『資本論を鳥瞰する』より

 

 

五、恐慌は資本主義の「固有の病」

 
市場が生産と消費のバランスを調整

 『資本論』の第二部第三篇は、このように個別資本が剰余価値の生産のために、制限を次々に打ち破って生産力を発展させることが、社会的総資本にとってどういう問題を発生させるのかを考察しています。
 資本主義社会は、生産の無政府性の社会です。個別資本は、これを作ったら儲かるだろうと自分で勝手に判断して商品をつくるわけですが、これを社会的に計画され、組織された生産ではないという意味で生産の無政府性とよんでいます。
 それで果たして社会的に生産と消費のバランスがとれるのかという問題が出てきます。しかし市場原理により、ある程度のバランスはとれるのです。なぜかといえば、市場で不足している商品は価値より高く売れるのに対し、だぶついている商品は価値以下でしか売れないからです。
 資本は、何を作れば売れて儲かるのかを常に考え、売れそうにないものや、いくら社会に役立つものでも儲けにならないものは、決してつくりません。資本は、全体として市場において必要とされ、売れて儲かる物をつくりだすことを、市場での競争を通じて学びとるわけです。このように市場のもつ価格調節機能を通じて、市場において何が必要とされ、何が必要とされていないかを資本の側が判断し、必要とされている所へ資本がなだれ込もうとすることによって、社会的に生産と消費のバランスがとれるのです。これを市場原理といっています。
 それが社会的総資本の再生産という問題であり、どういうバランスが成り立ったときに再生産が可能なのかを研究したのが、資本主義的再生産表式といわれるものです。
 これはマルクスが、ケネーという人が作った経済表をもとに考え出したものです。ケネーは、富を生みだすのは農業だというふうに考えた重農主義者ですから、農業生産から生まれた富が、社会的にどのように分配され、工業製品とどのように交換されて社会が成り立っているのかという問題を考察しました。それを資本主義全体に押し広げて考えたのがマルクスで、一定の条件があれば再生産は可能だということを明らかにしました。

生産と消費のバランスは偶然

 大事なのは、社会的にみた場合に、生産手段としての商品と消費部門の商品、この二つを生産する部門がその生産物を相互に交換し合うことで社会が成り立っていることをとらえて、マルクスはその間のバランスのとれる条件、再生産の均衡条件を明らかにしたことです。つまり、生産の無政府性のもとにあっても、一定の条件が確保されれば、生産と消費はバランスを保ち、滞りなく社会的に再生産が進行することを明らかにしたのです。
 しかし、個別の資本は、市場で売れるか売れないかを判断しながら生産するのですが生産の無政府性に変わりはないわけですから、社会全体で生産と消費のバランスがとれるというのは偶然のなせるわざにすぎません。
 バランスが崩れて、だんだんに矛盾が蓄積していくと、それが恐慌となって現れてきます。その恐慌を生みだす一番の矛盾が生産と消費の対立、矛盾なのです。

恐慌は生産と消費の矛盾が原因

 バランスが崩れる最大の要因は、実は、最も人数が多く消費能力をもっている労働者の賃金が、価値通りに支払われないことにあります。
 なぜ価値通りに支払われないのかーー。まず賃金が労働の後払いということがあります。そして資本主義的な蓄積法則のもとで、産業予備軍という失業者、半失業者が蓄積されることによって、彼らの存在がいつも現役労働者の足を引っ張って、労働力を価値以下でしか販売できない状況にしているためです。
 特に最近のような不安定雇用の増大のなかでは、人間らしい生活どころか最低生活すらできない賃金しかもらえない労働者がどんどん増えてきています。まさに労働者の貧困が蓄積されているのであり、その貧困を生みだしているのが膨大な数の産業予備軍なのです。労働力が価値通りに支払われないということは、労働者の購買力を低下させ、生産しても売れない状況を生みだし、生産と消費の矛盾が拡大していかざるをえなくなります。

商人資本が架空の消費をつくりだす

 さらに、その矛盾を拡大する二つの要因が加わります。
 ひとつは、商人資本というものが生産と消費の間に入ってくることです。メーカーが作った商品は、すべて商人が買い取ります。商人資本は、日本の現状でいえば巨大な商社であり、流通過程に住んでいる資本ですが、彼らはメーカーから全部買い取ることによって、生産されたものがすべて消費されたような外観、つまり架空の消費をつくりだします。
 しかし、実際には商人が買い取っても、それは最終的な消費にはつながっていません卸売業者から小売業者、そして消費者へという何段階もの商人資本が間に入ることによって、消費が生産を下回っているという事実を覆い隠す役割を果たしてしまいます。いわば、商人資本が架空の消費を生みだしているのです。

銀行資本による信用の供与も生産と消費の矛盾を拡大する

 もう一つの矛盾を強める要因が、いわゆる銀行資本による信用の供与です。信用というのは、簡単にいえば、お金を貸すことです。資本は資本の本質からして蓄積を求めますが、蓄積するためには、貨幣資本をある程度貯めておかないと、それを追加資本に回せません。そこで銀行資本は、設備投資のためのお金を貸すことによって、貨幣資本を保有・蓄積していない資本にも、資本の規模を拡大して生産力を発展させることを可能にさせます。
 一方で消費は労働力が価値以下に抑えられることによって低下しながら、他方で生産の方は、信用の力によって更に発展していき、この生産と消費の矛盾はだんだんに拡大されていくのです。しかも、その矛盾は商人資本が介在することによって架空の消費がつくりだされ、押し隠されてしまいます。その結果、生産と消費の矛盾の激化、いくら作っても売れないという状況になり、それが爆発した時に恐慌がおきるわけです。
 恐慌は、生産と消費の矛盾の一時的・暴力的な解決として起きるのです。ですから恐慌になると、生産はがたっと止まってしまいます。商品をつくっても売れませんから、資本は生産をストップし、工場は一時休止します。

恐慌は資本主義の「不治の病」

 しかし、消費そのものは絶対になくなることはありません。人間は生きていかなければならないからです。恐慌によって生産が減ってくると、崩れていた生産と消費のバランスが再び回復してきます。そうなると再び新たな設備投資が始まって、活発な生産活動が行なわれるようになります。そこで再び生産と消費の対立が生じ、それが矛盾に発展していくということを繰り返します。
 このように恐慌は、資本主義にとって直接死にいたる病ではありませんが、他の生産様式にはみられない資本主義に固有の不治の病であり、一九世紀前半から現代にいたるまでほぼ一〇年周期で繰り返し起こっています。

 

六、資本の本質は利潤の追求(第三部)

 以上が第二部ですが、それでは第三部は何を述べているのでしょうか。第三部の見出しは「資本主義的生産の総過程」となっています。第一部、第二部が資本と資本主義の本質をとらえたのに対し、第三部では、これらの本質のあらわれとしての諸現象を問題としています。
 第一部、第二部では、資本とは何か、資本主義とは何かという本質論からみた制限を検討してきたわけですが、第三部においては、私たちの目にみえる現象としての資本主義の制限は何なのかということを検討していきます。

剰余価値はみえないが利潤はみえる

 第三部の一番大事な問題は、これまで資本の本質は剰余価値の生産にあると言ってきましたが、現実にはこの本質がそのままあらわれるのではなくて、利潤の生産という現象としてあらわれることを解明したことです。
 もともと剰余価値は、可変資本(労働力)が生みだすものでした。しかし、それはあくまで理論的探究をつうじて明らかになったことであって、資本の生産過程と流通過程のどこで、どのようにして剰余価値が生産されるのかが、資本家の目に見える形であらわれるわけではありません。そこで資本にとっては、可変資本だけではなくて、可変資本と不変資本(機械や原材料など)両方を合わせた資本全体(コスト)から、儲けが生じたようにしかみえないのです。こうして剰余価値は可変資本から生まれるのではなく、資本全体から生まれる利潤としてとらえられることになります。といっても、剰余価値と利潤とは量的には同じものであり、ただ見方がかわるだけのことにすぎません。こうして資本の本質は、利潤第一主義にあることが明らかにされます。資本の本質がこの利潤の生産にあるところから、資本が利潤の総量、あるいは利潤率を高めるために資本のもつ制限を突破しようとして活動するのが、資本の現実の姿なのです。
 これまで、簡単に、資本の本質は剰余価値の生産にあるといってきましたが、より詳しくいうと、それは剰余価値の総量と剰余価値率(剰余価値/可変資本)の両方を念頭に置きながらいったものです。剰余価値の転化した利潤の場合も、この利潤の総量と利潤率(利潤/可変資本+不変資本)との関係をしっかりつかんでおかないと第三部は理解できません。この二つが区別されるところに、実は資本の制限の重要な問題があるからです

流通過程の短縮は商人資本と利子生み資本を生みだす

 資本は、この利潤総量を増やすために回転速度を上げたり、あるいは不変資本を節約したりしていきます。
 それについては、すでに剰余価値の制限でみてきたところなので、詳しく話す必要はないだろうと思います。そこで第三部の固有の問題について述べておきます。社会的再生産、社会的総資本の再生産ということを考えた場合、これまでは個別資本が自らの制限をどう打ち破るのかということだけを議論してきましたが、今度は社会的再生産における制限をどう打ち破るかということを、資本家階級全体として考えるようになってきます。
 その一つの問題が、流通過程の短縮から生まれる商人資本と、利子生み資本の登場です。商人資本というのは、産業資本の流通過程における商品資本の形態を短縮しようとするるものです。先ほどもお話ししたように、それぞれの個別資本は資本の循環のなかで三つの形態をとります。貨幣資本、生産資本、商品資本、そしてさらにもう一度貨幣資本ということを繰り返しながら循環していきます。
 そのなかで商品資本の形態になる資本を短縮しようとするのが、商人資本です。産業資本は、つくった商品を販売し、商品資本を貨幣資本に転化しなければ再生産を繰り返すことができません。そこに商人資本が登場し、つくったものをすぐ買い上げることによって、貨幣資本に転化することで流通過程を短縮するのです。商人資本は流通過程の資本ですから、剰余価値を生産しません。しかし産業資本の役割を一部肩代わりすることによって、社会的再生産過程に参加し、利潤の分配に加わるのです。こうして商人資本は、産業資本と等しい利潤率を商業利潤として手に入れるのです。
 もう一つの利子生み資本は、産業資本が流通過程にある貨幣資本の形態(貨幣資本は流通過程にあって、剰余価値、利潤を生みだしません)を短縮しようとする要請から生まれたものです。
 そのお金を銀行に預けて、利子を稼ごうというわけです。自分がもっていても利潤を生まないのですが、銀行資本に預ければ利子を手に入れることができます。
 利子生み資本は、他人から余っているお金を預金してもらって手元に集め、それに一定の利息を払い、資金を必要とする産業資本により高い利子で貸し付けて、利ざやを稼ぐことによって成り立つ資本のことです。利子生み資本は、こうして産業資本の生みだした利潤の一部を利子という分け前でもらうのです。
 利子生み資本の原形は、高利貸しですが、近代的な発展形態は銀行資本となります。

一般的利潤率の形成

 では、資本主義的生産様式そのものの制限は何か、という問題に入っていくことにしましょう。
 そこで重要なのが、一般的利潤率の形成という問題です。
 第三部では、資本主義的な生産が発展するなかで、資本は儲けのありそうな所へどんどん移動することを通じて、一般的利潤率というものが生まれることを明らかにしています。
 一般的利潤率とは、どんな生産部門に資本を投下しても、そこから生まれる利潤率は社会的に平均化され、決まっているということを意味しています。現代ではどのぐらいなのでしょうか。だいたい、二〇%ぐらいというのが普通なのでしょうか。一般的利潤率が存在するから、それを前提に、その枠内で銀行の利子率が社会的に定まってくることになります。
 そういう一般的利潤率が形成されるなかで、全ての商品は、コストプラス一般利潤という市場価格(生産価格) で販売されるという「一物一価の法則」ができあがってきます。
 個別資本の観点からいうと、生産力の違いによって、商品の価値にはばらつきがあるのですが、どんなにばらつきがあっても、市場で通用する時には、もう二〇%の利潤率だということで統一されてきます。こうして全ての商品は、一つの商品には一つの価格しか存在しないという「一物一価の法則」がつらぬかれることになるのです。

生産力が発展すればするほど一般的利潤率は低下する

 そして大事なことは、この一般的利潤率は、資本主義の発展とともに次第に低下していかざるをえないということです。マルクスは、それを「一般的利潤率の傾向的低下の法則」とよんでいます。
 なぜそうなるのかといえば、資本の蓄積の結果なのです。資本の蓄積というのは、資本のなかの不変資本である工場や機械、原材料の占める割合がどんどん高くなり、可変資本である労働力の占める割合が小さくなります。したがって資本の蓄積が進めば進むほど、資本の有機的構成が高まりますので、剰余価値率はかわらなくても一般的利潤率は低下していかざるをえないのです。
 そこが実は、資本にとって非常に頭の痛い問題になってくるのです。利潤第一主義の資本にとって、社会的に生産力が発展すればするほど利潤率が低下するということは、たいへんな脅威になります。そこで、資本は一般的利潤率の傾向的な低下に抵抗して、利潤率は下がるかもしれないけれども、いっそう搾取を強めて利潤の絶対量、つまり利潤総量を増やそうとします。
 例えば、資本が一〇〇とし、一般的利潤率が二〇%だとしますと、利潤総量は二〇となります。いま一般的利潤率が二〇%から一〇%に低下したと仮定します。すると利潤総量は二〇から一〇に減少します。しかし資本の量を二〇〇に増やせば、利潤率は一〇%であっても利潤総量は二〇のままとなり、二五〇に増やせば二五に増やすことができます。こうして個別資本は、利潤総量の増大をもとめて資本蓄積を競い合い、それがまた貧富の差の拡大をいっそう激しくさせ、資本主義的矛盾を激化させるのです。

一般的利潤率の低下は資本主義的矛盾を激化させる

 生産力の発展により、社会的総資本としてもある限界までは利潤率が低下しても利潤総量を増やしていくことはできます。しかし、その限界を超えると新たに資本を投下しても、もう利潤総量を増大させることができなくなってきます。それが資本の過剰といわれるものです。
 この資本の過剰がつくりだされる過程で、銀行による信用創造も一役かうことになります。
 一方では資本が過剰であり、他方では労働者人口が過剰となり失業者があふれます。資本と労働力とは、結合することによって初めて商品を生産し、剰余価値を生みだすことができるのに、両方とも過剰でありながら結合しえないところに、資本主義の制限があるのです。
 資本が過剰になると、もはやモノづくりによっては利潤を生みだすことができない、いわゆるゼロ成長、マイナス成長の時代に入ります。そこで資本はモノづくりではなくマネー投機へと向かうことになってくるのです。

 

七、信用制度は資本主義の矛盾を加速する

一般的利潤率の成立が利子生み資本を生みだす

 先取りして、利子生み資本のことを紹介しましたが、信用制度(マネーの貸借、取引や投機に関わる制度)を生みだす利子生み資本の根本原理をお話ししておきましょう。
 利子生み資本は一般的利潤率を前提として登場してくる資本です。一般的利潤率が二〇%だとすると、一〇〇の産業資本から二〇の利潤が生まれます。いま産業資本家に手持ちの資金がないため、銀行資本から一〇〇借りて二〇の利潤を生産したとすると、その二〇のうちから五ほど利子として銀行資本に支払い、差し引き一五が自分の利潤となるのです。こうすることによって産業資本は、貨幣の準備がなくても生産して、利潤を手にすることができますし、銀行資本は、自分では利潤を生産しないにもかかわらず、貨幣の貸し付けによって、産業資本から「利子」という分け前を手にすることになるのです。
 利子が生まれることによって、労働が価値を生みだすのではなく、あたかも貨幣が貨幣を生みだすようにみえてきます。これをマルクスは「資本の物神的姿態と資本物神の観念とが完成する」(⑩六六五ページ/[Ⅲ]四〇五ページ)といっています。

資本還元

 こうして、貨幣が貨幣を生む利子が登場し、銀行資本が利子生み資本を集中的に取り扱うようになってくると、利子と同じように一定の規則的な貨幣収入をもたらすものはすべて利子生み資本と同じように扱われることになります。これが「資本還元」とよばれるものであり、有価証券(国債、社債、株式)や土地がそれにあたります。
 例えば、国債や社債は、本当は国や株式会社の借金であり、マイナス資本にあたります。しかし、年五%の利率で一年に五万円の利子がつく国債や社債は、五万円を五%で割った一〇〇万円の資本に還元され、一〇〇万円の価格で証券市場で取引されることになるのです。こうして、本来資本でない有価証券が架空資本として取引されることになります。
 土地も労働生産物ではありませんから、本来価値をもちませんが、土地の独占から生じる地代によって資本還元され、地代から逆算されて土地の価格が定められ、取引の対象とされるのです。
 株式の場合はやや事情が違います。株式とは株主の株式会社に対する出資割合を示すものですから、株式に相当する現実資本が株式会社には存在するはずです。しかし株式も証券市場では、利益配当を資本還元した価格で取引されることにより、現実資本からはなれた独自の動きをする有価証券になるのです。

銀行資本の大部分は架空資本

 銀行は、有価証券と合わせて現金や預金を取り扱います。有価証券は全体として架空資本なのですが、現金や預金もまた例外ではありません。現金は日本銀行の発行する何の裏付けもない紙券(ペーパーマネー)です。預金の大半は、預金者から預かったものにすぎませんし、そのうえ銀行が貸し付けした際、単に貸し付けした人の口座に数字を書き込むだけの「帳簿信用」という名目上の預金にすぎないのです。こうして銀行の扱う「利子生み資本」(マニイド・キャピタル monied capital)の大半が」架空資本なのです。この架空資本が金融市場で取引されることによって投機の対象となり、いっそう架空性を高めていくことになります。
 その結果、マニイド・キャピタルは、一方では産業資本に湯水のように貸し付けられることによって、生産力を発展させていくことになります。他方で架空資本は風船のようにふくれあがり、いわゆるバブル経済と「資本の過剰」をつくりだします。

投機による利潤追求

 生産によって利潤を生みださなくなった資本は、もはや投機によって利潤を獲得するしかなくなってきます。
 そこで、マネーゲームといわれる投機で、利潤を獲得しようとする競争が激しくなってくるのです。投機はゼロサムゲームで、一種の博打です。 
 賭博に入った時にそれぞれが懐に入れているお金の合計額と、賭場から出る時の合計賭額は変わらないわけで、持ち主が多少変わってくるだけのことなのです。それをゼロサムゲーム(プラスとマイナスを合計するとゼロになるゲーム)といいます。だから投機は富 を生みださないのです。
 資本主義は、その目的が商品の生産による利潤の獲得、富の生産にあるにもかかわらず、資本はいまでは富を生産しない投機で利潤を得ようとするようになってくるのです。
これをカジノ資本主義といい、資本主義の腐朽性を示すものです。
 さらに資本は、通常の商品生産では利潤総量を増やせなくなり、社会的浪費のための生産に向かうことになります。それが軍事力の強化であり、無駄な公共事業ということですが、これも資本主義の腐朽性を示すものです。

信用制度の二面的性格

 こうして、銀行資本を中心とする信用制度は、二面的役割を果たすことになります。
 一つは「資本主義的生産の動力ばね、すなわち、他人の労働の搾取による致富を、もっとも純粋かつ巨大な賭博とぺてんの制度にまで発展させ、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格」(⑩七六五ページ/[Ⅲ]四五七ページ)です。
 資本主義的生産を「純粋かつ巨大な賭博とぺてんの制度」にまで発展させるのが、株式会社です。
 株式会社は、株式というマニイド・キャピタルを売却して手に入れた他人の資本で事業をおこない、失敗しても返却しなくていいところから、無責任な投機的事業に飛びつきます。同時に、株価を高めて資本を増大させようとして、粉飾決算をおこない株主をだまします。マルクスは、株式会社について「ぺてんと詐欺の全体性を再生産する」(⑩七六〇ページ/[Ⅲ]四五四ページ)といっています。アメリカのエンロン、ワールドコム、日本のライブドアの粉飾決算をみていると、けだし名言ということができます。
 この株式会社が資本主義的生産の中心に座り、銀行資本と結合することによって、これまでの個人資本では成り立ちえなかったような巨大な企業が登場してきます。現代の多国籍企業は国境を越え、世界を股にかけて「社会的富を搾取」しているのです。
 もう一つは「新たな生産様式への過渡形態をなす」(同)ということです。
 このように信用制度は「資本主義的生産の動力ばね」となって、資本主義的諸矛盾を激化させ、深化させることによって、より高度の社会への「過渡形態」をつくり出すのです。
 例えば、貧富の格差の拡大という矛盾は、現在、世界的規模で拡大し、かつ加速化しており、国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告書(一九九四年)』によれば、二〇世紀 の後半の三〇年間で、世界の最富裕層二〇%と最貧困層二〇%の所得格差は、三〇対一から、六一対一へと倍以上に拡大し「二一世紀型危機」を示すものとなっています。
 この資本主義的諸矛盾は、株式制度の矛盾をも激化させます。
 株式会社は巨大企業を生みだし、その生産はもはや社会的生産といわざるをえない状況になっているのに、生産手段は資本家の私的所有にとどまり、生産物も利潤も資本家が独占するという矛盾を拡大していくのです。
 マルクスは、株式会社が「資本主義的生産の最高の発展」(⑩七五七ページ/四五三ページ)を示すものであるとしたうえで「直接的な社会的所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点である」(⑩七五八ページ/同)とのべています「直接的な社会的所有としての所有」というのが、生産手段を社会化することによる社会主義・共産主義の社会を意味していることは言うまでもありません。

 

八、資本主義的生産の真の制限は資本そのもの

 そこからマルクスは「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」(⑨四二六ページ/二六〇ページ)といっています。
 資本の本質は、剰余価値、利潤の生産をその推進的動機とするところにありました。この資本の本質は、資本の制限を突破し、資本主義的生産を発展させる力となってきたのですが、結局は、剰余価値、利潤の生産を推進的動機、規定的目的とするところに、資本主義的諸矛盾(富の蓄積と貧困の蓄積の矛盾、生産と消費の矛盾、資本の過剰と労働力の過剰の矛盾)を生みだす根本原因があるのです。一般的利潤率の傾向的低下の法則と信用制度は、これらの矛盾を加速させ、激化させる役割を果たしていきます。
 こうして、剰余価値、利潤の生産を唯一の目的として生産する資本そのものに資本主義的生産の真の制限のあることが明らかにされるのです。マルクスが、この文章に続けて「資本とその自己増殖とが、生産の出発点および終結点として、生産の動機および目的として、現われる」(同)といっている意味を十分かみしめる必要があります。

社会的生産と資本主義的取得の矛盾

 このように、資本主義的生産様式のもとで、ついにはまともな生産によっては利潤を生みだしえなくなり、そのために投機に走ったり、あるいは無駄な生産をするわけですが、同時にそのことは貧富の格差拡大など、資本主義の矛盾をさらに深めるものになってきます。
 では、この矛盾を資本は自ら解決できるのかといえば、それはできません。なぜなら資本主義的生産様式の制限を打ち破るためには、資本そのものを否定しなければならないからです。資本にとって資本は絶対なのであり、自らを否定することはできません。
 ですから、資本は、資本主義的な矛盾がどんなに深まっても、その制限を打ち破ることで新たな矛盾を積み重ねることはできても、資本主義的生産様式それ自体を廃止することは、決してできないのです。
 そこから、資本主義の自動崩壊論の誤りが導き出されるのです。かつて資本主義は矛盾が発展すれば自分で崩壊すると考えた人もいたのですが、それは誤りだといわなければなりません。マルクスは「資本は自己に特有の制限を措定するとともに、他方でいかなる制限をも乗り越えて突き進むのだから、それは生きた矛盾なのである」( 草稿集』②三七ページ)といっています。
 資本は、自己の制限を次々乗り越えて、新たな目標に到達することを繰り返しながらその矛盾を深めていくことしかできないのです。

矛盾の解決としての社会主義

 では、資本主義の諸矛盾を解決する生産様式とは何でしょうか。それが社会主義なのです。
 資本主義の基本矛盾について、エンゲルスは『空想から科学へ』のなかで、「社会的生産と資本主義的取得の間の矛盾」だといっています。
 ここにいう「資本主義的取得」とは『資本論』でのマルクスの言葉を使っているので、すが、労働者が生みだした生産物と利潤を資本家が全部とってしまう、独り占めしてしまうということを言っているのです。そこから貧富の格差拡大という矛盾が生まれてきます。
 この「社会的生産と資本主義的取得の間の矛盾」という定式化は、エンゲルスによるもので『資本論』にこの言葉自体は出てきませんが、やや違った表現で、マルクスも同様にとらえています。
 人類の歴史は階級闘争によって次々発展していきますが、その土台になるのが、経済的な諸関係の発展だという考え方を史的唯物論といいます。
 経済的諸関係が発展するのは、そこに「生産力と生産関係の矛盾」が生じるからです。生産関係というのは、生産手段を持つ者と持たない者、搾取する者とされる者という、生産をめぐる階級的対立関係のことを意味しています。その階級対立が発展し、それが生産力の発展の障害となることを「生産力と生産関係の矛盾」といっているのです。生産力と生産関係は、社会の一定の発展段階までは対応しているのですが、生産力がさらに発展すると、生産関係がやがて生産力発展の足かせでしかなくなり、生産力と生産関係とが矛盾となって現れた時に、新しい経済体制の社会に移行せざるをえないととらえているのです。
 これを資本主義にあてはめると「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」ということに、なります。巨大な工場のもとで何万、何十万人もの労働者が働いて、生産そのものは社会的になっているにもかかわらず、生産物と利潤とは資本家が独り占めにするという矛盾をこのように表現したのです。

矛盾を解決する力は階級闘争

 この矛盾を解決するのが社会主義ということですが、それは階級闘争によってのみ実現することができるのです。
 ですから『資本論』の最終章は未完ですが「諸階級」で終わっています。マルクスは最後に、資本主義における基本的な諸階級を述べたうえで、階級闘争を通じて、この資本主義的な生産様式は、社会主義に向かって前進する必然性をもっていることを述べようとしましたが、書き残す時間もなく亡くなりました。
 マルクスが書きたかったことは『資本論』の序言の中にも出てきます。 
 ひとつは、こういう資本主義の矛盾が激化する段階にいたって、初めて「資本主義的が問題となる生産の自然諸法則から生ずる社会的な敵対の発展」①九ページ/一二ページ)という言い方をしています。
 いわば、社会的生産と資本主義的取得という資本主義の矛盾が激化することによって、初めて階級闘争による社会発展が問題になってくるのだということを述べているのです。
 さらに「あと書き」〔第二版への〕で経済学の「批判がある階級を代表する以上は、それが代表できるのは、ただ資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とをその歴史的使命とする階級――プロレタリアート――だけである」(①二一ページ/二二ページ)といっています。この資本主義の社会を変えるのは労働者階級を先頭とする被抑圧人民の闘いなのです。

生産手段の社会化

 この矛盾の解決は、発展した生産力にふさわしい生産関係をつくることであり、言いかえれば、生産手段の社会化以外に解決の道はないということです。
 生産手段を社会化することによって、これまでの「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」は「社会的生産と社会的取得」ということになって、その矛盾が解決されるからです。
 エンゲルスの古典的名著『空想から科学へ』で、この部分を補充しておきます。
 「社会が生産手段を取得すれば、生産にたいする現存の人為的な障害がとりのぞかれるばかりでなく、現在では生産の不可避的な随伴物となっていて恐慌のさいに頂点に達する、あの生産力と生産物との直接の浪費や破壊もなくなる。さらに、そうなれば、今日の支配階級やその政治的代表者の愚かな奢侈的浪費がなくなるので、大量の生産手段と生産物とが全社会のために利用できるようになる。社会の全員にたいして、物質的に完全にみちたりて日ましに豊かになってゆく生活というだけでなく、さらに彼らの肉体的および精神的素質が完全に自由に伸ばされ発揮されるように保障する生活を社会的生産によって確保する可能性、そういう可能性がいまはじめて存在するようになったのである。しかり、この可能性は現に存在している。」(全集⑲二二二、二二三ページ)

国民が社会の主人公に

 生産手段が社会化され、搾取と階級がなくなるというだけでは、まだ真の社会主義とはいえません。国民が生産手段を管理して生産の主人公となり、国民が社会の主人公とならなければいけません。真の社会主義とは人間解放の社会なのです。この点からみて、ソ連や東欧が「社会主義国家」とは無縁の存在であったことは明らかです「これまでは、人間自身の社会的結合が、自然と歴史とによって押しつけられたものとして、人間に対立してきたが、いまやそれは、人間自身の自由な行為となる。……これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である。」(同二二三、二二四ページ)
 国民が社会の主人公となり、資本による搾取も抑圧もなくなることによって、社会主義・共産主義は「自由の国」となるのです。

 

九、『資本論』は二一世紀の世界を視野に入れている

 『資本論』は一八六七年、いまから一四〇年も前に第一部が刊行されました。この年は、日本では徳川幕府が倒れ、明治維新を迎える一年前にあたります。まさに封建制社会から資本主義社会へ移り変わろうとしているときです『資本論』は産業革命によって。資本主義の最先端を行くイギリスを中心に資本の運動法則を解明し、そして資本主義の限界を著したものです。
 それにもかかわらず『資本論』では、搾取の根幹「過労死」や長時間・過密労働など労働者の状態、資本家のあくなき利潤の追求、マネーゲーム、カジノ資本主義、そして資本主義による閉塞感など、現代の日本をも思わせる箇所が次々に出てきます。それだけ、資本主義の本質を奥深くとらえているということではないでしょうか。
 しかし『資本論』の魅力は、それにとどまるものではなく「二一世紀型危機」が叫ばれるなかで、二一世紀の世界をも視野に入れていることです。
 二一世紀は、資本主義のもつ限界がこれまで以上に誰の目にも明らかになると同時に社会変革の時代となることを予測させる動きも強まっています。
 同じ資本主義諸国のなかにあっても、むき出しの弱肉強食の資本主義である「新自由主義」型国家独占資本主義に反対し「人間の顔をした資本主義」をめざす「ヨーロッパ型資本主義」も生まれてきています。日本共産党の示す「ルールある資本主義」も同じ方向をめざしているといってよいでしょう。
 一九九〇年代のソ連や東欧の崩壊によって「社会主義崩壊論」が大合唱されましたが、その熱狂が消え去ってみると、ソ連や東欧の「社会主義」は、本来の社会主義である「自由の国」とは無縁なものであったことが次第に明らかになってきました。同時に、「新自由主義」に反対し、人間解放という本来の社会主義をめざす動きが、ラテン・アメリカでは次第に現実のものとなってきています。とくにベネズエラのチャベス政権は一九九九年の政権誕生以来、アメリカの干渉・介入をはね返し、八回の国民投票のすべてに勝利して一歩ずつ社会主義に向かうという、国民が主人公の参加型民主主義による多数者革命の道を歩んでいて注目されています。
 また、中国、ベトナムなどの社会主義をめざす国でも、ソ連・東欧の教訓に学んで、経済の官僚主義的統制ではなく、市場経済を取り込んだ社会主義経済の道を探求しています。エンゲルスがいうような、人間が真に社会の主人公となり「人間が作用させる社会的諸原因は、だいたいにおいて人間が望んだとおりの結果をもたらす」(全集⑲二二四ページ)ような社会主義の建設は、人類史的にはこれからの課題となっています。
 このような激動の二一世紀の今日、本書を手引きとして是非『資本論』そのものに挑戦していただきたいと心から願うものです。また本書の観点をより全面的に展開した――哲学的に読み解く『資本論」の弁証法』(一粒の麦社)があります。弁証法を使って『資本論』全三部を分かりやすく読み解いたあまり例のない読解書ですので、あわせてご購読いただければ幸いに思います。