『資本論を鳥瞰する』より

 

 

一、「下流社会」「格差社会」を理解するために

 
 いま「下流社会」とか「格差社会」とかいう言葉が氾濫しています。
 二〇年前まで、日本は「一億総中流」といわれていましたが、いまその神話は崩壊し、貧富の格差拡大が社会的問題になっています。この一〇年間で年収二〇〇万円以下の低所得層が二四%増え一千万人を超えました「一億総下流」化が急速に進んできています。
 実は「一億総下流」化を一四〇年以上前に予測した著作があります。それがカール・マルクスの『資本論』です。マルクスは「資本主義とは何か」を科学の目で分析し、それは、一握りの大金持ちと総下流化の社会であることを明らかにしたのです。

現代は格差社会

 一九九〇年代のソ連や東欧諸国の崩壊で「社会主義は崩壊した。資本主義の優位性が、証明された」と資本主義がもてはやされました。ソ連や東欧は本来の社会主義とは無縁の存在であったというべきものですが、それはともかく、資本主義の「優位性」も急速に色あせてきました。というのも「新自由主義」路線のもとで急速にグローバル化が進められ、世界的規模で貧富の格差拡大が進行しており、全世界で「新自由主義」を批判する声が大きな高まりを示しているからです。
 そこで欧米の新聞や雑誌は「マルクスの資本主義批判は生きている」と報道し、あらためて『資本論』とマルクスが注目されています。資本主義の本質が格差社会にあることを解き明かした『資本論』を学んでこそ、現代資本主義の矛盾とそれを打開する展望も見いだすことができるのです。

『資本論』を鳥瞰する

『資本論は、もともと労働者を対象に書かれたものであり、多くの労働者』(全三部)に読んでほしい著書ですが、なにしろ総ページ数は新書版で全一三冊、(新日本出版社)計三七六三ページにもなります。しかも文体が難しいことから、読み始めても最後まで読み切り、全体を理解できる人は限られているというのが実情です。このブックレットは、できるだけ『資本論』の叙述に沿いながら『資本論』の太い骨組みを分かりやすく解説することを目的としています。
 『資本論』を労働者にこそ読んでほしい、これまで『資本論』に挑戦しながら途中で挫折した方に是非読みとおしてほしいとの思いから『資本論』を読むための手引きとなることをめざしたものです。
 大空から地上を見下ろすと、森や街のなかにいては見えない全体像をつかむことができます。それを鳥瞰(英語でバード・アイズ・ビュー)というのですが『資本論』という壮大な理論の森を鳥瞰し、その全体構造を骨太くとらえることにこのブックレットのねらいがあります。
 なぜ『資本論』が難しいのかというと、もちろん文章が難しいとか、たいへんに長い本であるということもありますが、やはり、全体の論理の構成・展開がつかめないために、森の中に迷いこみ、ゆきづまってしまうからです。
『資本論』の第一部はマルクス自身が最後まで仕上げた本ですから、それなりに一つのまとまりをもっていて、わりあい論理の展開も追いかけやすいのですが、第二部、第三部は、マルクスが残した『資本論』の草稿( をもとにエンゲルスが編集したと下書き)いうこともあって、論理の展開が分かりにくく、そこで挫折することも多いのです。個々の文章にとらわれすぎると全体像がわからない、そして読むこと自体が苦痛になり投げ出してしまう。ですから、このブックレットは『資本論』全体を大空から鳥瞰します。その上でこれを道しるべとしながらさらに本格的な研究書や原典を読んでいただければ『資本論』のうっそうとした森の中で迷うことも比較的少なく、多くの労働者にその、核心をつかんでいただけるのではないかと思います。

 

二、『資本論』は資本主義の運動をとらえる

資本主義の運動をとらえる

 『資本論』は、資本主義の経済的な運動法則を暴露する、簡単にいえば、資本主義の運動をとらえることを目的に書かれたものです。
 資本主義の運動をとらえるとは、資本主義という特殊かつ歴史的な生産様式がどのように生まれ、発展し、消滅していくのか、その法則的な必然性を示すことにあります。そのためには、まず個々の資本の運動法則から明らかにしていかなければなりません。そこで『資本論』の叙述は「からの発展」という形式をとっています。ちょうど種、萌芽から芽が出て幹になり、葉が出て花が咲くのと同じように、最も単純なものからだんだん複雑なものへと発展しながらも、そのなかで、一つの種は一本の木になるまで、木と
いう「同一性」が貫かれているわけです。
 それと同じように、資本の運動も、資本という同一性が貫かれながら、その中で「商品」―「貨幣」―「資本」…と形態を変えつつ発展していく、という論理構造をとっています。

『資本論』の骨組み

 『資本論』は、第一部「資本の生産過程、第二部「資本の流通過程、第三部「資本」」主義的生産の総過程」という構成になっています。
 第一部では、資本の本質が利潤第一主義にあること、この本質が貧富の格差を生みだし、拡大していくことが明らかにされています。そして最後に、資本主義がその運動をつうじて諸矛盾を激化させ、社会主義・共産主義に移行せざるをえない必然性が高らかに宣言されています。
 第二部では、資本の再生産される運動が、生産過程と流通過程の統一としてとりあげられます。この再生産過程をつうじて全社会的に「生産と消費」の矛盾が蓄積され、恐慌という資本主義に「固有の病」を生みだすことを明らかにしています。
 第三部では、第一部、第二部でとらえた資本主義の本質がどのように現象としてあらわれるのかを問題にしています。そこでは信用制度もふまえて、資本主義の諸矛盾が展開され、資本主義的生産の真の制限は資本の利潤第一主義にあることが明らかにされます。そして資本主義から社会主義・共産主義への移行の必然性が、さらに綿密な論理の展開として語られることになります。

 

三、資本主義とは何か(第一部)

資本の本質

 第一部「資本の生産過程」では、まずとは何か、という資本の本質が問題にされ資本それが剰余価値の生産にあることが明らかにされます。
 『資本論』の出発点となっているのは、商品交換です。一般的な商品交換は、自分のもっている商品(たとえばコメ)を売ってお金に換え、そのお金で自分の欲しい(貨幣)商品を買う。つまり「買うために売る」のです。しかし、資本の場合(たとえばタマゴ)。は、自分のもっているお金で生産に必要なものを買い、それで商品を生産して売ります。つまり「売るために買う」のです。
 一般の商品交換の場合、出発点の商品と終点の商品とは、その質が異なっ(使用価値)ていますので、交換そのもの(先ほどの例でいえばコメとタマゴを交換すること)に意味があります。ところが資本の場合、出発点も終点も同じお金ですから、出発点のお金より終点のお金が量的に増えていなければ、意味がありません。その増えた価値を剰余価値というのです。いわば、資本とは、その運動をつうじて自己増殖する価値を意味しているのです。

商品の価値

 剰余価値を考えるためには、まず商品のは何によって決まるのかを検討しなけれ価値ばなりません。商品交換の原始的な形態は物々交換であり、例えば、米一キロと卵二〇個が交換されるとしましょう。その場合、米一キロの価値と卵二〇個の価値が等しいから、この割合によって市場で交換されるのであり、これを等価交換といいます。では、米一キロと卵二〇個とは、なぜ等しい価値をもった商品だとみなされるのでしょうか。それは米一キロを生産するのに必要な労働時間と卵二〇個を生産するのに必要な労働時間が、大体同じだと考えられるからです。
 すべての商品は、人間の労働の産物であり、その商品に含まれる労働時間の量によって価値が決まってくるのです。それ以外にすべての商品に共通するものは存在しませんから、商品の価値を比較するためには共通の物差し、つまり人間の労働(抽象的人間的労働)がその商品にどれだけ含まれているかを基準にするしかありません。商品の価値はこれを生産するのに社会的に必要な労働時間によってきまるという法則をとよ価値法則んでいます。

剰余価値はどこから生まれるのか

 資本主義社会における生産は、まず資本が手持ちのお金で、商品生産に必要なものを購入するところからスタートします。商品生産に必要なものとは、機械、道具類、原材料と(以上を生産手段といいます)労働者です。
 資本家は労働者を、奴隷のように丸ごと人格を購入するのではなく、労働者のもっている頭や手足を使って働く能力、つまり労働力という商品を時間ぎめで商品を購入するのです。資本はこれらの商品を、市場において等価交換で手に入れます。しかし、手に入れただけでは、まだ剰余価値は生まれません。では資本がこれらの生産手段や労働力を使って生産を開始したらどうなるでしょう。
 資本は生産手段と労働力とを結合して新しい商品を生産します。生産手段の場合、その価値は生産物のなかにそのまま移転されますが、新しい価値を生みだすことはありません。これに対して労働力の場合は、新しい価値を生みだすだけではなくて、労働力のもっている価値以上の価値を生みだすのです。
 資本家は労働市場において、労働力を価値どおりに購入してきます。労働力の価値は価値法則にもとづき、労働力を生産するのに必要な労働時間によって規定されます。労働力を生産するということは、労働者が労働者として日々生活することを意味しています。したがって労働力の価値は、労働者の生活に必要な諸手段(衣食住など)の生産のために必要な労働時間、つまり労働者がその時代における人間らしく生活するにふさわしい生活諸手段の価値ということになります。
 この労働力の価値と、労働力を使用することから生まれる生産物の価値とは全く別個のものです。労働力は自分のもっている価値以上の価値を生産するという特別の商品であり、したがって資本家は労働力を購入し、労働力を使って生産することにより、剰余価値を手にすることができるのです。
 大事なことは、労働者が労働することによってはじめて剰余価値が生まれるということです。資本家がいくら巨大な生産手段をもっていても、労働者が働かないかぎりけっして剰余価値は生まれてこないのです。
 そこで、生産手段は価値増殖に関係のないところから不変資本、労働力は価値増殖に関わるところから可変資本とよばれることになります。

資本の本質は労働者を搾取すること

 資本は、労働者の生みだした剰余価値を独り占めにすることによって、労働者を搾取するのです。資本は、この剰余価値の生産を、商品を生産するための「推進的動機」として、次々と制限を打ち破り、発展していきます。
 大事なことは、剰余価値の生産は量を追求するものですから、限界がないということです。質を追求するものには限界がありますが、量を追求するものには限界がありません。ですから、この剰余価値の生産は、資本自身がもつさまざまな限界を乗り越えて発展しようとする運動の推進力となるのです。
 マルクスは、貨幣――商品――貨幣という資本の「循環を推進する動機とそれを規定する目的とは、交換価値そのものである」( 『資本論』新日本出版社、新書版②二五五ページ/[1]一六四ページ)といっています。
「規定する目的」とは、資本を資本として規定する(特徴づける)目的、つまり資本の本質的目的という意味です。
 資本とは、剰余価値の生産を唯一の目的とし、できるだけ大きな量を獲得することを運動の推進力とする存在なのです。それを今日的に表現すれば、「資本の本質は利潤第一主義にあるということになるでしょう。利潤とは、後でのべますが、剰余価値という本質があらわれた現象形態です。
 言いかえれば、資本の本質は労働者を搾取することにあるのです「資本とは、生きた労働を吸収することによってのみ吸血鬼のように活気づき、しかもそれをより多く吸収すればするほどますます活気づく。」(②三九五ページ/二四七ページ)

「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」

 資本の本質が利潤第一主義にあるということは、儲けのためであれば、法律であろうが国境であろうが関係なし、人殺しのための戦争であろうが環境破壊であろうがおかまいなし、ということになるのです。
 マルクスは「〝大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!〟これがすべての資本家および、すべての資本家国民のスローガンである」(②四六五ページ/[1]二八六ページ)といってます。さしずめ「あとは野となれ山となれ」ということでしょう。、
 とりわけこの利潤第一主義の犠牲となるのは労働者です。資本は、儲けのためには、労働者の生活はもちろんのこと、健康や命までも惜しみなく浪費し、平気で使い捨てにするのです。しかし、それにとどまらず、資本は資源を浪費し、地球環境を破壊するところまで突き進んでいくのです。

労賃は搾取を隠蔽し、価値以下への切り下げを可能とする

 労働者は資本家に労働力を売りわたし、その対価をとして受けとります。労賃労働力を資本家が価値どおりに購入するならば、労働者は、支払われた労賃で人間ら
しい生活をすることができるはずです。
 しかし残念ながら、実際にはそうなっていません。その要因の一つは、労賃は労働力の対価ですから、本来労働力を売りわたしたとき、つまり労働契約を結んだときに支払われるべきなのに、実際には、労働した後に支払われるという後払いになっているところから「労働の対価」であるようにみなされてしまうことにあります。もし労賃が労働の対価だということになると、資本は価値どおりの取引をしたことになり、何ら労働者を搾取するものではないことになりますが、反面そうなればいくら生産しても資本の儲け(剰余価値)は生じてこないことになります。労賃を労働の対価ととらえることは、資本の搾取を押し隠すことになるのです。
 ですから、労賃を「労働の対価」とすることの誤りは明白です。しかしもっとも問題なのは、労働の対価とみなされることによって、労賃が労働者の人間らしい生活を確保するという基準が消え失せてしまい、いくらの労賃を支払うかは資本家が勝手に決められる問題となってしまうことです。
 こうして、労賃が労働の対価だという仮象は、単に搾取を隠蔽(真実と異なる仮の姿)するにとどまらず、労働力を価値以下に切り下げてしまう強力なテコの一つとなるのです。
 労賃の形態には、労働時間の長さに応じて支払われる「時間賃金」と仕事量に応じて支払われる「出来高賃金」という二つの形態があります。どちらも労働の対価として支払われるという点では共通しています。

労働日の延長=絶対的剰余価値の生産

 どの資本にとっても、一定の期間に、労働力に投下する資本は決まっています。労働者を何人雇うか、いくらで雇うかで決まるわけですから、個別資本は限られた可変資本のなかで、いかに多くの剰余価値を生産するかを追求することになります。そこから労働日(労働時間)の限りない延長と、労働強化による剰余価値の追求が始まります。この労働日の延長による剰余価値の増大を絶対的剰余価値の生産といいます。
 しかし、この労働日の延長による絶対的剰余価値の生産には、はじめから一定の限界があります。というのも、労働者は睡眠をとらなくてはなりませんし、食事や休憩の時間も必要だからです。さらに、労働日の延長をめぐって資本と労働者の対立が強まるなかで、労働日の短縮を求める労働者のたたかいが広がり、やがて法律で標準労働日が制定されることになってきます。労働日を無限に延長しようとする資本の欲求は、労働者の生理的限界に加え標準労働日が制定されることによっても規制されてしまいます。

生産力の発展=相対的剰余価値の生産

 資本は、絶対的剰余価値の生産の制限を打ち破るために、生産力を発展させることで剰余価値を増やそうとします。
 ある個別資本が、新しい機械を導入するなどして、他の個別資本よりも生産力を発展させるとしますと、商品の一個あたりのコストが他の資本の商品よりも低くなり、それを市場価格で販売することによって剰余価値を増やすことができます。これを特別剰余価値といいます。
 生産力を発展させ、特別剰余価値を手にするための競争によって、回り回って全体として労働者の生活手段の価値が低下し、労働力の価値は下がります。こうして、労働力の価値が低下すると、一日の労働時間のうち、労働力の価値に等しい価値を生みだす必要労働時間は短くなり、その分、剰余価値が増えてきます。この労働力の価値の低下よる剰余価値の生産を相対的剰余価値の生産といいます。
 こうして資本は、生産力の発展による相対的剰余価値の生産に血道を上げることになるのです。生産力の発展をめざして、協業からマニュファクチュァへ、そして産業革命による機械制大工業へと、資本主義は発展していきます。
 生産力の無制限な発展を追い求めるところに、資本主義の資本主義たるゆえんがあるのです。

資本主義とは何か

 資本主義も、独自の、歴史的な一つの生産様式にすぎません。これまでの人類の歴史は、原始共産制、奴隷制、封建制という生産様式を経て資本主義的生産様式に到達したのです。
 では、資本主義とはどんな特徴をもった生産様式なのでしょうか。
 それは、機械制大工業を基盤とし、より多くの剰余価値を求めて搾取の強化と機械設備の更新による生産力の発展を競い合い、生き残り競争を強制される利潤第一主義の社会ということができるでしょう。
 新しい機械を次々発明し、生産力を発展させることを競いあうなかで、資本は競争を強制されるのですが、この生産力の発展のための競争が、資本の蓄積をすすめていきます。つまり、資本は新しい機械を次々に生みだし、大量生産によって相対的剰余価値を生産するために、資本そのものをどんどん拡大し、資本の蓄積をすすめていくのです。
 さらに資本の蓄積は、大資本が小資本を吸収する資本の集中という状態をつくりだします。資本の集中がすすみ大企業になるほど、より高い生産力によってより多くの特別剰余価値を手にし、ますます巨大化していきます。
 この資本主義的競争が弱肉強食の競争社会をつくりだすのです。

つくりだされる失業者=産業予備軍

 資本の蓄積が進行すれば、総資本のなかにおける不変資本(機械、原材料など)の比重が高まり、可変資本(労働力)の比重が低くなります。このことを資本の有機的構成が高まるといいます。したがって資本の蓄積が進行し、社会的総資本が増大していくと、労働者人口は絶対的には増大しながらも、有機的構成が高まることによって相対的には資本の過剰となり、失業者、半失業者という産業予備軍が大量につくりだされることになります。産業予備軍の存在は、現役労働者の足をひっぱり、労働力を価値以下でしか販売できない状況に追い込みます。労働力の価値以下での販売は、労働者階級に貧困をもたらすのです。これが「資本主義的蓄積の絶対的・一般的法則」とよばれるものです。
 日本では一九九五年に日経連が打ち出した「新時代の日本的経営」にもとづく雇用政策により、小泉内閣の五年間で正社員は二七〇万人減って、派遣や請負、パート・アルバイトなど非正規雇用の労働者が二八七万人も増え、低賃金でひどい労働条件のもとに置かれています。

資本の蓄積と貧困の蓄積

 こうして資本の蓄積が進めば進むほど、資本は生産力を発展させて、商品をより安く生産し、特別な剰余価値を手にすることができます。この結果、大資本が小資本を市場からするという競争の強制法則が働くのです。
 この競争のなかで、中小企業家や駆逐し、農・漁民は市場から追い出され、労働者に転落していくことになります。こうして資本主義的蓄積の一般的な法則のもとで、一方の極における資本の蓄積と、他方の極における貧困の蓄積が同時に進行することになるのです。
 マルクスの名文を紹介しておきましょう。
「この法則は、資本の蓄積に照応する貧困の蓄積を条件づける。したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である。」(④一一〇八ページ/六七五ページ)
 つまりと貧富の格差の拡大いう問題が、資本主義的蓄積の絶対的な法則として貫かれそこから資本家と労働者の階級対立という矛盾を、資本主義自体が生みだしていくことになるわけです。

資本主義から社会主義・共産主義へ

 資本主義は利潤第一主義によって、資本主義的矛盾を深めていかざるをえません。そしてついには、その歴史的限界から、より高度な社会、社会主義・共産主義の社会へと移行せざるをえないのです。
 搾取のおおもとは生産手段を資本家が私的所有していることにありますから、それを社会的所有に移すことによって、資本主義的矛盾は解決されることになるのです。
 ここもまたマルクスの比類のない名文が続きますので紹介しておきましょう。
「資本独占は、それとともにまたそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的な外被とは調和しえなくなる一点に到達する。この外被は粉砕される。資本主義的私的所有の弔鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
 資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有は、自分の労働にもとづく個人的な私的所有の最初の否定である。しかし、資本主義的生産は、自然過程の必然性をもってそれ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかし、資本主義時代の成果――すなわち、協業と、土地の共有ならびに労働そのものによって生産された生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する。」(④一三〇六ページ/七九一ページ)
 社会主義・共産主義のもとで社会的所有に移されるのは、生産手段のみであって、生活手段、消費手段は、これまでどおりの個人的所有にとどまります。ただし、搾取のない分より豊かな個人的所有が実現されるのです。そのことをマルクスは「生産手段の共有――を基礎とする個人的所有を再建する」といっているのです。

 

四、流通過程から剰余価値は生まれない(第二部)

生産過程と流通過程

 第二部は「資本の流通過程」と題されていますが、実際には流通過程だけではなくて資本の生産過程と流通過程の統一、資本の再生産過程が議論されます。
 それも、個別の資本のとの統一だけではなくて、社会的な総資本と生産過程流通過程しての、つまり資本主義社会全体としての生産過程と流通過程の統一も議論されます。
 生産過程と流通過程とを区別する意味は何かというと、剰余価値を生産するのは労働のおこなわれる生産過程だけだということを明らかにすることにあります。資本の本質は生産過程においてのみ生きてくるわけです。
 しかし、労働者が生みだした剰余価値を実際に資本家が自分の手に握るためには、生産した商品を販売し、貨幣として回収する流通過程がなくてはなりません。その意味で流通過程というのは、資本にとって必要ではあっても、剰余価値を生まない一つの制限として存在するのです。そこで資本は、再生産過程のなかで、できるだけ剰余価値の生産に関わらない部分を短縮しようとします。それが流通過程の短縮といわれる問題です。

「流通過程の短縮」

 第二部の第一編では資本の循環が議論されますが、そこでは資本が剰余価値の生産というその本質からして「資本の循環における制限」をどう打ち破って前進するかが論じ、られています。
 資本は、一定量の貨幣から出発します。その貨幣(貨幣資本)で生産手段と労働力(生産資本)を購入し、その生産資本を使って商品を生産します。さらに商品(商品資本)を販売して再び貨幣として回収し、その貨幣でもう一度、生産手段や労働力を購入するということを繰り返すことになります。
 この循環の過程において資本は貨幣資本、生産資本、商品資本という三つの形態をとりながら循環します。このなかで剰余価値の生産に関わるのは生産資本だけです。貨幣資本も、商品資本も、流通過程にある資本であって、剰余価値を生産することはありません。
 ですから、資本の循環における制限を考えるときに、まず生産過程のなかの剰余価値を生産しない部分が問題になります。次に、流通過程自体は剰余価値を生みださず、全体として資本の制限になっているわけですから、その短縮が問題になってきます。

短縮の方法

 生産資本の形態における資本も、その全てが剰余価値を生産しているのかというと、そうではありません。生産資本では、労働力と生産手段を結合させることによって商品を生産するのですが、生産過程においても、労働を中断せざるをえないことがあります。労働が中断しているかぎり剰余価値は生産されません。
 マルクスがあげている例では、ワインを醸造する時に樽の中に入れて寝かしている時間がそれです。その期間、労働は加えられていませんが、それでも生産資本の過程にあるわけで、一定期間、樽の中で寝かしておかないと、商品としてのワインはできあがりません。だから、樽の中に入っているワインというのは、生産資本の形態にはあるのですが、労働時間、労働過程は中断しており、剰余価値を生産しない期間なのです。資本にとってはこれもひとつの制限なわけで、どうやってその労働の中断された時間を短縮するかということで、いろいろな技術開発、工夫がされるのです。
 もうひとつの流通過程の短縮についていうと、資本が貨幣資本を生産資本に変えるためには、生産手段や労働力を買いに行かなければなりません。そこで、原材料の生産現場や労働市場に近いところに工場を建てることになるのです。
 できあがった商品の販売についても同様です。例えば、工場で作ったものを市場まで運ばなくてはいけないので、流通過程を短縮するために、工場はできるだけ市場に近い場所につくるとか、運輸・輸送(流通)手段を発展させることで、販売時間を短縮するのです。

資本の回転速度を上げる

 第二部の第二篇では「資本の回転における制限」が問題になってきます。、
 資本の回転とは、資本の循環が繰り返されることです。なぜ、循環と区別して回転を議論するのかというと、循環の中では問題にならなかった資本の制限が回転を通じて明らかになってくるからです。
 資本が剰余価値を生産する場合、年単位で利益の計算をします。一年間にいくら剰余価値が生産されたのかを見るわけで、それが会社の決算であり、年に一回は決算報告をすることになっています。
 そうすると、一循環によって生みだされる剰余価値の量は限られていても、その回転回数を増やす、言い換えれば、回転速度を上げることによって、一年という単位でみると、同じ可変資本でも制限を打ち破り、より多くの量の剰余価値を生産することができるわけです。そこで資本は、できるだけ回転速度を上げて、回転数をふやし、より多くの剰余価値を生産しようとします。そこに回転のもたらす独自の問題があるのです。

減価償却を早める

 資本の回転に伴って出てくる独自の問題として、流動資本と固定資本の区別の問題があります。
 固定資本とは何かというと、不変資本のうちの工場とか機械、道具類で、長年かけて少しずつその価値が生産物に移転し、少しずつ償却される資本のことです。
 これに対して流動資本とは、不変資本のなかの原料や材料、それと可変資本である労働力をいいます。これらの流動資本は、資本が一回転するたびにその価値を全部新しい生産物に移転するのです。
 ですから固定資本というのは、資本の側からみると、価値の生産に寄与する割合が小さいのです。例えば、一千万円する機械であっても、一回転した時に、その価値の形成に寄与するのは、何万分の一でしかないということになると、多額のお金をかけたにも関わらず、価値形成の面では大部分が眠っている存在でしかないということになります。そこで機械の回転速度をできるだけ上げて、少しでも速く固定資本を償却しようという資本の欲求が出てくるのです。
 また機械は、新しい機械が登場すると従来の機械の価値は減少します。マルクスはそれを「社会基準上の磨滅」といっています。こうしたことを防ぐためにも機械の回転速度をあげて、早期償却することが求められているのです。

                            → 続きを読む