『弁証法とは何か』より

 

 

第二講 予備概念 ①

 

一、「予備概念」とは何か

はじめに

 第一講では、ヘーゲル哲学の本質と、『エンチクロペディー』全体の「序論」をつうじての、ヘーゲル哲学の基本姿勢をみてきましたが、今日から本論の「論理学」に入っていきます。
 「論理学」に入ると、いきなり「補遺」というのが出てきますので説明しておきます。もともと『エンチクロペディー』は講義の際に用いる「綱要」、つまりレジュメとして作成されたものであり、その「綱要」にヘーゲル自身が書き加えた「注解」が、本文の一字下がりの部分です。これに対して、ヘーゲル哲学を受講したヘンニングが講義を受けて付加した部分が「補遺」となっているのです。
 補遺は、全くない節もあれば、一九節、二四節のように三つにも及んでいる場合もあります。補遺の多い節は、ヘーゲルとしてもその箇所を重視し、さまざまに展開して説明する必要性を感じていた節だということができるでしょう。
 このように、『小論理学』は本文、注解、補遺という三段構えの形式となっており、その中心となるのが本文であり、注解、補遺は本文を解説し、より展開した論理を示したものということができます。

「予備概念」の主題と構成

 「論理学」の冒頭には、一六〇ページ(一九~八三節)にも及ぶ大変長い「予備概念」が存在しています。「論理学」全体の三分の一を占める分量です。
 そこで、最初にこの「予備概念」の主題と構成をみておくことにしましょう。
 まず構成からいうと、一九節から二五節までと、二六節から七八節まで、七九節から八三節までの三つに分かれます。
 第一区分の大きな見出しはありませんが、論理学とは何か、が主題となっています。論理学の課題は、真理の探究にあり、しかもヘーゲルのいう真理とは、客観に一致する認識(主観)にとどまらず、客観を越える「真にあるべき姿」の認識が実践を媒介に客観に転化するという変革の立場にあることが明らかにされます。
 第二区分の見出しは、「客観にたいする思想の態度」とあり、中世のスコラ哲学の批判から生まれた近代合理主義哲学の様々の潮流が批判されています。すなわち、第一は形而上学、第二は経験論と批判哲学、第三は直接知です。これらの批判のうえに、合理主義の立場に立ってヘーゲル哲学が展開されているのです。
 「客観にたいする思想の態度」とは、思想(主観)は果たして客観の真の姿を認識しうるのか、という主観と客観の関係を論じています。主観的な認識は、客観に媒介され、客観的事実を意識のうえに反映するものです。それは果たして客観の姿を正しく反映しうるのかが問題とされます。また客観には、有限なものと無限なものとが存在しますが、意識は有限なもののみならず無限なものの真理をも認識しうるのか、さらにはそれに関連して、意識は単に客観を反映するにとどまるのか、それとも客観をつうじて客観の現にある姿を越える客観の真にあるべき姿をも認識しうるのか、などが論じられます。尚ここにいう「有限なもの」には静止し固定したもの、「無限なもの」には運動し連関するものという意味も含まれています。
 また、主観のうちに客観の真理をとらえうるとしたら、それはどのようにして可能となるのか、また主観的真理は主観のままにとどまり続けるのか、それとも客観に移行することができるのか、という問題も、理想と現実の統一を「哲学の最高の究極目的」(六節)とするヘーゲルにとって、重大な関心事である主・客の関係のテーマとなっています。
 まず、「客観にたいする思想の第一の態度」である「古い形而上学」は、主観は有限なもののみならず、無限な客観をも認識しうることを認めています。しかしヘーゲルは、「古い形而上学」ではそれを認識する形式が正しくないために無限な客観の真理、真にあるべき姿はとらええないと批判をしています。
 「客観にたいする思想の第二の態度」では、経験論と批判哲学(カント哲学)の二つの態度がとりあげられています。いずれも無限な客観、真にあるべき姿は認識しえないとする共通の態度をとっています。経験論は経験しうる有限な客観は認識しうるが、経験を越える無限な客観は認識しえないとします。これに対しカント哲学は、経験をつうじて生まれる普遍性・必然性の認識は、自我のもつカテゴリーの統一性によるものだと考えています。しかしこのカテゴリーという形式は、有限な客観には適用できても、無限な客観に適用しようとすると破綻してしまうところから、結局、無限な客観、真にあるべき姿は認識しえないとする不可知論に立っているのです。
 ヘーゲルは、理性に対する無限の信頼からこのような二つの態度を批判し、無限の客観の真理は認識しうるといっています。
 「客観にたいする思想の第三の態度」としての直接知は、自我のもつカテゴリーは有限なものであって、それによっては無限な客観は認識しえないから、無限な客観、真にあるべき姿は無媒介的な直接知の形式としてのみとらえうるというものです。これに対してヘーゲルは、それらは直接性と媒介性の統一という形式としてはじめて認識しうるのだと批判しているのです。
 ヘーゲル哲学は、近代哲学の合理主義、科学的立場を継承しながらもこれらの見解を批判し、止揚したものとして登場してきました。ヘーゲルは、有限な客観は「あれかこれか」の形而上学でも認識しうるが、無限な客観、あるいは運動し連関する客観は限界をもたず、したがって「あれかこれか」の形式ではとらえられないのであって、対立物の統一という弁証法という思惟形式によってのみ認識できるとしています。また客観のなかに潜在しつつ、客観を越える客観の「真にあるべき姿」は、有限な客観に媒介されつつ媒介されない思惟の自由な働きによって認識しうるのであり、いわば、人間の認識は、認識と実践を反覆する直接性と媒介性の統一をとおして真理に到達しうると考えたのです。
 ヘーゲルは人間の理性に対して無限の信頼をおき、絶対的な真理の認識は可能だとしています。この点は科学的社会主義の学説にも継承されなければならないと思うものです。
 第三区分は、「論理学のより立ち入った概念と区分」です。
 ここでは、物質の運動をも含む絶対的真理に接近するためには、「悟性の原理」(八〇節補遺)ではなく、理性の原理である弁証法という形式でなければならないことを前提として、弁証法の三つの側面が明らかにされています。弁証法は、悟性的側面、否定的理性の側面、肯定的理性の側面(七九節)という三つの側面をつうじて絶対的な真理に接近できる方法であるとして、以下この三つの側面から論理学のすべてのカテゴリーが展開されることが予告されています。

 

二、論理学(哲学)とは何か

純粋な理念にかんする学

 以上を前置きとして、第一区分の論理学とは何かの考察に入っていきましょう。
 「論理学は純粋な理念にかんする学、言いかえれば、思惟の抽象的な領域にある理念にかんする学である」(一九節)。
 ここにいう「理念」とは、「理性の絶対的真理」(四五節)と理解しておいてください。つまり論理学とは、思惟をとおしてえられる絶対的真理にかんする学なのです。
 『エンチクロペディー』は、第一部「論理学」、第二部「自然哲学」、第三部「精神哲学」から成っているとお話ししましたが、第一部の「論理学」は、真理認識の思惟形式を問題にするのに対し、第二部、第三部はそれを自然と精神に応用してえられた真理の学です。
 「論理学を純粋な思惟規定の体系と見れば、他の哲学的科学、すなわち自然哲学および精神哲学は、言わば応用論理学である」(二四節補遺二)。
 哲学は、人間の思惟によって事物を抽象し、これ以上抽象しえないところまで高めることによって事物の真理を思惟の諸形式においてとらえる学問です。それを「思惟の抽象的な領域にある理念にかんする学」といっているのです。したがって哲学を学ぶためには、事物を抽象する能力が求められます。
 「それは純粋な思想のうちへ退き、純粋な思想をしっかりと捕え、純粋な思想のうちで動く力と熟練とを要する。このかぎりにおいては論理学は最もむつかしい学問である」(一九節)。
 哲学は事物を抽象化し、思惟の諸規定(有、無、質、量など)に還元することによって真理をとらえることをその目的としています。思惟は、抽象化することにより「多様のうちへ統一をもたら」(二一節補遺)し、「すべての個に通じる普遍的なもの」(同)を認識するのです。その意味で、「真理が論理学の対象」(一九節補遺一)となるのであり、「論理は真理の絶対的な形式」(一九節)なのです。
 しかし、人間は有限な存在にすぎません。その有限な人間が、果たして無限の絶対的な真理を認識できるのか、という問題があります。
 「われわれは果して真理を認識することができるであろうか、という疑問が生じてくる。われわれ有限な人間と絶対的に存在する真理との間には不一致が存在するようにみえ、そして有限なものと無限なものとをつなぐ橋があるかどうかという疑問が生れてくる」(同補遺一)。
 これに対し、ヘーゲルは、「このような卑下はくだらぬものである」(同)と一蹴し、「思惟は単に思想にすぎないものではなく、むしろ最高のものであり、厳密に言えば、永遠で絶対的なものをとらえうる唯一の形式である」(同補遺二)として、思惟への無限の信頼を表明しているのです。
 見落としかねないのですが、ヘーゲルはここで重要な問題提起をしています。
 「論理学を単なる形式的思惟の学というより一層深い意味において理解することは、宗教、国家、法律、および道徳のためにも必要である」(同補遺三)。
 つまり論理学は、真理を認識する「形式的思惟の学」にとどまらず、無限な客観である国家、社会の真理を認識するためにも必要であり、しかも「一層深い意味において」必要だというのです。論理学は、国家、社会の「真にあるべき姿」という絶対的真理の実現につながる実践的な哲学としての役割を果たさねばならないのです。
 ルソーの『社会契約論』に導かれ、理性の哲学によって社会変革をすすめようとしたのがフランス革命でした。しかし、ルソーの人民主権論を掲げて登場したジャコバン独裁は恐怖政治となってあらわれました。
 「このように思惟は現実の世界のうちで有力となり、恐るべき力をふるったのである。そこで人々は、……思惟にはそれが企てることをなしとげる力はないことを発見したと主張した」(同)。
 それを代表するのがカントの不可知論です。いまや哲学は思惟には現実の世界を変革する力はないのか、の問いに答えなければならなくなり、カント哲学の批判のうえにヘーゲル哲学が登場することになるのです。
 「そこで思惟を、それが作り出した諸結果にかんして弁明することが必要となった。近代において哲学の関心の大部分を占めているのは、思惟の本性の研究と思惟の弁明とである」(同)。
 フランス革命の経験もふまえ、国家、社会の真理を探究することがヘーゲル「哲学の関心の大部分」(同)であることを、ここで密かに告白しているのです。

思惟とは何か

 こうしてヘーゲルは、そもそも思惟とは何か、本当に「永遠で絶対的なものをとらえうる唯一の形式」(同補遺二)なのか、という「思惟の本性の研究」に入っていきます。
 思惟とは、自我の精神的諸作用の一切を意味します。人間は思惟することにより、事物への認識を深めていきますが、「認識の本性と種類を理解する上に根本的な意味を持」(二〇節)つのが、感覚、表象と思想との区別です。
 まず感覚は、客観的事物を表面的にとらえる最も浅い端初的認識です。その「本質的特徴をなしているのは個別性」(同)です。つまり客観的事物を個別として固定的にはとらえても、運動するものとしてはとらえないのです。そのために感覚的認識は、事物を一つひとつバラバラなものとして理解し、例えば本質と現象の関係を「並存」ととらえ、原因と結果の関係を「継起」ととらえるにとどまり、事物相互の必然的な連関と運動をとらえることができないのです。
 これに対して表象とは、感覚的にとらえたものを「私のうちにあって私のものという規定のうちに定立」(同)する認識です。つまり、感覚的認識をいったん自己の内で消化し、事物の個別性を普遍性の形式においてとらえなおし、イメージとして定着させる作用です。
 しかし、表象作用は、個別的なものを普遍性の形式においてとらえはするものの、個別的なものの運動と相互の内的連関はとらえられないため「多くの個々別々の単一な規定が羅列」(同)されるにすぎないのであって、この点では「感覚」と異なるところはありません。
 「表象はその無規定な空間のうちで、それらを単なる『もまた』によって結合するだけで並列させておくのである」(同)。
 そこで哲学が必要になってくるのです。第一講でみたように、「哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことができる」(三節)のです。さらには、哲学はすべての事物を「もまた」によって外的に結合するのではなく、必然的な弁証法的連関と運動においてとらえることをも意味しています。つまり、哲学には「哲学特有な認識方法が必要」(四節)なのであって、それは、思惟によって表象を思想や概念の形式、つまり思惟の諸形式に高めることなのです。
 では、表象を思想や概念に高めるためにはどうしたらいいのか。そのためには、思惟によって対象における「本質的なもの、内面的なもの、真なるもの」(二一節)という普遍的なものをとらえることが求められます。つまり、対象の内面に踏みこみ、表象した個別性を本質に媒介された現象、普遍に媒介された特殊などという「必然的な関係」(二〇節)としてとらえることにより、思想に転化するのです。
 「人間は単に知りなじんでいること、単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする」(二一節補遺)。
 こうして、表象された感覚的なものは、まず現象という思想においてとらえられ、現象から本質、法則へ、本質、法則から概念へというように、浅い真理からより深い真理へと変えられていくのです。
 「表象と思想との区別は特に重要である。というのは一般的に言って、哲学の仕事は表象を思想に変えることにほかならないと言えるからである。もちろん、哲学は、単なる思想を更に概念に変えはするけれども」(二〇節)。

思惟は事物を改造し、真理に到達する

 表象を思惟の諸形式に変えることは「直接的に存在するものを変形するところのわれわれの主観的働き」(二二節補遺)によるものです。
 客観的事物を感覚、表象のうちにとらえたとき、いきなり本質、法則、概念というような思惟形式であらわれてくるわけではありませんから、事物を思想のうちにとらえることは、思惟によって事物にある変化をもたらすことになります。
 これは一見すると認識が事物そのものから分離し「認識の目的に背くようにみえ」(同)ますが、そうではなくて、「思惟による直接的なものの改造によってのみ、実体的なものに到達することができ」(同)、「事物のうちにある真なるものを知る」(同)ことができるというのは「あらゆる時代の確信であった」(同)のです。
 いわば、事物に対し、分析と総合とをくり返し、事物を「変形」することをつうじて認識を発展させ、「思想と事物との一致」(同)、つまり客観に一致する認識を実現し、真理に到達することができるのです。
 後にお話ししますが、カント哲学は、「物自体」を認識することはできないとして、「思想と事物との一致」を否定しました。これに対しヘーゲルは、「われわれの認識は主観的なものにすぎず、この主観的なものからわれわれは一歩も出ることはできないという絶望に達したのは、現代の病患にすぎない」(同)と批判しています。
 したがって、事物の本性をとらえ、真理に到達することは、私の自由な思惟の作用、「精神の所産」(二三節)ということになります。
 とはいっても、思惟によってもたらされる「変化」は、勝手気ままな事物の改造ではありません。
「思惟は、その内容から言えば、実在のうちへ沈潜するかぎりにおいてのみ真実なのであり、また形式から言えば、主観の特殊な存在や行為ではなく、個人的な諸性質、状態、等々のあらゆる特殊性から解放された抽象的な自我としての意識の態度」(二三節)なのです。
 対象の本性を把握することは「私の自由な所産」とはいっても、それは「個人的な意見をすてて、実在そのものを自己のうちに君臨させ」(同)、客観的事実のなかに深く沈潜し、事物の本性を抽出することによって、事物をカテゴリーや概念という思惟形式に改造するのです。これはきわめて唯物論的な態度だといわなければなりません。

客観的思想

 ヘーゲルは、対象となる客観の真理をとらえる思想を「客観的思想」(二四節)とよんでいます。
 この「客観的思想」を認めるのか、認めないのか、認めるとしてもどうやって絶対的真理に接近するのかをめぐって、「客観にたいする思想の第一の態度」(二六節以下)から「第三の態度」(六一節以下)までが批判の対象とされるのです。
 客観的思想を認めることは「思想が客観的思想として世界の内面をなしている」(二四節補遺一)ととらえることを意味しています。
 カテゴリーや概念という思惟形式が客観世界の内面のなかに潜在しているからこそ、思惟の働きによっても抽出することができるのであり、カテゴリーや概念は、単に思惟の自由な創造物というものではありません。
 その意味では、「客観的思想」を認めることは、「ヌースが世界を支配している」「世界のうちには理性がある」(同)というのと同じことであり、「理性が世界の魂であり、世界に内在するものであり、世界の最も内面的な本性であり、普遍である」(同)ことを認めるものといっていいでしょう。
 ヘーゲルの世界観は、まさに「世界のうちには理性がある」の言葉に要約されており、ここにヘーゲルの観念論といわれるものの最大の根拠があります。というのも、「理性」とは、一般に人間の精神の働きと理解されているので、「世界のうちには理性がある」というとき、精神あるいは意識こそ世界の根源的なものであり、客観世界はそこから派生した第二次的なものにすぎないととらえたものとも理解できるからです。ヘーゲルは、そうした指摘を予想したかのように、次のように反論しています。
 「思想が客観的思想として世界の内面をなしていると言うと、自然の諸事物に意識を認めるかのように思われるかもしれない。人間は思惟によって自然的なものから区別されると言われているのであるから、人々は事物の内的活動が思惟であるとは考えたがらないであろう。したがってわれわれは、どうしても思想という言葉を使おうとすれば、自然を意識のない思想の体系、シェリングの言葉をかりれば、硬化した叡智と言わなければならないであろう」(同)。
 つまり、「世界のうちには理性がある」というとき、エンゲルスがいっている「世界の現実の統一性はそれの物質性にある」(全集⑳四三ページ/古典選書『反デューリング論』上六六ページ、新日本出版社)とほぼ同じことを意味していると同時に、その客観世界のなかに、「真にあるべき姿」としての概念も潜在しており、それを思想がとらえうることを意味しているのです。物質世界を構成している個々の事物は、物質世界の統一性のもとで普遍的連関と運動のなかにおかれており、物質世界の本性を成す本質、類、法則、概念(真にあるべき姿)も客観的実在のなかに潜在的に存在しており、それを探求することが科学の対象となることを意味するにすぎないのです。したがって、これをもって鬼の首でもとったかのようにヘーゲルの観念論を言いたてることはできません。

真理とは何か

 以上みてきたように、論理学で取り扱うのは、カテゴリーや概念という「純粋な思惟規定」(二四節補遺二)です。
「序論」の冒頭で、哲学とは、「最高の意味における真理を対象としている」(一節)ことを学びました。実は、第一講でもお話ししたように、ここにヘーゲルの独自の「真理観」があるのです。
 一般的には、真理とは、主観としての人間の認識が客観を正しく反映して、客観に一致する認識、つまり認識(主観)と客観の一致だといわれています。
 しかし、ヘーゲルは、なるほど「対象(客観 ── 高村)と表象(認識 ── 高村)との一致」(二四節補遺二)も真理かも知れないが、哲学的意味の真理は、もっと深い意味をもつのであり、「或る内容のそれ自身との一致」(同)、または「概念と実在との真の一致」(同)だといっています。その例として「真の友ではない」「真の芸術作品ではない」「悪い国家」という場合をあげて、「このような場合、真実でないとは、悪い、あるいは、それ自身の概念に適合していない、と言うのと同じ意味である。……一般的に言えば、悪いおよび真実でないとは、事物の本性あるいは概念と事物の存在とが矛盾していることである」(同)といっています。
 「事物の本性あるいは概念」というのは、客観的事物の「真にあるべき姿」を意味しており、それに一致しない事物は、真実ではないと判断されることになるのです。
 これも一見すると客観的事物の側からではなく、主観の側から真理をつくり出す観念論的真理観であるように思えます。
 しかし決してそう言い切れないところにヘーゲルの哲学的深さがあるのです。
 旧ソ連などは「社会主義」の看板をかかげてはいたものの、実際には「社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」(日本共産党綱領)であり、「真の社会主義」ではないために崩壊せざるをえなかったといわれています。
 われわれが変革の立場にたって社会という客観的事物に目を向けるとき、現にある資本主義社会を真実の姿ではないと否定して、「事物の本性あるいは概念」に一致する社会主義社会を求めることになります。
 その意味で、「事物の本性あるいは概念」は、変革の立場からみると、変革の目標となる客観的事物の真理、つまり未来の真理ということになるのです。
 もし、変革の目標に真理がないとなれば、科学的社会主義の運動そのものの存在理由がなくなるでしょう。
 ヘーゲルが、「悪い国家とは真実でない国家」(二四節補遺二)という例をあえてあげているのも、ヘーゲルの「哲学の関心」(一九節補遺三)が真実の国家にあることを示しており、それが後に『法の哲学』に結実することになるのです。
 論理学でとりあげる思惟形式も、「どのような形式が無限なものの形式であり、どのような形式が有限なものの形式」(二四節補遺二)かをみきわめたうえで、「無限なものの形式」、すなわち真理をとらえうる形式のみをとりあげねばならないのです。有限な客観に一致する認識をもって真理とするようなとらえ方は、「有限な思惟諸規定に少しの疑問も抱かず、それらをそのままに承認している」(同)という「誤謬」(同)をおかしているのです。
 したがって、「論理学の課題は、以上述べたような意味における真理、すなわち自分自身との一致という意味における真理を、研究することである」(同)。

真理認識の諸形式

 先に「哲学は表象を思惟やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだ」(三節)ということを学びました。それは言いかえると、表象を思想、カテゴリー、概念に変えることによって事物の必然性をとらえ、真理に到達することを意味しています。
 ヘーゲルは、こういう思惟の働きによる認識の前進を直接性と媒介性の統一としてとらえています。客観に媒介された認識とは、いわゆる反映論であり、客観的事物が意識のうえに反映されることです。客観に媒介されない直接性とは、意識の創造性、ヘーゲルの言葉でいうと「思惟の自由」(一二節)を意味します。
 媒介性としての認識の形式を、ヘーゲルは、「経験」(二四節補遺三)や「反省的認識」(同)としてとらえ、直接性としての認識の形式を「哲学的認識」(同)とよんでいます。
 これらの認識の形式を区別したうえで、人間の認識は客観的事物に媒介されるところから始まり、その媒介を揚棄する直接性にいたって最も深い真理に到達するというのです。
 「われわれは真なるものをさまざまの仕方で認識することができ、これらさまざまの認識の仕方は、単に形式にすぎない。われわれは真なるものを経験によって認識することもできるが、しかし経験は右に述べたような形式の一つにすぎない」(同)。われわれの認識は、まず「経験」により、客観的事物をその現象のうちにとらえることから始まります。
 次に「認識のもっと進んだ形式は、真なるものを更に反省のうちに認識し、思想の諸関係によって規定するということである」(同)。これが「反省的認識」であり、客観に媒介された経験的認識を思惟の働き(反省)によって、本質、法則、類としてとらえるのです。これも客観的事物のうちの真なるものをとらえるという意味では、媒介性としての認識なのです。
 「しかし絶対の真理は、以上二つの形式のうちでは、まだその真の形式のうちに存在していない。認識の最も完全な方法は、思惟という純粋な形式のうちでなされる方法である。この場合その人の行為は全く自由である。思惟という形式は絶対的な形式であって、この形式のうちに、真理はその真の姿をもってあらわれるということ、これがあらゆる哲学の主張である」(同)。
 これが「哲学的認識」とよばれるものです。思惟の自由な働きは、客観的事物が単に有限なものにすぎないとしてこれを否定し、客観的事物に媒介されつつ、その媒介性を揚棄した直接性としての「真にあるべき姿」という概念にまで到達することによって、最も深い真理に達するのです。
 この過程を別の観点でみると直接態、分裂態、分裂の統一態としてとらえることができます。経験的認識は、客観的事物を表面的に「直接態」としてとらえるものですが、反省的認識では、この「直接的な状態を否定」(同)して、分裂態においてとらえるものです。すなわち本質を本質と現象、法則を原因と結果、類を普遍と特殊という分裂・対立する二つのものの関係としてとらえるのです。しかし、「こうした分裂の立場もまた否定され」(同)て、分裂・対立を揚棄した「統一へ復帰」(同)することになり、それが「真にあるべき姿」としての概念だというのです。
 ヘーゲルは、その例としてアダムとイブの堕罪の伝説をあげています。彼らはエデンの園にいたとき、善悪を知る知識の木の実を食べることを禁じられていました。いわば認識はまだ「無垢の状態」(同)という直接態にとどまっていました。彼らは禁断の木の実を食べて、はだかでいることに羞恥を感じます。これは自然的存在と自覚的存在への分裂であり、精神の直接態が否定されて、反省的認識に到達したことを意味しています。そしてこの精神の分裂としての羞恥心をもう一度否定して、つまり否定の否定によって衣服を着るようになったというのです。これによって、自覚的存在でありつつ羞恥心を克服するという統一が実現されるのです。
 言いかえると、それは直接的統一から対立する二つのものへの分裂へ、ついで対立物の統一への復帰へという過程を歩むことでもあります。
 このような過程を反覆することによって、人間の認識は無限に真理に向かって前進していくのです。
 「人間は自然的側面からすれば、有限で死すべきものではあるが、認識においては無限であるということである」(同)。

客観にたいして思惟のとる態度

 こうしてヘーゲルは、思惟は客観の真理をとらえうるのであり、国家、社会の真にあるべき姿という無限の客観をも含めて、その真理をとらえうるとするところにヘーゲルの哲学体系の意義があることを確認します。これをヘーゲルは、「客観的思想」とよんでいます。
 「客観的思想という言葉は、単に哲学の目標ではなくて哲学の絶対的な対象でなければならないところの、真理を言いあらわすものである」(二五節)。
 つまり、ヘーゲルのいう「客観的思想」とは、客観的事実に一致する認識にとどまらず、概念(真にあるべき姿)に一致する認識という真理をも意味しているのです。
 しかし、思惟が果たして有限な客観を越えて無限の客観の真理を認識しうるのか、また現にある客観を越えて客観の「真にあるべき姿」までとらえうるのかについては、様々の否定的な哲学的立場があります。
 そこで以下に「客観性にたいして思惟がとるさまざまの態度」(同)をとりあげ、その一つひとつを批判して絶対的な真理の認識は可能だとするヘーゲルの立場が明らかにされるのです。
 なお二五節で、ヘーゲルは自己の哲学体系を変更した理由を述べていますので、紹介しておきます。
 ヘーゲルは、最初(一八〇七年)に『精神の現象学』を出版したとき、これを「哲学体系の第一部」とし、第二部として論理学、自然哲学、精神哲学を出版する予定にしていました。ヘーゲルは、この体系の構想にもとづいて一八一二年に『大論理学』を発表します。しかし途中でこの体系を変更し、一八一七年『エンチクロペディー』の体系に一本化し、最後までこれを貫きました。これによって『精神の現象学』は、ヘーゲルの哲学体系とは別個のものとして位置づけられることになったのです。
 その理由についてヘーゲルは次のようにいっています。『精神の現象学』は意識、自己意識、理性などの意識の発展形態を論じたものですが、そこには「意識の具体的な諸形態」である、「例えば道徳、人倫、芸術、宗教など」(同)の哲学の各論ともいうべき諸部門も含まれることになり、「叙述は一層複雑」(同)になっていました。いわば哲学の総論である思惟の形式と、それを適用した各論とが混在していたのです。そこでヘーゲルは、真理を認識しうる思惟の諸規定を総論として「論理学」で扱い、その思惟形式でとらえた真理を各論の「自然哲学」「精神哲学」として位置づける『エンチクロペディー』の体系にしたというのです。道徳、人倫、芸術、宗教などは、「精神哲学」で扱われると同時に、道徳、人倫は、『法の哲学』という独立の著作でさらに詳細な「意識の具体的な諸形態」として考察されることになったのです。
 私たちが、『小論理学』を学ぶ理由も、それが国家、社会の真にあるべき姿をも展望した論理学として、ヘーゲルの完成された哲学体系の一部を構成するものとなっているからにほかなりません。

 

三、「A 客観にたいする思想の第一の態度」

哲学史とヘーゲル哲学

 ヘーゲルは、一八〇五年から一八三一年の没年まで、十回もの哲学史の講義をおこないました。エンゲルスは、シュミット宛の手紙のなかで、ヘーゲルの『哲学史』を「最も天才的な著作のひとつ」(全集㊳一七〇ページ)と高く評価していますし、同様にマルクスもラサール宛の手紙において、「哲学の全史をはじめて理解したヘーゲル」(同㉙四二八ページ)と評価しています。いずれもヘーゲルの『哲学史』が人類の真理認識の歴史的発展過程を示すものととらえたことを評価したものでしょう。二千五百年に及ぶ哲学の歴史をたどりつつ、これまでのすべての哲学の制約を乗り越えて、自己の哲学を確立しようとしたのであり、だからこそヘーゲル哲学は、哲学の本流に位置づけることができるのです。このように、哲学史を総括しつつ、歴史上のあらゆる哲学を批判的に検討し、そのうえにたって自己の哲学を語るという偉業をなしとげた哲学者は、ヘーゲルのほかには存在しません。
 哲学の源流は古代ギリシアにさかのぼります。その後、中世のスコラ哲学という永い暗闇の時代を経て、近世哲学において再び生命を復活させます。いわば、近世に入って神から出発したスコラ哲学にかわり、人間から出発した哲学が回復したのです。
 近世哲学は、ベーコン、デカルト、スピノザ、ライプニッツなどにより、「世界の実体となるものは何か」「主観、客観とは何か」「客観の真の姿は何か」などの世界観が模索されることになります。
 そのなかから自然科学の発展とあいまって、客観的事物から出発し、それを分析・総合することによって事物の真の姿をとらえようとする合理的な哲学が発展してくるのです。
 こうして、ヘーゲルは「予備概念」において、形而上学、経験論、カント哲学、直接知という近世を代表する四つの哲学を批判的に検討し、その止揚のうえに古代ギリシア哲学の弁証法がヘーゲル哲学として復活したことを明らかにしていくのです。

「古い形而上学」

 ヘーゲルはまず「客観にたいする思想の第一の態度」として、「古い形而上学」(二七節)の批判をしています。
 「古い形而上学」とはライプニッツ=ヴォルフ学派をさしています。ヘーゲルは、それを客観を追思惟する(客観をつらぬく思想を追いかける)ことによって「真理が認識され、客観の真の姿が意識にもたらされると信じているところの素朴な態度」(二六節)であるといっています。
 つまり、思惟が「まっすぐに対象へ向かっていき」(同)さえすれば、対象をあれこれ変形、改造しなくても客観の真の姿、あるいは真にあるべき姿をとらえうるとする「あらゆる初期の哲学、あらゆる科学、否、意識の日常の活動」(同)にみられる「素朴な態度」を意味しているのです。言いかえると古い形而上学とは、すべての事物を「あれはあれ、これはこれ」とする形式論理学の思惟形式を意味しています。ヘーゲルの批判の要点は、有限な客観の真の姿をとらえるうえでは、この「素朴な態度」でもよいが、無限な客観の真の姿をとらえようとすると形而上学は破綻せざるをえないというものです。無限なもの、連関し運動するもの、理性的なものは、「自己内における対立」(同)を意識したうえで、対立物の統一としてとらえざるをえないからです。
 古い形而上学のなかで特に問題となるのは、「カント哲学以前にドイツに見られたような古い形而上学」(二七節)です。彼らは「神は存在するかどうか」「世界は有限か無限か」「魂は単一であるか合成であるか」というような、いわばヘーゲルのいうところの理性的存在・無限な客観を問題にとりあげたところから、ヘーゲルの批判を受けるところとなりました。

古い形而上学は一面的に規定する

 この古い形而上学の特徴は、思惟によって事物の真の姿、あるいは真にあるべき姿をとらえることができるとする点では、不可知論をしりぞけるものとして積極的意義をもつものでした。
 「この形而上学は、思惟規定を事物の根本規定とみた。それは、存在するものは、思惟されることによって、自体的に認識されうるという前提によって、後の批判哲学よりも高い立場に立っていた」(二八節)。
 ここにいう「批判哲学」とはカント哲学のことを指しています。カント哲学の体系が、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という批判三部作から成っているためにこうよばれています。後にお話ししますが、カント哲学は不可知論(意識から独立した客観的な実在の一部は認識しうるものの、そのすべてについては、人間は確実なことを知りえないし、したがって絶対的真理に到達しえないとする認識論)の立場に立っていましたので、それに比べると真理を認識しうるという古い形而上学の方が「より高い立場に立っている」というのです。
 では、形而上学の問題点はどこにあるのか。それは、まず第一に客観的事物の多様な側面をすべてすくい取ることによってその真の姿をとらえようとするのではなく、その固定し静止した一面のみをとらえてこれが真の姿だと決めつける一面的な態度にあります。
 「 それは、一面的な思惟規定がそれだけで意義を持ち、真実在の述語となりうると考えていた」(同)。
 このような一面性に問題はあるものの、固定し静止した有限な事物の場合には、形而上学も破綻を示すことはありませんし、「意識の日常の活動」もこうした範囲にとどまっています。しかし、連関し運動する無限な事物の場合にはそうはいきません。
 「思惟と言うとき、われわれは有限な、単に悟性的な思惟と無限な、理性的な思惟とを区別しなければならない。直接的にかつ個別的に見出されるような思惟規定は、有限な思惟規定である。しかし真実在はそれ自身無限なものであって、有限なものによってこれを表現し意識にもたらすことはできない」(二八節補遺)。
というのも、有限な事物は、自らの限界をもっていますので、その限界によって他のものから区別されています。したがって、「あれかこれか」という一面的な「悟性的思惟」によってもとらえることができるのです。これに対して無限なもの、連関し運動するものは、自己のうちに限界をもたないため、「あれでもあり、これでもある。あれでもなければ、これでもない」という存在であり、この無限なもの、事物の運動、連関をとらえるには、対立するものを、対立したままの「あれとこれ」ではなく、「あれであると同時にこれである。あれでないと同時にこれでもない」という対立物の統一としてとらえる「理性的な思惟」、つまり弁証法的論理学が必要となるのです。

魂、世界、神は一面的規定ではとらえきれない

 「 古い形而上学の対象は、魂、世界、神というような、本来理性に、すなわち、それ自身具体的である普遍者(という対立物の統一 ── 高村)にふさわしい思惟に属する統体であった」(三〇節)。
 ヘーゲルは、第二に、事物を一面的にとらえる形而上学は、有限な事物についてはその真の姿をとらえうるけれども、魂、世界、神といった「理性的対象」、つまり無限な事物の場合は破綻せざるをえないというのです。
 「有限な事物は、言うまでもなく、有限な諸述語によって規定されなければならないから、この場合には悟性の活動はその場所をえているわけである。……例えば、私が或る行為を窃盗と名づけるとすれば、その行為の根本的な内容はこれによって規定されているのであって、裁判官にはこうした知識で十分である。……しかし理性的対象は、このような有限な述語によっては規定できないものである。そしてあえてそれを行おうとしたところに、古い形而上学の欠陥があったのである」(二八節補遺)。
 例えば、古い形而上学では、「神は最も実在的な存在」(三六節補遺)であると、もっぱら肯定的存在として規定していました。
 これに対しヘーゲルは、「否定性を含まぬ肯定性」という規定は、「最も豊かな、絶対に充実したものではなくて、抽象的に理解されているために、最も貧しいもの、全く空虚なもの」(同)にすぎないとして、次のように批判しています。
 「具体的な内容というものは、そのうちに規定性すなわち否定を含むことによってのみ存在するのである。神の概念が、最も実在的な存在というような抽象的な概念としてのみ把握されるとき、神はわれわれにとって単なる彼岸となり、それ以上の認識は不可能となってしまう。というのは、規定されたものがない場合には、いかなる認識もまた不可能だからである。純粋な光は純粋な闇である」(同)。
 ローソクの灯りは、闇のなかにあってこそ光り輝くのです。神についても、その存在にいくら最大限の形容詞をつけても、否定性を含まないかぎりその存在は「全く空虚なもの」にすぎないというのです。

古い形而上学は「理性的対象の単に悟性的考察」

 古い形而上学は、無限な客観である「魂、世界、神」を考察の対象としながら、「神は存在するかしないか」「世界は有限か無限か」「魂は単一か複合的か」という二者択一の問題提起をし、「あれか、これか」の選択をせまりました。
 しかし、このような理性的なものを思惟においてとらえるためには、「あれか、これか」というような悟性的な思惟ではなく、理性的思惟が求められるのです。
 「しかし古い形而上学は、それらを表象から取りあげ、それらをすでに出来あがった、与えられた主語として基礎におき、そしてそれらに悟性的な諸規定を適用した」(三〇節)。
 「このような形而上学の一般的な方法をふりかえってみれば、その根本的な特徴は、理性的な対象を悟性の抽象的で有限な規定によってとらえ、抽象的な同一性を原理とすることにあったのである」(三六節補遺)。
 いわば、古い形而上学は、「理性的対象の単に悟性的な考察」(二七節)にとどまったため、無限の客観、運動し連関する客観の真理をとらえることができなかったのです。「抽象的な同一性を原理とする」とは、「あれはあれ、これはこれ」「AはAである」とする形式論理学の立場を意味しています。有限なものは悟性でその真の姿をとらえることができますが、無限なもの、運動し連関するもの、真にあるべき姿は理性的思惟(弁証法)によってのみとらえることができるのです。

古い形而上学は「ドグマティズム」

「 この形而上学は、ドグマティズム(一面観)となった。なぜなら、それは、有限な思惟諸規定の本性にしたがって、上述の諸命題にみられるような二つの対立した主張のうち、一つが真理で、他は誤謬でなければならない」(三二節)とするからです。
 さらに形而上学のもつ一面性への批判は、形而上学にとどまらず、形式論理学における「AはBである」というような判断という形式一般をも批判するものとなっています。
 「判断という形式は、具体的なもの ── 真実なものは具体的である ── および思弁的なものを表現するに適しないものであって、判断はその形式によって一面的であり、そのかぎり誤っているものである」(三一節)。
 ですから無限なものを考察する場合、「AはBである」との判断は、つねに「AはBではない」との判断で補わないと正しい命題にはならないのです。
 その形而上学のドグマティズムを批判するものとして、懐疑論(スケプシス派)と弁証法の二つがあります。
 懐疑論というのは、「あらゆる規定されたもの〔区別されたもの〕を氷解させ、空無のうちにあることを示す」(ヘーゲル『哲学史』中巻の二、二九二ページ、宮本十蔵他訳、岩波書店)哲学であり、一切の肯定的要素を含まない否定的哲学です。いわば、すべてを疑うのみで、肯定的なものを何も生みだしません。
 これに対し、弁証法は、「スケプシス主義がもっていないような肯定的なものを自分の真理としてもっている」(同二九四ページ)のです。つまり、ドグマティズムの一面性を否定して、全面的に考察し、対立する二つの側面を統一して、統体性という肯定的なものを真理として主張するのです。
 「思弁的哲学のイデアリズムは統体性の原理を持ち、抽象的な悟性規定の一面性を包括している。かくしてイデアリズムは次のように言うであろう。魂は単に有限でもなければ単に無限でもなく、魂は本質的に両者のいずれでもあり、したがってまた両者のいずれでもない。言いかえれば、このような規定は、一つ一つ切りはなされては無価値であって、それらはただ揚棄されたものとしてのみ価値を持つのである」(三二節補遺)。
 このような弁証法という「イデアリズム」は、あまりにも抽象的すぎるように思えるかも知れませんが、事物の運動をとらえてみると、直ちにその正しさを理解することができます。
 「例えば、われわれは感覚的な事物について、それらは変化するものであると言うが、これはすなわち、感覚的な事物には有とともに非有が属すると言うにほかならない」(同)。
 変化するものは、或るものであって或るものではないという意味で、「有とともに非有が属する」のであり、同様に、移動しつつある事物は、「ここにあって、ここにない」という弁証法においてのみとらえることができるのです。
 ヘーゲルは、「理性の戦いはまさに、悟性によって固定されたものを克服することにある」(同)と喝破しています。