2006年7月11日 講義

 

 

第3講 経験論批判・カント哲学批判①

 

1.「B 客観にたいする思想の第2の態度」

●「客観にたいする思想の第2の態度」として、経験論とカント哲学

 ・いずれも思想によって国家や社会の絶対的真理をとらえることはできない
  とする点で共通

 ・「論理学は形式的思惟の学というより一層深い意味において理解すること
  は、国家のためにも必要である」(19節補遺)

 ・「普通人々が全く具体的と思っている諸問題(人倫 ── 国家、社会)が
  実は論理学のうちではじめて本当に解決される単純な思惟諸規定に還元さ
  れる」(25節)

 ・カント哲学は「真理の認識の放棄」「理性にたいする絶望」(17ページ)
  を示すもの

● 経験論

 ・イギリス経験論ともよばれ、真理とは経験をつうじてえられる客観的実在
  を認識することとの立場から、経験を越える絶対的真理を否定した。

 ・ベーコン、ロック、バークリ、ヒュームなどをつうじて「イギリス経験論」
  とよばれる

 ・イギリス経験論は、観念論につながるもの

● カント哲学

 ・カントからフィヒテ、シェリング、ヘーゲルに至るドイツ古典哲学はフラ
  ンス革命の洗礼を受け、フランス革命をどう哲学的に総括するかを根本思
  想にして誕生した

 ・「この世界史上の偉大なる時期に ── その最も内なる本質が何であるか
  を概念的に把握することは歴史哲学に於ける課題であろうが ── ただ二
  つ国民のみが参加した。即ちドイツ国民とフランス国民とがそれ」(ヘー
  ゲル『哲学史』㊦の三 55ページ 藤田健治訳)

 ・カントは、現象は認識しうるが絶対的真理は認識しえないという不可知論
  にたって「思惟はそれが企てることをなしとげる力はない」(19節補遺
  3)とした

 ・ヘーゲルはフランス革命を消極的にのみ総括したカントの不可知論の批判
  のうえに、自己の「絶対的観念論」哲学をつくりあげた

 ・「絶対的観念論」とは、国家、社会の「真にあるべき姿」は、絶対的に実
  現しうるとの革命的立場

 

2.経験論批判

① 経験論とは何か

●「それは真理を思想そのもののうちに求めないで、真理を経験から、すなわ
 ち、われわれの内および外に現前しているものから取り出そうとする立場」
 (37節)

 ・ロックの「ダブラ・ラサ」(何も書かれていない黒板) ── 神、実体の
  ような生得観念の否定

 ・「経験論のうちには、真実なものは現実のうちにあり、かつ知覚されてい
  なければならないという偉大な原理がある」(38節)

 ・経験論には、「内および外」の二つの要素がある ── 外(感性的、個別
  的なもの)、内(普遍性、必然性)

 ・ヘーゲルはこの「内」なる要素をとらえて「経験論には自由という重要な
  原理が含まれている」(38節)と言っている→これは観念論への傾斜にも
  つながるもの

● 経験論は、形而上学の批判から生まれた

 ・「経験論は、抽象的な悟性的形而上学が満足させることのできないところ
  の、……具体的な内容および確かな拠りどころの要求から生じたもの」
  (37節補遺)

 ・形而上学は、例えば「魂は単純である」というような「抽象的な普遍」
  (同)をとらえるのみで、具体的内容に結びつく普遍をとらえていない

 ・形而上学は、「抽象的な普遍」を「証明することができる」(37節)よ
  うな「確かな拠りどころ」(同)をもたない


② 経験論の批判

1)経験には二つの要素がある(39節)

● 1つは「多様な素材」(同 )、1つは「普遍性および必然性という規定」

● 前者は表象されたものであり、後者は表象を思惟によって思想に転化したも
 のである(20節参照)

● したがって経験には、表象と、表象の思想への転化の二つが含まれている

2)経験論は表象の思想への転化を認めない

● 経験するものは、「継起」(39節)と「並存」(同)のみであり、それを
 「普遍性および必然性」に転化するのは、「不当なもの、主観的な偶然、そ
 の内容がどうにでも変りうる単なる習慣」(同)にすぎないと考える(20節
 参照)

● その結果「法的規定や倫理的規定や法則や、および宗教の内容さえも偶然的
 なものと考えられ、それらの客観性および内的な真理は棄てられてしまう」
 (39節)

 ・ヘーゲルにとって一番重要なことは、経験論によると国家、社会の真理が
  棄てられてしまい、現状肯定の保守主義となること

●「経験論は不自由の学説」(38節)であり、「与えられたものをそのままに
 受けとらねばならないのであって、それが果してそれ自身理性的であるか、
 またどの程度理性的であるか、というようなことを問題にする権利はないの
 である」(同)

 

3.批判哲学の批判

① はじめに

● カント(1724~1804)はフランス革命の勃発からジャコバン独裁、テルミド
 ールの反動からナポレオンのクーデター(1799)までも見とどけた

● カントは、フランス革命が「自由」の理念を高くかかげながら、挫折したこ
 とから、理性への不信頼におちいった

 ・それが「純粋理性批判」(1781)(第2版1787)、「実践理性批判」
 (1788)、「判断力批判」(1790)に色濃く反映している

 ・「一口に言えば、真理を認識しないで、思惟のしたことと言えば、国家と
  宗教を破壊したにすぎない」(19節補遺3)

● 理性への無限の信頼をおくヘーゲルは、カントの批判のうえにフランス革命
 の精神を完成させる自己の哲学を確立していった

 ・「そこで思惟を、それが作り出した諸結果にかんして弁明することが必要
  となった」(同)

● 「時代から言って最後の哲学は、それに先行するあらゆる哲学の成果であり、
 したがってあらゆる哲学の原理を含んでいなければならない。それゆえにそ
 れは、それが哲学であるかぎり、最も発展した、最も豊富な、最も具体的な
 哲学である」(13節)


② カントの総括的批判

● 「批判哲学は、経験論とともに、経験を認識の唯一の地盤と考えるが、しか
 しそれを真理とはみないで、現象の認識にすぎないと考える」(40節)

 ・カントは、経験的認識には「感性的素材」(同)と「普遍性および必然性」
  (同)の二つがあることをまず区別する

 ・カントは前者を主観的、後者を客観的とよんだがそれは正しい。なぜなら
  前者は「非独立的で二次的なもの」(41節補遺2)であるのに対し、後者
  は「独立的で一次的」(同)だから

 ・前者は客観に媒介された認識だが、後者は「思惟の自発性に属する」(40
  節) ── 「自己意識の先験的統一」(42節)

 ・認識の先験的統一をもたらす思惟規定(悟性概念)は、「カテゴリー」と
  よばれる

● カントの一番の問題は、カテゴリーによって認識しうるのは「現象の認識」
 のみだとする点にある


③ 「純粋理性批判」の批判

1)カテゴリーとは何か

● 人間は先験的にもつカテゴリーによって、多様なものを「1つの意識として
 自己のうちで結合する」(42節)ことにより、「普遍性および必然性」をと
 らえる ── 「純粋統覚」(同)にもとづく「自己意識の先験的統一」(同)

● カントのカテゴリー ── 量(統体性、数多性、単一性)、質(実在性、否
 定性、制限性)、様相(可能性、現実性、必然性)の12種類

● ヘーゲルは、「たとえカテゴリー(例えば、統一、原因と結果、等々)が思
 惟そのものに属するとしても、このことからカテゴリーは主観的なものにす
 ぎず、対象そのものの規定ではないという結論は決して生じない」(42節
 補遺3)と批判

● 「多様のうちへ絶対的な統一を導入するのは、自己意識というような主観的
 な作用」(42節補遺1)ではなく、「この同一はむしろ絶対者そのもの、真
 実在そのもの」(同) ── 絶対者とは「客観の絶対的真理」

2)カテゴリーのアンチノミー

● カテゴリーは「与えられた素材によって制約」(43節)され、「経験にしか
 適用できない」(同)

 ・したがってカテゴリーは、「知覚のうちには与えられていないような絶対
  的なもの」(44節)、「物自体を認識する能力を持たない」 ── いわゆ
  るカントの「不可知論」

● カテゴリーを使って絶対的真理(物自体)を認識しようとすると矛盾(アン
 チノミー)に陥らざるをえなくなる

● アンチノミーの指摘は、形而上学のドグマティズムを否定した点では功績を
 残したが、カントは矛盾に積極的意義を見出さず、消極的意義しか与えなか
 った

3)ヘーゲルのカントの不可知論批判

● カントが悟性と理性を区別したことは評価しうるが、理性(無限なもの)に
 は単に「悟性の有限性」を認識するという役割しか与えなかった

● 理性は、国家や社会の絶対的真理を認識しうるという無限性にこそ求められ
 るべき

● カントの「主観的観念論」(理性は単に主観的)に対し、ヘーゲルの「絶対
 的観念論」(理性は絶対的真理をとらえうる「客観的」なもの)

● カントのフランス革命への絶望を批判したもの

 ・カント「思惟は、精神の本質、真理を認識しないで、……国家を破壊した
  にすぎない」(19節補遺3)