに、『空想から科学へ』という有名な古典があります。このなかに自由論がでてきますが、科学的社会主義の自由論はこのヘーゲルの自由論を引き継いでいますから、エンゲルスが、資本主義から社会主義への移行は「必然の国から自由の国への人類の飛躍」であるといった、あの「必然」と「自由」の使い方というのはヘーゲルからきているわけです。
では、人間の自由の問題は必然的自由にとどまるのかといえばそうではありません。先ほど論理学のお話しをしましたように、変革の立場は人間の一つの本質的特徴でして、変革の立場は、客観世界の法則性を認識したうえに立って、さらに客観世界をよりよいものにつくり変えていくという、そういう自由になるわけです。それをヘーゲルは概念的自由といっています。つまり、現にある姿のなかから、真にあるべき姿を見出して、それを実現するところに人間の最高の自由を認めようという立場です。
このように自由を四段階に分けたうえで、ヘーゲルは、人間が人間の本質である自由な意志を存分に働かせて、より自由になっていくところにより善く生きるという問題があると考えるわけです。
そういう自由論を前提として、より善く生きることを考えていくわけですが、ヘーゲルは、より善く生きる問題を、個人としてより善く生きる問題と、人間としてより善く生きる問題の二つに区別しました。
私たちはよく人間らしく生きるとか、自分らしく生きるとかいうのですが、そこをもっとつっこんで研究しようというのが、ヘーゲル『法の哲学』の課題になっています。
まず個人としてより善く生きるとはどういうことなのかを考えてみると、個人として自分なりに自分の真にあるべき姿をとらえて、そこに向かって前進するところに個人としてのより善い生き方があるのだというふうに考えています。
人間それぞれ自分なりの夢や希望があるわけで、もっと上手になりたいとか、もっと強くなりたいとか、もっと豊かな暮らしをしたいとか、もっと人に認められたいとか、いろんな気持ちがあるわけで、これは、より善く生きたいとという気持ちの現れです。
ですからこういう個人的により善く生きるという問題の、より善い生き方、より善い真にあるべき姿はどんな特殊なものにでも見出すことができるのです。趣味の世界のなかにも見出されます
「吹けば飛ぶよな将棋の駒でもより善く生きる対象になる」とレジメにも書いておきましたが、これは、かつて村田英雄という歌手が坂田三吉を歌った「王将」という歌のなかに出てくる文句で「吹けば飛ぶような将棋の駒に、賭けた命を笑わば笑え」というのがあるのです。これは見事に個人としてより善く生きる問題とその限界を現したものです。
つまり、将棋というのは、大変いい趣味だと思いますが、いい趣味ではあっても所詮、一つの趣味です。だからそういう将棋の駒に生き甲斐をかける、命を賭けるというのは、あるいは笑われても仕方ないかもしれないが、それでも私はこの生き甲斐を選ぶという意味でしょう。そのようにどんなに特殊なものにでも、個人的なより善く生きる目標を見出すことができます。
場合によれば、非現実的なものにも生き甲斐を見出すことはできるわけです。それが宗教というものでしょう。 西暦はキリストの誕生をあらわしていますから、二〇〇五年前にキリストは誕生して、原始キリスト教が生まれました。当時は奴隷制社会です。奴隷として生まれてきたものは一生涯奴隷として過ごさなければなりません。奴隷というのは牛や馬と同じですから、いっさいの自由は存在しません。いっさいの人間らしい営みは許されないわけです。そうしたなかでキリスト教は、爆発的に奴隷の間で支持をうるところになります。何故かというと現世では夢や希望を持つことはできないけれども、来世では君たちの未来は保障されているということを原始キリスト教は訴えたからです。ですから現世に生き甲斐を見いだせない奴隷たちは、来世に生き甲斐を見いだそうとしてキリスト教を信仰するようになりました。このキリスト教は「スパルタカスの乱」など奴隷の反乱のスローガンにもなって、奴隷たちを励ますことにもなりました。
ですから個人的により善く生きるための目標というのは、どんな特殊なものにも見いだせると同時にまったく非現実的なものですらその目標となりうるということを意味しています。その意味ではより善く生きる目標になるものは、全く無限定であり、何でもいいということになってくるわけです。
しかし、そうであっても個人が自分らしい目標を定めて、その目標に向かって生きていく権利、それは人間の主体的自由の権利として、絶対に保障されなくてはならないと主張したのがヘーゲルです。現代の用語で幸福追求権といわれています。
憲法一三条には、「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については最大の尊重を必要とする」と規定されています。幸福追求権というのがでてきますが、正確に調べたわけではありませんが、おそらくこの語源はヘーゲルの『法の哲学』にあるのだろうと思います。
個人が自分らしくより善く生きるためには、幸福追求権が保障されなければならない。どんなに限定された目標であっても、どんな非現実的な目標であっても、自分が目標を定めてその目標に向かって前進することで満足をうる権利が保障されなければならない。これが幸福追求権の中味になっています。
 しかし、この個人としてのより善く生きる生き方は、どんな普遍的自由、概念的自由に到達したとしても、その目標からしてもちろん限界があるわけで、場合によればきわめて独りよがりな生き方になってきます。そこからヘーゲルは、個人としてより善く生きる権利、別の言葉でいえば、個人の尊厳にもとづく幸福追求権が認められなければならないけれども、そこにとどまってはならない、人間である限り、個人としてより善く生きるだけではなく、人間としてより善く生きることが必要なのだと考えたのです。
人間が人間らしくより善く生きる問題も大きく二つに分かれます。一つは個人の内面において、人間らしくより善く生きるということです。それは言い換えると、人間としての真にあるべき姿を自分の目標に定めて、それに向かってより自由に生きるということです。その目標を理想といってもいいのですが、哲学的には理念といっています。 
 人間としての真にあるべき姿を理念として頭にえがいて生きる生き方によって人間の生きる目標は特殊的な目標から普遍的な目標に発展します。将棋の駒に命を賭けることはできるけれども、それは普遍的な人間のより善い生き方ではありません。
 人間にとってもっとも普遍的なものとしての真にあるべき姿を追究するのは道徳です。道徳というと、道徳教育などを思い出して、反発されるむきもあるかも知れませんが、ヘーゲルはそういう観点から、人間としてより善く普遍的な生き方をするためにどうしたらいいかという見地から道徳論を述べています。
つまり道徳論というのは、人間の内面に、人間の真にあるべき生き方、これが人間の内面的自由に関わってきますが、それを目標に定めて、そこに向かって前進する義務を課して、それにより、より自由になっていこうというところに道徳の意味があるととらえています。
この人間の真にあるべき生き方をヘーゲルは、善という言葉でよんでいるですが、自己のうちに、善と善に向かって前進する義務とを打ち立てて、義務を善に向かって前進させるところに、いわゆる人格の陶冶があると述べています。人間は生まれながらにして自由ではないとヘーゲルは言いましたが、こうして人格を陶冶することによって、だんだんと自由になっていくと考えるわけです。人格を陶冶するためには勉強しなければならないと言っています。勉強するのは大変な苦労を伴うのだけれども、それを抜きにして人間は自由になれないと言っています。なかなか耳の痛いところです。
自己の内面により善く生きる生き方を見出す道徳というのは、せいぜいその内容としては、誠実に生きるとか、正直に生きるとか、献身的に生きるとか、そういう抽象的なものにとどまっていて、絶対的に規定された善を生みだすことはできないわけです。そこからヘーゲルは人間らしくより善く生きる問題を、個人の内面の問題からさらに広げて、国家や社会のあり方との関わりにおいて、模索することになってきます。
 人間の一つの本質は自由な意志を持つことですが、もう一つの本質は社会的存在だということです。『人間解放の哲学』では、共同社会性という言葉を使っていますが、つまり、人間と社会は切っても切り離せない関係にあります。
 人間のDNAとチンパンジーのDNAは一パーセントも違うか違わないかといわれています。それほどの違いしかないのに何故チンパンジーの世界は人間の世界とこれだけ大きな開きがでてきているのか、それは人間がチンパンジーと違って、社会というものをもっているからです。チンパンジーは群れは作っても、社会はもっていません。社会というのは人間が生活し、労働し、交流する場です。この社会のなかで人間は、人間らしく成長するところに人間のもう一つの特徴があるわけです。
ここからヘーゲルは人間が人間としてより善く生きるためには、その社会との関わりのなかにおいての生き方を問題にしなければならないと、問題を広げていくわけです。個人の内面においてより善く生きる生き方、これも重要だけれども、しかし、それだけにとどまっていてはならないといっています。
それは言い換えると、社会的存在としての人間が、その人間性を最高に発揮させるような国家、社会においてはじめて人間はもっとも人間らしい自由な生き方をすることができるということです。
 では、その真にあるべき国家とは何かといいますと、ヘーゲルは「最高の共同性は、最高の自由である」といっています。人間の社会共同性、社会的存在を最高度に発揮させる社会こそ、もっとも自由を保障する社会だというのです。いうなれば、人間の類本質である社会共同性を最高度に発揮させるような社会こそ、人間の自由を最高度に保障する社会だということです。それは私たちの言葉でいえば社会主義・共産主義の社会ということになってきす。
こうしてヘーゲル『法の哲学』の最後の部分は、国家論ということでまとめられるのですが、その国家論で、最高の共同性を発揮する国家とは何なのかということを探究していて、それが非常に面白い。どう面白いかというと、もちろんマルクスが『資本論』で叙述したように生産手段の社会化による社会主義への移行ということをヘーゲルはとらえているわけではありません。しかし、本来の国家というものがどういうあり方をしなければならないのかについて、非常に示唆に富む問題提起をしています。
先ほどもヘーゲルはルソーの批判のうえに自己の哲学を打ち立てたといいましたが、ルソーという人は何をもって現代の世に生き延びる哲学者の一人に数え上げられているのかというと、彼の『社会契約論』という本なのです。これも昨年私が出した、『科学的社会主義の源泉としてのルソー』を読まれた方は、お分かりだと思いますが、そこで、ルソーの『社会契約論』の一番大事な問題提起は、最高の共同性を発揮する社会は人民主権の国家だといっています。
 ルソーの人民主権の国家とはどういうものかというと、私たちが使っているのとは少し違う意味で使っているのですが、そこでは人民の一般意志が国家の意志になるような政治をするのが、人民主権国家だといっています。人民の一般意志とは何かというと、人民の願っている真にあるべき政治をめざす意志です。人民が真に願っているような人民の意志を基本にすえて統治をする国家が人民主権国家だといっています。
しかし、では、そういう一般意志はどうやって形成されるのかというと、ルソーは特別な天才でも生まれない限り、なかなかできないだろうといって、フランスにおいてすら、一般意志による統治はとても実現できないだろうと考えていました。どういうことかというと、人民の一般意志は人民のなかから生まれてくるしかないけれども、人民のなかから、自ずから一般意志が生まれてくるということは、ほとんどありえないのであって、よほどの天才が人民の一般意志を導き出して、それで人民を導くしかないのではないかと考えたわけです。
この人民主権国家を実現しようとしたのがフランス革命でした。フランス革命のジャコバン独裁の時代というのはまさにこのルソーの人民主権論を文字通り国家において再現しようとした試みでした。しかし、ジャコバン独裁は大変な恐怖政治を生みだしました。当時の政府は、反革命とみなした人たちを次々とギロチンにかけて、何千人という人々を殺してしまったところから恐怖政治といわれたわけです。
この恐怖政治を隣の国から目の当たりに見たのがヘーゲルです。ヘーゲルはルソーの人民主権なんてのはとんでもない考えだと判断しました。人民に政治を任せたらどうなるか、ジャコバン独裁ではっきりしているではないか、人民というのは定形のない固まりで何処に飛んでいくか分からない存在だというふうにいいました。これはある意味で当たっているわけです。今度の選挙の結果を見ても、やはり人民は定形のない固まりだと思われた方もあるかもしれません。
ヘーゲルは、人民の一般意志による統治というのは、そのとおりだと、しかし、その一般意志をどうやって形成するかを、ルソーのように、人民に任せるという立場をとったのでは駄目だ、すぐれた官僚の手に委ねるべきだという、大変に一面的な間違った結論を出したのです。
 そしてこのヘーゲルの間違った考え方を乗り越えるものとしてマルクス、エンゲルスのプロレタリアート執権論、労働者階級の権力論がうまれてくるのです。つまり、政治を決めるのはあくまでも人民自身の手によらなければならない、しかし人民の意志というのは、常に一般意志に向かうことはありえないので、もっとも先進的な階級、労働者階級の導きのもとにおいてのみ、はじめて一般意志が人民全体の意志になるととらえられたのです。 こうして労働者階級の権力論、いわゆる人民の導き手の必要性の理論が生まれることによって、導き手により人民が正しく導かれるなら、人民の手によって一般意志が形成されるというふうに考えたわけです。
 ですから、私は、この言葉を形式化していうと、主権在民の人民主権国家ということができるだろうと思います。主権在民というのは国民が一票を投じて政治家、代議士を選ぶ、その制度は守らなければならないと思います。それと同時にその一票を人民の一般意志を形成する方向に導くために労働者階級の権力が必要で、それによってはじめて、主権在民のもとでの人民主権の国家が生まれるのだろうと思うわけです。そういう問題が『法の哲学』のなかに出ていて、なかなか興味深いのです。
以上、いろいろお話ししましたが、結論的にいいますと、より善く生きるという問題は、自分らしく生きるという個人の尊厳を、人間の人間らしく生きていくことのできる、真にあるべき社会を実現する人間の尊厳と結びつけてとらえることによって、より善く生きる道がはっきりするのではなかろうかと思います。
というのも、真にあるべき国家や社会を実現するという理念は、特殊的な理念ではなくて、もっとも普遍的な理念です。しかもそれは空想的な理念、非現実的な理念ではなくて、現実性となりうる理念です。こういうもっとも普遍的で、もっとも現実的で、したがって、もっとも価値ある理念を、個人の、自分らしく生きる問題と結びつけた生き方をすることが、自分らしくより善く生きると同時に、人間らしくより善く生きることにつながっていくことになるわけです。それが人間にとっての最高に生き方だということになるということです。そういう問題提起をヘーゲルはしているのだと思います。
生き甲斐を社会進歩に重ね合わせるという言葉がありますが、こうして振り返ってみると、この言葉はなかなか含蓄のある、言い得て妙の言葉ではなかろうかと思います。
以上でお話ししたいことは尽くしたと思いますが、最初にお話ししたように、科学的社会主義の生き甲斐論というのはこれまで確立したものとして存在したわけではないのです。しかし、私は、確立されなければならない哲学の一つの分野であると思います。そこに向かっての一つの問題提起だと受けとめていただいて、これからの皆さんの論議のなかで、生き甲斐論を深めていただければ有意義な経過につながるのではないかと思います。

 

二〇〇五・九・二五
『ヘーゲル「法の哲学」を読む』出版記念講演
  ── 二〇〇五年度労学協総会の前に